年では大勝、恋は完敗


 高い語学力に加えて、相手との強い信頼関係が求められるのが、通訳という仕事である。
 永田有里はフットボールはもちろん、ETUのクラブ事情にも通じており、何よりも後藤と気心が知れている。イングランドでは、クラブ間の交渉だけではなく、達海猛の捜索や旅先での食事、買い物に至るまで、彼女のサポートを受けたものである。
 ETUに達海体制がスタートして、既に半年以上が経つ。イングランドでの日々は既に懐かしいものとなりつつあるが、再び日本で、それもクラブハウスで、有里に通訳を頼むことになることなど、後藤は今朝、出勤するまで想像もしていなかった。
 近くで用事を済ませたついでに顔を見に来た。そんな理由で足を延ばすには、日本と英国は離れすぎている。 来訪の目的を明かそうとしない達海猛の代理人を見つめる有里の眼差しは険しく、彼女が暑いなかスリーピースのスーツを着こんだ英国人を歓迎していないことは、英語が得意ではない後藤にも理解できた。男の鳩尾に肘が叩きこまれ、重く低く言葉が投げかけられる。
「有里ちゃん」
 床に正座するリチャードの引きつった表情が哀れに思えて、後藤は上司としての行動を起こした。肩に手を置いて宥めると、有里は不服そうに引き下がる。若い女性に気安く触れるなど、場合によってはセクハラ扱いされそうだが、フットボールクラブというスキンシップの多い職場の空気と長年の付き合いのおかげか、文句を言われたことはない。後藤だけが知る、有里を落ち着かせるスイッチがあるに違いないと達海は笑っていたものだ。
 その達海は、次の試合に備えて作戦を練っており、後藤と有里、そして広報部の佐藤が固唾を呑んで見守るなか、自身の代理人に門前払いを食らわせた。現在のところ、他クラブのオファーに興味はないという姿勢に後藤は安堵し、有里は明らかに機嫌が良くなった。落ちこむ英国人に茶を勧め、先ほどとは打って変わって笑みを浮かべて話しかけている。
 多くの日本人がそうであるように、後藤は英語のヒアリングが苦手だ。そこに各地の訛りが加われば、何を言っているのかまるで分からなくなる。それらに比べれば有里の英語は聞き取り易く、単語を拾うことはできた。不安を覚えながら問いかける。
「ひょっとして、リチャードにやめちゃえとか言ってない?」
「うん、言ってる」
 達海が日本で仕事をしているのであれば、外国人の代理人など必要ない。英国から日本への移動だけでも、時間と労力がかかるのだから、いっそのこと契約を解除して楽になればどうだ。有里の囁きを、しかしリチャードは振り払った。
 後藤が有里を止めなかったのは、胡散臭く厄介な代理人を遠ざけてしまいたいという彼女の思惑に乗ったわけではなく、英語で交わされる会話に口を挟むタイミング を計りかねただけのことである。感情的にふるまうこともあるが、有里の行動はETUを思ってのものだ。制止に回ることの多い後藤だが、迷いもためらいもない彼女の姿勢は、時に眩しく見える。
 そう遠くはない未来に、リチャードは新たなオファーを携えて来日するだろうし、達海の利益につながるのであれば、ETUに後足で砂をかけることも辞さないだろう。契約相手との信頼を武器にフットボールの世界を渡り歩く男には、組織に属していないと言う強みがある。彼が世界一の監督に押し上げようとしている達海猛は、フットボールとともに生きていれば他に何も求めない男だ。現役時代に身を置いていたクラブでGMという地位を与えられ、年齢を重ねていくにつれて制約が増えていった後藤とは対照的である。
 いつの間にか言えなくなったこと、できなくなってしまったことを有里に託すつもりはないし、クラブへの忠誠心やフットボールへの愛情が彼女に比べて劣っているとは思わないが、達海やリチャードのような人間と渡り合うには、有里のような逞しさが必要なのかもしれない。それは肉体や精神の強さとは異なる、後藤が持ち合わせてはいないものだった。
 四〇を前にした後藤に、有里を見習うことは難しいが、出会った時からそうしてきたように、彼女を見守ることはできる。周囲と折り合いをつけ、自身を守るために人が本音と建前を使い分ける世の中にあって、ETUと真っ直ぐに向き合おうとする有里が立ち止まり、躓くことも少なくないだろう。彼女が必要な時に手を差し伸べられる距離を、後藤は保ち続けていた。


 ETUへの思い入れや、それを隠しもしない有里ちゃんの言動を、
後藤さんは認めつつも真似できないと思っているような気がします。

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