別名岩手城とも言い、伊吹山を背にして標高402m西は明神山を経て伊吹山系の続き、山頂の地形を巧みに利用し、七つの曲輪と十指に余る小削平地、二つの大堀切・七条の竪堀及び空堀からなる大規模な城郭である。 戦国乱世の頃、岩手弾正左衛門頼重は、この菩提山に本拠を置き、近江と美濃の間に勢力を張っていた。 永禄元年(1558)竹中遠江守重元は、現在の揖斐郡大野町にいたが、岩手弾正を攻略し、翌2年(1559)ここに城を築き、現在の大垣市の福田・長松と岩手付近一帯を領し六千石の領主となった。 戦国時代の軍師として知られた竹中半兵衛重治は重元の子でこの城に住んでいたが、永禄7年(1565)には岐阜城を攻略し、さらに織田信長・豊臣秀吉に仕え重用されたが天正7年(1579)播州三木の陣中で病死しこの世を去った。
南西に続く大規模な峰を切った大規模な2重の掘切は主郭南東の尾根の堀切と比べると規模が数倍大きく、関ヶ原合戦の折に東軍の家康方が、ここを本陣または詰の城とする為に増強工事を行った可能性が高い。
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