大事にされてるのは分かるけど


「うん。いい出来だと思うよ」
 後藤の言葉に、有里は口元が綻ぶのを抑えられないまま頷いた。真剣な表情でリーグ開幕告知ポスターの見本に目を通している上司は、間違いなく人を褒めて伸ばすタイプである。
「それにしても、達海がフード被ってるところなんて、よく撮れたね。元の画像、いま見られる?」
「もちろん!」
 目的の画像ファイルを開いた有里の笑みは、後藤がマウスを操作するにつれてこわばった。監督に向かってシャッターを切った雪の舞う夜。ファイルのプロパティには、撮影日時だけではなく、使用したカメラの機種やシャッタースピードまでもが表示されていた。
「有里ちゃん」
 静かな呼びかけに、怒りや非難は欠片も含まれてはいなかった。呆れと困惑を感じながら、有里は頭のなかのスケジュール帳を確認する。東京に雪が降ったその日、彼女は後藤の指示で早退していたのだった。
「だって、あの日は帰れって言われたけど、戻って来るなとは言われなかったもの」
 稚拙すぎる言い訳とともに、有里の視線は床に落ちた。後藤は沈黙を保ったままパソコンに向かっている。いっそのこと父親やドクターのように叱りつけてくれた方が気楽だが、彼は滅多に声を荒げる人間ではなかった。
「サイト見て、何かおかしいとは思ってたんだ。昔の試合のことが書いてあったから」
 現在のETUに、達海の現役時代を知る者はほとんど残っていない。ユニフォームを着ていた彼が幾度となくもたらした劇的な勝利を、新監督への期待に結びつける記事が書けるのは、達海猛にまつわる輝くような思い出と、冷たく苦い記憶を併せ持つ有里をおいて他になかった。
「……どうすればいいんだ」
 深いため息に、有里は思わず顔を上げた。後藤は彼女の席に腰を下ろしたまま、困った顔で両腕を組んでいる。
「確かに、俺は家に帰るようにとしか言わなかったし、有里ちゃんがクラブハウスに戻ってなかったら、この写真は撮れなかった。……だから俺には、有里ちゃんを褒めていいのか、叱ればいいのか分からないよ」
 言葉を探す後藤の眉間に、深い皺が刻まれた。眼前の上司の険しい表情が、有里の胸を掻きむしる。自身の行動に後悔はなかったが、それが後藤を悩ませることになるなど、まるで考えてはいなかった。
「あの日、有里ちゃんを帰した理由、ちゃんと分かってるよな?」
 有里は首を振った。強い口調で彼女に帰宅を命じたドクターに後藤が同意したのは、過労で倒れた有里の体調を気遣ってのことである。決して、仕事を取り上げようとしたわけではないことは理解しているつもりだったが、感情はたやすく割り切れるものではない。彼女の足に絡みつく不満を吹き飛ばしたのは、降りはじめた雪に重なる遠い日の達海の姿だった。
「もしも、クラブハウスに引き返す途中で有里ちゃんの具合が悪くなって、また倒れでもしていたら。今になってこんなことを考えるぐらいなら、最初からタクシーを呼べば良かったよ」
「……ごめんなさい、後藤さん」
 後悔に満ちた声と表情が、針となって有里の心を突き刺した。後藤には優しく微笑んで、仕事の労をねぎらって欲しいのに、周囲を顧みなかった有里の行動が、逆に彼を悩ませている。押し寄せる罪の意識が、唇に勢いをつけた。
「休むことも仕事のうちだって、私、分かってなかった。どれだけいい仕事したって、皆に心配かけたら台無しだよね」
 俯いた有里の頭を、後藤が軽く撫でる。一〇年以上昔から、彼の手つきと温もりは変わらない。有里が後藤に諭され、窘められるようになったのは、彼女がETUで働き始めてからだった。
「これからは、忙しくてもきちんと食事するって、約束できる?」
 勢いよく頷きながら、有里は約束の証とばかりに右手の小指を差しだした。ときおり彼女が見せる子どもじみた振る舞いを、後藤はいつでも受け入れてくれる。かすかに笑いをこらえながら、彼は腕時計を示した。
「それじゃ、今からラーメンでも食いに行こうか」
 食事のテーブルをともにすれば、有里の食生活に目を配れると後藤は考えたのだろう。彼の提案に賛同するかのように、彼女の腹が小さく音を立てた。
「餃子も欲しいけど、多いかな。有里ちゃん、半分こしないか?」
「それはいいけど、後藤さん、食べることで達海さんにとやかく言えないわね」
 返事の代わりに、後藤は有里の前髪をかき回した。視線が重なり、どちらともなく笑みがこぼれる。
 後藤が常に有里を気にかけ、心を配っているように、有里にもまた、彼を慕い、頼っているという自覚がある。上司と部下という枠をたやすく越える二人の長く深いつながりのなかには、おそらく甘えも含まれているのだろう。
 見えるものと見えないもの、形あるものと、それを持たないもの。後藤が有里に与えてくれるものは、全てが温もりに満ちている。その優しさを足を止める言い訳にせず、前に進む力にできれば、互いのためにならないからと切り捨てる必要はないのだった。
「そろそろ行こう。店が混んじまう」
 再び腕時計を示しながら、後藤が立ち上がる。彼の指先が触れた額に、有里は音もなく手を伸ばした。


 大事にされていることと、甘やかされていることは違いますが、
有里ちゃんはたまに、子どものときのノリで、後藤さんに思いきり甘えればいいと思うのです。

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