舞鶴城

京都府舞鶴市南田辺


■創築年 天正八年
■築城者 細川藤孝
■形式 平城
■遺構 天守台石垣、本丸、二の丸、堀跡
■別称 田辺城
■面積  9,800u

 築城は戦国群雄のなかで智将であり歌聖といわれた細川藤孝(幽斎)が、天正八年(1580)八月、織田信長より丹後国をあてがわれ、子忠興とともに縄張りしたことに始まり、天正十年代に完成したといわれている。

 慶長五年(1600)七月、石田三成方一万五千騎の大軍に攻められた幽斎は、わずか五百人の兵で舞鶴城(田辺城)に篭城して五十余日を戦った。

 古今和歌集の秘伝の継承者であった幽斎が八条宮智仁親王の使者に古今相伝の箱に和歌一首を添えて献上した、世に言う古今伝授は篭城のさなかの事である。

 その後、忠興は関が原合戦の功により豊前中津に加封され、代わって京極高知が入国、元和八年(1622)高知の遺命により丹後国を三分し、庶子の高三が城主となって三万五千石を領し田辺藩が成立した。

 寛文八年(1668)京極氏が但馬豊岡に移封のあと牧野親成がこれに代わり、以後牧野氏が明治二年(1869)の版籍奉還まで代々田辺藩主として在城した。

 

 城は細川氏の築城後、京極氏、牧野氏が拡張・改修を行い、ほぼ現在の舞鶴公園地にあたる本丸を、二の丸・三の丸・外曲輪とそれぞれの堀が囲む輪郭形式の平城として整備され、さらに東の伊佐津川、西の高野川、南の低湿地田、北の湾海は総濠としての役割を果たした。