「たつみさん見つけました。でも戻れません。あとで連絡します」 新着メールが届いていないことを確かめ、後藤は携帯電話をポケットに戻した。短すぎるほどに用件をまとめたメールを送ってきたきり、有里からの連絡はない。監督と広報担当者が揃ってブースを空けているクラブは、ETUだけだった。 日本に戻ってからというもの、達海の言動は少なからずETUやマスコミの人間を戸惑わせ、驚かせ、振り回している。予定されていた取材に穴を開けられた有里が、達海への怒りを爆発させたのは、つい先日のことだった。今朝も、面倒だからクラブハウスで待っているなどと言い出した彼をプレスカンファレンスの会場に連れて行くのに手を焼いたものである。 現在のところ、有里は達海の世話をほぼ一人で請け負っているが、彼女の存在なくしては達海がETUの監督に就任することはなかった。イングランドで達海の手がかりが得られなくても決して諦めることなく、彼女が後藤と行動を共にしてくれたからこそ、一枚のポストカードだけが頼りの人捜しが成功を収めたのである。クラブ間の交渉の通訳という大役を果たした彼女は、若さという可能性と、仕事への意欲に満ちあふれていた。 道に迷うなどのアクシデントもあったものの、有里は行動の選択を全て後藤に委ね、本人はそのサポートに徹した。彼女の願いは、ETUが強くなることと、そのために持てる力を尽くすことであり、自身が注目されることではない。だから後藤は、達海監督誕生の経緯を知りたがったマスコミ関係者に有里の功績を触れまわるようなことはせず、無謀とも言える挑戦への助力という表現に留めておいた。万が一、語学にも長けた勤勉な広報が他のクラブに目を付けられ、引き抜きにでも遭えば、ETUの広報部は立ち行かなくなってしまう。有里に移籍の意思はないとわかってはいるが、GMとして無用なリスクは避けたかった。 とはいえ、クラブのスタッフと毎日のように顔を合わせているETUの番記者たちは、有里が後藤に同行したことを突き止めている。クラブの財政事情にもよるが、プロフットボールクラブの人間が海外に赴くのは珍しいことではない。後藤の渡英はETUの動向と無縁ではなかったために、一部の新聞で報じられたが、連れて行ったスタッフの人数や性別を取りあげた記事はなかった。 「達海監督は……まだ戻られていないんですね」 「何度も足を運んでいただいているのに、申し訳ありません」 謝罪を繰り返す後藤に、男は首を振った。彼は大手スポーツ紙のサッカー担当記者であり、達海猛からコメントを取ることの難しさを、身をもって知っている。眼鏡のレンズ越しに、両眼が懐かしげに細められた。 「昔はよく、後藤さんに訳してもらってましたね。その節はお世話になりました」 達海猛は、サッカーをプレーで語る選手だったが、世間は彼の言葉を求めていた。だが、お世辞にも誉められたものではない彼のマスコミ対応は、関係者の頭痛を引き起こしたものである。ETUに選手として在籍していた当時、後藤は記者たちに請われるまま、チームメイトの、時には短く、時には抽象的な発言を補っていたのだった。達海本人に苦情を申し立てられたことは一度としてなかったから、後藤の「通訳」は間違ってはいなかったのだろう。 「……監督になっても、相変わらず手ごわそうだな、あの人は」 「まあ、会場にいないんじゃ、コメントも取れませんけどね。まだ監督さんと連絡がつかないなんて、どうなってるんですか?」 野太い声の主が、会話に割って入った。ヤニに染まった歯の隙間から酒臭い息が吐き出され、首に提げたプレスパスが揺れる。男の氏名の上に、所属する夕刊タブロイド紙の名前が記されていた。 「やはりプレスカンファレンスは特別ですね。来た甲斐がありましたよ。ところで、達海監督が壇上で何を言うのか、ご存知だったんですか?」 脂ぎった視線から表情を隠すように、後藤は顎に手を当てた。火のないところに煙を立て、火事だと騒ぎたてるような報道を得意とする男への対応を誤れば、大胆な発言の後に監督がプレスカンファレンスの会場から姿を消したという事実をもとに、ETUと達海のイメージを悪化させるような記事を作られかねない。達海の行動だけではなく、人格までも批判の槍玉に挙げた一〇年前の報道は、未だに後藤の記憶に残っていた。 「特に打ち合わせもしていませんでしたので、正直なところ、達海監督の言葉には驚きました。ですが、彼にはそれを現実のものにできる力があると信じています」 対戦相手への挑発と、強烈な宣戦布告を含んだスピーチは、会場を盛りあげるためのリップサービスなどでははなく、達海の本心だと後藤は思っている。強豪クラブをなぎ倒し、サッカー界を面白くする可能性。その一部を、達海に率いられたETUは東京ヴィクトリーとのプレシーズンマッチで示していた。 「まあ、実際に試合に出るのは、監督じゃなくて選手ですからねぇ」 選手という言葉を強調した男の目には、トラブルを期待する濁った光が宿っていた。ETUのキャンプで選手たちの乱闘騒ぎが起きた翌日に、彼が取材申請を行ったことを、後藤は広報部長から聞かされている。夕刊タブロイド紙の記者にとって、クラブの内紛や選手同士の諍いは、無視できるものではないのだろう。その口から吐き出された臭いに、ICレコーダーを構えていたスポーツ紙の記者がわずかに顔をしかめた。 「それにしても後藤さん。あんな形でETUを出て行った人に、よく監督を任せる気になりましたね。わざわざイングランドまで捜しに行ったんでしょう?」 「ええ、その通りです」 「会長の娘と二人きりで」 頷いた後藤の視界で、男の唇が醜く歪んだ。ゴシップと風俗情報に力を入れている夕刊タブロイド紙の記者らしい言葉が、立て続けに吐き出される。 「後藤さんには、現役の頃から浮いた噂無かったし、実はソッチ系なんじゃないかって話もあったんですけどねえ。若いお嬢さん捕まえた上に、GMの地位も安泰だなんて、羨ましいぐらいですよ。おまけにクラブの金で海外旅行でしょう?」 胃の奥が焼け爛れるような不快感に耐える一方で、後藤は有里が会場の外に出ていることに安堵していた。後藤の恋人かと達海に問われて腹を立てていた彼女が、ETUへの愛情と仕事への誇りを下種の勘繰りで汚されて、平静を保っていられるとは思えない。イングランドに滞在しているあいだも、彼女は広報部の業務が滞ることがないように、国際電話やメールを利用して、クラブハウスと密に連絡を取っていたのだった。 「大人しく後藤君に捕まってくれるような娘なら、親としては心配の種が減ってありがたいんですがね」 頭上から投げかけられた有里の父親の声には、わずかに苦いものが滲んでいた。赤ら顔の記者に声をかけて立たせる。居酒屋の店主という前歴を持つETUの会長は、酔いの回った人間の扱いに慣れていた。 「……あの人の言うことは、気にしないほうがいいですよ。お酒も入ってましたし」 軽食とドリンクが並んだテーブルに向かう二人の後姿を見送りながら、残された記者が労いの言葉をかけた。頷きながら、後藤は小さく息をつく。 かつて選手としてピッチを駆け、現在はGMに就いている後藤や、監督に就任した達海は、プロスポーツが過程よりも結果が重視される世界だということを、身をもって知っている。多くの選手やスタッフを間近で見てきた有里も、それは承知の上だろう。だがETUは、能力と仕事の成果に見合うものを、彼女に与えてはいなかった。 GMである後藤が腰を据えて取り組めば、スタッフの給料を上げることは難しくても、職場の環境を多少なりとも改善することはできるかもしれない。だが、有里がそれらを重視していないことを、彼は知っている。ETUの勝利という彼女の望みは、幼い頃から変わってはいないのだ。 今シーズンこそはと、後藤は思う。有里や多くのサポーターが求めてきた強いETUが、達海の下で作られようとしている。後藤の強引とも言える監督人事を受け容れてくれたETUのフロントや選手、監督を引き受けてくれた達海や、彼を送り出してくれたイーストハムの住人。彼らの思いに応えるためにも、後藤に労を惜しむ気はなかった。 静かな決意に応えるかのように、後藤の胸ポケットで携帯電話が震える。ようやく、有里は達海との合流を果たしたらしい。ETUの勝利は、彼女の豊かな表情に、更なる彩りを加えることになるだろう。膨らんだ柔らかい頬を思い浮かべながら、後藤はわずかな笑みとともに通話ボタンを押した。 |