小兎を狼の群れに放り込むようなという比喩はおおげさにせよ、有里を広報という、選手と密接に関わる部署に配属したことに、後藤は不安を拭い去れずにいる。 むろん、有里に不埒な真似を働くような選手はETUには皆無だが、彼女は若い女性だ。男同士の生々しい会話や、だらしなく放置された衣類にショックを受けないとは限らない。社会人として他人の目を意識して行動するように選手には申し渡しているが、ロッカールームや廊下の光景を見るに、後藤の意図が伝わっているとは言い難かった。日夜、練習とトレーニングに励んでいる選手は、自身の肌を人目に晒すことに抵抗を感じていないのだろう。 だが、男の半裸を見せつけられても、有里が騒ぐようなことはなかった。後藤にとっては懸案が一つ片付いたはずなのだが、嫁入り前の娘の反応としてはいかがなものかという気がしないでもない。 会長は沈黙を保っているが、有里の仕事ぶりを前に、父親の顔を完全に隠し通せてはいなかった。家族が絡めば、公人と私人という立場の使い分けは、必然的に難しくなるものだろう。 「有里ちゃん、仕事にはもう慣れたか?」 それは上司の気配りだけではなく、社会人となって間もない彼女を案じての問いかけだった。あの小さかった有里ちゃんが。松原が酒の席で述懐したように、古くからクラブに携わっている者は、有里が幼かったころを知っている。ETUに声援を送る小さな姿は彼女の原点であり、現在と切り離すことは不可能だった。 「全然。覚えることが多くて、まだ慣れたなんて言えないよ。すごく充実してるけど」 輝くような有里の表情に、後藤も柔らかな笑みをこぼす。生身の選手も、彼女にかかっては取材の対象だろう。 「小さいころからETUのこと見てきたはずなのに、知らなかったことがたくさんあって。毎日が発見の連続って感じ」 「そうか。たとえば?」 有里の側にあった椅子を引き寄せ、後藤は腰を下ろした。考えこむ横顔が、彼の目に映る。 「どんな小さいことでも構わないよ。ロッカールームがあんなにひどい場所だとは思わなかった、とか」 冗談と本気が入り混じった口調に、有里は表情を崩した。 「確かに、ロッカールームって、選手の性格が出るよね。きれいに片付いてたり、スゴいことになってたりでさ」 整理整頓という貼り紙がまったく意味を持たないロッカーを思い浮かべて、後藤は肩をすくめた。 「選手ってさ、やっぱりイメージが大事でしょう。みっともないところは絶対に見せられないし、プライベートを見られたくない選手もいるし。でも、ファンやサポーターは、選手の色々なことが知りたいんだよね。そのあたりのバランスが難しいなぁって」 有里は腕を組んだ。思案の色が濃い顔つきは、経験が浅いながらも広報担当者のものである。困難に向き合おうとする姿勢は好ましいが、後藤にしてみれば、年長者として頼りにされたいという思いもある。他人の知恵や力を借りることも、仕事を進めるうえでは重要なことだ。 「まあ、ある程度は割り切ってもらわないと。選手にとっては、試合や練習だけじゃなくて、ファンサービスも仕事のうちなんだから」 練習場でサポーターと言葉を交わし、オフに地域のイベントに参加することも、プロサッカー選手の仕事には含まれてはいるが、やはり彼らの本業は試合に出て結果を出すことだ。選手によっては、ピッチ外での活動に積極的ではない者も存在する。だが、嫌ならば仕方がないで片づけられないのが大人の社会、プロの世界というものだ。 「本当にどうしようもないときは、俺の名前を出せばいい」 「後藤さんの?」 「GMに言いつけて、クビにしてやるって」 弾けるような笑い声が、有里の口から溢れだした。 「そうだよね。後藤さん、GMなんだよね。偉いんだよね」 「そうだよ。俺もたまに、忘れそうになっちまうけど」 有里の笑い声が、大きさを増した。狐に例えられるほどの狡猾さを、彼女はおそらく持ちあわせてはいないし、後藤もまた、自らを虎などと思ったことはない。それでもGMという彼の肩書きは、彼女の後ろ盾にはならずとも、お守り程度にはなりうるはずだ。 「いざという時の、切り札だと思えばいいさ。持ってても、邪魔にはならないだろう」 「はい。ありがたくお借りします」 「うん。大事に使いな」 後藤が頷くと、有里は一瞬だけ表情を引きしめ、再びその顔に笑みを広げた。お節介、過保護、甘やかし。言いたい人間には、言わせておけばいいのだ。 「たぶん、選手には効き目があるはずだよ。何て言ったって、カードだから」 ピッチに突きつけられる赤と黄を、後藤は思い浮かべる。同じ色を連想したのか、有里が再び声を立てて笑った。 「解任して! 解任!!」 顔を赤く染めた有里の甲高い声が、後藤の耳に突き刺さる。彼女が要求しているのは、イングランドに赴いて、ようやく捜し当てた監督の「クビ」だ。行き先も告げずにクラブハウスから姿を消し、予定していた取材に穴を空けた達海の行動は、たとえ後藤でも庇えないが、有里は冷静さを欠いているだけで、心の底から達海の解任を望んでいるわけではない。必要なのは、達海に反省を促す一方で、彼女に落ち着きを取り戻させることだ。しかし嵐とは逆らうものではなく、通り過ぎるのを待つものである。 「今日は取材があるからって、前から言ってたでしょう!? マスコミの人、どれだけ待たせたと思ってんのよ!」 激しく吠えたて、噛みついてくる小型犬のような勢いに、達海が珍しく困ったような表情を浮かべたが、後藤 はあえて助け舟を出さなかった。クラブをアピールするという監督の役割と、社会人としての責任。後藤が上司として達海に言わねばならなかったことを、有里はすべて口に出している。 以前、有里に与えた「お守り」は、後藤の名前とGMという役職を活用したものだが、それを突きつける相手が達海では効果は期待できない。説教を聞く者とは思えない面倒そうな表情が、有里の怒りに油を注ぐ結果となった。 「達海さん、人の話、聞いてるの!?」 隅田川に沈めてやると叫びながら拳を振り上げた娘の姿を、会長が引きつった顔で見つめていた。 |