昨晩から静かに降り積もった雪は、見慣れた町を白く染め上げた。 「うわっ、すごい!」 冷えた空気が入りこんでくるのも構わず窓を開け、有里は声を張り上げた。その目の前を花びらのように白が舞う。永田家とその近辺を覆う雪が止む気配は未だになかった。 「雪にはしゃいでいられるのは、ガキのうちだけだ」 朝食の席で、父が言った。テレビ画面上部のテロップには、交通機関の運行状況が表示されている。ダイヤの大幅な乱れが大勢の人々に影響を与えることは、有里にも想像ができたが、行動範囲の限られた子どもにとって、それは漠然としたものだった。 「練習場、大丈夫かな」 有里が案じたのは、シーズン中、毎日のように通っていた地元のフットボールクラブだった。始動前のトップチームとは違い、下部組織の練習は正月明けから行われている。だが永田家の庭を見れば、ETUのグラウンドが雪に埋もれていることは想像がつく。おそらく生徒たちの家には、コーチから本日の練習について、連絡が回りはじめていることだろう。 「まあ、確かに放ってはおけねえ。後で様子を見に行くか」 「もしかして、雪かきする?」 「必要ならな」 雪国では日常的に行われることが、積雪量の少ない東京では一大イベントとなる。声を弾ませる有里を眺め、両親は顔を見合わせて微笑んだ。 「何だ、もう始まってたのか」 ETUのグラウンドでは、既に下部組織のコーチたちが雪かきを始めていた。永田親子に気づいた背の高い若者が近づいてくる。 「永田さん、手伝いに来てくださったんですね。有里ちゃんも」 後藤恒生はトップチームのDFで、居酒屋「東東京」の常連でもある。大人にも子どもにも優しく、ファンからの人気も高い彼は、有里にとっては仲の良い選手の一人だった。 「笠野さんから連絡があったんですか?」 顔の広いETUのGMは、グラウンドの端で顔見知りらしい若い男と何やら話しこんでいた。笠野に向かって軽く右手を上げながら、有里の父親は後藤に答える。 「呼ばれたわけじゃないが、雪かきの人手は多い方がいいと思ってな。早いところ片づけちまおう」 「有里ちゃん。足元、気をつけてな」 「後藤さんこそ、シーズン前なんだからケガしないようにね」 後藤への物言いが小生意気に思えたのか、ニット帽の上から父が拳を置いた。 ETUに所属している人間と、所属していない人間とが力を合わせた結果、一時間程度で雪はあらかたグラウンドの隅に積み重ねられた。もちろん有里は手伝うつもりだったが、小さい女の子に力仕事はさせられないとばかりに、大人たちが張り切ったおかげで手持無沙汰である。 「天気予報も当てにならねえな。昼までには止むんじゃなかったのか」 呟きに合わせて、有里は白い空を見上げた。雪は音もなく降り続けている。再びグラウンドが埋もれては、雪かきの成果が水の泡だ。 「何だ、ほとんど終わってるじゃんか。もうちょっと早く来れば良かったな」 振り返った有里の視界で、雪玉よりも大きな白い球体が弾んだ。パーカーのフードをかぶった達海が、サッカーボールを巧みに操っている。スコップで雪を掘っていた後藤が、試合中を思わせる大声で怒鳴った。 「なんでもっと厚着して来なかったんだ、そんな恰好じゃ風邪ひくぞ!」 「いいんだよ、これから動くんだから」 達海の足から離れたボールは、吸いこまれるように雪に落ちた。芝や土の上とは勝手が違うらしい。屈んでボールを拾うチームのエースに、有里は歩み寄った。 「達海も来たんだ。コタツで丸くなってると思ったのに」 「何だよそれ、猫じゃねえんだから」 雪が降っていてもボールを蹴ろうとする姿は、自由気ままな猫よりも、童謡に登場する犬に近いのかもしれない。足元の雪を眺めながら、達海は腕を組んだ。 「雪かきはありがたいけどさ、試合中に雪が降ることだってあるんだし、雪の中でどうやって戦うか、そういうことも考えたほうがいいと思うんだよな」 「でも、こんなに雪が積もってたら、すぐにボールが止まってサッカーできないよ。スクールも今日はお休みなんじゃない?」 「でも、雪国でサッカーしちゃいけないなんてルールはないだろ」 もっとココを使えばいいんだよ。こめかみを指で示しながら、達海はリフティングを再開した。ボールさばきが普段に比べて不安定に見えるのは、雪で足元が悪いせいだろう。ボールに視線を置いたまま、達海が声を発した。 「ドリブルで思うようにボールが運べないなら、他の方法を考えればいい」 「パスとか?」 「うん、それもありだな」 達海が踵で蹴り上げたボールは放物線を描き、猫車に雪を積んでいた後藤の肩に跳ね返った。口を開けて笑う達海の顔が、有里には親に相手をしてもらいたくていたずらをする子どものように見える。後藤は勢いよく振り返り、再びチームメイトを怒鳴りつけた。 「達海! まだ雪かきが終わってないんだ。ボール蹴るなら後で付き合ってやるから、雪だるまでも作ってろ」 「よし、約束したかんな。寒いからやっぱりやらないなんて、後で言うなよ」 「……達海って成人してたよね?」 言いつけに従って雪に手を伸ばした達海に、有里は問いかけずにはいられなかった。 後藤は達海を単に子ども扱いしたわけではなかった。道具を用いなくても、雪玉は手で転がせば次第に大きくなっていく。雪を移動させるという点で、雪かきと雪だるま作りは同じなのだ。サッカーボールよりも大きく、そして重くなった雪玉を、有里と達海は二人がかりで押した。 「よし。このままあっちに転がすぞ」 クラブハウスの玄関を達海は顎で示した。鼻と耳の先は赤いが、寒さをものともしないエネルギーが彼の両眼には満ちている。達海はサッカーはもちろん、遊びにも本気を出す男だった。 「確かに、雪だるまでも作ってろって言ったのは俺だけど、まさかこんなにデカいのを作るとは思わなかったよ」 達海に呼びつけられた後藤が肩をすくめた。大人が二人がかりで頭部を持ち上げただけのことはあり、雪だるまはクラブハウスの玄関脇で圧倒的な存在感を示している。 だが、達海は満足してはいなかった。地面の雪を拾い上げて形を整え、雪だるまの頭部に配置する。雪の中から枯れ葉や枝を掘り返して集めてきた有里が見た雪だるまは、星形の皿を頭に乗せていた。 「わあ、達海、器用だね」 「おだてても何にも出ねえぞ?」 達海が落ち葉を張り付けると、白いパッカ君ができあがった。本人に比べるとふてぶてしさが消え、どことなく可愛らしく見える。 「おお、立派なのができたな」 グラウンドから引きあげてきた笠野が力作を称えた。肩に担いだスコップを見るに、雪かきはひと区切りついたらしい。 「お疲れさまでした!」 「おお、有里。今日はありがとうな」 雪かきの参加者に飲み物を用意するのだと言って、笠野はクラブハウスに戻っていった。下部組織のコーチとスタッフが後ろに続く。近所の人たちと談笑する父の様子をうかがいながら、有里はまだ家に帰る気になれずに佇んでいた。 「サッカーやるのに、天気なんか関係ないんだけどさ」 いつの間にか雪が止んだ空を見上げながら、達海は重大な秘密を打ち明けるかのように口を開いた。 「こんなに積もってるとダメだよな。つい他のことして遊んじまう」 呆れかえる後藤の隣で、有里は声を立てて笑った。ETUのクラブハウスを訪れる人たちは、まさか玄関の雪だるまがトップチームの選手の手によるものだとは思いもしないだろう。落ち葉でできたパッカ君の両目は、練習場に向けられている。揃いのジャージを着たスクールの生徒たちが、白い息を吐きながら現れた。 二点の差をつけられていた試合を、達海のゴールが振り出しに戻した。 「行け、達海!」 「このままハットトリック決めちまえ!」 ETUのゴール裏はみぞれ混じりの雪をものともせず、逆転勝利への期待と熱気に満ちている。有里は声援を送りながら、ボールの行方と選手の動きを見守った。 シーズン前に交わした言葉を思い出す。その時、既に達海は、雪の日にボールを蹴る方法を思案していた。負けず嫌いで、頭の中がフットボールでいっぱいの彼が、雪の日の戦い方、試合の勝ち方を考えていないはずがない。雪に体を打たれながら、達海はチームメイトに指示を出し、ピッチを駆け回った。 天宮杯の敗退は、ETUのシーズン終了を意味する。すでに契約終了を告げられている選手にとっては、それが赤と黒のユニフォームを着て戦う最後の試合となるのだ。体を張って守備をする後藤のプレーは、シーズン中と何ら変わらない。機会があれば、攻撃に参加する姿も。 「決めて!」 松本が上げたクロスを後藤の頭が捕らえた。ボールはゴールポストに弾かれる。だが有里の落胆は、一瞬にして期待に変わった。こぼれ球に詰める七番。GKの逆を突いて、ゴールに蹴りこまれたボール。雪の舞うピッチにホイッスルが鳴り渡る。 浅草の一画を、大歓声が切り裂いた。 |