取り戻した翼


 空を見る兄の目が、エステルは好きではなかった。
 幼いころは、兄と肩を並べて流れる雲を眺め、流れ星を求めて夜空に目を凝らしたこともある。だが、いつのころからか、エステルは気づいてしまっていた。空を見上げる兄の両眼に、熱く強い光が宿っていることに。
 それは望郷の念と呼ぶにはあまりにも激しすぎて、エステルには呼び指す言葉が思い当たらない。だが、その輝きがいつの日にか、兄を遠いところに運び去ってしまうような気がして、兄が天の太陽から熱と光を分け与えられているような気がして、エステルは空を見る兄の姿に不安を覚えていたのだった。
 不安は、予感であったのかもしれない。旧友と再会した日から、ラフィンは空の住人となった。そこにエステルの手は届かない。夕焼け色の髪をした女性の手も、届かないだろう。それでも、兄とそのひとの心は、距離を越えたところで結ばれているようにエステルには思えるのだった。
 彼女に嫉妬しているわけではない。暗く激しいうねりではなく、深く静かな空洞が、エステルの内にある。かつて心の一部を占めていたものが、いつの間に失われたのか、今となっては分からない。あるいは、失われたという実感さえも、心の痛みが生んだ錯覚であるのかもしれない。飛び去ったものを求めるように伸ばされた指のあいだを、セネーの風が通り抜けた。
「エステルじゃないか。こんなところで何やってるんだ?」
 背後から投げかけられた声に、エステルは露骨に顔をしかめた。先日の宴の席でのアーキスのふるまいを、エステルは未だに許してはいない。返事には刺が含まれていた。
「あなたには関係ないわ。だいたい、なぜこんなところにいるの?」
「なぜって、晩メシ前の散歩さ。それとも、この館の庭を歩くのに、いちいちあんたの許可がいるのかい?」
 アーキスの口調に、からかうような響きを感じて、エステルは顔をそむけた。その動きにつられたアーキスの瞳が、空をとらえる。小さな吐息をエステルは耳にした。
「感覚を取り戻すためとはいえ、ラフィンの奴、毎日よく飽きないな」
「何を言っているの。馬も竜も、背中を預ける大切なものでしょう。好き嫌いの問題じゃないわ」
 強い語調に肩をすくめたものの、アーキスは言い返しはしなかった。追い払ったところで、おとなしく立ち去るような男ではない。彼の存在をあえて気にとめないようにして、エステルは空に見入った。沈黙を破ったのは、やはりアーキスであった。
「エステル。こんなおとぎ話を知っているか?」
 アーキスが唐突に語りだしたそれは、遠い異国の物語だった。一人の男が、ある女に心を奪われる。女は雲の彼方に住まう天の民で、その衣の力で天と地を行き交うことができたという。
「で、男は、女が水浴びをしている間に衣を隠してしまうのさ。そして、天に帰れなくなった女にまんまと近づいて、やがて二人は夫婦になる」
 夫婦は子をもうけるが、穏やかな時は長くは続かない。偶然、女が家の中から衣を見つけてしまうのだ。女が夫と子を置いて天に帰ってしまうところで、物語は幕を閉じる。
「それで、何が言いたいの?」
「さあね。まあ、俺に言わせればどっちもどっちさ。くだらない小細工で女を手に入れようとした男も、ガキまでおいて天に帰っちまった女も」
 険のある眼差しを受け流すように、アーキスは再び肩をすくめた。彼の意図は読めなかったが、おとぎ話の光景が現実と重なっていく様がひどく不愉快で、エステルは瞼を閉ざした。
「きっと、どちらが悪いだとか、そんなことではないのよ」
 風の音にまぎれて、飛竜の鳴く声が聞こえる。思い出すのは、空を求め続けた兄の瞳。翼を取りもどした彼にとって、エステルの存在は足かせにすらならなかった。他人が足掻いたところで、意志を曲げるような男ではない。開かれたエステルの唇は、乾いていた。
「男がどれだけ恋焦がれても、子どもを作っても、女は天の人間。最初から、縛りつけることはできなかったのよ」
 潤んだ両眼で、橙の空を仰ぎ見る。竜に跨がるラフィンの姿を、それでもエステルは美しいと思った。


 ラフィン←エステルですが、エステル失恋物語といった感じになりました(汗)。
 アーキスが語っているのは「天女の羽衣」なのですが、だいたいこんな話でしたよね?
 

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