「学会よりも緊張します」 子どもに物を教えることの難しさを、著名な研究者たちが身をもって証明するのが、休日に生放送される子どもポケモン電話相談である。ポケモンの専門家が十五歳以下の子どもの疑問に答えるラジオ番組は、大人にも参考になるポケモンの最新の知識や、子どもと回答者の微笑ましくも真剣なやりとりが人気を集めていた。 「わかんない!」 個人差はあるが、未就学児は集中力が長くは続かず、専門用語はおろか一般的な単語の意味も理解していないものだ。分かりやすく手短に小さな子どもの疑問に答えようとする回答者の真摯で必死な姿に、リスナーはSNSに応援のメッセージを送る。 「わかった……ようなきがする」 「それだけでも十分だよ。今日は質問してくれてありがとう」 優しく丁寧な回答に、質問を送ってきた男児も満足したようである。放送事故のリスクが高くても、番組が未就学児を拒まないのは、彼らに芽生えた疑問を尊重しているからだ。幼い発想や好奇心に向き合ってもらったという体験は、間違いなく子どもたちの財産になることだろう。 「ソニアせんせい、ありがとう!」 ラジオアプリから聞こえる声に、デスクワークに勤しむダンデの表情は和らぐ。彼自身もポケモンバトルの先生として出演している番組で、幼馴染のソニアは人気回答者として評価を得ている。ガラルの先生という肩書きは誇張などではなく、幅広い知識と小さな子どもにも分かりやすい説明は、共演者や番組のスタッフからも重宝されていた。 「電子レンジでゆで卵を作ろうとしたら、ヒートロトムに止められて作れませんでした。ロトムはゆで卵が嫌いなんですか?」 でんきとはがねタイプの先生はシュートシティの大学の教授で、マクロコスモス系列の家電メーカーで開発に携わっていた経歴の持ち主である。 「これはロトムの好き嫌いじゃなくて、電子レンジの問題なんです。電子レンジにそのまま卵を入れると、爆発するんですよ」 「ばくはつ!?」 幼い声が、恐怖と期待に弾んでいる。爆発という言葉は、子ども、特に男児の心をつかむものらしい。 「ロトムは、自分が入っている機械を壊すようないたずらはしません。爆発すると、電子レンジが壊れたり、家が火事になったりするから、ロトムはゆで卵作りを止めたんです。電子レンジでゆで卵を作るときには、専用の調理器を使ってください。それなら、爆発しないでゆで卵が作れます」 「へえ。そんなのが売ってるんですか?」 「半熟卵やポーチドエッグが簡単に作れるんで、私もよく使ってます」 ソニアと女性アナウンサーの言葉を聞きながら、ダンデは幼馴染が以前作ってくれたゆで卵のサンドイッチを思い浮かべた。番組の終わりとともに、ランチタイムが近づいてくる。 「子どもの時に、友達の家で料理を作ってたら、ゆで卵が爆発したんです。電子レンジは壊れなかったんですけど、キッチンの掃除が大変だったんですよ」 幼い日のアクシデントを思わぬ形で暴露されたダンデの喉から、低い呻きが漏れる。回答者のやりとりが学会の質疑応答やサッカーのキラーパスに例えられる番組において、彼が受けたのは突然の流れ弾であった。 それはホップが生まれる前のことだった。幼かったダンデとソニアは、電子レンジに入れてはならない食品や容器があることを知らなかった。当時コンロを使うことを禁止されていた子どもたちが、牧場で仕事をしている大人の分までランチを作ろうと試みた結果、ダンデの家のキッチンでゆで卵が吹き飛んだのである。 爆発音と子どもの悲鳴に驚いて家に飛びこんだダンデの家族が見たものは、抱き合って泣きじゃくる二人と、ゆで卵の残骸が飛び散ったキッチンだった。 二度と電子レンジでゆで卵を作るまい。夕方まで片付けに追われた二人は無言で誓いを交わしたものだ。長じてラジオ番組の回答者にならなければ、そして一人の男児が電話をかけてこなければ、二人は調理器具の進歩を知らないまま、爆発するゆで卵への恐怖を背負ったまま生きていたことだろう。 問題なのは、幼馴染が公共の電波で、人の過去を暴露したことだ。プライバシーを切り売りされることには慣れているダンデにも、秘めておきたい過去はある。 「友達としか言ってないのに、ダンデくんのことだってバレるはずがないでしょう?」 ラジオの収録後、計器測定のためにバトルタワーを訪れたソニアは、ダンデの苦情を軽く受け流した。 ポケモン電話相談は、ポケモンに関する子どもの疑問や悩みに専門家が答える番組だ。ポケモン博士やジムトレーナーを志す子どもが、回答者その人に興味を持つことは当然のことであり、番組では先生に関する質問や進路相談を受けることもある。 子どもの危険につながるような内容でなければ、回答者の体験は積極的に語ってもらいたいというのが番組の姿勢であり、ソニアはそれに従っただけだ。 SNSの目撃情報を使って、シーソーコンビの居所を突き止めたソニアは、ネットのメリットとデメリットを熟知している。だが自己評価が低い彼女は、彼女自身に対する世間の注目を理解していないようにダンデには思えるのだった。 ダンデとソニアは幼馴染で、共にジムチャレンジに参加した経歴をラジオ番組で明言している。ソニアが幼少期を過ごしたブラッシータウンは、ハロンタウンに比べれば人口も店舗施設も多いが、それでも田舎町であることに変わりはない。狭い人間関係のなかで、彼女がラジオで話題にできる子どものころの友人は、簡単に絞りこめる。番組が終わるよりも早く、SNSの人々はゆで卵爆破事件の当事者を探し当てていた。 「他人の家のキッチンでメシ作って、片付けまでするなんて、ソニアちゃん、いや、ソニア博士って、オマエの家でどういう扱いなんだよ?」 エゴサーチの成果か、一人のリスナーとして感想なのか、ソニアと入れ違いにバトルタワーに現れたキバナの瞳には、好奇心の光が灯っていた。 「オレの家で飲んだときに、キミはキッチンを使っていただろう」 「ほぼ自炊をしない一人暮らしの男の家に、ただ存在しているだけの場所を、大人が管理してる家族のキッチンを一緒にするなよ」 家族という単語を、ドラゴン使いの男は強調した。 「ソニアとは付き合いが長いからな。ホップも、彼女のことは姉のように思っているんだ」 ホップはソニアの研究を手伝いながら、大学進学を目指して勉学に勤しんでいる。ラジオ番組では、子どもが先生への弟子入りを志願することがあるが、ソニア博士の一番弟子の座は、間違いなく彼のものだった。 「……何と言うか、本当に仲が良いんだな」 頭も口も回る男が、珍しく言葉を詰まらせる。キバナが驚きを示したように、番組のリスナーはダンデとソニアの付き合いへの関心が強いようだった。教育熱心な大人は、リーグチャンピオンやポケモン博士を育んだガラル地方南部の学校事情に興味を示している。ダンデがデジタルの世界を見渡しても、ソニアとの交友関係への否定的な意見は見つからなかった。 「見たか、ソニアはすごいんだぞ!」 ハロンタウンの少年が、ダンデの内側で大声を張りあげる。ブラッシータウンの女の子は、彼に学ぶことの大切さと面白さを教えてくれた。物知りで好奇心が旺盛な幼馴染の素晴らしさがガラル地方の人々に伝わるのであれば、電波に乗せられた恥ずかしい過去も、報われるというものだ。 ダンデが多忙な日々のなかでも学業を疎かにせず教育を受けられたのも、少年チャンピオンに対するポケモンリーグのサポートが、未成年ジムトレーナーの学習支援体制につながったのも、元を辿ればソニアのおかげだ。ジムチャレンジ終了後にバトルから身を引いた彼女に自覚はなく、世間に注目されることもないが、ソニアがガラル地方のポケモントレーナー育成に果たした貢献は、決して小さくはないのである。 『ハロンタウンのウールーになってダンデ委員長とソニア博士(子どものすがた)を見守りたい人生だった』 『ソニア博士の小さいころのエピソード聞いてると、先生たちも普通の子どもだったと分かって安心する』 『今日の放送を聞いてから、五歳の息子がキラキラした目で電子レンジを見てる。やめて!』 ガラル地方の子どもたちと、その保護者の導き手になりつつあるソニアの姿は、顔の知らない他人の言葉を通しても、美しく輝いている。自身の知識を惜しみなく他人に与える彼女と語らう時間は、仕事であってもプライベートであっても、ダンデにとってかけがえのないものだ。 年に一度か二度、ゲストとして顔を出していたチャンピオン時代に比べて、ダンデの子どもポケモン電話相談への出演回数が増えたのは、彼の立場の変化だけではなく、私情も大きい。無論、常にソニアと共演できるわけではないが、番組スタッフは、出演者の意向と世間の需要を抜かりなくリサーチしている。バトルの先生であるダンデは、子どもはもちろん大人にも人気があるが、キバナやソニアとの共演回はとくに話題性が高く、SNSも盛り上がるようだ。 「犬猫スペシャルには意外なあの先生も登場!」 番組の公式サイトには、今後の放送予定とともに出演者の名前が記載される。犬ポケモンや猫ポケモンをパーティーに組みこんでいないダンデの出演は、ファンを喜ばせると同時に、ささやかな疑問も招き寄せた。 『嬉しいけど、なんでダンデ?』 『革張りのソファに腰掛けたオーナー服のダンデさんがペルシアンかレパルダス侍らせてる姿を想像した』 『ダンデさんなら最近見つかった新しい特性のワンパチとパルスワン関係じゃないの?』 新種のポケモンや伝説のポケモンは簡単に見つかるようなものではないが、新たな特性を持つポケモンの発見報告は少なくはない。ワンパチはたまひろい、その進化形であるパルスワンはがんじょうあごの特性を持つが、ワイルドエリアでは一ヶ月ほど前から、びびりのワンパチとかちきなパルスワンが発見・捕獲されていた。 カブやキバナが、バトルフィールドに出た瞬間に天候を変えることができるポケモンを手持ちに組みこんでいるように、ポケモンバトルを語る上で特性は無視できる要素ではない。同じポケモンでも、特性が異なれば覚えさせる技や持ち物、作戦は変わるものだ。 バトルタワーでは多くのトレーナーとポケモンが日々試行錯誤を繰り返している。オーナーであるダンデの役割は研鑽の場を整え、彼らが積み重ねたものをガラル地方に還元することだ。 ガラルのみんなで強くなる。知識と言葉はダンデが夢を叶える手段であると同時に、ソニアと共に歩むための力だった。 ダンデの実家がチョロネコを家族の一員に数えているように、犬ポケモンや猫ポケモンはガラル地方の人々にとって馴染みが深く、小さな子どもの遊び相手や兄弟分の役割を果たすだけではなく、情緒の発達や免疫力の向上に効果があることが研究によって実証されている。 だが、進化すると体が大きくなるだけでなく、求められる食事量や運動量が変わるため、あえて進化をさせないという選択をしている家庭も少なくはない。ホップとユウリはジムチャレンジの旅に出るまで、実物のレパルダスを見たことがなかった。 犬ポケモンや猫ポケモンの進化形を本やテレビでしか目にしたことがない子どもたちの質問に備えて、ダンデはガラル地方の公式戦やバトルタワーの記録に目を通した。犬ポケモンや猫ポケモンに限らず、ヨロイ島に生息するポケモンを使うトレーナーがバトルタワーで増えているのは、ヨロイパス取得の条件が緩和された影響だろう。 「久しぶりにヨロイ島に行きたいな」 ダンデの言葉に、バゲットサンドを口に運ぼうとしたソニアの手が止まった。番組の集合時刻よりも早くにスタジオに入り、朝食を取りながら言葉を交わすのが、二人が共演する日のルーティンとなりつつある。部屋には電気ポットが備え付けられており、温かい紅茶やインスタントのスープが手軽に飲めるのもありがたい。 「収録に備えてバトルタワーのデータを見ていたら、あの島のポケモンたちが懐かしくなったんだ。それに、師匠に報告したいこともある」 ダンデが思い浮かべる師匠は、常に笑みを浮かべている。あらゆるものをあるがままに受け入れ、必要であれば救いの手を差し伸べる器の大きな人は、チャンピオンを退いた弟子の新たな挑戦を、目を細めて見守っていることだろう。 「マスタード師匠の修行には、正直意味が分からないものもあったが、クリアするためのヒントはそれとなく出してくれたし、頭と体を使っている実感があった。答えとは誰かに教わるのではなく、自分の力で見つけ出すもの。そういう方針だったんだろうな」 「ダンデくんのお師匠さまは、お弟子さんたちをしっかり見てたんだね。いい具合にヒントを出せるのは、相手の能力を理解してる証拠だよ。実践するのは、なかなか難しいけどね」 軽く肩をすくめ、ソニアはバゲットサンドに歯を立てた。ホップが課題に頭を抱えながらも、楽しげに学んでいるのは、彼自身の意欲や資質に加えて、ソニアが教え子の能力を正確に把握しているからだ。知らない子どもの質問に、定められた時間内に回答しなければならないラジオ番組は、時間と手間をかけて一人の生徒に向き合う指導の対極に位置している。 「ホップの指導だけじゃなく番組に質問してきた子どもたちへの説明も、キミはうまくやってると思うぜ。みんな声が弾んでる」 「そうだといいんだけど」 指導方法や言葉の選び方について、ソニアはより良い方法を常に模索している。彼女にとって、知識は集め蓄えるだけのものではないのだ。自らの内に取りこんだものを文章や言葉にして他人に与え、逆に他人から受けた刺激を自身の糧とする。学問と研究の世界において、ソニアはヨクバリス以上に貪欲なのだった。 「それに、キミも楽しそうだ。他の先生の説明を夢中で聞いてるだろう。時々、声が拾われてるぜ」 「本当? 全然気づいてなかったよ」 過去の収録を振り返るように、ソニアの瞳が動く。番組のスタッフや回答者は、ポケモンの専門家による分かりやすい説明を間近で聞くことができるのだ。好奇心や探究心が動かされないはずがない。ソニアの弾んだ声や 感嘆の吐息は、高性能マイクの力でリスナーの元に送り届けられていた。 「聞き逃し配信で確かめてみるといい。質問する時のキミは、先生じゃなくてスクールガールみたいだぜ」 ダンデがソニアと同じ学校に通っていたのは十歳までだが、大人たちに疑問を投げかける彼女の姿は、彼の記憶に深く刻まれている。 ポケモンバトルを愛する少年がチャンピオンの座に就き、リーグ委員長となったように、ポケモンを知りたいと望んだ少女は博士号を得た。大人になり、後進を指導する立場になっても、ポケモンに対する二人の思いは幼い日のままだ。 「僕はアローラで、親戚にニャビーをもらいました」 見たこともないポケモンには、専門家としてメディアに出演している大人を子どもに引き戻す力がある。ガラルリーグの委員長とガラルの歴史を書き換えたポケモン博士は、質問者を心の底から羨ましがり、アナウンサーを苦笑させたのだった。 「図鑑には、しつこく付きまとったり、スキンシップをやりすぎたりすると嫌がられると書いてありますが、僕は早くニャビーと仲良くなりたいです。ニャビーに懐いてもらうには、どうすればいいですか?」 アローラ地方の伝統的な行事が、子どもがポケモンとともに四つの島を冒険する「島めぐり」だ。ニャビーはカントー地方のヒトカゲやガラル地方のヒバニーのような初心者向けポケモンに位置づけられているが、図鑑に書かれているように、一瞬で信頼が損なわれることもある。 「仲良くなりたいというのは、言ってしまえば人間の都合ですからね」 感情を現わすことが少なく、仲間や家族の輪を離れた場所から見ているアローラのポケモンが少年に懐くには時間がかかる。それがポケモンドクターの資格を持つ家庭用ポケモンの専門家が出した答えだった。 「先生。ニャビーと仲良くなるには、今まで通りに、少し距離を取りながら世話を続けるということでいいんでしょうか?」 「とくに寝床とトイレはしっかり掃除してください。猫ポケモンはきれい好きですからね」 「なるほど。ソニア先生はいかがでしょうか?」 ガラルの先生であるソニアが、外国のポケモンに関する質問に答えるのは不思議なことではない。ポケモンを育てるのに適した環境を整えるには、ガラル地方の気候風土を知っておく必要があるからだ。アナウンサーと質問者の要求に応えてきた彼女の分厚い辞書に、専門外の文字は存在しないのである。 「きみは今までに、引っ越しをしたことある?」 「ないです」 「わたしは子どもの時に引っ越ししたんだけど、すぐに新しい町の暮らしに慣れて友達ができる人もいれば、そうでない人もいるんだよね。先生は引っ越してから友達ができるまでに、時間がかかったの」 引っ越した町で初めてできた友達を視界に入れながら、ソニアは言葉を続けた。 「大昔から人間と暮らしてきたガーディやハーデリアと違って、ニャビーっていうポケモンが人間と暮らすようになったのは、つい最近のことなの。だから、ニャビーが人間と仲良くなるには時間がかかっちゃう。さっきの話だと、ニャビーはきみの家が安全だってことをきちんと理解してるみたいだから、近くで見守ってあげて」 「はい……」 少年の返事に、わずかな落胆が混じっているのは、期待していたような答えが引き出せなかったからだ。専門家ならば、気難しいポケモンの心をたちどころに開く方法を教えてくれると考えていたのだろう。 「それからね、きみがニャビーと仲良くなる、とっておきの方法があるの」 「とっておき?」 「それは、ニャビーとキャンプに行って、カレーライスを作ることなの」 「カレーライス?」 「キャンプで作るカレーライスならば、ニャビーが食べても問題はないでしょうね」 「キャンプの食事は、同じ杯で飲む、同じ釜の飯を食べるっていう言葉そのものなの。ニャビーはほのおタイプだから、火を起こすのを手伝ってくれるかもしれない」 「へえ、そうなんですか……」 「キッチンには調理道具が揃ってるから、キャンプで作るよりもおいしいカレーライスができるんだけど、ポケモンが喜ぶのはキャンプで作るほうなの。なぜカレーライスがいいのか、他の料理との違いを研究してる人もいます」 「あの、それってレトルトカレーでもいいんですか?」 遠慮がちに少年が問いかけた。ジムリーダーをCMに起用したレトルトカレーは、ご当地土産として売り上げを伸ばしつつある。特に人気が高いのは、ターフタウンのベジタブルカレーと、バウタウンのシーフードカレーだ。 「料理に慣れてないなら、レトルトカレーを使ったほうが失敗しにくいし、大事なのはきみがニャビーのために料理を作ることだから。でも、お湯や火を使う作業は、大人と一緒にやってね」 十歳のころには、自宅のキッチンやキャンプ用の調理器具を使いこなしていたソニアは、そこで起きる危険も知り尽くしている。少年への注意は忘れなかった。 「オレからもいいだろうか?」 軽く手を挙げながら、ダンデは発言を求めた。アナウンサーが壁時計を指しながら無言で頷く。 「キミはニャビーを進化させるつもりなのか?」 「……それは、まだ決めてないです」 スピーカー越しに、少年が考えこむ様子が伝わってきた。 「オレは以前、バトルタワーでガオガエンを見たことがあるんだが」 「本当ですか!?」 「ダンデ先生、ガオガエンというのは?」 アナウンサーの質問は、アローラ地方のポケモンに詳しくはないリスナーを代表したものだった。 「この質問は、ニャビーのことをきちんと調べているキミに答えてもらおうか」 「ガオガエンは、ニャビーがニャヒートの次に進化するポケモンです。ニャビーとニャヒートはほのおタイプだけど、ガオガエンはほのお・あくタイプです」 ダンデの指名を受けたニャビーのトレーナーは、緊張と興奮の混じり合った声で説明を終えた。 「正解だ。オレから付け足すことはないな」 ガオガエンは好戦的な性格と、成人男性並みの体格の持ち主だ。そのパワーがポケモンバトルで発揮されることは疑いないが、バトルに縁のないトレーナーでは、高い能力を持て余してしまう。 「きみとニャビーは長い付き合いになるんだから、進化やバトルをさせるにしても、させないにしても、信頼関係はとても大事だ。今、先生たちが教えてくれた世話を続けながら、自分たちのやり方で絆を深めていってほしい。焦る必要は少しもないぜ」 信頼の形は、トレーナーとポケモンの数だけ存在するものだ。ローズ元委員長がブラックナイトを引き起こした夜に、リザードンはムゲンダイナの爆発からホップとユウリを守り抜いた。長年、苦楽をともにした相棒は、ダンデの強さを誰よりも知っていたのである。事実、ダンでは医者が驚くほどの回復を見せ、事件の三日後にはバトルコートに舞い戻ったのだった。 「がんばってみます。先生、今日はありがとうございました!」 礼儀正しく受話器を置いた少年の次の質問者は、ポケモンとの信頼関係に躓いた四歳の子どもだった。ナックルシティに住む女児は、電話がつながるなり、声を上げたのである。 「ワンパチが、手伝ってくれないの!」 切実だが要領を得ない言葉に、スタジオの大人たちは顔を見合わせた。アナウンサーが優しく問いかける。 「ワンパチのお手伝い。何を手伝ってもらいたいの?」 「お兄ちゃんの宿題」 ダンデは鍛え上げた腹筋に力を込めた。彼の隣では、ポケモン研究の大家が手で口を押さえている。好意的なものでも、笑うことは勇気を出して番組に電話を掛けてきた子どもへの侮辱になりかねない。 「ワンパチが宿題を手伝ってくれない。では、この質問はソニア先生にお願いします」 「こんにちは。家にワンパチがいるんだね。わたしもワンパチと暮らしてるんだけど、ワンパチが研究に必要な資料を探してくれたり、論文を読んで『ここ間違ってるよ』って教えてくれたりしたらいいなって思います」 ソニアの言葉に、だが女の子は口を尖らせた。 「博士の仕事は難しいから、ワンパチにはできないと思う」 「なるほど。ワンパチのお手伝いと言っても、できることとできないことがあるのは分かってるんだね。だったら、今からワンパチにできることを考えようか」 「ウールーを追いかける?」 ワンパチとパルスワンは、ガラル地方の畜産農家に欠かせないポケモンだ。ダンデの実家では、ウールーの誘導をワンパチに、牧場のパトロールをパルスワンに任せている。 「よく知ってるね。他には?」 「数は? 数はかぞえられる?」 怪訝そうな表情を浮かべたソニアの視線の先で、ダンデは思わず首を傾げた。子どもは野生のポケモン並みに自由だ。大人の段取りや思惑を、簡単に飛び越えてしまう。 「数をかぞえるワンパチ。本かテレビで見たの?」 「牧場のショーで見た。ターフタウンの」 ポケモンによるウールーの追い込みは、トレーナーとのコンビネーションが問われるため、ショーや競技としても人気が高く、ブラッシータウンやターフタウンでは定期的にウールー追い大会が開催されている。趣向を凝らしたコースを駆け回るワンパチの姿が、女の子の印象に残ったのだろう。 「ウールー追いを見たことがあるんだ。わたしも見たことあるんだけど、ワンパチが走ってる時に、トレーナーさんが声や音を出してなかった?」 「指笛鳴らしてた。ピュイー、ピュイーって」 牧羊の盛んな町で幼少期を過ごしたダンデに、その風景を想像することは容易かった。ソニアも同様らしく、納得したように頷いている。 「ショーや競技は、普段のお仕事に比べて、ワンパチのやることがとても多いの。例えば、赤いマークを付けたウールーを右側のゲートに行かせて、他の子はまっすぐ前に進ませて、途中で二頭だけ柵の中に入れて……っていう感じで。全部覚えるのは大変だと思わない?」 「思う」 「だから、ワンパチの代わりに、トレーナーがやることを覚えて指示を出してるの」 「そうなんだ。……じゃあ、ワンパチに数字は分からないの?」 女の子が不満げな声を漏らした。彼女よりも、算数が得意ではないことを公共の電波で明かされた兄のほうが気の毒に思えるのは、ダンデが長男だからなのかもしれない。 「そんなことはないわよ。ワンパチだけじゃなくて、犬ポケモンはみんな特別な訓練を受けてなくても、数字が分かってるの。先生は、簡単な計算ぐらいならできるんじゃないかって考えています」 「ええぇー!?」 スピーカーから女の子の驚きの声が放たれた。 「犬ポケモンには計算ができるかもしれない。先生の考えには、何か根拠があるのでしょうか?」 未就学児や研究者を相手に番組を滞りなく進めるアナウンサーも、一人の人間である。ソニアに向けた瞳に煌めく好奇心は隠せなかった。 「イッシュ地方の大学が犬ポケモンの脳波を調べたところ、数をかぞえる時に、人間の脳と同じ部分を使っていることが分かったんです。脳波っていうのは、頭の中にある脳の動きをデータにしたものなの」 脳というものを知らないであろう四歳児に、ソニアはフォローを忘れなかった。 「ワンパチは人間みたいに文字や数字の読み書きはできないから、問題を解いて答えることはできないけど、質問してくれたウールー追いみたいに、できるお手伝いはたくさんあるの。それをうまく組み合わせれば、宿題のお手伝いができるんじゃないかな」 「お兄ちゃんを勉強机まで連れていって、宿題が終わるまで見張る?」 真剣な提案に、ソニアは表情を綻ばせた。 「それなら、きちんとトレーニングすれば、ワンパチにもできると思うよ。でも、宿題をやるのはお兄さんだから、あまりガミガミ言わないであげてね?」 「うん。でも、お兄ちゃんの宿題が終わらないと、一緒に遊べないから……」 「なるほど。お兄ちゃんと遊びたいから、早く宿題を終わらせて欲しいんだ。それは、お兄ちゃんに頑張ってもらわないといけませんね」 アナウンサーの言葉に、ダンデとソニアはほぼ同時に息をついた。子どもから学ぶのは、好奇心や探究心だけではない。家族の形や人間とポケモンの関わり方。知識でしかなかったものが、当事者の声とともに二人の耳に流れこんでくる。 「ワンパチにできるお手伝いのこと、今の先生のお話で分かったかな?」 「うん、分かった」 理解を超えた話から逃れるための返事は、声のトーンでそれとなく分かるものだ。女児の心からの言葉に、ソニアは安堵の笑みを浮かべた。 「他に何か、先生に聞きたいことはある?」 「先生のワンパチは?」 「わたしのワンパチ?」 女児は言葉を続けた。無邪気な好奇心と期待が、声から溢れている。 「ソニア先生は博士だから、ワンパチにすごいトレーニングをしてるんだよね?」 家庭用ポケモンの専門家が肩をすくめた。視線の先では博士号を得たばかりの研究者が考えこんでいる。 「わたしは、自分のワンパチが世界で一番かわいくて賢いと思ってるけど、特別なことは何もしてないの」 「本当にぃ?」 幼い声が疑いに染まった。 「ポケモンのしつけの本に書いていることを、書いてある通りにやっただけだよ。このスタジオにおられる先生の本なんだけど」 「私の本ならば、家庭でできる基本的なことしか書いていませんね」 「ええー、本当にそれだけ?」 二人のポケモン博士に現実を突きつけられても、幼児は引き下がらなかった。ポケモン博士やチャンピオンに対する子どもの憧れは大きく、専門家の特殊な技術や道具の存在を当然のように信じこんでいる。 「ソニア先生は、子どもの時からワンパチと暮らしてるが、特別なことは何もしてないぜ。本に書いてあることを試したり、ワンパチの世話をしている牧場の人に、しつけのやり方を聞いたりはしていたけどな」 「なんでダンデ先生が知ってるの?」 女児の疑問に、ダンデは胸を張った。椅子がわずかに音を立てる。 「それは、オレが小さいころから、ソニアとワンパチを見てきたからだぜ!」 「先生たちは幼馴染で、子どものころから付き合いがあるんでしたね」 番組のリスナーには既に知られている情報を、アナウンサーは女児のために口に出した。 「キミが考えるすごいトレーニングっていうのは、学会で発表するようなものだろう?」 「うん」 「気持ちは分かるぜ。ソニアのワンパチは、バトルが強くて道案内もできるすごいポケモンだからな」 ワンパチの強さと優しさをトレーナーであるソニアの次に知っているのは、ともにジムチャレンジに挑んだ自分だとダンデは自負している。 「でも、特別なことができるポケモンだからって、必ずしも特別なトレーニングをしたわけじゃないんだ」 返事の代わりに、スピーカーは考えこむ女子の鼻息を拾い上げた。 「ナックルシティに、城壁があるだろう」 「ある。わたしの家からも見えるよ!」 「あの高くて頑丈な壁は、昔の人とポケモンが、小さなレンガを一つ一つ積み上げて作ったものだ。ポケモンのトレーニングもそれと同じように、毎日の積み重ねが大事なんだぜ」 知識や発想だけではなく、地道な作業をひたすら続ける粘り強さもまた、研究者には欠かせないものだ。ポケモン博士の仕事というものを、ダンデは幼いころからソニアの隣で目にしている。 「ソニア先生のワンパチも、毎日トレーニングして、すごいポケモンになったの?」 「……自慢のポケモンではあるけれども、すごいかどうかは、自分でもよく分からないなあ」 ダンデの視線から逃れるように目を伏せながら、ソニアは言葉を続けた。シュートスタジアムのバトルコートに立った過去は、彼女にとって語るようなことではないのだろう。こいぬポケモンがのんきな顔でおやつに齧りつき、仰向けで昼寝をする穏やかな日々こそが、若い研究者の望みなのだ。 「でも、先生のワンパチは道案内ができるって」 「群れから外れたウールーを、ワンパチが連れ戻すというのは聞いたことがありますが、道案内をするのは想像できません。先生、どういうことなんでしょうか?」 オレンジ色の髪を指に絡めながら、ソニアは説明を始めた。 「基本はウールーと同じなんです。ワンパチはわたしの家族や友達の顔や声、匂いを覚えていますから、道が分からなかったり、どこかではぐれたりしても、わたしのいる場所まで連れてきてくれます」 「犬ポケモンは人間よりも耳と鼻が鋭いですから、訓練をすれば、大勢の人間がいる場所から、たった一人を見つけ出すこともできるでしょうね」 犬ポケモンは行方不明者の捜索や犯人の追跡のために世界各国の警察で活躍している。そこにウールーを追いかけるワンパチの習性を取り入れて、ソニアは道案内をマスターさせたのだった。匂いを覚えさせるために、ダンデは穴の空いた靴下を提供したことがある。 「ナックルシティでも、ワンパチはオレをソニアとの待ち合わせ場所のポケモンセンターまで連れて行ってくれたんだぜ。あの街には、三つもポケモンセンターがあるのにな」 ポケモンセンターを待ち合わせ場所に選ぶトレーナーは少なくはないが、ポケモンセンターが複数存在する大都市では、より具体的に場所を指定する必要がある。ダンデの体験は、ソニアのワンパチの能力を示すのに相応しいエピソードに思われた。 「ねえ、それってデート?」 「うん? 何だって?」 尋ね返した声は、ラジオ番組の先生でもリーグ委員長でもない、青年のものだった。 「先生たちは、ナックルシティでデートしたの?」 ダンデは静かに瞬きを繰り返した。子どもの質問に答えていたはずが、突然外国語で話しかけられたような気分だ。レパルダス柄のネクタイを締めたディレクターが腕時計を指し示している。 「じゃあ、まあ、デートってことでいいか」 「じゃあ? まあ? ダンデくん……じゃなかった、先生はデートを何だと思ってるのよ!?」 はっぱカッターを連想させる鋭い光が、ソニアの瞳に宿る。女性にとって、デートという言葉は簡単には押し流せないもののようだ。 「私も、ソニア先生と同じ気持ちです」 「この問いに答えるには、まずデートとはどのようなものかを定義しなければいけませんね」 ダンデの隣で、ポケモン博士が重々しく頷いた。 修行という言葉には、強さを求める人間の心を惹きつける力がある。 ポケモンリーグのオフシーズンを利用して、ヨロイ島に渡ったジムリーダーたちを、ダンデは心から羨ましく思っている。独自の生態系を築いている孤島は、心身を鍛え上げるのにうってつけの場所だ。 強さの新たな形を、ダンデはガラル地方に示そうとしている。トレーナーとポケモンが全力でぶつかり合う舞台を整えることが、リーグ委員長である彼の仕事だ。 果たすべき責任と役割の変化を象徴するかのように、リーグ委員長に就任してから、ダンデにはニュースや教養番組のオファーが増えた。バトルタワーのオーナーとして、経済誌のインタビューを受けたこともある。 「今、ポケモンリーグでは、新しい形式の大会ができないかと考えています」 子ども向けのラジオ番組の近況報告コーナーは、宣伝のチャンスだ。いわゆる「大人の事情」で固有名詞は出せないが、イベントの予告はできる。 「ダンデ先生に質問があります!」 ガラル地方の学校教育ではポケモンバトルは扱わないため、子どもたちは独学でポケモンのタイプや技を頭に入れる。その結果、番組には微笑ましいものから大人が唸るような専門的なものまで、幅広い質問が寄せられるのだった。 「どうしたら、ダンデ先生みたいにみんなと仲良くなれますか?」 「キミはポケモンと仲良くなりたいのか」 まだ自分だけのポケモンを見つけていないであろう四歳の男の子に、ダンデは穏やかに問いかけた。 「うん……? うーん?」 質問を投げかけておきながら、電話機を手に男児は考えこんでしまった。 「もしかして、みんなっていうのは、ポケモンじゃなくて、人のことなのかな?」 弟の父親代わりを果たしてきたダンデだが、やはり本物の育児経験には敵わない。わずかな言葉から子どもの伝えたいことを読み取れるアナウンサーは、二児の母であった。 「ダンデ先生は、チャンピオンやキバナさんと戦ってるけど仲がいいから、なんでかなって」 四歳児にポケモンバトルとケンカの区別ができないのも、仕方のないことだろう。 「それから、ソニア先生とも。ボクも仲良くなって、先生とけっこんしたい」 「キミは結婚という言葉の意味が分かっているのか?」 「うん!」 元気のよい返事が、ダンデの意識をスタジオの外に吹き飛ばした。個人の資質なのか、環境の影響なのか、近ごろの子どもは色恋沙汰に敏感すぎる。 「キミはまだ四歳だ。相手がソニア先生でも、別の人でも、大人になるまで結婚はできないぜ」 「そうなの?」 「そうなんだ」 重々しく頷き、ダンデは幼児に現実を突きつけた。 「それに、結婚っていうのは、仲が良いからするようなものじゃない。オレは大人で、ジムリーダーと仲が良いが、誰とも結婚してないだろう?」 「ああー」 四歳児が納得したことに安堵を覚えながら、ダンデは言葉を続けた。 「チャンピオンやジムリーダーと仲が良いのは、会って話をすることが多いからだ。ポケモンが好きな人たちばかりだから、話をしていて、とても楽しい。だから、彼らと仲良くなりたいなら、ポケモントレーナーになればいい。気持ちのこもった熱いバトルをすれば、まずは顔と名前を覚えてもらえる」 「んー……」 壁や塀を乗り越えれば、最短距離で目的地に辿り着けると考えている人間が示したロードマップは、だが四歳児の参考にはならなかった。 「ソニア先生と仲良くなりたいなら、うんと強いポケモントレーナーになればいい。そうすれば、研究の手伝いができるようになるし、逆に分からないことがあれば調べてもらうこともできる。今だって、彼女にはポケモンリーグやバトルタワーの色々な仕事をお願いしているんだ」 煩雑な手続を物ともせず、カンムリ雪原行きの準備を整える幼馴染の姿をダンデは思い浮かべた。 「先生。強いポケモントレーナーというのは、具体的にどれぐらいなのでしょうか?」 「最低でも、ジムチャレンジに参加して、バッジを全て集められるレベルは必要ですね。フィールドワークには危険が付き物ですから」 「同じ物が好きというのは、人と仲良くなる上で重要なポイントなのでしょうね。ジムリーダーやソニア先生と仲良くなるのは難しそうだけど、今のダンデ先生のお話で分かったかな?」 アナウンサーに名前を呼ばれ、黙りこんでいた男の子が動きを取り戻した。 「……わかり、ましたぁ……」 物事を理解できたからといって、誰もが実行可能だとは限らない。番組を実況するSNSは盛り上がり、難易度の高い解決法を提案したダンデのスマホロトムは、ジムリーダーとソニアとホップからのメッセージで埋め尽くされたのだった。 |