2003-07-21番所跡側からのルートを攻める

 

 2003年2月に引き続き、清水谷側斜面遺構・大野木土佐守屋敷のの検証を行いました。

 今回のコースは番所跡から山王丸までの清水谷側を斜面をに沿って移動しながら防禦遺構を確認しました。

 

 番所跡(A)からハイキングコースを登ると、左に大きくカーブ、更に約50m登ったところで三叉路となり、右に折れると「本丸」ですが、そのまま直進すると清水谷側へ廻り込むことが出来ます。

 この辺りから左側の谷方面に防禦遺構が見られます。

山道から下一帯に無数の小規模な段状削平地(B)が築かれており、面積は狭く削平も非常に甘いので、信長の小谷攻めの折に急遽築いたので有ろうと思われます。

 (C)には山道を数本の竪掘が遮断する形で築かれています。下記の縄張り図では5本の竪掘りが描かれていますが、実際には規模の小さなものも数えると約8〜9本の竪掘りが連続しています。

(C)にこれだけの「竪掘り群」を集中させて築いている事から、ここが小谷城域の最終防禦ラインと思われます。

(C)の山道と竪掘

約3m幅の通路の側面に築かれた約20mの石積み@

(D)で左写真の約20mに及ぶ石積みを発見した。

 

石積みは通路と思われる幅約3mの道の側面の、土留めの役割を果たしており、総長は約20mあるが所々崩落しているものの、往時は全面に石積みが築かれていた事が伺える。通路の両端は不明瞭で、前後が何処に繋がるのか?地形からは判断でない。

約3m幅の通路の側面に築かれた約20mの石積みA

その先は、京極丸直下で最も郭の規模が大きくなる。京極丸から山王丸の間にも郭が築かれているが、徐々に規模が小ぶりとなり防禦も甘く石積みも見かけなくなり、山王丸直下から先には見られません。

 元亀元年の時点で、浅井氏が事実上江北の支配者であっても、形式的には京極氏が「御屋形様」として君臨していたと言われる通り、縄張りからも明らかに京極丸を主郭とし両脇を家臣の館で守っている点が注目すべき所である。

京極丸直下の石塁を付設した大野木土佐守屋敷跡

 2回に渡る検証で、大野木屋敷跡は京極丸直下の郭址で

この位置には、無名で他の郭とは明らかに異なった防禦が付加された郭が大野木土佐守屋敷・・・。とは京極丸直下(約4m)の清水谷側に石塁を付設した郭が該当する。

これだけの立派な郭が「小谷城案内図」にも描かれておらず、一般的にも知られていない事は非常に残念で成りません。史実には「大野木屋敷」とうたわず、「浅井七郎、三田村左衛門、大野木土佐守なりしが、昨夜より降参し味方に参って今日は難なく曲輪を相渡す。」等と、郭を明確に表現していない為に、その存在を知る機会が無いのかも知れません。

 

 

 HOME