嘉吉年間(1441-1443)に、守護大名の山名持豊(宗全)が有力家臣のひとりである太田垣に築かせた城である。 そのころ竹田城は砦に近い状態であった。現在の様な石積みの城郭になったのは、廃城時の慶長五年(1600)の頃と思われる。 縄張りは最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸・三の丸・南二の丸が梯郭式に配され、大手口を防御する枡形部に沿う北千畳郭と搦手口のある南千畳を双翼とし、さらに天守台の北西部には花屋敷と称する一郭がる。 また、城郭の周囲には現存の石垣より古い時代の遺構である竪掘も確認されている。 石垣は構築技法から見て、穴太積を採用している。穴太積みとは、近江国を中心に発達した石垣構築法の総称であるが、積み方から言えば野面積み石垣と言える。野面積みとは加工を施さない自然石をそのまま積んだもので、すき間が多く一見して粗雑に見えるが水はけがよく崩れを防ぐ。 |