新しいシーズンとともに、永田家にはいくつかの変化が訪れていた。 有里の父と叔父は、広報部のスタッフとしてETUに勤めることになった。広報部はクラブのイベントやホームゲームの宣伝に加えて、マスコミ対応を行う部署でもある。ETUの選手が掲載されている雑誌や、コピーを父が持ち帰ってくれるおかげで、有里は出費を減らすことに成功した。ETUのグッズやサッカーに関する雑誌だけではなく、可愛らしいアクセサリーや洋服にも興味がある年頃なのだ。だが有里は年齢の割に小柄なので、 体に合う、好みのデザインの服を見つけにくいことが、悩みの種である。 広報部長という肩書とネクタイ姿に馴染んだころ、父が二十代前半の女性をターゲットにしたファッション誌を持ち帰ってきた。付箋の貼られたページを開くと、Tシャツとジーパンに身を包んだ達海が写っている。「注目の日本代表選手」という紹介文が、有里には少しだけ気に入らなかった。インタビューでは、達海のプライベートや恋愛観、好きな女性のタイプなどに紙面が割かれていて、本業であるサッカーについては、ほとんど記されていない。ETUの名前は、達海のプロフィールに現在の所属チームとして小さく記されているだけだった。 「お父さん、これに立ち会ったの?」 父は眉間に皺を寄せて頷くだけで、取材の様子を語ろうとはしなかった。家と店のあいだに境界がなかった居酒屋稼業とは違い、ETUでの仕事を家庭に持ちこむ気はないらしい。守秘義務があるのだと言われれば、有里も引き下がるしかなかった。 「大変だよねえ、お仕事って」 父と雑誌記者の苦労を思って有里は深く頷いた。インタビューや取材での達海の受け答えを見ていると、もう少しどうにかならないものかと、彼女はいつも心配になる。彼は別にマスコミを嫌っているわけではないのだろうが、応対を煩わしいと思っているのは間違いないようだ。夏に向けてのダイエット特集と有名メーカーの化粧品の広告に挟まれた記事は、残念ながら達海の異性の好みを知る参考にはならない。答えが思い浮かばないならば思い浮かばないなりに、芸能人の名前でも挙げておけば良かったものを、達海は面倒くさくない人と回答しているのである。頭を抱える父や叔父の姿が目に浮かぶようだ。記者も困惑したようで、手のかからない人、束縛しない人という表現で彼の言葉を補っていた。 そんな達海が地元のラジオ番組に生出演すると知ったとき、有里の頭に浮かんだのは無謀という文字だった。 「……大丈夫なの?」 事前にDJやスタッフを交えた打ち合わせが行われることを父に教えられて、有里は胸を撫でおろした。番組には、達海だけではなく、ルーキーの村越も出演するのだという。練習場で見かける村越は、口数の少ない、真面目そうな選手だ。達海がオンエア中にとんでもないことを言い出しはしないかという不安はあるが、村越の人柄や意気込みを知ることができるのだと思うと、番組への期待は高まる。 ETUの中心選手であり、日本代表にも選出されている達海は、昨シーズンのオフからメディアに登場する回数が増えた。多少、言動に突っ込みを入れたくなるような部分はあるものの、好きな選手を見る機会が増えるのは、やはり嬉しい。切り抜いた新聞記事を整理しながら有里は笑った。 「たつみはやっぱりスゴイね!」 取材に立ち会って苦労しているせいか、父は硬い表情を浮かべただけで、何も言わなかった。 達海の活躍もあり、ETUはリーグ戦で勝利を重ねている。有里はサッカーに詳しくない同級生に、達海という選手はどこがどのようにすごいのかと問われたことがある。実際に試合を見れば分かるとしか、有里には答えられなかったが、達海の武器は、正確なパスやシュートの精度などの、技術的なことではない。チームの劣勢を覆し、引き分けを勝利に変えられる力。達海はまるで、魔法でも使っているかのように、試合の流れを変えられるのだった。 「ゲームのやりすぎじゃねえの? 最近、何とかってが流行ってんだろ。カタカナの」 有里の言葉を聞くなり、達海は胡散臭げに顔をしかめた。 「カタカナってだけで、何のことか分かる人がいたら、その人きっと超能力者だよ」 「超能力ねえ」 達海はおかしげに肩を揺らした。アフリカではクラブに雇われた呪術師が、勝利を願って儀式を行ったり、相手チームの選手に呪いをかけたりしているらしい。達海は海外のサッカーについて驚くほど詳しいが、その話が事実なのか冗談なのか、有里には確かめようがなかった。 「この前、コンビニ行った帰りに、どっかの婆ちゃんに拝まれたけどな。俺ってそういうイメージなわけ?」 「ええー?」 試合を決定づけるようなゴールを決めた達海に、両手を合わせたくなる気持ちは有里にも分かるが、神仏のようなありがたみは、彼にはないような気がする。好物の菓子や炭酸飲料を供えても、ご利益はなさそうだ。 「でも、チームのピンチを救うのも、逆転するのも、練習してできることじゃないでしょう。呼び方は何でもいいけど、たつみに不思議な力があるんじゃないかって考えてる人、他にもたくさんいるんじゃないの?」 「まあ、イメージトレーニングはするけどさ」 首筋を掻いていた手を止めて、達海は考えこむそぶりを見せた。 「やっぱり、大事なのはここだろ」 「心臓?」 左胸を指で示しながら、達海は笑った。心臓が強いという言葉ならば、有里も聞いたことがある。 「心とかハートとか、そういうものが強い奴は、緊張して実力が出せないなんてこともないし、最後まで勝負を諦めたりはしない。それがスゲーことに繋がるんじゃねえの?」 有里は首を振った。少なくとも、魔法や超能力などというものを持ち出すよりは、説得力が感じられる。それに、達海は緊張とは縁のない人間だ。本人が言う通り、気持ちや精神と呼ばれる部分が強いのだろう。 「そういえば」 別メニューでの調整が多い理由を達海に尋ねようとしたとき、有里は不意に腕をつかまれてフェンスから引き離された。驚いて顔を上げると、怒りに満ちた顔の父と目が合った。 「練習の邪魔するな。達海、お前もくだらねえこと言ってねえで、集中しろ」 達海がランニングを再開すると、有里は父にクラブハウス脇の通路に連れて行かれた。短気で怒りっぽい父だが、本気で叱られたのは数年ぶりのことで、有里は叱責を受けているあいだ、顔を上げられなかった。 「兄やんは厳しいなぁ」 水道で顔を洗い、有里が練習場に戻ると、苦笑を浮かべた笠野が腕を組んでいた。練習はすでに終了したようで、残っている選手は少ない 。 「まさか、これに懲りたからって、もう来ねえなんてことはないだろ?」 ポケットに無造作に押しこまれていたことが、一目でわかるハンカチを、笠野は有里に差し出した。 「ウチは男ばっかりだからな。練習でも試合でも、女の子に見にきてもらえると、選手にも張り合いってもんが出るんだよ」 こんなこと言ってたら、俺も兄やんに怒られるなと笠野は笑った。笑いながら、有里も応じる。 「じゃあ、今度、クラスの子を連れてきますね」 「おう。たくさん連れてきてくれ」 笠野にハンカチを返しに行くことが、練習場に行く口実になるのだと気づいたのは、慣れない手つきでアイロンをかけているときだった。ハンカチを返すだけというのも物足りないように感じられて、有里は袋入りのキャンディーをラッピングした。笠野は酒飲みだが、甘いものも好きらしく、有里の気持ちを笑って受け取ってくれた。 関東近郊でのアウェイゲームならば、応援に行きたいと、有里は常々思っているが、母は居酒屋「東東京」にかかりきりだし、連れ立って観戦に行くような友人もいないので、両親は娘の遠征に首を振ってはくれない。いつまでも子どもではないのだし、進級したのだからと掛けあった結果、有里は隅田川スタジアムの試合を、一人で観に行っても構わないという許可を得た。ただし、それにはナイターゲーム以外という条件が付いており、有里は居酒屋「東東京」で母を手伝いながら、湘南戦をテレビで観た。達海が鮮やかなフリーキックを決めた瞬間、店内は大騒ぎになり、有里は酒を飲んでいる客と手を叩いて喜んだものだ。 ETUでの活躍が評価されて、達海は昨シーズンから日本代表の試合や合宿に呼ばれるようになった。青いユニフォームも、彼には似合っていたが、ETUの赤と黒を着ているほうが、断然、格好いいと有里は思う。 ETUから代表に招集されているのは、現在のところ達海だけだが、ライバルの東京ヴィクトリーからは数人の選手が招集されている。東京ヴィクトリーの一〇番をつける成田は、日本代表でも同じ番号をつけていた。 世間、というよりもマスコミや有里の周囲の人々は、成田に続く日本代表のエースは達海だと噂している。達海は代表の試合でも結果を出しているから、たぶんそれは正しいのだろう。クラブハウスや商店街に貼りだされている東京ダービーの告知ポスターでも、達海と成田の対決という面が強調されていた。 晴天の隅田川スタジアムを、心地の良い緊張感が包んでいる。初夏の風に揺れているのは、ETUの色だ。売店で買ったばかりの東京ダービー記念Tシャツを身に着 けて、有里はゴール裏の中央に席を定めた。 ゴール裏はチケット代が安いだけでなく、選手との距離が近く、熱狂的なサポーターが集う場所だ。そこではクラブカラーに彩られた旗がはためき、試合の状況に応じて選手の名前が叫ばれ、チャントと呼ばれる応援歌が響く。ゴール裏の雰囲気はクラブによって異なるが、隅田川スタジアムのホーム側ゴールの裏には、商店街の祭りのような賑やかさと、のどかさが広がっている。ゴール裏は立見の客が多く、人の動きが激しいため、巻きこ まれてケガをしないようにと、有里は両親に言われている。 成田に勝てるかと尋ねたとき、チームスポーツで、どうすれば個人を倒すことができるのかと達海は呆れたように言っていたが、クラブ全体が良い状態にあることを教えてくれた。東京ダービーは、達海と成田の一騎打ちではなく、ETUと東京ヴィクトリーという、チームとチームの戦いなのだ。有里は懸命に声援を送り、選手の名前を呼び、ボールの行方に心を躍らせた。 東京ヴィクトリーにPKで先制されたものの、ETUは後半、達海のシュートで同点に追いつき、逆転ゴールで勝利を飾った。試合終了後、ゴール裏に挨拶に訪れた達海には、ひときわ大きな拍手が送られた。選手たちはそのままゴール裏に立ち止まって前列のサポーターと何事かを話しこんでいる。今まで応援をまとめていた人たちが近いうちに父親になるらしく、ゴール裏は二重の祝福ムードに包まれた。とても楽しい気分で、有里は家路に着いた。 東京ダービーでの達海の活躍は、ETUのサポーターやスポーツ紙の記者だけではなく、日本代表監督にも高く評価された。フェルホーヘン監督が記者会見の席で達海への期待を口にしたことで、彼の名前は日本代表の新たなエースとして広く知られることになった。急遽、ETUと代表での彼の活躍を追ったテレビ番組が放映されることになり、有里の父は残業に追われた。 関東地方だけ放映された特番では、サッカーをしている達海の、強く勇ましい部分が凝縮されていた。あまりにも格好よすぎて、別人のようにさえ見える。何も知らない人が見れば、達海猛はETUのエースで、取材に遅刻もしなければ、コーチをからかったりもしない、人形焼が好きな青年に見えたことだろう。有里はダビングしたビデオテープを、後藤に送ることにした。ひと月に一度ぐらいのペースで手紙を出し、二人は互いの近況を伝えあっている。移籍先の京都で、後藤はレギュラーの座をつかんでいた。 テレビの影響は、有里が考えていた以上に大きく、ETUの練習場には多くの見学者が詰めかけたが、ボールを蹴る達海の姿を見ることはできなかった。右足首と左膝のケガのために、達海は日本代表の招集を辞退し、ETUの戦列を離れていた。 日本代表の強化試合は、もちろん重要なものだが、よほどの事情がない限り、負けても問題になるようなことはない。だが、リーグ戦では事情が異なる。達海がケガの治療に専念しているあいだに、ETUは順位を落としていた。達海がきっかけでETUに興味を持った人たちのおかげで、隅田川スタジアムの観客動員数は増加したが、それと同時に、ゴール裏の雰囲気が変わったように有里には感じられた。 ETU監督の駒田は、学校の音楽室に肖像画が飾られているヨーロッパの音楽家のような髪型をした人だ。彼が達海のいないチームに、どのように手を加えたのか分からないが、ETUのサッカーは、東京ダービーの時とは明らかに違っていて、少しだけ退屈だった。 だが、だからといって選手に文句をつけるのは筋が違う。アウェイでの清水インパルス戦では、試合終了後にゴール裏のサポーターが深作に文句をつけたという。達海は達海で、深作は深作だ。ポジションが同じだからといって、同じことができるはずがない。 達海はまだ練習には参加できないものの、ときおり練習場に現れる。歩き方を見るに、足は少しずつながら回復しているようだ。達海が姿を消すのと同時に、練習場から人々が帰っていくのが、有里には寂しい。達海は間違いなくETUの看板選手だが、彼ひとりでサッカーをしていたわけではない。一一人でするスポーツなのだから、他の選手にも興味を持って欲しいと思うのだが、ETUの成績が落ちこんでいるせいか、選手たちの表情は険しく、とりわけ深作は不機嫌そうだった。 ホームでの浦和戦の前に、達海が出演するスポーツドリンク、ダイナモのCMがオンエアされた。食い入るようにテレビ画面を見つめる有里の隣で、父は苦い顔で黙りこんでいた。 時期を同じくして、スポーツ紙には達海復帰の文字が踊っていた。まだ練習にも参加していない達海が、ボールを蹴られるはずがない。有里は驚き、マスコミを利用した情報戦なのかもしれないと考えたが、貝のように口を閉じた父からは、何も聞き出せなかった。広報部長でありながら、父はETUと達海に関する報道を、全ては把握していないようだった。 大勢の観客が足を運んだ浦和戦で、達海は素人の有里が見ても明らかに不自然な流れで試合に投入された。白はETUのチームカラーの一つだが、達海の左膝に巻かれた包帯は痛々しい色をしていた。 ベンチに座っているだけで、相手に動揺を与えることができる、達海はそんな選手だ。彼の活躍は見たいが、無理をおしてまで、試合に出る必要はない。有里は生まれて初めて達海の応援をためらい、そしてETUは敗北した。ダイナモのオンエアに合わせて「大人の事情」が働いたのだと、誰かが言った。 ETUは決して良いとはいえない状態でリーグ前半を終えたが、有里は中断期間を良い方向に捕らえようとしていた。達海はケガの回復に専念できるし、キャンプではチームの立て直しや戦術の確認ができる。リーグが再開されれば、達海が復帰して、強いETUと達海の活躍が見られる。 有里の期待を打ち砕くような事件は、ETUがキャンプに入る直前の曇った日に起こった。その日のできごとを、有里は悲しみとともに、決して忘れないだろう。 二枚のシャツと天気予報の予想気温を見比べて、長袖のシャツに袖を通した有里は、練習開始時刻の三〇分前にはETUの練習場に到着していた。ETUの練習を良い場所で見るためには、早いうちにポジションを確保する必要があるのだ。 コーチに背中を押されて、ストレッチをしている村越の姿が見えた。彼はほぼ一番乗りで練習場に来て、他の選手よりも早くアップを始めている。大卒ルーキーなのに達海よりも年上に見えるのは、達海が年齢よりも若く見られることに加えて、村越が普段、気難しい表情をしていることが多いからだ。笑えば雰囲気が変わるはずだが、真一文字の結んだ口や鋭い眼差しの印象が強くて、有里には村越の笑顔が想像できない。春先に出演したラジオ番組では、ルーキーが笑ってくれないという達海の一言から、なぜか大喜利大会が開かれていた。 選手が集合し、ランニングが始まった。フェンスの外で、有里は顔見知りの人たちと言葉を交わしながら練習を見つめる。話題になったのは、達海のケガと、目前に迫ったETUの夏キャンプのことだった。 ランニングは、予定よりも早く、そして唐突に切り上げられた。コーチが選手に集合を命じ、芝の上に人の輪が作られる。その中心に、バッグを担いだ達海が立っていた。 達海がクラブの人々に何かを話しているようだが、明らかに様子がおかしい。見学者たちの疑問の表情を、飛びこんできた叫びが驚きに変えた。 移籍、イングランド、プレミアリーグ。それらの言葉が全て達海に繋がっているなどと、何かの間違いとしか思えなかった。 フェンスの内側でも、混乱が広がっていた。詳しい説明を求めている選手は、松本だろうか。笠野や父の顔は輪の中に見当たらない。達海に翻意を求める、悲鳴にも似た声が上がった。 怒りと失望の声を受けながら、達海は練習場を出て、クラブハウス脇の通路を歩いていく。 達海に駆け寄ろうとした一人を、周りの男たちが羽交い絞めにする。ETUの男性スタッフが走ってきて、柵を作った。混乱を制止しようとする声と達海を引き止める声が混じるなか、小柄な有里が人垣を抜け出したことに気づいた者はいなかった。 「たつみ!」 有里の呼びかけに、達海は少しだけ足を止めた。 「俺の行くチームな……弱いんだってさ」 なぜ海外に行くのかという質問に答えると、達海は軽く左手を振って、再び歩き出した。彼を追いかけて、留めておきたかったのに、有里の足は動かなかった。 達海の言っていることが、有里にはまるで理解できなかった。弱いチームを強くしたいのならば、ETUを強くすればいい。名門クラブをやっつけたいならば、また東京ヴィクトリーをやっつければいい。海外に渡らなくても、彼のやりたいことは日本で、ETUで、できることばかりだ。 それなのに、達海はETUを出て行くという。チームメイトも、サポーターも、何もかもを置いて。目の前で起きたことが信じられなくて、腹が立って、そして悲しくて、有里は叫んだ。 いつの間にか、達海の後姿がぼやけていた。顎から落ちた雫が、スカートにしみを広げていく。どれだけ拭っても、涙が止まらない。人目を気にしている余裕もないままに、有里は両手で顔を覆った。二人分の大人の足音が、近づいてくる。そのうちの一つは、彼女の父親のものだった。 「あーあ、女の子泣かせちまいやがって。しょうがねえなあ、あいつは」 笠野の言葉には聞き覚えがあったけれども、彼はそのときのように笑ってはいなかった。なぜ達海の移籍を止めてくれなかったのかと、有里は笠野に八つ当たりにも似た感情を抱いたが、それをぶつける気力は残っていなかった。彼女が泣き止んで顔を上げたとき、父は無言でタオルとペットボトルを差し出した。ラベルは剥がされていたが、中身はダイナモだった。 達海の移籍は、代表選手の海外挑戦とクラブへの裏切りという、二つの角度で報じられた。達海に対して好意的な論調の前者に対して、後者は目を覆いたくなるようなものばかりだったが、父は頑なに沈黙を守り、叔父は記事の内容を裏付けるかのように、達海への恨み言を吐きだした。 日本に広がる波紋を知らぬまま、達海は新天地で七番を与えられ、プレミアデビューを飾った試合で、その選手生命を終えた。 ブーイングと罵声。メガホンから響く、割れたような怒鳴り声。フロントへの痛烈な非難が記された横断幕。険悪な空気に満ちたゴール裏を、有里はバックスタンドから眺めていた。 昨シーズンの後半から立ちこめていた暗雲を振り払うことができないまま、ETUは多くのサッカー関係者がリーグ開幕前に予想した通りに降格した。試合に勝つという共通の目的を、クラブに関わる誰もが持っていたはずなのに、人々が足並みを揃えることはできなかった。 有里の父と叔父は、ETUの会長と副会長に就任したが、それは昨シーズン終了後に辞任した津川会長の後任に相応しい人物が他にいなかったからで、昇進と喜べるものではなかった。家族で居酒屋を営んでいた父には、部下を持った経験がない。組織の上に立って人を引っ張ることに、父は不慣れだった。 クラブの規模に見合った堅実な運営を目指す父の姿勢は、監督の不破には弱腰に映ったようである。大型補強を求める不破と、リスクを避けようとする父の主張は平行線をたどり、彼はことあるごとにマスコミの前で不満をぶちまけた。現場の最高責任者によるフロント批判がクラブに与えた動揺は大きかったが、不破の考えに賛同する者も少なくはなかった。攻撃と守備が噛み合っていないチームが敗北から抜け出すためには、目に見える変化が必要だったのだ。 しかし、監督の交代にも選手の獲得にも踏み切れないままETUは中断期間を過ごし、残留争いのなかで、もがきながら沈んでいった。ホーム最終戦で敗北を喫し、頭を下げるフロントと選手に、サポーターは不満と憤りを爆発させた。 ETUの降格が決定した時点で、笠野は辞表を提出し ていた。会長と監督の間に立ち、クラブの方向性を定めるGMという立場にありながら、彼は二人の対立と、それを煽り立てるマスコミに手を打とうとはしなかった。有里が練習場で見かけた彼は、いつも疲れきった顔と虚ろな目で練習を眺めていた。 シーズン開幕当初から成績が振るわなかったこともあり、ボールを蹴る選手たちにも笑顔はなかった。不破の采配に首を傾げる者や、昨年の達海の移籍を引き止められなかった当時のフロント、より具体的に言えばGMの笠野に不信感を抱く者。感情を面に出さずに、ひたすら練習に励む者。スタッフやコーチを除いた、選手だけのミーティングが幾度も行われたというが、彼らの努力は報われなかった。 一一から一を引いて、一〇。そこに再び一を加えて、一一。小学生の算数を、生身の人間であるサッカー選手に、そのままあてはめることはできない。降格したETUからは、多くの主力選手が去っていくことだろう。そして、別の誰かがスタメンに入る。選手の入れ替わりとともに、チームもまた、変わっていくものなのだ。現在のETUに、達海が在籍していたころの、そして隅田川スタジアムでの東京ダービーに勝利したころのような輝きは、残念ながら見られない。 プレミアリーグのシーズン終了後、達海はクラブとの契約を解除された。一部のマスコミは、彼の帰国を予想したが、それを裏切るかのように、達海は消息を絶っていた。 サッカーが楽しかったのは、ETUが勝っていたからだ。突きつけられる敗北は、選手だけではなく、応援する者をも落胆させる。サッカーから距離をおけば、その辛さから逃れられるのかもしれないが、サッカーとETUは、もはや有里の一部だ。離れることなど考えられない。父と叔父はETUに留まることが決定していたが、それは責任を取って辞任することよりも、遥かに険しい道であった。 「このたびは、二部降格という残念な結果になってしまい、誠に申し訳ありませんでした……」 会長として挨拶を述べる父の頭上に、再びブーイングが落ちかかる。汚い野次に有里は耳を塞ぎたくなった。 ETUの低迷が、熱狂的な声援を送る気のいい人たちを粗暴で過激な集団に変えたのか、人間が持っている暗い部分を暴いたのか、有里には分からないが、中断期間が明けて間もないころ、会長の娘がゴール裏に来ていることを知った者に殴られそうになったことは事実だ。顔見知りの男性のおかげで、その場は事なきを得たが、有里ちゃんはもう、ここには来ないほうがいいと、寂しげに忠告された。 役員の挨拶が終わり、マイクが選手に渡ると、ブーイングはどよめきに変わった。ホーム最終戦終了後に行われる選手挨拶は、たいていの場合は、チームキャプテンの役目だ。入団二年目の村越が挨拶を行う理由に考えを巡らせながら、有里は彼を見つめた。不甲斐ないチーム成績を詫びる言葉が、長いスピーチに疲れた耳に流れこんでくる。 「……このチームに残って、一部復帰に向けて全力を尽くします。どうか、応援をお願いいたします」 村越が頭を下げると、彼の後ろに並んでいた他の選手たちがそれに続いた。そのうちの何人かが、ゴール裏のサポーターに視線を合わせようとしないことに気づいたとき、有里は村越が挨拶を任された理由を悟った。彼ら はETUのサポーターに、来シーズンの応援を頼める立場ではないのだ。確かな情報ではないものの、スポーツ紙では、一部リーグのクラブがETU選手の獲得に動いていることが報じられていた。 さよなら。どうか、元気でいてください。 その短い言葉を捧げるのは、とても難しいことなのだと、有里は身をもって実感する。ETUを離れる人々を笑って送り出すには、感情の整理が追いつかなかった。 くすんだ藍色の空を見上げて、有里は白い息を吐きだした。ETUにとって、長い冬が始まろうとしている。季節が巡り、やがて春が訪れることを彼女は知っていたが、刺すような胸の痛みを承知の上で、さよならを言えなかった彼がいた、眩しい夏の日々に思いを馳せずにはいられなかった。 |