心配性にも程がある


 永田会長に連れられて後藤が足を踏みいれた焼き鳥屋は、炭火の匂いに満ちていた。
 会社帰りのサラリーマンが吐き出した細い煙が、天井の換気扇に吸いこまれていく。それを横目に、二人は禁煙席に腰を下ろした。エプロンに研修中の名札を下げた店員が、水とおしぼりを運んでくる。
 あくまで目安に過ぎないが、外食の際にカロリーや栄養素を計算してしまうのは、現役時代から身に着いた後藤の癖だ。巷で叫ばれるメタボリックシンドロームも、もはや無視できる年齢ではない。
 体育会系の勢いで羽目を外した若いころに比べれば、酒の飲み方も変わった。正確に言えば、酒との付き合い方が変わったのだろう。他人とのコミュニケーションを円滑にするために、彼はときおり、酒の力を借りる。
 長年、居酒屋を営んできた永田会長は、酒の効能を後藤以上に知り尽くしている。人がただ、酔いのゆえに心の内を曝け出すのではなく、本心を曝け出すために、酒を頼り、求めることも。
 心の中に溜めこんだものを吐き出すために、永田会長は焼酎のお湯割りを傾けている。実のところ、夕食に誘われたときから、後藤には予感があった。さらに言えば、彼の悩みにも心当たりがある。つくねの串に手を伸ばし、ビールで唇を湿らせながら、後藤は上司が口火を切るのを待ち構えていた。
「有里は、娘はいつもあんな調子なのか……?」
「まさか。そんなことはありませんよ」
 素早い対応が功を奏してか、永田会長はわずかな、しかし心からの安堵の表情を浮かべた。肝の据わった江戸っ子を怯えさせ、不安がらせたもの。それは先日、ETUのクラブハウスに落ちた季節外れの雷だった。
 雷の直撃を受けたのは、永田会長ではない。だが、過激なサポーターに恫喝され、罵声を浴びせられても動じなかった男は、クラブ監督を怒鳴りつける娘の姿に驚き、雷を落とされた当人以上に打ちのめされた。
「女の子は父親に似るっていうけど、永田君は本当に会長そっくりだねぇ」
 落雷の現場を目撃しておきながら、何事も無かったかのように定時退社した広報部長の一言は、父と娘にとって慰めにもフォローにもならなかったが、後藤はひそかに同意したものである。迫力と貫禄こそ劣ったものの、有里の雷は明らかに永田会長の一喝を思い起こさせた。
 まるで困っているように見えない穏やかな表情で、困ったものだねと呟いた部長に代わって記者たちに頭を下げ、取材の延期を申し入れたあと、有里は腕を組んで監督室の前に陣取った。取材時刻を過ぎても一向に姿を現さなかった達海の帰りを静かに待つ彼女の頭上には、暗雲が立ちこめていたように後藤は思う。
 閃光と火花。それに続く轟音。気がつけば後藤は嵐の只中に立ち尽くしており、有里に監督解任を直訴されていた。待ちわびた顔を見た途端、頭に血がのぼりきったらしい彼女は、通りがかった父親にショックを与えたとも知らず、殴りかからんばかりの勢いで達海に怒りをぶつけたのである。GMとして監督に伝えるべきことを、すべて先に言われた後藤にできたのは、物騒な言葉を口にする有里を宥め、どうにかしろと目で訴える達海に、唇だけを動かしてお前が悪いと返すのみであった。
「有里ちゃんは、理由もなく人を怒鳴りつけるような子じゃありません。それに、先日の件では、俺から言っておきましたから」
「そうか。……反抗期じゃないんだな」
 有里ちゃんはとっくに成人していますよと告げるには、永田会長の表情は真剣で、思いつめている様子ですらあった。言葉に詰まる後藤の前で、寂しげな呟きが漏れる。
「お互いに、家で仕事の話はほとんどしないからな。この前のことも、有里からは何も聞いていない」
 勤め人が家族に仕事の愚痴をこぼすのは珍しいことではないが、親子で同じ会社に勤めていれば、事情は違ってくる。父親には話せても、上司には話せないこと。娘には言えても、部下には言えないこと。逆に、他人でなければ打ち明けられないこともあるだろう。永田会長が、後藤を相手に酒を飲んでいるように。
「いいや、俺がフロントに入ったときからだ。いつの間にか、サッカーといえば代表か海外で、リーグの話をしなくなった。……降格した年は、お互いに気まずくて、顔も合わせられなかったな。カミさんが間に入ってくれたから、まだ良かったが」
 永田会長と当時チームを指揮を率いていた不破監督の対立を、後藤は実際に目にしている。立場の異なる人間の主張と主張のぶつかり合いは、どちらかが正しいと断言できるようなものではなかったが、結果としてETUは降格し、四年を二部で過ごした。ことあるごとに繰り返される監督のフロント批判と、両者の対立を煽るような報道を、当時の有里がどのように見ていたのかは分からない。だが、練習場に足を運び、試合の応援に駆けつける彼女の姿は、ETUが二部にいるあいだも、一部復帰を果たしてからも、変わることがなかった。
「あの時期にそんなことが起きていたなんて、まったく知りませんでした。会長と有里ちゃん、いつも仲が良さそうに見えましたから」
 十年を越える永田家との付き合いのなかで、後藤が思い出せる親子喧嘩と言えば、有里のスカート丈をめぐる他愛のない口論程度だ。クラブ降格の陰で親子の危機が訪れていたなど、まるで想像ができない。永田家の人々は、街のクラブへの思いが高じて運営にまで携わったがゆえに生まれたヒビを、サッカーへの愛情や家族への思いやり、そして他人には見えないもので静かに修復していったのだろう。
「有里が就職してから気づいたんだがな」
 テーブルに耐熱グラスを置いて、永田会長は息をついた。
「子どもが社会に出て、一人前に稼げるようになっても、それでも、貯金はしてるのかとか、結婚を考えてる相手がいるのかとか、何だかんだ子どものこと気にかけちまうものなんだな、親ってのは。向こうにしちゃ、いい迷惑かもしれんが」
 後藤は心もち姿勢を正し、永田会長の視線を正面で受け止めた。酔いなどでは揺らぎもしない、あるいは酔ったがゆえに表に出せる、厳しくも優しい父親の眼差し。
「後藤君、有里を頼んだぞ。多少、厳しくしてやっても構わんからな」
「肝に銘じます。選手もスタッフも、親御さんから大切にお預かりしているのは同じですから」
 有里がETUに就職したときにも、永田会長に似たようなことを言われた記憶がある。何と答えたかまでは後藤は覚えていないが、そのあと永田家の居間で秘蔵の大吟醸の相伴にあずかったのは事実だ。自身の就職を酒の肴にされた有里は、呆れたような、照れたような顔で笑っていたように思う。彼女が成人式を迎えて間もないころにも見せられた古いアルバムには、溢れんばかりの愛情を受けてまっすぐに育っていくひとりの女の子が写っていた。
 親の背中を見て、子どもは育つという。ものごころ付く前から目にしてきた働く両親の姿を、有里は手本にしているのだろう。先日、彼女が示した怒りの奥には、仕事への真摯な責任感が強く根付いていた。
 広報部長が評したように、有里は父親に似ている。だが、それを知ったところで永田会長の不安は消えないだろう。彼自身が言ったように、子どもが年齢を重ねても、世間に認められても、気にかけずにはいられないのが親心というものだ。
 自分にはまだ縁の遠い世界を垣間見た気分で、後藤はジョッキを掲げる。新たなお湯割をオーダーした永田会長の顔は、どこか穏やかであった。


「家を出る前に、いつもこう……やってたんですよ。行ってきますのチュウ。それが、このあいだ、急に拒まれて。……後藤さん、子どもってのは、親の知らないうちに大人への階段を昇っていくものなんですかね」
「娘さんはまだ、大人への階段どころか、普通の階段も一人じゃ危ないと思うけどなぁ。ところで夏木、注文は何にする?」
 ETUの選手とスタッフに、娘を持つ父親は全部で何人いただろう。出発前の挨拶を実演してみせたあと、打ち沈んだ表情とともに動きを止めた夏木を見やりながら、後藤はそんなことを考えた。


 コミックス三巻のおまけページを見て、この話を思いつきました。
荒れていく娘(たぶん有里ちゃんは一人っ子だと思います)にショックを受けた永田会長は、
お酒飲みながら後藤さんに愚痴ってるだろうなと。
 娘には勝てない「お父さん」な永田会長は、
たぶん家庭でも奥さんに主導権握られてるんだろうなと余計なことを考えてしまいます。
 しかしまあ、いくらETUが人手不足だとはいえ、
嫁入り前の娘が男と二人きりで外国(しかも、あてもない人探し)に行くのをよく許可したなあ、永田会長。
 それだけ後藤さんのことを、部下としても人間としても信用してる証拠なのでしょうかね。
 でも当の有里ちゃんは「仕事だし、一緒に行くの後藤さんだし」とあまり深く考えてなさそうだ。
 夏木さんところのお嬢さんが「チュウ」を嫌がったのは、単に寝起きで機嫌が悪かっただけだと思います。

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