シャドーナイト
プロローグ
太古の昔。人々がまだ地球上に存在していなかった頃。この地球をかけ天地をゆさぶる神と悪魔の戦いがあった。その戦いは死闘の末、神が悪魔を地獄に封じこめ決着した。しかし悪魔はたびたびその封印を破り、地上に出で、地上を我が物にしようと虎視眈々(こしたんたん)と狙っている。しかしそれを阻止し、悪魔を地獄に封じる者がこの世にはいるという。その者を救世主、そしてその救世主の守護者をシャドーナイトという。
そして再び、悪魔がその封印をやぶり地上に出ようとしていた。
時は1582年。フランスで魔女裁判が最盛期に達した時である。そして又、一人の青年がこの世と愛する人を悪魔から守る為、守護者、シャドーナイトに生まれ変わろうとしていた。
第一章 1582年 シャドーナイト誕生
登場人物
ラリー・ハント(男) シャドーナイト
シーラ・ニキア(女) 救世主
冷たい風が、乾いた革靴の靴音を狭い石造りの通路に連れ去って行く。その風は通路に等間隔に備えられた松明(たいまつ)の炎を掻(か)き消そうともがいているようだ。
それはまるで僕の命の灯火(ともしび)を消し去ろうとしているようにも今の僕には見えてくる。
喉(のど)は干上がった井戸のように渇(かわ)き、死の世界への恐怖を滲ませた呼吸音だけが、その通路に冷たく木霊している。
眼前に伸びる底の知れない闇は、松明が放つ火の光りを別世界の物だと思わせる程に重く、そして死その物に思わせる。しかし僕の進むべき道はその深淵なのだ。
一歩奥に向かって足を進めるたび、自分があの世に向かって歩んでいるように思える中、僕の心が今までの人生を回想し始める。それはシーラと仲間達に出会わなければ、生きる意義さえ見出(みいだ)せなかったであったろう――数々の人生の断片(だんぺん)だった。
幼い頃に見た、はっきりとは思い出せない両親の顔。
両親を目の前で殺され、生き抜く術すら知らされず戦乱の時代に、一人身を委(ゆだ)ねなくてはならなかった幼き日の孤独に身を縮めていた自分。そして、そんな自分を太陽のような温かい笑顔で迎え救ってくれた青い目の少女――シーラ。今では自分と同じ十七歳になったその少女に、多くの仲間が愛情を惜しみなく注いでいる。しかし自分はその愛情すらも凌駕(りょうが)する想いを胸に熱く秘めている。そう、僕とシーラは戦乱の時代に数少なく咲く事を許された純愛の花。
(シーラ……)
自分の全てを投げ打っても惜しくは無い、守りたい、自分にとっての生きる意義。
だから僕は、この身を捧(ささ)げ、古い言い伝えの守護者、シャドーナイトに生まれ変る事を決意した。そのためには、儀式によって、一度命を断ち切らねばならない。
しかし僕は後悔など微塵(みじん)もしていない。愛する人の為、全てを捧げるのだから。例え我が身が化け物になったとしても後悔などするはずもない。
やがて通路の奥から重々しいシャーマン達の呪文の詠唱が聞こえてきた。これが何のために唱えられているか、僕は知っている。それはこれから命を捧げる僕へのレクイエムだと言う事を。
呪文の詠唱は、まるで歌うような言葉の旋律となって、あの世へのプレリュードとして僕の心に響いてくる。それはまるで今生きていることを死ぬ前に貪婪(どんらん)に味わっておきたいという僕の心臓の鼓動に合わせて奏(かな)でているようにさえ聞こえてくる。
僕は、一歩一歩、血に濡れた革靴で固い石の床を踏みしめ、呪文の詠唱のする通路の奥へと歩いていく。
早鐘のように鳴る心臓。それは絶対的な終りを意味し、もう二度と取り戻せない生を本能が惜しんでいる為なのだろうか。
僕は、その臆病(おくびょう)な気持ちを心に力を込め固く握りつぶす。
そう、もう後戻りは出来ないのだ。シーラを救う為に残された道はこれしかない。強要ではない、自分で選んだ道だ。
それがどんなに過酷な道であろうとも、僕はやり抜いて見せる。この手で必ずシーラを未来を取り戻す。無駄にはさせない。多くの仲間の犠牲も。これから捧げる僕の命も。
僕は胸に手を当て、重く脈打つ心臓にそう何度も言い聞かせる。自分の子供に子守唄を聞かせるように。
やがて、松明が両脇に備え付けられた儀式めいた木造の扉の前に辿り着いた。
その光りに照らされ、ぼんやりと闇に浮き立つその扉には、新教と旧教の融合を現す、我らが神教のシンボルである十字架に絡む双龍の紋章が刻んである。呪文の詠唱は、その扉の奥から聞こえている。この扉を開けて中に入れば僕はもう死ななければならない。
生存本能が奏でる重い心臓の調べ。今僕は、これまでの生涯(しょうがい)の中で、最も生きている事を実感しているのかもしれない。
その想いを体現し始めた汗ばみ震える手が、僕に何か大事な事を語り掛けている気がする。その暗い想いを息を整え、徐々に駆逐して行く。
やがて死の恐怖を乗り越えた先にある、恍惚感(こうこつかん)にも似たぞくりとする感覚が背筋を這い登り、震えが止まった。僕はその手で力強く扉を押す。
木製の扉が擦れ合い、重々しい音を立てながらゆっくりと扉が押し開かれて行く。
扉の奥には石造りの通路より比較的大きな部屋があり、その中は外の通路より松明が煌々(こうこう)と焚(た)かれていて明るい。
一際大きくなった呪文の詠唱の、ものものしい声が耳を突いて来ると同時に、目には三つの物が飛び込んでくる。
神秘的な光りで青白く光る床の魔方陣。
正面の壁に架(か)けられている大きな青い十字架。
床の魔方陣の上に、魔方陣を囲むように立っている緑色の古ぼけたフードを頭からすっぽりと被(かぶ)り、ローブをまとい呪文を唱えている四人のシャーマン達。その四人を囲むように松明が燭台に備え付けられている。
首に黒い太陽の紋章のネックレスをつけた一人のシャーマンが、僕が入ってきた事に気づき、片手を上げ、呪文の詠唱を止めた。ゆっくりと僕に振り向き、僕に語りかける。
「……覚悟はできたか?」
僕は一瞬目を閉じる。決意のための息を大きく吸い込み、心を静め、頷(うなず)くとシャーマン達が囲んでいる魔方陣のほうに向かって歩き出す。
シャーマン達の間をぬって、魔方陣の上に乗った僕に、シャーマンの一人が近づき古びた剣をさしだした。
シャドーナイトに生まれ変わるためには、この剣を自らの心臓に突き刺し、一度死ななければならないのだ。
僕は一呼吸おいた後、覚悟を決め、その剣を受け取った。その剣の重みが自分の命の重みに感じる。
剣を渡したシャーマンは、僕の方に顔を向けたまま後退り、元の位置へと戻った。僕はそのシャーマンが元の位置に戻るのを見届ける。
四人のシャーマンが、再び僕を囲むようにして立った。そしてさっき、手を上げ、呪文の詠唱を止めたシャーマンが、片手を上げると、再び呪文の詠唱が始まった。
僕は剣を持つ手の震えを押さえるように、剣を握る手に力をこめた。そして目をつむり、静かに剣先を自分の胸に当てた。胸に鋭い刃物で薄皮を切ったような痛みが走る。
その痛みを掻き消すように、シャーマン達が呪文の詠唱を強く唱え始めた。
僕はもう一度、愛する人の顔を思い浮かべた。シーラの微笑みが僕に勇気を与えてくれる。
そして覚悟を決めた。意を決し、胸に剣を一気に突き立てた。焼け付くような激しい痛みと、胸にヌルリとした熱い血潮の広がる感触を感じる。剣が胸に深く入っていくたび激しく痛み体が痙攣(けいれん)する。僕の口の中に生暖かい血液がたまっていく。僕は焼けるような痛みをこらえ、血を吐きながら、残された力を振り絞り、さらに深く剣を胸の奥に突き立てた。剣は僕の心臓を貫き背中から突き出た。
断末魔の引き攣(つ)るうめき声を上げ、僕は体から全ての力が抜けていくのを感じ、身の任せるままに床へと倒れこんだ。
やがて、嵐のような激しい痛みと、朦朧(もうろう)とする意識の中、全ての感覚がなくなっていった。うずくまって床につけた頬(ほほ)の感触も、シャーマン達が唱える呪文の詠唱の声も……。
瞼(まぶた)がその最後の役目を終えようとしていた。僕はこの目を閉じれば、もう二度とこの世の光りをこの目で見る事は出来ないと感じながら、瞼を下ろし何も感じない虚無の闇の中に落ちていった。
気がつけば僕は魂となり、蹲(うずくま)った自分の体を冷めた思いで見下ろしていた。
あれが自分の体だったのか実感が湧かない思いだ。僕の意識は今ここにあるのだから。
やがて僕は、僕の遺体に異変が起きている事に気付いた。
背中から突き出した剣が脈打ち、生き物のように僕の血を吸い始めた。剣は命を吹き込まれたようにみるみる真新しくなっていく。やがて剣は僕の血を吸い尽くした。それと同時に、床に広がった僕の血が、黒く変色し始めた。それは異世界の赤い絨毯のように変わっていった。それはもう人間の血液では無くなっていた。同時に魔方陣から黒い霧のようなものが吹き出し、僕の遺体を覆っていく。
黒く光る霧を伴(ともな)って、僕のうなだれた遺体は、見えない糸で操られるように、魔方陣の上で立ち上がり、浮遊した。
妖しく光る漆黒の霧は、僕の全身を包み込んだ後、変容し始め、僕の体を包む漆黒の鎧と兜の形になっていった。それに呼応するように、何ともいえない居心地のいい、煌く真っ白な光りに意識が包まれて行くのを感じ、僕は悠久の死の世界へと旅立った。
いつまでもそこに留まっていたい何の苦痛もない幸せな世界を感じた。それが僕にとっては、星々が生まれては死んで行く、そんな長い長い時間のように感じられた。
それからどれだけたったのだろう。不意にその真っ白な光りの中から、魂が闇に引き戻されるような感覚がして、意識が僕の遺体へと戻っていく感覚を感じた。それに伴って、体から抜けた力が何百倍もの熱い力と、今までより遥かに鋭い五感となって戻って来るのを感じる。
僕は長い夢から目覚めたようにゆっくりと目を開いた。
そこに映し出されたのは、死ぬ前に網膜(もうまく)に焼きついた、以前となんら変わらない光景だった。
遠い昔に自分は死を迎え、何十年何百年もの間、何も無い自分の存在すら感じない暗闇の中を漂(ただよ)っていた感覚がするのに、その間、時が凍りついていたように、シャーマン達が僕を取り囲み、驚きの歓声を上げている光景が見える。
僕にはまだ自分の身に起きた事が理解できなかった。まだ儀式は終わっていないのか?僕はまだシャドーナイトに生まれ変わっていないのか?
しかし大きく異なっている事があるのに気づいた。まるで自分の体が重力から開放されたように軽く感じられるのだ。自分の体ではないようで、どこか現実感がなく夢を見ているようだ。
今まで感じた事の無い鋭い感覚と溢れる力と自信が体中にみなぎっている。それなのに心は星の瞬く夜空のように静かで穏やかだ。この感覚は、そう、心が大宇宙のように広がったよう。頭の中は清い森の空気を胸一杯に吸い込んだように鮮明で、気持ちは夢を達成したような充実感があり、しばし僕はその感覚に酔いしれた。
僕は自分の掌(てのひら)を目の前にかざして見た。僕の掌は、つなぎ目の無い鎧の掌と化していた。澄んだ黒い水が光を反射するように、美しく煌き波うち揺らめいている。その掌が自分の掌ではないような感じがし、驚くよりも初めて満天の星空を見上げたように強く心を引かれ言葉もなく自分の掌に魅入った。そのままゆっくりと掌から視線を落とし、手首、肘、肩と確かめるように視線を這わせた。
それらも掌と同様の姿となり、ゆっくりと流れ始めた川の水のように揺らめいていた。続けて自分の胸を撫でるようにして見た。
変わっていたのは腕だけではなかった。僕の胸は騎士の黒い鎧のような姿となり、同じように怪しく揺らめき、今まで見た事も触れた事も無いこの世の物とは思えない物質に変わっていた。胸には胸に突き立て命を絶ったときの剣が、刃が見えないくらい深く突き刺さっている。それは不思議な事に心臓を貫いた時とは違う、命を吹き込まれ、この世に甦ったように真新しくなっていた。
剣の柄(つか)と胸の隙間から蛍の光のような輝きがこぼれ、暗闇に滲みながら灯篭(とうろう)の明かりのように淡く光っている。
剣が刺さっている胸からは、もう血も何も噴き出してはいない。刺さっている感覚や痛みさえ感じない。でも僕はそれが当然であるかのようになぜか驚きはしなかった。
胸に突き刺さっている剣の柄に手をかけ、ゆっくりと静かに引き抜いた。剣は水面に刺さっているかのように痛みも抵抗もなく抜けきった。抜けた後に出来た穴からは血が一滴も流れず、黒い水がその穴に流れ込むようにして見る間にふさがった。
それは明確に自分の体がもう人の体ではない事を示していた。はっきりとわかった。僕はもう人間ではなくなったのだ。そう僕はシャドーナイトに生まれ変わったのだと。
目にする剣の刃は、灯篭の光りのように美しく、蜃気楼のように揺らめき、いつかは朽ち果てる命の輝きのようにどこか儚(はかな)げに見えた。
刃は、ほのかに温かく光り、生命感を感じさせている。この時、僕は剣の刃が自分の魂で出来ている僕の魂の一部だと気付いた。
僕は凛(りん)として、この世の物ではない黒い兜に覆われた顔を上げ、この世と愛する人を必ず守るという揺るぎ無い決意を込め、今はもう自分の半身とも思える剣を力強く握りしめた。剣は息づくようにそれに呼応し、僕の心を通して一体となり、体と剣から吹き出し始めた強い風を伴って激しく燃え上がるように光り輝いた。
背中には僕の血で出来た深紅のマントが吹き出す風にあおられ激しく翻(ひるがえ)っているのが分かる。シャドーナイトとしての僕の体は、不安定な液体を思わす半透明の薄暗い色彩を捨て、光りの届いていない宇宙の闇を思わせる漆黒の色へと変化した。それに伴い、揺らめく液状の体が固形へと変化し、シャドーナイトの真の姿に変わった。それに従い、強く握り締めた剣の刃も、儚いあやふやな姿から、名工により研ぎ澄まされた刃のように姿を変えた。
爆発しそうな強い力が体の底から湧き上がり、新たに生まれた血液のように体中に行き渡るのを感じる。
シャーマン達のどよめきと歓声が聞こえる中、僕は体と剣から吹き出している光りと風を自らの意志で抑え、床の魔方陣の中からゆっくりと前に歩み出した。シャドーナイトとして生まれ変わった使命を果たすために。
そして僕の体は、部屋の影に溶けこむようにして消えていった……。
1582年、この年に僕のラリー・ハントとしての十七年の人生は終わり、この世を悪魔から救う救世主の守護者、シャドーナイトとしての長い人生が始まった。
第二章 悪夢の覚醒
登場人物
ジェーン・ハリー(女) フォーマル社のファッションデザイナーと……
ケイン・クランク(男) ジェーンの会社の同僚、そしてジェーンの恋人
グリフ・ハーモン(男) シャドーナイトを誕生させたシャーマンの子孫で神父
サン・ブライアン(男) グリフ神父の知人の黒人少年
2004年 11月1日 ハロウィンの翌日
激しい暴風雨が意思を持ったかのように猛り狂っている暗い闇夜の中。
耳をつんざく雷鳴が轟き、青白い刃のような閃光が止む事なくたて続けに空を斬り裂いている。
数百年に一度の異常気象の為、空には腸(はらわた)のように不気味に蠢(うごめ)く暗雲が渦巻き、屋根を突き破るような激しい大雨が降っている。
まだ肌寒く、空も暗い早朝、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴの街の郊外にある古ぼけたとある教会の中に、初老の神父の祈りを捧(ささ)げるしわがれた声が、月が西に傾いた時から延々と続いている。
「偉大なる主よ。永久に繁栄を約束された主よ。人の業を許し、我らの御霊に救いを与え給え。我らを常に光りで照らされた正しき道へと導き給え。永久に我らが仕える事を誓いし主よ。その為ならば、私は全てを捧げる事を誓いましょう」
この教会の主であるグリフ・ハーモン神父は、キリスト像が張りつけられた十字架を掲(かか)げた祭壇(さいだん)の前にひざまずき、祈りを捧げ続けていた。
グリフ神父がひざまずいている祭壇の前には、赤い絨毯(じゅうたん)が敷き詰められた五段の階段がある。その階段の両脇には、グリフ神父が用意した、心を静め、祈りに集中する為の燭台(しょくだい)に備え付けられた十本の蝋燭(ろうそく)が鈍く光っている。それ以外に教会の中を照らすものは、八つの窓の両脇に備え付けられた蝋燭の明かりしかなく、教会の中は祭壇の周りと窓の周辺以外は、暗闇に覆われている。その光りの元、グリフ神父は一心不乱に祈り続けているのだ。
不意に青白い光りが教会の中を満たし、その直後に一際大きな雷鳴が轟いた。グリフ神父は額にしわを寄せながら、祈りを止め、顔を上げた。そして蝋燭の光りだけを頼りに十メートル程先にある教会の小窓から外の様子を覗き見る。
小窓から見えるのは、渦を巻いて唸りを上げている腸を思わせる暗雲。もう明け方だと言うのに一条の光さえ地面を照らす事はなく、その暗雲さえ、時折雷の光りが照らし出す瞬間しか見えない。グリフ神父は、その様子にただならぬ不吉な予感を感じていた。
グリフ・ハーモン――この白髪混じりで、あごひげを豊かに蓄えた優しい風貌(ふうぼう)を持つ男は、表向きは神父を生業(なりわい)としている。しかし実は、1582年にシャドーナイトの誕生の儀式を行ったシャーマンの一人の子孫であり、神に忠実な神教のシャーマンであった。胸には、神教のシンボルであるマリンブルーの十字架が煌いている。ただそれが何を意味するかは、まだ誰にも知られていない。いや知られてはいけないのだ。
グリフ神父は、ややこけた頬を青ざめさせ、憮然(ぶぜん)とし呟いた。
「不吉な影が近づいている……」
その言葉を指し示すように、空には血臭が漂ってきそうな赤黒い暗雲が、巨大な眼のように渦巻いている。
いつもは、はつらつとし、痩(や)せ型のサンタクロースを思わせるこの老人の青い眼も、疲れと、取り憑(つ)かれたような不安で曇っている。老人は、ほつれた白髪が瞼に掛るのを払おうともせず、黙ったまま空を見上げていた。
赤黒く渦を巻く暗雲。
絶え間なく轟く雷鳴。
長期間止まない雷雨。
そして意志を持ったように荒れ狂う風。
神教のシャーマンとしてのグリフ神父には、この異常気象に心を取り乱させられる心当たりあった。
シャーマンの教典にこうある――
悪魔が地獄の戒めを打ち破る時、空は荒れ、大地が腐り、人心乱れる。その時こそ、我らが神教の力を持ってこれを封ずるべし――
まさかその災いが自分の代でやって来たのだろうか。ただそうとは断言できない決定的な条件がまだ欠けていた。それは教典に、我らが次に立つ最も恐るべき時、闇が世界を覆うとある。これは皆既日食を指し示していると神教では言われている。だが2004年の今、皆既日食は起こらない。ただこの胸騒ぎは、祈りを捧げ続けていても一向に治まらない。何か重大な危機が迫っているのを伝えている事は確かなようだ。
グリフ神父は、それを確かめる為、すっくと立ち上がると、丈(たけ)の長い黒衣の神父服の裾(すそ)をたなびかせ、重い足取りで窓に向かって歩き始めた。
窓際に着いたグリフ神父は、不安の色がにじみ出してくるような表情で、目を細め眉間にしわを寄せ、窓の外に映る十キロほど離れたサンディエゴの街に目をやった。
サンディエゴの街の上空には、何かが今にも顔を出しそうな不気味な鉛色の重い雲が垂れ込み渦巻いている。断続的に獣が獲物に狙いを定めているような獰猛(どうもう)な唸り声が空から聞こえてくる。それは丁度竜巻が発生する直前のような光景だった。
不意にサンディエゴの街の方から、グリフ神父の教会まで届く、けたたましい竜巻警報のサイレンの音がなったかと思うと、獰猛な獣が唸り声を出したような音が上空から辺りに響き、サンディエゴの街の上空の雲がゆっくりとうねりながら回り始めた。
そこから一本の黒い大蛇を思わすような小ぶりな竜巻が発生した。さらにそれに続くかのように、教会とサンディエゴの街の間にある空が渦巻き、幾つもの竜巻を生み出した。それらは見る間に教会とサンディエゴの街の間に、まるで牢獄(ろうごく)の鉄柵(てつさく)のような黒い竜巻の連なりを創った。
やがてそれらの内の教会から一番遠く、サンディエゴの街に一番近い竜巻が動き始めた。その竜巻は、サンディエゴの街をかすめ、良く見てみるとグリフ神父の教会の方に向かって動き始めている。それも決してゆっくりとはしていない。かなり速いスピードで動き始めている。
グリフ神父は固唾(かたず)を呑(の)み、表情を凍りつかせた。額には体のこわばりに伴(ともな)って自然と汗がにじみ始め動悸(どうき)がしてきた。なぜならそれらは教会に近づくたびに他の竜巻を飲み込み、ずんぐりと太くなっていき、威力と脅威(きょうい)を増して土砂を巻き上げながら、真っ直ぐに教会に猛進して来たからだ。
教会への距離が三キロほどに縮まった時、竜巻は轟音を上げ、既に直径五十メートルほどの巨大な竜巻へと変容していた。恐怖におののいている時間はなかった。
グリフ神父は虫唾(むしず)が走る思いを抑え、すばやく教会の全ての窓に目配せした。
教会の窓は全部で八つある。しかし竜巻がこの教会に到達するであろう時間までに、とても全ての各窓に備え付けられた鉄製のシャッターを下ろす時間はない。もうすでに竜巻の影響は教会に及んでいるらしく、シャッターは小刻みに震えていた。
グリフ神父は、すばやく思考を巡らし、竜巻がやってくる方向の窓のシャッターだけを下ろすしかないと判断した。すばやく手近の窓からシャッターを下ろしに掛る。
竜巻が近づくにつれ、教会の揺れは大きくなり、グリフ神父が、三つ目の窓のシャッターを下ろそうとした時、その窓の外に映る光景に戦慄(せんりつ)した。
削岩機(さくがんき)のように巻き上げた物を粉々に破壊する悪魔の息吹で出来たような直径五百メートル程の竜巻が、もう目の前百メートル程までに迫っているではないか。その竜巻の中には、教会の周りに立っている森の巨木が幾本も巻き上げられ宙を舞っているのがはっきりと見てとれた。その直後、グリフ神父の横三メートル程にある、激しく振動していた四つ目の窓ガラスが、竜巻の風圧に負け、心を逆撫でる音を立て粉々に吹き飛んだ。そこから竜巻は猛烈な勢いで教会の中の物を吸い出し始めた。祭壇の横に備え付けてあった十本の燭台に灯された蝋燭の明かりが瞬時に消え、その十本の燭台が竜巻に吸い込まれ、教会の中を荒ぶる風と共に宙を舞った。十本の燭台は、次々と割れた窓に向かって飛び去って行く。その中の幾つかが運の悪い事に、割れた窓のサッシの両脇に、燭台の頭と足が引っかかりへばりついた。丁度、窓を塞(ふさ)ぐような状態だ。
「何てことだ!」
予期せぬ事に、グリフ神父はしわがれた声を荒げた。これではへばりついた燭台が邪魔で窓のシャッターが下ろせない。このまま竜巻が教会を直撃すれば、自分も割れた窓から吸い込まれるか、例えそれを逃れても、教会の中にある無数の信者用の机が巻き上げられ自分に襲いかかってくるかもしれない。その可能性は充分ある。下手をすると命をも奪われかねない。何しろ教会内には当たると危険な物は無数にあるのだ。
グリフ神父はとっさに目配せし、すぐ近くの信者用の机に備え付けてある木製の椅子を手早く持ち上げた。そのまま大粒の雨が荒ぶる烈風と共に降り注いでいる割れた窓の方に向かって駆け出す。
割れた窓に着くと、窓から入り込む強烈な大粒の雨に顔を顰(しか)めながら、手に持つ椅子を振り上げ、力任せに窓にへばりついる燭台にその椅子を振り下ろした。
金属と木が打ちつけられる鈍い音がし、手に重い衝撃が返って来る。それでも命の危機を感じ、無我夢中で椅子を燭台に打ち据え続けた。その甲斐(かい)あって窓に引っ掛かっている燭台の内の二本が二つに折れ、引っ掛かりを失った燭台は窓の外に勢いよく吸い出されていった。それからも間髪いれず、グリフ神父は、まだ窓に引っ掛かっている燭台に椅子を振り下ろし続けた。目には竜巻に巻き上げられ、葉が全て散り、窓の方に猛然と向かってくる巨木が映っている。
神に祈りながら必死に燭台を椅子で打ちつけて折り、最後の一本が二つに折れた頃には、もうすぐ目の前にその巨木が迫っていた。そのすぐ後ろには、猛獣の唸り声のような轟音を立て、今やいつ噛み付こうかと狙っている窓から視界一杯に広がった竜巻も迫っている。
「おお神よ!我を守り給え!」グリフ神父はその光景に声を荒げて叫び、力任せに必死でシャッターを引きずり下ろした。その直後、下ろしたシャッターに巨木がぶつかったであろう重い音が教会内に鳴り響いた。
疲労と恐怖で顔から血の気がすっかり消え失せたグリフ神父は、生きた心地を失いながらも、信者用の机の下に急いでもぐりこみ、蝋燭の明かりが消え、闇に覆われた教会の中で身を縮め、無事に竜巻が通り過ぎる事だけをひたすら神に祈った。その時竜巻が直撃した。
教会は巨人の腕で揺さぶられているように大きく揺らめいた。今までで一番激しい雷鳴が耳をつんざき雷光が網膜(もうまく)を突いた。所々で壁の内部で木材が弾け折れて裂けるような音が立て続けに不気味に聞こえる。
グリフ神父は、この教会が古く、決して頑強(がんきょう)ではない事を考えながら、喉を詰まらせ震えていた。頭上で屋根が引き剥がされるような音がした時、グリフ神父は、もはやこれまでかと観念した。胸の前で十字を切った後、掌を固く組み、額にその掌を擦り当てながら縮こまる。
怪鳥の叫び声のような雷鳴が、一段と激しさを増した。雷鳴が連続して鼓膜(こまく)を突く音と、野獣の唸り声のような突風の轟音だけが支配する長い時間が永遠に止まる事がないように感じられた。それはほんの三十秒ほどの間だったが、グリフ神父には時計の針が止まっているかのように錯覚するほど長く感じられた。その間は、絶対的な自然の力の前に、嵐の大海に浮かぶ頼りない小船に乗っているような錯覚に陥(おちい)っていた。
やがて竜巻の轟音が、目の前から旅客機が遠ざかっていくかのような音になっていった。それに伴い、教会の揺れと竜巻の轟音もボリュームを絞ったように小さくなっていく。
萎縮(いしゅく)した体から安堵に伴い力が抜けていくのが分かった。体はもう危険は過ぎ去り安全だと告げていた。グリフ神父は額にいくつもの冷や汗を浮かべながら、息をする事も忘れていた事に気づき、大きく胸に空気を吸い込んで肩でほっと息をし、まだ生きている実感を感じた。落ち着くまでに、しばらく呼吸が荒れ暗闇の中、生々しい自分の呼吸音だけが聞こえていた。
教会の中は、さっきまでと一変して不気味なほどに静まり返っている。
もう大丈夫だろう。グリフ神父は真っ暗な暗闇の中、手探りで体を机にぶつけないようにして、もぞもぞと机の下から這い出した。
まず教会の中がどうなっているか調べなければならない。そう思い、そのまま立ち上がった時、ほのかな光りを横から感じた。その光を目でたどると、その光りは十字架に張り付けにされたキリスト像の奥にある床から十メートル程のステンドグラスから差しこむ柔らかな七色の光りだった。その光りに神の助けを感じたグリフ神父は、掌を組み、「神よ。私を助けてくれた事に感謝します」と深い感謝を込めつぶやいた。そして薄ぐらい中、手探りで歩み始め壁に到達するとそのまま同じように壁を伝い窓に向かった。
手が冷たい鉄製のシャッターに触れた。足を止め、立ち止まると両手に力をこめシャッターを押し上げる。黒板を爪で引っかいたような鉄のシャッターとサッシの擦れ合う音がし、重いシャッターが上がると同時に、暗闇に慣らされた目をつくようなまぶしい光が教会の中に差し込んだ。
先ほどまでの光景が嘘(うそ)のように嵐は去っていた。
雨の上がった後独特の新鮮な空気が窓から流れ込み、鼻腔(びこう)に染み渡った。どこまでも畑の続く東の地平線を、命の暖かみを感じさせる太陽の黄金色の光が優しく掛り、地平線は、まるで大地に掛った花嫁のベールのように煌(きらめ)いて見えた。その光りが絵の具のように染みこんだ空は、黄金色(こがねいろ)に染まりながら光って見える。空はさっきまでとはまるで別の星かと思わせるほど、日の光が満ち、青く晴れ渡っていた。
しかしグリフ神父の顔は、それとは対照的に曇っていた。この余りの空模様の変わりようを訝(いぶか)しがり、何か不吉な物を感じたからだ。
時たま、自然は人の理解を超えた現象を引き起こす。しかしグリフ神父には、これが自然の引き起こした現象ではないように思えてならなかった。まるで何者かが、何かの目的の為、意図的に青い空に鉛色の重油を垂らして曇らせ、出来た油の膜を一瞬にして取り去ったような変わりようだ。何か作為的な深い意味が含まれていて、それを自分は見逃してはいけないとシャーマンの直感が警告している気がしてならない。ただ、それが、まだ何なのかは分からない。腑(ふ)に落ちない場所を調査し、文献を調べ考察を重ねない事には……そう思案を巡らしていた時、一際大きな亀裂音(きれつおん)が背後から鳴り響いた。はっとして後ろを振り返ると、その目に映った物は、ステンドグラスから差し込む幻想的な七色の光りと、シャッターを上げた窓から入り込んだ日の光りに照らされ、少し影を落としている教会の中で、浮きだったように白く発光している十字架に張り付けにされたキリスト像の姿だった。
像の顔の部分には、幾本もの大きな亀裂が走っていた。又、生木が裂けるような音がして新たな亀裂がキリスト像の額を切り裂いた。
唐突に予想だにしていなかった事が起きた。キリスト像の目の部分が赤く泡立ったかと思うと、その目から血のように真っ赤な液体が静かに像の顔を伝い流れ落ち始めたのだ。その直後、キリスト像の口からも、同じく赤い液体が、多量に溢(あふ)れ出た。まるで像そのものが生きているかのように……。その下の赤い絨毯(じゅうたん)の上に、溢れ出た赤い液体が染みこみ、赤い絨毯をさらに生々しい血の色に染め上げ、血だまりを作った。
グリフ神父は、言葉もなくその光景に見入った。どうしようもない不快な黒煙が心を支配していくようだ。得体の知れない、覆い尽くすような大きな闇が、すぐそこまで迫ってきている事を神が自分に伝えている。それが朗報ではない事は明らかだった。
雨が止み、長い夜が明けた。
グリフ神父は仮眠も休みも取らず、最新のカメラを手にし、玄関の側の壁に備え付けてあるボールに満ちた聖水に指をちょんと付け、十字を胸の前で切って玄関の扉を開けた。
早朝特有のひんやりと湿ったそよ風がグリフ神父の頬をくすぐった。
外は雨上がりの新鮮ですがすがしい太陽の光りが、辺りを粉雪の反射光のように白く照らしていた。このような朝には、普段なら、教会を取り巻く森に咲く花でも眺めようかと散策でもする所だが今はそんな気にはなれない。
玄関の扉に通じているコンクリートの五段の階段を降りて、地面に足をつけると、地面は予想通り、先ほどまで降り続いていた雨でひどくぬかるんでいて、柔らかくなった地面に靴跡が深くついたが、それに備え長靴をはいてきたので濡れる心配は無かった。
教会の周辺全体を見渡すため十歩程前に進み、後ろを振り向いた。
教会は、丁度教会の裏に広がっている森の出口付近に建っていて、普段なら森から漂う生気の満ちた空気と教会から発する神聖な空気が混じり、壮健(そうけん)とした雰囲気をかもし出している。その中で、いつもなら、小鳥達が謳(うた)うように囀(さえず)るのが聞こえる。
グリフ神父は、この場所を敬愛していた。だが、今はどんなに耳を澄ませても、生き物の鳴く声は聞こえない。グリフ神父が、今、目にしている光景は、自分の記憶にとどめてある親愛なる景観とはかけ離れていた。
先ほどの竜巻で、教会の周囲の森の木々は無残になぎ倒されていた。特に竜巻が直撃したと思われるところは酷(ひど)かった。木々があるどころか、地面は根こそぎ削り取られたように痛々しく土の肌がむき出している。その中で所々にかろうじて残っている木々は、巨獣が噛み付き肉を捻(ねじ)り切ったように、見るも無残な様相になっている。まるで森の中を神話に出てくるような大蛇が這いまわったように森が所々で寸断されている。それは竜巻の威力を如実(にょじつ)に現していた。
改めてよく自分は無事でいられたなと思う。それに引き換(か)え、何故か教会は竜巻によって破壊された所もなく一見無傷に見える。神の助けか偶然か?しかし偶然にしては出来すぎていた。地面に付いた竜巻の軌跡(きせき)は、教会に当たる寸前で弾き返されたように進路が変わっていた。それは何か人知を超えた大きな力が働いたように思える。
グリフ神父の脳裏に遥か昔の祖母の記憶が甦った。
――グリフ神父の父親の育ての親でもあるグリフ神父の祖母は、リューヒ・ハーモンと言って、ネイティブアメリカン――つまり部族の誇りを持つインディアンだった。その中でも彼女は、インディアンの中で最古の歴史を持つ、ホピ族出身だった。彼女は1877年にアメリカ合衆国で起きたネズ・パース・インディアン戦争に従軍し戦ったが、その戦争で愛する者と戦わなければならない戦争のむなしさを知り、その戦いの後、熱心なシスターとなった。その戦いに巻き込まれ両親を失ったグリフの父となる白人の少年と出会い養子にしたのはそんな矢先であった。
グリフ神父は、その祖母に幼少の頃からよく聞かされてきた事を教会の様子から連想し思い出したのだった。
「いいかい、グリフ。私達神教の人間は、神様の御加護を受けているんだよ。特にこの教会のある聖地には、邪悪な者の力から守って下さる偉大なご先祖様の結界が張られているんだよ。だからいつでも神を敬いご先祖様を信じ、感謝を忘れてはいけないよ」
遠い昔の思い出の中の言葉が声となって甦る。
グリフ神父は、これがその神とご先祖のご加護かと感じた。そしてその言葉に含み針のように隠された重大な事に気づきはっとした。邪悪な者から守ってくれる力……。もし邪悪な者が、悪魔だとしたら……それで結界が発動したならば……それは悪魔の出現を意味しているのではないか!?しかし神の予言書によれば、悪魔が次に悪事を企てこの地を制圧する為に地獄から大挙して出てくる時は、異常を連(つら)ねたような日食が起こると記してある。だから代々神教のシャーマンはその事をいつでも忘れないように、悪魔復活の前兆を印す首飾りを付けている。それがグリフ神父にとっては黒い太陽の紋章だった。それはグリフ神父の胸元に収められている。しかし2004年の今、その日食は起こらない。だからその推察(すいさつ)には矛盾が生じる。しかしこの事態を巻き起こした者が悪魔でないとは完全に断定出来ない。教会に掛っている結界が発動したとグリフ神父は思っているからだ。
ともかくグリフ神父は悪魔の痕跡(こんせき)がないか、気になる所を調べる事にして教会から出てきた。
グリフ神父は、竜巻が猛威を奮い、深い爪痕(つめあと)を残した場所に目をやった。
目の前には、所々にひょろりとした枯れ枝のような木がまばらに立つ、広々と広がる畑が見え、その中に竜巻により大地の腸(はらわた)のような深い溝が出来た光景が広がっていた。
グリフ神父は、その跡に何か証拠となる物が残されていないか、その跡を慎重になぞりながら竜巻の発生地点であるサンディエゴの街に向かって歩み出した。
六時間かけ、教会とサンディエゴの街の間を痕跡がないか注意深く調べながら、三往復半したが、悪魔に結びつく痕跡は何も見つからなかった。
腕時計を見てみると、教会を初めて出発してからもう六時間弱が過ぎ、もう午後一時近くになっていた。皆昼食をとる頃だ。ひとまず悪魔の出現を断定する物が見つからなかった事に胸を撫で下ろし、竜巻の作った土色の畑の中の溝に沿りながら帰路に着いて二分程歩いていた時それは起こった。
突然、雨上がりの湿った空に鈍い銃声が鳴り響いた。
驚き銃声のした方向を見ると、二キロ程先に昔ながらの農家と納屋(なや)が広大な畑の中に孤立するように建っていた。そこから微かだが中年の男と思われるわめく声が断続的に聞こえる。
グリフ神父は、何か今回の事と関連があるかもしれない。それに銃声がするのはただ事ではない。ほおってはおけないと判断し、進路を変え、その農家の方へ足早に向かった。
だんだんと近づいていくにつれ、農家の細部まで見えてきた。小柄の中年男性が納屋の入り口に立ち、納屋の入り口の粗末な縦板を繋げて作った木製のドアに向かって、猟銃を構え、ドアを睨みつけている。その横にその男の妻と思える人物が、不安そうな面持ちで立っていた。
「出て来い!化け物め!おれの家を荒らしやがって!ぶっ殺してやる!!」
激しくわめく声が、はっきりと聞き取れる。さっきのわめき声はこの男のようだ。何故だか分からないが、どうやら怒り浸透らしい。
さらに近づき、その夫婦の表情や服装が、はっきり見える所まで進んだ。もう五十メートルと離れていないのに、その夫婦は、グリフ神父が近づいてくる事に気づかない。よほど神経が納屋の中の物に集中しているらしい。
さらに近づいて見ると、中年男の顔は、小太りで、無精ひげともみ上げが繋がって顎(あご)を覆い、髪は整髪料などおよそ無縁の寝癖のついたまま起き出したような感じだった。
腹は、ビール腹で、汚れた農作業用の服を着ている。この近辺に住んでいるのなら、自分の教会に一度くらい来ていてもいいはずだが、この夫婦の顔には見覚えが無い。グリフ神父は、訓練により一度見た人の顔は絶対に忘れない。それなのにだ。多分無神論者なのだろう。
男の猟銃を構える目つきは野獣のようにギラギラと鋭く光り、今にも獲物に噛み付きそうだ。その険相に声をかけるのを一時ためらうほどだったが、なるべく警戒されないように出来るだけ穏やかな笑みを浮かべ声をかけた。
「どうしました?」
「……あん?」
中年男は、猟銃の向きをドアに向けたまま、ゆっくりと顎を突き出し、顔だけを動かし、訝しそうにグリフ神父を見た。
「なんだ神父か」吐き捨てるようにその男は言った。
「あなた!」横にいる男の妻の軽い叱咤(しった)がとぶ。面白くなさそうに男はドアに視線を戻した。
「どうされました?」気を取り直し、今度はその男よりも物分りのよさそうな妻に尋ねた。
「どうもこうもねえ。この中のくそ野郎がおれの家畜をやりやがったんだ!」
答えたのは男の方で、忌々しくいらいらした声で罵(ののし)った。
グリフ神父は、悪魔に結び付く物がもしかしてここにあるのかもしれないと思い、「この中に何かいるのですか?そいつはどんな物でしたか?」と急いで尋ねた。
「分かりません……。今朝早く、うとうとしていると、いきなり竜巻警報がなって、飛び起きて……。運良く竜巻の辿った所は、ここから大きく外れて助かりましたけど……」
男の妻は続けていった。
「それで胸を撫で下ろして安心していました。……でもそれで終りかと思ったらそうじゃなかったんです。突然、地震でも無いのに窓がガタガタと揺れ出して、机の物が独りでに動き出して、それから一階からけたたましい食器の割れる音が何度も聞こえましたわ。そしたら今度は、寝室の窓が突然割れて私の大事にしていた猫のミーシャがその窓から飛び出して行ってしまってっ……」言葉尻は何かにすがり付きたい気持ちを彷彿(ほうふつ)させた。
男の妻は、顔を蒼白させ喉を詰まらせむせび泣きそうになりながらも続けた。
「……しばらくして、ミーシャの暴れ狂うような大きな声がして。その時、蛇が喉を鳴らすような『シャー!!』と言う耳障りな大きな声が聞こえましたわ。……その後は、不気味なほど静まり返って……ああ。きっとそいつに私のかわいいミーシャは殺されてしまったんだわ!……。酷いわっ、息子だけではあき足らずミーシャまで奪うなんてっ……」
男の妻は、嗚咽(おえつ)を漏らしながらそう言った。そして、ハンカチをポケットから取り出し、目に当て顔を覆って押し黙ってしまった。
それを聞き、ポルターガイストかもしれないと、一瞬そう言う考えがグリフ神父の脳裏によぎった。
それを聞いていた男が、猟銃の銃口を少し下げ、溜息をついた後、口を挟(はさ)んだ。
「それで俺が猟銃を持って外に出たら、納屋の方から家畜の悲鳴が聞こえたんだ。俺が納屋に駆けつけた時も、その悲鳴は止まなかった。それどころか、骨を噛み砕くような不気味な音がして、家畜の悲鳴が小さくなって、駆けつけて一分とたたない内に、家畜共の悲鳴が全部無くなっちまったんだ。きっと家畜を何かが全部殺っちまったに違いねえ!もう四時間以上もこうしてる!ちくしょうめ!!」
男は怒りをあらわにし、険しい形相で、降ろした猟銃をドアに向かって再び構えた。
「もう我慢できねえ。撃ち殺してやる!」
男が声を荒げ、猟銃の引き金を引こうとした。グリフ神父は慌ててそれを制した。
「待って下さい!中の家畜に当たったらどうするんです!」
「もう全部殺されてるさ!生きてたら何かの物音ぐらいするはずだ!」男は吐き捨てるように答え、猟銃の狙いを定めた。
確かに生命の気配は感じない。納屋の中に生きている者はもういないだろう。命を宿す存在は……。グリフ神父は、シャーマンの力を使い納屋の中の気配を注意深く探ってみた。そして中に確かに何の気配も感じない事をすばやく確かめた。
「わかりました。ここは私に任せてください」グリフ神父はそう言って、猟銃の銃身に手をかけ銃口を下げさせ納屋のドアのとってを握った。
「お、おい。あんた何をする気だ?危ないぞ!もし開けた時、中の奴が襲いかかってきたらどうするんだ?」男が戸惑いながら言う。
その言葉を尻目に、グリフ神父は、観音開きのドアを押し開けた。蝶番(ちょうつがい)のきしむ音がし、生暖かい重い空気の塊が、通りぬけていくのを感じた。それと同時にふだん余り嗅(か)いだ事の無い奇妙な臭いが鼻を突いた。しかしすぐそれが何なのか分かった。それはむせかえるほどの鉄臭い大量の血の臭い。
にわかに体がこわばるのを感じた。日の光りが、開いたドアから納屋の中に真っ直ぐな帯のように差し込んでいる。空中に漂う埃(ほこり)が、日の光を受け、白いもやのように目の前に淡く光り漂っているのが見える。しかし日の光は、納屋の両脇と奥までは届いてはなく、奥と両脇の方は暗くて良く見えない。その光りに照らされ、納屋の中心の床に、赤いボールのような物が転がっているのが目に飛び込んできた。余りのことに、一瞬それがなんだかよく分からなかったが、目を凝らし良く見ると、それが豚の頭部だと言う事にほどなく気づいた。目がつぶれ目と首の付け根からおびただしく出血している。口は奇妙に歪(ゆが)み、まるで笑っているように見える。いまだに出血が止まらない事は、このような姿にされてから間も無い事を示している。
グリフ神父は、忌避(きひ)の声を漏らし、吐き気を抑えながら、後ろにいる男に尋ねた。
「照明のスイッチはどこにありますか?」
「入り口のすぐ横の壁にあるよ。どうしたんだ?何があるんだ!?」
男の声には、不安がにじみ出ている。男は、グリフ神父の体が目隠しとなり、まだ中の様子を目にしてはいないようだ。
グリフ神父が、手探りで壁に手を伝わせていくと、男の言う通り、すぐスイッチが手に触れた。この夫婦がこれから見ることになる光景を目の当たりにした時のショックを考えてスイッチを入れるのをためらったが、確かめないわけにはいかず、思いきってスイッチを入れた。
ぱっとオレンジ色の照明に照らし出され、目の前にさらされたのは、入り口を境に異世界を思わすような地獄絵図だった。
滴る深紅の血が、ペンキを塗ったように納屋の壁一面に塗りたくられている。
柵(さく)で分けられた床の上に家畜の死体は無数に転がっており、何頭いたのか、まともに数が数えられないほど、死体はバラバラにされていた。
あるものは、干し草用の三つ又で、串刺しにされ、体のいたる所を齧(かじ)り取られ、血がおびただしく流れている。あるものは、頭の真中(まんなか)が噛み千切られたように無くなっていた。又あるものは腹を裂かれ、内臓がすっぽり取り出され無くなっていた。どうみても動物の仕業とは思えない。
グリフ神父は一歩中へと踏み込み、男がグリフ神父の肩越しに、中を覗き込んだ。
「あっ……!」その瞬間、男は言葉を失い、固まり立ち尽くした。ショックの余り猟銃を取り落とし、顔から血の気がさっと引き、口をぽかんと開け、唖然(あぜん)とした。家畜を哀れんでか、それとも財産である家畜を失ったためか。
「あなたどうしたの?」妻は震える声で尋ねたが、男はそれには答えられなかった。
妻が恐る恐る男の肩越しから覗(のぞ)きこんだ。驚きもせず、じっとしばらく見つめている。どうやら今まで見たことの無い、信じがたい光景に、何を目にしているのか分からないようだったが、やがて気づいたのか、目を見開き、「ひっ!」とくぐもった恐怖の声を上げた。そのまま恐怖で引きつった顔に両手を当て、よろよろと後退(あとずさ)る。妻はわなわなと震え、むせび泣きながら喉(のど)を振るわせ、やっと絞り出した声で言った。
「だれが……こんな酷い事を……」
おそらく女の頭の中は、狂人がここらにうろついている。まさか自分たちの身に起こるなんてという、信じられない気持ちと、恐怖で埋め尽くされているだろう。しかしグリフ神父の考えは、それとは違っていた。これはおよそ人間の仕業(しわざ)ではあるまい。こんな事をしても何の得にもなりはしない。完全に狂った人間という線も捨てられないが、これまでの情報を統合して、導き出された勘(かん)では、どうしてもそう思えない。だとすれば、何かこの殺し方に意味があるのだろうか?一見、正気の沙汰(さた)とは思えない不可解な事に思える物ほど、もっともな理由があり、解明への重要な糸口になる事も少なくない。その考えが脳裏に浮かんだ時、はっと電光掲示板のようにシャーマンに伝わる本のページの言葉が頭に浮かんだ。
《悪魔とは別次元の生物であり、この次元で活動するための体を、活動する次元の生物を捕食する事によって受肉し、創(つく)り出す》
そうだ!それならば、この奇妙な殺し方も説明がつく。家畜の体が、部分的に噛み千切られているのは、脳を作るには脳を捕食し、目玉を作るには目玉を捕食すると言う理由からだろう。
後はこの説明を裏付ける確証を得ることだった。
グリフ神父は、その考えに基づき、納屋の中を綿密(めんみつ)に調べ始めた。一面にうっすらと血膜を張る土の床は、一歩踏み出すごとに血が足元に絡みつき、幾分乾(かわ)いてゲル状になった血が靴跡(くつあと)の形を残す。
グリフ神父は納屋の奥まで調べた時、ついに重要な物を発見した。それは血溜りに残された奇妙な足跡だった。まるで映画で見た恐竜のような三本の太い指の付いた足を押し付けたようだ。鳥の足跡にも似ているが大きさは比較にならないほど大きい。たぶん自分の靴跡と同じようにして出来た物だろう。これを見た瞬間、グリフ神父は、ある事件の記事を思い出した。
――1885年冬、二月九日。イングランド南部を史上最大の寒波が襲い、デボンの土地が一夜にして白銀の世界に変わった。
夜が明けると、一面に積もった雪の表面には、不思議な見慣れぬ足跡が、鳥や獣の足跡に混じり、延々と続いていた。それはジグザグを描きながらも、五つの教区をまたがり、庭を抜け、そして屋根さえも越え、160キロも続いていたと言う。現地の人によれば、その足跡の長さは十センチ、幅七センチほどの大きさがあり、二十センチ置きに記されていたと言う。その足跡に対しては、蹄鉄の割れた小馬やキツネ、カワウソ、ツル、ヤマネコ、ロバの物と色々な説が出たが、土地の人は悪魔の足跡に違いないと噂(うわさ)し合った。
不気味なその足跡は、トートゥンズ教区の公園の中央で突然始まり、野原のど真ん中で終わっていた。まるでそこから飛び立ったように。
ある村では、納屋の中に入ってから、反対側に抜け出ていたらしい。足跡を付けた生物は、直系十五センチの穴をくぐり抜けていた。
村人の一部は、野獣がうろついているのだろうと考え、干草用の三つ又やこん棒を手に足跡を辿(たど)ったが何も見つかる事は無かったと言う。そしてそれは未だに謎のままとされている――
今、自分の調べているこの納屋の状況とこのエピソードには類似点がいくつかあるではないか。
まずこの話しと同じように、どこかに潜(くぐ)り抜けた跡が無いか隅々(すみずみ)まで良く調べた。しかしそれらしい跡はなかった。男にこの納屋の出口は他にあるかと訊いても、自分達が入ってきた物しか無いと言う事だった。
グリフ神父は持ってきたカメラでストロボをたき、この足跡の写真を数枚撮った。
腰を下ろし、まじまじと目を近づけながら見て、丹念(たんねん)にその足跡を色々な角度から調べ尽くし考察した。
出来るだけ、今の内に手がかりとなるものを見つけておきたかった。自分の帰った後は、この夫婦の通報によって、やがて警察がやってきて、一般人立ち入り禁止になるだろうから。しかし他にめぼしい手がかりは得られなかった。
「ふう……」
しばらく腰を下ろし、食い入るように調べていたグリフ神父は、長々と溜息をつき、腰を上げ、すっくと立ち上がった。
もうここにいても得られる物はないだろう。グリフ神父は入り口付近で、まだ唖然としてつっ立っている男の方に歩み寄った。いくらかショックが薄まり、幾分落ち着きを取り戻し、状況を呑み込めるようになった男は、独り言のように呟いていた。
「これは動物に出来る事じゃねえ……人間がする事でもねえ……。これは、まるで悪魔の仕業だ……」
その言葉は実に当を得ていたが、本気で悪魔の事を信じている訳ではないだろう。
歩み寄ってきたグリフ神父に気づいて、我にかえった男は、グリフ神父が写真を撮っていた事を思いだし、何を撮っていたか、怯えと苛立(いらだ)ちの混じった声で尋ねた。しかしグリフ神父は、奇妙な足跡があったとだけ言い、悪魔云々(あくまうんぬん)については話さなかった。その訳は、この懐疑的無神論者に言っても信じる事は無いだろうし、このまま狂人の仕業と思わせていた方が都合(つごう)がいい。なぜなら狂人がうろついているとなれば、警察が周辺に警戒発令を出し、おのずと住民は不要な外出は避け、警戒し、これをやった者に襲われる危険性も薄くなる。
「すぐに警察に通報し、用心してください」
グリフ神父は通り過ぎ際にそう言い、男は生気の無い表情で、「……わかった」と答えた。今、グリフ神父に出来る事はそれだけだった。
出口を潜ると、男の妻が、納屋のドアの横でまだうずくまり肩をしゃくりあげ泣いていた。グリフ神父が出てきたのに気づき涙に濡れた顔を上げ、抑揚の定まらないヒステリックぎみな高い声で言った。
「神父様……これは一体何なのでしょうか?私はこれが人のやった事とは思えません!もしかして日ごろから信心のない私達の招いた不幸なのでしょうか?」
グリフ神父は、ああこの人は、根は信心深い人だと思った。同時に間違った宗教に入ってしまえば、教祖の言う事なら例え悪い事でも妄信的(もうしんてき)に正しいと信じ込み、罪の念なくやりかねない、そんな危うさも内在しているなと読んで答えた。
「そんな事はありませんよ。信じる者にも、信じない者にも不幸は訪れます。しかしあなたは何か心に内憤(ないふん)しているものがあるのではないでしょうか。私にはそう思えます。私に出来る事であればいつでも教会に来て下さい。力になりますよ」
その言葉を聞いて、女は顔を上げ、しばらくグリフ神父の目をじっと見つめていた。その後、救いを求めるように話し始めた。
「実は、私は行きたいのですが、夫が許してくれません」
「え?それはなぜですか?」グリフ神父は眉をひそめ訊いた。
「……それは、二年程前に私達の一人息子が、久しぶりに大学から帰ってきたんです。でも、なにやら怪しげな宗教に入っているらしくて、けっこうな額の家の金を持ち出してすぐに出ていってしまったんです。行き先も告げずに。それから息子とは連絡が取れません。勿論(もちろん)、警察にも捜索(そうさく)してもらいましたが見つかりませんでした。
警察の話ではこれまでのパターンからもうあきらめるしかないと……。それ以来、夫は宗教と聞くと懐疑的(かいぎてき)になってしまって……」
「そうですか……それで……」
グリフ神父は、その気持ちも分からなくは無かった。男の荒い言葉にも何か強がっている心の叫びのようなものを感じたのはこれだったのかと悟った。
「今、あなた達に必要なものは心の癒しです。全ての宗教がそのような悪い物では決してありません。宗教とは生きる希望を導きだす物でもあるのです。よろしければ二人で教会に御越しになってください。きっと光りが見えるはずです」
妻の顔は、にわかに明るくなったが、まだ影が残雪のように残った顔で微笑んで言った。
「ええ、分かりましたわ。ありがとうございます、神父様。……それと一つ御願いがあるのですが……」
「猫の事ですね?見かけたら送り届けてあげますよ」と心を読んで即答した。
妻は意気消沈した面持ちで、「御願いします」とだけ添えた。
グリフ神父は頷(うなず)いて猫の特徴を訊いた後、「では、私はこれで」と言い、教会に向かい帰路についた。ただし今度は畑の中の竜巻が作った道ではなく、農家に続いている舗装された真っ直ぐ地平線へと伸びる道を足早に歩いた。もう充分手がかりは掴(つか)んでいたし、今は少しでも早く教会に帰り、今後の対策を練る事が先決だ。それにこの道の先には、グリフ神父と仲の良い、知人の住むコミュニティーの住宅街がある。そこに立ち寄り、知人に今、わかっている事についての注意を促(うなが)す目的もあった。
一時間程歩き、そのコミュニティーに着いた。簡素(かんそ)な住宅街で同じような家が所々建ってあり、庭の芝生(しばふ)も一様にきれいに刈られている。
アメリカのコミュニティーは、同じくらいの経済階級の人達が、同じような考えの持ち主達と集まって同じような家を作る。それゆえ、ここにも同じようなたたずまいの家が目立つ。日本の家のように垣根は無いが、それが一種の精神的垣根を作っている。もっと金持ちになり、良い家に住みたい人は、そういう金持ちの人達がいるコミュニティーに移り住む。これにより考えの合わない者や経済階級的に合わない者は出ていく事になり揉(も)め事も少なくなる。ただその側面として貧困にあえぐ人達は、同じように貧困にあえぐ人達のいる所へ押し込められ、スラム街を生む事になる。コミュニティーの考えは、身内を第一にするアメリカ人らしい考え方だが、そういう貧困にあえぐ人達は、ますます劣悪な環境におとしめられ、救いが行かないのではないかとグリフ神父は常日頃から懸念(けねん)していた。しかしこのコミュニティーはそんな懸念とは一見無縁と思われる、極一般的な中流階級の静かな住宅街である。
グリフ神父は、住宅街の中の舗装道路を通り、目的の知人の家へ足早に向かった。
太陽の光が燦々(さんさん)と道路を照らし、道路に残った雨水がきらきらと宝石のように輝(かがや)いている。湿っていた空気が照りつける太陽の熱で幾分渇いたように感じられた。そんな中、前方から喫茶店のドアが開いた時のようなチャイムの音が鳴り、前方五十メートル程にある家のドアが開き、よく見覚えはあるが、何故だか肩を落とし元気の無い黒人少年が出て来た。手には嵐が去ったばかりだと言うのに、黒く太く長い釣具を持っている。この少年こそがグリフ神父が会いに来た知人であった。
出し抜けに玄関の奥から、中年女の噛み付くようにヒステリックな、「ちゃんと取って来るのよ!わかった!!」と言う、グリフ神父にとっても黒人少年にとっても険悪に感じる声がした。それは少年の養母の声だった。
その声が一層少年から子供らしい明るさを奪っていった。
(……またか!)グリフ神父はそう思い、心の中で舌打ちした。少年はうつむいたまま、又、怒鳴られるのを恐れるように、音がしないよう、そおっとドアを閉めた。そして険しさと悲しさの入り混じった表情で力なく溜息をつき、とぼとぼとうつむいたまま歩み出した。
グリフ神父は、それを見ていて、いたたまれなくなり、足早に歩み寄りわざと陽気に声をかけた。
「やあ、サン!」
いきなり声をかけられた少年は、肩をしゃくって驚き、曇った表情で顔を向けたが、声の主がグリフ神父とわかるとたちまち弾かれたように子供の無邪気な笑顔になった。
「ファーザー!!」
そう言い、足早に駆け寄ってきた少年の名は、サン・ブライアン。背の高さは140センチ位で十歳だから平均的な背の高さだろう。目鼻は比較的くっきりとしていて、髪の毛は縮れている。そのくりっとした頭が今はグリフ神父の胸の位置にある。その他には、濃い眉毛が特徴的だが、それ以外に目立った特徴は無く、普通の子供と変わらない。ただ違っていたのは、七歳の頃、両親を事故で無くし、天蓋孤独(てんがいこどく)の身となった後、母方の叔父叔母にやむなく引き取られていた事だった。
「ファーザー、ここで何してるの?」
サンが朝の光りを取り戻したように屈託(くったく)なく言う。
「君にあいに来たんだよ」
グリフ神父は笑顔でサン少年の頭を撫でながら穏やかに答えた。
「えっ?僕に?なになに?」
サン少年は興味津々で聞いてきた。何かグリフ神父が、いつもの様に吉報を持ってきたのかと期待している目だった。しかし残念ながら、今日会いに来た理由は心踊る物ではなかった。
グリフ神父は少し声の調子を落とし、サン少年が手に持っている釣具に目をやって尋ねた。
「これから釣に行くのかい?」
サン少年の表情が曇り、サンはうつむいて言った。
「うん。僕これから自分の晩御飯の魚を取ってこなきゃいけないんだ。何日も大雨で外に出られなかったから食べる物があまり無いんだって」
グリフ神父は、これがネグレクトに当たる単なる児童虐待だと言う事にすぐに気づいた。食べ物が少ないなら買い物に行けばすむ事だ。
グリフ神父は、しゃがみ込んで目線をサン少年と同じ高さにすると、サン少年の目を見つめながら穏やかに言い聞かすように言った。
「サン。つらいのなら私に言ってごらん。きっちり注意してあげるから」
少し間を置いてからサンはうつむいたまま答えた。
「いいんだ。僕、養い子だからこれ位しないと……」そう言って前方に駆け出し、道端の小石をえいっ、と蹴った。
しかしグリフ神父には、サンが自分に心配をかけまいと気を使っていてくれているのだと思った。そう思うといたたまれなくなった。はたして今の親の元にこの少年を居させておいて本当に幸せになれるのだろうか。もしサンが望むなら自分の養子にしてもいいとグリフ神父は以前から思っていた。
前を駆けていたサンが、突然振り向きグリフ神父に言った。
「そうそう。今年のハロウィンは、ファーザーの教会に遊びに行けなくて残念だったなあ」
もうこの事を追及してほしくないのかサンは話題を変えた。昨日はハロウィンだったが大雨で子供達の楽しみにしていた御祭りはキャンセルになっていた。
グリフ神父は、にっこりと微笑み、「又おいで。今年の分までたくさんおかしを用意しておくから」と言った。
「うん!」サンは元気良く答えてグリフ神父の所に戻って来た。
グリフ神父は、この問題はこのままにしては置けない。早急に折(お)りを見て調べてから対処しようと考えていた。
グリフ神父は腰を落としながら、戻って来たサン少年の顔を見据え話しかけた。
「サン、良く聞きなさい。ここは危ない。すぐ家に戻りなさい」優しく、しかし凛(りん)として。
「え!?どうして!?」サンが驚いたように言う。
グリフ神父は、さっき農家で見てきた事の経緯(けいい)を話し、犯罪者がうろついているかもしれないから駄目(だめ)だと話した。ついでに先ほどあった妻の猫がいたら知らせておくれと言い、猫の特徴を教えた。ここが安全になるまでは探してはいけないよと強く念を押して。
サンは少しの間、眉をひそめ、考え込むような難しい顔をしていたが、やがて、「わかった。又、怒られるかもしれないけど、僕、ファーザーの言う通りにするよ」と答えた。
グリフ神父は安心し、にっこりと微笑み、サンの頭を大きくて暖かい手で愛情を込め撫でた。サンも撫でられながら嬉しそうに微笑んでいた。
「でも残念だったな。釣の帰りにファーザーの所に寄ろうと思ってたのに……でもファーザーに会えたからいいや。今度は一緒に遊ぼうね!」
「楽しみにしているよ。サン」グリフ神父は心からそう答えた。
「うん。じゃあね!バイバイ!又来てねファーザー!」サンは少しさみしそうな笑顔で言ったが、グリフ神父に会えたのがよほど嬉しかったのか、玄関から出て来た時とは、打って変わって家の方へ元気良く駆けていった。
玄関に着くと養母に見つかりたくないのか、そおっと音のしないように玄関のドアを開けて、グリフ神父に手を振ってから入り、静かにドアを閉め鍵をかけた。
グリフ神父は、手を振ってそれに応えながら見送った後、太陽が西に傾き並木の影が長く伸び、夕暮れの日の光で染まっている歩道を足早に歩き、教会への帰路に着いた。
不意に並木道の街頭スピーカーからチャイムの音が鳴り、淡々とした、抑揚とスピードの無い事務的な遠くまで届く声で、「犯人が周辺をうろついていますので、御住まいの皆様は外出しないで下さい」と言う内容のアナウンスが流れた。にわかに周辺の家からざわめきの声が聞こえる。
不意に道路に映る並木の影の色が徐々に薄くなっていったかと思うと、急に周囲が暗くなった。空を仰ぎ見ると、太陽が鉛色の雨雲に次第に覆われ始めていた。
さっきまでの明るさが嘘のように無くなり、グリフ神父はこの変わり様に、今朝、竜巻が去り、嘘の様に晴れ渡った時に感じた何か得たいの知れない違和感と不吉さを感じた。
グリフ神父の心には、その事が教会についてからもずっと引っ掛かっていた。まるで誰かが天候を操りながら、ずっと自分を空の上から監視していたような気持ちがしている。そして、それはただの妄想では無く事実だった。
悪魔のまやかし
サンがグリフ神父と別れて家に戻ってから、サンの身には誰も予想だに出来なかった事が起こっていた。
サンは家に帰った後、養母に見つからないようにそおっと音を立てず、二階の自分の部屋へと戻ろうとして、その部屋に続く階段を登っていた。
幸い養母は庭に出て、ラジオ番組を大音量で聞きながら洗濯物を干していた為、サンが家に戻ってきた事には全く気づかなかったようだった。サンがやれやれ怒鳴られず部屋に戻れそうだなと溜息をついていた時、台所の方から、「ミャー」と言う人の赤子の泣き声に似たかわいらしい子猫の鳴く声が聞こえてきた。その時のサンの頭の中には、グリフ神父から見かけたら伝えて欲しいと頼まれていた、農家の主婦が息子の変わりにと可愛がっていて、今は行方知れずで探していると言う猫のミーシャの事がよぎっていた。もしかしてその猫かも。冷静に考えてみれば、探している猫では無い確率の方がずっと高いのに、サンは何故かそう思いこみ、どうしようもなく気になって猫が逃げないように足音を忍ばせ、なおかつ早足で鳴き声が聞こえてきた台所に向かった。
台所に着いて周りを見渡すと、誰も居なく、何かが物足りないさみしい台所は、下ろされたカーテンを通して夕暮れの光が入り込み、哀愁を感じる黄昏色に染まっていた。ただカーテンが既(すで)に下ろされているせいで薄暗い。
サンは、スイッチを入れ、電灯をつけると猫が台所に居ないかと探してみたが、猫の姿はどこにも見当たらず、鳴き声も聞こえてこない。もうどこかに行っちゃったのかとあきらめ、自室に戻ろうとした時、不意に背後から「ミャー」と言う強い鳴き声が聞こえた。
サンは、はっとして振り向いた。目にはカーテンが映った。どうやらカーテンの向こうの窓の外から聞こえてきたようだ。
サンは、足音がしないように慎重に足を忍ばせ、カーテンに近づき、カーテンを掴むと、そおっと開けた。
すると窓のすぐ外の足元に夕暮れの光りを浴び、体が半分金色に染まりながら光って見えるかわいい白猫が、ちょこんと座ってサンを見上げていた。
サンは、その無邪気な可愛さに自然と顔をほころばせた。猫が怖がらないように腰を下ろし、目線を落としてじっくり見ようとする。そうすると猫の首には首輪が付いている事に気づいた。やっぱり野良猫じゃない。そうだ確か……。
サンは、グリフ神父が言っていた猫には、首輪にハートのマークが付いていると言っていたのを思い出した。しかしあいにく猫に首輪がついている事はわかるが、夕暮れの光が首輪に反射し眩く光っていて、どんな模様までかは良く分からない。
サンは、模様が見えるように首の角度を変え、首を覗きこむように動かした。
「ミャー」猫が一声鳴いて、四本足ですっくと立ち上がると、サンが模様を確認する前に、家の角に向かって駆け出してしまった。
「待って!」
サンは慌てて窓を開け、外に出ると猫の後を追いかけた。
サンが家の角を曲がると、猫は前方十メートル程の所で後ろを振り返り、サンをじっと見据えていた。
「何も恐い事しないから、こっちにおいで」
サンは猫なで声で手招きしながら言った。
猫は警戒しているのか、サンの目をじっと見つめてこちらの動きを探り、しばらく動こうとしない。その時、幸いにも猫の首輪の模様を見る事が出来た。その模様はグリフ神父が言っていた通りのハートマークだった。
(この猫だ!)サンは喜色を浮かべ確信し、猫に近づこうと一歩前に踏み出した。
猫は弾かれた脱兎(だっと)のごとく、庭の車庫の方に向かって走り出した。
「待てよ!」サンは声を上げ、急いでその後を追いかけた。
猫は車庫のシャッターのわずかな隙間(すきま)から車庫の中に入り込んだ。
(しめた!)サンは心の中で歓喜した。これで捕まえる事が出来るかもしれない。
サンは車庫に着くと、猫が車庫の中から出てこないように願いながら、シャッターを自分の体が入る位の高さに押し上げ、はいつくばって車庫の中に入った。それから急いでシャッターを下ろし、出口を塞いだ。
まだ猫は車庫の中に居るはずだ。
サンは真っ暗な中、手探りで車庫の明かりのスイッチを探し出すと、電灯をつけた。
照明がつき、何も無い闇の世界から色とりどりの明るい世界へと情景が一変した。
車の横にプラスチック製の粗末なバスケットがあり、その上に追い求めていた猫が鎮座(ちんざ)している。時折、バスケットの中のすぐ側にある橙色(だいだいいろ)の丸い物を激しく爪で引っかいたり、噛み付こうとして歯を一生懸命に立てている。
そうだった。この丸い物は、自分がハロウィン用にかぼちゃをくりぬいて作ったマスクだった。
今年のハロウィンに身につけるはずだった、使い古しの白いシーツは、猫に踏んづけられている。
最初、猫がかぼちゃと戯(たわむ)れているのかと思ったが、懸命に噛み付いている様子を見ていてはっと思い立った。サンは口元に笑みを浮かべながら言った。
「何だお前、もしかしておなかが減っているのか?」
猫は一呼吸置いた後、「ミャー」とその問いに答えるように鳴いた。
サンは、何かこの猫と心が通じ合ったようで嬉しくなりながら、「待ってろ。今、持って来てやるからな」とせわしなく言い、急いでシャッターを少し上げ、その下を這って潜り抜け、外に出るとシャッターをピシャリと下ろした。
猫を追う為に出てきた窓から台所に駆け込むと、冷蔵庫を開け、ミルクを取り出す。それから食器棚の皿を掴むと一目散に猫の元に向かった。その時のサンの心には、何か自分がとてもいい事をしていると言う、久々に心洗われるような新鮮な喜びがこみ上げていた。
すぐに車庫に着くと、サンはシャッターを少し開け、中に入り、閉めてから、猫が居るはずの場所を見た。
猫はそっぽを向いて、バスケットの中にさっきと同じように座っていた。サンが声をかけ、猫を振り向かせると、サンは、さもいい物を持ってきたように、ミルクのパックを揺らして、チャプチャプと音を立てた。
猫は、揺れるパックの動きに首を合わせ、パックをじっと見ながら興味をそそられた様子で、金色に見える目をらんらんと輝かせている。
サンはその様子を見て、にんまりと微笑むと、持ってきた皿にミルクを注ぎ、猫の方にそれを持って行った。様子をうかがいながら怯えさせないようにして近づく。
ミルクを注いだ皿を猫の足元の床に置く。猫はその間、サンを観察するようにじっと見ていた。
「おいで。欲しいだろ、これ」
そう言ってサンは手招きしたが、猫はきょとんとした顔でよってこない。
(まだ警戒しているのかなあ)サンはそう思い、警戒を解くため置いてきた皿から数歩後ろに下がった。一刻後、しばらくして、猫は警戒が緩まったのか、汚れて古ぼけたバスケットの中からぴょんと飛び出て皿の近くに寄ってきた。
(いいぞ!)サンは心の中で歓喜した。このまま手なずけられれば、グリフ神父に渡しに行けるぞと……。
しかしその愛らしく見えた猫は、そろそろと皿に近づいてまでは良かったが、あからさまに不機嫌な声で、「ミャー!」と鳴くと、ミルクが湛(たた)えられている皿を足で乱暴にひっくり返した。皿は不快な音を立てながら割れ、白い染みがとたんに床に広がった。こんな物では満足できないと言うように。
サンはビックリしながらそれを見て、心の底からむっとする感情が胸に込み上げてくるのを感じた。猫に、ついさっきまで抱いていた愛らしさは、どこかに吹っ飛んだようだった。サンは顔をしかめながら声を荒げ言った。
「何するんだよ!食べ物が欲しいんじゃないのかよ!もう持ってきてやんないからな!」
その時、猫が金色の目を爛々(らんらん)と氷の様に冷たく光らせ、サンを威嚇(いかく)するように激しく睨(にら)んだ。
不意にサンの顔を撫でる冷たく嫌な空気が流れ出し、周囲の音がラジオのボリュームを絞ったように小さくなっていった。
突然、耳鳴りが聞こえるほどの激しい静寂がサンの身を包んだ。まるで自分の今まで生きてきた空間から切り離さた空間に引きずり込まれたように。
サンは本能でそれを察知し、得体の知れない強い危機感を感じた。
猫はその中で、今までの様子とは見て取れる程違い、一切の警戒と怯えの鎖を断ち切ったような足取りでサンに近づいて来た。金色の目は、不自然と言う言葉を超越したほど、ギラギラと輝いていた。白い体毛は、逆立ちザワザワと動くと次第に黒色へと変化していく。
サンは、それに目を見張り、自分の体が独りでに震え出すのを感じなければならなかった。歯も狼の群れに囲まれたように自然と擦り合わさり、恐怖の涙が涙腺(るいせん)から滲み出てきた。魂に刻まれた生物としての本能が、それがどれほど危険な物か伝えていた。
突然、拳銃を突き付けられたようで、声を出そうにも金縛りにあったように出来ない。体が石になったように重苦しい。まるで蛇に睨まれ、自分の死期を突然突きつけられた哀れな蛙のようだとサンは自覚した。
近づいてくる物の姿は、予告も無く見る間に異様に膨れ上がり、サンは、このままでは、それが自分を覆い尽くしてしまうのでは無いかと言う強い威圧感を感じた。自分が小さくなってしまったのか、相手が大きくなったのか、それとも錯覚なのかさえ分からない。ただこんな物がこの世に存在するわけがない。今のサンの思考は、そう認識できるまでが限界だった。
猫に化けていた者の体は、さらに膨らみ、ついに猫の体の形が面影も残さないほどに崩れさった。顔は、パズルのピースが剥(は)がれ落ち、もう一度別の顔に再構成されるようにして猫の顔から怪物の真の顔へと変容した。その顔を見て、サンは息を飲み、目を見張った。それは教科書に載っていたゴシック建築の樋口(といくち)に魔除けとして彫りつけられたガーゴイルの彫像にそっくりだった。目は、サメの目のように感情を感じない、深海のように冷たく、襲い食らう本能しか有していないように見える。ワニのように突き出た口の歯は、例え鉄板さえも噛み砕くように鋭く、耳はこうもりの耳を尖(とが)らせ、肥大させたようで、角(つの)のようにも見える。何か人知を超えた特殊な事ができそうだ。
それは、間近で見ているだけで、寒気を催すような醜悪(しゅうあく)に満ちた姿だった。ただ教科書と違うのは生きて動いていると言う事だ。しかし変容は、それだけでは止まらなかった。漆黒の体は、怪物の顔だけを残しながら、それ以後も大きさを増し、一瞬きする間に、突如やってきた夜の闇のように大きく広がり、サンの周囲を包み込んだ。
サンは光りの届かない真っ暗な空間の中で、自分がもう逃れ様の無い、蟻地獄(ありじごく)に入り込んでしまった事を悟った。極寒の地に裸で置き去りにされたように、自然と体が震え、冷たい涙が目の玉の奥底から滲(にじ)み出てきた。
視界が、滲み出た涙で霞(かす)み、歪んでいく。
「助けて……ファーザー……」サンは、やっと搾(しぼ)り出せたかすれ声で呟(つぶや)いたが、その言葉は誰の耳にも届くことはなかった。目の前の怪物を除いては。
怪物は、サンのその声を聞き、嬉しそうに口を開いた。それはまるでゴムでできた口のようにサンを一飲みに出来るくらい大きく開き、血のように真っ赤な太い舌を出しながら、岩のような歯を、噛み付くように剥き出した。その口は見るもおぞましく笑っていた。
「シャー!!」
怪物は、蛇が喉を鳴らすようにして、威嚇の唸り声を怒号(どごう)のごとく発した。それは胃を震わすような不快な声だった。サンはその声を聞き、さらに恐怖ですくみ上がり、ますます体が締めつけられた。最早、指先一つでさえ自由には出来ない。
サンは体から自分の逃げようとする意志が空気のように抜けていくのを感じた。心は必死に逃げなくては!と叫んでいたが、体のほうが既にあきらめたかのように無防備のままどうしても動かない。やがてサンの体の限界を超える圧力が体を押し潰すようにして掛り、吸器官が麻痺(まひ)し出した。サンは、息をする事もままならなくなり、苦痛にうめきながら、やがて脳の芯が痺(しび)れ意識が遠のくのを感じていた。閉まりの無くなった口から涎(よだれ)を垂らし泡を吹くサンに、怪物が何か話す声が、黄泉の国からの声のように聞こえた。
「・・・オマエヲクワセロ・・・」それが、サンが遠のく意識の中で耳にした最後の言葉だった。
それから数時間の後(のち)、さらなる悲劇が起こった。
悪夢の具現化
日もとっぷりと暮れ、サンの住んでいるコミュニティーの家々の中で、多くの人々が夕食を取り出す午後八時頃、サンを扶養(ふよう)している養父と養母は、サンの所在を心配する様子もなく、テレビを見ながら二人で夕食を取ってくつろいでいた。
しばらくしておもむろに養父が言った。
「なあ。サンのやつどこに行ってるんだ?」
「さあ……家の中にいるんじゃない?」養母はテレビを見ながら、スプーンでシチューをすすりつつ答えた。
外は数時間前から、又、どしゃぶりの大雨が降り出していた。この雨じゃ外には出かけていないだろう。養父は、その言葉に何の疑問も感じず、「そうだな」と受け流し、又テレビに目を向け何事もなく夕食を口へと運んだ。
しばらく夕食を食(く)らう音とテレビの音だけが聞こえる沈黙に満ちた静かな時が流れたが、それをうち消すように突如不気味な風を伴(ともな)い食卓のすぐ側の食堂に通じるドアが物凄い勢いで蹴破られた。
近づいてくる足音や気配を全くさせずにドアを開け放ち現れた者の姿は異様で、かぼちゃを刳(く)り貫(ぬ)いたハロウィンの仮面をかぶり、小柄(こがら)の体を白いシーツで包んでいる。
養父と養母は、気の狂った強盗かと思いこみ、肝を潰し椅子から転げ落ちた後、脱兎のごとく逃げ出そうとしたが、その怪人物が自分達の聞きなれた子供の声で、「トゥリック・オア・トゥリート!(お菓子をくれないといたずらしちゃうぞ!)」と叫ぶとピタリと体を止め、恐る恐る振り向き、怪人物の姿をまじまじと見た。そしてその怪人物の正体がサンだと言う事に気づくと、体をわなわなと震わせ、額に血管を浮き立たせながら怒(いか)り始めた。
「くだらない冗談は止めろ!サン!」養父が怒鳴(どな)った。
「アハハハ!」サンは、さも愉快(ゆかい)そうに仮面の下で笑っている。
養父は、その笑い声に過敏(かびん)に反応した。間抜けな姿を見られた上に、こんなガキになめられるのは我慢(がまん)ならない!
「な、何を笑ってやがる!サン!笑うのを止めろ!」養父は怒りを込め恫喝(どうかつ)した。「サン!笑うのを止めなさい!」養母も肩をわなわなと震わせながら、ヒステリックに叫ぶ。
それでも仮面の下のサンは、笑うのを止めようとしなかった。それどころかさらに哄笑(こうしょう)は養父養母にとって、癪(しゃく)に障(さわ)る甲高(かんだか)い物へと変わっていった。積年(せきねん)の鬱憤(うっぷん)をここぞとばかり晴らすように。
とうとう切れた養父は、今にも殴り掛りそうな剣幕でサンに近づき、サンの胸元に掴(つか)みかかった。サンはそれでも怯(ひる)まず笑い続けた。養父はサンの胸元を掴んで乱暴に引き寄せると、かぼちゃの仮面に顔を近づけながら、「黙れと言っているんだ!分からないのか!」とおよそ子供に対するものとは思えない形相(ぎょうそう)で睨(にら)みをきかした。しかしその直後、養父は、仮面の下にあるサンの目を見てはっとした。サンの目は決して笑ってはいなかった。それどころか子供の、いや人の目とはとうてい思えない触(ふ)れれば切れそうな目つきで自分を睨んでいる。養父の背中に今までに感じた事のない冷たい感覚が這い上がった。
サンの目は……サンの目は、完全に白目を剥(む)いている。まるでそれは死人の目そのものだ。
養父が言葉を失いサンの胸座(むなぐら)を掴んでいた手を引き攣った顔で離すと、その恐怖にたたみ掛けるようにサンがサンの声ではない声で唸(うな)った。
「俺に触るな虫けらども!今すぐ殺してやるからな!」
養母はその、いつものサンの声とはかけ離れている、威圧感のある声にどよめいた。
養父は蒼白し、よろめきながら得たいの知れない危険を感じ、サンから咄嗟(とっさ)に身を引こうとした。だが一瞬遅かった。正気を失っているサンは、養父に逃げる暇(いとま)を与えず、身を包んでいるシーツの中から刃渡り十センチ程の果物ナイフを握った手をすばやく出した。養父が身を引くのを片手でぐいと引き寄せ、腹部を刃が見えなくなるほど深々と刺した。養父が苦悶の表情でうめく。サンはそれでも容赦なくナイフを捻り回しながら乱暴に引き抜いた。
養父は絶叫し、途端(とたん)に、吹き出した返り血を浴びたサンの白いシーツに真っ赤な花が咲いた。
養父はうめきながら膝をつき、床にうずくまってもだえる。サンはその様子を見ながら、尚高らかと笑っている。まるでサンが意志の通じない悪魔に様変わりしたようだ。
(こ、殺される!)養父は戦慄し、逃げられないと思い込んだすえ目をつむった。又あの刃が自分を貫いていくのを見る度胸はとても無かった。
だが、とどめの一撃はいつまでたってもやってこない。
恐々として目を開けると、血塗られたナイフを手に持ち、自分を置いて妻の方に、じりじりと歩み寄るサンの背中が映(うつ)った。妻は、余りの事に固まり、ガタガタと震えている。このままでは二人とも殺されるのは確実だった。養父は、その光景に発狂しそうになったが、額に汗を浮かべ絞り出した声で咄嗟(とっさ)に妻に向かって叫んだ。
「逃げろ!そいつは完全に狂ってる!今すぐ逃げるんだ!!」
妻は、その言葉にやっと我に返ると、今、自分のやるべき事に気づき、台所の方へ駆(か)けこんで行った。サンは、その後を慌(あわ)てず、騒(さわ)がず追って行った。
養父は、まるで悪夢を見ているような、どこか現実感の伴(ともな)わない思いを振り切りながら、(これは現実なんだ!しっかりしろ!助かる方法を考えるんだ!)と自分に必死に言い聞かせた。必死に考え二階の寝室にある銃を取りに行こうと思い立った。今の体では到底(とうてい)かなわない。
養父は、歯をくいしばり、血と共に抜けていく力を必死に維持しながら、痙攣(けいれん)する足でよろよろと立ち上がった。ふらつきながら壁を伝い、サンが食堂に入ってきたドアを押し開け、妻のいる台所とは反対方向にある階段に向かう。わき腹から大量の血を滴(したた)らせながら。
養父の心は、悪夢のような思いで掻(か)き回されていた。自分の無事と妻の無事。これしか考えられない。さっきから妻の声が途切(とぎ)れ途切れに聞こえてくる。「あなたどこにいるの!助けて!」と言う叫び声も何度も聞こえてきた。まだ生きてはいるが、追い詰められた切羽詰(せっぱつま)った声だった。養父は、その声を聞くたび、自問自答した。
(このまま妻を助けに行かず、銃を取りに行ってはたして良いのか?銃を取りに行っている間に妻が殺されたら……)
今のサンは、尋常(じんじょう)では無い何かに取り憑(つ)かれている。あの眼は正気のなせる技じゃなかった。当然、妻にも凄惨な死を加えるだろう。それを思うと冷や汗が体中からどっとふき出し、動悸(どうき)がして眩暈(めまい)がした。しかし必死に気を取りなおした。
(いや、例えこの体ですぐに助けに向かっても間に合わないし、到底太刀打(たちう)ちできない。今は銃を取って、サンをどうにかする事が、二人が生き延びる唯一の道だ!)
養父は迷いを振り切り、妻の無事を祈(いの)りながら階段に足を掛けた。
よろよろと重い足取りで、手すりにより掛りながら、喘(あえ)ぎ喘ぎ十五段の階段を歯を食いしばり登り始める。
一段登るごとに血が抜け、意識が薄(うす)れていくようだったが、ここで意識を失えば確実に殺される。なんとか意識のある内(うち)に部屋に辿(たど)りつかなくては。しかし足は鉛(なまり)の足かせがついているようにゆっくりとしか動かない。まるで、力を振り絞って走っても、一向(いっこう)に進まない悪夢の中にいる様だった。
ようやく十段ぐらい登り詰めた時、養父の願いの一つは無残にも打ち崩された。
突然、一階から陶器(とうき)が立て続けに割れる騒がしい音がして、妻の叫び声が聞こえた。
「やめてサン!お願いだから!こっちに来ないで!」
「……」
「やめなさいサン!やめて!ひっ!」
その声の後は、絶叫が続いた。
「助けて!だれか!!」
「……」
その後、苦痛にうめく絶叫が耳をさいなみ、やがてそれは妻の断末魔の叫びへと変わった。そしてその声も力なく消え去っていった。
養父はそれを足を止め、胸をかきむしられる気持ちで聞いていた。
「くそ!……くそっ!」養父は、妻が殺されたことを知り、無念を浮き彫りにし唸った。
つい十分程前までは、こんな運命が自分たちに降りかかってくるとは、つゆほども思わなかった。それなのになんでこんな事になっちまったんだ?サンを引きとって養ってやったのは俺達だぞ!それなのになんでこんな目にあわされなきゃいけないんだ!?この世に神はいないのか?それともサンにふだんから冷たくあたっていたのがいけないのか?いや今日のサンの眼は普通じゃなかった。まるで悪魔に取り憑かれたようだった。一体何が起こったんだ!?
養父の頭は混乱し、パニックに陥(おちい)った。もうどうでもいいようなあきらめと虚脱感(きょだつかん)が闇(やみ)の中から迫ってきた。次に殺されるのは自分だというのに。
余りの事に頭の芯が砕けそうだ。その衝撃で気が遠くなかけ、養父はその場に倒れこみそうになった。絶望の嵐が襲い、足から力が抜けて行く。その瞬間、足元をすくわれたように足がふらつき足は階段を踏み外した。養父は悲痛の叫び声を上げ、階段をうつぶせになったまま音を立て下へとずり落ちた。その時、不運な事に階段の角で頭を強打し、意識を失ってしまった。
……どれだけ気を失っていたのだろう……。
体中、特にナイフでさされた脇腹(わきばら)の強烈な痛みで目が覚めた。
はっとして、目を開いた時、瞬時に考えたのは、狂人になったサンが、今、何処(どこ)にいるかと言う事だった。
養父は、銃を背中に突きつけられたような恐怖を感じ、恐怖に引き攣(つ)った顔で辺(あた)りを慌てて見まわした。
――いた!
冷たく光る血の滴(したた)るナイフを手にし、ハロウィンの衣装を身にまとったサンの姿は、仮面も体を包んでいる白いシーツも血のシャワーを浴びたように真っ赤に染まっている。それが妻の血吹雪だと言う事は疑う余地(よち)もなかった。そして、今まさに、サンが階段のある廊下(ろうか)に忍び寄るように出てきた所だった。
養父は、背筋が凍りつくのを感じながら、喉(のど)に異物が詰まったように息を飲んだ。自分までの距離は、せいぜい二十メートル程度(ていど)しかない。もうだめだ!絶対に追いつかれる!養父は絶望したが、予想に反し、サンはゆっくりと歩み寄ってくる。まるで狩を楽しむかのように。
養父は、咄嗟(とっさ)にサンと自分の間の距離と、銃の置いてある寝室までの距離を見比べた。階段をあと少し登りきれれば、寝室のドアに辿りつける。幸い階段から落ちたと言ってもニ、三段ずり落ちているだけだった。養父は、死にもの狂いで階段を這(は)い上がった。ナイフが刺さった傷口からどくどくと血が流れ、激痛が走ったが、気にしている場合ではなかった。ただひたすら逃げる事で頭の中が埋め尽くされていた。
苦痛であえぎながら、なんとか最後の一段までこぎつけた。まだ追いつかれてはいない。
後ろを振り返ってサンの居場所を確かめた。サンは、自分を真っ直ぐに見据えながら、もう階段の一段目を登り始めていた。
余裕を誇示(こじ)する、流暢(りゅうちょう)な足取りで、慌てずにゆっくりと。
不意(ふい)にサンの眼と自分の目が合った。それは、以前と同じ、魂を抜き取られたような冷たい死人の白い目だった。かぼちゃをくりぬいて作られたハロウィンの仮面は、這いつくばり、もだえ苦しむ自分を楽しんでいるように不気味に笑って見える。他愛無(たあいな)い子供の祭りのおばけの仮装(かそう)が、今は悪魔その物に見える。
養父は、恐怖と言う炎に足元を炙(あぶ)られている思いで、最後の一段を這いあがった。そのまま起き上がる事もままならず、四つん這いになりながら、すぐ側の寝室のドアのノブを汗と血でまみれ痙攣(けいれん)する手で回す。
開いたドアの向こうに、養父は生と死の境界線を垣間見(かいまみ)た。生きた心地を失いながらもどっと室内に倒れ込み、感覚の無い腕を必死に動かし鍵を掛ける。
そのまま、寝室の床に這いつくばった養父は、引き攣りながら一呼吸すると、すぐに銃がしまってあるタンスに這って向かった。丁度その時、ドアのノブを荒々しく回す音がし、寝室のドアを物凄い力でけたたましく叩く音がした。養父は恐怖にあおられながら叫んだ。「来るな!頼むからもう許してくれ!」その言葉をあざ笑うように、木製のドアをナイフで削る音が聞こえ、養父の心をさいなんだ。ドアをナイフでこじ開けて殺す気だ。養父は、唇を震わせた。もう生きているのか死んでいるのかさえ分からなくなってきた。
養父は、必死の形相で、頼みの綱が入っているタンスに向かって腕の力だけで匍匐前進(ほふくぜんしん)した。もう出血と痛みで足が痺れ、力が入らず思うように動かなくなっていたからだ。
ドアを荒々しく削る音に、恐怖心を煽(あお)られながらも養父は五メートル程這って進んだ。それは、普段ならなんてことは無い事だったが、今は急な川の流れに逆らって泳ぐように困難なものだった。
やっとタンスに辿りついた頃には、疲労困憊(ひろうこんぱい)だった。少しでも気を抜くと、すぐにでも失神しそうだ。養父は、血が抜け、寝起きのように重たくなった瞼(まぶた)を必死に見開き、やや大きめのタンスの引き出しについている二つのとってを掴んだ。
残された全ての力を総動員し引っ張る。しかし木がきしむ音がするだけで一向に開かない。どんなに力をこめてもびくともしない。
なぜ!?どうして!?
養父は、神が自分を見捨てたと呪い、涙を滲ませながらもやけになって何度も何度も力任(まか)せに引っ張った。養父は、引き出しに鍵が掛っている事を忘れていた。しかし何度もやっている内に思いがけない力が出た。それは、命の危機が迫った時に咄嗟に発揮される火事場のくそ力だった。
奇跡的にロックが壊れ、引出しが勢い良く飛び出した。九死に一生を得た気分で、まだ神は、俺を見捨ててはいない!まだ助かるぞ!と確信した。
養父は、引出しの中を凝視(ぎょうし)した。
その中には、最近あるルートから安く手に入れた、イタリア製のクレー射撃用で使う<レナト・ガンバ>と言う高級品のショットガンが入っていた。
養父が、いつもいらいらしている時などに、憂(う)さ晴らしの為にぶっ放す愛着のある一品だ。その側には、ショットガンの弾が詰められている赤いパッケージがいくつかある。
養父が、焦(あせ)りと恐怖でわななく手で、そのショットガンを掴もうとした。その時、突然目の前が真っ暗になった。前触れもなく寝室の照明が全て消え去ったのだ。まるでサンが、ドア越しから自分の姿を透視して、自分が銃を手にするのを阻(はば)むかのように。
今まで光りに慣(な)らされていた目は、すぐには何も見えない。これでは銃を正確に扱う事はおろか銃に弾を込めることも出来ない。突然盲目になり、闇の中に取り残されたようだ。絶望と言う塊が体当たりしてきたように、養父はパニックに陥った。養父は、頭の中で『もうあきらめろ』と言う死神の声の幻聴を聞き、気が狂わんばかりの悲鳴を上げながらタンスの中を必死で探った。
(こんな事で死にたくない!無残に殺されるのは嫌だ!!)養父の心も叫んでいた。もう気が狂う寸前だった。なんとか銃を手に取り、弾丸のパッケージを探ったが、指には触れるが掴めない。ニ、三度繰(く)り返しやっと掴めた。
養父は、額に火で炙(あぶ)られているような苦痛の汗を浮かべ、苦悶の表情でタンスにもたれ掛かるようにして動かない足を投げ出して座った。
慌てて弾の入った箱を引き千切るように破って、中身の弾を落とさないように慎重(しんちょう)に掌に取り出す。掌からは冷や汗がふき出し、水をかぶったように濡れていた。
ドアを削る音が強まり、不気味に闇の中で止む事なく続いている。
養父は、震える指先で弾丸を抓(つま)み、触覚(しょっかく)を頼りにショットガンの弾倉に詰め込もうとした。しかしなかなか上手く入らない。血が止めど無く力と共に体から抜けていく為、指先が痺れ震えだし、銃身と弾丸が擦れる音がするだけだ。養父は、もう投げ出してしまいたくなる衝動(しょうどう)を、唇を噛(か)み締(し)めて必死にこらえた。「おちつけ、おちつけ……」と自分に必死に言い聞かせる。今度ばかりは、いつものように短気ではすませられない。だが焦りと恐怖は意思に反し暴走していく。体の震えも止まらない。
何度も挑戦しているうちに運良く弾倉の中に弾が二つ入った。だがそれで気が抜けて、他の手に乗っていた残りの弾丸は、全て床に落としてしまった。顔から血の気が引いたが、暗闇の中ではもう探しようがなかった。その直後、鈍い音を立て、重い金属が床に落ちた音がした。それとほぼ同時にドアが荒々しく開く音がした。
「ひっ!!」
養父は、悲鳴を上げ、反射的にショットガンの銃口を、サンが入ってくるであろう方向に向けた。そして恐怖に駆(か)られるまま、引き金を引いた!
まぶしい閃光が、銃口からほとばしり、外の大雨の音を打ち消す位の銃声が、一度だけ鳴り響いた。その後は、不気味なほど静まり返った。嵐が去ったか、あるいは嵐が来る直前の様に。
養父は、息を飲んだ。(やったのか?どうなったんだ!?……何も音がしない、うめき声も何も聞こえない……やったんだ……俺は……)養父は、極度の緊張で、息をする事すら忘れていた自分に気づき、肺を引き攣らせながら大きく一呼吸した。だが恐怖から開放されたはずなのに、体の震えは、今までで一番酷(ひど)くなっていた。自分が取り返しのつかない事をやってしまったのだと言う強い喪失感(そうしつかん)と、何故こんな事になってしまったんだというやりきれない思いが頭の中を支配していた。
今は暗闇の中で自分の荒い呼吸音だけが聞こえている。それを聞いている内に虚(むな)しさが込(こ)み上げてきた。
もう自分は、全てを失った哀(あわ)れな中年に過ぎないと言う事を思い知らされながら。
これからの人生、一体どうやって生きていけばいいんだと、唐突に、降ってわいたこの無残な運命にしゃくり泣いた。涙が滲みだし、熱い涙が自然と頬(ほほ)を伝い落ちて行く。
体から張り詰めていた緊張が、生きる気力と共に抜け、養父は、ショットガンの銃口を敗北者のようにゆっくり降ろした。出きる事なら、このまま残酷な現実を夢にして眠りたかった。しかしそれは許されなかった。なぜならまだ凶事(きょうじ)は終わってなかったからだ。
突然、耳元で鋭(するど)く風を切るような音がしたかと思ったら、ショットガンを持つ手に、高温のバーナーでやかれるような激烈な痛みが走った。養父は、残された力を全て振り絞ったような凄まじい声で絶叫した。
鋭利(えいり)な刃物でショットガンを持つ腕をばっさりと深く切り裂(さ)かれたのだ。余りの激痛にショットガンを取り落としてしまったが、その時は、身を守る武器が無くなった恐怖より、地獄の拷問(ごうもん)のような激痛の恐怖の方が遥(はる)かに大きかった。
まだサンは生きている!
養父は、嵐のような猛烈な痛みの中で悟った。気を失うほどの痛みが駆け巡る中、切られた腕を抱え込むように前屈(まえかが)みにうずくまる。
地獄だった。
目は苦痛で霞(かす)み、意識も脳の許容範囲(きょようはんい)を超える苦痛で朦朧(もうろう)としてきた。まるで地獄の籠(かご)の中でぐるぐると回されているようだった。その時、暗闇の中、心を震え上がらせる不気味な音がすぐ側でした。それが何の音か養父は気づいて戦慄した。口から神経が麻痺したように感覚が無くなって行く。しかしどうしようもなかった。それが、自分が落としたショットガンをサンが拾(ひろ)う音だと気づいても。
養父は、自分の命の炎が、相手の胸三寸(むねさんずん)でどうとでもなる状態にある事に対し、なす術(すべ)なく、無力だった。哀れな顔を凍らせるしか出来ない。
不意に冷たい鉛(なまり)の感触(かんしょく)が自分の眉間(みけん)に押し付けられた。それがショットガンの銃口だとすでに気づいていたが、恐怖の悲鳴を出す事すら余りの恐怖に縛られままならない。
口からもれるのは、上ずりむせび苦悶するどこか他人じみた声だけだ。
凍えそうな悪寒と殺される間際の暑苦しさが全身を駆け巡る。それに伴い噴き出す不快な汗が全身を蝕(むしば)んで行く。
そんな中、銃口の先で養父は額を押され顔を押し上げられた。
苦痛の涙で歪(ゆが)んだ眼前におぼろげに映ったのは、サメの目のように心を感じない、血で濁った冷たく光る赤い眼。
養父の目には、それが闇夜に浮かぶ、怨念のこもった人魂に思えた。
養父が呆然(ぼうせん)としている時、目の前がまぶしく発光し、照明(しょうめい)が灯(とも)った。そして惨劇(ざんげき)の全てが露(あらわ)になった。
電灯の光を受け、黒光りする銃身が想像していた通り、自分の眉間におしつけられている。その銃身を構え、自分を見下ろす形で、ハロウィンの仮面をかぶったサンが、自分の目を真っ直ぐ見据えていた。たださっきと違うのは眼の色が死人の白目では無くなっていて、血で濡(ぬ)らしたように真っ赤な色に濁(にご)っている事だった。その眼は、感情の無い殺人マシーンのような冷たい光りを帯(お)びていた。
養父は、歯をかち合わせ必死で後退(あとずさ)りしようとした。床に手をついたその時、ヌルッとした感触が掌(てのひら)を撫(な)でた。頭を銃口で押さえつけられている養父は、視線だけその感触のする床に落とした。そして目を見張った。
床には、傷口からふき出す自分の血が、絨毯(じゅうたん)のように広がっていた。その血の海の真(ま)ん中に自分はうずくまっていたのだ。
養父はその悪夢の光景を前にし、一刻も早くその血の海から抜け出したかった。手足をばたつかせゆるゆると後退る。しかしタンスが自分の背中に密着(みっちゃく)していてこれ以上後ろに進めない。もう助かる道は全て閉ざされてしまったのだ。もう自分は、無残にこの怪物に殺されるしか道は残されてはいない。それを悟った時、体中を虫のように今まで以上の絶望と恐怖が這い回り、目からねばつく汁のような涙が止めど無く滲み出てきた。激痛もそれに拍車(はくしゃ)をかけた。朦朧(もうろう)とする意識の中、養父は、激しく痛む自分の腕に目を向けて愕然(がくぜん)とした。信じられない、いや信じたくなかった。自分の片腕は肘(ひじ)から先がなくなっていた。肘から先の部分は、まるで人形のもがれた腕のように床に転がっている。とてもそれが自分の体の物とは信じられなかった。
養父は、それを見た時、ついに発狂(はっきょう)しだした。声をからし喚(わめ)き散(ち)らす。その声は、声帯(せいたい)が潰(つぶ)れたような空気の抜けた音にしかならなかったが、やりたい事は心の底から叫ぶ事で、恐怖と苦痛をかき消す事だった。しかしその願いもすぐに虚しく打ち崩(くず)された。額に押しつけられている銃口が、その声を黙らせるように、血が滲むほど強い力で額を突いた。それは、これ以上やり続けたら撃つと言う沈黙(ちんもく)の脅迫(きょうはく)だった。
養父は、声を呑み込みガタガタ震えた。悲しい事に、まだ養父の頭には現実を理解する理性が残っていた。いっそ完全に気が狂ってしまえば楽なのに。養父は、心底そう思った。「もう俺はここで殺されるのか?こんな……、こんな形で最後を迎(むか)えるのか!?俺が何をした?ここまで酷(ひど)い事をされる事をした憶(おぼ)えは無い!」
養父は、狂人と化したサンに向かってそう叫びたかったが、それをしたら、すぐにでも引き金を引かれそうで、その言葉は上唇に張りついたまま出てこなかった。
(こんな至近距離でショットガンで撃たれたら、俺の頭はどうなってしまうだろう)養父は、その時の事を想像して身震(みぶる)いした。歯が自然とカチカチと音を立て体中に冷水を浴びたような悪寒が走る。さっきまでは、なによりも激痛の恐怖の方が恐ろしかったが、今は、それよりも突きつけられたショットガンの方が恐ろしい。
(嫌だ!そんな無残な殺され方は!)養父の心が叫び狂う。何とかしてこの地獄から一刻(いっこく)も早く逃れたかった。それが駄目なら殺されるにしても楽な方法を選びたかった。
やがてその恐怖心は、卑屈(ひくつ)な命乞(いのちご)いの気持ちに変わっていった。その思いに操られるように口が動いた。
「殺さないで……助けて……神様……」体を震わせ哀れな掠(かす)れ声で呟(つぶや)く。
「……神だと?」
突然、今まで黙っていたハロウィンの怪人が、逆鱗(げきりん)に触(ふ)れられたような声で凄(すご)んだ。その声は、本来のサンの声とは似ても似つかない、まるで鉛で出来た声帯から発せられたような金属的な太い声だった。その声には、明らかな激しい嫌悪(けんお)と怒りが込められていたが、その理由は、養父には全く分からない。ただ養父は、自分が何かやってはいけない事をやってしまったのだと言う事だけは分かった。
養父が失禁と共に、自分の最後を悟り絶叫を上げた時、ハロウィンの怪人が片手に持っていたナイフを大きく振りかぶった。養父が目を見張ったナイフは、死神の振り下ろす鎌にも見えた。
「その名を出したな!!」狂人は咆哮し、ナイフを荒々しく振り降ろした。振り降ろされたナイフは、養父の胸を瞬時に貫(つらぬ)き内臓を切り裂いた。
養父は刃物が内臓に滑(すべ)りこむ冷たい激痛を感じながら断末魔の声を発(はっ)した。体が反(そ)り、息が止まった。口に生暖かい血の味が広がるのを感じる暇(ひま)もなく、かすれ行く意識の中、ハロウィンの怪人の眼と自分の目が合った。怪人の赤く濁った眼からは、血のような真っ赤な涙が流れていた。それが養父には、何故かこの惨劇(さんげき)に涙する本当のサンの涙のように思えた。
サンは、何かに操(あやつ)られている。恐ろしい悪魔のような得たいの知れない者に……。養父は、最後の刹那(せつな)にそう強く思った。養父は、最後に、せめてどんな理由で誰に殺されるのか知っておきたかった。養父は、最後の力を振り絞り、血の泡を吹(ふ)きながら死に行く者の声で言った。
「お、お前は……。……一体……誰なんだ?」
その問いに、怪人は嘲(あざけ)るように目を細めると、サンの声のような子供の声で撫で回すように言った。
「俺は、お前達の愛すべき子供だろ。ククク……」
養父は、ここまでの非道を行(おこな)ってなお、楽しんでいるこの怪物の言葉を聞き確信した。この惨劇を引き起こしたのは人間ではない。ましてサンであるはずがない。人間では裁(さば)けない陰湿(いんしつ)で邪悪な者。
もう養父の目は光りを見る事は出来なくなっていた。ただ心の中に渦巻(うずま)く思いがあった。それは誰が自分達の仇(かたき)を取って、この無念を晴らしてくれるのかという思いだった。そんな養父の額を怪人は、弄(もてあそ)ぶように銃口で撫(な)でまわした。そして銃口を養父の目の前でピタリと止めた。
「あばよ。地獄に落ちな!」
サンに乗り移った許(ゆる)されざる者は、情けの欠片(かけら)も無い声でそう言った。そしてショットガンの引き金を限界まで引き絞った。
凄まじい轟音(ごうおん)がし、銃口が目を焼くストロボのように激しく発光した。
養父の頭部は、その瞬間、スイカをハンマーで砕(くだ)いたようにバラバラになって吹き飛んだ。血の臭いが偶像(ぐうぞう)となった養父の首からばら撒(ま)かれる。その血の臭いに怪人は笑みを浮かべた。それは陰惨極まりない光景だった。
頭部が無くなり、ナイフが深々と胸に突き刺さったままの養父の体は、やがて首を落とされた胴体(どうたい)のように力なく床に転がった。
脳漿(のうしょう)が飛び散りハロウィンの仮面に降り掛っても、怪人は、口を大きく裂きながらにやついていた。
怪人は復讐(ふくしゅう)を終えたように銃口をゆっくりと下げた。至福(しふく)のくぐもった笑い声を漏(も)らしながら。
雷鳴が轟(とどろ)き、大雨の降りしきる音が、以前よりも大きさを増し、息を吹き返したような音で部屋中をみたしていた。その中で、怪人はハロウィンの仮面に手を掛け、ゆっくりと仮面を脱(ぬ)ぎ始めた。再び雷鳴の轟音が轟き、仮面の下の顔が露(あらわ)になった。その顔は紛(まぎ)れもなく殺された養父と養母の養い子でありグリフ神父の友――サン・ブライアン少年の顔だった。
その目が血を吹き飛ばし、かっと大きく見開かれた。その口元は相変らずにやついてはいたが、両眼(りょうがん)からはとめどなく赤い血の涙が溢(あふ)れ出て頬を伝い落ちていた。それは、まるで二つの人格が同時に顔に現れているように見て取れた。
それは、血の涙を流し、嘆(なげ)き悲しむ少年の顔と、神への憎しみの心に満ちた悪魔の顔のようだった。
秋も終りの冷たい大雨の降りしきる、十一月一日、午後十時五十分の事だった。
悪夢の踏襲
厚(あつ)い雲に覆(おお)われ、月の光も差しこまない闇夜の中、先刻(せんこく)より激しさを増したどしゃぶりの雨が、古びたグリフ神父の教会の屋根の上で踊(おど)るように跳(は)ねている。
その屋根の下にある部屋の窓から、厚地の赤いカーテンを通して電灯の光が漏れている。その部屋は、他の教会の部屋とは一風変(いっぷうか)わっていて、蔵書(ぞうしょ)を入れる本棚が密集した森のように部屋の中を埋(う)め尽くしている。この部屋には、市販(しはん)されていない大量の悪魔に関する資料が保管されていた。その資料は、シャーマンの家系に代々伝わっている特別な物である。
グリフ神父は、その部屋の中で、机の上に革張(かわば)りの古びた本を広げ、ページを食い入るように読んでいた。それは代々、神教のシャーマンに伝えられていく神と悪魔に関わる全てについてシャーマンが記していく資料だ。内容は、全て肉筆(にくひつ)で記してある。
グリフ神父は、教会に帰ってくるなり、この部屋にこもり、今は今日農家で写真に収めた奇妙な足跡について調べている最中だった。
資料のページをめくりながら、グリフ神父は写真の足跡と一致(いっち)する情報を調べていた。
やがてペラペラとめくっていくと、悪魔の章のページにまるで見てきたような不気味な三本指の描かれた悪魔の足の絵が見つかった。
(あった……!)グリフ神父は、その絵と写真の足跡が一致するか丹念(たんねん)に調べた。
(……間違い無い)
グリフ神父は、天を仰(あお)ぐように顔を両手で覆い、椅子に腰掛ながらのけぞった。苦悩に満ちた深い落胆(らくたん)の溜息(ためいき)を長々と吐き、「神よ……」とかすれた声で呟く。そして、グリフ神父は、これから起ころうとしている事、自分がこれからやらなければならない事を考えた。
しかし、シャーマンである彼は、物心ついた時から、このような事態になった時の為の用意はしている。しかし、このような事態が来るとは、どうしても今までは思えなかった。なぜなら、このような事態が起こり、最悪の事態になる事は、本来この時代にはありえない事だったからだ。その為、シャーマンの資料にもこの時代の事はほとんど載(の)っていない。ただ、この足跡の事実は、グリフ神父に命を賭けて使命をまっとうする時が来たのだと言う事を突きつけていた。
最悪の事態……。
本当にそれが起こる可能性があるのか、その可能性は、どの程度の物なのか、グリフ神父はそれを調べる為、さらにページをめくった。そして最悪の事態を引き起こす者について記してあるページに辿りついた。そのページの章には悪魔王についてと書いてあった。
グリフ神父は、その章に記してある悪魔王復活の時の前兆(ぜんちょう)について調べていった。そこには、今、起こっている現象となんら変わらない現象が記されていた。
異常気象、大雨、洪水、鳴り響く雷、そして渦を巻く奇妙な赤茶けた暗雲。
それは、グリフ神父の恐れていた最悪の事態が起こる事を示していた。
グリフ神父は、絶望に胸を抱えながら重い溜息を吐き切り眉間を押さえた。
重い腕をページに添え、次のページをめくろうとした時、不意に雨音に混じり、教会の玄関の扉をたたく、くぐもった音がした。しばらくの後、又音がした。グリフ神父は、顔を上げ、このどしゃぶりの雨の中、一体誰が来たのだろうと思いながら、椅子から立ち上がり部屋から出ていった。
グリフ神父が部屋から出ていった後、その部屋の机の上の電灯が瞬(またた)き、風も無いのにグリフ神父の読んでいたシャーマンの資料のページがペラペラとめくれ、あるページが現れ止まった。そのページのタイトルは破壊の女神カーリー。そのページには悪魔王カーリーについて詳(くわ)しく記してあった。
――漆黒の肌を持つ破壊の女神カーリー。魔界を統(す)べる悪魔王の一人で、性格は好戦的であり残忍。争いを好む。心を操り人々を争いに駆りたて数々の争いを起こしてきた。その為、神により地獄に封じられた。その神の養護(ようご)する人類に対し強い敵対心を持ち、この世界を乗っ取ろうと企んでいる。
体には、今までに打ち倒した魔神の力を有し、カリ・ユガの時代に日食を伴い復活する。地獄で行方をくらまし今では消息は分からない――
しかしそれは、グリフ神父の目には永遠に止まる事はなかった。
十一月ニ日 雨が上がり夜が明けた。
悪夢の始まり
アメリカ合衆国 カルフォルニア州 ロサンゼルス
ウー、ウー、ウー……
地の底から響(ひび)いてくるような、たくさんのうめき声が聞こえる。ズルズルと足をひきずって歩く、たくさんの音が真っ暗な夜の闇の中から聞こえる。
不意にその音が、私の背後から近づいてくる。私はその方を見た。複数の動く死体が私に近寄ってくる。顔の肉が半分はがれた顔、顔半分がくさって肉がはがれ骨が見えている者。胴の肉がはがれ落ち、肋骨(ろっこつ)が剥き出しの者。女、男、子供、老人の死体が群れをなして歩きながら私に近寄ってくる。
私は恐怖に震え、闇夜の深い森の中を息を切らして必死で逃げる。しかし必死で逃げている私の目の前に、突如巨岩ほどの悪魔が舞い降り行く手を阻む。その姿は黒死病を模した人の描いた悪魔に似ている。刃のような黒い羽を私に向け威嚇する。私は後ろを慌てて振り返る。しかし後ろは動く死体の群れ、正面は、赤い目で鋭く睨む敵手がいる。私の体から冷や汗が吹き出し、心臓が早鐘(はやがね)のようになる。
「シーラ!!」
その時、頼もしい声が、死体の群れの後ろから聞こえてきた。群がるゾンビを切り崩しながら、その声の持ち主は、疾風(しっぷう)のような速さで私に近づいてくる。私は、その声に歓喜(かんき)し答える。
「ラリー!!」
その声の持ち主は、漆黒の鎧(よろい)に身を包んでいる。その姿は、まるで異世界の騎士のよう。
彼は私に近づくと、私を力強く自分の腕の中に抱き寄せる。
「シーラ、もう大丈夫だ!ここは僕に任せてくれ!!」彼の頼もしい声は、いつも私に限りない勇気を与えてくれる。
私は、彼の胸に抱かれ、そっと彼の胸に頬を寄せ安堵(あんど)する。そして思う。ああ、なんて頼もしく大きな胸なんだろう。ずっとこの胸に抱かれていたい……。
彼は私を必死に守りながら、私に近づく動く死体と私を執拗(しつよう)に襲おうとする悪魔と切り結ぶ。そう彼は、いつも私を助けてくれる……。いつも私を守ってくれる愛しい人……。
全ての敵を倒した彼は、私を抱き上げ、森の中を駆け抜ける。私の頬を冷たい風が撫でながら、私達は私達の聖地に向かって疾駆する。そこは、自然に出来た地下の洞窟(どうくつ)を利用した石造りのラビリンス。そして私達神教の叡智(えいち)を結集し造り上げた結界で守られている安全な場所だ。
彼は私をそこまで連れていくと、私を降ろし、私を安心させるように、私の肩にそっと手を置きながら囁(ささや)く。
「もう大丈夫だ、シーラ。どこか怪我(けが)していないか?」
張り詰めていた私の心の糸が一気に緩(ゆる)み、私は首を振って心の底から安堵する。
そして心からこう思う。この人の言う事ならなんでも信じられる……彼の手をずっと感じていたい……。
私の心に彼への愛と感謝の気持ちが泉のように湧いてくる。彼は、私の為に命を投げ打ってこの姿に転生(てんせい)した。私をそして世界を守る為に。私は瞳(ひとみ)を潤(うる)ませながら私の肩に添(そ)えられた彼の手の上にそっと自分の手を重ねる。彼を慕(した)う思いと共に、熱い吐息混じりに彼の名を呼ぶ。
「ラリー……ありがとう」
私は彼の目をじっと見つめる。彼の目は、海のような優しさをたたえた蒼天(そうてん)の色。そして彼の顔は、漆黒の異世界の兜(かぶと)で覆(おお)われている。でも少しも恐くは無い。その瞳が愛情を注いでくれる。
私は言い尽くせない感謝を込めてもう一度言う。
「ありがとう、ラリー。愛してるわ」
魂が引きつけ合うように彼にひしっと抱きつく。私は顔を上げ、彼とじっと見つめ合う。
私の中に熱い気持ちが溢れてくる。私は、頬を赤く染め、心が安らぎで満たされていくのを感じながら目を閉じた。私は、自分のこんなにも彼を愛する気持ちが自分の指先から全て伝わって欲しいと願い彼の背中に腕を回す。そして彼の背中を強く抱きしめる。自分を愛するより、彼の事を遥(はる)かに愛している事が伝わってほしい。そう願いながら、私は彼の首に腕を絡ませ口付をせがんだ。
彼が兜の下で微笑んだ気がした。
私は、彼の兜に手を添え、彼の顔を覆い隠している黒い兜をゆっくりとはずそうとする。
灼熱(しゃくねつ)の太陽のように熱く深いこの気持ちを一刻も早く彼に伝えるために……彼を少しでも近くに感じるために……。
私は、胸の高鳴りを感じながら、甘い陶酔の中で彼の黒い兜をゆっくりと持ち上げていく。兜の重さはまるで感じない。空気が滑(すべ)るように音もなく彼の兜が少しづつ持ちあがっていく。それに伴(ともな)い、兜の下からほのかな優しい蛍のような光が漏れ始める。愛しい人のおとがいが見えた。彼のそれは、春の木漏れ日のように微(かす)かに輝(かがや)いている。
口が見えた……彼の兜の下から現れる顔は後光を放って見える……。
私は、さらに兜を持ち上げる。胸躍らせながら……。
もうすぐ愛しい人の顔が見える……。
私は、たかぶる感情に酔(よ)いしれながら、期待で心躍らせた……。これが夢ではない事を願いながら。
突然、甘い陶酔(とうすい)の夢をぶち壊すように、けたたましい目覚ましの音が鳴り、ジェーンは、夢から一気に現実に引き戻されベッドの上で飛び起きた。
唐突に夢から引き戻された彼女は、しばらく寝癖(ねぐせ)のついたブロンドの髪のまま、目覚めの抜けない頭で、なにもない空間をぼんやり見ていた。
(又だ……)
最近になってよく見る夢。この夢を見た時は、目覚めても少しの間、夢の世界が現実なのか、夢からさめた世界が現実なのかわからなくなる。それほどリアリティーのある夢だ。
そして、この夢を見た後は、いつも決まって胸が締め付けられるような酷(ひど)く切ない気持ちになる。
――この女性の名は、ジェーン・ハリー。二十四歳。フォーマル社という会社でファッションデザインをやっているごく普通のOLである。今から六年前事故で両親を失ってから、今は、ロサンゼルスの郊外(こうがい)の一戸建てで一人で住んでいた――
ジェーンは、この頃よく見るこの夢の事を夢うつつの頭で考えていた。
この夢は、いくつものパターンがある。しかし必ず黒い騎士がでてくる。いつも自分の夢にでてくる、夢から覚めた後も強く印象に残っている黒い騎士……。
確か夢の中ではラリーと私は呼んでいた。一体あれは誰なんだろう……どうも夢の中の私は、シーラと言う女性でその人の事をよく知っていて、強く愛しているみたいだけど……。
それは痛いほどよく分かるのだ。そして、いつもその騎士の顔が見えそうになると夢から覚める……なぜなんだろう……。
ジェーンは額に手を当てしばらく考えこんでいた。でも何も明確な答えはでてこなかった。夢にそんな理屈(りくつ)を求める方がおかしいのかも知れない……そんな事を考えていたが、しばらくして我に返りはっとした。
ふと時計を見ると時間は、午後八時半過ぎをさしていた。ロサンゼルスの道路は、午前七時から九時位までが通勤ラッシュだ。
(いけない!もうこんな時間!)ジェーンは、不覚(ふかく)にも忙(いそが)しい朝に、のんきに考えこんだのを後悔した。慌てて着替えを始める。
寝室のクロゼットから取り出したのは、出社用の落ち着いた感じの淡いブラウンのビジネススーツ。下着からそれに着替え終わると、慌(あわただ)しく二階にある自分の寝室のドアを開け出ていった。
ジェーンは、急いでリビングを抜け、玄関に向かった。しかし玄関の前で、ジェーンは、急いでいるにもかかわらず立ち止まった。それは、出かける時には必ずするジェーンの取り決め事の為だった。
ジェーンは、玄関にある靴入(くつい)れの棚(たな)の上にある写真立てを片手に取った。それに収まっている写真には、今より一回り若いジェーンとそのジェーンを挟(はさ)むように両脇に立ち、幸せそうな笑みをたたえた今は亡きジェーンの父と母が映っていた。
それは、自分が思うに最も理想の家族だった。ジェーンもそう思っていたし、両親もそう思っていた。周りから見てもジェーンの家族はそう見えただろう。それは、写真の幸せそうな様子からも伺(うかが)える。決して作り物ではない家族愛のある温かな家庭だった。……しかし人生最大の不幸は、どうして人生最大の幸せを引き裂くように突然起こるのか。ジェーンの両親は、原因不明の事故で六年前、突然ジェーンの前からいなくなってしまった。まるで今まであった温かな家庭が、夢の中の出来事だったように。その時ジェーンは、まだ十七歳だった。
親戚(しんせき)から自分たちの養子にならないか?一緒に住まないかと何度も申し出はあったが、ジェーンは誰にも頼らずに一人で生きていく自立の道を選んだ。それは、ジェーンに対しての両親の教育の仕方にも一因があった。両親は、ジェーンが幼い頃から精神的にも経済的にも自立出来る強い子供に育てようと熱心だった。今にして思えば、まるで自分たちが自分の子供の前から早くにいなくなる事を予期していたかのように。しかしジェーンは、そんな両親の甘やかすだけではなく、そうして強い自分を培(つちか)ってくれた教育に感謝していた。それもひっくるめて理想の家族だったとジェーンは思っている。そんな訳で両親の思いでの詰まったこの家に、ジェーンは、今まで一人で住んできた。ただ、彼女は、早くにそんな家族を失ったため、早く結婚をして、両親のような温かい家族を築(きず)くのが、ささやかだけど切実な夢だった。でも、今では、それも夢では無くなりつつあった。今までの努力がかなって、会社の同僚でケインと言う男性と縁談(えんだん)が進んでいるのだ。それは、ジェーンにとって理想の相手だった。まさに今ジェーンは、幸福の絶頂にいるのだ。
ジェーンは、服の胸元から白銀色のネックレスを取り出してギュッと片手で握りしめた。そのネックレスは、幼き日のジェーンに、生前両親が、「これはお前を守ってくれるお守りだよ。肌身離さず持っていなさい」と言い聞かせ渡した物だった。今では遺品となり、今でもなぜ、いつも身につけていなければならないのかよく理由は分からないが、両親が何度も言い聞かせて来たので、今でも言い付けを守り肌身離さず持っている。それにこれを持っていると何故(なぜ)か両親がずっと側に居て守っていてくれる気がするのだ。
「パパ、ママ行って来るね」そうジェーンは、写真に向かって微笑みながら呟くと、朝食も取らずに、写真立てのある靴棚の籠(かご)の中に入っている車の鍵と家の鍵を取り、玄関のドアを開け、外に出た。急いで家の鍵をかけ、車に乗りこむ。
「さあ。今日はどんな事が待っているのかしら」
ジェーンは、微笑んでそう呟きながら、エンジンを素早くかけ、勤め先の会社に向かって車を走らせていった。
外は、昨日の大雨が嘘のように晴れたまぶしい陽光がさす青空だった。
時速五十キロ前後で車を走らす事二十四分。ジェーンは、ロサンゼルス名物の早朝のスモッグの中、朝の車の通勤ラッシュに巻き込まれていた。
ジェーンは、ロサンゼルスを通るフリーウェイのインターステート・ハイウェイ5の路上で赤い軽自動車の中、一向に進まない車の列にイライラしながら腕時計をチラッと見た。
もう既に勤務開始時間は、三十分も過ぎている。又部長にどやされる。もっと早く家から出るんだったと、心底悔やんだ。フロントガラスから遠方を目を細めて覗(のぞ)きこんでも、渋滞(じゅうたい)の列は、延々(えんえん)と続いている。どうあがいても今日は遅刻だ。
ジェーンは、がっくりとうなだれ、ハンドルに顔を埋(うず)めて恨めしそうに重い溜息をついた。
やっと渋滞から抜け出し、自分の勤める近代的なフォーマル社のビルが遠くに見えてきた。フォーマル社は、ロサンゼルス市内の外れにある、1982年に創業された夜会服を専門にしてきた会社だ。
この度(たび)、夜会服以外にもファッションの事業を拡張しようとし、そのファッションデザインを担当する一人になったのが、ジェーンである。
規模は、十階建ての自社ビルをもつ程で、従業員は、五十人前後。少数精鋭(しょうすうせいえい)の会社だ。
ジェーンは、フォーマル社の門を車でくぐり、会社の敷地内に入っていった。正面玄関のガラスの大きな自動ドアの前には、直径十メートル位の丸い噴水(ふんすい)が涼しそうに水を吹き上げている。その正面玄関の横にある三十メートル平方のフォーマル社専用の駐車場に車を入れ、自分専用の駐車スペースに車を停(と)めた。そして、そそくさと車を降り、車の鍵をかけ、足早に正面玄関の自動ドアから社内へと入っていった。
ざわつく、いつもの社内の中を、ジェーンは、半ば駆けながら、自分の部署のオフィスのある五階デザイン企画室にむかっていた。エレベーターで五階につくとデザイン企画室のある廊下をつかつかと早足で歩き、≪デザイン企画室≫と書いてあるプレートがかかったドアの前に辿りつく。ドアの向こうから異様に活気づいたやり取りの会話が聞こえてくる。ジェーンは、ドアを開け、「おはようございます……」といつもより小さな声で目立たないよう挨拶(あいさつ)し、中に入っていった。遅刻の理由どう書こうかしら。そんな事を考えながら。
中に入ると同僚のなじみの顔が見えてきた。その中に、躍動感ある流れる感じのショートボブヘヤーの髪型をした若い男性が、ジェーンの前方、五メートル程にある椅子に腰掛け、机に齧(かじ)りつくようにして仕事に没頭(ぼっとう)していた。
彼の名は、ケイン・クランク。二十七歳。愛着のある顔をし、紺のビジネススーツに身を包んだ彼こそがジェーンが縁談を進めている人であった。彼は、ジェーンよりニ年早くフォーマル社に入社した独身の優しく気のいい男で、ジェーンの先輩でもある。三年前ジェーンが新卒者として初めて入社してきた時、ジェーンと出会い、運命という名の計画の歯車が動きだしたように、お互い気になりだした。それはやがて友情から愛情へと変わりだし、ほのかに燃える魂の躍動(やくどう)になった。
彼は、椅子に座り仕事をしていたが、ジェーンが入ってくるのに気付くと、嬉しそうに顔を上げ、真っ先にかつぜつのいい声をかけてきた。
「やあ、ジェーン、おはよう!」
ジェーンは、内心ギクッとし顔を引き攣らせた。遅刻した後ろめたさから、なるべく目立たないように自分の席に着きたかったのだ。
ジェーンは、ばつの悪そうな顔をケインに向けた。無邪気とも言える朗らかな顔でケインが自分を見つめてくる。他の同僚達は、チラッとジェーンを見ただけで、自分達の仕事に余念が無いのか又仕事に戻り出す。
ほっとジェーンが胸を撫で下ろし、ケインに笑みを返す。その時、ふっと今朝の夢が思い出された。眼前の男性は、どこかここの所、夢に出てくる騎士に似た優しい臭いがある。
その想いに既視感のような物を感じたため、ジェーンの返した挨拶は物憂げな物になった。
「ハアイ、ケイン、おはよう……」
「おいおい、元気がないな。……もしかして、又、あの夢でもみたのかい?」
ケインが少し冷やかすように話し掛ける。
あの夢とは、今朝も見たジェーンが最近よくみる黒い騎士が出てくる妙にリアルなあの夢である。ジェーンは、それについて、ケインにも何度か話したことがあった。
ジェーンは、しばらく黙った後、「そうなの……このごろ立て続けに見るのよ。なにか良くない事でも起こるのかしら……」とぽつりと呟いた。
ここの所、その夢のせいで、仕事に対するポテンシャルが落ちている気がする。
そんなジェーンを元気付けるようにケインがいつもと変わらない調子で話し掛ける。
「気にするなよ、ジェーン。夢なんて体の調子でころころ変わる物だって何かの本に書いてあったぜ。このごろ会社の新事業のデザインで根詰めているだろ?きっとそれで、疲れているんだよ。
ゆっくり休めば君ならすぐに元気になれるさ」
「そ、そうかしら」ジェーンは、少し戸惑いながら答えた。しかしその言葉で、今朝の夢は、偶然みた気にすることはない物だと思い直す事にした。
「そ……そうね。わたし疲れているんだわ」ジェーンは、迷いを笑顔で断ち切り仕事に打ち込む為、気持ちを切り替えた。その笑顔を見て、ケインは安心したように笑った。
ジェーンは、ケインの席より奥にある自分の仕事場に足早に向かった。ケインの横を通り過ぎる時、ぽんとケインの肩を感謝を込め叩く。
自分の席に着いたジェーンは、一つ大きく伸びをしてから自分の横の席に居る親友を見やった。
そこにはケインと同じく熱心に仕事にうちこんでいる、つややかな黒髪を後ろで束ねたかわいい女性が座っている。
彼女の名は、真理子。二十五歳。最近、日本からやって来た、がんばりやの仕事熱心なキャリアウーマンである。
時間は、午後十一時を回っていた。
昼休みを告げるチャイムの音が、フォーマル社の社内に響いた。たいていの社員は、この時間を利用してランチを取る。ジェーン達もそうだった。
ジェーンは、仕事を止め、一息つき、椅子(いす)の上で伸びをした。それからケインを誘って社外にあるオープンカフェでランチをとろうとケインの席に向かった。すると、そこにジェーンと同じように仕事を止め、一息つきながら椅子の上で伸びをしているケインがいた。ケインは、近寄ってきたジェーンに気づき、「あ、ジェーン、これから一緒にランチをとらないかい?」と尋ねてきた。
「私もそう思ってたところよ」とジェーンは答え、お互い微笑みあい、つれあってオフィスのドアを開いて外に出ていく。それから廊下をつたい談笑しながらエレベーターに乗り一階へと降りていった。
エレベータが一階に着いた事を示すチャイムの音と共に、エレベーターの扉が開き、ジェーンとケインは、楽しそうに話し合い廊下に出てきた。
カツカツと靴音を立てながら廊下のタイルの上を歩き、玄関の自動ドアの前に立ち、談笑しながら自動ドアを開ける。それから二人は連れ立ってランチを取りにオープンカフェに向かった。
そのすぐ後、あんなに晴れ渡っていた青空は、不自然な程の異様な速さで、ロサンゼルスを中心に怪しく曇(くも)っていった。しかしジェーン達は、その事には気付いた様子もなく二人の間の楽しいおしゃべりに興(きょう)じていた。
ジェーン達は、フォーマル社から徒歩で数分のオープンカフェに着いた。クラシックのBGMが流れる落ち着いた感じのそのカフェには、白いパラソルとそれにコーディネートした白いプラスチィック製の丸いテーブルと数個の椅子が一揃(ひとそろ)えになって幾つも備えてある。
まばらな客が、それに腰掛け、ランチを取りながら雑談に興じている。ジェーン達のような会社員を主(おも)なターゲットにした巷(ちまた)にありふれたカフェだった。取り立てて特徴(とくちょう)はないが、特筆すべきは店員の愛想の良さだろう。ジェーンは、そこが気に入って仕事に疲れた時などの息抜きによく来ていた。
ジェーンとケインは、その中の空いている席に座った。ほどなく若い女のウエイトレスが、「いらっしゃいませ」と、にこやかな会釈(えしゃく)と共にやってきた。テーブルの上に水を湛(たた)えたグラスを二つ置きながら注文を聞いてくる。
二人は、ランチとコーヒーをにこやかな笑顔でオーダーした。
しばらくして、ランチがテーブルに運ばれてくる前に、ケインが、「食事の前に手を洗ってくるよ」と言って立ちあがった。ジェーンは、一瞬、「手をきれいにするなら、おしぼりがあるじゃない」と言いそうになったが、ケインがトイレに行きたいのだと言う事に気付いて、可笑しさをこらえながら、「どうぞ」と答えた。ケインは、本音を読まれ少しばつが悪そうな顔をした後、カフェの奥にあるトイレに向かって早足に歩いていった。
時間は午後十二時五十八分を指していた。
会社についた二人は、仕事が終ったら一緒に食事を取る事を約束した後、オフィスに戻り、それぞれの仕事に取り掛かった。
そして時間は一時間、ニ時間、三時間……と無事に何事もなく過ぎていった。
午後十時四十九分。
ロサンゼルスの夜闇の中、フォーマル社前を終点にする赤いバスが緩やかに走っている。
バスの中には、終点間近でお客はみんなすでにおりてしまっていて運転手しかいない。
フォーマル社の壁の時計が、丁度、午後十一時を指した頃、ジェーンのいるオフィスに異変が起こり始めた。
始めは、ジェーンから二十メートル程離れたオフィスの天井の蛍光灯が瞬き、ふっと切れただけだった。ただの電灯切れ、そうジェーンは思い、気にもとめなかった。その時だった。
切れた電灯が破裂したような音を立て唐突に割れた。これにはジェーンも驚き、はっとして割れた電灯に目をむけた。すると何と言う事か、今度は今割れた蛍光灯よりジェーン側にある隣の蛍光灯が続けて破裂した。そして又隣その又隣と連鎖爆発するように次々と割れ出し始めた。それはまるでジェーンに向かって襲って来るような感じだ。
ジェーンは異常な雰囲気を感じ、椅子から飛び上がる様に立ちあがった。
ポルターガイスト!?ジェーンは、そう思い顔を凍らせ息を詰まらせた。
しばらくして、騒ぎを聞きつけた一台のパトカーが、けたたましいサイレンをならしながら現場にやってきた。
パトカーから降りてきた中年の警官は、玄関に突っ込んで激しく炎上するバスを見て、愕然とした。何年も警察に勤務(きんむ)しているが、このような大惨事は、めったに目にする事はない。誰か被害者がいないか警官は辺りを見渡したが、誰も見当たらない。しかし、ふと地面を見てみると、何か濡れた物が地面を這ったような跡がついている。その跡を警官は辿っていった。すると誰かがその先にいるような切羽詰った荒い息づかいが聞こえる。その気配のする方向に懐中電灯の光りを当てると、そこには、冷たい外気の中、濡れたまま座り込み、震えている若い女性がいた。
「どうしました?」
警官はギョッとしながらも、努めて自分を落ちつかせるように声を掛けた。
女性は呆然とした表情で何も答えない。
警官は、急いで女性の元に駆け寄り、被害者であろうその女性の意識をはっきりさせるように強い口調で尋ねた。
「一体何があったんですか?」
尋常では無い事件の被害者である女性――ジェーンは、虚ろな目でうつむいたまま押し黙っている。
「大丈夫ですか!」
警官がジェーンの肩をゆすり、我にかえらそうと声をかけた。ジェーンは、その時初めて警官とは視線を合わせず、独り言のように震えた声で呟いた。
「な、何か得体の知れない物がっ……!」
それを見聞きした警官は、今はまともに話せる状態じゃないと判断したのか、ジェーンにどこか怪我をしていないか尋ねてからジェーンの腕を掴み立ちあがらせようとした。しかしジェーンは、腰が抜けたままで、うまく立ち上がれない。その時、他のパトカーと消防車が、どこかジェーンには実感の伴なわないサイレンを鳴らしながらやってきた。
現場に着くなり職員達が数名車から降りてくる。
「担架をくれ!」
ジェーンを介抱(かいほう)している警官は、その方向に振り向き、後からやって来た仲間に向かって言った。
「大丈夫ですよ。すぐに病院に搬送(はんそう)しますから」被害者を安心させるために言ったが、強いショックを受けていたジェーンには、気休めにもならなかった。
駆け寄ってきた警官達は、ジェーンの意識を保たせようと、ジェーンの名前や住所、現場に他に人がいなかったかなどを聞いたり話しかけたりしてきた。
ジェーンは、なんとか少し気を取り持ち、自分と自分を助けてくれた者以外に現場には誰もいなかったように思うと答えた。バスに衝突される直前に自分を助けた者が、幽霊のように消え去った者だったとしてもそれを警官達に伝える気にはなれない。
それを聞き、その中の一人の警官が、胸ポケットにしまっていた警察無線を取り出し本部に連絡を入れた。
「こちらフォーマル社前。ただいま被害者を一名保護しました。被害者は混乱し、衰弱している模様。至急救急車を一台お願いします」
「了解しました」
スピーカー独特の声が聞こえた後、音が途切れた。
他の警官や消防職員達は、ジェーンに二人付き添いを残し、迅速(じんそく)に消火活動や他に人がいないかなどの職務を遂行し始めた。
やがて悪夢の時を告げるようなサイレンの音を鳴らし、一台の救急車が現場にやって来た。
荒々しくドアが開かれる音がし、救急車から職員が降りてきて、救急車の後部ドアを開いた。
ジェーンは、すぐさま担架(たんか)に乗せられ、その中へと運ばれていった。
ジェーンは、複数のサイレンの赤い光りが、サーチライトのように交差する光景を、まるで悪夢の真っ直中にいるように感じながら見つめていた。心の中は、ただひたすら又この恐怖が襲ってこないかを恐れるばかりだった。体はまだ危機が完全には去っていない事を敏感に感じているようにガタガタと震えていた。
ジェーンを収容し終わり、救急車の後部ドアが閉められた。
ジェーンに付き添って乗り込んできた職員が、ジェーンの体を点検(てんけん)し終わった後、「大丈夫ですよ。体に別状はないですから」と笑顔で語り掛けてきたが、それすらも何かジェーンの耳には空々しい。
ジェーンは黙ったまま目を閉じた。そして、今見ている現実が夢であって欲しいと願いながら、全てを忘れさせてくれる眠りの中へ、安息を求めながら落ちて行った。
救急車は緩やかに発進し、夜の闇にサイレンを轟かせながら、何処までも続く先の見えないハイウェイを疾駆していった。
白の悪夢
目覚めた時は、生温かい空気を感じる白い壁に囲まれた殺風景な薄暗い部屋の中だった。
目には、自分を頭上から覗き込んでいる数人の顔がおぼろげに映った。
ほっとしたようなケインの顔。
禿頭(とくとう)の目付きの鋭いグレーのスーツを着た見知らぬ小太りの初老の男性。
やや険しい顔で自分を立って見下ろす、痩せた白衣の中年男性。それに付き添っているまだ若い看護婦。
ジェーンは夢現(ゆめうつつ)のまま辺りを視線でなぞった。
部屋を仕切る薄いカーテンがオレンジ色の電灯で淡く照らされている。
どうやらここは病院らしい。そして自分はベッドで寝かされているようだ。その事に気付いた時、意識が鮮明になった。
ケインの温かい手が自分の手をいたわる様に握っている。自分のその腕には点滴が施(ほどこ)してあった。
「ケイン来てくれたの……」ジェーンは、ケインの顔を見て、バスの一件以来初めて一息つけた気がしてケインに語りかける事が出来た。
「君が事故に巻き込まれたって聞いてっ……心配したんだぞっ。でも無事で本当によかった」
ケインは、悲痛が混じった表情になりながらも、ジェーンの額(ひたい)を愛(いと)しそうに撫でながら言った。その仕草や表情から、ケインが自分の事を痛いほど思ってくれている事を今更(いまさら)ながらジェーンは感じた。嬉しさと共に心配かけたすまなさが心に湧き起こる。
「ごめんなさい。心配かけて」
ジェーンはその思いを声に宿し、安心させようと微笑んで応えた。
「いいんだ。君が無事なら」ケインは、温かい目でジェーンを諭(さと)した。
ケインの優しさに触れ、ジェーンは、もう少しで殺されそうになった恐怖心が氷解したのを感じた。と同時に全てを打ち明け、ケインに泣き付きたくなる衝動が湧き起こる。
しかしジェーンは、ぐっと堪え、微笑んで言った。
「大丈夫よ。もう心配しないで」
ジェーンは、生きてケインに会えた事を心から感謝していた。ケインが握ってくれている手を強く握り返す。
「ゴホン!」
一つ大きな咳払いを白衣の男性がした。多分自分の担当の医師だろう。何故かその医師はいらだった咳払いでジェーンとケインのやり取りが早く終るように促した。
ケインとジェーンがその医師に目線を向けると、医師は冷めた口調で語り掛けてきた。
「私はここで心療内科医をやっているモーリス・ロイドと言う者です。別に心配はいりませんよ。精神的ショックを受けているだけで、どこにも損傷はないですから」
ケイン達は、それが自分達を安心させる為の言葉と受け取り、礼を言った。
「では、私は医務室に戻りますが、何かあればナースコールで呼んで下さい」
医師は、にこりともせず、素っ気無い口調で応えると、白衣を翻(ひるがえ)し、看護婦と一緒にスタスタとジェーンの病室から出ていってしまった。
その様子に、何かジェーンとケインは釈然(しゃくぜん)としない違和感を感じたが、取り付く暇も無く、傍(かたわ)らにいたグレーのスーツを着た禿頭の初老の男性が首をすくめてぼやいた。
「嫌な医者だな。あれはヤブだな」
そう言うと、シニカルに微笑みながらジェーンに語り掛けてきた。
「えー、ジェーンさん。私はロサンゼルス市警のライトマンという者です」そう名乗った警官は、警察手帳を胸ポケットから取り出して、ジェーンの目の前に掲(かか)げた。そしてすぐにそれをしまい、「質問したい事があるのですが、よろしいですかな?」と言ってきた。
ケインは明日にしてくれと言う顔をしたが、ジェーンは、「分かりました……」と答えた。
ライトマン警部はうなずいてから、さっとポケットから手帳を取り出した。そしてペンを身構え質問し始めた。
「まず……あなたを襲ったバスを運転して死んだ者についてですが、この顔に見覚えはありますかな?」そう言ってライトマン警部は、浅黒い肌をした真面目そうな一人の中年男性が、バストアップで写っている写真を差し出した。
ジェーンは、この人が自分を殺そうとした者で、しかも、もうこの世にはいない事を思うと、写真を手に取ることさえ億劫(おっくう)だったが、捜査の協力の為と思い手に取った。
ライトマン警部が、「その男の名は、アルバート・レイルト。メキシコ系移民です」と付け加えた。ジェーンは軽く頷(うなず)いた後、今までの人生の中で、この男と会った事は無いか、注意深く記憶を辿りながらまじまじと見つめた。しかしどう記憶を辿っても、その男が自分の人生の中で出てきた記憶に行き着く事は無かった。ジェーンは首を振りながら、「いいえ。会った事はありません」と答えるしか無かった。
「間違いは無いかね?」警官ライトマンは再度確認した。
「ええ。名前にも聞き覚えがありません」
「……被疑者とは接点が無い……。うーむ……。これはおかしい」
そう言って、ライトマン警部は、難しい顔で考え込みながら、ペンで頭をポリポリと掻いた。そして一呼吸置いた後、ライトマン警部は、堰(せき)を切ったように語り始めた。
「ジェーンさん。明らかにこの運転手は、何か目的があってビルに突っ込んだんですよ。その証拠にブレーキの跡は全く付いていなかった。そしてそこには見計らったようにあなたがいた。……もう一度よく思い出してください。何か身に覚えはありませんか?例えば何か恨みを買っていたとか」ライトマン警部は、少し語気を強めて言った。
ケインはそれを聞き、「バカな!ジェーンはそんな人じゃない!」と語気を荒げ返した。
しかしジェーンは、いいのよ、という表情をケインに向けながら、それを手で柔らかく制した。
「これは失礼。では質問を変えましょう。ジェーンさん。あなたが今日遅くまで会社に居残っていたのを知っていた者は、いませんでしたか?」
ジェーンは、ケインの方をチラッと見た。今日、自分がその時間まで会社にいた事を知っていたのはケインだけだ。
「たぶん……、僕だけです」ケインが呟くような口調で言った。
その頃、ジェーンの病室から医務室に向かって、頬のこけたジェーンの担当医師、モーリス・ロイドは、うつむき加減でニヤニヤしながら、青白い蛍光灯で照らされている廊下の中を一人で歩いていた。
もう深夜で、廊下はゴーストタウンのようにひっそりと静まり、誰もすれ違う者はいない。
端(はた)から見れば、人の気配のしない深夜の病院は、やはり何か得たいの知れない恐さを感じさせる。しかしこの神経質そうな医師は、そんな事は頭に無かった。この医師の頭の中は、これから待っている淫靡(いんび)な行為の事で一杯だった。
モーリスは、日ごろから手を着けていた若い看護婦と、深夜の医務室で淫靡な密会を日常的に重ねていた。初めは、彼女も医務室でそんな行為をするのは不謹慎(ふきんしん)だと嫌がっていたが、モーリスの巧みな技で、いつ誰が行為の途中で割りこんでくるかも知れない刺激的なシチュエーションに、すっかりはまるようになってしまっていた。そして今日もその約束をして、看護婦を医務室に待たせてジェーンを診断して来た所だった。
それゆえ、ジェーンを診断している時も、この事で心は全く上の空だった。
モーリスは、わざと自分を焦(じ)らすように、はやる気持ちを楽しみながら、歩調を抑えた。しかし患者の病室と医務室はそんなに離れてはいない。目指す所にはすぐに着いた。
モーリスは、心臓を高鳴らし、顔を紅潮(こうちょう)させながら、医務室のドアのノブに手を掛けた。そして、又、自分を焦らすように、行為の事を考えて自然と荒くなった息をなるべく抑えようと深呼吸する。ついでに、ズボンを屹立(きつりつ)させている物も抑えようとした。自分はいつでも紳士的だと言う事をなるべく見せる為だ。だが堪えきれず、ニヤリと厭(いや)らしい笑みを浮かべ、医務室のチタンのドアをスライドさせ、ゆっくりと引き開けた。
医務室の中には、約束通り、一人のまだ若い少しぽっちゃりとした一人の看護婦が、ナース服を着たまま淫靡な笑みを浮かべていた。
挑発するように、普段モーリスが腰掛けている椅子に足を組んで座っている。彼女は、遠目に見てもそそられるナイスな体付きだ。
モーリスは、ごくりと生唾を飲み込んだ。そして心の中で、厭らしく舌なめずりした。
モーリスは、にやつく顔で部屋の中に踏み込み、中に入るとドアをゆっくり閉め、鍵をカチリと掛けた。そして発情期の動物のようなギラギラした目を看護婦の体に浴びせながら看護婦に歩み寄る。
「やあ。待ったかい?ジェシコ」
医師は、にんまりとして声を掛けた。
「待ちわびたわ」ジェシコと呼ばれた看護婦も、同じようなギラギラした目で答えた。
モーリスは、その看護婦の所まで行くと、その看護婦の肩を撫でるように指を這わせた。そのまま指を看護婦の豊満な胸まで持っていく。看護婦は、「うっ……」と吐息混じりの喘(あえ)ぎ声を漏らし、うっとりと目を閉じた。その反応を見て、たまらなくなったモーリスは、興奮し一気に開いた胸元から手を入れた。彼女は、嬉しい事にノーブラだった。
モーリスは、鼻息も荒く、彼女のもう既に立っている乳首を掌で撫で擦りながら、強く胸を揉(も)みしだいた。彼女の揉み応えのある乳房は、水に浸した綿のようにしっとりとしていて、吸い付くように柔らかい。そうしながら、モーリスは、器用に手馴れた感じで、ナース服の胸元のボタンを外した。ぽろんと看護婦の豊満な乳房がナース服からこぼれ出る。
二人とも興奮高まり、熱い吐息を掛け合いながら、ねっとりとしたキスをした。
まさか医者と看護婦がこんな所で、こんな事をしているとは、患者は夢にも思わないだろうな。そうモーリスは思いながら、さらに勃起を強めた。そのシチュエーションがたまらなく淫靡で刺激的なのだ。
「はあ、はあ……はあ!」と興奮は絶頂近くまで高まり、二人とも、もう我慢できない様子だ。
モーリスは、「愛してる!ジェシコ!」と言い、スカートを捲(まく)り上げ、彼女の尻を側の机に降ろした。荒々しい手で彼女の股を開かせる。
ジェシコは、別に恥ずかしがる様子も無く、「いいわよ、来て!」と淫靡な笑みを浮かべながら、さらにモーリスを猫なで声で挑発した。
モーリスは、もう我慢できずに、普段は装(よそお)っている紳士の仮面を脱ぎ去り、本能の赴(おもむ)くままに、女の体を求め始めた。
まず、何日も何も食べていないように、柔らかい唇にむしゃぶりついた。そして舌を彼女の口内に這わすように挿入した。モーリスが、目を閉じて、その感触を楽しんでいると、ジェシコは、もう離れたくないといわんばかりに、腕をモーリスの首に絡(から)ませてきた。彼女も情熱的だ。
モーリスもそれに応え、腕を彼女のうなじに絡ませ、グッと彼女の顔を引き寄せる。それからさらに彼女の唇を自分の唇に押しつけた。そうしながらも、モーリスは、彼女の太ももを荒い手つきでまさぐっていた。
ねっとりとした唾液(だえき)が混ざり合い、甘い恍惚感(こうこつかん)が高まった。
モーリスが、堪らなくなり、次の段階に進もうとした時、むさぼるように接吻(せっぷん)していた口の中に、奇妙な味が広がった。何か甘ったるいような、重々しい、何とも味わった事の無い味だった。それは、とろろ芋(いも)のようにドロドロと舌に粘(ねば)ついてきた。唾液にしては変だ。
モーリスは、それに奇妙な危機感を感じ、目をうっすらと開けた。しかし次の瞬間、ギョッ!とし、目を見開いた。
自分が夢中になり、熱く接吻していた女の顔が、まるで強酸を浴びたように、溶け出していたのだ。その顔は、吐き気を否応無く催(もよお)す、ホラー映画でしかお目に掛れないような醜悪(しゅうあく)な物だった。
皮膚がドロドロに溶け、赤黒い肉が剥き出し、その中の電子コードのような無数の青い血管さえ溶けかけているのがはっきり見える。
まるでゾンビの顔その物だ。
頭蓋骨(ずがいこつ)から顔の肉が滴り落ちるのは、時間の問題に見える程だ。
モーリスは、心臓が口から飛び出そうなくらい驚愕に震えた。
「うううっー!」
血相を変え、必死に口を離そうとする。しかしそれはすぐにねじ伏せられた。
人間の女と信じて疑わなかった者が、自分の首に絡めていたおぞましい腕を解いたと思ったら、今度は万力のようにモーリスの頭をその両手で挟(はさ)んだのだ。それは、人の力とはとても思えない凄まじい力だった。モーリスの頭は、ピクリとも動かせなくなった。
モーリスは、ガタガタと体を震わせ失禁した。
(これは夢だ!こんな事、現実にあるわけないじゃないか!)
モーリスは、必死になって現実を打ち消そうとした。しかしこの強烈な体験の中、そう思いこもうとするのは、しょせん無理な話しだった。
甘い果実のような口付が、一瞬にして、凍りつくような悪夢の口付に変わった。全身に身の毛もよだつ鳥肌がたっていく。
モーリスは、最早生きている心地がしなかった。こんな変性作用のような現象が人間に起こるはずが無い。しかし今五感で味わっているのが現実なのだ。この事態について自分が無知に等しい事を思い知らされ、モーリスは死が現実的に迫っているのを$(辻簫ぢ(るいるい)と感じた。
大量の冷や汗が、どっと体中から吹き出る。
このままでは殺される!!
吐き気を催しながら本能的にそう悟った。
モーリスは、ショックで失神しかけながら、まだ悪夢の口付を続けさせられた。
モーリスは、看護婦が何故こうなったのか、看護婦がどうなったのかなどは、今はどうでもよかった。これから自分の身に一体何が起こるのか!?それが全てだった。
不意に口の中に、今までよりもドロドロとした酷く気持ちの悪い液体が侵入し始めた。
それにつれて、怪物の顔の肉が自分の口に吸い込まれるように移動していく。モーリスは、目の端が切れそうなほど、目を大きく見開き、目から粘液を滲(にじ)ませた。
自分が身も毛もよだつモンスターの肉を食わさそうになっている事に気付いたのだ。一体この化け物が何の為にこんな事をするのかモーリスにはまだ分からない。
さらに悪夢は、その様相(ようそう)を増していった。
化け物の顔は、目が溶け、耳が溶け、鼻が溶け、顔中の肉が溶け、ごちゃごちゃに混ざり合った。ついには、モーリスの口が吸い付けられている化け物の口まで溶け出した。その形相は、まるで人肉のミックスジュースだ。
モーリスは、出るものは全て出しきってしまい、もう救いを求める恐怖の表現方法が残されていなかった。悲鳴を出そうにも口の中には、汚水のようなドロドロとした液体が、口一杯に入り込み、声を出す事はおろか、息をする事も出来ない。
そのねばねばしたおぞましい液体は、喉(のど)を突く様に胃の中に侵入し始めた。
(なっ!、何をする気だ!?やめろっ!!やめてくれー!!)
モーリスは、驚倒(きょうとう)し、絶望に痺れ、必死になって、まだ自由な手足で化け物の体を殴打した。しかしまるでゲル状の物体を殴っているような、わずかな手応えがあるだけで、化け物は、モーリスの体内にかまわず自分の組織を入れ続ける。
溶けた顔の肉の大部分が、胃の中に入り込み、化け物の頭蓋骨が露(あらわ)になってきた。それは、何故か人の頭蓋骨と何ら変わらない物だった。
モーリスは、それを見て卒倒しかけた。その姿が、自分のなれの果てと気付いたのだ。
(い、嫌だ!!こ、こんな死に方したくない!!)
そんな叫びをあざ笑うように、食道をうごめかしながら、胃の中に流入する組織の勢いは増していく。
(だ、誰か助けてくれー!!た、助けて神様!!)
モーリスは、わらにもすがる思いで必死に祈った。しかしその祈りは、永遠に届かなくなった。
蛇口から水がほとばしる勢いで、全ての化け物の組織が、卵の殻(から)がつるりとむけるように自らの骨だけを残し、一気にモーリスの体内に滑りこんだ。
食道が一気に押し広がり、巨大な芋虫が体内を這っているように、胸の表面がビクンビクンと蠢(うごめ)く。
モーリスは、生き肝(ぎも)を全て引きずり出されるような表情で苦悶(くもん)し、目を白黒させながら激しく痙攣(けいれん)した。
気の遠くなる苦痛と共に、急激な速さで、自分の体が何かに乗っ取られていくのを感じる。モーリスは、儚く抵抗したが、もう命運は尽きていた。
モーリスの意識は、闇に覆い尽くされるように、やがて消滅していった。
それからしばらく、モーリスの体は、ピクピクと電流を流されているように震えていた。やがてそれもなくなり、ピクリとも動かなくなる。
口から泡を吹いて、体から体液を垂れ流しているモーリスの顔の目は、もう完全に白目を剥いていた。
今や骨だけとなり、モーリスの体を押さえつけていた化け物の体は、役目を終え、捨てられた物のように乾(かわ)いた音を立て床に崩れ落ちた。それに伴い、モーリスの体もドサッと床に倒れこむ。
後には、消化しかかった骨の山と、死体のように動かない哀れな中年の体が横たわっているだけだ。
しばらくして、その部屋の壁時計の針が、静かに午前二時を指す音が室内に響いた。
突然、モーリスの体が、蘇生(そせい)したように、ビクビクと脈動(みゃくどう)し始めた。
「うううっ……」
モーリスは呻き、頭を手で押さえながら、よろよろと立ち上がった。
どっかと仕事に疲れ果てたサラリーマンのように、看護婦の座っていた椅子に座り込む。
モーリスは、意識をはっきりさせるかのように、頭を左右に振った。
三十分
ジェーンの病室の壁時計の針が、新たな運命の歯車が、動き出したのを告げるように、午前二時十分を指し示した。
ジェーンは、白いベッドの上で、軽い寝息を立て、日頃から仕事で溜まっていた疲れと数時間前に受けた強いショックを癒すように熟睡していた。
ジェーンは、夢を見ていた。何処か懐かしい不思議な夢を……
夢の中で彼女は、現実と同じようにベッドに寝かされていた。ただそこは、病院の病室では無く、自然の香りが鼻腔染みる粗末な木で造られた小屋の中だった。
その小屋の中には、窓が一つも見当たらないのに、何故か光りが自分の周辺を覆っている。その光りは、電灯や蝋燭(ろうそく)などの光の色ではない。太陽の光が直接、帯のように差し込んでいるような白く眩しい光りだ。その光りの帯びの元を目で辿ると、天井に幾つか鏡が備え付けられているのが見えた。その鏡に、小屋の小さな隙間を通し、小屋の外から差しこむ僅かな太陽の光が反射され、自分の周辺をスポットライトのように照らしているのだ。
彼女は、その光りに急かされるように夢の中で目を覚ましたのだった。
突然、木造の床をきしますような音がして、誰かが自分の方に近寄ってくる気配がした。
「誰?」
彼女はギクリとし尋ねた。小屋の中は、自分の周りにしか光りは届いては無く、音のする方向は、暗くて何が居るのかよく見えない。
彼女は、重く軋(きし)む木製のベッドの上で、上半身だけ起き上がらせて、身構えた。
「目が覚めたか。シーラ」
穏やかな声がし、部屋の暗闇の中から、確かに見覚えのある優しい顔つきをした一人の老翁(ろうおう)が現れた。
「……ファーディー師父だったの」
彼女が、その名を口にした途端、彼女の体から緊張がスウーと抜けていった。ほっと胸を撫で下ろす。
自分が誰の名を言ったのか、今の彼女には、よく分かっていた。この人は、自分を育ててくれた大切な育ての親。
その老父は、木で出来たコップを手に持っていた。彼女は、喉に渇きを覚え、丁度何か飲み物が欲しい所だった。
その老父は、我が子をいたわる様に彼女の背中に手を廻し、上半身を支えながら彼女にコップに満ちた水を与えた。彼女は、喉を鳴らしながら、コクコクと一気に飲みほした。
水を飲み、幾分心が落ち着き、現状を確認する余裕が出来た。彼女は、その老父に尋ねた。
「ここはどこ?どうして私はここにいるの?」
ファーディーと呼ばれた老父は、一瞬、やや不可思議な表情を見せたが、やがて淡々と話し始めた。
「今は、西暦1582年。場所は、フランス南部のとある場所だ。そして今は、甦った悪魔との戦いが最も激化している所だ。……救世主よ。あなたは、その戦いで深手を負い、我々は、ここであなたを守りながら、あなたの回復を待っていた」
言葉尻は微かに震えていた。一瞬老父の額に悔しさが滲んだのを彼女は見逃さなかった。その表情を老父がなるべく自分に見せないようにと努めている理由が彼女には良く分かっていた。
その戦いで多くの仲間達を失ったのだ。
彼女は、ようやく全てを思い出した。自分が何者で、何の為に生まれてきのかも。
自分は、シーラ・ニキアという女性で、この世を救う事を義務付けられた者だと言う事を。
「そう……。そうだったわね……」
彼女は無残な現実を思い出し、目を伏せ寂しそうに呟いた。
しかし老父はそれを見て、静かに毅然(きぜん)として言った。
「気をしっかりと持つのだ、シーラ。お前が生きている限り、我々の希望は、決して消えはせん」
老父は、彼女の心の重荷が少しでも軽くなるようにと慰(なぐさ)めた。
「……分かっているわ……」
彼女は、それでもやりきれない思いで胸を痛め、重くなった頭を額に手を当て支えながら答えた。
そして死んでいった仲間に思いを馳(は)せ、切実に冥福を祈った。その時、はっと自分にとって、今、最も大事な事に気がついた。
最愛のラリーの安否(あんぴ)だ。
彼女は、崖から転がり落ちる寸前のような顔で懇願(こんがん)するように訊いた。
「ラリーは!ラリーは何処?ラリーは、無事?」
老父は、一時、押し黙ってしまったが、すぐに安らぎの笑みを浮かべ言った。
「大丈夫だ。心配するな。ラリーは無事だ。今は、ここを守る為、見張りに行っている」
それを聞いて、彼女は心の底から安堵した。張り詰めていた体中の力が溶けるように抜けて行く。
「よかった……」
息を詰まらせ、水面から出てきたような思いだった。
そう一息ついた時、不意に、お腹に重りが乗っているような感覚が襲ってきた。彼女は、少し当惑しながら自分のお腹に視線を合わせた。気のせいなのだろうか、何もお腹の上には乗っかっていない。
それを見た老父は、心痛を抑えきれない面持ちになり、彼女の白い服の裾(すそ)を掴み、お腹辺りまでゆっくりとめくり上げていった。
彼女は、一瞬恥らったが、それが何の為かすぐに分かりじっとした。
それは、先の大戦で深手を負った彼女の腹の傷を診断する為だった。彼女の白いお腹には、木の根が張ったような生々しい傷跡があった。まだ出来てから月日が経っていないようで、まだ治りきってはいない。
老父は、その傷を熱心に診察していた。しかし眉を僅かに顰(ひそ)めた後、服の裾を元に戻して言った。
「……シーラ、痛むか?」
彼女は、首を左右に振り答えた。
「少し気分が悪いけど、大丈夫よ。時期に良くなるわ」
老父は、それを聞き、彼女の手を強く握った。その手は、父親の愛情を感じる温かな感触だった。だが別の物も伝わってきた。それは何か切羽詰り、何か大切な物を繋(つな)ぎ止めようとする強い思いに感じられた。
老父は、彼女に諭すように語り掛けた。
「シーラ。良く聞きなさい。目を閉じて、深く呼吸をし、私の気と自分の気を同調させるのだ」そう言うと、老父は、服越しに、彼女のお腹の傷の上に手をかざした。
彼女は、頷(うなず)いて言われた通りにした。
老父の手と彼女のお腹の間の空間が、微震動し、老父のかざした掌から、柔らかな青白い光りの粒子が無数に出現した。それらはまるで、宇宙の星の輝きのように神秘的で美しい。それらが彼女の蜘蛛のように張りついた傷跡に向かって降り注ぎ始めた。
彼女は、母なる大宇宙に抱かれているような暖かな安らぎを感じ、傷が癒(いや)されていくのを実感していた。
しばらく、その光景は続いたが、やがて老父が息を切らし、どっと疲れ込んだような溜息を漏らし、治療を中断した。
老父は言った。
「私の力では、ここまでが限界だ。後は、お前の回復能力に任せるしかない。しかしもう峠は越えたようだ。安心しなさい」
彼女は、瞑想から覚めたようにゆっくりと目を開け、老父に優しく微笑みかけ言った。
「充分よ。だいぶ楽になったわ。ありがとう」
そう言いながら、その時ふと、老父の顔が自分が知っているより、生気の無い、青白い顔色だと言う事に気がついた。今までそれは見えてはいたが、他の事で頭が一杯で気がつかなかった。自分の眠っている間に何か大変な事があったのだろうか。
彼女は、探るように訊いた。
「顔色が悪いけど、どうしたの?」
老父は、一瞬、押し黙って何か考えているような態度を見せたが、かぶりを振り、「大丈夫だ。何でも無い」と答えた。しかし彼女は、その態度を見て悟った。自分の育ての親は、自分の魂を使い、彼女の傷を自分が眠っている間、ずっと癒し続けていたと言う事に。
その技は、エナジードレインの逆作用を使い、自分の魂を削って相手の傷を癒したりする大変危険を伴(ともな)う物だ。力の調節を誤り、使い過ぎれば、生命の源である魂を維持できなくなり、魂がロストすることさえある。例えそうならなくても、使えば必ず寿命は大きく削られる。それは、その力を使わなければならない程、自分の傷は、重症だったと言う事なのだが……。
そんな危険な技を老父は、彼女の為に、ずっと使い続けていたのだ。
彼女は、それを知った時、ありがたいと言うより、やりきれない悲しみが込み上げた。
今までも多くの大切な仲間を失ってきたのに、この上、自分の大切な親さえ失ってしまうのは耐えきれない。
彼女は、老父の手を優しく握り、「無理しないで」と切実に言った。老父は、少し微笑み、彼女の頭を撫でながら、「それが、シャーマンである私の使命だから」と言った。
「でも……」彼女は、伏し目がちに言ったが、老父は、すっくと立ち上がると、彼女に言った。
「シーラ。まだ傷が完全に癒えるまで時間がかかりそうだ。このままここで安心してゆっくりと養生(ようじょう)しなさい。ここは、敵に見つかる事は絶対に無いから」そう言って、老父は、彼女に毛布を掛けた。そして、
「……私も少し疲れた。少し休ませてもらおう。何か用事があれば声を掛けなさい」と言い、又、元の見通せない部屋の影の中に消えていった。その後に、老父が、椅子に腰掛ける重い音がして、それきり何も音のしない静寂が彼女の周りに漂った。
彼女は、鏡に反射される、暖かいオレンジ色に変わった太陽の光りの中で、天井をとりとめも無く見つめながら、今までの事、そしてこれからの事に思いを馳せていた。
(私達は、優秀な多くの仲間を失ってしまった。これから一体どうすればいいんだろう。今の状態で、果たして強大な悪魔に勝てるのだろうか……。みんな……。みんなの死は、決して無駄にしたくない。でも……。私達は、このまま何処に向かって進めばいいのだろう……)
彼女は、時間が経つのも忘れて、思いを巡らせていた。
やがて、部屋に差し込む燃えるような太陽の光りが、枯渇(こかつ)するように、不吉を暗示するようなカラスの羽色に変わっていった。
彼女は、思案を巡らせている内に、いつのまにか、うとうとと眠りについていた。
しばらく、ホウホウとフクロウが鳴く、森の囁きが聞こえてきそうな静寂が続いた。
突然、それを寸断して、四方八方から、ドラを乱打するような、心を逆撫でる恐ろしいときの声が沸き起こった。それは今まで嫌というほど戦場で聞いてきた悪夢を告げる物だ。
ファーディー老父と彼女は、その声に肝を冷やし、はっ!として、ファーディー老父は椅子から、彼女はベッドから弾かれるように立ち上がった。
「そんなバカな!!どうしてここが分かった!?」
ファーディー老父は、全く予期していなかった最悪の事態に唇を震わせながら、激しく動揺した。それは彼女や他の仲間の前では、今まで決して見せなかった姿だった。
彼女は、それを見て、とてつもない渦中(かちゅう)の真っ直中に自分が今いる事を知った。
「シーラ!お前はここにいなさい!私は様子を見てくる!」
老父は、酷く青ざめた顔を大きく引き攣らせながら、疲れが残っている掠(かす)れた声で言った。
「駄目よ!そんな体で!」
彼女はそう叫びたかったが、毛布の端を噛み締めるようにぎゅっと握り、ぐっと堪(た)えた。今はそうしてもらうしかない。
「気を付けて!」彼女のその叫びを背に、老父は、それに答えることも無く、急いでドアを開け閉め小屋から出て行った。
「どうした!?何があったのだ!?見張りからの連絡は!?」
「分かりません!突然、火の手が上がり、既に我が軍は、包囲されていました!ここは、もう持ちこたえられません!!もう敵は、目の前まで迫ってきています!!ここは、もう危険です!!ファーディー老師は、シーラ様を連れてお逃げください!!」
ファーディー老父と守衛のやり取りが、剣と剣が激しくぶつかり合う音に混じり、小屋の壁のすぐ外から聞こえてくる。
「……いや。私がシーラを連れて逃げたとしても、今の力を使い果たした私では、到底逃げ切れないだろう。私は、ここに留まり敵の注意を引く。敵がここにまだ、私と共にシーラがいると思っている間に、お前がシーラを連れて逃げるのだ」
「わ、分かりました。クッ」
「見つけたぞー!!ここだー!!」
その企(たくら)みを打ち破るように敵の怒号が響いた。
「魔女シーラを捕らえろー!!後の者は、誰であろうと生きて帰すなー!!」
「さあ!早く!」
「必ず、必ずシーラ様をお守りします!」
「頼んだぞ!」
守衛とファーディー師父の最後のやり取りが終わり、守衛が彼女の居る小屋の中に入ってきた。
「さあ、シーラ様!ここから逃げましょう!」
そう言って、守衛は、手早く床の隠し扉を開いた。
「さあ!早く!」守衛は、手を差し伸べた。
彼女は、身を固めながら立ち、ファーディー師父の出て行ったドアを見つめていたが、悲しそうに顔を伏せ、守衛の手を取った。
(さようなら……ファーディー父さん……)
彼女の心には、言い知れぬ穴がぽっかりと開き、冬の冷たい風が吹き荒ぶっていた。
彼女は、それを今はただ、打ち消す為に、頭を何度も振り、又、悲しみを積み重ね、鋼のように鍛えられた青い瞳で、顔を上げ、前を見据えた。その目には、百戦錬磨の阿修羅さえ、たじろぐような危機迫る決意が込められていた。
守衛は、その捕らえて離さない流れ星のような瞳に魅入ってしまったが、はっと気を取り直し、「行きましょう!」と彼女を促した。彼女は、目を閉じ、深く頷き、守衛と共にその隠し扉の中に入って行った。
シーラと守衛が隠し扉の中に入ると、守衛は、手早く隠し扉を閉めた。そして光りの一筋(ひとすじ)さえ差しこまなくなった真っ暗な暗闇の中で、守衛は、まるで見えているように、少しも躊躇(ちゅうちょ)せず、側に備え付けられた松明を手に取り、何かで擦り火をつけた。
油の焦げる臭いが鼻に突き、火の光りは、周りを照らし出した。
松明は一瞬、暗闇に慣れた彼女の瞳孔が少し痛むほど、眩しく燃え上がった。
その光りで、扉の中は、土の匂いがむせかえる、ひんやりと濁った空気の漂う木の柵で支えられた土の坑道だという事が分かった。
守衛は、その松明の光りを頼りに、頑丈そうな隠し扉の鍵を掛けた。それから素早く、その松明で側の壁を照らす。照らし出された土の壁の表面を手で削り、壁の中から何本かの束になった太いコードのような物を取り出した。
守衛は、その中から一本を選び抜き、それに松明の火を付けた。
ジリジリと導火線が焼きつくような音がして、唐突に、前方に火の光りが灯った。その光りは、前方の壁の両脇に備え付けられている、逆さまになった漏斗(ろうと)に入っている油が、漏斗の尖(とが)った先から燃え上がっている光りだった。しかしその光りは、その周囲しか照らしておらず、そのすぐ先の前方にさえ届いてはいない。
守衛は急(せ)かしながら言った。
「あの炎は、次々と次の漏斗に導火線を伝って燃え移り、迷路状のこの坑道の正しい道を教えてくれます。しかし敵の追っ手を阻(はば)む為に、じきに消える仕組みになっています。さあ、消える前に急ぎましょう!」
守衛は、彼女の手を掴み、引っ張るようにして彼女の前を走り先導した。
彼女も必死に走った。今は、少しでも立ち止まっている時間は無いのだ。
彼女の行くべき道を照らす為、命の灯火のように、現れては消えて行く前方の炎を見つめていると、彼女には、その炎がまるで仲間の命の灯火のように思えた。涙が溢れそうになってくる。
彼女は、気を少しでも抜くと泣き崩れてしまいそうな身と心を、使命感と犠牲になった仲間の命の重さで必死に支え続けた。
しかしそれでも、前に走れば走る程、後ろ髪引かれる思いは、強く激しくなっていく。今、自分がしている事は、残った家族同然の仲間を見捨てて行く事に他ならないのだ。しかし使命を終えるまで自分は死ぬわけにはいかない。彼女は、唇を強く噛み締めながら耐えていたが、ついにその思いは、心の中にしまえるほど小さな物では無くなり、彼女の体に溢れ出た。
糸が絡(から)まり動きが鈍くなっていく歯車のように、足が重くなり、走るスピードがどうしても鈍くなっていく。
今すぐ戻ってみんなを助けたい!!
でも救世主としての使命を最優先しなければ!
この二つ思いが、彼女の心の中で激しく葛藤(かっとう)していた。
前者が、救世主としてのあるまじき甘えと知っていながら、彼女は、その考えをどうしても拭いきれないでいた。
不意に、今まで意識的に避けてきた最も見たく無い情景が、頭に浮かんでしまった。
最愛のラリーが無残に殺されていく光景だった。それは今まで何度も的中した予知夢の如く鮮明で彼女を戦慄させた。
彼女は、ついに立ち止まり、頭を抱え、取り憑かれたように叫んだ。
「ラリーが危ないわ!!ラリーそこにいては駄目!お願い早くそこから逃げて!!」
熱い涙が、堰(せき)を切ったように、とりとめもなく溢れてくる。それを抑える事は、どうしても出来なくなっていた。
感極まり、声を枯らし何度もそう叫んでいる内に、ふっと気が途切れ、視界が闇に吸い込まれるように縮小しだした。目の前がゆっくりと暗転し始める。やがて全ての感覚が彼女の意識から無くなっていった。
「何を考えているんだい?」
突然、表情が固くなったジェーンを見て、ケインは、少し困惑気味の顔で小声で尋ねた。
ジェーンは、ドキッとしながら、慌てて笑顔で取り繕(つくろ)った。熱い視線をケインに向け、にっこり微笑み、「そうね。大切な人は、ここにいるもの」と囁いた。
点滴が繋がっていない方の腕をケインの首に甘えるように絡める。そして、お互い引き寄せ合うように、今までで一番熱い愛を込めキスをした。
お互いの愛を唇を通して確かめ合い、二人は満足したように溜息を同時についた。心を優しく抱(いだ)き合っているような気持ちになり、自然と顔に何とも言えない幸せそうな安堵の表情が浮かんでくる。それはケインも同じだった。
しばらくこの甘い光景は続いたが、やがてジェーンが口火を切った。
「ねえ。もっと甘えてもいいかしら?」
ジェーンの病室の時計の針が午前二時四十分時を指した頃。
病院の薄ら寒い廊下に、急いているような靴音が鳴り響いた。
青白く凍りついたような蛍光灯の光りが壁の表面を薄く照らし出す中、白衣をまとった男が、廊下の曲がり角から唐突に現れた。
その顔は、時々ピクピクと痙攣したように震え、目は何故か取り留めがないように虚ろだった。しかし口元は、ピエロのように大きくにやつき、手はその口を何度もほぐすように摩(さす)っている。時折その口から白い息吹が漏れ出しているのは、薄ら寒い院内の空気のせいだ。
それは、間違い無く、ジェーンの担当医師モーリスだった。
モーリスは、かなりの早足で何処かに向かっていた。それがジェーンの居る部屋である事は明白だった。
モーリスは、ジェーンの居る部屋のドアに着くと、そっとドアをスライドさせ部屋の中に入って行った。部屋の中は薄暗く霊安室のようにひっそりと静まりかえっている。
部屋の中を素早く見渡した後、モーリスは唇の端を吊り上げながら、ポケットから液体の入った注射器を取り出し、キャップを取り外した。それから獲物を狙うハンターのように息を潜め、足音を忍ばせながら、自分の目指すただ一つの目的の場所に近づいて行った。
部屋を区切っているカーテンをそっと払い、ジェーン・ハリーと記してあるフダの付いたベッドを見つけ、ついにそのベッドの横に辿りついた。
オレンジ色の豆電灯の光に照らされたベッドの布団は、こんもりと人型に盛りあがり、確かに目的の人物がいる。モーリスは、それを確認するや否や、注射器を大きく振り上げ、その布団のふくらみに深々と針を突き刺した。今まで隠していた悦楽の感情を顔に表しながら、猛毒を注入した。
もう勝利は確実だった。
ついに神との戦いに終止符を打った。
モーリスの顔は、例え様も無い喜悦(きえつ)を物語っていた。しかしその表情はその後一瞬で固まった。
猛毒を注入されたのに、ベッドにいる人物からの反応が全く返ってこない。まるで人形に針を突き立て毒を注入したようだ。
「ギッ!」
モーリスは、人間の言葉ではない言葉でうめいた。そして乱暴に布団の端を鷲掴み、布団を飛ばすようにめくった。
そこには案の定、人ではない、まして憎悪する神の使いでも無い、ただの二つのマクラが置いてあった。それによって、まるで人が布団の下で寝ているように上手くカモフラージュされていたのだ。
悪魔に取り憑かれたモーリスは、その予想外の事実を知り、怒り狂った表情で、そのマクラに指を突き立て、力任せに掻き切った。
そのまま怒り狂った鬼のような形相で腕を振り上げ、ベッドに向かって力任せに振り下ろす。
車どうしが正面衝突したような尋常ではない轟音が鳴った。信じられない事に鉄製のパイプで組み立てられていたベッドは、跳ね上がった桟橋(さんばし)の如く中央で真っ二つに折れ曲がった。
その音で隣のベッドで寝ていた患者達が地震でも襲ってきたのかと目を覚まし、「な、なんだ今のは!?」と恐怖に怯えた声で慌てふためく。
「フウ・・フウ・・」
憤怒の熱気を帯びた重い息吹を吐き出しながら、憎しみを噛み潰すようにモーリスは歯軋りした。ベッドを打ち崩したモーリスの腕は、その代償に骨が砕け肉が潰れ無残な姿になっていた。しかしモーリスは、その事などは眼中にないように、その腕では無い方の手で、折り曲がったベッドの上の布団に手を這わせた。
「ギッ!」悪魔に操られているモーリスは、怒り治まらぬ顔を不意に上げ、ベッドの頭の先にあるすぐ側の窓を睨みつけた。
その窓の鍵を外し窓を一気に開く。
冬も間近の冷たい風が一気に病室に流れ込み、病室を区切る薄いカーテンを激しくはためかした。
モーリスは、その窓から首を突き出し眼下を見渡した。そのまま、あわや落ちるという所まで身を乗り出す。
突然、衣服が弾け破れる音がし、モーリスの背中から黒々とした羽が、風を切るように突き出た。今までジェーンを襲ってきた悪魔のように粘液で濡れたような羽だ。
その羽は影が伸びるように大きく広がった。
不意に音も無く、魂が抜けるように、モーリスの体からその羽と共に悪魔が抜け出た。
悪魔は、羽を激しく躍動させた後、モーリスの体を残し、放たれた矢のように窓から飛び出した。そのまま猛烈なスピードで、暴風吹き荒れ、鉛色の厚い暗雲が蠢く闇夜の空に飛び去っていった。
その様子を不幸にも目撃してしまった患者がいた。ジェーンのベッドの一つ横のベッドで寝ていた若い男の患者だった。
その患者の見た光景は、カーテン越しに映った例え様も無く恐ろしい形の化け物のシルエットだった。
その影は、カーテンが暴風に煽(あお)られ大きくめくれ上がった時には忽然(こつぜん)と消えていた。代わりに目にした物は、硬直し、窓から身を乗り出している白衣の男の姿だった。一瞬目にした光景が信じられず呆然としたが、白衣の男の体が硬直したまま、ゆっくりと窓の外に向かって傾いていく姿を見て、目を丸くし、抑止(よくし)の言葉を掛けようと咄嗟に口を開いた。しかしもう既に遅かった。白衣の男の体は、救いの手の届かぬ死の縁を乗り越えてしまっていた。
「――う、うわああああー!!」
落ちて行く途中で目を覚ましたような奇妙な叫び声が耳を突いた。その後、鉛が落下したような重い音が聞こえた。その後は、ただ外の鋭い風の音が聞こえるばかり。
患者は、見てはいけない物を見てしまったという思いを顔に浮かべ、ガタガタと震えだした。
「ひっ、ひっ!」
上ずった悲鳴を漏らし、ベッドの上で座ったまま後退りする。それから、恐怖に引き攣った顔で、冷たい床に足を付け立ち上がると、一刻も早くその場から離れたい恐怖に駆られた。
患者は、裸足(はだし)のまま床を駆け抜け、ドアを開け、廊下に出ると大声で叫んだ。
「人が!人が落ちたぞ!!」
その後、病院内は騒然となった。
職員の通報で数台のパトカーがサイレンを鳴らし、すぐに駆け付けてきた。それからすぐに捜査と現場検証が始まった。
数人の警官達が、窓から落ちて無残に潰れたモーリスの死体を検分(けんぶん)している。その周囲には、《立ち入り禁止》と書かれた蛍光色の黄色いテープが張られている。その警官達の中に、病室でジェーンに質問したライトマン警部の姿もあった。
一人の若い警官が病院内から駆け足で出てきて、ライトマン警部の前に息を切らしてやって来た。
「どうだった?」ライトマン警部が駆け付けてきた警官に尋ねた。
「駄目でした。ハアハア、病院内には見当たりません」
息を整える間も無く若い警官は答える。
「そうか……」ライトマン警部は、考え込む顔つきになった。しかし目は何かを嗅ぎつけたように鋭く光っている。
「そのいない患者の名は、ジェーン・ハリーに間違い無いな?」
「間違いありません」
しばしの沈黙の後、ライトマン警部は言った。
「よし。ジェーン・ハリーと言う女性を緊急手配。一刻も早く見つけ出せ」
「分かりました」
若い警官は、頷くときびすを返し、パトカーの方に駆け出した。その姿を見送っていたライトマン警部の目は、不安に揺れていた。昨日今日とロサンゼルスで起こった一連の事件は、何かの繋がりがあるように思えるのだ。これは理屈ではなく永年培(つちか)ってきた刑事のカンだった。それをはっきりさせるには、どうしてもジェーン・ハリーと言う女性をもっと深く調べる必要がある。ライトマン警部には、これらの一連の事件の基点(きてん)が、ジェーン・ハリーと言う女性にあると感じられるのだ。
そしてライトマン警部は強い不安を抱いていた。
この悲劇はまだ続く!
心を蝕(むしば)む不快な苛立ちが、鎌首(かまくび)をもたげる蛇のように心をじわじわと威嚇(いかく)する。
ライトマン警部は、その感覚に耐えながら夜空を見上げた。
空にはライトマン警部の不安を象徴(しょうちょう)するように不気味な暗雲が空を覆い尽くし渦巻いている。その様子は、長い長い悪魔の腸が蠢いているようだ。
ライトマン警部は、それを見つめていて、まるで世界が終わるような恐ろしい不安にふとかられ身震いした。
はたしてその不安の行方は……。そしてジェーン達の姿は一体何処に消えたのだろうか……
悪夢の再来
真っ直ぐに伸びる街灯もまばらな寂しい夜のハイウェイを白い車が走っている。
ジェーンは、その車の助手席に、物思いにふけりがちな目で座っていた。それとは対照的に意気揚々と運転しているのは、もちろんケインだ。
ジェーンは、病院を抜け出す際に、病院の服からクリーニングされた元の私服に着替えていた。
「驚いたな。君が病院を抜け出そうと言うなんて」ケインが口元に笑みを浮かべ、冗談めかして言った。
「だって、あそこに居ると胸騒ぎがして落ち着かないのよ。それに医師も体には別状は無い、心の問題だけだって言ってたし」ジェーンが、少しむくれ顔で答える。
「まあいいさ。こうして君を我が家に招待するチャンスが出来た事だし」ケインはそう言ってにんまりとした。ケインの横顔を見ていると今にも口笛を吹き出しそうなくらい嬉しそうだ。
(良かった)ジェーンも心を和(なご)ませ、自分がケインのアパートに泊まる事を快諾(かいだく)してくれた事に感謝した。今は最も安らげる人の元に寄り添っていたい。
「……ねえ。アパートに着くまでどれくらいかかるの?」
「うーん、そうだなあ。後三十分はかかると思うよ。どうした?疲れたのかい?」
「ええ。少し」ジェーンは正直に答えた。病院で眠りについていた時もあの夢のせいで疲れが一向に取れた気がしていなかった。
「着いたら起こしてあげるから、ゆっくりと眠りなよ」
「……そうね。じゃあ、素敵な時間を夢見ながら待つとするわ」
「ハハハ。じゃあご期待に答えましょう、眠り姫」ケインとジェーンは、そうかけ合って心がときめくのを感じ合った。
その時、ぽつぽつとまばらな雨がフロントウインドーに降りかかり始めた。
「ついに降ってきたか」ケインが少し眉間にしわ寄せ呟いた。
「もう二日前までみたいな長雨はごめんだな」ケインが溜息を漏らしながら肩をすくめる。
「そういえば……」ジェーンは途中まで言いかけて口をつぐんだ。長雨と言う言葉が呼び水となり、昨日聞いたラジオの天気予報を思いだしたのだ。その時、ラジオから聞こえてきた無気味な声の事も。しかしその先に起こった信じられない出来事を口に出そうとした時、喉が縮こまり、声が出なくなってしまった。
(いくらケインでもこんな話、信じてくれるかしら?……)自信が持てない。
「そういえば、なんだい?」ケインが尋ねる。
だがジェーンは、その問いに答えられないまま、難色を顔に浮かべた。
ジェーンは否定されるのが恐かった。
ケインなら鼻で笑ってバカにすると言う事はないけれど、信じてもらえなければ、誰かの助けがあっても到底理解出来そうに無いやっかいな出来事に、一人で頭を抱え込まなければならなくなる。
(アパートに着いて、よく考えてから話そう)ジェーンは、今、解決すべきだった問題を苦し紛(まぎ)れに先送りした。
「なんでもないわ。なんでもないの本当に……。じゃあ、おやすみなさいケイン」
「わかった。おやすみジェーン」
ジェーンは、強張(こわば)りの残った表情で助手席のシートに体重を預け、とりとめの無い夢の世界へ入り込んで行った。
悪夢の追憶
一戸建てのジェーンの家が見えてきた。周辺に他の家が無いが、そのたたずまいはアメリカの中流階級の一般的な家だ。白い壁にカーキ色の屋根。そして狭くも広くもないきれいに刈られた黄緑色の芝生の庭。
鉄柵(てっさく)の門をくぐると正面にジェーンの家、その母屋に続いて隣に車庫がある。しかしその車庫は、ずいぶんそまつな物だった。それは、四つの鉄パイプが地面に垂直に立っていて、その上に厚手の薄汚れた綿のシートが乗せられて屋根にされ、シートとパイプがしっかりとひもで固定されている。中は壁もなく吹き抜けの粗末(そまつ)なものだ。その車庫の上に丁度ジェーンの寝室の窓がある。
車が鉄柵の門を潜り、ジェーン邸の敷地に入る。
「ずいぶん粗末な車庫だけど、前の車庫はどうなったんだい?」ケインがジェーンに訊いた。
「前の車庫は、ついこの間の異常気象でひびがはいっちゃって……。危ないから造り変える事にしたの。そして取り壊して今は業者がくるまでの仮の車庫というわけ」とジェーンが説明した。ケインは、「そうか」といって慎重に車庫に車をぶつけないように入れた。
「さ、着いたよ」ケインはジェーンに言った。
「ありがとう」ジェーンは、なるべく笑顔をみせようとしたが、不安と恐怖がくすぶっている心持ちでは少し無理があった。それを感じ取ったのか、「一人で大丈夫か?」とケインは心配そうに訊いてきた。
「泊まっていって欲しい」と言いそうになったが、なんとか理性を働かせ思い止(とどま)った。
「ううん。大丈夫よケイン。あなたもはやく家に帰って休んで。今日はごめんなさい。本当にありがとう」と精一杯の元気をだしてケインが心配しないようにと言った。
「本当にだいじょうぶか?」ともう一度尋ねるケインに、「大丈夫。心配しないで」とジェーンは努(つと)めて明るく言った。ケインはしばらく考えていたが、「わかった」とうなずき、「何かして欲しい事があるなら遠慮なく言ってくれよ。力になるから」と言った。
「わかったわ。ありがとう」
その言葉に心がほぐれ、ジェーンは、心から微笑む事が出来た。
ケインが「車は明日会社で返してくれればいい」と言って車を車庫に残したまま帰って行った後、(ジェーンは、「そんな事までしてもらうのは悪いわ」と言って断ったが、ケインに「車だけでも君の側に置いておきたいのさ」と言われ、苦笑しながら承諾してしまった)ジェーンは二階の寝室に入り、明々(あかあか)と蛍光灯が灯る中、ベッドに倒れこんだ。
自分が思っていた以上に心と体は疲れ切っていたようで、ベッドにうずくまった後、指先一つ動かす気力が湧かなかった。
体が石のように重い。
雨が今までの小降りから本降りに変わったのだろう。地面を叩きつけるような雨音が聞こえる。
ジェーンが、圧し掛かる疲労感に負け、考えるより先に、うつらうつらと眠りかけた頃、
突然、大雨の音にかき消されない程のガラスの割れる音が一階からした。
心臓が飛び跳ねるような驚きと共に、眠気が吹き飛んだ。
一階に何か居る!
心臓が激しく脈動し、危機的状況に、アドレナリンが多量に分泌される。
(まさか、強盗!?)
酩酊(めいてい)状態に陥(おちい)ったように頭がくらくらしたが、今は、不運を嘆いている場合ではない。
ジェーンは、震える心を必死に自制し、闘争心を揺り起こした。
まず身を守る武器を手に取らなければならない。それから警察に通報するのが上策だった。
しかしジェーンの今居る寝室には、武器になりそうな物は置いていない。
一番頼りになる武器。それは銃だ。
いざという時の為、ジェーンの家にも置いてある。しかしそれは寝室を出た廊下の突き当たりの部屋にある。
ジェーンは、生唾を飲み込み決心した。
それしか手は無い。
問題は、廊下に出た時に、侵入者に見つかるかも知れないと言う事だった。もしそうなれば、その時点で凄惨(せいさん)な死が襲ってくるだろう。
ジェーンは、ドアのむこうに何もいないかドアに耳をあて確認した。いないのを確認すると神に祈りながら、汗ばむ手でドアのノブを出来るだけ静かに回し、ドアをそうっと開けた。
廊下に勇気の一歩を踏み出すと、息を殺し目的の部屋に向かった。
槍(やり)のように刺す視線を背中に感じたが、振り向いて侵入者の姿を見れば、立ちすくんでしまいそうで、恐ろしくて振り向けなかった。
死ぬ思いで目的の部屋の前に辿りついた時は、服は冷や汗でべっとりと背中に張りついていた。
祈りながらドアのノブを回し、部屋の中に入り、ドアを閉めてから、喉を振るわせ、浅い深呼吸をした。
追い続ける悪夢
その橋は、丁度大きな河(かわ)に架(か)けられた橋だった。この時間帯でこの雨の中、行き交う車などは見当たらない。スピードメーターが今までの百キロ前後から六十キロ前後に落ちた時、岩が車の屋根に落ちたような音がした。ジェーンにとっては青天の霹靂(へきれき)で全く予期していなかった為、初め何が起こったのか分からなかった。一刻後、まさか!?と思い当たった。しかし今はあらゆる事態が起こっても不思議ではない時なのだ。雷に打たれたような衝撃が全身を襲った。
又、悪夢の直中(ただなか)に引き戻す奇声がした。それも距離を置いてではない。屋根を隔てたすぐ上でだ。
ジェーンは、どうして!?と命運を恨みたい気持ちと共に、あのモンスターがすぐ上にいる事を直感で悟った。バックミラーに目を凝らした。しかしモンスターの姿は映っていない。バックミラーは車の屋根までは捕捉出来ないのだ。それが、暗闇の中、死体を踏むような不気味な恐怖を感じさせた。
(一体どうすればいいの!?)ジェーンは、発狂しそうだった。もう全てを諦めて投げ出してしまいそうになった。その時、フロントウインドーに沼から這い出てきたようなグロテスクな腕が唐突に張りついた。
その手がフロントウインドーを力任せに叩き始めた。始めの一発でフロントウインドーに蜘蛛(くも)の巣のようなひびが入った。
ジェーンは驚倒した。
なげやりな気持ちが恐怖で吹っ飛んだ。ここまで切り抜けたんだ。こんな事で生きる気持ちを失ってたまるか!
ジェーンは、必死で自分を叱咤(しった)した。こんな所で死んだら、ケインが許してくれないぞ!
ジェーンは、ハンドルを左右に激しく切った。高いタイヤの摩擦音が辺りに響く。
車は横幅十メートル程の橋の上を蛇行した。ジェーンは、無我夢中だった。モンスターを振り落とそうと必死だった。
フロントウインドーを殴打するモンスターの腕が、フロントウインドーから逃げるように引っ込んだ。しかし一息つく事は出来なかった。頭上で金属が焼かれるような音がした。蛇行しながら上を見た。ジェーンは絶息し、青ざめた。頭上の屋根に小さな穴が開いている。ジェーンは瞬時に悟った。屋根をモンスターが溶かしている!しかし気付いた所でどうしようもない。穴は見る間に大きくなっていく。この穴が腕が入りきる位の大きさになれば、自分は確実に殺される。断頭台の刃が落ちてくる寸前のような気持ちだった。
教会にて
モーテルを発ってから五時間余り。やっとサンディエゴの街が見えてきた頃には、もう夕暮れ時だった。
重みのある太陽が、西の水平線に沈んで行く。ジェーンの車は、それが真横に見える海岸沿いの道路を走っている。しかしその美しい風景をゆっくり見る時間は無かった。このまま海岸沿いを抜け、郊外の教会に今日中に辿り着かなければならない。
ジェーンは、南国風の木々が歓迎するように立ち並んでいるのを恨めしく思いながら、疲れて痺(しび)れてきた足でアクセルを踏み込んでいた。もう少しで着くから、それまでの我慢だと自分を励(はげ)ましながら。
途中、何度か車を停めて休んだが、黒い騎士は、充分足の疲れが取れるほど休ませてはくれなかった。今日中に着けと何度も言うのだ。その時、ジェーンは、厳しい教官だわと愚痴(ぐち)をこぼしたのだった。
警察の検問には運良く引っ掛からなかった。手配されていると言っても自分は殺人を犯した訳でも無いし、新たに事件を起こす訳でもない。だから警察の方もしゃにむになって捕まえようとはしていないのかも知れない。まあ、そんなもんだろう。そうこう考えている内に車は海岸沿いを抜け、人気の少ない両脇に畑の広がるのんびりと続く広い道を走っていた。
それから二時間ほど車を走らせていると、変わり映えのしない風景の奥に一風変わった物が見えてきた。辺りにはひょろりとした細い木々がまばらに生えているだけなのに、そこだけやけに青々とした木々が密集している。辺りの殺風景な様子と合わせて見ると、まるで偉大な英雄か何かを祭った巨大な森の墓標に思えてくる。そこは、丁度山裾(やますそ)にあり、バックの山の方まで深い森が続いているように見える。
「あれが目的の場所だ。あそこに教会はある」
相変わらず姿を見せないままの黒い騎士の声が聞こえた。
ジェーンは、目を細めて目を凝らしたが、騎士の言う教会らしき物は見当たらない。しかし近づけば分かるかも知れない。
ハンドルを切ってメインストリートから外れ、幾分細くなった道路を目的地に向かって車を走らせて行く。
ジェーンは、目的地のすぐ横に着くまで、どこに教会があるのか分からなかった。と言うより見えなかった。教会は、森の中に隠れるようにして建っていた。教会に続く森の入り口も目立たないように作られているようで、その入り口も道路の脇にたっている、こじんまりとしたプレートの
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