堅実だが、華やかさと力強さに欠けた平凡なトレーナー。 ソニアに対する評価が間違っていると断言できたのは、オレが彼女の実力と、戦い方を誰よりもよく知っていたからだ。 だが、ソニアとのバトルで連勝記録を伸ばしているうちに、彼女が最後のバッジを手に入れるのに苦戦しているうちに、オレの確信は、自分でも気づかぬうちに慢心にすり替わっていた。 「いい調子だね、ピクシー!」 ソニアの声に、体を丸めたピクシーが笑みを浮かべる。だいもんじでギルガルドを戦闘不能に追い込んだのは、フェアリータイプのポケモンだった。セミファイナルトーナメントは、オレたちがシュートシティに着いた三日後に開催されたが、ピクシーの動きは急ごしらえのものではなく、ソニアとの信頼関係がうかがえた。 「キミ、いつの間にピクシーを育ててたんだ。ソイツがいれば……」 言いかけて、オレはソニアとピクシーを見比べる。ナックルジムのバトルでは、ソニアはラプラスを中心としたこおりタイプのポケモンで戦っていた。もしもピクシーをメンバーに入れていれば、彼女は一度目の挑戦でドラゴンバッジを手に入れていたに違いない。 要するに、ソニアがナックルジム突破に苦戦していたのは、フェアリータイプの手持ちが薄いと印象づけるための作戦だったのだ。 「このトーナメントのために、ピクシーを温存していたんだな」 ソニアに一杯食わされた悔しさよりも、バトルへの期待が上回る。毛の逆立つような感覚が背中を走り抜け、オレは声を立てて笑った。 「行け、オノノクス!」 ソニアは、オレのライバルです。 オレの言葉を聞いたテレビ局のスタッフは、説明できない嫌な表情で笑っていたものだ。多くの人たちが、オレとソニアにその言葉は相応しくないと考えている。 「オノノクス、アイアンテールだ!」 「ピクシー!」 同程度の実力を持ち、ともに高めあえる関係。オレのライバルは、オレとのバトルのためだけに、ガラル地方のメディアと、心ない言葉を吐き捨てる人々を利用して心理戦を仕掛けてくるような女の子なのだ。オレとポケモンが全力を出しても、並び立てるかどうか分からない。 「やっぱり当たっちゃったか。ダンデくんのそういうところ、本当に苦手。わざの命中率なんて関係なしに、確実に当ててくるんだもの」 オノノクスのアイアンテールは命中したが、ピクシーはリリバのみで持ちこたえ、逆にムーンフォースでオノノクスを吹き飛ばした。 ソニアをマグノリア博士の孫としか見ていない人たちは、大切なことを見落としている。彼女は、マグノリア博士だけの孫ではない。生きているかどうかは別として、人間には祖父と祖母が二人ずつ存在するものだ。 マグノリア博士の夫、つまりソニアのお祖父さんは、穏やかで優しく、植物に詳しい人だ。彼の百科事典のような知識を、小さいころから植物の世話や畑仕事を手伝っていたソニアは当然のように受け継いでいる。 彼女が旅の途中で目にした植物を図鑑やロトムで調べたのは、お祖父さんの影響だろう。だが、手に入れたきのみの味や効果に興味を持ち、ワイルドエリアのきのみを採り尽くしてヨクバリスを敵に回したのはソニア自身の問題で、たぶん家族は関係ない。 ワイルドエリアのきのみマスターとなったソニアにとって、きのみは料理の材料であると同時にバトルを有利に進めるための道具なのだった。彼女に勝つには、ポケモンに覚えさせている技だけではなく、持たせている道具やきのみまで読まなければならない。 「行け、ドサイドン!」 ボールから飛び出したドサイドンを見ても、ソニアは表情を変えない。だが彼女の瞳は静かに、そして燃えるように輝いていた。 「ドサイドン、スマートホーンだ!」 「ピクシー、バトンタッチ」 ドサイドンが動くよりも早く、ピクシーはモンスターボールに戻っていた。代わりに勢いよく飛び出してきた小さな姿は、巨大な角をすり抜ける。 「やったね、ロトム」 ソニアがオレと同時にポケモンを交代させなかったのは、バトンタッチでピクシーの防御力を引き継がせた上で、着実にオレのポケモンに対処するためだったのだ。ピクシーに当たるはずだったはがねわざは、でんきタイプとゴーストタイプを合わせ持つロトムには効果が薄い。 「ロトム、エレキフィールド」 「ドサイドン、ドラパルトと交代だ!」 彼女はセミファイナルトーナメントの緒戦で、ジムチャレンジで知り合ったバウタウンのルリナに勝利している。いつの間にか「サンダーソニア」と呼ばれるようになった彼女のポケモンに対抗するため、オレはドサイドンとガマゲロゲを手持ちに入れていたが、ふゆうの特性を持つロトムには、ほとんどのじめんわざが通用しない。 ゴーストにはゴーストをぶつける。雷が走り抜けるコートに、ドラパルトが浮かびあがった。 「ドラパルト、シャドーボール」 先手必勝。一撃必殺。四字熟語を形にしたような攻撃を、だがロトムはカシブのみで耐えしのぐ。 「ロトム、イカサマ」 様々な電化製品に入りこんでいたずらをするロトムは、実はあくタイプなのではないかと思うことがある。高い攻撃力を逆手に取られ、ドラパルトが地上に叩き落とされた。 「キミは、このジムチャレンジで得たものを、全部オレにぶつけてくれるんだな」 雨が降り出したというのに、オレの体の奥が燃えるように熱くなった。ソニアの全力を受け流すなんて、もったいないことはオレにはできない。ひとかけらも残らず受け止めて、それから。 オレがつかんだ赤いモンスターボールは、間違いなく熱を持っていた。 「リザードン!」 ロトムにかいふくのくすりを与えていたソニアの目が驚きに見開かれ、スタジアムがどよめく。リザードンの青緑の瞳は、静かに、しかし闘志を秘めながらオレを見据えていた。 「ソニアに勝ちたい」 電気が駆け抜けるコートのほぼ中央に立つソニアの姿に、オレは雷雲のあいだから現れるという伝説のポケモンを思い出していた。嵐をも越える雷の翼に追いつかなければ、オレは自分の目指す場所にすらたどり着けないのだ。 「ぱぎゅあ!」 「一気に巻き返すぞ、リザードン。キョダイマックス!」 リザードンの咆哮が、スタジアムに轟いた。 ポケモンバトルには、トレーナーとポケモンの信頼関係が欠かせない。オレに勝利を呼びこむために、リザードンは効果バツグンの攻撃に何度も耐え、まひすら自力で治してみせた。もちろん、リザードンのサポートに徹してくれたガマゲロゲとドサイドンの活躍も忘れてはならない。 ポケモンを鍛え上げ、勝つための指示を出すのはトレーナーの役割だ。判断力、集中力、闘争心。戦いに必要な精神力は、結局のところ体力に支えられている。そしてオレは、ソニアとの体力勝負には一度として負けたことがなかった。 ワンパチが倒れ、ソニアがコートの水たまりに膝をついた瞬間、戦いは幕を閉じた。 「試合終了。セミファイナルトーナメントの優勝は、ハロンタウンのダンデ選手です!」 スタジアムが歓声と拍手に揺れ、傷だらけのリザードンが雄叫びを上げた。 「すごく楽しかったぜ、ソニア!」 「おう……」 オレが差し出した手を、ソニアはしゃがみ込んだまま握り返した。疲れが滲んだエメラルドグリーンの瞳が、オレを見上げる。 「六体六じゃなくて、ボックスのポケモン全部使って、ずっと戦いたいぐらいだった」 「勘弁してよ、この……」 マイクに音声が拾われることを気にする余力は残っているらしい。オレは握ったままの手を引いて、ソニアを立ち上がらせた。スタジアムに照明が灯る。 「あれ……?」 「いつの間にか停電してたんだな、全然気づかなかったぜ」 ソニアの手に、わずかに力がこもる。オレはそれを握り返しながら、観客席を見上げた。 スタンディングオベーション。観客がオレとソニアの名前を繰り返し、拍手の合間に指笛が響く。 「何だか、開会式みたいだね」 「オレも同じこと考えてた」 開会式の声援は、八人のジムリーダーと全てのジムチャレンジャーのものだった。だが、シュートスタジアムに集まり、夜が更けるまで戦いを見届けた人たちは、オレとソニアと、互いのポケモンのためだけに声を張り上げている。 「……ダンデくん、最高のバトルをありがとう」 晴れやかな笑顔から、雨粒が落ちた。彼女の涙を、カメラに映したくはない。そう思った次の瞬間、オレは左手でソニアの頭を引き寄せ、その顔を自分の肩に押しつけていた。 「オレとキミなら、きっと、もっと上だって目指せるぜ」 だがそれは、ファイナルトーナメントを勝ち抜き、チャンピオンと戦った後だ。柔らかなオレンジの髪に触れるオレの肩と腕に、突然、ソニアの全体重がかかった。 「ソニア!?」 返事の代わりに、ソニアの髪が一房落ちかかった。様子がおかしいことに気づいたリーグスタッフが、慌てたように近づいてくる。 「医務室、どこですか!?」 オレはソニアと繋いだままだった右手を彼女の腰に回し、冷え切った体を担ぎ上げた。オレの肩に顔を伏せたまま、ソニアは何も言わない。 近づいてくるリポーターとカメラマンから逃げるように、オレはスタッフの後に続いた。 「過労だね」 「かろう」 ドクターの言葉に、オレは瞬きした。メスのイエッサンが、眠っているソニアの額に濡れたタオルを置く。 「疲れがたまってるだけ。きちんと食事して、しっかり寝たら大丈夫だから、病院に行く必要はない」 「すぐに治るんですか、良かった」 安堵するオレに向かって、ドクターは顔をしかめた。 「ちっとも良くないよ。十歳の子が倒れるまで無理するなんて、普通じゃ考えられない」 「でも……」 ジムチャレンジャーに年齢は関係ないというオレの言い分を、ドクターはひと睨みで抑えつけた。 「もう子どもはとっくに寝てる時間。表彰式やインタビューは明日でいいから、君はさっさとホテルに戻って寝ること。いいね?」 日付の変わる五分前を示す壁時計を見た途端、まるでさいみんじゅつに掛けられたかのように眠気と疲れが全身にのしかかり、オレの瞼が開かなくなった。 「ああ、ちょっと!?」 ファイナルトーナメントの会場もシュートスタジアムだから、医務室に泊まれば移動の手間が省ける。そんなことを考えながら、オレはソニアが眠るベッドに突っ伏したのだった。 「……選手、ダンデ選手」 目を開けると、ドクターとリーグスタッフがオレをのぞき込んでいた。慌てて起き上がり、自分がベッドで眠っていたことに気づく。 「ソニアは!?」 問いかけるオレにイエッサンが差し出したのは、封筒のように折りたたまれた白い紙だった。見慣れた文字とハートのシール。差出人を確かめるまでもなかった。 便箋代わりのスケッチブックには、目を覚ましたので先にホテルに戻ることと、ファイナルトーナメントに挑むオレへの激励の言葉が書かれていた。 「外国のことわざでは『腹が減っては戦はできぬ』といいます。食事はしっかりと、よく噛んで食べるように!」 ソニアの手紙を読み終えた途端、オレの体は空腹を思い出した。イエッサンが見覚えのある薄手のショッピングバッグからサンドイッチを取り出し、リーグスタッフが笑いかけた。 「ソニア選手からの差し入れです。昨日あれだけ激しいバトルを繰り広げた相手なのに、こういう気遣いができるなんて素敵ですね」 「ここはホテルでも食堂でもないんだけどね。それ食べ終わったら、さっさと控え室に行くんだよ」 ドクターが肩をすくめ、イエッサンが慣れた手つきで紅茶を淹れ始めた。 「ありがとうございました」 食事を済ませたオレは、リーグスタッフに送られて選手控え室に到着した。ソニアがホテルに戻る前に、オレのことを頼んでいてくれたらしい。 スタジアムの歓声が聞こえてくる。ジムトレーナーたちが、ジムチャレンジャー相手に見せた物とは全く違う本気のバトルを繰り広げているのだろう。 チャンピオンへの挑戦権を賭けたファイナルトーナメントは、セミファイナルトーナメントの翌日に行われる。一見、ジムチャレンジャーには不利と思われるスケジュールを、逆にオレは勝利のチャンスととらえていた。 公式のリーグ戦やジムチャレンジがテレビで放映され、戦い方や手持ちのポケモンが明らかにされているジムリーダーとは違い、ジムリーダーには、ファイナルトーナメントに勝ち残ったジムチャレンジャーを研究する時間の余裕がないのだ。もし、ファイナルトーナメントに勝ち残ったのがオレではなくソニアならば、少なくともナックルジムのリーダーは、彼女が温存していたピクシーに打ち負かされていただろう。 こおりタイプで戦うと思わせておいて、隠し持っていたフェアリータイプを出すのがソニアならば、ドラゴンにドラゴンをぶつけるのがオレの戦い方だ。 油断はない。だが、負けるイメージもない。 「ダンデ選手。準備はよろしいですか?」 スタッフの声にオレは立ち上がり、両手で頬を叩いた。 史上初、史上最年少。 勝ち取った称号とともに、オレの名前はガラル地方の歴史に刻まれることとなった。 とはいえ、歴史の重みというものが、オレにはまだ実感できていない。ソニアならば教えてくれたかもしれないが、オレは毎日のようにシュートシティで取材を受け、既にブラッシータウンに帰った彼女とは連絡さえも取れなかった。 ホテルロンド・ロゼで寝泊まりしているあいだに知ったことだが、セミファイナルトーナメントの決勝戦は、スタジアムの停電とテレビカメラの故障により、オレが最初にリザードンを出したあたりから試合終了まで、中継ができなかったらしい。 ネットには観客が撮影した動画や写真がアップロードされていたが、試合の内容やオレたちの顔が分かるような画像は皆無と言って良かった。そのせいで、ソニアとのバトルが「幻の決勝戦」と呼ばれていることを教えてくれたのは、ナックルジムのトレーナーに就任したキバナである。 「ダンデ、オレさまは次こそ、絶対にオマエに勝つからな!」 「楽しみに待ってるぜ!」 ジムチャレンジのあいだ、キバナがソニアと顔を合わせることはなかった。彼がソニアを傷つけるようなことを言う人間ではないことは分かっているが、オレが二人を引き合わせようとしなかったのは事実だ。 ソニアを子どもらしくないと評価したコメンテーターは、生出演したバラエティ番組で「子どもに出し抜かれた間抜けな大人」としてこき下ろされた。ガラル地方の人々は、他人だけではなく自分自身さえも笑いのネタにする。 最初からジムチャレンジャーはオレ一人しか存在しなかったと思わせるような報道には疲れたが、そのおかげで、世間の関心は少しずつソニアから離れ去った。 「ダンデくん。ガラル地方のポケモンバトルの未来は、チャンピオンであるきみにかかっています。いつも誰かに見られていると思って、言葉と行動には気をつけてくださいね」 マスタード師匠と似たようなことを言いながら、ローズ委員長は、オレに家庭教師をつける手筈を整えた。一般教養に話し方、テーブルマナー。スケジュールを聞いているだけで、頭が痛くなった。 ようやくオレがオフを得たのは、チャンピオンの座に着いてから十日ほど後だった。家族に勝利の報告をしたい。オレの要望にローズ委員長は目を細め、メディアが家に追いかけてこないように手を打ってくれた。 「ダンデ!」 「ハロンタウンの英雄!」 ブラッシータウン駅前には、ジムチャレンジに出発した時とは比べものにならないほどの人々が詰めかけていた。ホップを抱いた母さんが、駅員に誘導されながら近づいてくる。 「おかえり、ダンデ」 「ただいま」 牧草とウールーの匂いに、目の奥が熱くなる。母さんの肩に顔を伏せたオレの耳元で、ホップが笑った。 「にーちゃ、チャンプ」 「チャンピオン。言ってみろ」 「チャピオ!」 オレを見送ったときに比べて、弟は一回りは大きくなった気がする。チャンピオンという一人前のポケモントレーナーになったことで、オレは家族を支えられるようになった。少なくとも、ホップが家庭の事情を理由に、何かを諦める必要はないのだ。 「そういえば、ソニアはどうしてる?」 ホップを抱いて1番道路を歩きながら、オレは幼馴染のことを尋ねた。 「……家に戻ってから、しばらく寝込んでたみたいよ。ジムチャレンジが終わって、旅の疲れが出たみたいね」 「疲れ」 シュートスタジアムのドクターも、同じ事を言っていたことを思い出して、オレは身震いした。 「あんたがチャンピオンになれたのも、半分ぐらいはソニアちゃんのおかげかもね。きちんとお礼言っときなさいよ?」 「悪い、母さん。ソニアのところに行ってくる!」 「ダンデ!?」 オレはホップを地面に下ろし、もと来た道を引き返した。 半分なんてものではない。オレがチャンピオンになれたのは、九割以上彼女のおかげだ。彼女がいなければ、オレはジムチャレンジに参加することも、ガラル地方を旅してジムバッジを集めることもできなかった。セミファイナルトーナメントの決勝戦が、オレたちに力を与えてくれた。 ソニアに感謝を。オレはそれだけを考えて走り、彼女の家の前にたどり着いていた。 「ダンデくん、帰って来てたんだ。おかえり」 ワンパチを抱いて笑う女の子が見知らぬ人に思えたのは、ソニアが髪を切っていたからだ。女性の髪型には詳しくないオレでも、彼女の髪の長さでは耳のあたりで結べないことは分かる。 「ソニア、オレ、オレ……」 「ちょっと落ち着きなよ。はい、深呼吸して」 ソニアに導かれるまま、オレは呼吸を整えた。エメラルドの瞳が優しげな光をたたえている。 「優勝おめでとう」 「試合、見てくれたのか」 オレは背負っていたリュックから、借りっぱなしのショッピングバッグを取り出した。 「差し入れサンキューな。あれのおかげで勝てたようなもんだ」 「ダンデくん、チャンピオンになって忙しくても、食事と睡眠はしっかり取るんだよ。育ち盛りで、これから大きくなるんだから」 ジムチャレンジ期間中、オレたちは毎日お互いの顔を見て「おはよう」と「おやすみ」を言うようにしていた。万が一ケンカをしても、別行動を取らないように、出発の前に家族と話し合って決めたことだ。しばらくソニアの顔を見ていなかったせいか、彼女が髪型を変えたせいか、朝晩の挨拶を交わしていた日々がやけに遠くに感じられる。 「ソニアのおかげで、オレはチャンピオンになれた」 「おかげって、そんな……」 照れたようにソニアが頬に手を当てる。彼女の髪が元の長さに伸びるまでは、考え事をする時の癖は見られないのだろう。 「チャンピオンは、エキシビションマッチにトレーナーを招待できるんだ。今度の試合に、キミを招待したい」 その瞬間、エメラルドグリーンの視線が泳いだのをオレは見逃さなかった。彼女が姿を消した日の嫌な予感が蘇る。 「……ごめん。私、もうバトルはやめたんだ」 「何だって!?」 オレの前に立っているのは、ソニアによく似た別人ではないか。だが、瞳に宿る決意の色が、オレの都合の良い考えを吹き飛ばした。 「バトルをやめるって、どういうことだ」 夕陽を受けて輝く湖のように、ソニアの瞳は静かだった。たぶんオレの反応を予想していたのだろう。 「そのままの意味だよ。わたしはもう、トレーナー相手のバトルはしない」 「なんでだよ!?」 オレはソニアの両肩をつかんだ。痛みをこらえる彼女の顔を見て力を緩めたものの、それでもオレは手を引くことができなかった。 「わたし、ポケモン博士になろうと思うの。大学に進むためにも、準備が早いほうがいいと思って」 「ポケモン博士」 物知りで好奇心が強いソニアが、研究者を志すのは不思議でもなんでもないことだが、ポケモンバトルをやめる必要があるとは思えなかった。 「でも、博士がポケモンバトルしちゃいけないなんて決まりは、世界中のどこにもないはずだ。それに、バトルと別の仕事を両立してるジムトレーナーだって、ガラルにはたくさんいるじゃないか」 「……わたしには、無理だよ」 「やる前から、なんで無理だって決めるんだ!?」 ソニアを怯えさせたことに気づいた時には既に遅く、オレはワンパチを抱く腕に力を込めた彼女に視線を合わせて言い放っていた。 「ソニア、オレとバトルしよう。オレが勝ったら、キミはオレの言うことを聞いて、バトルを止めるのをやめる。キミが勝ったら、キミはチャンピオンより強いってことだから、バトルを続けてもらう」 バトルという言葉にワンパチが反応した。主人の腕を抜け出し、短い手足で地面を踏みしめる。ソニアの指示があれば、すぐにでも攻撃を仕掛けられる体勢だ。 「本当に、ダンデくんはバトルバカだよね。だからチャンピオンになれたんだろうけど」 ソニアが困ったように、しかし声を立てて笑ったので、オレとワンパチは思わず顔を見合わせた。 「バトルはしないわよ、ワンパチ」 ワンパチが緊張感と共に体の力を抜く。オレはソニアに促され、湖畔のベンチに腰を下ろした。 「大人になって、おばあさまが認めてくださるようなポケモン博士になれたら、バトルとの両立もできるかもしれないけど、今のわたしは進学の準備に精一杯で、そんな余裕はないの」 ソニアの顔にひとかけらでも悲しみが浮かんでいれば、オレはそれを取り除こうと考えたかもしれない。だが彼女の声は、ポケモンのタイプと弱点を語るように静かだった。 「……当たり前のことだけど、研究の世界って、バトルとは全然違うんだよね」 マグノリア博士がダイマックス理論を発表したのは、オレたちが産まれる前のことだ。博士は自分の考えの正しさを証明するために、ガラル地方全土のフィールドワークを行い、膨大なデータを分析したという。 「バトルだったら、勝った方の意見が通ることもあるだろうけれども、研究の世界では、論文を書いて、データや証拠で自分の正しさを示さなければならないの。バトルをやめるのは、私なりのけじめなんだ」 穏やかな表情でソニアは立ち上がり、湖に背を向けた。 「あとの半分は、自分の逃げ道を塞ぐためかな。わたし、諦めが早いから」 「逃げ道だって?」 後ろ向きに歩き出したソニアの歩みに危なげはなく、湖に落ちる前に足を止めた。 「もし、研究が思い通りに行かなくても、やっぱりバトルに戻ろうなんて考えないように。それは一生懸命戦ってるダンデくんや多くのトレーナー、それからポケモンに対して失礼だもの」 オレはソニアの腰に視線を移し、今更ながらボールホルダーがないことに気がついた。フシギダネだった時からソニアを植物の毒から遠ざけ、セミファイナルトーナメントの決勝戦で激闘を繰り広げたフシギバナ。キルクスの入り江でオレたちを乗せてくれたラプラス。オレたちは食事やテントだけではなく、ポケモンの思い出さえも共にしていたのだった。 「寂しい」 予想もしない言葉と共に、滴が落ちる。慌てたようにソニアが駆け寄り、オレの側に膝を付いた。 「オレは、キミの夢を応援したい。バトルが嫌になってやめるわけじゃないのも分かった。でも、でも……」 穏やかなエメラルドグリーンの瞳に、オレは地面に根を下ろした大樹を思い描いた。セミファイナルトーナメントの決勝戦で雷の翼を広げたように、彼女はまた、オレの手の届かない場所に向かおうとしている。 「ソニア、オレは……」 オレは生活の場をシュートシティに移し、ソニアはブラッシータウンの家から学校に通う。彼女の側にいるのが当たり前だった日々は、十歳の夏とともに終わりを迎えるのだ。 「……あのね、ダンデくん。わたしはバトルをやめちゃうけど、二度と会えないわけじゃないんだよ」 立ち上がったソニアが、オレの頬に両手を添える。困ったような顔を見た途端、涙が引っこんだ。 「……そうなのか?」 「ポケモン研究所は、知識が必要な人を追い返したりはしないの」 ソニアに導かれたオレの視界に、ポケモン研究所の屋根が飛びこんできた。 「バトルに勝つには、知識が必要でしょう。だから、ダンデくんは、必要なときに研究所に来ればいいのよ」 「そうすれば、ソニアに会えるんだな」 「私にも都合があるから、いつでも会えるわけじゃないけどね。永遠の別れじゃないんだから、ダンデくんがそんな顔する必要はないの」 ベンチに腰を下ろしたままのオレに、ソニアの額が重なる。頬を包む柔らかな両手に自分の掌を重ねて目を閉じたオレに、ソニアが優しく囁いた。 「ねえ、ダンデくん。いいこと教えてあげるね」 ホテルロンド・ロゼのホールでは、ポケモンリーグやジムの関係者が楽しげに言葉を交わしていた。同伴を許されたポケモンたちは大人しく主人に付き従っている。 「リザードン。強さって、何だろうな」 用意された控え室で、オレは相棒に問いかけた。 チャンピオンの誕生を祝うために、ガラル地方のポケモンリーグは盛大なパーティーを開いた。オレはポケモンバトルの技術に自信はあるが、だからと言って、強いわけではない。 オレが真っ先に思い浮かべる強い人は、マスタード師匠だ。だが、強さとは彼のように分かりやすいものばかりではない。 マグノリア博士の名前が否応なくのしかかる、研究者という道を選んだソニアは強い。そして、家族が戻ってこない悲しみを知りながら、オレたちをジムチャレンジに送り出してくれた母さんたちも強い。ジムチャレンジに参加しなければ、オレは身近な人々の強さに気がつかないままだった。 世の中には、数え切れないほどの強さの形が存在するのだろうが、オレには強さを知り、強さを得る方法が、たった一つしか思いつかない。 ポケモンバトル。オレはその腕を磨くことで、家族を支える力を得た。そして、オレがもっと強く頼りになる人間であれば、ソニアが大きな決断を下す前に、相談に乗ることができたかもしれない。 「オレは強くなる。だからリザードン、オマエの力を貸して欲しい」 「ぱぎゅあ!」 相棒と拳を合わせ、オレは笑った。まだ見ぬトレーナーや未知のポケモンとのバトルに期待を抑えられないオレは、やはりソニアが言うとおりのバトルバカなのだろう。 「チャンピオン、お時間です」 オレはリザードンを従えて、ホールの絨毯を踏みしめた。パーティーの参加者の声と眼差しが、一斉に向けられる。 「チャンピオンの抱負をお願いいたします」 カメラのフラッシュが光の壁を築いた。その眩しさに、幼い日に飛びこんだ暗い森を思い出す。その奥にソニアがいると確信していたから、オレは全力で走ることができた。 ソニアを踏み台にしてたどり着いた場所は、恐ろしいほどに光輝いている。その先が見えなくても、道を作るのは自分自身なのだから、迷うことなどありえない。オレを導いてくれた女の子のアドバイスを胸に、オレは顔を上げて進んでいく。 「オレの夢は! ガラル地方のみんなで強くなることです!」 |