あなたに追いつく目標


 新しいオフィシャルスーツのモデル役。それが有里の第一印象だった。
 だが、後藤の体を包んでいるのは、全国にチェーン展開している紳士服専門店のセール品である。濃紺の上着は、鍛えられた体には何となく窮屈そうに見えた。
「変かな。俺、サラリーマンには見えない?」
「でも、カッコいいよ。似合ってる」
「そう言ってもらえると、何だか照れるな」
 肩をすくめる後藤の姿が、何となく新鮮に見えるのは、値札を切り取って間もないスーツのせいではなく、彼を取り巻く環境が変わったせいだろう。数年ぶりに後藤の所有物となったETUの名刺には、彼のポジションや背番号ではなく、所属部署が記されていた。
「それで、初仕事はどんな感じだったの?」
「あちこち挨拶に回って、空いた時間は受け取った書類に目を通してたよ。分かってたつもりだけど、俺はもう、ここのスタッフなんだよな」
 二月の空にボールが跳ね、選手の掛け声が響く。グラウンドで汗を流し、ピッチを駆けた日々が、現在の後藤に繋がっている。引退と同時にプロサッカーとの関わりが断たれる者も少なくはないのに、さしたる実績も残していない自分が、かつて選手として身を置いていたクラブで働けるのはありがたいことだと、彼は穏やかに話していた。
「そういえば有里ちゃん、この前言ってた模試、どうだった?」
「結果はまだだけど、英語はそこそこできたと思う」
「有里ちゃんは小さいころから、英語がんばってたもんな。でも、得意科目だけじゃなくて、苦手な科目も、しっかりやるんだよ。学生の本分は勉強なんだから」
 小学生時代の有里は、後藤を始めとするETUの大人たちに、教科書には載っていない多くのことを教わったものである。彼女の眼差しの色に気づいたのか、後藤は慌てて付け加えた。
「俺に期待しないでくれよ。学生時代、サッカーしかやってなかったんだから。今、本気で思ってるよ。もっと勉強しとけばよかったって」
 後藤の口調は明るかったが、言葉のあいだには後悔の粒が漂っていた。
「勉強って言っても、古文が分からないと仕事ができないとか、そういうことじゃないでしょう?」
 大きな手が、有里の前髪を軽くかき混ぜる。鏡の前に立つ、朝の限られた時間の貴重さを男性は理解していない。抗議の声とともに、有里は後藤の手首を捕まえた。
「学校の先生はそれが仕事だけどさ、何で大人って、子どもに向かって勉強しろって言うのかなぁ。将来の役に立つことなんて、少ししかないの知ってるクセに」
「その将来がどうなるのか、誰にも分からないからだよ」
 唇を尖らせたまま、有里は黙りこんだ。両親から学業について口を出されたことはほとんどないが、ETUの会長に就任してから、父は明らかに白髪と酒の量が増えた。娘に仕事の愚痴をこぼすような人ではないが、苦労の多い立場であることは、クラブの状況を見ていればわかる。古いアルバムを見せられても、父の学生時代は想像できないが、おそらくプロサッカーに携わることなど当時は考えてもいなかっただろう。
 自らの力で人生を切り拓き、予測不可能な未来に備えるために。
 そのために勉学を押し付けるから、反発が生まれるのだ。有里自身も、教師の態度に苛立ちを覚えたことがある。だが後藤の言葉は、タンポポの綿毛のように、柔らかく彼女の胸に落ちるのだった。
 後藤の優しさと勇敢さを、そして苦境にあっても挫けることのない粘り強さを、有里は幼いころから知っている。スパイクを脱いだ後も、自身が傷つくことを厭わずに、実力と結果が求められるプロサッカーの世界に身を置こうとしている人間に、幼稚な反抗を示す気は起きなかった。
 鮮やかな赤と黒の記憶は、時間の経過とともに薄れるようなものではない。大人が決して万能ではないことを有里は承知していたし、実際に頼りない姿を見たこともあるが、彼女のなかで、後藤は尊敬できる大人というポジションを確立している。彼が有里に向けるものは、すべてが優しく、温もりに満ちていた。
 後藤の手首を離し、有里は自問する。年齢を重ねることと大人になることは、おそらく意味が異なるのだろうが、たとえば成人という節目を迎えたとき、彼女は自身の成長を見守ってくれた人に胸を張れる生き方をしているだろうか。
 ボールを蹴るという選択肢を持たなかった有里に、後藤の辿った道を追いかけることはできない。だが二人はサッカーで、より正確に言えばETUというクラブによって結びついている。近い将来に人生の軌跡が重なったとしても、それは偶然などではないだろう。サッカーを仕事にするという、幼いころからの願いを叶えるために必要なものを、彼女は見出しつつあった。
 自由になった腕を組み、後藤は練習を見つめている。彼の隣に立つ未来に思いを馳せながら、有里は軽く爪先立ちをした。


 有里ちゃんは高校生のイメージで書きました。
 京都移籍後の後藤さんの経歴は明かされていませんが、
 現役引退後、スタッフとしてキャリアを積んだのだとすれば、
 ETUか京都のどちらか、あるいは両方ではないかと考えています。

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