「考え直さないか?」 「なおさない」 「そこを何とか……」 「いや!」 後藤の言葉に、娘は顔をそらした。甲高い声で泣き叫び、時には暴れることもあった「イヤイヤ期」に比べればマシだと思えるのは、親と子の双方が成長した証かもしれない。 「私は賛成よ。キッズクラスは女の子も参加できますって、いいアピールになるじゃない」 有里から湯飲みを受け取りつつ、後藤は顔をしかめた。物事をETUに結びつけようとする彼女の癖は、妻となり、母となっても改善されておらず、むしろターゲットが広がったような気がする。ETUが主催するファミリー向けのイベントは、おおむね成功を収めており、集客やグッズの売上に貢献していた。 「コーチの言うこと、ちゃんと聞くのよ。それから、家の中や道路ではボールを蹴らない。約束できる?」 「できる!」 元気よく指切りをする妻と娘の姿を、後藤は微笑ましさと敗北感の入り混じった表情で見守った。 「おとうさんがへん。いつもなら、わたしのおねがいきいてくれるのに」 「おかしいわよねえ。お父さん、昔はサッカー選手だったのに、娘にはさせたくないなんて」 週に一度行われているETUのキッズクラスは、三歳以上の未就学児を対象にしたものだ。新年度を前に開かれた無料体験教室で、娘はサッカーを楽しんだらしい。それは喜ばしいことだったが、習い事として始めたいと言われれば、話は別だった。 「サッカー選手だったからこそだよ。有里ちゃんだって、りぃちゃんが怪我をするのは嫌だろう。万が一、体に傷跡でも残ったらと思うと……」 宝物に傷をつけられて、平静を保てる人間は少ない。後藤は四十代に入ってから授かり、妻と同じ「里」の字を付けた娘を、心から大切に思っていた。 「でも、キッズクラスでしょう。ボールも小さいし、スパイクも履かないし、大怪我するとは思えないけど」 トップ選手のそれとは違い、キッズクラスやスクールの生徒の怪我が後藤や有里の耳に入ることはほとんどない。二人の仕事は、子どもたちの安全に配慮した指導を行うための環境を整えることであり、実際に泣いている子どもに向き合い、傷の手当てをするのはコーチやドクターの役目だった。 「それに、りぃちゃんは、雨の日にベッドの上でサッカーして、窓から網戸ごと落っこちるような子じゃないわよ」 「わたし、そんなあぶないことしないよ?」 柔らかな頬を膨らませて、娘が抗議した。子どもの転落事故のニュースを目にするたびに、後藤と有里が注意を促していた成果だろう。 「そうだ。りぃちゃんは、危ない事はしない。でも、そうじゃない子も、世の中にはたくさんいるんだ」 危ない事をしてはいけないと親が言い聞かせているにも 関わらず、痛い目に遭う子どもが減らないのは、価値観が原因だと後藤は考えている。大人が危険だと考えることを、一部の子どもは危険だと考えないのだ。それどころか、逆に禁止されていることに興味を持つ者もいる。 「サッカーは団体競技。皆でするスポーツだから、危ない事をする子もいる。それに巻きこまれて、りぃちゃんが怪我するのは嫌だな」 後藤はため息をついた。妻が味方に付いた以上、もはや娘を止めることはできないのは分かっている。有里の父も異論はないだろう。孫娘のためにETUに女子チームを作ったというのが、義父の口癖である。もちろん、そんなことができる権力や財力はETUにも永田家にもなく、有里の出産とETUレディースの創設時期が、偶然重なったというのが真相である。 「わたしだってけがはしたくないよ。いたいのはいや。でも、サッカーはしたい。おとうさん、おねがい!」 小さな手を合わせ、娘は頭を下げた。後藤は軽くため息をつく。結局のところ、妻子の願いの前で、彼は首を縦にしか動かせないのだった。 「りぃちゃん。さっきのお母さんとの約束、ちゃんと守れる?」 「まもれる!」 返事は良かったが、実行に移すのは難しいだろうと自身の経験から後藤は思った。ひとたびボールを蹴りはじめれば、親の言いつけは頭から吹き飛んでしまう。それがサッカーというものだ。 「……もし、誰かが怪我をしたり、物が壊れたりしたら、すぐに周りの大人に言うこと。それが、お父さんとの約束だ。きちんと守れるなら、サッカーをしてもいい」 「ほんとう? いいの?」 後藤が頷くと、娘が歓声とともに両手を上げた。踊るように近づいてきた小さな体を、有里が抱き止める。 「良かったわね、りぃちゃん」 「おじいちゃんにもおしえないと。ぜったい、よろこんでくれるよね」 二人の楽しげな笑い声に、後藤の表情は緩む。今夜は娘を寝かしつけるのに、時間がかかりそうだった。 「さっき、サッカーさせるのは嫌だとは言ってたけど、駄目だとは言わなかったわね」 両親の熱演による「シンデレラ」と「白雪姫」と「ヘンゼルとグレーテル」の読み聞かせに満足して、ようやく眠りに就いた娘の髪を撫でながら、有里が呟いた。 「……たとえ娘が相手でも、サッカーをやりたがっている子に、そんなことは言えないよ」 ベッドランプの光量を落としながら、後藤は答える。彼は長いあいだ、サッカーの魅力を伝える仕事に携わってきた。また、世の中には、ボールを蹴りたくても叶わない人間が大勢いることも知っている。娘に怪我をして欲しくないという極めて個人的な理由で、サッカーを楽しむ機会を取り上げることはできなかった。 「そういう押しの弱いところ、昔から変わってないんだから。そんなだから、この子が甘えちゃうのね」 娘は年相応にわがままも言うし、駄々を捏ねることもあるが、相手は選んでいる。彼女の「いうことをきいてくれるおとなランキング」のトップに立っているのは父親で、次点は近所に住む祖父だ。 「まあ、一番甘えちゃってるのは、私なんだけど」 娘を撫でていた手を夫に伸ばし、有里は言った。細い指が、後藤に触れる。 「ETUで働いて、結婚して、子ども産んで、育児と仕事を両立させて。私のやりたいことが全部できるのは、恒生さんのおかげよ。本当に、感謝してます」 「何言ってんだよ。それは全部、有里ちゃんが一生懸命がんばったからじゃないか」 有里の指が、後藤のパジャマの袖を引く。彼女ひとりでは、結婚と出産は不可能だ。彼女の伴侶となった結果、後藤の人生は変わった。大きく、それも良い方向に。 「私ががんばれる環境を作ってくれてるのは誰?」 有里の頭に寿退社という文字はなかったから、夫婦で家事を分担するのは当然のことだった。独身時代から自炊をしていた後藤が台所に立つ機会は多く、普段の食事だけではなく、娘のおやつや誕生日ケーキを手作りしたこともある。後藤が妻と娘の胃袋をつかんでいるという噂を聞きつけて、友人が訪ねてきたこともあった。 「サッカー関係者はイクメンが多いから、自分のしてることが当たり前だと思ってるかもしれないけど、あなたみたいに家事と育児に協力的で、きちんとやってくれる旦那さんって、世間じゃ少ないんだよ?」 きちんとという言葉を有里は強調した。家事や育児への意欲はあっても技術が追いつかず、逆に妻の負担を増やしている夫は珍しくはないのである。家族に手料理を振る舞おうと張り切った結果、包丁で手を切って病院に行く羽目になった男性を後藤は知っていた。 「特別なことをとしているつもりはないけど。有里ちゃんの役に立てて、この子に不自由をさせてないなら、俺は満足だよ」 縁の下の力持ち。それが後藤の気質なのだろう。だからこそ「働く女性」として注目を集める有里を支え、家庭を守るのには向いているのかもしれない。 「こんな素敵な旦那様と可愛い子どもに恵まれて、私、すごく幸せ」 細い腕で、娘ごと後藤を抱きしめながら、妻が笑った。 |