パッカ君と不思議なお客さま


 パッカ君は隅田川に住む河童です。職業はマスコット。イースト・トーキョー・ユナイテッドというクラブで働いて十数年。いまや立派なチームの顔です。
 プロスポーツは実力の世界ですから、マスコットもルックスだけで持て囃されるわけではありません。地域のイベントに参加したり、スポーツ紙のWebサイトに辛口コラムを寄せたりと、フットボールクラブのマスコットは色々な仕事をこなしてチームに貢献していますが、基本となるお仕事は、ホームゲームでのお客さまのおもてなしです。旬のネタを取り入れたショーで、スタジアムを盛り上げるマスコットもいますが、やりすぎると肝心の試合がショーの前座扱いされてしまうので、気をつけなければなりません。
 大阪ガンナーズを迎えた五月最初のホームゲームの日。ETUのスタッフが慌ただしく動きまわるなか、パッカ君は洗面所で悠然と身支度を整えていました。改めて言うまでもないことですが、マスコットは人に見られるのがお仕事です。とくにパッカ君はチャームポイントのお皿に気を配っており、乾燥対策は常に万全です。
 洗面台の大きな鏡に、パッカ君の雄姿と、布の塊が映っていました。見覚えのあるジャケットです。達海さん、ジャケットをどこかに置いてきたみたいなの。パッカ君、もし見つけたら教えてねと有里ちゃんに頼まれていたことを思い出し、パッカ君はジャケットを拾いあげました。洗面所を出て、廊下を歩いていると、すぐに目的の人物が見つかりました。ジャケットを見るなり、有里ちゃんに安堵の表情が広がります。達海監督がジャケットも着ずにベンチに入って、風邪でもひかないかと心配していたのでしょう。
「ありがとう。パッカ君、見つけてくれたんだ。今から、達海さんに届けに行こう」
 受け取ったジャケットを手に廊下を歩く有里ちゃんの後ろを、パッカ君は黙って付いていきます。チームの広報を「ちゃん」付けしていることに、疑問を持たれた方もいるかもしれませんが、ふたりの仲を詮索するのは野暮というものです。
 達海監督にとって、パッカ君が洗面所を利用するのは意外だったようです。アイドルはトイレに行かないと信じていた世代なのかもしれませんが、パッカ君は等身大の自分をファンに見てもらいたいと考えていますし、事務所もといフロントも理解を示してくれています。
 パッカ君は試合開始前とハーフタイムにはピッチに顔を出し、歓声とブーイング、そしてカメラを独占しますが、試合が終わったあとも、仕事が残っています。それはお客さまへの挨拶とお見送り。日常に戻りゆく人びとが再びスタジアムに足を運んでくれることを願いながら、ゲートで別れ際の握手と写真撮影に応じます。
 隅田川スタジアムが静けさを取り戻したころ、パッカ君のお腹が音を立てはじめました。夕食にはやや遅く、夜食にはまだ早い時刻です。温かいものが欲しいなと思いながら、パッカ君は関係者以外立ち入り禁止の通用口をくぐりました。
 一般的に、河童の好物はキュウリだと思われています。パッカ君もキュウリは好きですが、キュウリしか食べないわけではありません。バランスの取れた食事の大切さを選手が子どもたちに訴えているというのに、マスコットが好き嫌いをしていては説得力に欠けるというものです。
 廊下の角に人の姿を認めて、パッカ君は慌てて足を止めました。衝突を避けた男性は小声で何事かを呟いています。実際に顔を見たのは初めてですが、パッカ君は彼を知っていました。日本代表のブラン監督です。
 パッカ君は胸の前に手を当て、軽く足を曲げて挨拶をしました。その姿をお皿のてっぺんからスパイクの先まで見つめ、ブラン監督は笑みとともに頷きます。選手だけではなく、パッカ君のことも、見ていてくれたのでしょう。
「What’s your name?」
 ブラン監督の質問に、次はパッカ君が頷く番でした。ひそかに世界を狙っているパッカ君に英語が理解できないはずがありません。華麗なターンを決め、ユニフォームの背中を示します。
「PAKKA!」
 名前を呼ぶ声がどこかエレガントに響くのは、ブラン監督がフランス人だからなのでしょうか。男性と握手をするのはやや不本意でしたが、差し出された手をパッカ君が握り返したとき、子犬の鳴き声のような音が、ふたつ同時に響きました。
 大きく肩をすくめたパッカ君の前で、ブラン監督は照れた子どものように笑みを浮かべました。試合を終えてお腹を空かせたサッカー小僧がすることは決まっています。廊下に備え付けられたベンチまで、パッカ君はブラン監督をエスコートしました。
 パッカ君が丸いお盆に載せて運んできた温かい緑茶とつぶ餡のドラ焼きを、ブラン監督は嬉しそうに受け取りました。湯呑みに口をつける前にイタダキマスと手を合わせるあたり、既に日本の食生活に馴染んでいるようです。もしかしたら、お箸も上手に扱えるかもしれません。
 お茶とドラ焼きでひと息ついたブラン監督は、身振りと、日本語でも英語でもフランス語でもない不思議な言葉を時おり交えながら、ETUとガンナーズの選手の動きや監督の采配を、楽しげに語りはじめました。パッカ君は黙って耳を傾けます。いい試合だったと、代表監督は試合の感想を締めくくりました。
 再び湯呑みに口をつけたブラン監督の隣で、パッカ君はポケットから一枚の布を取り出しました。赤と白と青。目の前で広げられたトリコロールと、自分自身を指さしたパッカ君の仕草に、ブラン監督は頷きます。アジアと、そして世界と戦うにあたって重要なのは、まずは相手を知ること。フランスの河童事情を知りたいというパッカ君の思いは通じたようです。
 ブラン監督は真剣な面持ちで考えこんだかと思えば、次の瞬間にはおいしそうにドラ焼きをかじっています。歴代のETUの監督にはいないタイプの人ですが、試合の話をしていたときの輝くような表情を見れば、ブラン監督がフットボールを心をから愛し、楽しんでいることはパッカ君にもわかりました。そして、パッカ君の質問にブラン監督が答えようとしたまさにそのとき、廊下に男性の声が響きました。
「ブラン監督!」
 ドラ焼きを喉に詰まらせたブラン監督に、スーツを着た男性が大股で歩み寄りました。困り果てたような表情と、まくしたてるような口調から、ブラン監督の背中を撫でてあげたパッカ君にも何があったのかは想像がつきました。気まぐれな行動で周りを振り回す大人は、どこにでもいるようです。
 ぬるくなった緑茶を一気に流しこむと、ブラン監督は名残惜しげにベンチから立ちあがりました。Mr.タツミによろしくと言い残して、引っ立てられるように廊下を歩き出す後姿に、パッカ君は静かに手を振りました。
 達海監督に率いられた選手たちがピッチに描く、強く面白いフットボールを目にするために、ブラン監督は今シーズン、幾度となく隅田川スタジアムを訪れることになるでしょう。いつブラン監督が来ても構わないように、お茶とお菓子の買い置きは切らさないようにしておこうとパッカ君は思いました。



「ったくもー、君はどれだけボクの好感度を下げれば気が済むんだい。あーあ」
 せっかく仲良くなれたのにとこぼすブラン監督に、通訳氏は深いため息をつきました。試合が終わったあと、マスコミの取材を受けてからスタジアムを出る予定だったのですが、肝心の代表監督が洗面所に行ったきり戻ってこなかったので、予定が大幅に狂ってしまったのです。
「Mr.パッカは人気者なんだね。グッズがたくさん売っているよ」
 赤と黒に彩られた売店を、ブラン監督はまっすぐに見つめています。通訳氏は自身の役職に思いを馳せずにはいられませんでした。彼は語学力を買われて協会と契約を結んだのであって、変わり者のフランス人に、知らないマスコットに付いて行ってはいけませんだとか、急いでいるのだから売店に寄る時間はありませんだとか、そんなことを言い聞かせるために雇われたのではありません。
「たぶん、グッズならクラブの広報に頼めば貰えるんじゃないですか」
「そうなのかい?」
 通訳氏が頷くと、ブラン監督の表情が晴れやかなものになりました。車に向かう足取りも軽いようです。ブラン監督の機嫌を治すことに成功したものの、協会がクラブからグッズをもらうことが強奪と言われはしないか、そしてリーグジャパンの一部と二部のチームを合わせて、マスコットは全部で何体いただろうかと、通訳氏は新たな課題に直面するのでした。


 単行本七巻を見ていたら、なぜか頭の中にパッカ君が下りてきました。
 有里ちゃんの肩に手を回してポーズ決めたり、グッズを作ったりとパッカ君はやりたい放題です。
 たぶん、「ETUといえば『ミスターETU』か自分か」ぐらいのことは考えてそうです。
 自分でも「この河童、調子に乗ってるな」と思いましたが、正直、書いていて楽しかったです。
 ブラン監督と一緒にいる男性は名前と役職が分からないので、とりあえず通訳氏としておきました。

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