福知山城は、福知山盆地の中央へ西南から突出した一続きの細長い台地の末端にあり、展望のよくきく地である。東方には由良川と土師川が自然に外堀の役目を果たしており、更に東、北西の三方は断崖と、まさに要害というべきである。
石垣は野面積みで大石を奥の部分で噛み合わせ、その奥に栗石を入れ、地下水が容易に流れ出す様に施されている。外見はきわめて粗雑で幼稚な様だが、実際は崩れにくい堅固なものである。
石垣に宝筮印塔・五輪塔・石仏・石臼・灯篭などが転用石として約二百あまりとして使われている。これほど大量の使用例は、大和郡山城と福知山城にしかない。
中には延文四年(1359)銘の五輪塔地輪や天文十年(1541)銘の五輪塔地輪も見られる。
徳川初期の文書によれば、小笠原長清の末裔塩見大膳頼勝が、現在の朝暉ヶ丘丘陵に掻上城を築いて立て籠もったのが城塞としての始まりである。
頼勝の子大膳大輔頼氏は、性を横山と改めたがのち陰居して功雲と号して、当城の南方堀の水内に住んだ。
その頃は未だ福知山の地名はなく、この丘陵も横山と呼ばれており、頼氏の城塞も横山城と書かれている。 |