「ねえ、ヴィンセント。今度、ガスト博士の部屋で、ジェノバ・プロジェクト承認記念と
ニブルヘイムに行く前の壮行会兼ねて、飲み会やるの。もちろん来るわよね?」 「……私が参加しても構わないのか?」 「何、言ってるのよ。あなたも一緒にニブルヘイムに行く、仲間なんだから」 笑顔のルクレツィアに、そう話しかけられた時、ヴィンセント・ヴァレンタインは断われなかった。 どちらかというとひとづきあいが得意なほうではない彼にも、ルクレツィアは気楽に声を掛けてくる。 ガスト博士の研究チームに、彼がとけ込んでいけるように。 「分かったよ、ルクレツィア。で、その飲み会はいつなんだ?」 ヴィンセントは、ルクレツィアに教えられた飲み会の日時を手帳に書き込むと、その日が空くように 他の仕事を片付ける段取りを、頭の中でつけはじめた。 夕暮れのミッドガル八番街。街灯の下に立ってルクレツィアが待っている。手を振る彼女に向かって、 ヴィンセントは走り寄った。待ち合わせの時間に十五分ばかり遅れたのは、彼の仕事が少しだけ長引いた ためだった。 「遅れて済まない」 「いいのよ、私もいま来たところだから」 「……ガスト博士と宝条は?」 「博士の社宅で用意をしていてくれてるわ。買物済ませて早く行きましょ」 ルクレツィアに一歩だけ遅れて、ヴィンセントは歩き出した。白衣を着ていない彼女を見るのは、 今日が初めてだった。どちらかというと地味で、目立たない格好だったが、彼女の美しさを損なう ようなものではなく、むしろ引き立たせているように彼には思えた。 二人で、酒とツマミを買う。その行為はひょっとすれば、世間一般でいうところの「デート」に類するものなのかもしれない。 そんなことをふと考えた時、ルクレツィアに声を掛けられた。 「どうかしたの?」 「いや。……何でもない」 今、自分が考えていたことを知れば、この美しい女性はどういう反応をするだろうか。 そんな思いを込めてルクレツィアの髪を見つめながら、ヴィンセントは彼女よりやや遅れて、 ディスカウント・ショップに入っていった。 缶ビールやツマミの詰まったナイロン袋を提げて、ヴィンセントとルクレツィアがガストの社宅に 着いたのは、七時を少し過ぎたころだった。博士の社宅は、ヴィンセントに割り当てられているそれと、 ほとんど同じ形をしていて、壁の色が少し濃いところだけが違っていた。部屋の中身は、少しどころの 違いではないだろう。 部屋を埋め尽くす機械と書物の山をヴィンセントが想像した時、ルクレツィアが彼の心を読み取った ようなことを言った。 「いちおう、少しは片付いてると思うけれど、崩れそうな本の山とか、床のコードに足引っかけない ように気をつけてね」 「ああ、気をつけよう」 でも、タークスのあなたにそんな心配は要らないかもね。ルクレツィアはそう言って、インターホン を鳴らした。 「やあ。遅かったじゃないですか、二人とも。さあ、どうぞ入ってください」 ガストが二人を出迎えてくれた。博士に案内されてソファとテーブルのあるリビング・ルームに入ると、 不機嫌そうな顔の宝条が待っていた。 「ふん、遅かったな。たかだか買物をするだけにしては時間がかかりすぎだ」 「ごめんなさいね、宝条。私が、選ぶのに手間取ったから」 「私の仕事が遅れたからだ。彼女に責任はない」 ヴィンセントと宝条の視線がぶつかって、二人の間を沈黙と険悪な空気が流れる。それを感じたのか、 ルクレツィアがガストに声をかけて沈黙を破った。 「博士、コンロお借りしてもいいですか?」 「ああ、構わないですよ」 「じゃあヴィンセント。そっちの袋、くれる?」 受け取ったナイロン袋を手に、ルクレツィアとガストが台所に向かう足音を聞きながら、ヴィンセントは 残りのナイロン袋を開けて中身をテーブルの上に置きはじめた。 宝条の行動は、ガストの存在を強く意識しているようにヴィンセントは思う。また、科学以外のものが 目に入っていないのか、危険な発言をしてガストにたしなめられている場面を、彼らと知り合ってからの 短い間に、何度か目にしていた。 「そうそう。さっきルクレツィアに聞きそびれたのですが、期間限定販売の『ソル・カクテル』買ってきて くれましたか?」 台所から戻ってきたガストが、盆の上にあるものをテーブルに移しながら問いかけた。 「これですか?」 ヴィンセントは、木のテーブルの上を軽くすべらせて、ガラス瓶に入った『ソル・カクテル』をガストに渡した。 嬉しそうに目を細めて、ガストは瓶に入った水色の酒を眺めている。 「ああ、ありがとう。前から欲しかったんですがね、なかなか買いに行けなかったんですよ」 台所から、バターの香ばしい匂いが流れてきた。ガストは上機嫌で瓶のフタを開け、それをビーカーに 注ぎ始めた。 「……!」 「君たちもどうです?」 「私はこっちのビールをもらいます」 そう言って宝条は右手で缶ビールを、左手でテーブルにあったビーカーを引き寄せた。ヴィンセントは 考え事をしながら酒やツマミを並べていたので、気付かなかったのだが、ガストが台所から持ってきた ものは、ガラスのコップではなく、大小様々なビーカーだったのだ。 「博士、コスタ・デル・ソルでしたら、ニブルヘイムに行く途中で寄ってみませんか? あそこなら、 いつでも『ソル・カクテル』売ってるそうですよ」 ルクレツィアがテーブルの中央に、できあがったばかりの炒めものが盛りつけられた大皿を置いた。 妙な顔つきのヴィンセントに気がついて、ルクレツィアは笑いかける。 「どうしたの? 好きなもの飲んでちょうだい。遠慮なんかしなくていいのよ」 「別に、遠慮をしているわけではない」 そっとビーカーを手で示し、小さな声でルクレツィアにささやきかけた。 「つまり、これは、世間で言うところのビーカーじゃないのか?」 「ええ、ビーカーよ。サイズいろいろだから実験でも便利だし、お酒だって飲みやすいのよ。ねえ、宝条。 そのビール、半分くれる?」 この場にそれがあることが、さも当然だと言う顔をして、ルクレツィアはビーカーに缶ビールを移しかえ、 それをヴィンセントに手渡した。 「はい、ヴィンセント。ついでに、そこの赤いカクテル、取ってくれない?」 ルクレツィアが赤いカクテルをビーカーに注いでいる。ヴィンセントには、その姿が、研究室で薬品 を扱っているように見えた。 「あまり堅苦しい挨拶は苦手なんですが、乾杯といきましょうか」 少し照れた顔でガストがビーカーを軽く掲げ、乾杯の音頭をとった。ビーカーが軽く鳴る。 ヴィンセントが見守るそばで、ガストたちはビーカーに口をつけてそれぞれの酒を飲みはじめた。 ビールはともかくとして、赤や青の鮮やかなカクテルは、どう見ても化学薬品にしか見えない。おまけに、 このビーカーは、「実験室で余ったのをもらってきたんです」という雰囲気で、どうも薬品の匂いが 染みついていそうだ。 「君はビールが嫌いなのですか? なら、こっちのカクテルをどうです?」 ヴィンセントがビールに口をつけていないことを、ガストはよく見ていた。彼のビーカーの中の ソル・カクテルは、子どものころ見た理科の本に載っていた、塩化銅水溶液とかいうものによく似ていた。 手を振って、ヴィンセントは勧められたカクテルを断わったが、酔っているのか、博士はそれを聞いてくれない。 「まあ、そんなことを言わずに。どうぞどうぞ」 無理矢理、ヴィンセントのビーカーに青いソル・カクテルを注ぎ足してしまった。何とも言えない不気味な 色合いの液体が、呆然とするヴィンセントの手の中でぐるぐると回っている。 「何だ、君は私と分けたビールが飲めないとでも言いたいのか。そうか、私の酒が飲めないんだな」 すでに出来上がってしまっている宝条がからんできた。別に誰の酒であっても、ビーカーに入った酒 を飲む気にはなれない。 それだけのことだが、ヴィンセントは口には出さない。もともと無口な彼は、目の前の液体を どうすれば飲まないでいられるかを考えるのに夢中になっていて、余計なことを話す気になれないでいた。 「宝条、それって酒の席で一番、嫌がられる言葉よ。ごめんなさいね、ヴィンセント。私が勝手にビール入れたから」 「別に君のせいじゃない。そう、少し考え事をしていただけだ」 済まなそうな顔のルクレツィアに笑顔を向ける。少し、その顔はひきつっていたかもしれない。ヴィンセントは、自分自身でその逃げ道をふさいでしまった。 落ち着け、ヴィンセント・ヴァレンタイン。これは、ただのビールだ。少しばかりカクテルが 混じっていて、グラスが少々、変わった形をしているだけで、どこもおかしなところはない。せっかく 注いでくれたルクレツィアの好意を無駄にするわけにもいかないだろう。 一気飲みをしてしまえばそれで話は済む。 自分に言い聞かせた。こんなに緊張したのは、タークスの初仕事以来だろうか。ゆっくりとビーカーを口に近づける。 それに口をつけた。最初の一口が飲めない。あとが続かない。濡れた唇からビーカーを離して、大きく息を吐き出した。 舌先に残った液体は、だだ甘く、ものすごく苦かった。 「何か、食べるもの取りましょうか?」 ルクレツィアがそう言いかけた時、PHSの呼び出し音が部屋いっぱいに鳴りだした。 ヴィンセントが腰のPHSを取って、低い声で答える。 「……ヴィンセントだ。…………ああ、そうか。わかった、すぐに戻る」 PHSの向こうから聞こえる同僚の声が、ヴィンセントを危機から救ってくれた。遠い昔に滅んだ、 神というものは、あんな声をしているのかもしれない。 「すまないが、急な仕事だ。今から会社に戻らねばならない。これで失礼する」 ガストが何か言いかけたようだが、ヴィンセントの耳には入らない。慌てたように社宅を飛び出していった。 「タークスの仕事って大変ね。ヴィンセント、あんなに慌てて」 ルクレツィアはしみじみと言いながら、ビーカーを傾けてカクテルを飲み干した。 神羅製作所本社へと続く道を小走りで進みながら、ヴィンセントは何度もハンカチで口をこすっている。 ルクレツィアは美しいだけでなく、細かい心遣いのできる立派な女性だ。ガストは堅いところもあるが、 生真面目な紳士だ。宝条は危険な男だが、仕事の上でつき合って行く分にはなんら問題はないだろう。 だがしかし。結局のところ、三人とも科学者なのだ。心から打ちとけることはできないだろう。そのことを、 この晩実感したヴィンセントであった。 本社に戻るなり、ヴィンセントは洗面所に飛び込んで、しつこいほどにうがいを繰り返してタークスの 同僚に不審がられた。 この日から一年ほどすぎたあと、ヴィンセントはながい眠りにつき、ガストは神羅を辞めてしまう。 数年後、アイシクルロッジで。 「はい、あなた。ココアが入ったわよ」 コンピューターのディスプレイを見つめながらメモをとっていたガストに、彼とは釣り合わないの ではないかと思うほどの美女が、モーグリが描かれたブルーのマグカップを手渡した。 「ありがとうございます、イファルナさん。あ、いや、その、……イファルナ」 自分の妻になったばかりの女性をさんづけで呼んだことに気付いて、ガストは済まなそうにイファル ナを見た。イファルナが笑っている。その笑顔につられてガストも笑い、彼女お手製のココアを一口 飲んで、すこしばかり表情を変えた。 「どうしたの、あなた。ココア、まずかったの?」 片手に、ガストと色違いのピンクのマグカップを持ちながら、イファルナは少しだけ前かがみになって、 ガストをのぞきこんだ。 「いえね、たいしたことではないのですよ。神羅にいたころは、温かいものは乳鉢で飲んでいましたから、 マグカップは飲みにくいな、と思っただけです」 懐かしそうにため息をつくガストを見た時、彼が白い実験用乳鉢でコーヒーをおいしそうに飲む姿を 想像してしまったイファルナは、小さく息を吐いて心の中でこうつぶやいた。 この人は誠実で、根はいい人だと思うけど、このクセだけは絶対に治してもらわなきゃ。 こんどうまれてくる子が、間違って薬でも飲んだら大変だわ……。 |