そんな顔もするんだね


 オフの日に商店街を歩いていると、学校帰りの永田有里と出くわした。小走りで駆け寄ってきた彼女は、後藤が手にしていたビニール袋に目を止める。
「後藤さん、お買い物?」
「そうだよ。今夜はチームの奴らと焼肉やるんだ」
「いいなあ、楽しそう!」
 有里は瞳を輝かせた。百面相という言葉があるが、後藤が見知っている有里の表情は、三桁ではとうてい収まらない。
 後藤と出会ったころから、有里は表情の豊かな女の子だった。たとえ達海にからかわれてむくれていても、その顔は子ども特有の愛らしさに溢れており、見るものを微笑ましい気分にさせる。
 逆に考えれば、有里もまた、後藤の数多くの表情を見てきているということだ。テレビに映っていることを考えれば、後藤自身も知らない表情を有里が見ていても不思議ではないが、後藤はサッカー選手が他人の注目を集める職業であることを、常に頭に置いて行動してきたつもりである。だが、幼いころからETUを見てきた有里の観察力は、後藤の想像を越えていた。
「後藤さん、最近元気ないみたいだから。皆でおいしいもの食べたら、気分転換になるよね」
 試合には出場しているものの、最近の後藤は思うようなプレーができていない。不振を悟られた理由を尋ねようとして、後藤は思いとどまった。有里の顔に、不安の陰りが落ちている。
「……近ごろ、調子が良くないのは確かだよ。有里ちゃんは鋭いな」
 黒い瞳の動きを注意深く観察しながら、後藤は言葉を続けた。
「俺だけじゃなくて、皆この時期は疲れがたまってるからな。だから松本が企画してくれたんだよ」
「後藤さんは、お肉焼く人って感じだよね。それで達海に、お肉ばっかりじゃなくて野菜も食べろって言うの」
 後藤は声を立てて笑った。有里の想像はおおむね当たっているだけでなく、他人の面倒ばかり見ていないで、自分のことを考えたほうがいいという、彼女なりのメッセージを含んでいる。
「でもなあ、俺が何にも言わないと、達海は好きな物しか食わなくなるからな。今夜だって、肉とジュースで腹をいっぱいにするかもしれないぞ」
「困ったね」
 心から悩んでいるといった面持ちで、有里が両腕を組んだ。居酒屋「東東京」で達海が食事を取る姿を思い出しているのかもしれない。
「だから、放ってはおけないんだよ。何といっても、チームメイトだからね」
 成人しているにも関わらず、達海にはまだ入団当時の少年の面影が残っている。それが後藤を含めた周囲の人間を、保護者のような気分にさせるのだろう。
「じゃあ、後藤さんが困っているときは、誰が手を貸してくれるの?」
 後藤さん、彼女いないでしょう。有里の言葉は疑問ではなく断定である。後藤の心に鋭く現実を突き刺しながら、有里は唇を尖らせた。
「だって、達海や松本が、後藤さんの悩み事を聞くようには見えないもの」
「有里ちゃんには、それが不公平に見える?」
 有里は困ったように首を傾げた。考えていることを全て言葉にするには不足のある彼女の経験と語彙を、豊かな表情が補っている。
「忘れてるかもしれないけど、俺は有里ちゃんよりも、達海よりも年上だからね。何か問題が起きても、対処する方法を知っているつもりだよ」
「一人でも大丈夫だってこと?」
 有里を安心させるように、後藤は頭を軽く撫でた。目を細める彼女の仕草が、小動物を思わせる。
「もちろん、人の力を借りることもあるよ。でも、たとえば達海の好き嫌いなんて、誰に相談していいか分からないだろう?」
「そんなこと、後藤さんが悩むことでもないけどね。達海ってば、本当に手がかかるんだから!」
 言葉とは裏腹に、有里の声と体は弾んでいる。彼女につられるように、後藤は笑みをこぼした。
「今夜は、達海に野菜を食わせてくるよ」
「頑張ってね!」
 有里の声援は、公式戦のそれにも似た色と温度を帯びていた。エースである達海のコンディションは、間違いなくETUの重要事だ。彼の食事に目を配ることは、間接的ながらもチームの貢献につながるのかもしれない。そんなことを考えた後藤の前に、居酒屋「東東京」の看板が現れた。
「今度、食べに行くよ」
 後藤が声をかけると、有里は笑顔で手を振ってくれた。店の戸口に駆けていく後姿を見送りながら、後藤はビニール袋を持ちなおす。いつの間にか、胸の内側が温かいもので満たされていることに気がついた。
 浅草の町を歩く後藤の足取りは軽い。万華鏡のように鮮やかで多彩な有里の表情が、彼に前を向く力を与えてくれたような気がした。


ちび有里ちゃんにとって、現役時代の後藤さんは、色々な話ができる
優しい兄貴分だったと思います。
後藤さんは後藤さんで、有里ちゃんに頼りにされて、
悪い気はしなかったと思うのです。

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