草創期からコンクール出場まで
草創期

「純粋な音楽を、学生らしい音楽をやろう。」戦後間もない殺伐とした状況の中で、
音楽に対する情熱を持った学生たちが集まった。当時は大学内にピアノもなく、練習
会場を確保することも困難であった。しかし、学生たちの音楽への思いによって
「立命館大学交響合唱団」が誕生した。昭和21年10月2日のことである。
そしてわずか13日後の10月15日、東山の華頂会館での学園祭で第一声をあげた。
約40名の男声合唱により、校歌、オールドケンタッキーホーム、スワニー河などを演奏
したのである。
翌22年は、華頂会館での学園祭出演に引き続き、暮れには富有児童合唱団を加えて毎日
ホールでの演奏会を試みている。
昭和25年には立命館大学創立50周年記念式典が行われ、帝蓄会社で校歌とエールが吹き
込まれた。そして同年10月21日、弥栄中学校講堂で第1回定期演奏会が開催された。
創立後4年、初期の基礎作りを成し遂げたと言える。当時は混声合唱団の活動が主体で
あったが、学内の女子学生は少なく、定期演奏会には学外からの応援を求めていた。
昭和27年には、「私の音楽」というNHKの番組に出演し、歌声が電波にのった。
こうして活動は徐々に広がり、練習も厳しさを増していった。
昭和28年、学園ホールが完成し、当時の団員の大学にたいする働きかけもあり、その
ホールに待望のピアノが設置されることとなった。第4回定期演奏会は、同年このホールで
開催された。創立時と比べると団員数は増え、70名を超えるまでになった。こうして
苦しみながらも毎年1回の定期演奏会が開催できるようになり、様々な困難に直面し、苦悩
しながらも、歌う喜びによってそれを乗り越え、一歩一歩合唱の道を歩み続けていったのである。
「メンネルコール」独立期

昭和28年、新しい試みとして、それまで毎年1回秋に行っていた定期演奏会を、年2回前期と
後期に持つこととなった。また、同年3月には、東大コールアカデミーとの交歓演奏会が
学園ホールで開催された。しかし、このように活動が活発になるにつれ、男声合唱と混声合唱の
掛け持ちをしている男子団員の負担は、さらに大きくなっていったのである。
昭和30年に「立命館大学メンネルコール」の正式名称がつけられた。その経緯は、この年に創立以来
初めて演奏旅行を行うこととなり、その際男声合唱団ではなく、正式な名称を付けようという気運が
高まったことによる。また、同年は、関西合唱コンクールに初出場した。さらに、11月には、
立命館大学交響楽団の創立記念を兼ね、第8回定期演奏会が学園ホールで開催されている。
昭和31年、35条からなる団則の誕生を記念して「団員手帳」が発行された。演奏旅行も年中行事と
して定着し、テレビ出演などを行いながら、活動の場はさらに広がりを見せていった。
昭和36年には関西六大学合唱祭が、大阪中之島・中央公会堂で開催されている。出演は、同志社、
関西学院、関西、京都、神戸の各大学のグリークラブとメンネルコールであった。
そして翌37年、創立依頼行動を共にしてきた混声合唱団とメンネルコールは分離することとなる。
分離後最初のステージは明治大学グリークラブを京都会館第一ホールに迎えての、第1回明立交歓
演奏会であった。
こうして昭和21年の創立から、混声合唱団と分離独立する昭和37年までの間に、ほぼ現在の
年間活動に近い内容ができあがっていったと見ることができる。
コンクール出場
メンネルコールの合唱コンクール出場への歴史は、前述のとおり昭和30年に始まる。
以後不参加の年もあったが、昭和48年まで継続された。
メンネルコールが関西合唱コンクールで初めて入賞したのは、昭和37年である。混声合唱団と分離し、
第1回の明立交歓演奏会が開催された年であった。そして、翌38年、関西合唱コンクールでついに
念願の第1位を獲得したのである。全日本のコンクールでは第6位の成績であったが、約130名の
男声合唱によるダイナミックで若々しいエネルギーに満ちた演奏は高く評価された。
その翌年の関西合唱コンクールも前年に引き続き1位となり、全日本コンクールでは3位入賞を
成し遂げたのである。
昭和40年の関西合唱コンクールでは残念ながら関西大学グリークラブに1位を譲り、第2位となった。
しかし、関西1位の座を明け渡してもメンネルコールは低迷することなく、翌年の昭和41年には
関西1位を奪回しただけにとどまらず、全日本コンクールで優勝を果たしたのである。創立20年に
しての快挙であった。
昭和42年の関西コンクールでは立派な演奏をしたにもかかわらず、事務連絡上のトラブルから不運にも
失格となってしまった。そして翌年43年には関西2位にとどまった。この頃から団内ではコンクールに
対して疑問視する声が上がり始め、昭和44年から46年までコンクールへは出場していない。
昭和47年、再び出場して全日本3位の成績を収めたが、翌48年でメンネルコールの
コンクールへの出場は一旦ピリオドを打つこととなる.....
それから、約30年の間メンネルコールは、演奏旅行、明立交歓演奏会、関西六大学演奏会、定期演奏会を
中心に「学生」を主体とする活発な音楽活動を続けてきた。1990年代に入り、世間全般に大学男声合唱の
低迷が顕在化し、立命館では、衣笠キャンパスとBKC草津キャンパスの2拠点化の影響もあり、存続すら
危ぶまれる急激な団員数の減少と遭遇することになる。
H12年(2000年)、「伝統」という名の下に形骸化してしまった”形”だけの活動を見直し、
新たな活路を模索する中で、再び、合唱コンクールへの挑戦が決断された。挑戦3年目にあたるH14年
(2002年)には、御指導頂いている先生方、学校関係の支援も実を結び、関西コンクール大学Aグループで
1位金賞、全国コンクールで銀賞へ入賞という順調な成長を続けている。
コンクールに出場している多くの団体とメンネルコールの音楽造りの違いは、メンネルコールの
「伝統」と言える学生指揮者を中心とし、学生を主体とする音楽造りが実践されていることである。
”切磋琢磨”する情熱が学生から消えた時、アマチュア合唱だけがもつ魅力も失せてしまうのだ。
今後の現役のコンクールでの更なる活躍を期待すると同時に、メンネルコールの復活劇と、清新で熱い演奏が、
低迷を続ける大学男声合唱団へ「???」と「!!!」を与える刺激剤となることをいち男声合唱ファンとして願いたい。
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