職場の二〇代独身女性が俺に熱い眼差しを向けてくるんだが


 人材を育てる。それは一般企業はもちろん、フットボールクラブにおいても重要なことだとETUのGMに就任した後藤恒生は考えている。
 彼のGM就任と新加入選手の入団報告を兼ねた一月の記者会見では、月末に高校の卒業試験を控えた一八歳が、緊張した面持ちをカメラに向けていたものだ。そしてクラブ全体を見渡せば、選手だけではなく、裏方であるスタッフの育成も欠かせない。ETUの規模と予算を考えれば、理想は少数精鋭である。
 パソコンの扱いに長け、通訳レベルの英語力を持つ永田有里に、後藤がかける期待は大きい。彼女は既にETUから内定を得ており、現在は学生アルバイトとしてクラブハウスに出入りしているが、与えられている仕事は単なる雑用に留まるものではなかった。トップの顔触れや部署が変わっても業務に対応できるように、彼女には仕事を覚えてもらわなければならない。有里の能力と意欲は、クラブハウスの内外で高い評価を得ており、縁故採用であることを問題視する者はいなかった。
「永田君。これ、夕方までに頼んだよ」
 広報部長がメモとデジカメを有里の机に置いた。一向にデジタル機器に慣れる様子のない彼は、サポーターから要望の多かった公式Webサイトの充実と更新のスピードアップを、有里に仕事を任せることで実現させた。彼の役割はアップロード前の記事の最終チェックであり、有里が作業を終えるまでは、茶をすすりながらスポーツ新聞やサッカー専門誌に目を通している。マスコミや記者から、クラブがどのように評価されているかを知っておくことも広報担当者の務めだ。決して、部下に仕事を押しつけてくつろいでるわけではない。
「格好いいだろう。近ごろの若い人は、何を着ても似合うから羨ましいね」
「本当にそうですね。カッコいい……」
 昨日浅草駅で行われたイベントに参加したのは、キャプテンの村越だったと記憶している。後藤は有里の机に近づき、彼女の肩越しにモニターの画像を見つめた。「一日駅長」を務めた村越が、敬礼のポーズをとっている。
「村越の奴、制服似合ってるなあ。……あれっ、どうしたんだ有里ちゃん?」
 後藤の呼びかけに応じることなく、有里は画像に見入っている。恋する乙女のような顔。使い古された表現に、後藤は頭の中で赤い二重線を引いた。恋愛に年齢は関係ないし、有里は若い女性である。
「……ごめんなさい。思わず見とれちゃった。部長、この画像で携帯の待ち受け作って配信してもいいですか?」
 有里の頬が赤いのは、暖房のせいではなかった。ほのかに熱を帯びた眼差しから目をそらしながら、後藤は胃の上に手を当てる。責任ある立場でありながら、彼はクラブにおける職場恋愛の可能性というものを考慮していなかったのだった。
 ETUでは職場恋愛を禁止してはいないが、それは過去にクラブに在籍していた独身の女性スタッフが極めて少なく、色恋沙汰を巡るトラブルが発生したことがなかったからだ。成人した社会人のプライバシーに上司が口を挟むべきではないと自覚はしているが、それでも後藤は有里が傷つくような事態を避けたかった。
 彼が自身の誤解に気づくのは、約一年後のことになる。

「来月の商店街清掃活動には、トップチームの選手四人に参加してもらいます。それから……」
 四月一日付けでETUの正職員となった有里は広報部に配属され、忙しいながらも充実した日々を送っている。雇用形態の変化とともに仕事量は増えたが、それと同時に質も変わった。ただ与えられた作業をこなすだけではなく、個人の判断によって業務を遂行する。クラブが参加する地域イベントや、派遣される選手を選ぶ権限を、有里は新人ながらも与えられていた。
 大声を張り上げてチームを応援していた小さな女の子が、立派になったものだ。だが後藤の感慨は、有里の若さと力強さの前ではかき消されてしまう。茶をすすりながら過去の思い出に浸っている暇があるなら、目の前の仕事に集中して。やや口を尖らせて要求する彼女の顔が、目に浮かぶようだ。
 ホームタウン活動は、チームや選手のスケジュールを考慮に入れて日程が組まれているが、有里はときおり、関係者を困惑させるような企画を持ちこんでくる。五月に行われる三社祭への参加を命じられた黒田は、怪我の危険性を訴えたが、赤と黒の旗をバックにした彼女の熱意と行動力に押し切られてしまった。
 黒田にとっては不本意だったかもしれないが、闘志あふれるプレースタイルが持ち味の彼を神輿を担ぐ屈強な男たちのただ中に飛びこませた有里の人選は、決して悪くはなかったと後藤は思っている。人に仕事を割り当てるにあたり、能力と性格は重要な要素だ。そこに個々の事情や思惑が加われば、個人の希望が後回しにされるのは止むを得ない。GMである後藤にできるのは、ETUの選手たちがフットボールとそれ以外のものを両立できる環境を整え、彼らの意思とクラブ内外の要望に折り合いをつけることだった。
 幸いにも、チームには村越茂幸という手本がいる。彼はオフの日でもトレーニングを欠かさないし、請われればクラブや地域のイベントにも嫌な顔をせず出席する。だが、そんな彼でもサッカー教室のために訪れた幼稚園で園児たちに泣かれたときには、少なからずショックを受けていたようだ。後藤がオフの前日に彼を夕食に誘ったのは、クラブの状況を語り合いながら、それとなく精神面のフォローを入れるためである。
「小さい子が相手だと、予想外の出来事の一つや二つあるものさ。あまり気にするな」
 村越はミスターETUとさえ称されるチームの柱だ。だが試合中にはチームメイトの精神を引き締め、叱咤する低い声と厳めしい顔つきは、入園して日が浅く、新しい環境に不安な思いを抱えている幼稚園児に向けるには適していない。身長一八〇センチの大人が発する言葉の全てを、ボールも体も上手に動かせない自分自身への叱責だと誤解してしまった一人の年少児は、恐怖と緊張に耐えきれなくなった瞬間、大声で泣き出したのだった。村越は相手チームの攻撃を止める方法は熟知しているが、子供を泣き止ませる術など一つとして持っていない。結局、泣きながら園舎に逃げこんだ園児が、担任に抱かれて戻って来るまで、彼は呆然と立ち尽くしていたのだった。
「この面を怖がられるのは慣れてますし、俺は別に気にしてません」
 俺は。その言葉の裏を返せば、村越は他人のこと、つまり泣いてしまった園児を気にかけているということだ。目立たないが確かな優しさは、村越が選手と多くのサポーターから信頼を寄せられる理由の一つである。
「じゃあ、その顔を活かした別の仕事をお願いしようかな。実は有里ちゃんから資料を預かってきてるんだ」
 村越の眉間に、後藤はさりげなく視線を送った。ミリ単位の皺の動きで彼の心の内を推し量れるのは、短くはない付き合いのうちに後藤が身に着けたささやかな特技である。先日の失敗を引きずっているのか、村越は警戒しているようだった。
「子供相手よりも、こういう仕事の方が村越には向いているんじゃないか」
 キャプテンである村越が一日警察署長となることでチームの知名度を上げ、自転車が貴重な交通手段である下部組織の選手や地元浅草の子供たちに運転マナー向上を呼びかける。有里が警察署の広報課職員と練り上げたプランに、当の村越は乗り気ではないようだ。その証拠に、眉間の皺が接着剤で固められたかのように動かない。
「俺は警官の恰好ですか」
「そりゃそうだろう」
 後藤は首を振った。ドラマや映画に登場する刑事は私服だが、「町のお巡りさん」は制服を着ているものである。
「去年の一日駅長も様になってたし、村越なら警官の制服も似合うんじゃないか」
 駅員の制服を着こなした村越の写真を、有里は熱のこもった眼差しで見つめていたものだ。彼を一日警察署長に推したのも、彼女である。しかし当の本人は、顔を落として勘弁してくださいよと呻くのだった。
「何事も見た目が大事なのは分かってますが、俺はこういうのは……」
 中盤の要としてピッチに立ち、試合終了後のサポーター挨拶やメディア対応を率先的に行う村越だが、本業以外のことで注目を集めるのは苦手なのだろう。後藤も現役時代には、クラブのイベントに幾度も参加したが、テレビカメラの前では緊張を隠せなかったものだ。
「まあ、誰にも向き不向きがあるのは分かってるさ。でもな、交通ルールを守るとか、町の安全を守るとか、村越はそういうイメージにピッタリなんだよ」
 実のところ、一日警察署長の候補には、元日本代表で世間の知名度も高い守護神緑川も挙がっていたのだが、選ばれたのは村越だった。有里の強い推薦に加えて、フロントに威圧的な態度を取るサポーター集団ユナイテッド・スカルズのメンバーに一目置かれる村越が、後藤や会長には深夜に繁華街やコンビニの出入口で騒ぎ立てる若者と顔なじみの警官に見えたからである。
「有里ちゃんも気合入れて準備を進めていることだし、頼んだぞ、村越署長」
「まあ、あいつが正社員になって、張り切ってるのは分かりますけどね」
 息をつく村越を見つめながら、後藤は心に引っかかるものを覚えた。ホチキス留めされた資料を丁寧に折りたたむキャプテンにではなく、それを後藤に委ねた人物への違和感。自分は長いあいだ、思い違いをしていたのかもしれない。彼が想像しているような感情を有里が村越に抱いているならば、イベントの説明と打ち合わせは彼女自身の手で行ったのではないだろうか。
「その有里ちゃんのことだけど」
 運ばれてきた揚げ出し豆腐に箸を入れながら、後藤は村越に有里の仕事ぶりを尋ねた。とくに悩む素振りも見せず、キャプテンは評価を下す。
「俺よりも後藤さんの方が詳しいでしょうけれども、若いのによくやってますよ。ジーノあたりには振り回されてますけど」
 後藤は頷く。有里の勤務態度に対するフロントと選手の評価は一致しているようだ。
「他に何かなかったか? 決まった相手の前だと様子がおかしくなるとか、変なこと言ってたとか」
 スタッフに関することは、選手よりもGMである後藤のほうが詳しいものだ。村越の訝しげな視線を鼻先に受けながら、後藤は苦し紛れに呟いた。
「五月病。そう、五月病だよ。アルバイトから社員になって仕事が増えたし、俺が気づかないうちにストレスを抱えてるんじゃないかと思って。部下のメンタルケアは上司の仕事だろう?」
「あいつが五月病だなんて言う医者がいるとすれば、それは間違いなくヤブでしょう」
 思わず後藤は頷いた。医学に詳しいわけではないが、無遅刻無欠勤、常に活力に満ちた表情で仕事をこなす有里に、五月病や鬱の診断が下される可能性が低いことは想像できる。
「あの働きぶりだと仕事依存症の診断が下りるかもしれませんがね。後藤さん、あいつももうガキじゃないんですから、過保護は本人のためになりませんよ」
 有里の感情に想像をめぐらせた挙句、村越に探りを入れようとした後藤の行動は、明らかに上司の枠を越えている。彼の言葉を幼いころから可愛がっている妹分を必要以上に気にかけるがゆえのものと解釈して、村越が苦言を呈するのもやむを得ないことだろう。ETUと仕事以外のものに興味を示す気配のない有里が見せた表情の答えを見いだせないまま、後藤は村越の厳めしい顔を肴にウーロン茶のグラスを傾けたのだった。



「本当に格好いい。やっぱり村越さんは制服が似合うわ」
 警察官の制服に白い斜め襷をかけて敬礼する村越の画像を液晶ディスプレイに表示させ、有里は体ごと椅子を引いた。机の前に空いたスペースに上半身を折り曲げながら、後藤は新米広報の横顔をのぞきこむ。イベントを成功させたという達成感に満ちた表情の奥で、少女が頬をピンクに染めていた。
「格好いいってはしゃいでるけど、有里ちゃんは、村越のことをどう思っているんだい?」
「どうって言われても……。もちろん、尊敬してるわよ。時々、ちょっと怖いけど」
 攻撃に人数をかければ、そこにはカウンターのリスクが伴う。有里の怒りと抗議を覚悟の上で心の奥に踏みこもうとした後藤にとって、彼女の反応は拍子抜けするものだった。
「でも、他の選手のことはそんな風に言わないじゃないか。有里ちゃんがそんな反応するのは、村越だけだよ」
 有里は首を傾げながら、右手をマウスに伸ばした。画像が切り替わり、パトカーの側に立つ村越の姿が表示される。
「だって、この村越さん、本当に恰好いいじゃない。後藤さんだってそう思うでしょう?」
 鍛えられた体を紺の制服に包んだ村越「署長」は、同性である後藤が見ても凛々しく、画像からは威厳さえも漂っていた。よほどのひねくれ者か自信家以外は、有里に賛同することだろう。
「私は、村越さんの制服姿を格好良くて素敵だって思ってるけど、もしかして私の感覚、世間の女子からズレちゃってる?」
 若い女性の価値観について、後藤が有里以上に詳しいはずがない。しかし女性の心理に変化が生まれるほどの世代の差もまた、二人にはなかった。マウスをクリックする音を聞きながら後藤が掘り起こしたものは、少女たちの黄色い声と熱を帯びた記憶だった。
「俺には女心は分からないけれども、学生時代にクラスの奴がいつもと違う恰好して女子が騒いでいたのと、格好いいものに惹かれる有里ちゃんの気持ちは、もしかしたら似たようなものかもしれないな」
 学校行事で訪れた白いゲレンデを思い出す。生徒たちはスキーの技術に応じてグループ分けされたが、上級クラスの生徒の大半は自前の用具を持参してきたものだ。色鮮やかなスキーウェアに身を包み、颯爽と斜面を滑る男子生徒の姿は、ストックを握る女子生徒の人気を集めたが、その後カップルが誕生したという話を聞くことはなかった。
「そうね。たぶん、後藤さんの言うとおりだと思う。私、村越さんの制服姿にテンション上がるけど、それだけだもの」
 後藤の昔話に、有里がどことなく安堵したような笑みを浮かべたのは一瞬のことだった。生まれ育った町のクラブへの愛情と勤労意欲に満ちた眼差しが後藤を捕まえる。彼女のパワーとエネルギーには勝てないことを、彼は承知していた。
「私ね、村越さんに着てもらいたい制服がたくさんあるの。消防署に機動隊に、それから郵便局! 一日局長になってもらって、年賀状配達の出発式に参加してもらいたいんだけど、その場合だと天宮杯敗退が決まってるんだよね」
 警視庁第二機動隊の所在地は墨田区に、第九機動隊の所在地は江東区にあるのだと説明しながら、有里はマウスを動かした。機動隊員の行列や特殊車両の写真が表示される。強引に制服を着せられる村越の険しい顔を想像しながら、着替えが必要なイベントは年に一度ぐらいにしてやってくれと後藤は呟くのだった。


 タイトルは最近のラノベを意識しました。
 地域イベントでのコスプレを恥ずかしがり、
奥さんとの馴れ初めを頑なに語ろうとしない村越さんは、
 実は照れ屋なのではないかと考えてしまいます。

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