強い風に含まれた潮の匂いが、目的地に近づきつつあることをジュヌーンに告げた。足を止め、フードが飛ばされないように左手で押さえつける。振り返ると、半歩後ろを歩いていた少女が、前のめりの姿勢で立ち止まっていた。 「一度、休むか?」 黙って首を振ると、少女は再び歩きだしてジュヌーンを追い抜いた。疲れのためか、荒い息を吐いており、うつむきがちの顔には汗の粒が浮かんでいる。それを見て取ったジュヌーンは、言い聞かせるように少女の名を呼んだ。 「オクシオーヌ。疲れているのなら、休んだほうがいい」 オクシオーヌはもう一度首を振り、足元の砂を踏んで走りだした。立ちつくすジュヌーンの目には、オクシオーヌの背中が次第に小さくなる。 目的の場所まではほぼ一本道で、ジュヌーンとオクシオーヌがはぐれることはない。このまま距離をおいて彼女を一人にするべきか追いかけるべきか、判断に迷いながら、ジュヌーンは砂浜に残る足跡に沿って歩きだした。 砂浜の先に、かつてオクシオーヌの故郷だった場所があった。 ジュヌーンの足元の砂に、黒いものが混じっている。軽く腰をかがめると、それらが風に飛ばされた灰や、燃え残った木切れであることが分かった。燃え焦げた家屋の黒い柱は、墓標のように並んでおり、それを見回すジュヌーンに痛みを与えた。だがその痛みも、かつて彼が振り下ろした剣で少女が負った傷に比べれば、何ということはない。 砂浜に下りていく足跡の先に、オクシオーヌの姿はあった。祈りでも捧げるように、波打ち際に突き立てられた木の十字架の前に佇んでいる。吹き付ける風に耳を打たれながら、ジュヌーンは彼女を眺めていた。灰色に曇る空の下で、藍色の海が大きく波打っている。吐き出した息が、風に溶けていった。 いつの間にか、オクシオーヌがジュヌーンに向かって手を振っていた。ジュヌーンはすこしの間、打ち寄せる波に目を奪われていたらしい。ゆっくりと歩いてオクシオーヌに近づくと、足元の砂が鳴くような音を立てた。 「みんなの、村のみんなのお墓よ。……お参りしていって」 オクシオーヌはそう言って、彼女の胸ほどの高さの墓標を指し示した。木の枝を組み合わせて作られた粗末な十字架に向かって、ジュヌーンは深く頭を垂れた。祈りを捧げている間、波が浜辺の岩を覆っては引いていく音が、なぜか耳についた。 「砂浜に、村の人たちが?」 村の廃墟には、そこにあるはずの村人の遺体が一つもなかった。カラスや野犬が屍肉を食いあさったとしても、骨が残らないはずがない。虐殺のあとで、オクシオーヌがひそかに弔ったのは間違いないだろう。 だが、オクシオーヌは首を振った。 「みんなが眠ってるのは、ここじゃないわ」 村人たちが眠る場所を尋ねようとして、一瞬だけジュヌーンはためらった。オクシオーヌは痛ましげな、それでいて懐かしげな表情で十字架に触れると、もう片方の手で、目の前に広がる海原を指し示した。 「海か……」 遠い昔から、ヴァレリアの民は何らかの形で海と関わって生きてきた。海の神を崇めるバスクの人々が、水平線の果てに死者の国があると考えても、不思議ではないように思える。海は、魚や貝といった日々の糧を与えてくれる生命の母であり、大波と嵐で船乗りを引きずり込む死神でもあるのだから。 「命は海から来て、海に還っていく。村のみんなもそうよ。そして、いつか海からやって来る新しい命のなかに、村のみんながいるの。海に還った命は、また、海からやって来るものだから」 オクシオーヌが語りかけているのは、隣に立つジュヌーンではない。死せる人々を受け入れた目の前の海に向かって、少女は祈っているのだ。傷ついたオクシオーヌを支えていたバスクの教えが、真実のものであるようにと。彼女が口にする命という言葉の中に、かつて自分が奪ったものは含まれているのか、ジュヌーンは尋ねてみたかった。 尋ねる代わりに、オクシオーヌに手を伸ばした。栗色の髪が、冷たい潮風に煽られる。頭を撫でるわけでもなく、引き寄せるわけでもなく、ただ置かれただけのジュヌーンの手を、オクシオーヌは拒まなかった。ジュヌーンの目は、オクシオーヌではなく、海を見ている。白い波には、すべてを飲み込み、迎え入れる力強さがあった。 「あっ」 不意に、オクシオーヌが声をあげた。それに弾かれるように、ジュヌーンの手が少女から離れる。いつしか、空から白いものが舞い落ちていた。 「雪だわ、ジュヌーン」 「いや、雪ではないな」 見上げた空を埋め尽くす灰色の雲は、雪を含んだものではない。北のバハンナ高原の雪が、風で運ばれたのだろう。それを風花と呼ぶのだと、ジュヌーンは短く言った。 「きれいな名前。冬にだけ見られる花なのね」 オクシオーヌは宙を舞う風花に手を伸ばしている。戦いの間は真一文字に引き結ばれていた口元がほころびて、少女の顔は柔らかい。 怒りと憎しみ、警戒心。その奥に見え隠れする悲しみと孤独。出会ったころのオクシオーヌの表情からは、それらが容易く見てとれた。その彼女が、今ではジュヌーンに、穏やかな顔を見せている。成長と言うべきだろうか、オクシオーヌは明らかに変わった。 だが、本当に変わったのは、彼女を見つめる自分自身の目ではないかと、ジュヌーンはときおり思うことがある。長いあいだ、彼は罪の意識と後悔という、二つの枠を通した世界だけを見てきた。その枠を捨て去ってしまえるほど、彼の罪は軽くはないが、ごく最近、その枠とは別の視点で世界を見ることを知った。あるいは、幼いころに見ていた世界を、思い出しただけなのかもしれない。その目で改めてオクシオーヌを見たときに生まれた、負い目でも償いでもない感情は、今もジュヌーンの内に宿っていた。 「もしかしたら」 栗色の瞳が、何の前触れもなくジュヌーンを見た。思わず身構えている自分に気づき、ジュヌーンは軽く肩をすくめる。ジュヌーンの内心を知らず、オクシオーヌは一度閉じた唇を開いた。 「もしかしたら、この風花、デニムが届けてくれたのかもしれないわね」 重い責任と深い罪を両肩に乗せた年若い戦友は、常に他人のことを気にかけていた。風との繋がりが深い彼ならば、妹のように可愛がっていたオクシオーヌのために、風花を降らせることができるかもしれない。何よりも、旅立つ身でありながら、見送る者に花を贈るというのが、実に彼らしい。とりとめもなくそんなことを考えながら、ジュヌーンは風に舞う花びらを静かに見上げた。 「……また、会えるわよね」 「ああ、きっと」 オクシオーヌと同じように、ジュヌーンはデニムとの再会を望んでいるし、信じてもいる。答える言葉は短かったが、力がこもっていた。 デニムは、ジュヌーンに償いの機会を与え、罪を犯した者の生きる道を、身をもって示してくれた。オクシオーヌの深い悲しみを癒し、復讐を選ばずにはいられなかった少女の心を解きほぐしてくれた。彼がいなければ、今のジュヌーンはなかっただろう。感謝の思いを十分に伝え切れないまま、少年と別れたことが悔やまれた。 それでも、思いを伝えるのが言葉だけではないことを、ジュヌーンは知っている。デニムへの感謝は、デニムが示してくれた道を行くことで、示せばいい。 戦乱が終わったとはいえ、今もなお争いの火種はヴァレリア島の各所でくすぶっている。それらを一つずつ消していくことは難しいが、ジュヌーンは自分の力と未来を、そのことに捧げようと思う。いつか海を越えて戻るデニムに、つかみ取った平和を誇れるように。海から訪れる新しい命が、二度と戦いに傷つくことがないように。 風花はうねる波に舞い落ち、やがて吸い込まれるように消えていった。 |