「わたし、スクールにはいってサッカーしたい!」 久しぶりに親子三人が顔を揃えた達海家の食卓に、娘の一言が爆弾を落とした。 「ダメ。ママは反対」 「えー、なんで?」 妻と娘の顔を見比べながら、達海はカレーライスを口に運んだ。誕生日を間近に控えた娘に、欲しいものを尋ねたのは彼である。品物ではなく生き物をねだられる可能性は頭に入っていたが、習い事の許可を求められた上に、妻が反対するとは思わなかった。 「ETUのキッズクラスだったら、送り迎えの心配は要らないだろ。何なら、おやっさんにでも頼めば……」 有里の妊娠と出産をきっかけに、ETUのクラブハウスには託児所が設けられた。職権乱用という批判の声もあったが、選手やスタッフからは好評で、他クラブのスタッフが視察に来たこともあるらしい。フットボールクラブにおける女性スタッフの数は、達海がプロデビューした当時とは比べ物にならないほどに増えており、仕事のあいだに子どもを預けられる場所が求められていた。 「そういうことじゃないのよ。りぃちゃん、サッカーするってことは、選手になりたいのよね?」 「うん!」 名前の「里」という字から周りに「りぃ」と呼ばれている小さな娘は、大きく首を振った。 「危ないからダメ。ママはりぃちゃんに、怪我して欲しくないもの。誕生日のプレゼントは、他のものにしましょう」 「んじゃ、今度サッカーボール買いにいくか。ボールさえあれば、一人でも練習できるもんな」 冷たい視線が達海の横顔に突き刺さった。二人を知る多くの人々が予想したように、達海家の主導権を握っているのは妻の方である。 「パパ。私がなんで反対してるのか、分かってる?」 達海はスプーンを置いて頷いた。父親としての役割を求めるとき、妻は彼を「パパ」と呼ぶ。 「分かってるって。でも、危ないからって、何でもかんでも禁止しちまったら、可能性が潰れちまうだろ。将来、こいつは日本代表になるかもしんないのにさ」 「ひいらぎジャパン! わたしがせんしゅで、パパはかんとく!」 娘が体を乗り出した拍子に、テーブルが揺れた。目を輝かせる彼女とは対照的に、妻の表情が険しさを増す。 「大きな怪我は、病院に行かなきゃ治せないのよ。予防接種が嫌で泣いてたりぃちゃんが、痛み止めの注射をガマンできる?」 「なんで、いたみどめなのに、ちゅうしゃするの?」 娘が口を尖らせた。思わず達海も顔をしかめる。父と娘は揃って注射が嫌いだった。妻も好きではないだろう。逆に、注射が好きな親子というものがいるのならば、その顔を見てみたいものである。 「痛いのは嫌でしょう。ママは、りぃちゃんやパパが痛い思いをするのは嫌なの」 スプーンを手に取った有里の顔に、一瞬だけ痛みをこらえるような表情が浮かぶ。だが幼い娘は、その意味を知らないまま言い返した。 「だったら、けがしないでサッカーする!」 「そんなこと、できるわけがないでしょう!」 大声に驚いたのは、娘と達海だけではなかった。有里の瞳が、驚きと戸惑いに揺れている。湧き上がった苦いものを噛みしめるように、彼女は言葉を続けた。 「誰だって怪我は嫌よ。でもね、サッカーにケガはつきものなの。どんなにすごい、上手な選手だって、ケガは避けられない……」 うつむいた妻とは逆に、達海は天井を仰ぐ。彼女の態度は、間違いなく自分が原因だ。フットボールとともに生きてきた人生に後悔はないが、その行いによって悲しみ、涙をこぼした人は確実に存在している。 「メシ食い終わったら、ふたりでコンビニ行こう。新作スイーツが出たって、若い奴らが話してたんだ」 ひとまずは、悪い流れを切る。達海に声を掛けられて、娘は小さなスプーンを動かしはじめた。 「ねえ、パパ。サッカーは、けがする?」 「ああ、する」 娘と手をつないで歩きながら、達海は頷いた。 「パパもママみたいに、サッカーはダメっていう?」 母譲りの大きな瞳が、達海を見上げていた。癖のある髪質を父から受け継いだ娘が、サッカーセンスをも受け継いでいるかどうかはまだ分からない。 「そりゃ俺だって、お前が怪我するのは嫌だよ。でもな」 達海は視線の高さを娘に合わせ、歩道の端にしゃがみこんだ。 「お前はサッカーしたいんだろう?」 娘は勢いよく頷いた。地面に倒れ込みそうになった体を達海は両手で抱きとめる。 「俺は嬉しいよ。俺が好きな事に、お前が興味持ってくれてさ。だから、ダメだとは言わねえよ」 「きょうみってなに?」 「サッカーやってみたいって気持ちのことだよ」 娘の関心は、小さなことで嫌悪や無関心に変わるかもしれない。だが達海はフットボールに携わる者として、彼女にはその気持ちを持ち続けていて欲しかった。 「じゃあ、わたし、サッカーしてもいいの?」 「危ない事はしないって約束できるならな」 「できる!」 腕の中で、娘が跳ねた。幼い子どもが活きのいい魚に例えられる理由が分かったような気がする。幸い、娘は名前を呼んで唇の前に人差し指を立てれば大人しくなったので、達海は大声で騒ぐ子どもの手を引いて走り去らずに済んだ。 「パパがいっしょにおねがいしてくれたら、サッカーしてもいいよって、ママいってくれるかな?」 時間をかけて立ち上がり、達海は首を横に振った。 「それだけじゃ無理だな。どうして、パパがお前を抱っこして歩けないか、知ってるか?」 「あしがわるいから?」 周りの大人たちに言い聞かせられているおかげか、娘は父の事情を驚くほど素直に聞きいれており、疲れていても抱っこをせがむことはない。サッカーに関しても聞き分けが良ければと有里は思っているだろうが、小さな子どもにそこまで求めるのは無理な話だ。 「そうだ。サッカーをして、怪我をした。……後遺症って言っても分からねえか。怪我は治ったけど、足は悪いままだから、俺はお前を抱っこできねえし、ボールも蹴れねえ」 小さな掌に力をこめて、娘は達海の手を握った。可愛らしい顔が、痛ましげに、そして悲しげに歪んでいる。 「いたかった?」 「もちろん」 「ちゅうしゃは?」 「した。手術もな」 怪我、注射、そして手術。父が並べる言葉が怖いのか、娘の手に力がこもった。 「ママはお前に、俺みたいな思いをして欲しくねえだけだよ。意地悪でサッカーに反対しているわけじゃない」 達海の怪我は、誰でもない彼自身のものだ。だが、それを有里の傷にしたのは、間違いなく達海である。妻を痛めつける趣味はないが、夫婦として生きることを選んだ以上、それは触れずには済ませられないものだった。 「パパは、ボールけったらだめなの?」 「そうだな。下手したら、歩けなくなっちまうかもな」 「でも、パパはサッカーのかんとくだよね。おいしゃさんもママも、かんとくはだめって、いってないよね。だったら、わたしもかんとくになる」 娘の大きな瞳が輝いている。その色は、選手としての道を断たれ、指導者として生きることを決めた遠い日を、達海に思い出させた。 「面白い仕事だけどよ、監督になるのは、選手として、思う存分楽しんで、走りきってからでも遅くはないぞ。ママのことは、パパに任せとけ」 「ほんとう?」 期待の声とともに、娘が弾む。その手を握り返して、達海は笑った。 「……そうして、鬼が島には屋根つきの立派なスタジアムができあがりました。サッカーと物作りの楽しさに目覚めた鬼たちは人を襲うのをやめ、桃太郎は皆と毎日サッカーをして、楽しく暮らしたのでした。めでたし、めでたし……」 娘が眠りにつくのを待っていたかのようなタイミングで、妻が寝室に入ってきた。風呂上がりの体から、花のような匂いが漂っている。 「あんなこと、言うはずじゃなかったのに」 娘の寝顔を見下ろしながら、有里は深い後悔と自己嫌悪の呟きを落とした。 「いつかこの子が、サッカーをやりたいって言い出すのは分かってた。心の準備はしてたつもりだったのに」 ため息をついた妻を、達海はベッドに促した。枕元で話しこんでいては、娘が目を覚ましてしまう。 「まあ、世の中、思い通りに動くことなんて少ないからな。ガキが相手じゃなおさらだ」 達海の言葉を頭では理解しているが、納得はしていないのだろう。有里は布団から右手を出し、顔を覆った。 「ときどき、下部組織の子が、病院に連れて行かなくちゃいけないような怪我をするの。骨折して、入院した子もいる。私はそれを知ってるのに、よその家の子にサッカーを勧める仕事をしてる。自分の子には、そんな目に遭って欲しくないのに」 「自分の子なんだから、よその子とは違って当たり前じゃんか。俺だって、もし自分のチームにあいつがいたら、たぶん贔屓すると思う」 有里が頭を起こし、丸い目を達海に向けた。常にチームの勝利を優先してきた男の言葉が意外だったらしい。 「別に、それでいいんじゃねえの。親なんだからさ」 妻の体を引き寄せる。結婚してからというもの、達海は有里との年齢差を実感することが増えた。彼女は彼より若く、その分、人生経験も浅いのである。 「だから、フットボールっていう親の仕事を理解して、興味を持つようになった娘の成長を喜んでやらねえか? 心配するだけじゃなくてさ」 「……うん」 ようやく頷いた妻の頭を、達海は優しく撫でる。唇を近づければ、闇の中で有里が笑う気配がした。 「おはよう。ママ、ないてない?」 寝癖をつけてリビングに駆けこんできた娘の問いに、達海と有里は顔を見合わせた。 「よかった。ないてない」 ホットケーキを焼く母の顔を確かめ、娘は満足そうに頷いた。冷蔵庫に近づく姿に、達海は思わず疑問の声をかける。 「お前、なんでママが泣いてるって思ったんだ?」 「ないてたから」 時に思いもよらぬ発想を示す娘も、知能と言語能力は年相応だ。意思の疎通に、根気強い説明が必要になることも珍しくはない。 「ママがないてたの。なかないでっていったんだけど、ママのなみだはとまらなくて、パパがきたの」 「すげえな。俺、ヒーローみてえ」 「パパがママをぎゅってして、キスしたら、ママがわらったの。あっ、そっか。パパがいるから、ママないてないんだ!」 娘の頭越しに、達海は妻と視線を交わしあう。気まずそうな表情は、身に覚えがあると言っているようなものだった。 「りいちゃん、それは……」 「予知夢ってやつだな」 炭酸飲料の缶と牛乳パックを冷蔵庫から取り出し、達海は断言した。 「なにそれ?」 「人間はな、これから先に実際に起きることを、夢で見ることがあるんだ。例えば……」 達海はホットケーキを皿に移していた妻に近づき、頬に口づけた。不意を突かれた有里の体が固まり、フライ返しが床に落ちた。両親のラブシーンに、娘は目を丸くしている。 「こんな風にな」 二度目のキスのあと、達海は勝ち誇ったように笑った。 |