それが何杯目の酒であったのか、ランスロットは数えていない。彼が新たな酒瓶に手を伸ばしたとき、
横合いから声をかけてきたのは、ウォーレンであった。 「ランスロット殿。その酒、私にもいただけますかな?」 「ああ、どうぞ」 ランスロットはまず、ウォーレンが差し出した杯に酒を注ぎ、次いで自分の杯に瓶を傾けた。軽く互いの杯を打ち合わせると、ワインが揺れて小さな波を作った。 「かなり飲んでおられるようですな。顔がお赤い」 「やはり、分かりますか」 酔いを追い払うように、ランスロットは首を振った。普段よりも多く、酒を飲んでいる。その自覚はあった。 「勝利の宴ですからな。王国の騎士団長に、悪酔いなどされては」 ウォーレンの言葉通り、これは勝利の宴であった。新王都ゼノビアに集った人々は、解放軍の勝利を祝い、戦士たちの武勲を称え、平和の到来を信じきっている。そして、自らの喜びを表さんと、酒を酌み交わし、音楽を奏で、大声で歌い、軽やかに踊っているのだ。 「悪酔いなど、するはずもありませんよ。……勝利の美酒ですからな」 勝利の美酒という言葉に、偽りはない。だが、杯の酒は、ランスロットの舌に、かすかだが確かな苦みを与えてもいた。それは、酒の質がもたらすものではなく、ランスロットの思いがもたらすものだった。 「らしくもない酒の飲み方は、勇者殿のせいですかな?」 ワインを吹き出す代わりに、ランスロットは激しく咳き込んだ。酔いは一瞬のうちに覚めている。その側で、ウォーレンが髭を震わせて笑った。 「リムメラーナ殿のこと、ご存じでしたか」 ウォーレンは杯を目の高さに掲げただけで、答えない。老人が、目の前で繰りひろげられる宴を見ているのか、更に遠いところを見ているのか、ランスロットには判断できなかった。 「美しい色ですな、このワインは」 ウォーレンの言葉につられるように、ランスロットは手の中の杯に目を落とした。ワインの鮮やかな赤色が、彼女の髪を思い出させた。 ゼノビア城の裏庭の井戸は、トリスタンの父であるグラン王の即位に前後して掘られたものだが、すぐに涸れてしまったため、ゼノビア城が陥落した頃には既に使われていなかった。ゼデギネア帝国時代は放置されていたが、ゼノビア城が解放軍の手に戻った一週間後、解放軍指導者直々の命令で、大きな木の蓋がされた。 「結構深いのよ、あの涸れ井戸。もし落ちたら、ケガだけじゃすまないでしょうね」 リムメラーナはそう言って、半日で工事を終わらさせたのだった。 それ以来、その井戸は、恋人たちの語らいの場所となり、軍指導者や文官の非公式の会議の場として使われるようになった。 戦勝の宴が始まる直前に、ランスロットはそこに呼び出された。彼を呼び出したリムメラーナは先に来ており、井戸の石垣に腰をかけていた。 「待たせて申し訳ない」 軽く頭を下げたランスロットに、リムメラーナは隣に座るように手で勧めた。彼女がこの時、ランスロットの顔を見ないようにしていたことに、彼は気がつかなかった。 「悪かったわね、急に呼び出して」 「いや、そんなことは」 曖昧に答えながら、ランスロットはリムメラーナの左隣に腰を下ろした。そして、普段ならば相手の目を真っ向から見据えて話す彼女が、今日に限ってうつむいていることを知った。 「何かあったのか?」 横から覗き込んだリムメラーナの顔は、長い赤毛に阻まれて見えない。ためらいつつ髪に手を伸ばしながら、ランスロットは昼間に聞かされた言葉を思い出していた。せっかくの宴なのだから、勇者様もドレスを着て、髪を結い上げればよいのに、もったいない。年老いた女官はそう言って、口惜しがっていた。 「今晩、ゼノビアを出るわ」 細い声が、ランスロットの動きをすべて止めた。一瞬、ランスロットは呼吸さえも忘れて、リムメラーナを凝視した。 「……ローディスに、行こうと思うの」 それは、女帝エンドラが口に出した北の大国であった。ゼデギネア帝国が倒れた今、新生ゼノビア王国にとっての、新たな、そして未知の敵でもある。 「敵を知り、己を知れば、百戦危うからずって、言うでしょう?」 ウォーレンは古い兵法書の一文を用いて、情報収集の重要性を説いたものだ。リムメラーナがそれを貪欲なまでに実行したからこそ、今日の勝利はあると言っても、決して過言ではなかった。 「だが何も、君自身が行く必要はない」 しかし、ランスロットはそれを口に出せなかった。リムメラーナが、勝利の立役者の一人であることは、言うまでもない。だが、彼女の、解放軍指導者という地位は、トリスタンを王とする新生ゼノビア王国にとって、非常に扱い辛いものでもあった。文官たちがそれについて言い争う場面を、ランスロットは何度か目撃していた。 何をもって解放軍指導者の功績に報いるか。ある者は言う。解放軍を勝利に導いたリムメラーナを新王国の将軍に任じ、全兵権を委ね、来るべきローディス教国の脅威に備えるべきだと。ある者は言う。帝国の手から都市を解放し、行政においても手腕を発揮したリムメラーナを王国宰相に指名し、トリスタンの補佐にあてるべきだと。ある者は言う。国王よりも強い影響力を持つリムメラーナを公職に就けるべきではない。国庫から年金を支払う代わりに、彼女には一切の公職に就くことを禁じるべきだと。 「勇者殿がいなくなれば、新王の権威は揺るがぬものとなる。そう考える愚か者がいないとは、限らないな」 先日、ランスロットの前で、トリスタンは苦笑まじりに呟いたのだった。 新王の「忠臣」が、リムメラーナの謀殺をはかる。ランスロットには、口にするどころか、想像するだけでも耐え難いことであったが、それは決して、考えられない話ではなかった。 新王をしのぐ功績と名声。リムメラーナが持つそれは、富と権力を約束する代償に彼女の身を危うくする、いわば諸刃の剣であった。 「君が決めたことならば、私は止めはしない」 野に下り、ゼノビアを離れるというリムメラーナの判断は、新生ゼノビア王国のためにも、彼女自身のためにも、おそらくは正しいと、ランスロットは思う。だが、正しいものは、必ずしも無条件で受け入れられるものではない。正義は、人の数だけ存在するものだから。 「あなたには、言っておきたかったの」 リムメラーナの声が震えている。旅立ちを決断するまで、彼女自身も悩み苦しんだのだろう。ランスロットは握りしめていた右手を開いて、リムメラーナの髪に触れた。柔らかな髪は、北風になぶられて冷えきっていた。 「君のために、私にできることは、あるだろうか?」 リムメラーナを引き留めることはできない。そして、彼女と共にローディスに向かうことも、ランスロットには許されてはいないのだった。新生ゼノビア王国騎士団長。与えられた地位が、彼の両肩にはのしかかっている。 「その気持ちだけで、十分よ。ありがとう」 すこし顔を上げて、リムメラーナは微笑んだ。堅い決意のなかに、諦めと孤独を秘めた寂しげな微笑みが、不意にランスロットをつき動かした。ランスロットは立ち上がってリムメラーナの正面に膝をつき、彼女の両肩をつかんだ。 「ならば、せめて、君の帰りを待たせて欲しい。何年でも、何十年でも、君が戻るまで」 なぜ、平和な時代の幕開けに誰よりも貢献した者が、平和な時代を生きることを許されないのか。勇者リムメラーナは、その功績によって、多くの人を幸福に導いた。だが、彼女自身の幸福は、どうなるのか。それを奪う権利など、誰にもあるはずがないのに。 「ばかね。何十年も経ったら、ランスロットはおじいちゃん。私はおばあちゃんになっちゃうわよ」 冗談めかして言いながら、リムメラーナは手を伸ばした。冷たい指先が、ランスロットの頬をなぞる。 「いつ帰るかなんて、約束できないわよ?」 「それでもいい。待つことは、慣れている」 ゼデギネア帝国を倒すために待ち続けた二十五年の年月が、決して無意味ではなかったことを、ランスロットは知っていた。それは、いつの日にか彼の前に訪れる、彼女のためのものだったから。 「待つことは、決して無駄なことじゃない」 リムメラーナと出会い、共にいることで、ランスロットは待つことの意義を教えられた。言葉と態度、笑顔と泣き顔、強さと弱さで、彼女は彼にそれを語りかけてきたのだ。 「私の帰りを、あなたは待っていてくれるのね?」 震えを帯びた声ともに、リムメラーナの瞳がランスロットの顔をとらえていた。声にこころもち力をこめて、ランスロットは答えた。 「騎士の名誉にかけて約束する」 リムメラーナが浮かべた泣き笑いに似た表情は、しかしランスロットには見えなかった。その時、彼の目に入ったものは、涸れ井戸の木蓋であった。感じたものは、彼女の髪の柔らかさと両腕の冷たさ、そして肩の温もりだった。 ランスロットを抱き寄せたまま、リムメラーナは囁いた。 「あなたが約束してくれるなら、私は信じる。あなたが私の帰りを待ってくれるなら、私はあなたのもとに帰る。必ず帰るって、約束するわ」 小さくうなずいたランスロットの髪を軽く撫でて、リムメラーナは言葉を続ける。 「覚えておいてね。私は、あなたのところに帰るのよ。あなたは私の、帰る場所なの。だから、私のことを待ってて。……お願いだから」 「ああ、覚えておくとも」 それ以上口には出さず、ランスロットは両手をリムメラーナの肩から背中に回した。そして、リムメラーナの体を両腕で引き寄せた。 それがリムメラーナの望みならば、ランスロットは万難を排してでも叶える。それが彼女との約束ならば、彼は命を賭してでも守り抜く。平和な時代に背を向けねばならない彼女と苦しみを分かち、和らげることができるのならば、共に行くことの適わぬ痛みも、彼女を待ち続ける孤独も、黙って受けいれる。 それが、彼と彼女を、待つ者と旅立つ者をつなぐ、小さなかけらだった。 リムメラーナが更に強くランスロットに抱きついてきた。互いの体を寄せあっていても、冬の風は冷たく、鋭いものだった。ランスロットは、静かにリムメラーナの肩を撫でた。 そして、二人の時間を打ち砕くかのように、街の鐘が一斉に鳴りだした。それは、宴の始まりを告げるものだった。 「そろそろ行かなくちゃ、トリスタンにとっちめられるわね」 名残を惜しむようにランスロットの髪に指を絡めながら、リムメラーナが顔をあげた。彼女よりも早く立ち上がってその顔を見おろしながら、ランスロットは手を差し出した。 「中庭まで」 「光栄だわ、王国騎士団長にエスコートされるなんて」 皮肉のない口調とともに、リムメラーナは右手をランスロットに預けた。 中庭に至るまでの道を、二人は一歩一歩を踏みしめるように、時間をかけて歩いた。その間、ランスロットは口を開かなかった。物思いにふけるリムメラーナに声をかけることは憚られたし、近づく別れを前にして、彼女にかける言葉を捜し求めてもいた。 「ランスロット、あなたが……」 リムメラーナが続けたかった言葉を、ランスロットはなぜとはなく察したように思う。寂しげな笑みを浮かべて黙り込んだリムメラーナの前で、ランスロットはただ、頷いてみせた。 赤い髪が、夜の風を舞った。 「もし、私が騎士でなければ……」 ランスロットの呟きを耳にとめたウォーレンが、苦笑を浮かべた。 「ここはめでたい宴の席。聞かなかったことにしましょうか」 その言葉が、酔いのために口に出したものなのか、その言葉を口にするために、酔いの力を借りたのか、ランスロットにはどちらでも良いことだった。 「そういえばランスロット殿、ご存じですかな?」 杯を高く掲げて、ウォーレンは頭上の月を示した。それは、満月と呼ぶには少し欠けていた。 「あのような月を、遠い東の国の古い言葉で、立待月というのですよ」 「立待月、ですか」 同じ月の下にいる待ち人を思って、遠国のひとはその名をつけたのだろうか。だとすれば、どの時代、どの国に生まれようとも、人の心は似たようなものかもしれない。教えられた言葉を口の中で繰り返しながら、ランスロットは夜空を見上げた。 白銀色の月は、冬の冷たい光を放っている。 |