「まったく、何、考えてるのよ、あの神父! オニックスと言えば、十二使徒の証よ。統治を司る神秘の石なのよ。それを無くしちゃうなんて!」 赤い髪を激しく揺らしながら、リムメラーナは目の前の机に置かれた白い箱を、指で乱暴に叩いた。 「おまけに、何が、『これで我慢してくださいネ』よ。十二使徒の証なんだから、お菓子で我慢できるわけないじゃない。子どもじゃあるまいし」 白い箱を挟んで、リムメラーナの向かい側に、ランスロットが座っている。彼が口を開いたのは、リムメラーナの愚痴をひととおり聞き終えたあとだった。 「オニックスは、探させているからいいとして、それをどうする?」 ランスロットが指し示したのは、オニックスの代わりにと、神父から渡された白い大きな箱だった。神父の言葉を信じるならば、中にはお菓子の家が入っている。 「とりあえず、開けてみるべきだと思うが」 「そうよね。あの神父には困ったものだけど、お菓子に罪はないものね」 赤いリボンをはずしながら答えるリムメラーナの声は、貴重な十二使徒の証を手に入れ損ねたにも関わらず、嬉しそうだった。 「初めてなのよね。本物のお菓子の家を見るの。子どものときに、そういうおとぎ話を聞いただけで」 「それは、幼い兄妹が、お菓子の家を作った魔女に捕まる話……だったか」 ランスロットがその話を思い出すのには、少し時間がかかった。彼自身、おとぎ話を聞かせてやる子どもがいても、おかしくない年齢である。 「そう、そのお話よ。兄妹が魔女に食べられてしまうんじゃないかって、ドキドキしながら聞いてたわ」 リボンを左手に巻きつけながら、リムメラーナは思い出したようにランスロットの顔に目をやった。 「でも、同じ魔女でも、デネブなら、お菓子の家をカボチャで作りそう。プリンとか、パイとか、クッキーとかでね」 カボチャに執着する一人の魔女の姿を、この時、二人は頭に浮かべている。 「違いないな」 「でも、それも悪くないわね」 二人は声を立てて笑った。 「今、アタシの名前を呼んだような気がしたんだけど?」 扉を叩く音とデネブの声は、ほぼ同時にリムメラーナの耳に飛び込んできた。 「ええ、ちょっとね」 まだ笑みの残るリムメラーナの顔を不思議そうに見つめながら、デネブはリムメラーナの執務室に体を滑り込ませた。次いでカノープスが、デネブが後ろ手に閉じようとした扉を力任せに押し開いて、部屋に入った。 「お、それが神父にもらったお菓子の家か」 カノープスは、丸めた羊皮紙で白い箱を指した。箱に手をかけながら、リムメラーナはうなずく。 「そうよ。ちょうど今、開けるところだったの」 「アタシたち、ちょうどいい時に来たわね、カノぷ〜?」 「そうだな。……ああ、訓練計画書、ここに置いとくからな」 お菓子の家が彼の興味をひいたのか、カノープスは怒りもせずに、白い箱に見入っている。デネブはつまらなそうな表情をカノープスに向けたが、次の瞬間には、好奇心に満ちた顔で箱を見ていた。 「じゃあ、開けるわね」 リムメラーナは白い箱をゆっくりと開けた。 それは、「お菓子の家」というよりは、「お菓子のお屋敷」に近かった。箱の大きさを裏切ることなく、お菓子自体も大きかったのだ。 「これは、すごいな」 「ああ、まったくだ」 ランスロットが感想を呟き、カノープスが賛成の声とともにうなずいた。 スポンジケーキを組み合わせて、屋敷は作られていた。屋敷全体を取り囲む塀はレンガではなく、大きなチョコレートである。門は、格子の形をしたクッキーでこしらえてあった。 チョコレートビスケットを敷き詰めた屋根の上に、マシュマロが乗っている。また、屋根には粉砂糖がまぶしてある。雪に見立てたのだろう。 「この窓、アメでできてるのね。すごいわ」 リムメラーナは歓声をあげながら、屋敷の窓を指さした。それらは、薄く板状にのばしたアメで、白いクリームを塗った屋敷の壁に、それぞれ埋め込まれていた。 「ほんとうに、すごいわねえ」 改めてそう言い、リムメラーナは感嘆のため息をもらした。 「食べるのが、もったいないくらい」 自分自身の言葉で、不意にリムメラーナは我に返った。 「これ、どうやって食べようかしら?」 「どうやって、と言われても、普通に切り分ければ良いと思うが」 ランスロットが、ごくまっとうな意見を口に出したが、リムメラーナは激しく首を振って反対した。 「せっかくのお菓子の家なんだから、切るのなんて嫌よ。それに、どうやって、どこから切るの?」 確かに、お菓子の家は、ケーキのように均等に切り分けることはできない。また、リムメラーナの、お菓子の家に対する子どもじみたこだわりは、ランスロットにとって無視できるものではなかった。 「切るのがイヤなら、屋根とか壁とかにバラしちまうのはどうだ?」 顔を近づけてお菓子の家を見ながら、カノープスが提案した。 「それも何か、お菓子の家らしくないわね。とりあえず、家の周りの塀から、順番に食べていきましょうよ。捨てるのも、もったいないから」 リムメラーナは細い指でクッキーの門をつまみ上げると、おどけた表情で自分の口にほうり込んだ。 「おいしい。あとで、ほかのみんなにもおすそ分けしなくちゃね」 満面の笑みを浮かべて、リムメラーナが呟く。ランスロットは、彼女の言葉に真面目に答えた。 「四人で食べきるには、確かに大きすぎるからな」 「あら、この壁、ただのチョコじゃなくて、ケーキなのね」 汚れるのも構わずに、チョコレートの塀を指でちぎりながら、デネブが声をあげた。チョコレートの固まりだと思われていた家の塀は、スポンジの外側にチョコレートをかけたチョコレートケーキだった。 「おいしい?」 「すごいわよ。ケーキの回りに、ジャムが塗ってあるの。その上からチョコがかけてあるから、すっごく甘いけど、おいしいわよ」 「うげえ……」 チョコレートケーキに伸ばしていた手を、カノープスは慌てて引っ込めた。それを目にとめたリムメラーナが尋ねる。 「カノープスは、甘いもの嫌いなの?」 「そうだな、あんまり好きじゃないな。甘い菓子を食うよりも、酒を飲んでるほうが、俺の性には合ってる」 唇の端に付いたチョコレートを指で拭いながら、リムメラーナはうなずいた。 「そうね。お酒好きな人って、たいてい甘いものが嫌いよね。ってことは、デボネアとかラウニィーとかギルバルド、それからスルスト様もそうなのかしら?」 リムメラーナは、解放軍の中でも特に酒に強い三人の顔を思い浮かべた。カノープスが思い出したように付け足す。 「それだけじゃない。フォーゲル様もかなり強いぞ。いつだったかの宴で、スルスト様と一緒に飲んでたが、スルスト様の方が先に参ってた」 「ええっ、フォーゲル様って、スルスト様よりもお酒に強いの?」 リムメラーナは、明るい笑顔を浮かべながら酒を勧めるスルストと、黙ってそれを受けるフォーゲルの姿を想像した。フォーゲルはきっと、顔色ひとつ変えずに、スルストの酒に付き合うのだろう。 「だまされちゃダメよ、リムメラ。カノぷ〜はね、卵を使ったお料理は、食べられないの。ほら、共食いになっちゃうでしょ?」 チョコレートケーキをつまみあげながら、デネブが艶やかに笑う。カノープスはすぐさま顔色を変えてデネブに向き直った。 「俺はトリじゃない! んっ!」 大きく開かれたカノープスの口に、デネブはチョコレートケーキをひとかけら放り込んでいた。カノープスは慌てて口を閉じ、黙ってデネブをにらむ。 「せっかくだから、他のみんなを呼んでくるわね。悪いけど、アタシはこれ以上は食べられないわ」 「そうね。大人数で分けたほうがいいわよね。会議室に集めてちょうだい。それと、ついでだから、ナイフとかフォークとか、持ってきてくれる?」 うなずきながら扉に手をかけたデネブの側に、大儀そうに体を動かしながら、カノープスが歩み寄った。 「俺も行く。喉が渇いて、しょうがない」 部屋を出るなり、カノープスはデネブを追い越して、文字通り廊下を飛んで行ってしまった。 「本当に、甘いものが苦手なのか。気の毒にな」 デネブが執務室の扉を閉めたことを確認したランスロットは、リムメラーナが真剣な眼差しでお菓子の家を見下ろしていることに気がついた。彼は声をかけず、リムメラーナが口を開くのを待った。 「それじゃあ、ユーシス様の天使部隊も、食べられないのかしらね? このケーキ」 鳥と天使とホークマンとは全然違うだろうと言いたかったが、いまひとつ確信が持てなかったので、ランスロットは黙っていた。 「そういう訳で、みんなに集まってもらったんだけど……」 よく通る声で言いながら、リムメラーナは会議室をひととおり見渡した。解放軍の重鎮たちが、巨大な楕円形のテーブルに集っている。緊急の招集であったから、戦局に関わるような重要な議題を想像していたのだろう。ある者ははっきりと落胆し、別の者は安堵の表情を浮かべていた。 「カノープスがいないみたいだけど?」 眉を寄せるリムメラーナに声を投げかけたのは、アイーシャだった。 「カノープス様なら、地下の厨房でお会いしました。会議室に行くように言われてから、水をたくさん飲んでおられましたけれども」 アイーシャの言葉に、会議室に集った、リムメラーナとデネブを除くすべてのひとびとが互いの顔を見あわせた。 「うわぁ」 リムメラーナは小声で呻き、こころもち左側に顔を傾けた。デネブが軽く舌を出して、肩をすくめるのが見えた。 「と、とにかく、このお菓子の家を皆で食べようかっていうことなんだけど、せっかくのお菓子の家なんだから、切るのはもったいないし、でも腐ったりしたら、もっともったいないし」 言いながらリムメラーナは白い箱を開けた。実に手の込んだお菓子の家を間近で見せられて、会議室の各所で感嘆の声がもれる。 「切るのがもったいない。その気持ちは、私も同じです」 お菓子の家に見とれたまま、アイーシャが祈るように呟く。賛成の声がいくつもあがった。 「とりあえず、ここの塀の部分から先に食べて行こうと思うんだけれども、甘いものが嫌いな人は、先に言ってね」 ナイフを取り上げたリムメラーナが見たものは、遠慮がちに手を挙げるデボネア他数名の姿だった。 「申し訳ないが、リムメラーナ殿。私は甘いものがあまり好きではない、いや、どちらかというと苦手なんだ。だから……」 「他の皆もそうなの?」 リムメラーナが顔を動かすと、偶然ラウニィーと目が合った。彼女もまた、手を挙げていたのだった。 「甘ったるいものは嫌いなのよ」 「それじゃあ仕方ないわよね」 うなずきながらチョコレートケーキに目を落としたリムメラーナの耳に、ユーシスの声が流れ込んできた。 「我々天使は、聖なる父の力によって、食事をとる必要がないのです。お心遣いはありがたいのですが、いただけません」 「確かに、天使様がごはんを食べてるところって、見かけませんよね」 リムメラーナが卵の話題を口にしなかったので、ランスロットは少しだけ安心した。 「ミーも、甘いお菓子はあまり好きではありません。But、フェンリルサンが、マウストゥーマウスで食べさせてくれるなら、大カンゲイデス」 スルストの言うことであるから、冗談ではなく本気なのだろう。だが、彼の隣に座るフェンリルは、自分の肩に回された手を払いのけただけでなく、スルストの発言を冷たく無視してみせた。まさに、”氷”のフェンリルである。 「私は、あそこの神父とは顔なじみだし、甘いものも嫌いではないわ。少し、いただこうかしら」 フェンリルがチョコレートケーキを口に運ぶ様子を、なぜか会議室にいる全員が静かに見守っていた。フェンリルがケーキを一口食べるのに、それほど長い時間はかからなかった。 「おいしいデスか、フェンリルサン?」 スルストの問いに、だがフェンリルは答えなかった。彼女は音を立ててフォークを皿に置くと、悲しみをたたえた表情で、何かを探すように会議室を見回していた。 「水だ、水」 フォーゲルが立ち上がって水差しに手を伸ばし、フェンリルは銀髪を振ってうなずいた。そして、彼から手渡されたコップの水を、ほぼ一息で飲みほしてしまった。 「ものすごく、甘かったんですね?」 チョコレートケーキに目を落としながら、リムメラーナが尋ねる。フェンリルは口元を手で押さえ、黙って首を振った。 「そんなに甘いのですか? じゃあ、やめておきます。肥りますから」 お菓子の家を見ながら、ノルンが顔をしかめた。リムメラーナはうなずいて会議室を見回し、先ほどよりも手を挙げている人数が増えていることに気づいた。 「ええっ、みんな、食べないの?」 作戦を変更せねばならないことに、リムメラーナは既に気づいていた。もはや彼女にとって、お菓子の家は、幼い時からの憧れではなく、攻略すべき要塞になりつつあった。 「それじゃあ、部下でも誰でもいいから、他の人を連れてきて。大人数なら、何とかなるでしょうから」 リムメラーナ率いる解放軍は、上は指導者から下は一兵卒まで、お菓子の家攻略に、持てる力の全てを出しきった。 しかし、甘ったるさという、お菓子の家が持つ強大な力の前に、多くの者が敗れ去った。それは、戦闘において無敵を誇る、通称「死神部隊」とて、例外ではなかった。 「もう、ダメ、限界。みんな、よくがんばってくれたわね」 陣頭に立ってお菓子の家と戦っていたリムメラーナが、ついに敗北を認めた。敗因は幾つか上げられる。男性陣に酒好きが多く、それに比して甘いもの嫌いが多かったこと。女性陣が、ケーキを食べ過ぎて肥ることを嫌がったこと。本来ならば先頭に立って戦うべき軍の重鎮が、開戦早々に戦線離脱したために、士気が低下したことなどだ。 「結局、城門を破壊しただけで、本城には指一本、触れることができませんでした。これが本当の戦争でしたら、大敗北でしたな」 「そうね。現実の戦いでは、こんな風にはなりたくないわ」 ウォーレンの言葉にうなずくことも、コップの水を飲むことも、リムメラーナは常ならぬ体力を必要とした。塀の役目をしていたチョコレートケーキの固まりは、どうにか食べ尽くされたが、肝心のお菓子の家は、手つかずの状態で残っていたのだった。 「で、お菓子の家を、どうなさいますか? 捨てるのはもったいないでしょう」 「どうしましょうね? ドラゴンとかグリフォンとかは、お菓子なんて食べるかしら?」 リムメラーナは、思いついたことを適当に口に出してみた。彼女は疲れきっていて、ものを考えられる状態ではなかったのだ。 「やめてくれ。そんなことをしたら、あいつらが虫歯になってしまう」 ギルバルドが真剣に抗議した。魔獣にとって、牙は重要な武器である。それが使えなくなるということは、すなわち戦力の低下を意味するのだ。 「明日に持ち越すというのも、一つの方法だと思いますが?」 アイーシャの提案を、リムメラーナは強く首を振って退けた。 「明日? 勘弁してよ。当分の間、甘いお菓子は見たくないわ」 大きなため息をつきながら、リムメラーナは会議用のテーブルに突っ伏した。 「十年前なら、十年ぐらい前の、小さな子どもの時だったら、何の問題もなく食べきれたんだけどなあ」 「大人になると、食べ物の好みが変わりますからね」 アイーシャが苦笑を浮かべながら、空に近いリムメラーナのコップに、水を注いだ。 「子ども、そうだわ!」 突然、リムメラーナが勢いよく体を起こしたので、アイーシャは何事かと驚いた。そんなアイーシャの様子にも構わず、リムメラーナはウォーレンのローブの袖を引いて、老人の耳元に唇を近づけた。 「サラディン様と……、氷系呪文を応用して……」 ウォーレンが感心したようにうなずいている。リムメラーナが名案を思いついたのだと、ランスロットは信じて疑わなかった。 翌日、ソミュールの街外れに、一頭のグリフォンが舞い降りた。身軽に地上に降りると、リムメラーナは白い大きな箱を抱えて、一軒の家の前に立った。 「ポーシャ、いる?」 |