一人で


 従妹の小南桐絵がお嬢様学校として名高い私立中学に合格したことを嵐山准が知ったのは、寒さの残る二月終盤のことだった。
「皆で食べられるような大きいケーキを予約してあるの。フルーツは食べてもいいけど、上の板チョコは私のだから」
 嵐山のお下がりの赤いダッフルコートを着た従妹の足取りは、羽のように軽い。彼女の合格祝いの席に、嵐山の家族は招かれていた。
「桐絵が志望校に受かったのはめでたいけど、同じ学校に行けないのが残念だよ。俺、桐絵の先輩になりたかったのに」
「学校が別々でも、准は准じゃない」
 従妹は嵐山の弟妹には「くん」と「ちゃん」を付けるのに、彼だけは呼び捨てにする。互いの親はその度に訂正するが、「じゅんおにいちゃん」と上手に言えなかった幼い日の彼女に「じゅんでいいよ」と言ったのは、他ならぬ嵐山自身だった。
「それに嵐山センパイって言い方、よその人みたいな感じがして変!」
 中学のブレザーを着た従妹と偶然、校舎で出くわす場面を嵐山は想像する。嵐山先輩。今まで築き上げてきた繋がりと血縁を否定するような呼びかけに、彼の心は抉られた。
「うん。やっぱり先輩呼びはナシだな。それで、桐絵が行く学校ってどんなところなんだ?」
 翌年の受験に備えて、嵐山は近隣の高校の情報を集め始めているが、女子校については何の知識もない。
「制服がすごく可愛いの!」
 それを着られることが嬉しいのか、従妹は満面の笑みを浮かべた。志望校選びにおいて、女子が学力と同じぐらいに制服のデザインを重要視することは嵐山も知っている。
「雰囲気はどんな感じなんだ? 色々あるだろう。校則が厳しいとか」
 嵐山がイメージする「お嬢様」には、「おしとやか」や「お金持ち」という言葉がついてくる。その次に連想するのは「わがまま」と「箱入り」だ。従妹はやや強引なところがあるが、元気で可愛いらしい子だ。学校が求める「お嬢様」という枠に押しこめて、窮屈な思いをさせたくはない。
「そんなことないわよ。上級生は優しそうだし、建物はきれいだったもの。英語のスピーチ大会とか楽器の演奏会とか、色々な行事があるんだって。そういう体験が大事だから、受けてみたらどうだって勧められたの」
「おじさんとおばさんに?」
 従妹は途端に黙りこんだ。小南桐絵の隠し事に嵐山が気づいたのは、二年ほど前のことである。学校や習い事に関わるものではなく、しかも人に明かせない人間関係。嵐山が追求しないのは、それが彼女を困らせたり傷つけたりするものではないように思えるからだ。
「まあ、女子校だったら不良もいないだろうし、悪い虫も寄ってこないだろうから、そこは安心だな!」
 世間というものについて語れるほど嵐山はまだ生きてはいないが、「お嬢様」は時おり、「世間知らず」という言葉とセットにされる。従妹は勉強はできるが人の話を鵜呑みにする傾向があり、詐欺にでも遭いはしないかと、彼はかねてから案じていたのだった。お嬢様学校に、人を騙すような人間はたぶんいないだろう。
「前に聞いたんだけど、悪い虫はものすごくブキミだから、見た人がショックを受けないように、昆虫図鑑にはわざと載せてないんだって。日本にもいるらしいけど、どんな形してるのかしら。准は見たことある?」
 昆虫の写真に顔をしかめながら図鑑をめくる従妹の姿が、嵐山には簡単に想像できた。そして従妹が外で恥ずかしい思いをしないように事実を告げる。悪い虫は昆虫ではなく、女性に近づく人間の男のことだと。
「迅のやつ! またあたしを騙したのね!?」
 従妹の声が怒りの声を上げた。彼女がジンという人物に、事あるごとにデタラメを吹きこまれていることを嵐山は知っている。
「桐絵からよく名前を聞くけど、ジンってどんな奴なんだ? 男?」
「そうよ。准と同い年。アンヤクが趣味だけど、悪い奴じゃないわ」
 暗躍。嵐山は三秒かけて、従妹の言葉を漢字に変換した。彼女の説明を聞いた者の大半は、悪人ではないと言われても暗躍が趣味では説得力がないと指摘するだろう。だが嵐山准という男は違った。
「そうか。俺もいつかジンに会いたいな。会って、友達になりたい」
 驚いたような、そして困ったような表情を一瞬だけ浮かべて、従妹は顔をそらした。見て、お一人様二つまでだって。ドラッグストアの店先に積まれた箱入りのマスクに視線を送りながら、彼女は呟く。話題を変えようとしていることは明らかだった。
「あまりゆっくり歩いてると、風邪をひいてあのマスクが必要になるかもしれないな。急ぐぞ、桐絵。ケーキ屋さんまで競争だ!」
「予約してあるんだから、ケーキは逃げないわよ!」
 冷たい風を受けながら嵐山は走り出した。後を追う従妹の声はボールのように弾んでいる。彼女が抱えこんでいる秘密を明かし、後ろめたさから解放される日が来ることを、嵐山は心から望んだ。

 その日は唐突に、そして嵐山が全く想像していない形で訪れた。
 生き物でも機械でもない怪物が光線を放ち、一瞬でビルを瓦礫に変える。中にいた人間は恐らく助からないだろう。轟音とレポーターの悲鳴を捕えたカメラが揺れ、映像が乱れる。住み慣れた街が日常ごと破壊されていく様を、嵐山は家族とともに見つめていた。
 市民の救助と怪物の迎撃のために派遣された自衛隊は成果を上げるどころか、逆に犠牲者の仲間入りを果たしつつある。現在のところ、被害は三門市の東部に集中しているが、怪物が嵐山の家や学校の近辺にまで押し寄せて来るのは時間の問題のように思われた。
「ねえ、どこに逃げればいいの?」
 市民が避難している小学校が怪物に襲われたことを知らせるテロップを見つめながら、佐補が声を震わせた。大勢の人々が一ヶ所に集まっていては、攻撃の犠牲者が増えることになる。だが、市内の道路は倒された自動車や手つかずの瓦礫によって各所が封鎖されており、通行可能な道路には自動車が長い列を作っていた。
「兄ちゃん、俺たち……死ぬの?」
 大丈夫だ、心配ない。何があってもお前たちは俺が守る。そんな気休めさえも口にできないまま、嵐山は弟妹を抱きしめた。普段は嵐山の過剰なスキンシップを嫌がる二人が、大人しく腕に収まっている。
「歩くから時間はかかるけれども、蓮乃辺まで行かないか?」
 バスや電車がほぼ通常通りに運行している隣町への避難を嵐山は提案したが、移動中に怪物に出くわす危険を考えてか、両親は良い顔をしなかった。貴重品を持ち出せるように指示を出したきり、二人はテレビやパソコンの画面に見入ったままで動こうとしない。住み慣れた家を家族全員の死に場所にと考えるような親ではないが、落ち着いているのか鈍感なのか、その考えは嵐山には読み取れなかった。
「桐絵ちゃんたちは大丈夫かな」
 嵐山は弟妹と顔を見合わせた。小南家と従妹が通う中学校は、怪物の攻撃を受けている場所からは離れているが、それは必ずしも彼女たちの無事を保証するものではなかった。
「桐絵ちゃんは……」
 何事かを言いかけた母の声に、レポーターの悲鳴が重なった。嵐山はテレビに視線を戻す。真っ二つにされた怪物がスローモーションのように倒れ、画面から消えた。
「何だ、今の」
「怪物、どうなったの?」
 混乱するレポーターと不安定な映像から正確な情報が得られるはずがない。テレビ局もそれを承知しているのか、カメラを切り替えた。三門市役所付近の車道を、自動車ほどの大きさをした怪物が獲物を求めて這い回っている。
 それに目がけて急降下したのは鳥ではなかった。ビルの三階から怪物の背に降り立った男が、長い刀を突き立てる。動きを止めた怪物に、嵐山は非常時でありながら、ピンで固定された昆虫の標本を連想した。
 その瞬間から、怪物は人間の歯が立たない存在ではなくなった。テレビ画面には怪物が撃破される姿が映り、それを裏付ける画像がネット上にアップロードされていく。パソコンの画面を見ながら、嵐山は声を上げた。
「これ、桐絵じゃないか……?」
 女の子が怪物を食い止めてくれたおかげで避難できたというコメントの付いた画像の人物は小さく、顔は判別できなかったが、嵐山との血の繋がりを示す跳ねた髪は見間違えようがなかった。
「間違いなく桐絵ちゃんよ。あの子、怪物と戦っているの」
 嵐山と彼の両脇からパソコンをのぞきこんでいた弟妹は、一斉に母の声に振り返った。
「どうして桐絵に、そんなことができるんだ?」
 嵐山の問いに答えたのは、母ではなくテレビに映る男性だった。この日のために備えてきた。男と揃いのエムブレムをつけた従妹の姿が一瞬、カメラを横切ったとき、嵐山は彼女が抱え続けてきたものの重みに、胸が締め付けられるような思いがした。

「悪いな。忙しいだろうに、呼び出して」
「よく言うわよ、ちっとも悪いと思ってないくせに」
 キャラメルフラペチーノとニューヨークチーズケーキの乗ったトレイをテーブルに置きながら、従妹は軽く口を尖らせた。
 従妹はボーダーの一員として、三門市内のパトロールや出現する怪物、ネイバーの撃退にあたっている。学業を疎かにしないという組織の方針により、可能な限り中学校に出席している彼女に会う約束を嵐山が取り付けることができたのは、三門市がネイバーに襲われた約一ヶ月後のことだった。
「どうすればボーダーに入れるか、教えてくれないか」
 椅子に着くなり嵐山は用件を切りだした。従妹は慌てたように周囲を見回す。顔を近づけてきた勢いで、二人の額がぶつかった。
「声が大きいのよ」
 慌てて嵐山は謝罪したが、従妹は顔をしかめたままだった。彼の声の大きさではなく、言葉に戸惑っていることが見て取れる。やがて彼女は緑のストローに口をつけ、ひと呼吸おいてから低い声で問い返した。
「入ってどうする気なの」
「決まっているじゃないか。街を守るんだ」
「そんなこと、准にできるわけないでしょう」
「やってみないと分からないじゃないか」
 従妹は嵐山から視線をそらし、やや乱暴な手つきでケーキを切り崩した。彼女の家でケーキを食べた日のことを嵐山は思い出す。二人は物心つく前から、祝い事や季節の行事を互いの家で過ごしてきた。家族や友人と過ごす温かなひとときが、実はひどく脆いものだということを、今の彼は知っている。目の前でフォークを握る従妹が、ランドセルを背負っていたころから、街を守るための訓練を受けていたことも。
「桐絵」
 呼びかけに顔を上げた従妹が、大きく目を見開いた。その姿が熱とともに滲む。嵐山の顎を雫が伝い、テーブルに落ちた。
「俺は、ものすごく後悔してる。お前の隠し事に気づかないふりなんかしないで、嫌がられても本当のことを突き止めればよかった。そうすれば、お前を一人で戦わせずに済んだんだ」
 店内の冷房のせいか、引き寄せた従妹の手は少し冷たかった。嵐山の両手から、彼女は逃れられない。男女の力の差は歴然としているのに、ネイバーとの戦いにそれは意味を持たないのだった。
「今までずっと一人で辛かっただろうに、気づいてやれなくてすまなかった。これからは、俺がお前の力になる。もうお前を一人ぼっちで危ない目に遭わせたりなんかしない」
 嗚咽をもらす嵐山の耳に、周囲の声が入りこんできた。修羅場? まだ若いのに大変ね。彼は首を振る。大変な思いをしている従妹に手を貸したい。家族や友人を自分の手で守りたい。嵐山の望みはそれだけだった。
「准。とりあえず泣き止んで。そんな状態じゃ話もできないわ」
 目元をぬぐうには紙ナプキンはやや硬かったが、嵐山は隣席のサラリーマンのカプチーノ一杯分の時間をかけて従妹の指示に従った。
「今すぐには無理だけど。街に基地が完成したら、き……じゃなくて司令たちは、人を集めて組織を大きくするつもりらしいわ」
 ボーダーが三門市内に巨大な基地を建設することは嵐山もニュースで知っている。工事の期間に考えを巡らせかけた彼に向かって、不機嫌そうな表情のまま従妹は言葉を続けた。
「募集が始まったら、准は私が止めても、おじさんやおばさんが反対しても、入隊の申込みに行くんでしょう」
「ああ、もちろんだ!」
 嵐山は胸を張った。さっきまで泣いてたくせにと従妹は口を尖らせる。
「……おじさんたちに心配かけるんじゃないわよ」
「ああ」
「勉強もしなさいよ。受験生なんだから」
「分かってる。心配してくれてありがとうな、桐絵」
 頭に置かれた嵐山の手を、従妹は拒まなかった。彼女の心は素直で他人への思いやりに満ちてるのに、その表現が得意ではないことを彼はよく知っている。満面の笑みに視線を向けながら、従妹は言った。
「ボーダーに弱いやつは要らないの。足手まといになったら承知しないからね、准」


ボーダー最強部隊のアタッカーであるこなみ先輩に
「一人でよくがんばったな」などと言えるのは、従兄の嵐山だけだと思うのです。
嵐山がボーダーに入隊したのは三門市内に本部基地が完成した後だと書かれていましたが、
なぜ彼が最上さんや迅の母親のことを知っているのか、
こなみ先輩と迅さんと嵐山の関係が非常に気になるこのごろです。

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