星が空からこぼれ落ちそうな夜のことだった。 森の静けさを破って獣たちの眠りを否応なく覚ましたのは、夕立にも似た足音と、入り込んだ人間の 気配であった。危険を察したのか、獣たちは影となって闇の奥に消えていく。 侵入者のひとりが足を止めて、獣たちの後ろ姿を申し訳なさそうに見送っていた。暗色のマントを頭からはねのけると、鮮やかな長い赤毛と若い女性の顔が、闇の中に浮かびあがる。彼女の肌は夜風で冷やされており、白く染まった顔が最高級の陶器人形を思わせた。彼女の名はリムメラーナ。近ごろ勢力を増しつつある解放軍の指導者である。 「全軍に伝えて。今から二刻(約一時間)のあいだ、休憩にします」 伝令兵によって、リムメラーナの言葉が全軍に伝えられていく。全軍といっても、総数は五十人程度で、軍隊と呼べるほどの規模ではない。しかし、彼らはいずれ劣らぬ選りすぐりの戦士たちで、統率に乱れはなかった。夜明けと同時に帝国軍の後方に奇襲をかける手はずの、解放軍の別動部隊である。 「行軍が、当初の予定よりも遅れています。ほんの少しですが」 女性兵士の報告に、リムメラーナは予想通りだとでも言いたげに頷いた。彼女の足元には、子どもの頭ほどの大きさの石がいくつも転がっている。その一つを軽く蹴ると、石は鈍い音を立てて地面にひっくりかえった。 「こんなに足元が悪いだなんて、考えてなかったものね。……とにかく、ご苦労さま。あなたも休んでちょうだい」 女性兵士は一礼すると、危なげのない足取りでリムメラーナの側を離れ、兵士たちの輪の中に入っていった。蒸留酒のきつい匂いが、兵士たちの低い話し声とともにリムメラーナのもとに運ばれてくる。 帝国軍に発見されないように、火の使用を禁じている別動隊では、強い酒が体を暖める手段だった。当然のことながら、酒に飲まれるような者は、別動隊にはいない。 夜の風が、熱と体力を奪っていく。リムメラーナは彼女自身にしか聞こえない、小さなため息をつい た。吐き出された白い息が、音もなくかき消える。空がさえていて、星を眺めるには絶好の夜だった。空を遮るものがなければ。 「こんなに星が奇麗だと、もっといい場所で見たくならない?」 「戦争中でなければね」 リムメラーナの隣で、ランスロットが肩をすくめた。別動隊に派遣された解放軍の幹部は、リムメラーナを除けば彼一人だけである。別動隊に多くの幹部や兵員を割いては、解放軍本隊の指揮に支障をきたすだけでなく、帝国軍に不審を抱かせることになりかねない。また、五十人程度の兵士ならば、命令を下す者は二人で足りた。 「残念。今夜は星がきれいだって分かってれば、奇襲は明日に延期したのに」 子どものような笑い声を立てながら、リムメラーナは腰に下げていた革の水筒を緩めた。蒸留酒が唇を濡らす。一瞬のうちに酒が体を駆け回り、わずかながら寒さを追い払った。 「重傷の怪我人が天幕を抜けだして、夜空を見上げるとでも?」 「……痛いところを突くのね」 リムメラーナは眉をしかめながら、やや乱暴に水筒を突きつけた。それを無造作に受け取ったランスロットの顔は、かすかが確かに笑みを浮かべていた。 三日前の戦闘で、リムメラーナは帝国兵の矢を受けた。敵味方が入り交じる乱戦の中で、左後方から 狙撃されたのである。傷を負ったリムメラーナがグリフォンに運ばれて前線から遠ざかると、解放軍は逃げるように後退してしまった。 幸運なことに、リムメラーナの傷は軽かった。身の危険を感じた瞬間、リムメラーナは咄嗟に体を捻 り、致命傷を避けたのだ。彼女が身につけていた鋼の胸当てには、小さいが深い穴が穿たれていた。 僧侶たちの治癒呪文で、リムメラーナの傷は翌朝にはふさがった。その日は大事をとり天幕で休養をとったが、彼女の精神は戦場のただ中にあった。そして、ウォーレンたちが見舞いに訪れた夕刻、彼女は奇襲作戦を提案したのだった。 ウォーレンたちの巧みな情報操作によって、帝国軍と解放軍本隊の兵士たちは、リムメラーナは重傷 で起きあがることさえできないと信じこんでいる。そんな人間が別動隊を率いて帝国軍の後方を襲うことを、誰が想像するだろうか。 「我ながら、よくこんな作戦を思いついたものだわ」 苦い表情とともに、リムメラーナは肩をすくめた。彼女の視線の先で、ひとかたまりの黒い影がうごめいている。兵士たちが、暖をとるために体を寄せ合っているのだ。 「だが、効果的な戦法だ」 後方から奇襲をかけたところで、別動隊の五十人程度の兵力では帝国軍に壊滅的な打撃を与えることはできない。だが、帝国軍の食料を奪いあるいは焼き払い、街道を封鎖して帝国軍の補給路を絶つことはできる。奇襲作戦の本当の狙いは、兵糧攻めであった。 「それとも、敵兵とはいえ餓死させるのは、後味が悪い?」 咎めるでもなく皮肉でもない静かな声で、ランスロットが尋ねかけた。リムメラーナはゆっくりと、しかし大きく首を振った。 「まさか。だいたい、彼らが飢死する前に、この戦いはけりがつくでしょうよ。私が気にしてるのは、そんなことじゃないわ」 帝国の兵士たちは、徴発や略奪を当然のようにおこなっているのだ。一度ぐらい、飢える苦しみを味わえばいい。そんな本心が口から漏れ出るような気がして、リムメラーナは息を吐きかけるふりをしながら両手で唇を覆った。 「だって、私が大怪我をしているだなんて言って味方を騙したり、別動隊の皆に寒い思いをさせている んだもの。あまり気持ちのいい作戦じゃないわ」 我ながら、都合のいいことを口にしている。リムメラーナは闇の中で唇を歪めた。怪我の容体を偽り、奇襲作戦を立て、別動隊を編成したのは、リムメラーナ自身であって、他人に命じられたのではない。しかもその目的は、帝国兵を欺き、殺すことにあるのだ。敵を騙して殺し、勝利を得ることは平気だが、勝利を得るために味方を偽り、死なせるのは嫌だなどというのでは、まるで子どものわがままだ。第一、リムメラーナがより的確な作戦指揮をとっていれば、乱戦のなかで狙撃されることも、奇襲をかけることもなかったのだ。 そこでリムメラーナは我に返った。ランスロットが、黙りこんだ彼女をのぞきこんでいる。取りつくろうように、わざと明るい口調を作った。 「だから、もう二度とこんな作戦を立てなくていいように、もっと兵法を勉強しなくてはね。滅茶苦茶な命令ばかり出す指導者なんて、そのうちに誰もついて来なくなるから」 ランスロットから目をそらすように、リムメラーナは背を屈めた。地面の石を拾い集めて腰をおろす場所を二人分作り、両足を投げ出す。湿った土の匂いが鼻をついた。 リムメラーナの解放軍指導者の地位を支えているのは、ウォーレンの占いの結果である。星に選ばれた指導者と言えば、聞こえはいい。だが、星は日ごとに位置を変え、星座は季節とともに空を巡るものだ。血統や実力ほどに指導者の権威を裏付けはしない。リムメラーナは指導者という地位にこだわる気はなかったが、与えられた地位を単なる飾りにするつもりもなかった。 「ねえ、ランスロット」 リムメラーナは顔をあげた。黒い瞳の先に、ランスロットの姿がある。彼女を守るように立つ騎士に向かって、リムメラーナは問いかけた。 「私は、一人前の指揮官になれると思う? 私たちは、勝てると思う?」 リムメラーナは兵法に関しては素人に近いし、莫大な軍資金を把握できる経済感覚は備えていない。解放軍の指導者が、少しばかり剣が扱えるだけの傭兵に過ぎないことを、彼女自身が誰よりも知っていた。 ランスロットは、リムメラーナの前で瞼を軽く閉じ、そして開いた。 「一人前の指導者か。君は、それはどんな人間だと思う?」 「それは……人望があって、兵法に詳しくて、政治や地理もよく知っていて、それから、剣なり槍なり、武器が使えたほうがいいわね。あとは……」 「ずいぶんと、贅沢だな」 さらに続けようとするリムメラーナを制して、ランスロットは苦笑を浮かべた。 「指導者一人がどれだけ強くても、率いている兵士が弱ければ戦争には勝てないよ。それに、兵法は軍師が知っているし、政治や地理にも専門家がいる。私たちのように、武器をとって戦う者がいる。指導者が万能である必要はないんだ」 「でも、それじゃあ……」 指導者に必要なものは何なのか。兵たちの信頼を得るために、指導者は優れた能力を身につけるべきだと、リムメラーナはごく自然に考えている。ランスロットを見る目は、もの問いたげであった。 「おそらく、指導者に必要なのは、そういった人間をひきつけて、信頼させる力なんだろう。そういう意味では、人望は要るかな」 「人望……」 自分自身にも、それはあるだろうか。リムメラーナが考えをめぐらせかけたとき、ランスロットが彼女の隣に腰をおろした。 「兵士の一人として言わせてもらうなら、味方を犠牲にしても当然のように考える指揮官よりも、味方を気づかってくれる指揮官のほうが、命をあずける気になれる。それに、君が作戦のことで悩んだり、良い指導者になれるかどうかを気にするのは、仲間のことを考えている証拠だよ」 リムメラーナをなだめるように、ランスロットは彼女の頭を撫でた。父親のような仕草は、リムメラーナにとって不快ではなかった。 「君は、君にできることを、少しずつやっていけばいいんだ」 「できることを、少しずつ……」 ランスロットの言葉を繰り返しながら、リムメラーナは目を細める。指導者という地位にこだわらな いと言いながら、その肩書に特別な意味を持たせていた自分自身に、彼女は気づいていた。騎士が万能ではないように、魔法使いが何でもできるわけではないように、軍の指導者にも得手不得手があって当然なのだ。それを忘れて完全無欠の指導者を強く求めていたのは、リムメラーナ自身だった。 「そうよね。私だって、最初から剣が使えたわけじゃないものね。解放軍の指導者だって、似たようなものかもね」 未熟であった剣の腕が、一流と呼ばれる域にまで達したのは、リムメラーナの中に強くなりたいという思いがあったからだ。それと同じように、良い指導者でありたいという思いを忘れずにいれば、そして少しずつ進んでいけば、味方の信頼に値するだけの力量を手にする日が来る。そう信じてみるのも、悪くはないかもしれない。リムメラーナの頭に、そんな考えがよぎった。 「悪くないどころか、極上かもしれないわね」 笑いだしそうになるのをこらえながら、リムメラーナはランスロットの肩にもたれかかった。突然上機嫌になったリムメラーナを、ランスロットが不思議そうな顔で見つめている。 「ふふっ、なんでもないわよ。ありがとう」 いたずらっぽい笑みを浮かべて、リムメラーナは空を見上げた。二人の頭の上を一筋の星が流れていく。 「私は星占いなんか信じないけれども、貴方の言うことなら信じてもいいわ」 解放軍の指導者になる決意をしたときにランスロットに向かって言ったことばを思い出して、リムメラーナはもう一度笑った。 |