比良山系に源を発する安曇川によって形成された高島南部平野のほぼ中央、安曇川の北岸に位地し、当平野の北半分を占める新旭町の南部、新庄地区の東にある新旭町立南小学校の南に存在する。
当城の創設者については当城の北西にあたる饗庭野丘陵の東南端清水山城の出城として築城され、清水山城主佐々木越中守の家臣多胡上野が守備していたと言われ、また一説には、高島佐々木一族の新庄伊賀守実秀が居住していたとも言われる。
元亀元年(1572)織田信長の高島征服は郡内の勢力図を一変させ、多くの城が廃城となった。天正元年(1573)信長の家臣磯野丹波守員昌が郡内支配のため入城したが、天正六年(1579)員昌の逐電ののち、養子織田信澄が高島町に大溝城を築いたため、その際に移築され、廃城となったと云われている。一説には大溝城の築城は天正九年(1582)員昌・信澄は高島町打下城に居住し、その後大溝城に移ったとも云われている。
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