恋人同士に見られた日


 ボールとともにぶつけた感情が、膨らんだときと同様に急速に萎んでいくと、苦みを帯びた後悔が針のように有里を突き刺した。
 練習場に残された後藤は、さぞかし困惑していることだろう。有里の態度は、達海猛を次期監督として迎え入れようとするETUの足並みが揃っていないことを示すことになったが、彼女の言葉の根元にあったのは、クラブを去った人間への不信感などではなく、かつて憧れた人間に忘れ去られていた悔しさであった。
 町を離れる前に交わした言葉もまた、有里の存在とともに達海の記憶の外に追いやられているのだろう。だが、彼の言っていることは十年前とまるで変わっていなかった。
 当時の有里には、大人のサッカー選手の考えなど推し量ることができなかったが、子どもだったからこそ分かることもあった。達海は相手の意表を突き、サポーターはおろか味方さえも驚かせるようなプレーを得意としたが、ピッチを離れれば、人を騙したり罠にかけるような悪辣さとは縁のない人間だった。昔も今も、目前の試合に勝利することしか考えていない人間が、クラブへの裏切りなど企てるはずがない。達海に見捨てられたという思いを有里に抱かせていたのは、好きな選手にいつまでも町のクラブにいてもらいたいという、砕かれた幼い願いだった。
 緩やかに転がってきたボールを、有里は足で止めた。建物の陰から、窺うような視線を感じる。ほどなくして、二人の少年が彼女の前に姿を現した。
「ニ、ニーハオ?」
「違うよ、それはチャイニーズだろ」
「オハヨゴザマス?」
 お辞儀のつもりなのか、頭を下げる小さな英国紳士たちに、有里は笑顔とともに挨拶を返した。
「ユリはタッツミーの友達?」
 達海が町の英雄であるというイーストハムの会長の言葉を裏付けるかのように、投げかけられる質問は、達海と彼の祖国に関するものばかりだった。なかでも、彼の母国語に対する興味は大きく、有里は乞われるままに達海の氏名と漢字が持つ意味をメモに書いたものである。二人の努力次第では、イングランドのスタジアムに日本語の横断幕が掲げられる日も遠くはないかもしれない。
「達海さんの友達は、私じゃなくて、後藤さん。彼は達海さんのことを探してたの」
「友達なのに?」
「だって達海さん、後藤さんに送った手紙に、住所書いてなかったんだもの。おかげでイングランド中を捜し回ったんだよ」
 後藤が達海を探していた目的を知れば、少年たちはどのような顔をするだろう。チームメイトとサポーターの叫びを聞きながら、決して歩みを止めなかった背中を、有里は覚えている。その時に味わった憤りと嘆きを、イングランドの小さな町に再現することになっても、任された仕事を投げ出すわけにはいかないのだ。子どもの泣き顔を思い浮かべて心が揺らぐようでは、後藤に同行した意味がない。
 一枚のエアメールだけを頼りに達海を見つけだそうとした、後藤の意思の強さを有里は知っている。その彼が、高額な違約金を前に引き下がるなど、ありえないことだ。周囲を説き伏せてイングランドに渡ったように、彼はETUのフロントに違約金の調達を、イーストハムの会長には減額を求めるだろう。そして結果の全てを、成功と喝采、あるいは失敗と罵声を一身に受けるのだ。だが、イーストハムとの交渉は、後藤だけが責任を負うものではない。彼の言葉と、そこに宿る思いを伝えるのは、通訳である有里の仕事なのだ。誠意と熱意で問題が解決できるほど、ビジネスの世界は生易しいものではないが、それらを欠いても成り立たないと有里は思う。
「ねえ」
 短い呼びかけを受けて、有里は瞬きした。晴れ渡るイングランドの空と、煉瓦造りの町並みを連想させるような瞳が、急に黙りこんだ彼女を映している。
「ゴトーサンは、ユリの恋人?」
「違うわよ。あの人は、私の上司」
 事実を語る声は、有里自身が驚くほどに落ち着いていた。その質問を受けるのが初めてではなかったからかもしれないし、子どもの言うことだったからなのかもしれない。そして彼女は、再び瞬きした。
 嫌ではないのだ。断じて事実ではないし、誤解を訂正するのは少しばかり煩わしいが、後藤と恋人同士に見られることを、有里は不快に思っていない。そのことに気づいたとき、彼女の頭は、音を立てんばかりの勢いで回転を始めた。熱を帯びた耳の奥で、太鼓にも似た音が響いている。
 練習場では達海ばかりを見ていたから、彼女という単語を聞いたときの後藤の表情を、有里は知らない。彼女のことを達海に思い出させようとした口調は穏やかだったが、彼は大人だ。動揺であれ何であれ、感情を隠すのはおそらく難しいことではないだろう。
 女心は難解だと言われるが、まったくもってそれは事実だ。問題と呼ぶまでもない些細なことについて、自分が望んでいることと後藤に求めていることが、有里にはまるで分からない。確かなのは、顔の色が戻るまでは、宿に戻るべきではないということだけだ。
 腕を組み、めまぐるしく表情を変える彼女を、少年たちが不思議そうに見ていた。


 一話の達海さんの台詞は、後藤さんと有里ちゃんの将来につながる伏線だったんですよ!(妄想)
 出会ったばかりのちびっこ有里ちゃんと選手の後藤さんならば、周りには
選手とサポーターや、親戚にしか見えなかったと思います。
 その彼と恋人同士に見られるということは、きっと有里ちゃんが素敵な大人になった証拠だと思うのです。

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