行儀の悪い客


 ユウリへ。

 急に長いメールを送ったもんだから、ロトムがビックリしてるかもしれない。
 これはソニアとマグノリア博士の受け売りだけど、研究者には文章を読む力と書く力の両方が必要らしい。本を読んで知識を得るのは大事だけど、ポケモン博士になるってことは、そういったものを書く人間になるってことだもんな。
 ソニアの博士論文は、とても分厚かった。彼女はたくさんのことを調べていたから、その分書く量が増えるのは分かるけど、将来のオレに同じことができるのか、正直、かなり不安にもなった。
 だったら今から、文章を書くことに慣れておいたほうがいい。ソニアのアドバイスは頼りになったけど、彼女がレポートの課題を出してくれなくちゃ、オレの回りには文章を書く機会がほとんど見当たらないんだ。
 まずはSNSのメッセージをスタンプで済ませちゃってるのをやめて、短くても文章を打つ習慣をつける。日記をつけてみようかとも思ったけど、文章が上手くなることを考えたら、自分しか見ないものじゃなくて、誰かに読んでもらうものを書いたほうがいいらしい。
 文章を読む力をつけるには、論文や専門書だけじゃなくて、新聞や雑誌、小説もたくさん読んでおくこと。
 そんな感じでオレが修行の日々(修行って言葉、何だかカッコいいよな)を送っているときに、ソニアが小さな事件を解決した。ブラッシータウンの警察が何かをしたわけじゃないから、こんな言い方はおかしいのかもしれないけど、この出来事はもしかしたら、ガラル地方を大きく動かすかもしれないものだった。
 事件を無事に解決したソニアのスゴさを、オレはユウリにも知って欲しい。医者が探偵の活躍を描いた小説みたいに、面白く書ければいいんだけどな。
 あれはよく晴れた日のことだった……。



 研究は頭と体を使うから、ティーブレイクが必要らしい。勉強や調査の手を止めて、温かい紅茶を飲むと気持ちがホッとするし、お菓子の甘さが疲れた頭にしみわたるような気がする。
 マグノリア博士にみっちりトレーニングしてもらったおかげで、オレは紅茶を淹れるのが上手くなった。お客さまにお出しできるレベルだと誉められたぞ。今度ユウリにもご馳走するから、楽しみにしてくれよな。でも研究所に来るときは、アポを取ったほうがいいと思う。
 助手を初めてから知ったんだけど、ソニアは結構、いや、かなり忙しい。知らない人を雇って一から仕事を覚えてもらうよりも、有能で身元がはっきりしてる人に仕事を任せた方が早いと言って、ねがいぼしを持ち出した助手さんを再雇用したのにはものすごくビックリしたけど、ソニアとオレだけじゃ研究所の仕事は回らないのは確かだ。シーソーコンビが大人しくなったから、あの人が変な気を起こすことはないだろうけど。
 そんなわけで、最近のオレは、ソニアに代わって研究所の買い出しを任されている。ブラッシータウンでは、何年か前から駅前の再開発が行われていて、いつの間にか新しい店がいくつもオープンしている。先月ブティックの並びにオープンしたパティスリー・ミナモは、ホウエンから仕入れた抹茶を使ったチョコレートが人気で、開店と同時に売り切れてしまうらしい。
「ホップ、この前の試合見たわよ」
 店に入ってお菓子を選んでいたら、研究所の近くに住むおばさんに声をかけられた。ガラルスタートーナメントに出場するようになってからというもの、オレは町で声をかけられることが増えた。ポケモン博士を目指して研究所で勉強を始めたことを知って、応援してくれる人もいる。
「ホップ選手……?」
 レジカウンターの下から、四、五歳ぐらいの小さな女の子が顔を出した。服装や髪型よりも、首に巻いた黒とピンクのタオルが目に付いたのは、オレにとって見覚えのあるものだったからだ。
「それ、見たことあるぞ。エール団の応援グッズだな」
「うん!」
 女の子が大きな声を出したものだから、店中の視線がオレたちに集まった。
「ミグノン。お店で大きな声だしていいのかしら?」
 ショーケースの側に立っていた店員さんは、女の子の母親みたいだった。ミグノンと呼ばれた女の子が、慌てて口元を覆う。
「オレが声をかけたせいだから、この子を叱らないで欲しいんだぞ。それと、三種木の実のガトーフロマージュと、ショコラタルトを二つずつください」
「お待ちくださいね」
 ケーキの準備をする母親の様子をうかがいながら、ミグノンがオレを見た。
「ミグノンはマリィのファンなのか?」
「うん。大好き」
 大きく頷いたミグノンの隣に、オレは膝をついた。彼女の母親の後ろにあるガラス張りのキッチンで、果物を刻んでいるのがミグノンの父親らしい。調理台ではペロリームが卵を割っていた。
「モルペコも好き。わたしもいつか、パパみたいにおいしいケーキを作って、マリィちゃんとモルペコに食べてもらうの」
「そうなのか」
「それから、わたしのモルペコがほしいな。マリィちゃんは、五歳のときにモルペコと出会ったんでしょう。わたしも五歳だから!」
 成長には個人差があるのは分かってるつもりだけど、年齢って大事だよな。オレはアニキみたいなチャンピオンになれると思って、十歳の誕生祝いにジムチャレンジの推薦状をねだったことを思い出していた。
「モルペコが欲しいって、どうやって見つけるの?」
 ケーキを詰めた箱をオレに見せながら、ミグノンの母親が問いかけた。野生のモルペコを捕まえるには、7番道路か9番道路に行くしかない。ワイルドエリアやヨロイ島、カンムリ雪原にはさまざまなポケモンが生息しているけど、ピクニック感覚で入れる場所ではないのは確かだ。
「探すの。この近くにいるよ」
 立ち上がりかけた動きを止めて、オレはミグノンを見た。彼女が嘘を言っているようには思えなかったけど、ブラッシータウンの近くに野生のモルペコはいない。
「この近くって、ミグノンはモルペコを見たのか?」
「うん」
 前のめりに倒れるんじゃないかと心配になるほど、ミグノンは大きく頷いた。
「珍しいポケモンなんでしょう。見間違いか、夢じゃないの?」
「そんなことないもん、ちゃんと見たもん!」
 ミグノンに味方してやりたかったけど、母親の言葉も否定できない。黙りこんだオレの手を、小さな掌が勢いよくつかんだ。
「ホップ選手は強いトレーナーで、博士の勉強もしてるんでしょう。わたしと一緒にモルペコを見つけてください、おねがいします!」
 オジギは体の角度によって、礼儀の正しさが違うらしい。腰を深く折り曲げすぎたせいで、ミグノンは床に転びそうになった。
「やめなさい、このお兄さんが困ってるでしょう?」
「モルペコいるもん、うちの子にするんだもん」
 駄々をこねはじめたミグノンを母親に任せ、オレは支払いを済ませたケーキを手に研究所に戻ったのだった。
「……もし、このあたりで野生のモルペコが発見されたら、論文が書けちゃうかもね」
 ことのあらましを聞いたソニアは、静かに断言した。テーブルには、家から持ってきたらしい紙の新聞が置かれている。
「そんなにスゴいことなのか?」
「もし見つかったらの話だけどね」
 モルペコはいないと考えていることが、ソニアの口ぶりから伝わってきた。長いあいだブラッシータウンに住んでいて、ポケモンのことをよく知っている彼女が言うのならば間違いないだろうけれども、慣れない敬語を使って必死に頼みこむ小さな姿を、オレは頭から振り払うことができなかった。
「でも、あの子。嘘はついてないと思うぞ」
「そうだろうね。テレビで観たことがあるとはいえ、今日初めて会ったあんたを騙す理由がないもの」
「人が何かを偽るとき、そこには秘密や利益が隠れているものですからね」
「あなたが言うと説得力があるわね」
 助手さんは上品に笑ったけど、反応に困ったオレは話を戻した。
「だったら、やっぱりミグノンの見間違いなのかな?」
「見間違いだとしたら、今度は別の疑問が出てくるね」
「別の疑問?」
 鼻先にソニアは人差し指を立てた。
「その子は、何を見てモルペコだと思ったのかな?」
 オレは1番道路や2番道路で見かけるポケモンを思い浮かべた。色が似ているという理由で、ワンパチやチョロネコをモルペコと見間違えるのには無理がある。
「このあたりにいないポケモンだっていうなら、モルペコの可能性もあると思うぞ」
「今はまだ、断言はできないわね。情報が少ないもの」
 ソニアは軽く肩をすくめる。データの大切さは、研究所で彼女に教わったことだ。
「ソニアなら、どうやって手がかりを探すんだ?」
「それはもちろん、聞きこみと現場検証ね」
 サスペンスドラマの刑事みたいだ。ただし、身分証を見せれば捜査ができる警察とは違って、研究者の調査には難しい手続がいくつも必要になる。それに比べれば、ケーキの箱に書かれた番号に電話を掛けてアポを取ることは、ソニアにとってカレーを作るよりも簡単だった。
「ソニア博士はホップ選手の先生なんでしょう? モルペコ、すぐに見つかるね!」
「ポケモン研究所……」
 翌朝、定休日の看板が掲げられたパティスリー・ミナモの前でオレたちを待っていたミグノンは、全身で喜びを表現したが、レセダと名乗った母親はポケモン探しに乗り気ではないのか、表情が冴えなかった。
「もしかして、カロスのご出身ですか?」
 レセダさんが驚いたようにソニアを見た。ガラル地方には、世界中から多くの人々がやって来ているけど、そのルーツを突き止めるのは簡単なことじゃないだろう。
「ええ、そうです」
「やっぱり。話し方でそんな気がしたんです。それに、ケーキの名前がカロス風でしたね。ショコラタルト、おいしかったです」
 ケーキを注文したのはオレなのに、そんなことは考えもしなかった。
「ありがとうございます。夫に伝えます」
 二人は少しのあいだ、カロスの話題で盛り上がった。レセダさんの夫、つまりミグノンの父親はホウエン地方出身のパティシエで、修行に来たカロスで彼女と知り合い、結婚したそうだ。今日もペロリームと共にも厨房で菓子の試作に励んでいるという。
「外国で仕事をしながら育児って、大変なことも多いんじゃないですか?」
「それでも充実しています。それに、家族が一緒ですから辛くはありません」
 ソニアと打ち解けたおかげか、レセダさんの表情が柔らかくなった気がした。
「わたしの家には、こっちから入るんだよ」
 ミグノンの家族は借りた一軒家をショップ兼住居として使っていた。居住スペースに入るには、一度、店の外に出て、裏側の勝手口に回る必要がある。幅の狭い道路と庭の境界に立てられているのは低い木製の柵で、ポケモンが敷地に入りこむのは簡単そうだった。
「ミグノンはどこでポケモンを見かけたんだ? 家の外か? それとも中か?」
「両方」
 ソニアとレセダさんが視線を交わす。少なくとも、ミグノンは最低二回、ポケモンを見ているということだ。
「じゃあ、まずは家の外でのことを教えて。ポケモンを見たとき、ミグノンはどこにいたの?」
 ミグノンは先ほど通ったばかりの通路に駆け戻った。正確には私道というよりも庭の一部で、地面の芝生は最近張り替えたばかりのようだった。
「モルペコはあのあたりにいたんだけど、すぐに向こうに逃げちゃったの」
 細い指が庭の花壇から隣の家に移動した。まだ植える花が決まっていないのか、レンガで半円状に囲まれたスペースには、土しか入っていない。ミグノンの家の庭には、ポケモンが身を隠せるような物が何一つ置かれていないのだった。
「お隣に逃げていったんだね。どうしてミグノンには、モルペコだって分かったの?」
「最初は分からなかった。でもね、もう一回来たから、その時に分かったの」
「家の中からポケモンを見たんだったな」
 大きく頷いて、ミグノンは庭が見渡せる出窓を指さした。
「窓から庭を見たときに、モルペコが何をしてたか覚えてるか?」
「食事してた。こうやって、両手で」
 ミグノンの動きは、マリィのモルペコが食事をする仕草に似ていた。ソニアがオレンジの髪を弄びながら、庭にしゃがみこむ。
「物を食べていた、ねぇ……」
 前足を使って食事をするポケモンといえば、町の近くで思い浮かぶのはホシガリスだけど、モルペコとは体の形が違う。見間違えるとは思えない。
「ミグノンは、お家でお絵かきする?」
「うん」
「じゃあ、ミグノンが見たポケモンを絵に描いてくれるかな?」
 似顔絵を頼りに捜査をする刑事みたいだ。ミグノンは元気のよい返事を残して、引っ越しと同時にペンキを塗り直したらしい勝手口に走って行った。その後ろをレセダさんが追いかける。
「お茶を用意しますね」
「ありがとうございます!」
 レセダさんが家に入ったのを見届けると、ソニアはしゃがんだまま、ミグノンが最初にポケモンを見かけた通路に移動した。
「家の庭にポケモンが来た。それだけなら、ありふれた話だよね」
「モルペコなんて言われたから、ビックリしたけどな」
 ミグノンが目撃したのがホシガリスやワンパチだったら、オレは多分、ソニアに相談しなかったと思う。野生のモルペコならば論文が書けると言われて、少しだけ期待したのは確かだ。
「ミグノンが見たポケモンの正体を突き止めるのも、捕まえるのも、充分ホップに任せられるんだけど……」
 考えこむソニアの動きに合わせて、サイドテールが揺れた。
「ダメな理由でもあるのか?」
「世の中には、大人でないと解決できない問題があるんだよね。だから、ポケモンを見つけておしまいってわけにはいかないの」
 ミグノンはモルペコと暮らすつもりだけど、彼女が庭で見たのは、おそらく別のポケモンだ。物事が期待通りに運ばなかったときに気持ちを切り替える方法や、ポケモンを家に迎え入れることについて学ぶには、大人の助けが必要だろう。
 残念だけど、オレでは力不足なのだ。
「ところで、ここはいつから、こんな風になってたと思う?」
 テレビで紹介されていたトレーニングのような動きでソニアが近づいたのは、花壇の前だった。よく見ると土が掘り返されている。野生のポケモンが暴れでもしたのか、土は芝の上にまで飛び散っていた。
「レセダさんは気づいてなかったし、土がまだ湿ってるから、そんなに時間は経ってないと思うぞ」
「花壇がこんな状態になったのは、今日の明け方から朝早くにかけてってことだね」
 土の中から小石のような物を広い上げたかと思えば、ソニアは突然立ち上がり、モンスターボールを取り出した。鳴き声と共にワンパチが姿を現す。
「ワンパチ。待って、待って。食べちゃダメ」
 ソニアの声に従って、ワンパチが鼻を動かした。のんきな表情が、バトルの時のように引き締まる。やがてワンパチは勢いよく道路に出て行った。
「頼んだわよ、ワンパチ!」
「それがポケモンの手がかりなのか?」
 ワンパチに匂いを覚えさせていたものを、ソニアはハンカチの上に置いた。緑色の小さな塊は、植木に与える固形肥料にも見える。
「この家の人なら、これが何か知ってるでしょうね」
 オレが詳しく尋ねようとした時に、勝手口からミグノンが顔をのぞかせた。
「お茶の準備ができたよ。モルペコも描けた!」
「それは楽しみだね。ホップ、行くわよ」
 ソニアはハンカチをポケットにしまいこんだ。
「お邪魔します」
 踊るような足取りのミグノンに案内されて、オレたちはリビングに足を踏み入れた。三人掛けのソファにミグノンが体を投げ出す。テーブルにはクッキーの並んだ白い皿が置かれていた。
「これ、試作品なんです。ぜひ、お二人の感想を聞かせて下さい」
 四角いチェックのクッキーと丸いクッキーから、覚えのある匂いが漂ってきた。ユウリの家で何度かご馳走になった飲み物の香りだ。
「抹茶?」
「そうです。ガラル地方でも流行しているそうですね」
 シュートシティでは抹茶のカフェが人気で、SNSでたくさんの写真を見かける。だがドリンクの値段が紅茶とは比べものにならないほど高く、気軽には立ち寄れないらしい。
「このクッキーは、大人の味なの。でも、ポケモンも食べられるんだよ」
「へぇ、そうなのか」
 キッチンで手を洗わせてもらってから、オレたちは二種類のクッキーを味わった。抹茶の香ばしさが口に広がる。四角いクッキーは甘く、丸いクッキーはほろ苦かった。レセダさんの隣に移動したミグノンが、大人の味と説明したのも分かる気がする。
「抹茶の苦みが健康に良いと考えてる人が多いから、わざと甘さを抑えているんです」
「なるほど。その代わりに、ポケモンが食べても平気なように作ってるんですね」
 ソニアは注意深くクッキーを眺め、匂いを確かめてから口に運んだ。指先で拭った小さな欠片に、オレは間違いなく見覚えがあった。
「お茶の葉は、ホウエンから取り寄せてるんですか?」  声を出そうとしたオレを、ソニアの視線が黙らせた。 「そうです。ホウエンの抹茶も、ジョウトやカントーに負けない味ですよ」
「ブラッシータウンにも、抹茶を扱う店が何軒かありますけど、ホウエン産を扱っているのはレセダさんたちの店だけでしょうね」
 抹茶や緑茶の材料は、実は紅茶と同じらしい。マグノリア博士が季節やお菓子に合わせて紅茶の種類を選ぶように、抹茶の世界も奥が深いようだ。
「ねえ、ミグノン。さっそくだけど、あなたが描いた絵を見せてくれる?」
 唐突にソニアは話題を変えた。オレはマグカップを持つ手に何となく力をこめる。
「初めての時はすぐに逃げちゃったから、よく分からなかったけど、家の中からはよく見えたんだよ」
 ミグノンがテーブルに広げたスケッチブックには、器用に前足を使って食事をする黄色いポケモンが描かれていた。
「すごいぞ、うまく描けてるな」
 いつでもカメラが使えるわけじゃないから、絵で記録を残すことは大事だけど、実際にやってみるとかなり難しい。記憶が曖昧なこともあれば、イメージ通りに線が引けないこともある。ミグノンの絵は、納得のいく出来映えのようだ。
「上手に描けてるからこそ、分かったことがあるわ」
 ソニアの表情がわずかに曇った。研究は現実と向き合い、解き明かす作業だ。夢やロマンは真っ先に否定される。
「ミグノンが庭で見かけたポケモンは、モルペコじゃないわ」
 スケッチブックのポケモンには、黒い尻尾が生えている。ミグノンがモルペコを描いたなら、決して存在しないものだ。
「ええぇ……。でも、黄色くて黒かったもん! モルペコでしょう?」
 幼い表情が、握りつぶされた紙のように歪んだ。今にも泣き出しそうな声を、ソニアは静かに受け止める。
「うん。まんぷくもようのモルペコは体が黄色いし、左耳が黒い。ヘイロトム、ポケモン図鑑を出して」
 ソニアの声に反応して、スマホロトムが飛び出してきた。ロトムが入った図鑑を見るのは初めてなのか、ミグノンだけではなくレセダさんも目を丸くしている。
「これがまんぷくもようのモルペコだロト!」
「耳と手の色が、違う……」
 画面に表示されたモルペコは体の右側が茶色く、左側が黒いのに対して、ミグノンが描いたモルペコは体全体が黄色く、耳の縁が黒かった。
「でも、この絵だけでモルペコじゃないって決めるのは早すぎるんじゃないか。もしかしたら、ミグノンの見間違いとか、塗り間違いかもしれないぞ」
 オレが苦し紛れに放った言葉を、ソニアは予想していたようだった。スマホロトムの画面が切り替わって、はらぺこもようのモルペコが表示される。
「こんな風にモルペコの模様が変わるところを、テレビで見たことない?」
「……ある」
 テレビで見たことがあるということは、裏を返せば自分の目では見たことがないということでもある。目と記憶をもとにミグノンが描いたスケッチブックを指さしながら、ソニアが言葉を続けた。
「もしミグノンが見たポケモンがモルペコだとしたら、この絵みたいに食事をすることはありえないんだよね。はらぺこスイッチがあるから」
 モルペコは空腹になると、はらぺこもようと呼ばれる黒と紫の模様に変化する。表情だけではなく行動までもが凶暴になるので、食べ物を用意して落ち着かせるしかない。
「ミグノンが見たポケモンは、模様が変わらなかったから、モルペコじゃない。ソニアはそう言いたいのか?」
「そうよ。ミグノンが見たポケモンは、模様は変わってないんでしょう?」
「うん。黄色いままだった」
 不安を隠そうともせず、ミグノンはオレとソニアのやりとりを見守っている。オレは彼女を力づけるように、小さな手を握った。
「モルペコが食事をしていたんなら、ミグノンが見ているあいだはまんぷくもようだったとしても、おかしくないんじゃないか?」
「まんぷくもようってことは、お腹がいっぱいだってことだよね。でも、食いしん坊のモルペコが、たった一枚のクッキーで満足すると思う?」
 ソニアがポケットからハンカチを取り出した。小さな欠片からミグノンが目をそらしたので、オレはそれが花壇で見つかった理由を察した。
「今朝早く、この家の庭にポケモンが来ました。花壇に落ちていた食べ残しは、このクッキーと同じものですよね?」
「ええ。おととい、夫が焼いたものに間違いありませんわ」
 レセダさんの返事に頷きながら、ソニアはミグノンに視線を向けた。
「モルペコは満腹感が長続きしない、すぐにお腹が空くポケモンです。クッキーを一枚食べれば、お代わりを求めて暴れ出すでしょう。もしも庭でそんな騒ぎが起きていれば、この家の方が気づいていたはずです。レセダさんにお尋ねしますが、昨日の晩から今朝にかけて、大きな物音やポケモンの鳴き声を聞きませんでしたか?」
「いいえ、何にも」
 インクの染みのようにミグノンの顔に広がる絶望を食い止めるべく、オレは手を挙げた。
「でも、花壇の土は掘り返されてたぞ。庭に来たのがモルペコじゃないのなら、そんなことをする必要はないと思うぞ」
 ソニアはティーカップを口元に近づけた。紅茶を飲む手つきは、どことなくマグノリア博士に似ている気がする。
「このクッキーを用意した人は、どうしてもモルペコに食べてもらいたかった。そのためには、他のポケモンや人間に見つからないようにしなくちゃいけない。だから花壇に隠しておいた。ねえホップ、埋めた物を取り出す時、あなたならどうする?」
「そりゃ、まずは土を掘り返すぞ」
 体のつくりが違っても、人間とポケモンが取る行動に大きな差はない。オレは思わず自分の手を見つめた。 「そのポケモンは、この家の花壇に食べ物があることを知っていたんだろうね。なぜなら、前にもそこで食事をしたことがあるから。ミグノンが絵に描いたのは、その時のことだよね?」
 ポケモンは二回ではなく、少なくとも三回は庭に入りこんでいたのだ。オレにモルペコ探しを頼む前から、ミグノンはポケモンと再び会うための手を尽くしていたのだろう。前から欲しがっていたポケモンが目の前に現れたのだとすれば、ごく当たりの行動だ。
「ミグノン、庭におやつ持ち出してたの?」
 ソニアとレセダさんの視線の先で、ミグノンは大きく首を振った。
「……すごい。ポケモン博士って、そんなことまで分かるんだぁ」
 ミグノンが大きなため息を吐いた。驚きと、ほんの少しの怯えと。だがレセダさんは彼女を叱らなかった。小さな頭に手が置かれる。
「庭が汚れたら、後片付けが大変でしょう? 野生のポケモンにおやつをあげるなら、今度からは置く場所を考えないとね」
「うん!」
 満面の笑みとともに四角いクッキーを頬張るミグノンの姿に、オレとソニアも表情を綻ばせた。野生のポケモンに食べ物を与えることには問題もあるけれども、大人が見守っていれば、悲しい事件は起きないはずだ。
「結局、庭に出入りしているポケモンって、何なのですか? モルペコじゃないんですよね」
「モルペコじゃないけど、黄色くて黒いんだよね?」
 ミグノンだけではなく、レセダさんの眼差しにも輝きが宿っている。ポケモン博士に寄せられる期待の大きさに思いを寄せたオレに、ソニアが笑いかけた。
「それは助手のホップに答えてもらおうかな?」
「ええっ、オレ?」
 うろたえるオレに、三人の視線が集まる。研究所で勉強を始めてから、ソニアにはいくつかの課題をもらったけど、それらは難しくてもクリアできるものだった。だから、突然出された問題も、オレに解けるものなのだろう。
「もし答えられなかったら、どうなるんだ?」
「ワンパチに正解を教えてもらいなさい」
 ソニアのワンパチは、人や物を見つけるのがものすごく得意だ。クッキーの匂いを頼りに、ポケモンを見つけ出すのもお手のものだろう。けど、負けるのはやっぱり悔しい。
「答えはミグノンの絵にあるわ」
 緑のネイルと、黄色く塗られたポケモンが、オレの目に入ってきた。
「ホップ選手、頑張って!」
 ポケモントレーナーとして声援を受けたことは何度かあるけれども、見習い研究者として応援されるのは何ともくすぐったい気分だ。
「耳の縁と尻尾が黒いんだよな……」
 オレはガラル地方やヨロイ島だけではなく、カンムリ雪原のポケモンも目にしているし、外国のポケモンも本や映像で見たことがある。だからなのか、頭に浮かんだ小さな姿を受け入れることができなかった。
「一つだけヒントをあげる。ポケモンの図鑑の情報は、いったん頭から追い出して」
「追い出す……?」
 ミグノンの頼みを聞くだけなら、ソニアはオレ一人に任せるつもりだった。庭も同然と言えるブラッシータウンでポケモンを見つけるのは、難しい作業ではないはずだ。
 庭で彼女が言っていたように、大人にしか解決できない問題があるのならば、当たり前のことを当たり前だと思わないほうがいいのかもしれない。
「ミグノンが見たポケモンの正体は……」
 だが、オレが切り出そうとした途端、ワンパチの鳴き声が聞こえてきた。
「お二人に紹介します。私のワンパチです」
 愛想良く尻尾をふるワンパチに、ミグノンが歓声を上げて駆け寄った。カロスでは見たことがないポケモンを前に、興味を持つなと言うのが無理な話だ。
「こんな近くでワンパチを見るの初めて! 触ってもいいですか?」
「もちろん」
 ミグノンが勢いよく突き出した手を舐めながら、ワンパチは彼女の周りを駆け回っている。もしかしたら、手にクッキーの匂いが残っているのかもしれない。
「ヌワワン!」
「あっ、待って!」
 ソニアの特別なトレーニング(本人は認めないけど絶対にそうだ)を受けているワンパチは、ミグノンを誘導するように敷地の外に出て行った。
「クッキーに使ってる抹茶の匂いで、ポケモンの居場所を突き止めたんだな」
 足を止めては振り返り、オレたちがはぐれずに付いて来ているかを確かめるワンパチの姿は、小さいが頼もしく見える。
「なあ、ソニア。この先にいるのって……」
 言葉を続けようとしたオレの目の前に、オレンジが現れた。隣を歩いていたソニアが移動したのではない。サイドテールを揺らしながら、彼女が声を張り上げた。
「なんで、ダンデくんとリザードンがここにいるの?」
 ソニアの疑問は当然だろう。ブラッシータウン駅の裏通りは道幅が狭く、住人か物好きな観光客でなければ立ち寄りそうにない場所だ。野生の小さなポケモンが身を隠すにはうってつけの草むらを挟んで立っていたのが、リザードンとアニキだったのだ。
「ダンデって、元チャンピオンの? 本物?」
「ああ、本物だ。今までに影武者を雇ったことは一度もないぜ」
 大きく口を開けて、ミグノンが息を吐いた。追いついたレセダさんも目を見開いている。親子だからか、浮かべた表情がよく似ていた。
「それで、どうしてここにいるの?」
「研究所に行くつもりだったんだが、途中でワンパチを見つけたんだ」
 ワンパチは草むらの前にアニキとリザードンを連れていき、絶対にそこを動かないように強く念を押して走り去ったのだという。助手さんがいない日だから、アニキが研究所で待ちぼうけを食わずに済んだのはラッキーだけど、だからこそアポは大事だと思う。
「この草むらにポケモンがいるんだな。捕まえればいいのか?」
 アニキの問いかけに、目の前の草むらがわずかに揺れたような気がした。姿勢を落としたソニアが、ミグノンに丸いクッキーを持たせながら囁きかける。
「クッキー、あげてみる?」
 ミグノンは大きく頷き、抹茶クッキーを差し出した。だが人間を警戒しているのか、ポケモンは草むらに隠れたままだった。
「おいで、怖くないよ?」
 声から距離を取るように、緑が揺れた。だが草むらの周りはオレたちが囲んでいるので逃げ場はない。もし持久戦に持ちこまれても、オレたちが有利なのは間違いないが、ミグノンの負担は避けたいところだ。
「だったら、こっちをあげてみようか」
 ソニアが取り出したのは、普段から持ち歩いているポケモン用のおやつだった。安全なものだと示すように赤い粒をワンパチにワンパチに与えた後、ピンク色の粒をミグノンの手に乗せる。
「このおやつ、モモンの実を使ってるから甘いわよ」
 リザードンが短い鳴き声を上げた。一瞬のうちにアイコンタクトが交わされ、甘口のおやつがリザードンにも行き渡った。アニキとワンパチと同じように、ソニアとリザードンも、親トレーナーとポケモンとは別の特別な関係を結んでいるような気がする。
「リザードンも甘いものが好きなの?」
「ああ、そうだぜ!」
「ポケモンにも、好き嫌いがあるんだ。だったら、苦い味が嫌いなポケモンもいる……?」
 それはミグノンのような小さな子にとって、大きな発見だったのかもしれない。
「ポケモンにも好き嫌いはあるわよ。でも、野生のポケモンは、嫌いなものを食べないでいたら生きていけないから、我慢してるの」
「人間と同じだぜ。ポケモンにも、好き嫌いや性格があるんだ。さて、キミはどんなタイプだろうな?」
 アニキの呼びかけが聞こえていたのか、それとも甘いおやつに釣られたのか、草むらのポケモンは文字通り揺れていた。
「苦い味が嫌いだったら、ゴメンね。あれは大人の味なんだって。今度はパパと一緒に、ポケモンが食べても平気な甘いクッキー焼くから!」
 ワンパチが目を輝かせた。リザードンもどことなく嬉しそうな気がする。ミグノンの言葉と、ポケモンたちの反応。先の尖った耳が、ついに葉っぱのあいだから飛び出してきた。
「わあ……」
「ピチューだ」
 こねずみポケモンは、大きな目で周りの様子をうかがいながらミグノンに近づいてきた。だが、ピチューはまだ電気の扱いが上手ではない。事故や怪我を警戒したレセダさんが、低い声で注意を促した。
「おいしい?」
「ピチュ!」
 ミグノンの手からおやつを食べ、ピチューは満足そうに鳴いた。甘口が気に入ったようだ。
「でも、なんでピチューがこんなところに?」
「ヨロイ島から来たんだろうね」
「「ヨロイ島?」」
 オレとレセダさんの声が重なったけれども、抱いた疑問は別のものだった。レディーファーストの精神で先を譲る。
「レセダさん、ヨロイ島のマスター道場って、聞いたことはありませんか?」
「知ってる! 元チャンピオンの道場でしょう? ヨロイ島は、マリィちゃんたちがトレーニングした場所だよね」
 レセダさんよりも、ポケモンバトルの中継を見ているミグノンのほうが詳しかった。
「よく知ってたわね。このピチューは、そのヨロイ島から来たの。小さな島だけど、暮らしているポケモンはガラル地方と全然違うんだよ」
「へえ、そうなんだ」
 ウーラオスの好物を探し回った集中の森には、野生のピチューが生息している。けど、ガラル地方とヨロイ島を行き来するには、海を越えなければならない。島の塔に向かうはずが、いつの間にかハロンタウンに戻っていたなんて事態を引き起こすのは、世界広しといえどもアニキだけだ。
「ヨロイ島からこのブラッシータウンまで、ピチューはどうやってここまで来たんだ?」
「ピチュー、どうやって来たの?」
 ミグノンの問いかけにピチューが首を傾げる。ワンパチ愛用のおやつの効果か、もう仲良くなったようだ。
「乗り物を使ったのよ」
 ブラッシータウン駅のホームから、青い車両が静かに離れていく。ヨロイ島からヤドンが電車に乗ってきたという話は聞いたことがあるから、別のポケモンが交通機関を利用してもおかしくはないはずだ。
「ダンデくん。ポケモンリーグ委員会からマクロコスモス・レールウェイズとガラル交通宛てに、文書を出すことはできる?」
「ガラル地方の生態系保護のために、入庫時の車両点検の徹底を要請する。こんな内容でいいか?」
 ポロシャツにジーンズというラフな格好だったが、ソニアの求めに応じるアニキからは、リーグ委員長の威厳のようなものが感じられた。
「それはつまり、ヨロイ島やカンムリ雪原のポケモンが乗り物に紛れこんでガラル地方に来ていないか、きちんと確かめてくださいってことなのか?」
「たった一体のポケモンがきっかけで、生態系が大きく変化することもありえるからね」
 ポケモンには、タイプとは別にタマゴグループという分類が存在する。種類が違うポケモンでも、所属しているグループが同じならば、オスとメスのペアからタマゴが見つかることがあるのだ。
 ミグノンにじゃれついているピチューは、外見だけでは性別が分からなかったけど、もしメスだとしたら、ピカチュウに進化して、ブラッシータウン周辺に生息する陸上タイプのポケモンとのあいだにピチューのたまごを作ることもできるのだ。生態系が変わるというソニアの言葉は、大げさでも何でもないと思う。
「このピチュー、どうするんだ?」
 ピチューがオスだとしても、町の外に放すわけにはいかない。親が心配しているかもしれないから、ヨロイ島に返してやったほうがいいのだろうか。
「ねえ、うちにおいでよ!」
 小さな手でピチューを抱きしめながら、ミグノンが声を張り上げた。その言葉を予想していなかったわけではないけど、手放しで賛成できるようなことでもない。ポケモントレーナーを目指すにせよ、他の生き方を選ぶにせよ、ポケモンと一緒に暮らすのは簡単なことではないのだ。
「モルペコじゃないけど、いいのか?」
「いいの! ちゃんと面倒見る!」
 ミグノンがオレたちを見回した。ピチューが不思議そうに顔を上げ、彼女の動きを真似る。
「キミはどうしたい? ここで生きるか、それとも、島に戻るか。どんな生き方を選んでも、力になるぜ」
 腰を落としたアニキが、ピチューをのぞきこんだ。力強い眼差しと言葉がポケモンに通じているような気がするのは、弟の贔屓目ではないと思う。
「ピチュ、ピチュ」
 人間と一緒に暮らす。ピチューは自分の意志を示すように短く鳴いて、ミグノンと視線を合わせた。
「ピピチュ!」
「うちに来てくれるの? よろしくね、ピチュー」
 ワンパチとリザードンが、一人と一匹を祝福するように吠えた。ミグノンとピチューの頬が重なり、小さな火花が花火のように飛び散る。驚きの悲鳴に、レセダさんが娘の名を呼ぶ声が重なった。
「大丈夫、ケガしてない?」
「びっくりしたけど、大丈夫。ピチューは?」
 ピチューは元気よく返事をした。この小さなポケモンが扱い方を覚えるまで、ミグノンは幾度となく電気を浴びせられることになるだろう。ポケモンとの暮らしは楽しいけど、危険なこともたくさんあるのだ。
「電気ショックが心配だけど、仲良くしてる姿を見たらダメとは言えないわね」
 期待とわずかな不安の入り交じった眼差しを浮かべたミグノンに向かって、レセダさんは肩をすくめた。
「一度、パパたちと相談しましょう」
 ミグノンの父親のパートナーは、仕事を手伝っているペロリームだ。ピチューを家に迎え入れるなら、ポケモン同士の相性も無視できない。
「ピチューを迎え入れる準備ができるまでは、ポケモンセンターに預かってもらえばどうです? あそこなら、世話のやり方もアドバイスしてくれますよ」
 ソニアが二人とピチューをポケモンセンターに案内することになり、オレとアニキは先に研究所に戻った。 「オレがミグノンの話をした時にはもう、ソニアはポケモンがヨロイ島から来たことが、分かってたみたいなんだ。不思議だよなあ」
 軽く頷いてアニキは腕を組んだ。オレとミグノンとの出会いから、ピチューを見つけるまでを説明しているあいだに、マグカップの紅茶は飲み頃になっている。
「三日前の朝、ブラッシータウン発の電車が遅れたのは知ってるか?」
「電車が遅れるのなんて、珍しくはないだろう。リニアモーターカーじゃないんだからさ」
 カントーとジョウトを結ぶリニアモーターカーは、ものすごいスピードで走るだけではなく、時刻表通りに動いているのだというが、ガラル地方では電車の遅れや運休は日常茶飯事だ。だからよほどの悪天候か事故でもない限り、ニュースにはならない。
「車両にミミロルが入りこんで、ブラッシータウンの駅員総出で追いかけたそうだ」
「大変だったんだなって……ミミロル?」
 ミミロルも、ピチューと同じくヨロイ島に生息するポケモンだ。一礼野原で見かけたことがある。
「ソニアはそれを知っていたんだろう。だからオマエの話を聞いた時に、ヨロイ島のポケモンが迷いこんでいる可能性に気づいたんじゃないか?」
 テーブルに置きっぱなしの新聞には、おとといの日付が書かれていた。後ろのページに、ミミロルが電車に入りこんだという記事を見つけ、オレは頭をかいた。
「ソニアが新聞や雑誌も読んでおくように言ってた理由が、理解できた気がするぞ」
 スマホロトムを使えば最新のニュースをチェックすることができるけど、紙の新聞とは違って、関心のない話題やコラムが目に入る機会が少ない。
「アニキも、普段から新聞を読んでるのか?」
 バトルタワーのオーナー服を身にまとい、デスクの前で新聞を広げるアニキの姿を、オレはイメージした。普段シュートシティで仕事をしている人間がブラッシータウンの出来事を知るには、それが最適な方法に思える。
「ポケモンリーグ委員長だからな。どんな小さなものでも、ポケモンに関するニュースには目を通すようにしてるぜ」 「さすがだな。もしアニキが昨日研究所に居合わせていたら、ソニアみたいにピチューを見つけられたんじゃないか?」
 オレの言葉と期待の眼差しを柔らかく受け止めて、アニキはマグカップに口を付けた。
「食べ物でピチューをおびきよせることはできるかもしれないが、オレにソニアの真似はできないぜ。花壇の手がかりに気づかないか、気づいても抹茶クッキーだとは思わないだろうからな」
 道を覚えるのが苦手という欠点が、ガラル地方全土に知れ渡っていても、チャンピオン・ダンデは立派な王者だった。誰かが描いた偉大なチャンピオンという理想に自分を近づけるために、アニキは人知れず努力を重ねてきたのだと思う。
 そんな風に生きてきた人間が、自分にできないことを認めている。それはチャンピオンではなくなったアニキの変化かもしれないし、オレが知らなかっただけで、ソニアが相手ではずっと昔から当たり前のことだったのかもしれない。
「オマエが生まれる前から、ブラッシータウンはソニアの研究フィールドなんだ。この町で抹茶を扱っている店も、産地ごとのお茶の違いも知ってるだろう。そこまで分かれば、後はワンパチの出番だ」
 ソニアがワンパチに匂いを頼りに人や物を探す訓練を始めたのは、ジムチャレンジに参加する前だという。そのきっかけとなった人物は、どことなく誇らしげな顔でガトーフロマージュにフォークを突き立てた。
「ソニアとワンパチが本気を出せば、見つけられないものはないぜ」
 アニキの言葉が、リップサービスでも誇張でもないことを、オレは知っていた。



 ポケモンリーグの要請を受けて、ヨロイ島やカンムリ雪原から戻ってきた鉄道や空飛ぶタクシーは、車両点検を強化した。その結果、迷いこんだポケモンやタマゴがいくつも発見され、駅員やタクシー運転手の手で元の場所に戻された。居合わせたポケモントレーナーが捕獲に力を貸したケースもあったようだけど、この事態を招いたのは、ヨロイパスとカンムリパスの入手条件を緩くしたことによる、人間の移動の増加だ。
「人間の移動を止めることはできないわよ。誰にだって生活がかかっているもの」
 ソニアが肩をすくめた。ポケモンが困っているという理由で交通機関を止めてしまえば、ブラッシータウンに来る人の数が減る。経済や経営はオレにはよく分からないけど、そのせいで駅前のお店が倒産したら困るよな。
「それに、人間の乗り物や知らない場所に興味を持ったポケモンの好奇心は止められないわよ」
 家族で話し合った結果、ミグノンは無事にピチューを迎え入れたそうだ。ピチューはときおり電気を放ちながらも、元気に過ごしているという。
 そしてパティスリー・ミナモでは、ポケモンも食べられる抹茶クッキーの販売を始めた。甘口と苦口の二種類があるのは、ミグノンたちの意見を取り入れたおかげだろう。次の試合の時に持って行くから、楽しみにしてくれ。マリィとモルペコも、きっと喜ぶだろうな。
 これが、ブラッシータウンで起きた小さな事件の顛末だ。ガラル地方の生態系の危機を未然に防いだなんて言うと大げさかもしれないけど、ソニアの活躍がなければ日常に潜んでいたクッキーひと欠片分の謎に、光が当たることはなかったと思う。
 映画やドラマのような出来事は滅多に起きるものじゃないし、起きても困る。でも、ほんの少し視点を変えれば、ミステリー未満の不思議は身の回りにたくさんあるから、ソニアが推理を披露する機会が、近いうちに訪れるんじゃないだろうか。
 その時は、オマエと一緒に謎を追うことができればいいな。


以前から書きたかった「名探偵ピカチュウ」風の謎解き話です。
書き始めたときは、ホップの手紙はダンデ宛てでしたが
ダンソニ要素を増やそうとした結果、こうなりました。

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