シャドーナイト

プロローグ

  太古の昔。人々がまだ地球上に存在していなかった頃。この地球をかけ天地をゆさぶる神と悪魔の戦いがあった。その戦いは死闘の末、神が悪魔を地獄に封じこめ決着した。しかし悪魔はたびたびその封印を破り、地上に出で、地上を我が物にしようと虎視眈々(こしたんたん)と狙っている。しかしそれを阻止し、悪魔を地獄に封じる者がこの世にはいるという。その者を救世主、そしてその救世主の守護者をシャドーナイトという。
 そして再び、悪魔がその封印をやぶり地上に出ようとしていた。
 時は1582年。フランスで魔女裁判が最盛期に達した時である。そして又、一人の青年がこの世と愛する人を悪魔から守る為、守護者、シャドーナイトに生まれ変わろうとしていた。

第一章 1582年 シャドーナイト誕生

登場人物

ラリー・ハント(男)   シャドーナイト

シーラ・ニキア(女)   救世主 

 冷たい風が、乾いた革靴の靴音を狭い石造りの通路に連れ去って行く。その風は通路に等間隔に備えられた松明(たいまつ)の炎を掻(か)き消そうともがいているようだ。
 それはまるで僕の命の灯火(ともしび)を消し去ろうとしているようにも今の僕には見えてくる。
 喉(のど)は干上がった井戸のように渇(かわ)き、死の世界への恐怖を滲ませた呼吸音だけが、その通路に冷たく木霊している。
 眼前に伸びる底の知れない闇は、松明が放つ火の光りを別世界の物だと思わせる程に重く、そして死その物に思わせる。しかし僕の進むべき道はその深淵なのだ。
 一歩奥に向かって足を進めるたび、自分があの世に向かって歩んでいるように思える中、僕の心が今までの人生を回想し始める。それはシーラと仲間達に出会わなければ、生きる意義さえ見出(みいだ)せなかったであったろう――数々の人生の断片(だんぺん)だった。
 幼い頃に見た、はっきりとは思い出せない両親の顔。
 両親を目の前で殺され、生き抜く術すら知らされず戦乱の時代に、一人身を委(ゆだ)ねなくてはならなかった幼き日の孤独に身を縮めていた自分。そして、そんな自分を太陽のような温かい笑顔で迎え救ってくれた青い目の少女――シーラ。今では自分と同じ十七歳になったその少女に、多くの仲間が愛情を惜しみなく注いでいる。しかし自分はその愛情すらも凌駕(りょうが)する想いを胸に熱く秘めている。そう、僕とシーラは戦乱の時代に数少なく咲く事を許された純愛の花。
(シーラ……)
 自分の全てを投げ打っても惜しくは無い、守りたい、自分にとっての生きる意義。
 だから僕は、この身を捧(ささ)げ、古い言い伝えの守護者、シャドーナイトに生まれ変る事を決意した。そのためには、儀式によって、一度命を断ち切らねばならない。
 しかし僕は後悔など微塵(みじん)もしていない。愛する人の為、全てを捧げるのだから。例え我が身が化け物になったとしても後悔などするはずもない。
 やがて通路の奥から重々しいシャーマン達の呪文の詠唱が聞こえてきた。これが何のために唱えられているか、僕は知っている。それはこれから命を捧げる僕へのレクイエムだと言う事を。
 呪文の詠唱は、まるで歌うような言葉の旋律となって、あの世へのプレリュードとして僕の心に響いてくる。それはまるで今生きていることを死ぬ前に貪婪(どんらん)に味わっておきたいという僕の心臓の鼓動に合わせて奏(かな)でているようにさえ聞こえてくる。
 僕は、一歩一歩、血に濡れた革靴で固い石の床を踏みしめ、呪文の詠唱のする通路の奥へと歩いていく。
 早鐘のように鳴る心臓。それは絶対的な終りを意味し、もう二度と取り戻せない生を本能が惜しんでいる為なのだろうか。
 僕は、その臆病(おくびょう)な気持ちを心に力を込め固く握りつぶす。
 そう、もう後戻りは出来ないのだ。シーラを救う為に残された道はこれしかない。強要ではない、自分で選んだ道だ。
 それがどんなに過酷な道であろうとも、僕はやり抜いて見せる。この手で必ずシーラを未来を取り戻す。無駄にはさせない。多くの仲間の犠牲も。これから捧げる僕の命も。
 僕は胸に手を当て、重く脈打つ心臓にそう何度も言い聞かせる。自分の子供に子守唄を聞かせるように。
 やがて、松明が両脇に備え付けられた儀式めいた木造の扉の前に辿り着いた。
 その光りに照らされ、ぼんやりと闇に浮き立つその扉には、新教と旧教の融合を現す、我らが神教のシンボルである十字架に絡む双龍の紋章が刻んである。呪文の詠唱は、その扉の奥から聞こえている。この扉を開けて中に入れば僕はもう死ななければならない。
 生存本能が奏でる重い心臓の調べ。今僕は、これまでの生涯(しょうがい)の中で、最も生きている事を実感しているのかもしれない。
 その想いを体現し始めた汗ばみ震える手が、僕に何か大事な事を語り掛けている気がする。その暗い想いを息を整え、徐々に駆逐して行く。
 やがて死の恐怖を乗り越えた先にある、恍惚感(こうこつかん)にも似たぞくりとする感覚が背筋を這い登り、震えが止まった。僕はその手で力強く扉を押す。
 木製の扉が擦れ合い、重々しい音を立てながらゆっくりと扉が押し開かれて行く。
 扉の奥には石造りの通路より比較的大きな部屋があり、その中は外の通路より松明が煌々(こうこう)と焚(た)かれていて明るい。
 一際大きくなった呪文の詠唱の、ものものしい声が耳を突いて来ると同時に、目には三つの物が飛び込んでくる。
 神秘的な光りで青白く光る床の魔方陣。
 正面の壁に架(か)けられている大きな青い十字架。
 床の魔方陣の上に、魔方陣を囲むように立っている緑色の古ぼけたフードを頭からすっぽりと被(かぶ)り、ローブをまとい呪文を唱えている四人のシャーマン達。その四人を囲むように松明が燭台に備え付けられている。
 首に黒い太陽の紋章のネックレスをつけた一人のシャーマンが、僕が入ってきた事に気づき、片手を上げ、呪文の詠唱を止めた。ゆっくりと僕に振り向き、僕に語りかける。
「……覚悟はできたか?」
 僕は一瞬目を閉じる。決意のための息を大きく吸い込み、心を静め、頷(うなず)くとシャーマン達が囲んでいる魔方陣のほうに向かって歩き出す。
 シャーマン達の間をぬって、魔方陣の上に乗った僕に、シャーマンの一人が近づき古びた剣をさしだした。
 シャドーナイトに生まれ変わるためには、この剣を自らの心臓に突き刺し、一度死ななければならないのだ。
 僕は一呼吸おいた後、覚悟を決め、その剣を受け取った。その剣の重みが自分の命の重みに感じる。
 剣を渡したシャーマンは、僕の方に顔を向けたまま後退り、元の位置へと戻った。僕はそのシャーマンが元の位置に戻るのを見届ける。
 四人のシャーマンが、再び僕を囲むようにして立った。そしてさっき、手を上げ、呪文の詠唱を止めたシャーマンが、片手を上げると、再び呪文の詠唱が始まった。
 僕は剣を持つ手の震えを押さえるように、剣を握る手に力をこめた。そして目をつむり、静かに剣先を自分の胸に当てた。胸に鋭い刃物で薄皮を切ったような痛みが走る。
 その痛みを掻き消すように、シャーマン達が呪文の詠唱を強く唱え始めた。
 僕はもう一度、愛する人の顔を思い浮かべた。シーラの微笑みが僕に勇気を与えてくれる。
 そして覚悟を決めた。意を決し、胸に剣を一気に突き立てた。焼け付くような激しい痛みと、胸にヌルリとした熱い血潮の広がる感触を感じる。剣が胸に深く入っていくたび激しく痛み体が痙攣(けいれん)する。僕の口の中に生暖かい血液がたまっていく。僕は焼けるような痛みをこらえ、血を吐きながら、残された力を振り絞り、さらに深く剣を胸の奥に突き立てた。剣は僕の心臓を貫き背中から突き出た。
 断末魔の引き攣(つ)るうめき声を上げ、僕は体から全ての力が抜けていくのを感じ、身の任せるままに床へと倒れこんだ。
 やがて、嵐のような激しい痛みと、朦朧(もうろう)とする意識の中、全ての感覚がなくなっていった。うずくまって床につけた頬(ほほ)の感触も、シャーマン達が唱える呪文の詠唱の声も……。
 瞼(まぶた)がその最後の役目を終えようとしていた。僕はこの目を閉じれば、もう二度とこの世の光りをこの目で見る事は出来ないと感じながら、瞼を下ろし何も感じない虚無の闇の中に落ちていった。
 気がつけば僕は魂となり、蹲(うずくま)った自分の体を冷めた思いで見下ろしていた。
 あれが自分の体だったのか実感が湧かない思いだ。僕の意識は今ここにあるのだから。
 やがて僕は、僕の遺体に異変が起きている事に気付いた。
 背中から突き出した剣が脈打ち、生き物のように僕の血を吸い始めた。剣は命を吹き込まれたようにみるみる真新しくなっていく。やがて剣は僕の血を吸い尽くした。それと同時に、床に広がった僕の血が、黒く変色し始めた。それは異世界の赤い絨毯のように変わっていった。それはもう人間の血液では無くなっていた。同時に魔方陣から黒い霧のようなものが吹き出し、僕の遺体を覆っていく。
 黒く光る霧を伴(ともな)って、僕のうなだれた遺体は、見えない糸で操られるように、魔方陣の上で立ち上がり、浮遊した。
 妖しく光る漆黒の霧は、僕の全身を包み込んだ後、変容し始め、僕の体を包む漆黒の鎧と兜の形になっていった。それに呼応するように、何ともいえない居心地のいい、煌く真っ白な光りに意識が包まれて行くのを感じ、僕は悠久の死の世界へと旅立った。
 いつまでもそこに留まっていたい何の苦痛もない幸せな世界を感じた。それが僕にとっては、星々が生まれては死んで行く、そんな長い長い時間のように感じられた。
 それからどれだけたったのだろう。不意にその真っ白な光りの中から、魂が闇に引き戻されるような感覚がして、意識が僕の遺体へと戻っていく感覚を感じた。それに伴って、体から抜けた力が何百倍もの熱い力と、今までより遥かに鋭い五感となって戻って来るのを感じる。
 僕は長い夢から目覚めたようにゆっくりと目を開いた。
 そこに映し出されたのは、死ぬ前に網膜(もうまく)に焼きついた、以前となんら変わらない光景だった。
 遠い昔に自分は死を迎え、何十年何百年もの間、何も無い自分の存在すら感じない暗闇の中を漂(ただよ)っていた感覚がするのに、その間、時が凍りついていたように、シャーマン達が僕を取り囲み、驚きの歓声を上げている光景が見える。
 僕にはまだ自分の身に起きた事が理解できなかった。まだ儀式は終わっていないのか?僕はまだシャドーナイトに生まれ変わっていないのか?
 しかし大きく異なっている事があるのに気づいた。まるで自分の体が重力から開放されたように軽く感じられるのだ。自分の体ではないようで、どこか現実感がなく夢を見ているようだ。
 今まで感じた事の無い鋭い感覚と溢れる力と自信が体中にみなぎっている。それなのに心は星の瞬く夜空のように静かで穏やかだ。この感覚は、そう、心が大宇宙のように広がったよう。頭の中は清い森の空気を胸一杯に吸い込んだように鮮明で、気持ちは夢を達成したような充実感があり、しばし僕はその感覚に酔いしれた。
 僕は自分の掌(てのひら)を目の前にかざして見た。僕の掌は、つなぎ目の無い鎧の掌と化していた。澄んだ黒い水が光を反射するように、美しく煌き波うち揺らめいている。その掌が自分の掌ではないような感じがし、驚くよりも初めて満天の星空を見上げたように強く心を引かれ言葉もなく自分の掌に魅入った。そのままゆっくりと掌から視線を落とし、手首、肘、肩と確かめるように視線を這わせた。
 それらも掌と同様の姿となり、ゆっくりと流れ始めた川の水のように揺らめいていた。続けて自分の胸を撫でるようにして見た。
 変わっていたのは腕だけではなかった。僕の胸は騎士の黒い鎧のような姿となり、同じように怪しく揺らめき、今まで見た事も触れた事も無いこの世の物とは思えない物質に変わっていた。胸には胸に突き立て命を絶ったときの剣が、刃が見えないくらい深く突き刺さっている。それは不思議な事に心臓を貫いた時とは違う、命を吹き込まれ、この世に甦ったように真新しくなっていた。
 剣の柄(つか)と胸の隙間から蛍の光のような輝きがこぼれ、暗闇に滲みながら灯篭(とうろう)の明かりのように淡く光っている。
 剣が刺さっている胸からは、もう血も何も噴き出してはいない。刺さっている感覚や痛みさえ感じない。でも僕はそれが当然であるかのようになぜか驚きはしなかった。
 胸に突き刺さっている剣の柄に手をかけ、ゆっくりと静かに引き抜いた。剣は水面に刺さっているかのように痛みも抵抗もなく抜けきった。抜けた後に出来た穴からは血が一滴も流れず、黒い水がその穴に流れ込むようにして見る間にふさがった。
 それは明確に自分の体がもう人の体ではない事を示していた。はっきりとわかった。僕はもう人間ではなくなったのだ。そう僕はシャドーナイトに生まれ変わったのだと。
 目にする剣の刃は、灯篭の光りのように美しく、蜃気楼のように揺らめき、いつかは朽ち果てる命の輝きのようにどこか儚(はかな)げに見えた。
 刃は、ほのかに温かく光り、生命感を感じさせている。この時、僕は剣の刃が自分の魂で出来ている僕の魂の一部だと気付いた。
 僕は凛(りん)として、この世の物ではない黒い兜に覆われた顔を上げ、この世と愛する人を必ず守るという揺るぎ無い決意を込め、今はもう自分の半身とも思える剣を力強く握りしめた。剣は息づくようにそれに呼応し、僕の心を通して一体となり、体と剣から吹き出し始めた強い風を伴って激しく燃え上がるように光り輝いた。
 背中には僕の血で出来た深紅のマントが吹き出す風にあおられ激しく翻(ひるがえ)っているのが分かる。シャドーナイトとしての僕の体は、不安定な液体を思わす半透明の薄暗い色彩を捨て、光りの届いていない宇宙の闇を思わせる漆黒の色へと変化した。それに伴い、揺らめく液状の体が固形へと変化し、シャドーナイトの真の姿に変わった。それに従い、強く握り締めた剣の刃も、儚いあやふやな姿から、名工により研ぎ澄まされた刃のように姿を変えた。
 爆発しそうな強い力が体の底から湧き上がり、新たに生まれた血液のように体中に行き渡るのを感じる。
 シャーマン達のどよめきと歓声が聞こえる中、僕は体と剣から吹き出している光りと風を自らの意志で抑え、床の魔方陣の中からゆっくりと前に歩み出した。シャドーナイトとして生まれ変わった使命を果たすために。
 そして僕の体は、部屋の影に溶けこむようにして消えていった……。

 1582年、この年に僕のラリー・ハントとしての十七年の人生は終わり、この世を悪魔から救う救世主の守護者、シャドーナイトとしての長い人生が始まった。

第二章 悪夢の覚醒

登場人物

ジェーン・ハリー(女)  フォーマル社のファッションデザイナーと……

ケイン・クランク(男)  ジェーンの会社の同僚、そしてジェーンの恋人

グリフ・ハーモン(男)  シャドーナイトを誕生させたシャーマンの子孫で神父

サン・ブライアン(男)  グリフ神父の知人の黒人少年

2004年 11月1日 ハロウィンの翌日

 激しい暴風雨が意思を持ったかのように猛り狂っている暗い闇夜の中。
 耳をつんざく雷鳴が轟き、青白い刃のような閃光が止む事なくたて続けに空を斬り裂いている。
 数百年に一度の異常気象の為、空には腸(はらわた)のように不気味に蠢(うごめ)く暗雲が渦巻き、屋根を突き破るような激しい大雨が降っている。
 まだ肌寒く、空も暗い早朝、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴの街の郊外にある古ぼけたとある教会の中に、初老の神父の祈りを捧(ささ)げるしわがれた声が、月が西に傾いた時から延々と続いている。
「偉大なる主よ。永久に繁栄を約束された主よ。人の業を許し、我らの御霊に救いを与え給え。我らを常に光りで照らされた正しき道へと導き給え。永久に我らが仕える事を誓いし主よ。その為ならば、私は全てを捧げる事を誓いましょう」
 この教会の主であるグリフ・ハーモン神父は、キリスト像が張りつけられた十字架を掲(かか)げた祭壇(さいだん)の前にひざまずき、祈りを捧げ続けていた。
 グリフ神父がひざまずいている祭壇の前には、赤い絨毯(じゅうたん)が敷き詰められた五段の階段がある。その階段の両脇には、グリフ神父が用意した、心を静め、祈りに集中する為の燭台(しょくだい)に備え付けられた十本の蝋燭(ろうそく)が鈍く光っている。それ以外に教会の中を照らすものは、八つの窓の両脇に備え付けられた蝋燭の明かりしかなく、教会の中は祭壇の周りと窓の周辺以外は、暗闇に覆われている。その光りの元、グリフ神父は一心不乱に祈り続けているのだ。
 不意に青白い光りが教会の中を満たし、その直後に一際大きな雷鳴が轟いた。グリフ神父は額にしわを寄せながら、祈りを止め、顔を上げた。そして蝋燭の光りだけを頼りに十メートル程先にある教会の小窓から外の様子を覗き見る。
 小窓から見えるのは、渦を巻いて唸りを上げている腸を思わせる暗雲。もう明け方だと言うのに一条の光さえ地面を照らす事はなく、その暗雲さえ、時折雷の光りが照らし出す瞬間しか見えない。グリフ神父は、その様子にただならぬ不吉な予感を感じていた。

  グリフ・ハーモン――この白髪混じりで、あごひげを豊かに蓄えた優しい風貌(ふうぼう)を持つ男は、表向きは神父を生業(なりわい)としている。しかし実は、1582年にシャドーナイトの誕生の儀式を行ったシャーマンの一人の子孫であり、神に忠実な神教のシャーマンであった。胸には、神教のシンボルであるマリンブルーの十字架が煌いている。ただそれが何を意味するかは、まだ誰にも知られていない。いや知られてはいけないのだ。

 グリフ神父は、ややこけた頬を青ざめさせ、憮然(ぶぜん)とし呟いた。
「不吉な影が近づいている……」
 その言葉を指し示すように、空には血臭が漂ってきそうな赤黒い暗雲が、巨大な眼のように渦巻いている。
 いつもは、はつらつとし、痩(や)せ型のサンタクロースを思わせるこの老人の青い眼も、疲れと、取り憑(つ)かれたような不安で曇っている。老人は、ほつれた白髪が瞼に掛るのを払おうともせず、黙ったまま空を見上げていた。
 赤黒く渦を巻く暗雲。
 絶え間なく轟く雷鳴。
 長期間止まない雷雨。
 そして意志を持ったように荒れ狂う風。
 神教のシャーマンとしてのグリフ神父には、この異常気象に心を取り乱させられる心当たりあった。

 シャーマンの教典にこうある――
 悪魔が地獄の戒めを打ち破る時、空は荒れ、大地が腐り、人心乱れる。その時こそ、我らが神教の力を持ってこれを封ずるべし――

 まさかその災いが自分の代でやって来たのだろうか。ただそうとは断言できない決定的な条件がまだ欠けていた。それは教典に、我らが次に立つ最も恐るべき時、闇が世界を覆うとある。これは皆既日食を指し示していると神教では言われている。だが2004年の今、皆既日食は起こらない。ただこの胸騒ぎは、祈りを捧げ続けていても一向に治まらない。何か重大な危機が迫っているのを伝えている事は確かなようだ。
 グリフ神父は、それを確かめる為、すっくと立ち上がると、丈(たけ)の長い黒衣の神父服の裾(すそ)をたなびかせ、重い足取りで窓に向かって歩き始めた。
 窓際に着いたグリフ神父は、不安の色がにじみ出してくるような表情で、目を細め眉間にしわを寄せ、窓の外に映る十キロほど離れたサンディエゴの街に目をやった。
 サンディエゴの街の上空には、何かが今にも顔を出しそうな不気味な鉛色の重い雲が垂れ込み渦巻いている。断続的に獣が獲物に狙いを定めているような獰猛(どうもう)な唸り声が空から聞こえてくる。それは丁度竜巻が発生する直前のような光景だった。
 不意にサンディエゴの街の方から、グリフ神父の教会まで届く、けたたましい竜巻警報のサイレンの音がなったかと思うと、獰猛な獣が唸り声を出したような音が上空から辺りに響き、サンディエゴの街の上空の雲がゆっくりとうねりながら回り始めた。
 そこから一本の黒い大蛇を思わすような小ぶりな竜巻が発生した。さらにそれに続くかのように、教会とサンディエゴの街の間にある空が渦巻き、幾つもの竜巻を生み出した。それらは見る間に教会とサンディエゴの街の間に、まるで牢獄(ろうごく)の鉄柵(てつさく)のような黒い竜巻の連なりを創った。
 やがてそれらの内の教会から一番遠く、サンディエゴの街に一番近い竜巻が動き始めた。その竜巻は、サンディエゴの街をかすめ、良く見てみるとグリフ神父の教会の方に向かって動き始めている。それも決してゆっくりとはしていない。かなり速いスピードで動き始めている。
 グリフ神父は固唾(かたず)を呑(の)み、表情を凍りつかせた。額には体のこわばりに伴(ともな)って自然と汗がにじみ始め動悸(どうき)がしてきた。なぜならそれらは教会に近づくたびに他の竜巻を飲み込み、ずんぐりと太くなっていき、威力と脅威(きょうい)を増して土砂を巻き上げながら、真っ直ぐに教会に猛進して来たからだ。
 教会への距離が三キロほどに縮まった時、竜巻は轟音を上げ、既に直径五十メートルほどの巨大な竜巻へと変容していた。恐怖におののいている時間はなかった。
 グリフ神父は虫唾(むしず)が走る思いを抑え、すばやく教会の全ての窓に目配せした。
 教会の窓は全部で八つある。しかし竜巻がこの教会に到達するであろう時間までに、とても全ての各窓に備え付けられた鉄製のシャッターを下ろす時間はない。もうすでに竜巻の影響は教会に及んでいるらしく、シャッターは小刻みに震えていた。
 グリフ神父は、すばやく思考を巡らし、竜巻がやってくる方向の窓のシャッターだけを下ろすしかないと判断した。すばやく手近の窓からシャッターを下ろしに掛る。
 竜巻が近づくにつれ、教会の揺れは大きくなり、グリフ神父が、三つ目の窓のシャッターを下ろそうとした時、その窓の外に映る光景に戦慄(せんりつ)した。
 削岩機(さくがんき)のように巻き上げた物を粉々に破壊する悪魔の息吹で出来たような直径五百メートル程の竜巻が、もう目の前百メートル程までに迫っているではないか。その竜巻の中には、教会の周りに立っている森の巨木が幾本も巻き上げられ宙を舞っているのがはっきりと見てとれた。その直後、グリフ神父の横三メートル程にある、激しく振動していた四つ目の窓ガラスが、竜巻の風圧に負け、心を逆撫でる音を立て粉々に吹き飛んだ。そこから竜巻は猛烈な勢いで教会の中の物を吸い出し始めた。祭壇の横に備え付けてあった十本の燭台に灯された蝋燭の明かりが瞬時に消え、その十本の燭台が竜巻に吸い込まれ、教会の中を荒ぶる風と共に宙を舞った。十本の燭台は、次々と割れた窓に向かって飛び去って行く。その中の幾つかが運の悪い事に、割れた窓のサッシの両脇に、燭台の頭と足が引っかかりへばりついた。丁度、窓を塞(ふさ)ぐような状態だ。
「何てことだ!」
 予期せぬ事に、グリフ神父はしわがれた声を荒げた。これではへばりついた燭台が邪魔で窓のシャッターが下ろせない。このまま竜巻が教会を直撃すれば、自分も割れた窓から吸い込まれるか、例えそれを逃れても、教会の中にある無数の信者用の机が巻き上げられ自分に襲いかかってくるかもしれない。その可能性は充分ある。下手をすると命をも奪われかねない。何しろ教会内には当たると危険な物は無数にあるのだ。
 グリフ神父はとっさに目配せし、すぐ近くの信者用の机に備え付けてある木製の椅子を手早く持ち上げた。そのまま大粒の雨が荒ぶる烈風と共に降り注いでいる割れた窓の方に向かって駆け出す。
 割れた窓に着くと、窓から入り込む強烈な大粒の雨に顔を顰(しか)めながら、手に持つ椅子を振り上げ、力任せに窓にへばりついる燭台にその椅子を振り下ろした。
 金属と木が打ちつけられる鈍い音がし、手に重い衝撃が返って来る。それでも命の危機を感じ、無我夢中で椅子を燭台に打ち据え続けた。その甲斐(かい)あって窓に引っ掛かっている燭台の内の二本が二つに折れ、引っ掛かりを失った燭台は窓の外に勢いよく吸い出されていった。それからも間髪いれず、グリフ神父は、まだ窓に引っ掛かっている燭台に椅子を振り下ろし続けた。目には竜巻に巻き上げられ、葉が全て散り、窓の方に猛然と向かってくる巨木が映っている。
 神に祈りながら必死に燭台を椅子で打ちつけて折り、最後の一本が二つに折れた頃には、もうすぐ目の前にその巨木が迫っていた。そのすぐ後ろには、猛獣の唸り声のような轟音を立て、今やいつ噛み付こうかと狙っている窓から視界一杯に広がった竜巻も迫っている。
「おお神よ!我を守り給え!」グリフ神父はその光景に声を荒げて叫び、力任せに必死でシャッターを引きずり下ろした。その直後、下ろしたシャッターに巨木がぶつかったであろう重い音が教会内に鳴り響いた。
 疲労と恐怖で顔から血の気がすっかり消え失せたグリフ神父は、生きた心地を失いながらも、信者用の机の下に急いでもぐりこみ、蝋燭の明かりが消え、闇に覆われた教会の中で身を縮め、無事に竜巻が通り過ぎる事だけをひたすら神に祈った。その時竜巻が直撃した。
 教会は巨人の腕で揺さぶられているように大きく揺らめいた。今までで一番激しい雷鳴が耳をつんざき雷光が網膜(もうまく)を突いた。所々で壁の内部で木材が弾け折れて裂けるような音が立て続けに不気味に聞こえる。
 グリフ神父は、この教会が古く、決して頑強(がんきょう)ではない事を考えながら、喉を詰まらせ震えていた。頭上で屋根が引き剥がされるような音がした時、グリフ神父は、もはやこれまでかと観念した。胸の前で十字を切った後、掌を固く組み、額にその掌を擦り当てながら縮こまる。
 怪鳥の叫び声のような雷鳴が、一段と激しさを増した。雷鳴が連続して鼓膜(こまく)を突く音と、野獣の唸り声のような突風の轟音だけが支配する長い時間が永遠に止まる事がないように感じられた。それはほんの三十秒ほどの間だったが、グリフ神父には時計の針が止まっているかのように錯覚するほど長く感じられた。その間は、絶対的な自然の力の前に、嵐の大海に浮かぶ頼りない小船に乗っているような錯覚に陥(おちい)っていた。
 やがて竜巻の轟音が、目の前から旅客機が遠ざかっていくかのような音になっていった。それに伴い、教会の揺れと竜巻の轟音もボリュームを絞ったように小さくなっていく。
 萎縮(いしゅく)した体から安堵に伴い力が抜けていくのが分かった。体はもう危険は過ぎ去り安全だと告げていた。グリフ神父は額にいくつもの冷や汗を浮かべながら、息をする事も忘れていた事に気づき、大きく胸に空気を吸い込んで肩でほっと息をし、まだ生きている実感を感じた。落ち着くまでに、しばらく呼吸が荒れ暗闇の中、生々しい自分の呼吸音だけが聞こえていた。
 教会の中は、さっきまでと一変して不気味なほどに静まり返っている。
 もう大丈夫だろう。グリフ神父は真っ暗な暗闇の中、手探りで体を机にぶつけないようにして、もぞもぞと机の下から這い出した。
 まず教会の中がどうなっているか調べなければならない。そう思い、そのまま立ち上がった時、ほのかな光りを横から感じた。その光を目でたどると、その光りは十字架に張り付けにされたキリスト像の奥にある床から十メートル程のステンドグラスから差しこむ柔らかな七色の光りだった。その光りに神の助けを感じたグリフ神父は、掌を組み、「神よ。私を助けてくれた事に感謝します」と深い感謝を込めつぶやいた。そして薄ぐらい中、手探りで歩み始め壁に到達するとそのまま同じように壁を伝い窓に向かった。
 手が冷たい鉄製のシャッターに触れた。足を止め、立ち止まると両手に力をこめシャッターを押し上げる。黒板を爪で引っかいたような鉄のシャッターとサッシの擦れ合う音がし、重いシャッターが上がると同時に、暗闇に慣らされた目をつくようなまぶしい光が教会の中に差し込んだ。
 先ほどまでの光景が嘘(うそ)のように嵐は去っていた。
 雨の上がった後独特の新鮮な空気が窓から流れ込み、鼻腔(びこう)に染み渡った。どこまでも畑の続く東の地平線を、命の暖かみを感じさせる太陽の黄金色の光が優しく掛り、地平線は、まるで大地に掛った花嫁のベールのように煌(きらめ)いて見えた。その光りが絵の具のように染みこんだ空は、黄金色(こがねいろ)に染まりながら光って見える。空はさっきまでとはまるで別の星かと思わせるほど、日の光が満ち、青く晴れ渡っていた。
 しかしグリフ神父の顔は、それとは対照的に曇っていた。この余りの空模様の変わりようを訝(いぶか)しがり、何か不吉な物を感じたからだ。
 時たま、自然は人の理解を超えた現象を引き起こす。しかしグリフ神父には、これが自然の引き起こした現象ではないように思えてならなかった。まるで何者かが、何かの目的の為、意図的に青い空に鉛色の重油を垂らして曇らせ、出来た油の膜を一瞬にして取り去ったような変わりようだ。何か作為的な深い意味が含まれていて、それを自分は見逃してはいけないとシャーマンの直感が警告している気がしてならない。ただ、それが、まだ何なのかは分からない。腑(ふ)に落ちない場所を調査し、文献を調べ考察を重ねない事には……そう思案を巡らしていた時、一際大きな亀裂音(きれつおん)が背後から鳴り響いた。はっとして後ろを振り返ると、その目に映った物は、ステンドグラスから差し込む幻想的な七色の光りと、シャッターを上げた窓から入り込んだ日の光りに照らされ、少し影を落としている教会の中で、浮きだったように白く発光している十字架に張り付けにされたキリスト像の姿だった。
 像の顔の部分には、幾本もの大きな亀裂が走っていた。又、生木が裂けるような音がして新たな亀裂がキリスト像の額を切り裂いた。
 唐突に予想だにしていなかった事が起きた。キリスト像の目の部分が赤く泡立ったかと思うと、その目から血のように真っ赤な液体が静かに像の顔を伝い流れ落ち始めたのだ。その直後、キリスト像の口からも、同じく赤い液体が、多量に溢(あふ)れ出た。まるで像そのものが生きているかのように……。その下の赤い絨毯(じゅうたん)の上に、溢れ出た赤い液体が染みこみ、赤い絨毯をさらに生々しい血の色に染め上げ、血だまりを作った。
 グリフ神父は、言葉もなくその光景に見入った。どうしようもない不快な黒煙が心を支配していくようだ。得体の知れない、覆い尽くすような大きな闇が、すぐそこまで迫ってきている事を神が自分に伝えている。それが朗報ではない事は明らかだった。

 雨が止み、長い夜が明けた。

 グリフ神父は仮眠も休みも取らず、最新のカメラを手にし、玄関の側の壁に備え付けてあるボールに満ちた聖水に指をちょんと付け、十字を胸の前で切って玄関の扉を開けた。
 早朝特有のひんやりと湿ったそよ風がグリフ神父の頬をくすぐった。
 外は雨上がりの新鮮ですがすがしい太陽の光りが、辺りを粉雪の反射光のように白く照らしていた。このような朝には、普段なら、教会を取り巻く森に咲く花でも眺めようかと散策でもする所だが今はそんな気にはなれない。
 玄関の扉に通じているコンクリートの五段の階段を降りて、地面に足をつけると、地面は予想通り、先ほどまで降り続いていた雨でひどくぬかるんでいて、柔らかくなった地面に靴跡が深くついたが、それに備え長靴をはいてきたので濡れる心配は無かった。
 教会の周辺全体を見渡すため十歩程前に進み、後ろを振り向いた。
 教会は、丁度教会の裏に広がっている森の出口付近に建っていて、普段なら森から漂う生気の満ちた空気と教会から発する神聖な空気が混じり、壮健(そうけん)とした雰囲気をかもし出している。その中で、いつもなら、小鳥達が謳(うた)うように囀(さえず)るのが聞こえる。
 グリフ神父は、この場所を敬愛していた。だが、今はどんなに耳を澄ませても、生き物の鳴く声は聞こえない。グリフ神父が、今、目にしている光景は、自分の記憶にとどめてある親愛なる景観とはかけ離れていた。
 先ほどの竜巻で、教会の周囲の森の木々は無残になぎ倒されていた。特に竜巻が直撃したと思われるところは酷(ひど)かった。木々があるどころか、地面は根こそぎ削り取られたように痛々しく土の肌がむき出している。その中で所々にかろうじて残っている木々は、巨獣が噛み付き肉を捻(ねじ)り切ったように、見るも無残な様相になっている。まるで森の中を神話に出てくるような大蛇が這いまわったように森が所々で寸断されている。それは竜巻の威力を如実(にょじつ)に現していた。
 改めてよく自分は無事でいられたなと思う。それに引き換(か)え、何故か教会は竜巻によって破壊された所もなく一見無傷に見える。神の助けか偶然か?しかし偶然にしては出来すぎていた。地面に付いた竜巻の軌跡(きせき)は、教会に当たる寸前で弾き返されたように進路が変わっていた。それは何か人知を超えた大きな力が働いたように思える。
 グリフ神父の脳裏に遥か昔の祖母の記憶が甦った。
――グリフ神父の父親の育ての親でもあるグリフ神父の祖母は、リューヒ・ハーモンと言って、ネイティブアメリカン――つまり部族の誇りを持つインディアンだった。その中でも彼女は、インディアンの中で最古の歴史を持つ、ホピ族出身だった。彼女は1877年にアメリカ合衆国で起きたネズ・パース・インディアン戦争に従軍し戦ったが、その戦争で愛する者と戦わなければならない戦争のむなしさを知り、その戦いの後、熱心なシスターとなった。その戦いに巻き込まれ両親を失ったグリフの父となる白人の少年と出会い養子にしたのはそんな矢先であった。
 グリフ神父は、その祖母に幼少の頃からよく聞かされてきた事を教会の様子から連想し思い出したのだった。
「いいかい、グリフ。私達神教の人間は、神様の御加護を受けているんだよ。特にこの教会のある聖地には、邪悪な者の力から守って下さる偉大なご先祖様の結界が張られているんだよ。だからいつでも神を敬いご先祖様を信じ、感謝を忘れてはいけないよ」
 遠い昔の思い出の中の言葉が声となって甦る。
 グリフ神父は、これがその神とご先祖のご加護かと感じた。そしてその言葉に含み針のように隠された重大な事に気づきはっとした。邪悪な者から守ってくれる力……。もし邪悪な者が、悪魔だとしたら……それで結界が発動したならば……それは悪魔の出現を意味しているのではないか!?しかし神の予言書によれば、悪魔が次に悪事を企てこの地を制圧する為に地獄から大挙して出てくる時は、異常を連(つら)ねたような日食が起こると記してある。だから代々神教のシャーマンはその事をいつでも忘れないように、悪魔復活の前兆を印す首飾りを付けている。それがグリフ神父にとっては黒い太陽の紋章だった。それはグリフ神父の胸元に収められている。しかし2004年の今、その日食は起こらない。だからその推察(すいさつ)には矛盾が生じる。しかしこの事態を巻き起こした者が悪魔でないとは完全に断定出来ない。教会に掛っている結界が発動したとグリフ神父は思っているからだ。
 ともかくグリフ神父は悪魔の痕跡(こんせき)がないか、気になる所を調べる事にして教会から出てきた。
 グリフ神父は、竜巻が猛威を奮い、深い爪痕(つめあと)を残した場所に目をやった。
 目の前には、所々にひょろりとした枯れ枝のような木がまばらに立つ、広々と広がる畑が見え、その中に竜巻により大地の腸(はらわた)のような深い溝が出来た光景が広がっていた。
 グリフ神父は、その跡に何か証拠となる物が残されていないか、その跡を慎重になぞりながら竜巻の発生地点であるサンディエゴの街に向かって歩み出した。
 六時間かけ、教会とサンディエゴの街の間を痕跡がないか注意深く調べながら、三往復半したが、悪魔に結びつく痕跡は何も見つからなかった。
 腕時計を見てみると、教会を初めて出発してからもう六時間弱が過ぎ、もう午後一時近くになっていた。皆昼食をとる頃だ。ひとまず悪魔の出現を断定する物が見つからなかった事に胸を撫で下ろし、竜巻の作った土色の畑の中の溝に沿りながら帰路に着いて二分程歩いていた時それは起こった。
 突然、雨上がりの湿った空に鈍い銃声が鳴り響いた。
 驚き銃声のした方向を見ると、二キロ程先に昔ながらの農家と納屋(なや)が広大な畑の中に孤立するように建っていた。そこから微かだが中年の男と思われるわめく声が断続的に聞こえる。
 グリフ神父は、何か今回の事と関連があるかもしれない。それに銃声がするのはただ事ではない。ほおってはおけないと判断し、進路を変え、その農家の方へ足早に向かった。
 だんだんと近づいていくにつれ、農家の細部まで見えてきた。小柄の中年男性が納屋の入り口に立ち、納屋の入り口の粗末な縦板を繋げて作った木製のドアに向かって、猟銃を構え、ドアを睨みつけている。その横にその男の妻と思える人物が、不安そうな面持ちで立っていた。
「出て来い!化け物め!おれの家を荒らしやがって!ぶっ殺してやる!!」
 激しくわめく声が、はっきりと聞き取れる。さっきのわめき声はこの男のようだ。何故だか分からないが、どうやら怒り浸透らしい。
 さらに近づき、その夫婦の表情や服装が、はっきり見える所まで進んだ。もう五十メートルと離れていないのに、その夫婦は、グリフ神父が近づいてくる事に気づかない。よほど神経が納屋の中の物に集中しているらしい。
 さらに近づいて見ると、中年男の顔は、小太りで、無精ひげともみ上げが繋がって顎(あご)を覆い、髪は整髪料などおよそ無縁の寝癖のついたまま起き出したような感じだった。
 腹は、ビール腹で、汚れた農作業用の服を着ている。この近辺に住んでいるのなら、自分の教会に一度くらい来ていてもいいはずだが、この夫婦の顔には見覚えが無い。グリフ神父は、訓練により一度見た人の顔は絶対に忘れない。それなのにだ。多分無神論者なのだろう。
 男の猟銃を構える目つきは野獣のようにギラギラと鋭く光り、今にも獲物に噛み付きそうだ。その険相に声をかけるのを一時ためらうほどだったが、なるべく警戒されないように出来るだけ穏やかな笑みを浮かべ声をかけた。
「どうしました?」
「……あん?」
 中年男は、猟銃の向きをドアに向けたまま、ゆっくりと顎を突き出し、顔だけを動かし、訝しそうにグリフ神父を見た。
「なんだ神父か」吐き捨てるようにその男は言った。
「あなた!」横にいる男の妻の軽い叱咤(しった)がとぶ。面白くなさそうに男はドアに視線を戻した。
「どうされました?」気を取り直し、今度はその男よりも物分りのよさそうな妻に尋ねた。
「どうもこうもねえ。この中のくそ野郎がおれの家畜をやりやがったんだ!」
 答えたのは男の方で、忌々しくいらいらした声で罵(ののし)った。
 グリフ神父は、悪魔に結び付く物がもしかしてここにあるのかもしれないと思い、「この中に何かいるのですか?そいつはどんな物でしたか?」と急いで尋ねた。
「分かりません……。今朝早く、うとうとしていると、いきなり竜巻警報がなって、飛び起きて……。運良く竜巻の辿った所は、ここから大きく外れて助かりましたけど……」
 男の妻は続けていった。
「それで胸を撫で下ろして安心していました。……でもそれで終りかと思ったらそうじゃなかったんです。突然、地震でも無いのに窓がガタガタと揺れ出して、机の物が独りでに動き出して、それから一階からけたたましい食器の割れる音が何度も聞こえましたわ。そしたら今度は、寝室の窓が突然割れて私の大事にしていた猫のミーシャがその窓から飛び出して行ってしまってっ……」言葉尻は何かにすがり付きたい気持ちを彷彿(ほうふつ)させた。
 男の妻は、顔を蒼白させ喉を詰まらせむせび泣きそうになりながらも続けた。
「……しばらくして、ミーシャの暴れ狂うような大きな声がして。その時、蛇が喉を鳴らすような『シャー!!』と言う耳障りな大きな声が聞こえましたわ。……その後は、不気味なほど静まり返って……ああ。きっとそいつに私のかわいいミーシャは殺されてしまったんだわ!……。酷いわっ、息子だけではあき足らずミーシャまで奪うなんてっ……」
 男の妻は、嗚咽(おえつ)を漏らしながらそう言った。そして、ハンカチをポケットから取り出し、目に当て顔を覆って押し黙ってしまった。
 それを聞き、ポルターガイストかもしれないと、一瞬そう言う考えがグリフ神父の脳裏によぎった。
 それを聞いていた男が、猟銃の銃口を少し下げ、溜息をついた後、口を挟(はさ)んだ。
「それで俺が猟銃を持って外に出たら、納屋の方から家畜の悲鳴が聞こえたんだ。俺が納屋に駆けつけた時も、その悲鳴は止まなかった。それどころか、骨を噛み砕くような不気味な音がして、家畜の悲鳴が小さくなって、駆けつけて一分とたたない内に、家畜共の悲鳴が全部無くなっちまったんだ。きっと家畜を何かが全部殺っちまったに違いねえ!もう四時間以上もこうしてる!ちくしょうめ!!」
 男は怒りをあらわにし、険しい形相で、降ろした猟銃をドアに向かって再び構えた。
「もう我慢できねえ。撃ち殺してやる!」
 男が声を荒げ、猟銃の引き金を引こうとした。グリフ神父は慌ててそれを制した。
「待って下さい!中の家畜に当たったらどうするんです!」
「もう全部殺されてるさ!生きてたら何かの物音ぐらいするはずだ!」男は吐き捨てるように答え、猟銃の狙いを定めた。
 確かに生命の気配は感じない。納屋の中に生きている者はもういないだろう。命を宿す存在は……。グリフ神父は、シャーマンの力を使い納屋の中の気配を注意深く探ってみた。そして中に確かに何の気配も感じない事をすばやく確かめた。
「わかりました。ここは私に任せてください」グリフ神父はそう言って、猟銃の銃身に手をかけ銃口を下げさせ納屋のドアのとってを握った。
「お、おい。あんた何をする気だ?危ないぞ!もし開けた時、中の奴が襲いかかってきたらどうするんだ?」男が戸惑いながら言う。
 その言葉を尻目に、グリフ神父は、観音開きのドアを押し開けた。蝶番(ちょうつがい)のきしむ音がし、生暖かい重い空気の塊が、通りぬけていくのを感じた。それと同時にふだん余り嗅(か)いだ事の無い奇妙な臭いが鼻を突いた。しかしすぐそれが何なのか分かった。それはむせかえるほどの鉄臭い大量の血の臭い。
 にわかに体がこわばるのを感じた。日の光りが、開いたドアから納屋の中に真っ直ぐな帯のように差し込んでいる。空中に漂う埃(ほこり)が、日の光を受け、白いもやのように目の前に淡く光り漂っているのが見える。しかし日の光は、納屋の両脇と奥までは届いてはなく、奥と両脇の方は暗くて良く見えない。その光りに照らされ、納屋の中心の床に、赤いボールのような物が転がっているのが目に飛び込んできた。余りのことに、一瞬それがなんだかよく分からなかったが、目を凝らし良く見ると、それが豚の頭部だと言う事にほどなく気づいた。目がつぶれ目と首の付け根からおびただしく出血している。口は奇妙に歪(ゆが)み、まるで笑っているように見える。いまだに出血が止まらない事は、このような姿にされてから間も無い事を示している。
 グリフ神父は、忌避(きひ)の声を漏らし、吐き気を抑えながら、後ろにいる男に尋ねた。
「照明のスイッチはどこにありますか?」
「入り口のすぐ横の壁にあるよ。どうしたんだ?何があるんだ!?」
 男の声には、不安がにじみ出ている。男は、グリフ神父の体が目隠しとなり、まだ中の様子を目にしてはいないようだ。
 グリフ神父が、手探りで壁に手を伝わせていくと、男の言う通り、すぐスイッチが手に触れた。この夫婦がこれから見ることになる光景を目の当たりにした時のショックを考えてスイッチを入れるのをためらったが、確かめないわけにはいかず、思いきってスイッチを入れた。
 ぱっとオレンジ色の照明に照らし出され、目の前にさらされたのは、入り口を境に異世界を思わすような地獄絵図だった。
 滴る深紅の血が、ペンキを塗ったように納屋の壁一面に塗りたくられている。
 柵(さく)で分けられた床の上に家畜の死体は無数に転がっており、何頭いたのか、まともに数が数えられないほど、死体はバラバラにされていた。
 あるものは、干し草用の三つ又で、串刺しにされ、体のいたる所を齧(かじ)り取られ、血がおびただしく流れている。あるものは、頭の真中(まんなか)が噛み千切られたように無くなっていた。又あるものは腹を裂かれ、内臓がすっぽり取り出され無くなっていた。どうみても動物の仕業とは思えない。
 グリフ神父は一歩中へと踏み込み、男がグリフ神父の肩越しに、中を覗き込んだ。
「あっ……!」その瞬間、男は言葉を失い、固まり立ち尽くした。ショックの余り猟銃を取り落とし、顔から血の気がさっと引き、口をぽかんと開け、唖然(あぜん)とした。家畜を哀れんでか、それとも財産である家畜を失ったためか。
「あなたどうしたの?」妻は震える声で尋ねたが、男はそれには答えられなかった。
 妻が恐る恐る男の肩越しから覗(のぞ)きこんだ。驚きもせず、じっとしばらく見つめている。どうやら今まで見たことの無い、信じがたい光景に、何を目にしているのか分からないようだったが、やがて気づいたのか、目を見開き、「ひっ!」とくぐもった恐怖の声を上げた。そのまま恐怖で引きつった顔に両手を当て、よろよろと後退(あとずさ)る。妻はわなわなと震え、むせび泣きながら喉(のど)を振るわせ、やっと絞り出した声で言った。
「だれが……こんな酷い事を……」
 おそらく女の頭の中は、狂人がここらにうろついている。まさか自分たちの身に起こるなんてという、信じられない気持ちと、恐怖で埋め尽くされているだろう。しかしグリフ神父の考えは、それとは違っていた。これはおよそ人間の仕業(しわざ)ではあるまい。こんな事をしても何の得にもなりはしない。完全に狂った人間という線も捨てられないが、これまでの情報を統合して、導き出された勘(かん)では、どうしてもそう思えない。だとすれば、何かこの殺し方に意味があるのだろうか?一見、正気の沙汰(さた)とは思えない不可解な事に思える物ほど、もっともな理由があり、解明への重要な糸口になる事も少なくない。その考えが脳裏に浮かんだ時、はっと電光掲示板のようにシャーマンに伝わる本のページの言葉が頭に浮かんだ。
《悪魔とは別次元の生物であり、この次元で活動するための体を、活動する次元の生物を捕食する事によって受肉し、創(つく)り出す》
 そうだ!それならば、この奇妙な殺し方も説明がつく。家畜の体が、部分的に噛み千切られているのは、脳を作るには脳を捕食し、目玉を作るには目玉を捕食すると言う理由からだろう。
 後はこの説明を裏付ける確証を得ることだった。
 グリフ神父は、その考えに基づき、納屋の中を綿密(めんみつ)に調べ始めた。一面にうっすらと血膜を張る土の床は、一歩踏み出すごとに血が足元に絡みつき、幾分乾(かわ)いてゲル状になった血が靴跡(くつあと)の形を残す。
 グリフ神父は納屋の奥まで調べた時、ついに重要な物を発見した。それは血溜りに残された奇妙な足跡だった。まるで映画で見た恐竜のような三本の太い指の付いた足を押し付けたようだ。鳥の足跡にも似ているが大きさは比較にならないほど大きい。たぶん自分の靴跡と同じようにして出来た物だろう。これを見た瞬間、グリフ神父は、ある事件の記事を思い出した。

――1885年冬、二月九日。イングランド南部を史上最大の寒波が襲い、デボンの土地が一夜にして白銀の世界に変わった。
 夜が明けると、一面に積もった雪の表面には、不思議な見慣れぬ足跡が、鳥や獣の足跡に混じり、延々と続いていた。それはジグザグを描きながらも、五つの教区をまたがり、庭を抜け、そして屋根さえも越え、160キロも続いていたと言う。現地の人によれば、その足跡の長さは十センチ、幅七センチほどの大きさがあり、二十センチ置きに記されていたと言う。その足跡に対しては、蹄鉄の割れた小馬やキツネ、カワウソ、ツル、ヤマネコ、ロバの物と色々な説が出たが、土地の人は悪魔の足跡に違いないと噂(うわさ)し合った。
 不気味なその足跡は、トートゥンズ教区の公園の中央で突然始まり、野原のど真ん中で終わっていた。まるでそこから飛び立ったように。
 ある村では、納屋の中に入ってから、反対側に抜け出ていたらしい。足跡を付けた生物は、直系十五センチの穴をくぐり抜けていた。
 村人の一部は、野獣がうろついているのだろうと考え、干草用の三つ又やこん棒を手に足跡を辿(たど)ったが何も見つかる事は無かったと言う。そしてそれは未だに謎のままとされている――

 今、自分の調べているこの納屋の状況とこのエピソードには類似点がいくつかあるではないか。
 まずこの話しと同じように、どこかに潜(くぐ)り抜けた跡が無いか隅々(すみずみ)まで良く調べた。しかしそれらしい跡はなかった。男にこの納屋の出口は他にあるかと訊いても、自分達が入ってきた物しか無いと言う事だった。
 グリフ神父は持ってきたカメラでストロボをたき、この足跡の写真を数枚撮った。
 腰を下ろし、まじまじと目を近づけながら見て、丹念(たんねん)にその足跡を色々な角度から調べ尽くし考察した。
 出来るだけ、今の内に手がかりとなるものを見つけておきたかった。自分の帰った後は、この夫婦の通報によって、やがて警察がやってきて、一般人立ち入り禁止になるだろうから。しかし他にめぼしい手がかりは得られなかった。
「ふう……」
 しばらく腰を下ろし、食い入るように調べていたグリフ神父は、長々と溜息をつき、腰を上げ、すっくと立ち上がった。
 もうここにいても得られる物はないだろう。グリフ神父は入り口付近で、まだ唖然としてつっ立っている男の方に歩み寄った。いくらかショックが薄まり、幾分落ち着きを取り戻し、状況を呑み込めるようになった男は、独り言のように呟いていた。
「これは動物に出来る事じゃねえ……人間がする事でもねえ……。これは、まるで悪魔の仕業だ……」
 その言葉は実に当を得ていたが、本気で悪魔の事を信じている訳ではないだろう。
 歩み寄ってきたグリフ神父に気づいて、我にかえった男は、グリフ神父が写真を撮っていた事を思いだし、何を撮っていたか、怯えと苛立(いらだ)ちの混じった声で尋ねた。しかしグリフ神父は、奇妙な足跡があったとだけ言い、悪魔云々(あくまうんぬん)については話さなかった。その訳は、この懐疑的無神論者に言っても信じる事は無いだろうし、このまま狂人の仕業と思わせていた方が都合(つごう)がいい。なぜなら狂人がうろついているとなれば、警察が周辺に警戒発令を出し、おのずと住民は不要な外出は避け、警戒し、これをやった者に襲われる危険性も薄くなる。
「すぐに警察に通報し、用心してください」
 グリフ神父は通り過ぎ際にそう言い、男は生気の無い表情で、「……わかった」と答えた。今、グリフ神父に出来る事はそれだけだった。
 出口を潜ると、男の妻が、納屋のドアの横でまだうずくまり肩をしゃくりあげ泣いていた。グリフ神父が出てきたのに気づき涙に濡れた顔を上げ、抑揚の定まらないヒステリックぎみな高い声で言った。
「神父様……これは一体何なのでしょうか?私はこれが人のやった事とは思えません!もしかして日ごろから信心のない私達の招いた不幸なのでしょうか?」
 グリフ神父は、ああこの人は、根は信心深い人だと思った。同時に間違った宗教に入ってしまえば、教祖の言う事なら例え悪い事でも妄信的(もうしんてき)に正しいと信じ込み、罪の念なくやりかねない、そんな危うさも内在しているなと読んで答えた。
「そんな事はありませんよ。信じる者にも、信じない者にも不幸は訪れます。しかしあなたは何か心に内憤(ないふん)しているものがあるのではないでしょうか。私にはそう思えます。私に出来る事であればいつでも教会に来て下さい。力になりますよ」
 その言葉を聞いて、女は顔を上げ、しばらくグリフ神父の目をじっと見つめていた。その後、救いを求めるように話し始めた。
「実は、私は行きたいのですが、夫が許してくれません」
「え?それはなぜですか?」グリフ神父は眉をひそめ訊いた。
「……それは、二年程前に私達の一人息子が、久しぶりに大学から帰ってきたんです。でも、なにやら怪しげな宗教に入っているらしくて、けっこうな額の家の金を持ち出してすぐに出ていってしまったんです。行き先も告げずに。それから息子とは連絡が取れません。勿論(もちろん)、警察にも捜索(そうさく)してもらいましたが見つかりませんでした。
 警察の話ではこれまでのパターンからもうあきらめるしかないと……。それ以来、夫は宗教と聞くと懐疑的(かいぎてき)になってしまって……」
「そうですか……それで……」
 グリフ神父は、その気持ちも分からなくは無かった。男の荒い言葉にも何か強がっている心の叫びのようなものを感じたのはこれだったのかと悟った。
「今、あなた達に必要なものは心の癒しです。全ての宗教がそのような悪い物では決してありません。宗教とは生きる希望を導きだす物でもあるのです。よろしければ二人で教会に御越しになってください。きっと光りが見えるはずです」
 妻の顔は、にわかに明るくなったが、まだ影が残雪のように残った顔で微笑んで言った。
「ええ、分かりましたわ。ありがとうございます、神父様。……それと一つ御願いがあるのですが……」
「猫の事ですね?見かけたら送り届けてあげますよ」と心を読んで即答した。
 妻は意気消沈した面持ちで、「御願いします」とだけ添えた。
 グリフ神父は頷(うなず)いて猫の特徴を訊いた後、「では、私はこれで」と言い、教会に向かい帰路についた。ただし今度は畑の中の竜巻が作った道ではなく、農家に続いている舗装された真っ直ぐ地平線へと伸びる道を足早に歩いた。もう充分手がかりは掴(つか)んでいたし、今は少しでも早く教会に帰り、今後の対策を練る事が先決だ。それにこの道の先には、グリフ神父と仲の良い、知人の住むコミュニティーの住宅街がある。そこに立ち寄り、知人に今、わかっている事についての注意を促(うなが)す目的もあった。
 一時間程歩き、そのコミュニティーに着いた。簡素(かんそ)な住宅街で同じような家が所々建ってあり、庭の芝生(しばふ)も一様にきれいに刈られている。
 アメリカのコミュニティーは、同じくらいの経済階級の人達が、同じような考えの持ち主達と集まって同じような家を作る。それゆえ、ここにも同じようなたたずまいの家が目立つ。日本の家のように垣根は無いが、それが一種の精神的垣根を作っている。もっと金持ちになり、良い家に住みたい人は、そういう金持ちの人達がいるコミュニティーに移り住む。これにより考えの合わない者や経済階級的に合わない者は出ていく事になり揉(も)め事も少なくなる。ただその側面として貧困にあえぐ人達は、同じように貧困にあえぐ人達のいる所へ押し込められ、スラム街を生む事になる。コミュニティーの考えは、身内を第一にするアメリカ人らしい考え方だが、そういう貧困にあえぐ人達は、ますます劣悪な環境におとしめられ、救いが行かないのではないかとグリフ神父は常日頃から懸念(けねん)していた。しかしこのコミュニティーはそんな懸念とは一見無縁と思われる、極一般的な中流階級の静かな住宅街である。
 グリフ神父は、住宅街の中の舗装道路を通り、目的の知人の家へ足早に向かった。
 太陽の光が燦々(さんさん)と道路を照らし、道路に残った雨水がきらきらと宝石のように輝(かがや)いている。湿っていた空気が照りつける太陽の熱で幾分渇いたように感じられた。そんな中、前方から喫茶店のドアが開いた時のようなチャイムの音が鳴り、前方五十メートル程にある家のドアが開き、よく見覚えはあるが、何故だか肩を落とし元気の無い黒人少年が出て来た。手には嵐が去ったばかりだと言うのに、黒く太く長い釣具を持っている。この少年こそがグリフ神父が会いに来た知人であった。
 出し抜けに玄関の奥から、中年女の噛み付くようにヒステリックな、「ちゃんと取って来るのよ!わかった!!」と言う、グリフ神父にとっても黒人少年にとっても険悪に感じる声がした。それは少年の養母の声だった。
 その声が一層少年から子供らしい明るさを奪っていった。
(……またか!)グリフ神父はそう思い、心の中で舌打ちした。少年はうつむいたまま、又、怒鳴られるのを恐れるように、音がしないよう、そおっとドアを閉めた。そして険しさと悲しさの入り混じった表情で力なく溜息をつき、とぼとぼとうつむいたまま歩み出した。
 グリフ神父は、それを見ていて、いたたまれなくなり、足早に歩み寄りわざと陽気に声をかけた。
「やあ、サン!」
 いきなり声をかけられた少年は、肩をしゃくって驚き、曇った表情で顔を向けたが、声の主がグリフ神父とわかるとたちまち弾かれたように子供の無邪気な笑顔になった。
「ファーザー!!」
 そう言い、足早に駆け寄ってきた少年の名は、サン・ブライアン。背の高さは140センチ位で十歳だから平均的な背の高さだろう。目鼻は比較的くっきりとしていて、髪の毛は縮れている。そのくりっとした頭が今はグリフ神父の胸の位置にある。その他には、濃い眉毛が特徴的だが、それ以外に目立った特徴は無く、普通の子供と変わらない。ただ違っていたのは、七歳の頃、両親を事故で無くし、天蓋孤独(てんがいこどく)の身となった後、母方の叔父叔母にやむなく引き取られていた事だった。
「ファーザー、ここで何してるの?」
 サンが朝の光りを取り戻したように屈託(くったく)なく言う。
「君にあいに来たんだよ」
 グリフ神父は笑顔でサン少年の頭を撫でながら穏やかに答えた。
「えっ?僕に?なになに?」
 サン少年は興味津々で聞いてきた。何かグリフ神父が、いつもの様に吉報を持ってきたのかと期待している目だった。しかし残念ながら、今日会いに来た理由は心踊る物ではなかった。
 グリフ神父は少し声の調子を落とし、サン少年が手に持っている釣具に目をやって尋ねた。
「これから釣に行くのかい?」
 サン少年の表情が曇り、サンはうつむいて言った。
「うん。僕これから自分の晩御飯の魚を取ってこなきゃいけないんだ。何日も大雨で外に出られなかったから食べる物があまり無いんだって」
 グリフ神父は、これがネグレクトに当たる単なる児童虐待だと言う事にすぐに気づいた。食べ物が少ないなら買い物に行けばすむ事だ。
 グリフ神父は、しゃがみ込んで目線をサン少年と同じ高さにすると、サン少年の目を見つめながら穏やかに言い聞かすように言った。
「サン。つらいのなら私に言ってごらん。きっちり注意してあげるから」
 少し間を置いてからサンはうつむいたまま答えた。
「いいんだ。僕、養い子だからこれ位しないと……」そう言って前方に駆け出し、道端の小石をえいっ、と蹴った。
 しかしグリフ神父には、サンが自分に心配をかけまいと気を使っていてくれているのだと思った。そう思うといたたまれなくなった。はたして今の親の元にこの少年を居させておいて本当に幸せになれるのだろうか。もしサンが望むなら自分の養子にしてもいいとグリフ神父は以前から思っていた。
 前を駆けていたサンが、突然振り向きグリフ神父に言った。
「そうそう。今年のハロウィンは、ファーザーの教会に遊びに行けなくて残念だったなあ」
 もうこの事を追及してほしくないのかサンは話題を変えた。昨日はハロウィンだったが大雨で子供達の楽しみにしていた御祭りはキャンセルになっていた。
 グリフ神父は、にっこりと微笑み、「又おいで。今年の分までたくさんおかしを用意しておくから」と言った。
「うん!」サンは元気良く答えてグリフ神父の所に戻って来た。
 グリフ神父は、この問題はこのままにしては置けない。早急に折(お)りを見て調べてから対処しようと考えていた。
 グリフ神父は腰を落としながら、戻って来たサン少年の顔を見据え話しかけた。
「サン、良く聞きなさい。ここは危ない。すぐ家に戻りなさい」優しく、しかし凛(りん)として。
「え!?どうして!?」サンが驚いたように言う。
 グリフ神父は、さっき農家で見てきた事の経緯(けいい)を話し、犯罪者がうろついているかもしれないから駄目(だめ)だと話した。ついでに先ほどあった妻の猫がいたら知らせておくれと言い、猫の特徴を教えた。ここが安全になるまでは探してはいけないよと強く念を押して。
 サンは少しの間、眉をひそめ、考え込むような難しい顔をしていたが、やがて、「わかった。又、怒られるかもしれないけど、僕、ファーザーの言う通りにするよ」と答えた。
 グリフ神父は安心し、にっこりと微笑み、サンの頭を大きくて暖かい手で愛情を込め撫でた。サンも撫でられながら嬉しそうに微笑んでいた。
「でも残念だったな。釣の帰りにファーザーの所に寄ろうと思ってたのに……でもファーザーに会えたからいいや。今度は一緒に遊ぼうね!」
「楽しみにしているよ。サン」グリフ神父は心からそう答えた。
「うん。じゃあね!バイバイ!又来てねファーザー!」サンは少しさみしそうな笑顔で言ったが、グリフ神父に会えたのがよほど嬉しかったのか、玄関から出て来た時とは、打って変わって家の方へ元気良く駆けていった。
 玄関に着くと養母に見つかりたくないのか、そおっと音のしないように玄関のドアを開けて、グリフ神父に手を振ってから入り、静かにドアを閉め鍵をかけた。
 グリフ神父は、手を振ってそれに応えながら見送った後、太陽が西に傾き並木の影が長く伸び、夕暮れの日の光で染まっている歩道を足早に歩き、教会への帰路に着いた。
 不意に並木道の街頭スピーカーからチャイムの音が鳴り、淡々とした、抑揚とスピードの無い事務的な遠くまで届く声で、「犯人が周辺をうろついていますので、御住まいの皆様は外出しないで下さい」と言う内容のアナウンスが流れた。にわかに周辺の家からざわめきの声が聞こえる。
 不意に道路に映る並木の影の色が徐々に薄くなっていったかと思うと、急に周囲が暗くなった。空を仰ぎ見ると、太陽が鉛色の雨雲に次第に覆われ始めていた。
 さっきまでの明るさが嘘のように無くなり、グリフ神父はこの変わり様に、今朝、竜巻が去り、嘘の様に晴れ渡った時に感じた何か得たいの知れない違和感と不吉さを感じた。
 グリフ神父の心には、その事が教会についてからもずっと引っ掛かっていた。まるで誰かが天候を操りながら、ずっと自分を空の上から監視していたような気持ちがしている。そして、それはただの妄想では無く事実だった。

悪魔のまやかし

 サンがグリフ神父と別れて家に戻ってから、サンの身には誰も予想だに出来なかった事が起こっていた。
 サンは家に帰った後、養母に見つからないようにそおっと音を立てず、二階の自分の部屋へと戻ろうとして、その部屋に続く階段を登っていた。
 幸い養母は庭に出て、ラジオ番組を大音量で聞きながら洗濯物を干していた為、サンが家に戻ってきた事には全く気づかなかったようだった。サンがやれやれ怒鳴られず部屋に戻れそうだなと溜息をついていた時、台所の方から、「ミャー」と言う人の赤子の泣き声に似たかわいらしい子猫の鳴く声が聞こえてきた。その時のサンの頭の中には、グリフ神父から見かけたら伝えて欲しいと頼まれていた、農家の主婦が息子の変わりにと可愛がっていて、今は行方知れずで探していると言う猫のミーシャの事がよぎっていた。もしかしてその猫かも。冷静に考えてみれば、探している猫では無い確率の方がずっと高いのに、サンは何故かそう思いこみ、どうしようもなく気になって猫が逃げないように足音を忍ばせ、なおかつ早足で鳴き声が聞こえてきた台所に向かった。
 台所に着いて周りを見渡すと、誰も居なく、何かが物足りないさみしい台所は、下ろされたカーテンを通して夕暮れの光が入り込み、哀愁を感じる黄昏色に染まっていた。ただカーテンが既(すで)に下ろされているせいで薄暗い。
 サンは、スイッチを入れ、電灯をつけると猫が台所に居ないかと探してみたが、猫の姿はどこにも見当たらず、鳴き声も聞こえてこない。もうどこかに行っちゃったのかとあきらめ、自室に戻ろうとした時、不意に背後から「ミャー」と言う強い鳴き声が聞こえた。
 サンは、はっとして振り向いた。目にはカーテンが映った。どうやらカーテンの向こうの窓の外から聞こえてきたようだ。
 サンは、足音がしないように慎重に足を忍ばせ、カーテンに近づき、カーテンを掴むと、そおっと開けた。
 すると窓のすぐ外の足元に夕暮れの光りを浴び、体が半分金色に染まりながら光って見えるかわいい白猫が、ちょこんと座ってサンを見上げていた。
 サンは、その無邪気な可愛さに自然と顔をほころばせた。猫が怖がらないように腰を下ろし、目線を落としてじっくり見ようとする。そうすると猫の首には首輪が付いている事に気づいた。やっぱり野良猫じゃない。そうだ確か……。
 サンは、グリフ神父が言っていた猫には、首輪にハートのマークが付いていると言っていたのを思い出した。しかしあいにく猫に首輪がついている事はわかるが、夕暮れの光が首輪に反射し眩く光っていて、どんな模様までかは良く分からない。
 サンは、模様が見えるように首の角度を変え、首を覗きこむように動かした。
「ミャー」猫が一声鳴いて、四本足ですっくと立ち上がると、サンが模様を確認する前に、家の角に向かって駆け出してしまった。
「待って!」
 サンは慌てて窓を開け、外に出ると猫の後を追いかけた。
 サンが家の角を曲がると、猫は前方十メートル程の所で後ろを振り返り、サンをじっと見据えていた。
「何も恐い事しないから、こっちにおいで」
 サンは猫なで声で手招きしながら言った。
 猫は警戒しているのか、サンの目をじっと見つめてこちらの動きを探り、しばらく動こうとしない。その時、幸いにも猫の首輪の模様を見る事が出来た。その模様はグリフ神父が言っていた通りのハートマークだった。
(この猫だ!)サンは喜色を浮かべ確信し、猫に近づこうと一歩前に踏み出した。
 猫は弾かれた脱兎(だっと)のごとく、庭の車庫の方に向かって走り出した。
「待てよ!」サンは声を上げ、急いでその後を追いかけた。
 猫は車庫のシャッターのわずかな隙間(すきま)から車庫の中に入り込んだ。
(しめた!)サンは心の中で歓喜した。これで捕まえる事が出来るかもしれない。
 サンは車庫に着くと、猫が車庫の中から出てこないように願いながら、シャッターを自分の体が入る位の高さに押し上げ、はいつくばって車庫の中に入った。それから急いでシャッターを下ろし、出口を塞いだ。
 まだ猫は車庫の中に居るはずだ。
 サンは真っ暗な中、手探りで車庫の明かりのスイッチを探し出すと、電灯をつけた。
 照明がつき、何も無い闇の世界から色とりどりの明るい世界へと情景が一変した。
 車の横にプラスチック製の粗末なバスケットがあり、その上に追い求めていた猫が鎮座(ちんざ)している。時折、バスケットの中のすぐ側にある橙色(だいだいいろ)の丸い物を激しく爪で引っかいたり、噛み付こうとして歯を一生懸命に立てている。
 そうだった。この丸い物は、自分がハロウィン用にかぼちゃをくりぬいて作ったマスクだった。
 今年のハロウィンに身につけるはずだった、使い古しの白いシーツは、猫に踏んづけられている。
 最初、猫がかぼちゃと戯(たわむ)れているのかと思ったが、懸命に噛み付いている様子を見ていてはっと思い立った。サンは口元に笑みを浮かべながら言った。
「何だお前、もしかしておなかが減っているのか?」
 猫は一呼吸置いた後、「ミャー」とその問いに答えるように鳴いた。
 サンは、何かこの猫と心が通じ合ったようで嬉しくなりながら、「待ってろ。今、持って来てやるからな」とせわしなく言い、急いでシャッターを少し上げ、その下を這って潜り抜け、外に出るとシャッターをピシャリと下ろした。
 猫を追う為に出てきた窓から台所に駆け込むと、冷蔵庫を開け、ミルクを取り出す。それから食器棚の皿を掴むと一目散に猫の元に向かった。その時のサンの心には、何か自分がとてもいい事をしていると言う、久々に心洗われるような新鮮な喜びがこみ上げていた。
 すぐに車庫に着くと、サンはシャッターを少し開け、中に入り、閉めてから、猫が居るはずの場所を見た。
 猫はそっぽを向いて、バスケットの中にさっきと同じように座っていた。サンが声をかけ、猫を振り向かせると、サンは、さもいい物を持ってきたように、ミルクのパックを揺らして、チャプチャプと音を立てた。
 猫は、揺れるパックの動きに首を合わせ、パックをじっと見ながら興味をそそられた様子で、金色に見える目をらんらんと輝かせている。
 サンはその様子を見て、にんまりと微笑むと、持ってきた皿にミルクを注ぎ、猫の方にそれを持って行った。様子をうかがいながら怯えさせないようにして近づく。
 ミルクを注いだ皿を猫の足元の床に置く。猫はその間、サンを観察するようにじっと見ていた。
「おいで。欲しいだろ、これ」
 そう言ってサンは手招きしたが、猫はきょとんとした顔でよってこない。
(まだ警戒しているのかなあ)サンはそう思い、警戒を解くため置いてきた皿から数歩後ろに下がった。一刻後、しばらくして、猫は警戒が緩まったのか、汚れて古ぼけたバスケットの中からぴょんと飛び出て皿の近くに寄ってきた。
(いいぞ!)サンは心の中で歓喜した。このまま手なずけられれば、グリフ神父に渡しに行けるぞと……。
 しかしその愛らしく見えた猫は、そろそろと皿に近づいてまでは良かったが、あからさまに不機嫌な声で、「ミャー!」と鳴くと、ミルクが湛(たた)えられている皿を足で乱暴にひっくり返した。皿は不快な音を立てながら割れ、白い染みがとたんに床に広がった。こんな物では満足できないと言うように。
 サンはビックリしながらそれを見て、心の底からむっとする感情が胸に込み上げてくるのを感じた。猫に、ついさっきまで抱いていた愛らしさは、どこかに吹っ飛んだようだった。サンは顔をしかめながら声を荒げ言った。
「何するんだよ!食べ物が欲しいんじゃないのかよ!もう持ってきてやんないからな!」
 その時、猫が金色の目を爛々(らんらん)と氷の様に冷たく光らせ、サンを威嚇(いかく)するように激しく睨(にら)んだ。
 不意にサンの顔を撫でる冷たく嫌な空気が流れ出し、周囲の音がラジオのボリュームを絞ったように小さくなっていった。
 突然、耳鳴りが聞こえるほどの激しい静寂がサンの身を包んだ。まるで自分の今まで生きてきた空間から切り離さた空間に引きずり込まれたように。
 サンは本能でそれを察知し、得体の知れない強い危機感を感じた。
 猫はその中で、今までの様子とは見て取れる程違い、一切の警戒と怯えの鎖を断ち切ったような足取りでサンに近づいて来た。金色の目は、不自然と言う言葉を超越したほど、ギラギラと輝いていた。白い体毛は、逆立ちザワザワと動くと次第に黒色へと変化していく。
 サンは、それに目を見張り、自分の体が独りでに震え出すのを感じなければならなかった。歯も狼の群れに囲まれたように自然と擦り合わさり、恐怖の涙が涙腺(るいせん)から滲み出てきた。魂に刻まれた生物としての本能が、それがどれほど危険な物か伝えていた。
 突然、拳銃を突き付けられたようで、声を出そうにも金縛りにあったように出来ない。体が石になったように重苦しい。まるで蛇に睨まれ、自分の死期を突然突きつけられた哀れな蛙のようだとサンは自覚した。
 近づいてくる物の姿は、予告も無く見る間に異様に膨れ上がり、サンは、このままでは、それが自分を覆い尽くしてしまうのでは無いかと言う強い威圧感を感じた。自分が小さくなってしまったのか、相手が大きくなったのか、それとも錯覚なのかさえ分からない。ただこんな物がこの世に存在するわけがない。今のサンの思考は、そう認識できるまでが限界だった。
 猫に化けていた者の体は、さらに膨らみ、ついに猫の体の形が面影も残さないほどに崩れさった。顔は、パズルのピースが剥(は)がれ落ち、もう一度別の顔に再構成されるようにして猫の顔から怪物の真の顔へと変容した。その顔を見て、サンは息を飲み、目を見張った。それは教科書に載っていたゴシック建築の樋口(といくち)に魔除けとして彫りつけられたガーゴイルの彫像にそっくりだった。目は、サメの目のように感情を感じない、深海のように冷たく、襲い食らう本能しか有していないように見える。ワニのように突き出た口の歯は、例え鉄板さえも噛み砕くように鋭く、耳はこうもりの耳を尖(とが)らせ、肥大させたようで、角(つの)のようにも見える。何か人知を超えた特殊な事ができそうだ。
 それは、間近で見ているだけで、寒気を催すような醜悪(しゅうあく)に満ちた姿だった。ただ教科書と違うのは生きて動いていると言う事だ。しかし変容は、それだけでは止まらなかった。漆黒の体は、怪物の顔だけを残しながら、それ以後も大きさを増し、一瞬きする間に、突如やってきた夜の闇のように大きく広がり、サンの周囲を包み込んだ。
 サンは光りの届かない真っ暗な空間の中で、自分がもう逃れ様の無い、蟻地獄(ありじごく)に入り込んでしまった事を悟った。極寒の地に裸で置き去りにされたように、自然と体が震え、冷たい涙が目の玉の奥底から滲(にじ)み出てきた。
 視界が、滲み出た涙で霞(かす)み、歪んでいく。
「助けて……ファーザー……」サンは、やっと搾(しぼ)り出せたかすれ声で呟(つぶや)いたが、その言葉は誰の耳にも届くことはなかった。目の前の怪物を除いては。
 怪物は、サンのその声を聞き、嬉しそうに口を開いた。それはまるでゴムでできた口のようにサンを一飲みに出来るくらい大きく開き、血のように真っ赤な太い舌を出しながら、岩のような歯を、噛み付くように剥き出した。その口は見るもおぞましく笑っていた。
「シャー!!」
 怪物は、蛇が喉を鳴らすようにして、威嚇の唸り声を怒号(どごう)のごとく発した。それは胃を震わすような不快な声だった。サンはその声を聞き、さらに恐怖ですくみ上がり、ますます体が締めつけられた。最早、指先一つでさえ自由には出来ない。
 サンは体から自分の逃げようとする意志が空気のように抜けていくのを感じた。心は必死に逃げなくては!と叫んでいたが、体のほうが既にあきらめたかのように無防備のままどうしても動かない。やがてサンの体の限界を超える圧力が体を押し潰すようにして掛り、吸器官が麻痺(まひ)し出した。サンは、息をする事もままならなくなり、苦痛にうめきながら、やがて脳の芯が痺(しび)れ意識が遠のくのを感じていた。閉まりの無くなった口から涎(よだれ)を垂らし泡を吹くサンに、怪物が何か話す声が、黄泉の国からの声のように聞こえた。
「・・・オマエヲクワセロ・・・」それが、サンが遠のく意識の中で耳にした最後の言葉だった。
 それから数時間の後(のち)、さらなる悲劇が起こった。

悪夢の具現化

 日もとっぷりと暮れ、サンの住んでいるコミュニティーの家々の中で、多くの人々が夕食を取り出す午後八時頃、サンを扶養(ふよう)している養父と養母は、サンの所在を心配する様子もなく、テレビを見ながら二人で夕食を取ってくつろいでいた。
 しばらくしておもむろに養父が言った。
「なあ。サンのやつどこに行ってるんだ?」
「さあ……家の中にいるんじゃない?」養母はテレビを見ながら、スプーンでシチューをすすりつつ答えた。
 外は数時間前から、又、どしゃぶりの大雨が降り出していた。この雨じゃ外には出かけていないだろう。養父は、その言葉に何の疑問も感じず、「そうだな」と受け流し、又テレビに目を向け何事もなく夕食を口へと運んだ。
 しばらく夕食を食(く)らう音とテレビの音だけが聞こえる沈黙に満ちた静かな時が流れたが、それをうち消すように突如不気味な風を伴(ともな)い食卓のすぐ側の食堂に通じるドアが物凄い勢いで蹴破られた。
 近づいてくる足音や気配を全くさせずにドアを開け放ち現れた者の姿は異様で、かぼちゃを刳(く)り貫(ぬ)いたハロウィンの仮面をかぶり、小柄(こがら)の体を白いシーツで包んでいる。
 養父と養母は、気の狂った強盗かと思いこみ、肝を潰し椅子から転げ落ちた後、脱兎のごとく逃げ出そうとしたが、その怪人物が自分達の聞きなれた子供の声で、「トゥリック・オア・トゥリート!(お菓子をくれないといたずらしちゃうぞ!)」と叫ぶとピタリと体を止め、恐る恐る振り向き、怪人物の姿をまじまじと見た。そしてその怪人物の正体がサンだと言う事に気づくと、体をわなわなと震わせ、額に血管を浮き立たせながら怒(いか)り始めた。
「くだらない冗談は止めろ!サン!」養父が怒鳴(どな)った。
「アハハハ!」サンは、さも愉快(ゆかい)そうに仮面の下で笑っている。
 養父は、その笑い声に過敏(かびん)に反応した。間抜けな姿を見られた上に、こんなガキになめられるのは我慢(がまん)ならない!
「な、何を笑ってやがる!サン!笑うのを止めろ!」養父は怒りを込め恫喝(どうかつ)した。「サン!笑うのを止めなさい!」養母も肩をわなわなと震わせながら、ヒステリックに叫ぶ。
 それでも仮面の下のサンは、笑うのを止めようとしなかった。それどころかさらに哄笑(こうしょう)は養父養母にとって、癪(しゃく)に障(さわ)る甲高(かんだか)い物へと変わっていった。積年(せきねん)の鬱憤(うっぷん)をここぞとばかり晴らすように。
 とうとう切れた養父は、今にも殴り掛りそうな剣幕でサンに近づき、サンの胸元に掴(つか)みかかった。サンはそれでも怯(ひる)まず笑い続けた。養父はサンの胸元を掴んで乱暴に引き寄せると、かぼちゃの仮面に顔を近づけながら、「黙れと言っているんだ!分からないのか!」とおよそ子供に対するものとは思えない形相(ぎょうそう)で睨(にら)みをきかした。しかしその直後、養父は、仮面の下にあるサンの目を見てはっとした。サンの目は決して笑ってはいなかった。それどころか子供の、いや人の目とはとうてい思えない触(ふ)れれば切れそうな目つきで自分を睨んでいる。養父の背中に今までに感じた事のない冷たい感覚が這い上がった。
 サンの目は……サンの目は、完全に白目を剥(む)いている。まるでそれは死人の目そのものだ。
 養父が言葉を失いサンの胸座(むなぐら)を掴んでいた手を引き攣った顔で離すと、その恐怖にたたみ掛けるようにサンがサンの声ではない声で唸(うな)った。
「俺に触るな虫けらども!今すぐ殺してやるからな!」
 養母はその、いつものサンの声とはかけ離れている、威圧感のある声にどよめいた。
 養父は蒼白し、よろめきながら得たいの知れない危険を感じ、サンから咄嗟(とっさ)に身を引こうとした。だが一瞬遅かった。正気を失っているサンは、養父に逃げる暇(いとま)を与えず、身を包んでいるシーツの中から刃渡り十センチ程の果物ナイフを握った手をすばやく出した。養父が身を引くのを片手でぐいと引き寄せ、腹部を刃が見えなくなるほど深々と刺した。養父が苦悶の表情でうめく。サンはそれでも容赦なくナイフを捻り回しながら乱暴に引き抜いた。
 養父は絶叫し、途端(とたん)に、吹き出した返り血を浴びたサンの白いシーツに真っ赤な花が咲いた。
 養父はうめきながら膝をつき、床にうずくまってもだえる。サンはその様子を見ながら、尚高らかと笑っている。まるでサンが意志の通じない悪魔に様変わりしたようだ。
(こ、殺される!)養父は戦慄し、逃げられないと思い込んだすえ目をつむった。又あの刃が自分を貫いていくのを見る度胸はとても無かった。
 だが、とどめの一撃はいつまでたってもやってこない。
 恐々として目を開けると、血塗られたナイフを手に持ち、自分を置いて妻の方に、じりじりと歩み寄るサンの背中が映(うつ)った。妻は、余りの事に固まり、ガタガタと震えている。このままでは二人とも殺されるのは確実だった。養父は、その光景に発狂しそうになったが、額に汗を浮かべ絞り出した声で咄嗟(とっさ)に妻に向かって叫んだ。
「逃げろ!そいつは完全に狂ってる!今すぐ逃げるんだ!!」
 妻は、その言葉にやっと我に返ると、今、自分のやるべき事に気づき、台所の方へ駆(か)けこんで行った。サンは、その後を慌(あわ)てず、騒(さわ)がず追って行った。
 養父は、まるで悪夢を見ているような、どこか現実感の伴(ともな)わない思いを振り切りながら、(これは現実なんだ!しっかりしろ!助かる方法を考えるんだ!)と自分に必死に言い聞かせた。必死に考え二階の寝室にある銃を取りに行こうと思い立った。今の体では到底(とうてい)かなわない。
 養父は、歯をくいしばり、血と共に抜けていく力を必死に維持しながら、痙攣(けいれん)する足でよろよろと立ち上がった。ふらつきながら壁を伝い、サンが食堂に入ってきたドアを押し開け、妻のいる台所とは反対方向にある階段に向かう。わき腹から大量の血を滴(したた)らせながら。
 養父の心は、悪夢のような思いで掻(か)き回されていた。自分の無事と妻の無事。これしか考えられない。さっきから妻の声が途切(とぎ)れ途切れに聞こえてくる。「あなたどこにいるの!助けて!」と言う叫び声も何度も聞こえてきた。まだ生きてはいるが、追い詰められた切羽詰(せっぱつま)った声だった。養父は、その声を聞くたび、自問自答した。
(このまま妻を助けに行かず、銃を取りに行ってはたして良いのか?銃を取りに行っている間に妻が殺されたら……)
 今のサンは、尋常(じんじょう)では無い何かに取り憑(つ)かれている。あの眼は正気のなせる技じゃなかった。当然、妻にも凄惨な死を加えるだろう。それを思うと冷や汗が体中からどっとふき出し、動悸(どうき)がして眩暈(めまい)がした。しかし必死に気を取りなおした。
(いや、例えこの体ですぐに助けに向かっても間に合わないし、到底太刀打(たちう)ちできない。今は銃を取って、サンをどうにかする事が、二人が生き延びる唯一の道だ!)
 養父は迷いを振り切り、妻の無事を祈(いの)りながら階段に足を掛けた。
 よろよろと重い足取りで、手すりにより掛りながら、喘(あえ)ぎ喘ぎ十五段の階段を歯を食いしばり登り始める。
 一段登るごとに血が抜け、意識が薄(うす)れていくようだったが、ここで意識を失えば確実に殺される。なんとか意識のある内(うち)に部屋に辿(たど)りつかなくては。しかし足は鉛(なまり)の足かせがついているようにゆっくりとしか動かない。まるで、力を振り絞って走っても、一向(いっこう)に進まない悪夢の中にいる様だった。
 ようやく十段ぐらい登り詰めた時、養父の願いの一つは無残にも打ち崩された。
 突然、一階から陶器(とうき)が立て続けに割れる騒がしい音がして、妻の叫び声が聞こえた。
「やめてサン!お願いだから!こっちに来ないで!」
「……」
「やめなさいサン!やめて!ひっ!」
 その声の後は、絶叫が続いた。
「助けて!だれか!!」
「……」
 その後、苦痛にうめく絶叫が耳をさいなみ、やがてそれは妻の断末魔の叫びへと変わった。そしてその声も力なく消え去っていった。
 養父はそれを足を止め、胸をかきむしられる気持ちで聞いていた。
「くそ!……くそっ!」養父は、妻が殺されたことを知り、無念を浮き彫りにし唸った。
 つい十分程前までは、こんな運命が自分たちに降りかかってくるとは、つゆほども思わなかった。それなのになんでこんな事になっちまったんだ?サンを引きとって養ってやったのは俺達だぞ!それなのになんでこんな目にあわされなきゃいけないんだ!?この世に神はいないのか?それともサンにふだんから冷たくあたっていたのがいけないのか?いや今日のサンの眼は普通じゃなかった。まるで悪魔に取り憑かれたようだった。一体何が起こったんだ!?
 養父の頭は混乱し、パニックに陥(おちい)った。もうどうでもいいようなあきらめと虚脱感(きょだつかん)が闇(やみ)の中から迫ってきた。次に殺されるのは自分だというのに。
 余りの事に頭の芯が砕けそうだ。その衝撃で気が遠くなかけ、養父はその場に倒れこみそうになった。絶望の嵐が襲い、足から力が抜けて行く。その瞬間、足元をすくわれたように足がふらつき足は階段を踏み外した。養父は悲痛の叫び声を上げ、階段をうつぶせになったまま音を立て下へとずり落ちた。その時、不運な事に階段の角で頭を強打し、意識を失ってしまった。
……どれだけ気を失っていたのだろう……。
 体中、特にナイフでさされた脇腹(わきばら)の強烈な痛みで目が覚めた。
 はっとして、目を開いた時、瞬時に考えたのは、狂人になったサンが、今、何処(どこ)にいるかと言う事だった。
 養父は、銃を背中に突きつけられたような恐怖を感じ、恐怖に引き攣(つ)った顔で辺(あた)りを慌てて見まわした。
――いた!
 冷たく光る血の滴(したた)るナイフを手にし、ハロウィンの衣装を身にまとったサンの姿は、仮面も体を包んでいる白いシーツも血のシャワーを浴びたように真っ赤に染まっている。それが妻の血吹雪だと言う事は疑う余地(よち)もなかった。そして、今まさに、サンが階段のある廊下(ろうか)に忍び寄るように出てきた所だった。
 養父は、背筋が凍りつくのを感じながら、喉(のど)に異物が詰まったように息を飲んだ。自分までの距離は、せいぜい二十メートル程度(ていど)しかない。もうだめだ!絶対に追いつかれる!養父は絶望したが、予想に反し、サンはゆっくりと歩み寄ってくる。まるで狩を楽しむかのように。
 養父は、咄嗟(とっさ)にサンと自分の間の距離と、銃の置いてある寝室までの距離を見比べた。階段をあと少し登りきれれば、寝室のドアに辿りつける。幸い階段から落ちたと言ってもニ、三段ずり落ちているだけだった。養父は、死にもの狂いで階段を這(は)い上がった。ナイフが刺さった傷口からどくどくと血が流れ、激痛が走ったが、気にしている場合ではなかった。ただひたすら逃げる事で頭の中が埋め尽くされていた。
 苦痛であえぎながら、なんとか最後の一段までこぎつけた。まだ追いつかれてはいない。
 後ろを振り返ってサンの居場所を確かめた。サンは、自分を真っ直ぐに見据えながら、もう階段の一段目を登り始めていた。
 余裕を誇示(こじ)する、流暢(りゅうちょう)な足取りで、慌てずにゆっくりと。
 不意(ふい)にサンの眼と自分の目が合った。それは、以前と同じ、魂を抜き取られたような冷たい死人の白い目だった。かぼちゃをくりぬいて作られたハロウィンの仮面は、這いつくばり、もだえ苦しむ自分を楽しんでいるように不気味に笑って見える。他愛無(たあいな)い子供の祭りのおばけの仮装(かそう)が、今は悪魔その物に見える。 
 養父は、恐怖と言う炎に足元を炙(あぶ)られている思いで、最後の一段を這いあがった。そのまま起き上がる事もままならず、四つん這いになりながら、すぐ側の寝室のドアのノブを汗と血でまみれ痙攣(けいれん)する手で回す。
 開いたドアの向こうに、養父は生と死の境界線を垣間見(かいまみ)た。生きた心地を失いながらもどっと室内に倒れ込み、感覚の無い腕を必死に動かし鍵を掛ける。
 そのまま、寝室の床に這いつくばった養父は、引き攣りながら一呼吸すると、すぐに銃がしまってあるタンスに這って向かった。丁度その時、ドアのノブを荒々しく回す音がし、寝室のドアを物凄い力でけたたましく叩く音がした。養父は恐怖にあおられながら叫んだ。「来るな!頼むからもう許してくれ!」その言葉をあざ笑うように、木製のドアをナイフで削る音が聞こえ、養父の心をさいなんだ。ドアをナイフでこじ開けて殺す気だ。養父は、唇を震わせた。もう生きているのか死んでいるのかさえ分からなくなってきた。
 養父は、必死の形相で、頼みの綱が入っているタンスに向かって腕の力だけで匍匐前進(ほふくぜんしん)した。もう出血と痛みで足が痺れ、力が入らず思うように動かなくなっていたからだ。
 ドアを荒々しく削る音に、恐怖心を煽(あお)られながらも養父は五メートル程這って進んだ。それは、普段ならなんてことは無い事だったが、今は急な川の流れに逆らって泳ぐように困難なものだった。
 やっとタンスに辿りついた頃には、疲労困憊(ひろうこんぱい)だった。少しでも気を抜くと、すぐにでも失神しそうだ。養父は、血が抜け、寝起きのように重たくなった瞼(まぶた)を必死に見開き、やや大きめのタンスの引き出しについている二つのとってを掴んだ。
 残された全ての力を総動員し引っ張る。しかし木がきしむ音がするだけで一向に開かない。どんなに力をこめてもびくともしない。
 なぜ!?どうして!?
 養父は、神が自分を見捨てたと呪い、涙を滲ませながらもやけになって何度も何度も力任(まか)せに引っ張った。養父は、引き出しに鍵が掛っている事を忘れていた。しかし何度もやっている内に思いがけない力が出た。それは、命の危機が迫った時に咄嗟に発揮される火事場のくそ力だった。
 奇跡的にロックが壊れ、引出しが勢い良く飛び出した。九死に一生を得た気分で、まだ神は、俺を見捨ててはいない!まだ助かるぞ!と確信した。
 養父は、引出しの中を凝視(ぎょうし)した。
 その中には、最近あるルートから安く手に入れた、イタリア製のクレー射撃用で使う<レナト・ガンバ>と言う高級品のショットガンが入っていた。
 養父が、いつもいらいらしている時などに、憂(う)さ晴らしの為にぶっ放す愛着のある一品だ。その側には、ショットガンの弾が詰められている赤いパッケージがいくつかある。
 養父が、焦(あせ)りと恐怖でわななく手で、そのショットガンを掴もうとした。その時、突然目の前が真っ暗になった。前触れもなく寝室の照明が全て消え去ったのだ。まるでサンが、ドア越しから自分の姿を透視して、自分が銃を手にするのを阻(はば)むかのように。
 今まで光りに慣(な)らされていた目は、すぐには何も見えない。これでは銃を正確に扱う事はおろか銃に弾を込めることも出来ない。突然盲目になり、闇の中に取り残されたようだ。絶望と言う塊が体当たりしてきたように、養父はパニックに陥った。養父は、頭の中で『もうあきらめろ』と言う死神の声の幻聴を聞き、気が狂わんばかりの悲鳴を上げながらタンスの中を必死で探った。
(こんな事で死にたくない!無残に殺されるのは嫌だ!!)養父の心も叫んでいた。もう気が狂う寸前だった。なんとか銃を手に取り、弾丸のパッケージを探ったが、指には触れるが掴めない。ニ、三度繰(く)り返しやっと掴めた。
 養父は、額に火で炙(あぶ)られているような苦痛の汗を浮かべ、苦悶の表情でタンスにもたれ掛かるようにして動かない足を投げ出して座った。
 慌てて弾の入った箱を引き千切るように破って、中身の弾を落とさないように慎重(しんちょう)に掌に取り出す。掌からは冷や汗がふき出し、水をかぶったように濡れていた。
 ドアを削る音が強まり、不気味に闇の中で止む事なく続いている。
 養父は、震える指先で弾丸を抓(つま)み、触覚(しょっかく)を頼りにショットガンの弾倉に詰め込もうとした。しかしなかなか上手く入らない。血が止めど無く力と共に体から抜けていく為、指先が痺れ震えだし、銃身と弾丸が擦れる音がするだけだ。養父は、もう投げ出してしまいたくなる衝動(しょうどう)を、唇を噛(か)み締(し)めて必死にこらえた。「おちつけ、おちつけ……」と自分に必死に言い聞かせる。今度ばかりは、いつものように短気ではすませられない。だが焦りと恐怖は意思に反し暴走していく。体の震えも止まらない。
 何度も挑戦しているうちに運良く弾倉の中に弾が二つ入った。だがそれで気が抜けて、他の手に乗っていた残りの弾丸は、全て床に落としてしまった。顔から血の気が引いたが、暗闇の中ではもう探しようがなかった。その直後、鈍い音を立て、重い金属が床に落ちた音がした。それとほぼ同時にドアが荒々しく開く音がした。
「ひっ!!」
 養父は、悲鳴を上げ、反射的にショットガンの銃口を、サンが入ってくるであろう方向に向けた。そして恐怖に駆(か)られるまま、引き金を引いた!
 まぶしい閃光が、銃口からほとばしり、外の大雨の音を打ち消す位の銃声が、一度だけ鳴り響いた。その後は、不気味なほど静まり返った。嵐が去ったか、あるいは嵐が来る直前の様に。
 養父は、息を飲んだ。(やったのか?どうなったんだ!?……何も音がしない、うめき声も何も聞こえない……やったんだ……俺は……)養父は、極度の緊張で、息をする事すら忘れていた自分に気づき、肺を引き攣らせながら大きく一呼吸した。だが恐怖から開放されたはずなのに、体の震えは、今までで一番酷(ひど)くなっていた。自分が取り返しのつかない事をやってしまったのだと言う強い喪失感(そうしつかん)と、何故こんな事になってしまったんだというやりきれない思いが頭の中を支配していた。
 今は暗闇の中で自分の荒い呼吸音だけが聞こえている。それを聞いている内に虚(むな)しさが込(こ)み上げてきた。
 もう自分は、全てを失った哀(あわ)れな中年に過ぎないと言う事を思い知らされながら。
 これからの人生、一体どうやって生きていけばいいんだと、唐突に、降ってわいたこの無残な運命にしゃくり泣いた。涙が滲みだし、熱い涙が自然と頬(ほほ)を伝い落ちて行く。
 体から張り詰めていた緊張が、生きる気力と共に抜け、養父は、ショットガンの銃口を敗北者のようにゆっくり降ろした。出きる事なら、このまま残酷な現実を夢にして眠りたかった。しかしそれは許されなかった。なぜならまだ凶事(きょうじ)は終わってなかったからだ。
 突然、耳元で鋭(するど)く風を切るような音がしたかと思ったら、ショットガンを持つ手に、高温のバーナーでやかれるような激烈な痛みが走った。養父は、残された力を全て振り絞ったような凄まじい声で絶叫した。
 鋭利(えいり)な刃物でショットガンを持つ腕をばっさりと深く切り裂(さ)かれたのだ。余りの激痛にショットガンを取り落としてしまったが、その時は、身を守る武器が無くなった恐怖より、地獄の拷問(ごうもん)のような激痛の恐怖の方が遥(はる)かに大きかった。
 まだサンは生きている!
 養父は、嵐のような猛烈な痛みの中で悟った。気を失うほどの痛みが駆け巡る中、切られた腕を抱え込むように前屈(まえかが)みにうずくまる。
 地獄だった。
 目は苦痛で霞(かす)み、意識も脳の許容範囲(きょようはんい)を超える苦痛で朦朧(もうろう)としてきた。まるで地獄の籠(かご)の中でぐるぐると回されているようだった。その時、暗闇の中、心を震え上がらせる不気味な音がすぐ側でした。それが何の音か養父は気づいて戦慄した。口から神経が麻痺したように感覚が無くなって行く。しかしどうしようもなかった。それが、自分が落としたショットガンをサンが拾(ひろ)う音だと気づいても。
 養父は、自分の命の炎が、相手の胸三寸(むねさんずん)でどうとでもなる状態にある事に対し、なす術(すべ)なく、無力だった。哀れな顔を凍らせるしか出来ない。
 不意に冷たい鉛(なまり)の感触(かんしょく)が自分の眉間(みけん)に押し付けられた。それがショットガンの銃口だとすでに気づいていたが、恐怖の悲鳴を出す事すら余りの恐怖に縛られままならない。
 口からもれるのは、上ずりむせび苦悶するどこか他人じみた声だけだ。
 凍えそうな悪寒と殺される間際の暑苦しさが全身を駆け巡る。それに伴い噴き出す不快な汗が全身を蝕(むしば)んで行く。
 そんな中、銃口の先で養父は額を押され顔を押し上げられた。
 苦痛の涙で歪(ゆが)んだ眼前におぼろげに映ったのは、サメの目のように心を感じない、血で濁った冷たく光る赤い眼。
 養父の目には、それが闇夜に浮かぶ、怨念のこもった人魂に思えた。
 養父が呆然(ぼうせん)としている時、目の前がまぶしく発光し、照明(しょうめい)が灯(とも)った。そして惨劇(ざんげき)の全てが露(あらわ)になった。
 電灯の光を受け、黒光りする銃身が想像していた通り、自分の眉間におしつけられている。その銃身を構え、自分を見下ろす形で、ハロウィンの仮面をかぶったサンが、自分の目を真っ直ぐ見据えていた。たださっきと違うのは眼の色が死人の白目では無くなっていて、血で濡(ぬ)らしたように真っ赤な色に濁(にご)っている事だった。その眼は、感情の無い殺人マシーンのような冷たい光りを帯(お)びていた。
 養父は、歯をかち合わせ必死で後退(あとずさ)りしようとした。床に手をついたその時、ヌルッとした感触が掌(てのひら)を撫(な)でた。頭を銃口で押さえつけられている養父は、視線だけその感触のする床に落とした。そして目を見張った。
 床には、傷口からふき出す自分の血が、絨毯(じゅうたん)のように広がっていた。その血の海の真(ま)ん中に自分はうずくまっていたのだ。
 養父はその悪夢の光景を前にし、一刻も早くその血の海から抜け出したかった。手足をばたつかせゆるゆると後退る。しかしタンスが自分の背中に密着(みっちゃく)していてこれ以上後ろに進めない。もう助かる道は全て閉ざされてしまったのだ。もう自分は、無残にこの怪物に殺されるしか道は残されてはいない。それを悟った時、体中を虫のように今まで以上の絶望と恐怖が這い回り、目からねばつく汁のような涙が止めど無く滲み出てきた。激痛もそれに拍車(はくしゃ)をかけた。朦朧(もうろう)とする意識の中、養父は、激しく痛む自分の腕に目を向けて愕然(がくぜん)とした。信じられない、いや信じたくなかった。自分の片腕は肘(ひじ)から先がなくなっていた。肘から先の部分は、まるで人形のもがれた腕のように床に転がっている。とてもそれが自分の体の物とは信じられなかった。
 養父は、それを見た時、ついに発狂(はっきょう)しだした。声をからし喚(わめ)き散(ち)らす。その声は、声帯(せいたい)が潰(つぶ)れたような空気の抜けた音にしかならなかったが、やりたい事は心の底から叫ぶ事で、恐怖と苦痛をかき消す事だった。しかしその願いもすぐに虚しく打ち崩(くず)された。額に押しつけられている銃口が、その声を黙らせるように、血が滲むほど強い力で額を突いた。それは、これ以上やり続けたら撃つと言う沈黙(ちんもく)の脅迫(きょうはく)だった。
 養父は、声を呑み込みガタガタ震えた。悲しい事に、まだ養父の頭には現実を理解する理性が残っていた。いっそ完全に気が狂ってしまえば楽なのに。養父は、心底そう思った。「もう俺はここで殺されるのか?こんな……、こんな形で最後を迎(むか)えるのか!?俺が何をした?ここまで酷(ひど)い事をされる事をした憶(おぼ)えは無い!」
 養父は、狂人と化したサンに向かってそう叫びたかったが、それをしたら、すぐにでも引き金を引かれそうで、その言葉は上唇に張りついたまま出てこなかった。
(こんな至近距離でショットガンで撃たれたら、俺の頭はどうなってしまうだろう)養父は、その時の事を想像して身震(みぶる)いした。歯が自然とカチカチと音を立て体中に冷水を浴びたような悪寒が走る。さっきまでは、なによりも激痛の恐怖の方が恐ろしかったが、今は、それよりも突きつけられたショットガンの方が恐ろしい。
(嫌だ!そんな無残な殺され方は!)養父の心が叫び狂う。何とかしてこの地獄から一刻(いっこく)も早く逃れたかった。それが駄目なら殺されるにしても楽な方法を選びたかった。
 やがてその恐怖心は、卑屈(ひくつ)な命乞(いのちご)いの気持ちに変わっていった。その思いに操られるように口が動いた。
「殺さないで……助けて……神様……」体を震わせ哀れな掠(かす)れ声で呟(つぶや)く。
「……神だと?」
 突然、今まで黙っていたハロウィンの怪人が、逆鱗(げきりん)に触(ふ)れられたような声で凄(すご)んだ。その声は、本来のサンの声とは似ても似つかない、まるで鉛で出来た声帯から発せられたような金属的な太い声だった。その声には、明らかな激しい嫌悪(けんお)と怒りが込められていたが、その理由は、養父には全く分からない。ただ養父は、自分が何かやってはいけない事をやってしまったのだと言う事だけは分かった。
 養父が失禁と共に、自分の最後を悟り絶叫を上げた時、ハロウィンの怪人が片手に持っていたナイフを大きく振りかぶった。養父が目を見張ったナイフは、死神の振り下ろす鎌にも見えた。
「その名を出したな!!」狂人は咆哮し、ナイフを荒々しく振り降ろした。振り降ろされたナイフは、養父の胸を瞬時に貫(つらぬ)き内臓を切り裂いた。
 養父は刃物が内臓に滑(すべ)りこむ冷たい激痛を感じながら断末魔の声を発(はっ)した。体が反(そ)り、息が止まった。口に生暖かい血の味が広がるのを感じる暇(ひま)もなく、かすれ行く意識の中、ハロウィンの怪人の眼と自分の目が合った。怪人の赤く濁った眼からは、血のような真っ赤な涙が流れていた。それが養父には、何故かこの惨劇(さんげき)に涙する本当のサンの涙のように思えた。
 サンは、何かに操(あやつ)られている。恐ろしい悪魔のような得たいの知れない者に……。養父は、最後の刹那(せつな)にそう強く思った。養父は、最後に、せめてどんな理由で誰に殺されるのか知っておきたかった。養父は、最後の力を振り絞り、血の泡を吹(ふ)きながら死に行く者の声で言った。
「お、お前は……。……一体……誰なんだ?」
 その問いに、怪人は嘲(あざけ)るように目を細めると、サンの声のような子供の声で撫で回すように言った。
「俺は、お前達の愛すべき子供だろ。ククク……」
 養父は、ここまでの非道を行(おこな)ってなお、楽しんでいるこの怪物の言葉を聞き確信した。この惨劇を引き起こしたのは人間ではない。ましてサンであるはずがない。人間では裁(さば)けない陰湿(いんしつ)で邪悪な者。
 もう養父の目は光りを見る事は出来なくなっていた。ただ心の中に渦巻(うずま)く思いがあった。それは誰が自分達の仇(かたき)を取って、この無念を晴らしてくれるのかという思いだった。そんな養父の額を怪人は、弄(もてあそ)ぶように銃口で撫(な)でまわした。そして銃口を養父の目の前でピタリと止めた。
「あばよ。地獄に落ちな!」
 サンに乗り移った許(ゆる)されざる者は、情けの欠片(かけら)も無い声でそう言った。そしてショットガンの引き金を限界まで引き絞った。
 凄まじい轟音(ごうおん)がし、銃口が目を焼くストロボのように激しく発光した。
 養父の頭部は、その瞬間、スイカをハンマーで砕(くだ)いたようにバラバラになって吹き飛んだ。血の臭いが偶像(ぐうぞう)となった養父の首からばら撒(ま)かれる。その血の臭いに怪人は笑みを浮かべた。それは陰惨極まりない光景だった。
 頭部が無くなり、ナイフが深々と胸に突き刺さったままの養父の体は、やがて首を落とされた胴体(どうたい)のように力なく床に転がった。
 脳漿(のうしょう)が飛び散りハロウィンの仮面に降り掛っても、怪人は、口を大きく裂きながらにやついていた。
 怪人は復讐(ふくしゅう)を終えたように銃口をゆっくりと下げた。至福(しふく)のくぐもった笑い声を漏(も)らしながら。
 雷鳴が轟(とどろ)き、大雨の降りしきる音が、以前よりも大きさを増し、息を吹き返したような音で部屋中をみたしていた。その中で、怪人はハロウィンの仮面に手を掛け、ゆっくりと仮面を脱(ぬ)ぎ始めた。再び雷鳴の轟音が轟き、仮面の下の顔が露(あらわ)になった。その顔は紛(まぎ)れもなく殺された養父と養母の養い子でありグリフ神父の友――サン・ブライアン少年の顔だった。
 その目が血を吹き飛ばし、かっと大きく見開かれた。その口元は相変らずにやついてはいたが、両眼(りょうがん)からはとめどなく赤い血の涙が溢(あふ)れ出て頬を伝い落ちていた。それは、まるで二つの人格が同時に顔に現れているように見て取れた。
 それは、血の涙を流し、嘆(なげ)き悲しむ少年の顔と、神への憎しみの心に満ちた悪魔の顔のようだった。

 秋も終りの冷たい大雨の降りしきる、十一月一日、午後十時五十分の事だった。

悪夢の踏襲

 厚(あつ)い雲に覆(おお)われ、月の光も差しこまない闇夜の中、先刻(せんこく)より激しさを増したどしゃぶりの雨が、古びたグリフ神父の教会の屋根の上で踊(おど)るように跳(は)ねている。
 その屋根の下にある部屋の窓から、厚地の赤いカーテンを通して電灯の光が漏れている。その部屋は、他の教会の部屋とは一風変(いっぷうか)わっていて、蔵書(ぞうしょ)を入れる本棚が密集した森のように部屋の中を埋(う)め尽くしている。この部屋には、市販(しはん)されていない大量の悪魔に関する資料が保管されていた。その資料は、シャーマンの家系に代々伝わっている特別な物である。
 グリフ神父は、その部屋の中で、机の上に革張(かわば)りの古びた本を広げ、ページを食い入るように読んでいた。それは代々、神教のシャーマンに伝えられていく神と悪魔に関わる全てについてシャーマンが記していく資料だ。内容は、全て肉筆(にくひつ)で記してある。
 グリフ神父は、教会に帰ってくるなり、この部屋にこもり、今は今日農家で写真に収めた奇妙な足跡について調べている最中だった。
 資料のページをめくりながら、グリフ神父は写真の足跡と一致(いっち)する情報を調べていた。
 やがてペラペラとめくっていくと、悪魔の章のページにまるで見てきたような不気味な三本指の描かれた悪魔の足の絵が見つかった。
(あった……!)グリフ神父は、その絵と写真の足跡が一致するか丹念(たんねん)に調べた。
(……間違い無い)
 グリフ神父は、天を仰(あお)ぐように顔を両手で覆い、椅子に腰掛ながらのけぞった。苦悩に満ちた深い落胆(らくたん)の溜息(ためいき)を長々と吐き、「神よ……」とかすれた声で呟く。そして、グリフ神父は、これから起ころうとしている事、自分がこれからやらなければならない事を考えた。
 しかし、シャーマンである彼は、物心ついた時から、このような事態になった時の為の用意はしている。しかし、このような事態が来るとは、どうしても今までは思えなかった。なぜなら、このような事態が起こり、最悪の事態になる事は、本来この時代にはありえない事だったからだ。その為、シャーマンの資料にもこの時代の事はほとんど載(の)っていない。ただ、この足跡の事実は、グリフ神父に命を賭けて使命をまっとうする時が来たのだと言う事を突きつけていた。
 最悪の事態……。
 本当にそれが起こる可能性があるのか、その可能性は、どの程度の物なのか、グリフ神父はそれを調べる為、さらにページをめくった。そして最悪の事態を引き起こす者について記してあるページに辿りついた。そのページの章には悪魔王についてと書いてあった。
 グリフ神父は、その章に記してある悪魔王復活の時の前兆(ぜんちょう)について調べていった。そこには、今、起こっている現象となんら変わらない現象が記されていた。
 異常気象、大雨、洪水、鳴り響く雷、そして渦を巻く奇妙な赤茶けた暗雲。
 それは、グリフ神父の恐れていた最悪の事態が起こる事を示していた。
 グリフ神父は、絶望に胸を抱えながら重い溜息を吐き切り眉間を押さえた。
 重い腕をページに添え、次のページをめくろうとした時、不意に雨音に混じり、教会の玄関の扉をたたく、くぐもった音がした。しばらくの後、又音がした。グリフ神父は、顔を上げ、このどしゃぶりの雨の中、一体誰が来たのだろうと思いながら、椅子から立ち上がり部屋から出ていった。
 グリフ神父が部屋から出ていった後、その部屋の机の上の電灯が瞬(またた)き、風も無いのにグリフ神父の読んでいたシャーマンの資料のページがペラペラとめくれ、あるページが現れ止まった。そのページのタイトルは破壊の女神カーリー。そのページには悪魔王カーリーについて詳(くわ)しく記してあった。

――漆黒の肌を持つ破壊の女神カーリー。魔界を統(す)べる悪魔王の一人で、性格は好戦的であり残忍。争いを好む。心を操り人々を争いに駆りたて数々の争いを起こしてきた。その為、神により地獄に封じられた。その神の養護(ようご)する人類に対し強い敵対心を持ち、この世界を乗っ取ろうと企んでいる。
 体には、今までに打ち倒した魔神の力を有し、カリ・ユガの時代に日食を伴い復活する。地獄で行方をくらまし今では消息は分からない――

 しかしそれは、グリフ神父の目には永遠に止まる事はなかった。
 後(あと)少し時間があれば、グリフ神父は気付けたかもしれない。グリフ神父にとって、これから自分が思っていた最悪の事態を遥(はる)かに超える最悪の事態が起こる事に……
 グリフ神父は、玄関のドアの前で立ち止まっていた。考えてみると、わざわざこんな大雨の中、こんな時間に教会を誰かが訪ねてくるのは不自然だし、なにより今は最も警戒(けいかい)すべき悪魔が近くにいるかもしれない。そう思うと、にわかに体がこわばった。……いや待てよ。悪魔なら教会に張られている結界に阻(はば)まれ侵入は不可能なはずだ。それは、今朝(けさ)の竜巻でも証明されている。しかし何か嫌な予感がする。ドアを開けてはいけない何かがいるような気がする。その時、ドアの向こうから、そんな危惧(きぐ)など必要のない聞きなれた親しい人の声が聞こえてきた。
「ファーザー」
 木製のドアを叩くくぐもった音がした。
「ファーザー」
 扉をたたく音と、グリフ神父を呼ぶ声が交互(こうご)に聞こえる。
 サン少年の声だった。
 グリフ神父は、頬を弛め玄関の扉の鍵をはずし扉を開けた。そこには玄関のひさしの下で黒い傘をさし、サン少年が目を隠すようにうつむき気味に一人たたずんでいる姿があった。それでもサン少年の顔が紅潮(こうちょう)していた為、興奮している様子は見てとれる。
 サン少年は、息が荒かったが、口をにやつかせ、なんとも嬉しそうな表情をしている。
 きっと、この大雨の中、なにか自分に伝いたい事があって走ってきたのだろう。そうグリフ神父は思った。それにこんな時間に訪(たず)ねて来るのもそう不思議な事ではなかった。サン少年は、今までにも、家でトラブルがあると、よくこうして夜遅くとも訪ねて来た。グリフ神父にとっては、それだけサン少年が自分に心を許し、頼りにしているという証しのようで嬉しかった。ただ少し気になったのは、いつもは、持っていない細長いスポーツバッグを大事そうに小脇(こわき)に抱えている事だったが、それ以外は、いつものサン少年と何ら変わらない。それも何か自分に見せたい物でも入っているのだろうと思い、グリフ神父は別段気に留めなかった。
 グリフ神父は、にっこりと微笑(ほほえ)んで声を掛けた。
「どうしたんだい?サン。こんな大雨の中?……まあ話しは中でしよう。濡れて風邪をひくといけない」
 しかしサン少年は、教会の中に入ろうとはせず、しばらく肩で息をした後、少し息を整えてからこう言った。
「ファーザーに見せたい物があってさ」
 サン少年は、大事そうに抱えているスポーツバッグに手を突っ込み、ごそごそと何かを取り出そう
した。
(もしかして釣の道具か何かかな?)グリフ神父は、サンが釣り好きなのに思い当たってそう思った。
 サン少年は、今まで何か嬉しい物が手に入ると真っ先に自分に見せに来る。今回もよほど喜びを共有したい宝物が手に入ったのだろう。グリフ神父は、そう思って目を細めた。自分にとって人が喜ぶ姿を見るのは心地よい。それが自分が好意を持っている相手ならなおさらだ。
「なんだい?」グリフ神父は、微笑みながら尋ねた。
「……これだよ!」グリフ神父の全く予期せぬ事に、サン少年の声がいきなり怪物的な低い声に変わった。グリフ神父の目が一瞬にして動きを失う。
 サン少年の手には、スポーツバッグから取り出した長い銃身のショットガンが握られている。サン少年は、うつむいていた顔を上げた。同時に激しい稲光(いなびかり)が轟(とどろ)く。その青白い光りに照らし出されたサンの顔を見て、グリフ神父は言葉を失った。
 口元はいびつにつり上がり、瞳は瞳孔(どうこう)が無くなっている。それはまるで死人の目だ。
「シャー!!」
 サンが金属的な声で咆哮した。グリフ神父の体内にその声が割って入る。それは、グリフ神父の精神を一時的に麻痺(まひ)させるには充分な衝撃だった。その隙(すき)を狙いすましたように、銃口がグリフ神父の腹部に突き付けられる。それは、グリフ神父が、我が子のように思えていたサン少年はもういない、もうこの世には存在しない事をグリフ神父に痛切に思い知らせた。
 自分の心臓と神経が沸き立ったように感じられる。目の前で我が子の手足をもがれた思いだ。それよりも尚、現実は残酷だった。銃口から深紅の雫(しずく)が垂れ落ちている。
 グリフ神父は慄然(りつぜん)とした。何故なら悪魔に正体を明かされた者は皆殺しにされる。それがサン少年の養父と養母でなくてなんであろう。その深紅の雫がそれを物語っている。グリフ神父は失神しそうになりながらも唇を震わせ問(と)うた。
「まさかサンに、サンに親殺しをさせたのか?」
 最早サンとは言えない悪の化身は哄笑を響かせながら答えた。
「ああ。あの醜いやつらはこいつの手で殺させてやった。まだこいつが意識のあるうちにじわじわとな。こいつの憂さ晴らしをしてやったんだ。こいつも充分楽しめただろう?」
 悪魔の侮辱(ぶじょく)に満ちた言葉がグリフ神父を闇に突き落とした。悪魔に対する怒りと嘆きで体の震えが止まらない。
「悪魔め!何て事を!」
 グリフ神父は激昂(げっこう)した。色々な激情が混ざり合い、呪いの言葉が次々と脳裏に過ぎったが、悪魔の仕打ちを表現するに値する言葉は見当たらなかった。
 サンの体を乗っ取った悪魔は、その反応を楽しむように嘲り笑った。悪魔にとって、人の心を逆撫(さかな)でる事は何よりの娯楽なのだ。憎む敵ならなおさらだ。
 今では悪魔の物と成り果てたサンの顔が歪(いびつ)に歪(ゆが)んだ。
 次の瞬間、まぶしい光を放ち、銃声が大雨の音を掻き消した。
 グリフ神父は、腹を刃物で無数に掻(か)き切られたような激痛が一度に襲ったのを感じ、口から大量の血を吐いた。ショットガンの銃弾が一メートル内と言う至近距離で、腹にぶち込まれたのだ。
 さらに銃弾は、グリフ神父に向かって容赦(ようしゃ)なく発射された。
 グリフ神父は、銃弾を受けるたび、激しく体を震わせる。
 全ての銃弾が弾倉から無くなるまで銃弾は発射され続けた。激しい憎悪をぶつけ、いたぶり殺すように。
 その地獄の拷問が終わりを告げた時、グリフ神父の体は、ゆっくりと傾(かたむ)き、玄関の階段から転げ落ちた後、大雨でぬかるんだ地面に倒れた。ぐったりと両手を広げ地面に仰向けになったグリフ神父の背中からは、おびただしい血が流れ出す。音を立て流れ出るその鮮血は、雨と混じり合い地面を赤く侵食していった。その時、グリフ神父は、もう息をしていなかった。
 その様子を、サンの姿をした悪魔は、骸骨のような白い目で見下していた。
 恍惚の表情で幾万年(いくまんねん)も続いていた神との全ての争いに勝利したかのような笑いを浮かべる。
 空を仰ぎ見たサンの体を奪った悪魔の化身は、異世界の生物のような勝利の雄叫(おたけ)びを天に向かって咆哮(ほうこう)した。それは、神の眼目(がんもく)を奪ってやったという神にあてつける醜(みにく)い狂喜の唸り声だった。
 悪魔は、もはやただの肉塊とかしたグリフ神父の無残な死体の頭部を荒鷲(あらわし)のように掴み、雷鳴が轟き、冷たい大雨の降りしきる漆黒の闇夜の中、今は主亡(あるじな)き教会の中に向かってゆっくりと死体を引きずっていった……。

 十一月ニ日 雨が上がり夜が明けた。

悪夢の始まり

アメリカ合衆国 カルフォルニア州 ロサンゼルス

 ウー、ウー、ウー……
 地の底から響(ひび)いてくるような、たくさんのうめき声が聞こえる。ズルズルと足をひきずって歩く、たくさんの音が真っ暗な夜の闇の中から聞こえる。
 不意にその音が、私の背後から近づいてくる。私はその方を見た。複数の動く死体が私に近寄ってくる。顔の肉が半分はがれた顔、顔半分がくさって肉がはがれ骨が見えている者。胴の肉がはがれ落ち、肋骨(ろっこつ)が剥き出しの者。女、男、子供、老人の死体が群れをなして歩きながら私に近寄ってくる。
 私は恐怖に震え、闇夜の深い森の中を息を切らして必死で逃げる。しかし必死で逃げている私の目の前に、突如巨岩ほどの悪魔が舞い降り行く手を阻む。その姿は黒死病を模した人の描いた悪魔に似ている。刃のような黒い羽を私に向け威嚇する。私は後ろを慌てて振り返る。しかし後ろは動く死体の群れ、正面は、赤い目で鋭く睨む敵手がいる。私の体から冷や汗が吹き出し、心臓が早鐘(はやがね)のようになる。
「シーラ!!」
 その時、頼もしい声が、死体の群れの後ろから聞こえてきた。群がるゾンビを切り崩しながら、その声の持ち主は、疾風(しっぷう)のような速さで私に近づいてくる。私は、その声に歓喜(かんき)し答える。
「ラリー!!」
 その声の持ち主は、漆黒の鎧(よろい)に身を包んでいる。その姿は、まるで異世界の騎士のよう。
 彼は私に近づくと、私を力強く自分の腕の中に抱き寄せる。
「シーラ、もう大丈夫だ!ここは僕に任せてくれ!!」彼の頼もしい声は、いつも私に限りない勇気を与えてくれる。
 私は、彼の胸に抱かれ、そっと彼の胸に頬を寄せ安堵(あんど)する。そして思う。ああ、なんて頼もしく大きな胸なんだろう。ずっとこの胸に抱かれていたい……。
 彼は私を必死に守りながら、私に近づく動く死体と私を執拗(しつよう)に襲おうとする悪魔と切り結ぶ。そう彼は、いつも私を助けてくれる……。いつも私を守ってくれる愛しい人……。
 全ての敵を倒した彼は、私を抱き上げ、森の中を駆け抜ける。私の頬を冷たい風が撫でながら、私達は私達の聖地に向かって疾駆する。そこは、自然に出来た地下の洞窟(どうくつ)を利用した石造りのラビリンス。そして私達神教の叡智(えいち)を結集し造り上げた結界で守られている安全な場所だ。
 彼は私をそこまで連れていくと、私を降ろし、私を安心させるように、私の肩にそっと手を置きながら囁(ささや)く。
「もう大丈夫だ、シーラ。どこか怪我(けが)していないか?」
 張り詰めていた私の心の糸が一気に緩(ゆる)み、私は首を振って心の底から安堵する。
 そして心からこう思う。この人の言う事ならなんでも信じられる……彼の手をずっと感じていたい……。
 私の心に彼への愛と感謝の気持ちが泉のように湧いてくる。彼は、私の為に命を投げ打ってこの姿に転生(てんせい)した。私をそして世界を守る為に。私は瞳(ひとみ)を潤(うる)ませながら私の肩に添(そ)えられた彼の手の上にそっと自分の手を重ねる。彼を慕(した)う思いと共に、熱い吐息混じりに彼の名を呼ぶ。
「ラリー……ありがとう」
 私は彼の目をじっと見つめる。彼の目は、海のような優しさをたたえた蒼天(そうてん)の色。そして彼の顔は、漆黒の異世界の兜(かぶと)で覆(おお)われている。でも少しも恐くは無い。その瞳が愛情を注いでくれる。
 私は言い尽くせない感謝を込めてもう一度言う。
「ありがとう、ラリー。愛してるわ」
 魂が引きつけ合うように彼にひしっと抱きつく。私は顔を上げ、彼とじっと見つめ合う。
 私の中に熱い気持ちが溢れてくる。私は、頬を赤く染め、心が安らぎで満たされていくのを感じながら目を閉じた。私は、自分のこんなにも彼を愛する気持ちが自分の指先から全て伝わって欲しいと願い彼の背中に腕を回す。そして彼の背中を強く抱きしめる。自分を愛するより、彼の事を遥(はる)かに愛している事が伝わってほしい。そう願いながら、私は彼の首に腕を絡ませ口付をせがんだ。
 彼が兜の下で微笑んだ気がした。
 私は、彼の兜に手を添え、彼の顔を覆い隠している黒い兜をゆっくりとはずそうとする。
 灼熱(しゃくねつ)の太陽のように熱く深いこの気持ちを一刻も早く彼に伝えるために……彼を少しでも近くに感じるために……。
 私は、胸の高鳴りを感じながら、甘い陶酔の中で彼の黒い兜をゆっくりと持ち上げていく。兜の重さはまるで感じない。空気が滑(すべ)るように音もなく彼の兜が少しづつ持ちあがっていく。それに伴(ともな)い、兜の下からほのかな優しい蛍のような光が漏れ始める。愛しい人のおとがいが見えた。彼のそれは、春の木漏れ日のように微(かす)かに輝(かがや)いている。
 口が見えた……彼の兜の下から現れる顔は後光を放って見える……。
 私は、さらに兜を持ち上げる。胸躍らせながら……。
 もうすぐ愛しい人の顔が見える……。
 私は、たかぶる感情に酔(よ)いしれながら、期待で心躍らせた……。これが夢ではない事を願いながら。
 突然、甘い陶酔(とうすい)の夢をぶち壊すように、けたたましい目覚ましの音が鳴り、ジェーンは、夢から一気に現実に引き戻されベッドの上で飛び起きた。
 唐突に夢から引き戻された彼女は、しばらく寝癖(ねぐせ)のついたブロンドの髪のまま、目覚めの抜けない頭で、なにもない空間をぼんやり見ていた。
(又だ……)
 最近になってよく見る夢。この夢を見た時は、目覚めても少しの間、夢の世界が現実なのか、夢からさめた世界が現実なのかわからなくなる。それほどリアリティーのある夢だ。
 そして、この夢を見た後は、いつも決まって胸が締め付けられるような酷(ひど)く切ない気持ちになる。

――この女性の名は、ジェーン・ハリー。二十四歳。フォーマル社という会社でファッションデザインをやっているごく普通のOLである。今から六年前事故で両親を失ってから、今は、ロサンゼルスの郊外(こうがい)の一戸建てで一人で住んでいた――

  ジェーンは、この頃よく見るこの夢の事を夢うつつの頭で考えていた。
 この夢は、いくつものパターンがある。しかし必ず黒い騎士がでてくる。いつも自分の夢にでてくる、夢から覚めた後も強く印象に残っている黒い騎士……。
 確か夢の中ではラリーと私は呼んでいた。一体あれは誰なんだろう……どうも夢の中の私は、シーラと言う女性でその人の事をよく知っていて、強く愛しているみたいだけど……。
 それは痛いほどよく分かるのだ。そして、いつもその騎士の顔が見えそうになると夢から覚める……なぜなんだろう……。
 ジェーンは額に手を当てしばらく考えこんでいた。でも何も明確な答えはでてこなかった。夢にそんな理屈(りくつ)を求める方がおかしいのかも知れない……そんな事を考えていたが、しばらくして我に返りはっとした。
 ふと時計を見ると時間は、午後八時半過ぎをさしていた。ロサンゼルスの道路は、午前七時から九時位までが通勤ラッシュだ。
(いけない!もうこんな時間!)ジェーンは、不覚(ふかく)にも忙(いそが)しい朝に、のんきに考えこんだのを後悔した。慌てて着替えを始める。
 寝室のクロゼットから取り出したのは、出社用の落ち着いた感じの淡いブラウンのビジネススーツ。下着からそれに着替え終わると、慌(あわただ)しく二階にある自分の寝室のドアを開け出ていった。
 ジェーンは、急いでリビングを抜け、玄関に向かった。しかし玄関の前で、ジェーンは、急いでいるにもかかわらず立ち止まった。それは、出かける時には必ずするジェーンの取り決め事の為だった。
 ジェーンは、玄関にある靴入(くつい)れの棚(たな)の上にある写真立てを片手に取った。それに収まっている写真には、今より一回り若いジェーンとそのジェーンを挟(はさ)むように両脇に立ち、幸せそうな笑みをたたえた今は亡きジェーンの父と母が映っていた。
 それは、自分が思うに最も理想の家族だった。ジェーンもそう思っていたし、両親もそう思っていた。周りから見てもジェーンの家族はそう見えただろう。それは、写真の幸せそうな様子からも伺(うかが)える。決して作り物ではない家族愛のある温かな家庭だった。……しかし人生最大の不幸は、どうして人生最大の幸せを引き裂くように突然起こるのか。ジェーンの両親は、原因不明の事故で六年前、突然ジェーンの前からいなくなってしまった。まるで今まであった温かな家庭が、夢の中の出来事だったように。その時ジェーンは、まだ十七歳だった。
 親戚(しんせき)から自分たちの養子にならないか?一緒に住まないかと何度も申し出はあったが、ジェーンは誰にも頼らずに一人で生きていく自立の道を選んだ。それは、ジェーンに対しての両親の教育の仕方にも一因があった。両親は、ジェーンが幼い頃から精神的にも経済的にも自立出来る強い子供に育てようと熱心だった。今にして思えば、まるで自分たちが自分の子供の前から早くにいなくなる事を予期していたかのように。しかしジェーンは、そんな両親の甘やかすだけではなく、そうして強い自分を培(つちか)ってくれた教育に感謝していた。それもひっくるめて理想の家族だったとジェーンは思っている。そんな訳で両親の思いでの詰まったこの家に、ジェーンは、今まで一人で住んできた。ただ、彼女は、早くにそんな家族を失ったため、早く結婚をして、両親のような温かい家族を築(きず)くのが、ささやかだけど切実な夢だった。でも、今では、それも夢では無くなりつつあった。今までの努力がかなって、会社の同僚でケインと言う男性と縁談(えんだん)が進んでいるのだ。それは、ジェーンにとって理想の相手だった。まさに今ジェーンは、幸福の絶頂にいるのだ。
 ジェーンは、服の胸元から白銀色のネックレスを取り出してギュッと片手で握りしめた。そのネックレスは、幼き日のジェーンに、生前両親が、「これはお前を守ってくれるお守りだよ。肌身離さず持っていなさい」と言い聞かせ渡した物だった。今では遺品となり、今でもなぜ、いつも身につけていなければならないのかよく理由は分からないが、両親が何度も言い聞かせて来たので、今でも言い付けを守り肌身離さず持っている。それにこれを持っていると何故(なぜ)か両親がずっと側に居て守っていてくれる気がするのだ。
「パパ、ママ行って来るね」そうジェーンは、写真に向かって微笑みながら呟くと、朝食も取らずに、写真立てのある靴棚の籠(かご)の中に入っている車の鍵と家の鍵を取り、玄関のドアを開け、外に出た。急いで家の鍵をかけ、車に乗りこむ。
「さあ。今日はどんな事が待っているのかしら」
 ジェーンは、微笑んでそう呟きながら、エンジンを素早くかけ、勤め先の会社に向かって車を走らせていった。
 外は、昨日の大雨が嘘のように晴れたまぶしい陽光がさす青空だった。
 時速五十キロ前後で車を走らす事二十四分。ジェーンは、ロサンゼルス名物の早朝のスモッグの中、朝の車の通勤ラッシュに巻き込まれていた。
 ジェーンは、ロサンゼルスを通るフリーウェイのインターステート・ハイウェイ5の路上で赤い軽自動車の中、一向に進まない車の列にイライラしながら腕時計をチラッと見た。
 もう既に勤務開始時間は、三十分も過ぎている。又部長にどやされる。もっと早く家から出るんだったと、心底悔やんだ。フロントガラスから遠方を目を細めて覗(のぞ)きこんでも、渋滞(じゅうたい)の列は、延々(えんえん)と続いている。どうあがいても今日は遅刻だ。
 ジェーンは、がっくりとうなだれ、ハンドルに顔を埋(うず)めて恨めしそうに重い溜息をついた。
 やっと渋滞から抜け出し、自分の勤める近代的なフォーマル社のビルが遠くに見えてきた。フォーマル社は、ロサンゼルス市内の外れにある、1982年に創業された夜会服を専門にしてきた会社だ。
 この度(たび)、夜会服以外にもファッションの事業を拡張しようとし、そのファッションデザインを担当する一人になったのが、ジェーンである。
 規模は、十階建ての自社ビルをもつ程で、従業員は、五十人前後。少数精鋭(しょうすうせいえい)の会社だ。
 ジェーンは、フォーマル社の門を車でくぐり、会社の敷地内に入っていった。正面玄関のガラスの大きな自動ドアの前には、直径十メートル位の丸い噴水(ふんすい)が涼しそうに水を吹き上げている。その正面玄関の横にある三十メートル平方のフォーマル社専用の駐車場に車を入れ、自分専用の駐車スペースに車を停(と)めた。そして、そそくさと車を降り、車の鍵をかけ、足早に正面玄関の自動ドアから社内へと入っていった。
 ざわつく、いつもの社内の中を、ジェーンは、半ば駆けながら、自分の部署のオフィスのある五階デザイン企画室にむかっていた。エレベーターで五階につくとデザイン企画室のある廊下をつかつかと早足で歩き、≪デザイン企画室≫と書いてあるプレートがかかったドアの前に辿りつく。ドアの向こうから異様に活気づいたやり取りの会話が聞こえてくる。ジェーンは、ドアを開け、「おはようございます……」といつもより小さな声で目立たないよう挨拶(あいさつ)し、中に入っていった。遅刻の理由どう書こうかしら。そんな事を考えながら。
 中に入ると同僚のなじみの顔が見えてきた。その中に、躍動感ある流れる感じのショートボブヘヤーの髪型をした若い男性が、ジェーンの前方、五メートル程にある椅子に腰掛け、机に齧(かじ)りつくようにして仕事に没頭(ぼっとう)していた。
 彼の名は、ケイン・クランク。二十七歳。愛着のある顔をし、紺のビジネススーツに身を包んだ彼こそがジェーンが縁談を進めている人であった。彼は、ジェーンよりニ年早くフォーマル社に入社した独身の優しく気のいい男で、ジェーンの先輩でもある。三年前ジェーンが新卒者として初めて入社してきた時、ジェーンと出会い、運命という名の計画の歯車が動きだしたように、お互い気になりだした。それはやがて友情から愛情へと変わりだし、ほのかに燃える魂の躍動(やくどう)になった。
 彼は、椅子に座り仕事をしていたが、ジェーンが入ってくるのに気付くと、嬉しそうに顔を上げ、真っ先にかつぜつのいい声をかけてきた。
「やあ、ジェーン、おはよう!」
 ジェーンは、内心ギクッとし顔を引き攣らせた。遅刻した後ろめたさから、なるべく目立たないように自分の席に着きたかったのだ。
 ジェーンは、ばつの悪そうな顔をケインに向けた。無邪気とも言える朗らかな顔でケインが自分を見つめてくる。他の同僚達は、チラッとジェーンを見ただけで、自分達の仕事に余念が無いのか又仕事に戻り出す。
 ほっとジェーンが胸を撫で下ろし、ケインに笑みを返す。その時、ふっと今朝の夢が思い出された。眼前の男性は、どこかここの所、夢に出てくる騎士に似た優しい臭いがある。
その想いに既視感のような物を感じたため、ジェーンの返した挨拶は物憂げな物になった。
「ハアイ、ケイン、おはよう……」
「おいおい、元気がないな。……もしかして、又、あの夢でもみたのかい?」
 ケインが少し冷やかすように話し掛ける。
 あの夢とは、今朝も見たジェーンが最近よくみる黒い騎士が出てくる妙にリアルなあの夢である。ジェーンは、それについて、ケインにも何度か話したことがあった。
 ジェーンは、しばらく黙った後、「そうなの……このごろ立て続けに見るのよ。なにか良くない事でも起こるのかしら……」とぽつりと呟いた。
 ここの所、その夢のせいで、仕事に対するポテンシャルが落ちている気がする。
 そんなジェーンを元気付けるようにケインがいつもと変わらない調子で話し掛ける。
「気にするなよ、ジェーン。夢なんて体の調子でころころ変わる物だって何かの本に書いてあったぜ。このごろ会社の新事業のデザインで根詰めているだろ?きっとそれで、疲れているんだよ。
 ゆっくり休めば君ならすぐに元気になれるさ」
「そ、そうかしら」ジェーンは、少し戸惑いながら答えた。しかしその言葉で、今朝の夢は、偶然みた気にすることはない物だと思い直す事にした。
「そ……そうね。わたし疲れているんだわ」ジェーンは、迷いを笑顔で断ち切り仕事に打ち込む為、気持ちを切り替えた。その笑顔を見て、ケインは安心したように笑った。
 ジェーンは、ケインの席より奥にある自分の仕事場に足早に向かった。ケインの横を通り過ぎる時、ぽんとケインの肩を感謝を込め叩く。
 自分の席に着いたジェーンは、一つ大きく伸びをしてから自分の横の席に居る親友を見やった。
 そこにはケインと同じく熱心に仕事にうちこんでいる、つややかな黒髪を後ろで束ねたかわいい女性が座っている。
 彼女の名は、真理子。二十五歳。最近、日本からやって来た、がんばりやの仕事熱心なキャリアウーマンである。
 彼女は、仕事のため、家族を日本に残し、五年間だけアメリカに住む為にやって来た。今は、アメリカの叔父の家にホームステイしているが、今は、その叔父も長期の旅行で家にはいない。真理子は、その家に自分の子供で三歳の女の子と暮らしている一児の母でもあった。夫とは、不運なことに既に死に別れているが、明るくよく笑う女性で、ジェーンとは、初めて会って、ファッションや食べ物の好みが一緒と言う事もあり、すぐに意気投合した。ついニ日前も、ジェーンは、真理子に招待され、真理子の子供の三歳の誕生日パーティーに招待された所だった。
 ジェーンは、その時、真理子の子供のかわいさにかんかされ、私も子供が早くほしいと強く思ったものだった。
 その真理子がジェーンに気づき声をかけてきた。
「あら、ジェーン、おはよう」
「ハアイ、真理子、そのデザインなかなかいいわね」
 ジェーンは、パソコンのディスプレイに映し出された真理子の服のデザインを覗き込みながら挨拶(あいさつ)を返した。
 しかし真理子は、しばらくジェーンを見た後、何故かクスクスと可笑しそうに笑い始めた。やがて、「ジェーン、今日物凄く急いできたでしょ?」と予期せぬ言葉を口にした。
 えっ?なぜわかったの?そんな顔をしているジェーンに向かって、「うしろの髪、寝癖ついたまんまよ」と真理子は囁(ささや)いた。
 ジェーンは、急いで肩まである自分の金髪を撫でた。照れ笑いを浮かべながら、「ちょっと寝坊しちゃったのよ。部長にどやされるわ」としりすぼみに答える。
 真理子は、ジェーンの顔をキョトキョトと見まわした。それから口に手を当てて笑って可笑しそうに言った。
「ジェーン。あなた運がいいわ。丁度部長も昨日の飲み会の二日酔いで寝坊してきたのよ」
 それを聞いてジェーンは、へなへなと緊張が体から抜けて行くのを感じる事になった。それから二人は声を上げ笑い合った。
「あ!いけない!私こんな事してる場合じゃなかったわ」ジェーンが突然思い出したように言い、オフィスから駆け出して行く。もちろん化粧室に行き髪を整える為だ。真理子はそれを微笑ましそうに見つめていた。
 化粧室に入ったジェーンは、鏡の前に立ち、鏡に映った自分の姿を見て少しうんざりていた。
(ファッションデザイナーは、いつも身だしなみに気をつけなくちゃいけないって日頃から真理子と話し合っているのに……こんなことじゃファッションデザイナー失格だわ)
 ジェーンは、そう思い気合を入れなおした。バッグから急いでくしを取り出し、髪をとかし始める。早々ととかし終わり、鏡で入念にチェックした後、オフィスに足早に戻っていった。

 時間は、午後十一時を回っていた。

 昼休みを告げるチャイムの音が、フォーマル社の社内に響いた。たいていの社員は、この時間を利用してランチを取る。ジェーン達もそうだった。
 ジェーンは、仕事を止め、一息つき、椅子(いす)の上で伸びをした。それからケインを誘って社外にあるオープンカフェでランチをとろうとケインの席に向かった。すると、そこにジェーンと同じように仕事を止め、一息つきながら椅子の上で伸びをしているケインがいた。ケインは、近寄ってきたジェーンに気づき、「あ、ジェーン、これから一緒にランチをとらないかい?」と尋ねてきた。
「私もそう思ってたところよ」とジェーンは答え、お互い微笑みあい、つれあってオフィスのドアを開いて外に出ていく。それから廊下をつたい談笑しながらエレベーターに乗り一階へと降りていった。
 エレベータが一階に着いた事を示すチャイムの音と共に、エレベーターの扉が開き、ジェーンとケインは、楽しそうに話し合い廊下に出てきた。
 カツカツと靴音を立てながら廊下のタイルの上を歩き、玄関の自動ドアの前に立ち、談笑しながら自動ドアを開ける。それから二人は連れ立ってランチを取りにオープンカフェに向かった。
 そのすぐ後、あんなに晴れ渡っていた青空は、不自然な程の異様な速さで、ロサンゼルスを中心に怪しく曇(くも)っていった。しかしジェーン達は、その事には気付いた様子もなく二人の間の楽しいおしゃべりに興(きょう)じていた。
 ジェーン達は、フォーマル社から徒歩で数分のオープンカフェに着いた。クラシックのBGMが流れる落ち着いた感じのそのカフェには、白いパラソルとそれにコーディネートした白いプラスチィック製の丸いテーブルと数個の椅子が一揃(ひとそろ)えになって幾つも備えてある。
 まばらな客が、それに腰掛け、ランチを取りながら雑談に興じている。ジェーン達のような会社員を主(おも)なターゲットにした巷(ちまた)にありふれたカフェだった。取り立てて特徴(とくちょう)はないが、特筆すべきは店員の愛想の良さだろう。ジェーンは、そこが気に入って仕事に疲れた時などの息抜きによく来ていた。
 ジェーンとケインは、その中の空いている席に座った。ほどなく若い女のウエイトレスが、「いらっしゃいませ」と、にこやかな会釈(えしゃく)と共にやってきた。テーブルの上に水を湛(たた)えたグラスを二つ置きながら注文を聞いてくる。
 二人は、ランチとコーヒーをにこやかな笑顔でオーダーした。
 しばらくして、ランチがテーブルに運ばれてくる前に、ケインが、「食事の前に手を洗ってくるよ」と言って立ちあがった。ジェーンは、一瞬、「手をきれいにするなら、おしぼりがあるじゃない」と言いそうになったが、ケインがトイレに行きたいのだと言う事に気付いて、可笑しさをこらえながら、「どうぞ」と答えた。ケインは、本音を読まれ少しばつが悪そうな顔をした後、カフェの奥にあるトイレに向かって早足に歩いていった。
 ジェーンは、その後ろ姿を楽しそうに見送っていたが、唐突に、部屋の電灯が幾つか切れたように辺りが薄暗くなって行くのに気付いた。風がにわかにザワつきだしているような感じがする。ジェーンは、何事かと思い、空を見上げた。そして驚いた。空模様は、さっきまであんなに晴れ渡っていたのに、今は、それが勘違いだったように、どんよりと曇り、今にも大泣きしそうな気配だ。
 今日は、傘の必要は、全く無いでしょうねと言う天気予報を信じて、ジェーンは、傘を持ってきていなかった。無理も無い。今朝は、長雨から久々(ひさびさ)に開放され、目を洗うような真っ青な青空が広がっていた。その空模様からは、こんなに早く曇ってしまうとは、ジェーンには予想だに出来なかった。しかし現実の空模様は、喉を鳴らし、今にも昨日までのような大雨が降り出し始めそうだ。
(どうしてこの国の天気予報は当たらないんだろう。今日は、絶対に雨が降らないって言ってたのに……もう、当てにならないんだから!)ジェーンは、心の中で舌打ちした。
 急いで天気予報を聞くためにバッグからラジオを取り出す。スイッチをオンにし、イヤホンを耳にして選局ダイヤルを回すと、何か緊張感漂うアナウンサーの声が聞こえてきた。
「ただ今入ってきた情報によりますと、今日昼頃から太平洋岸添いの地域で再び大雨が降り出す模様です。なお次の地域には、注意報、警報が出されています。オレゴン州、カミナリ警報、竜巻警報、暴風警報、大雨洪水警報。ネバタ州、カミナリ注意報、竜巻注意報、大雨警報。カルフォルニア州、カミナリ警報、大雨注意報。以上です。これらの地域で危険地域にお住まいの方々は、地元の行政の指示にしたがって速やかな非難を行って下さい。これからも充分な警戒が必要です。お気をつけ下さい。続きまして昨日までの大雨による各地の被害情報をお伝えします」ここまで聞こえてきた時、急にアナウンサーの声がしぼむ様にか細くなっていった。
(嫌だわ。電池が切れかけているのかしら)と思っていると、激しいノイズが割りこんできた。ザーというテレビの砂嵐のような音が流れ出す。
(壊れたのかしら?)一瞬そう思ったが、程なくそれは終わり、今度は何か小さな声のような音が聞こえてきた。しかしよく聞き取れない。ジェーンは反射的にその音を聞き取ろうと耳を澄ました。その時、急にノイズが止まった。そして、太く、くぐもった不気味な声が聞こえた。
「ジェー・・・ン」
(えっ!?)
 彼女は耳を疑った。無理も無い。突然、自分の名を呼ぶ声がラジオから聞こえてきたのだ。聞き間違い。ジェーンはそう思い、もう一度、イヤホンからの音に耳を澄ました。
「・・・ジェーン!」今度は、はっきりと聞こえた。自分の名を恨(うら)めしそうに呼ぶ声が。自分を地の底に引きずり込むような艱苦(かんく)の声が。
「ひっ!」ジェーンは、背中に激しい悪寒が走り、驚きの声を上げた。たたみ掛けるように、冷たい泥水を体に擦り込むような、くぐもった、不快な、人ではない笑い声が、イヤホンから直接耳元で囁きかけられるようにして聞こえた。
「ククク・・・ミ・ツ・ケ・タ・・・」
 ジェーンは驚き、恐怖におののいて、思わずテーブルに足をぶつけながら椅子から立ちあがった。その拍子(ひょうし)にテーブルの上に置いてあった、水を湛えたガラスのコップが落ちて、床にぶつかると共に、けたたましい音を立て粉々に砕け散った。その時にイヤホンは耳から外れた。
 けたたましいグラスの割れる音に驚いた周りの客の視線が、一斉にジェーンに集まった。客は眉をひそめ、訝(いぶか)しそうにジェーンを見ている。ジェーンは、蒼白しながら後退りして、テーブルの上のラジオから遠ざかった。そのまま今起こった事が信じられないという表情で呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす。
 ジェーンは、呪いとか幽霊のようなオカルト的な物を信じる方だった。それかもと思いあたったのだ。それは、時々それらが見える事がある為だった。
 若い女が、突然悲鳴を上げ、青ざめながら立ち尽くすその様子を見ていた周りの客達が、何事かとざわめき出す。しばらくして異常を察したケインが戻って来た。怯えながら立ち尽くすジェーンを見て、ケインは、動揺しながら、「ど、どうしたジェーン。何かあったのか?」と心配気に尋ねる。
 ジェーンは震えながらテーブルの上のラジオを指差した。
「ラ、ラジオから変な声が!」ジェーンは声を震わせてすがる様に言う。
「ラジオ?」そう言いながらもケインは、ジェーンのこの怯え様はただ事ではないと感じた様子で、テーブルの上にある、黒っぽく一見何の変哲(へんてつ)も無いラジオに近づいた。ジェーンはその様子を、口を手で覆い、悲痛の表情で見つめている。
 ケインはラジオに手を伸ばし、手に取った。そしてラジオにぶら下がっているイヤホンを耳に付ける。しばらく顔を顰(しか)め聞き入っている様子だったが、やがてイヤホンを耳から取ると、ほっと溜息をつき、苦笑いしながらジェーンに向かって、「何も聞こえないよ」と言った。
(えっ!?)ジェーンは当惑した表情でケインを見返す。
「でも確かにジェーンと言う私の名を呼ぶ声が……」そう言ってうつむくジェーンを、ケインはしばらく心配そうに見ていた。今起こった事に対して、頭の整理がつかないジェーンは、おろおろしながら自分を見つめるケインの顔を見上げた。ケインも当惑している様子だった。ただそれはジェーンと違って、何かが起こったと言う事を考えているのではなく、ジェーンがどうにかなってしまったのでは無いかと言う、危惧(きぐ)の念が含まれているような表情だった。
 でも自分には、確かにはっきりと聞こえたのだ。空耳ではない事は確かだった。答えが出ず、ジェーンがそう悩んでいると、ケインがおもむろに、「ジェーン。それってもしかして、番組にジェーンと言う人が出ていたんじゃないのかい?」と言った。
 ジェーンは、それを聞きはっとした。確かにそれもありえない事ではない。いやそう考えるのが一番自然だ。でも何故か気に掛(かか)った。その理由は、ラジオから聞こえた異様で無気味な声だった。それは到底(とうてい)人の声とは思えない心臓を濡れた冷たい手で、ギュッと握り締められたような声だった。単なる出演者の名をそんな風に言うのはおかしい。それに声の主は、直接自分に語りかけてきたように感じた。でもそんな事、常識的に考えると有りそうも無かった。……こう考えられないだろうか。何かの番組で怪奇物をやっていて、偶々(たまたま)ジェーンと言う名が幽霊役によっておどろおどろしく言われたのではないか。きっとそうだ。ジェーンはそう思い、自分を納得させようとした。そうすれば、今起こった事による恐怖は消えて無くなるのだ。人間都合のいい方に思い込もうとする。元々楽観的な彼女は、そう自己完結した。一端そう考えると何か自分が一人で取り乱していた事が滑稽(こっけい)に思えてきた。誰かのいたずらに見事にはまったような気恥ずかしさと共に、恐怖から開放され、体から張り詰めていた力が抜けた。自然と頬がほころび、笑いがこぼれる。
「ふふふ、そうね。ケインの言う通りだわ」ジェーンは、はにかみながら言った。
 ケインもそれを見て安心したように溜息をつくと、少し心配そうな表情を残しながらもジェーンに優しく微笑みかけた。
「さあ、座ってランチをとろう」ケインがそう言って椅子を勧めようとする。でもその椅子の下の床に、割れたグラスの破片(はへん)が散乱している事に気付いた。ケインは、それをどうしようかと辺りを見回す。すると、丁度ウエイトレスがパタパタと靴音を立てながら、手にチリトリとホウキを持ってジェーン達の席に足早にやって来るのが目に映った。
「大丈夫ですか?御怪我はございませんか?」ウエイトレスが、顔をこわばらしながら尋ねる。
「ええ、大丈夫です。騒がせてごめんなさい。グラスは弁償しますから」ジェーンは、丁重に謝った。
「いいんですよ。気になさらないで下さい」ウエイトレスは、にっこりしながら言い、「どうぞあちらの席でゆっくり召し上がって下さい」と別のテーブルを勧めた。その後、割れたグラスの破片を掃除(そうじ)し始める。
 ジェーンは、テーブルの上のラジオを人騒がせねと言う表情で手に取り、ラジオの電源を切った。それから、ウエイトレスの温かい勧めに従って、ジェーン達は、隣のテーブルに移動し、椅子に腰をかけた。
 騒ぎの当の本人が、何事も無かったように席に着くと、その様子を見ていた周りの客は、好奇に満ちた目を止め、又、何事も無かったようにそれぞれの目的に勤(いそ)しみ始めた。
 ほどなく、別のウエイトレスが、水の入った新しいグラスを二つジェーン達のテーブルに持って来た。愛想よく、「ごゆっくりどうぞ」と言ってカウンターに戻っていく。
 ジェーン達は、注文したランチが来るのを待ちながら、仕事の事、近況の事、そして将来について熱っぽく語り合った。
 そうこうしている内にランチがテーブルに運ばれて来た。ジェーン達は、それをおいしいと言ってほおばりながら話し続けた。楽しい時間は穏やかに過ぎていった。
 やがて昼休みが終わり、会社に戻る時間がやってきた。ジェーンとケインは、勘定(かんじょう)をすませオープンカフェから出ていった。空は鉛色の雲が垂れ込め、さっきから今にも大雨が降りそうなのに雨はまだ降っていない奇妙な天気だった。しかしジェーンは、この調子なら雨が降り出す前に会社に戻れそうだという位にしか、別段気に留めてはいなかった。

 時間は午後十二時五十八分を指していた。

 会社についた二人は、仕事が終ったら一緒に食事を取る事を約束した後、オフィスに戻り、それぞれの仕事に取り掛かった。
 そして時間は一時間、ニ時間、三時間……と無事に何事もなく過ぎていった。

 外も夜の暗闇がだんだんと支配していき、街に電灯の光が灯っていく午後六時頃。
 
ロサンゼルスの街の外れの空には、渦をまく赤黒い暗雲が、空に出来た目のように下界を見下ろしていた。
 唐突に、その渦から悪魔の息吹(いぶき)のような蒸気と共に、雷鳴は轟いたが、光りを放たない奇妙な雷が落ちた。濁流のように鳴るその渦の中心を掻き分け、渦の中心から吹き出す暗雲にまみれながら、羽を羽ばたかせ、黒い何物かが不意に飛び出してきた。一キロ遠くから見たとすれば、それは巨大なカラスに見えたかもしれない。しばらくそれは、上空でホバリングしていたが、体を包むように翼を折りたたむと、ロサンゼルスの超高層ビルの屋上に向かって音も無く、矢の様な速さで飛んでいった。その屋上に足を付ける直前に、こうもりのような大きな羽を一気に開き、恐竜のような鋭い鉤爪(かぎつめ)を生やした太く体毛に覆われた足を屋上に付け、降り立つ。その姿は、まるでフランスはパリにある、有名なガーゴイルの石像に非常によく似ていた。
 感情の欠片も感じられない眼は、燃えるように赤く、角のような二つの大きな耳が頭についている。口は歯茎(はぐき)が突き出していて、岩のようなごつごつした歯が歪(いびつ)に並んでいる。上半身は魚のようなヌメヌメとした鱗(うろこ)で覆われ、下半身はサルのように黒い毛で覆われている。そして人のように一組ずつの太い手足が生えている。
「シャー!」その怪物は、悲鳴じみた甲高い声で吼(ほ)え、燃えているような赤い眼で、眼下の人類の文明を見回した。
 蟻(あり)のようにせわしなく動き廻(まわ)る車の群れが道路を行き交っている。見渡していたその怪物の顔は、不意にある場所でぴたりと止まった。その眼には、車の群れの列の中に、一際目立つ赤いバスが走っているのが映っている。その怪物は、そのバスを眼でしばらく追った後、唾液(だえき)で糸をひく口を大きく開け、異世界の生物のような、耳障りな唸り声を上げた。それを合図にしたように、怪物の体は、とかげの如くビルの屋上から壁を這って伝い降り、隣接する屋上に虫のような動きと素早さで飛び移った。又隣のビルの屋上へと次々に飛び移って行く。その行き先にあるのは赤いバス。しかしその黒鳥の姿は、漆黒の闇夜に同化して誰の目にも留まる事はなかった。
 フォーマル社のオフィスの時計は、もう午後八時三十九分をさしていた。とっくに勤務時間は終わっていたが、ジェーンとケインは残業していた。ケインは自分の仕事に片(かた)がついていないと言うよりは、ジェーンの仕事が終わるの待っているという感じだった。もういいだろうとケインは思い、「ジェーン、一緒に帰ろう」と声をかけた。しかしジェーンは振り向いて、「ごめんなさい。悪いけど今日はまだ残るわ。今日中にこのデザインを仕上げてしまいたいの」とすまなさそうに答えた。ケインは楽しみにしていたジェーンとのディナーが、おじゃんになった事に残念という顔をしたが、そこは理解のあるケイン。よくある仕方の無い事に、すぐに笑みをジェーンにむけて、「余り根詰めるなよ」と諭した。
「わかってるわ。ありがとう」とケインの気遣いにジェーンも笑顔で返す。それを見届けたケインは、「じゃあ。帰り気をつけろよ」と言って、椅子にかけてあった自分のスーツを肩にはおり、体をひるがえしてオフィスのドアを開け出ていった。
 ジェーンは、それからしばらく仕事を続け、壁の掛け時計を見た。午後九時前を指していた。
 ケインが出ていった後、静かなオフィスにジェーンの操作するパソコンの音だけが聞こえている。しばらく静かな時が流れた。それからしばらくして、ジェーンは、気分転換にコーヒーでも飲もうかと思い、オフィスのドアを開け、オフィスに続く廊下にあるドリンクの自動販売機の前に立った。自動販売機に硬貨(こうか)を入れ、コーヒーのボタンを押す。機械は作動音を出しながら紙コップを落とし、落とした紙コップの中にコーヒーを注いでいく。
 紙コップにコーヒーが全て注がれたことを告げる合図音が鳴った。
 ジェーンは、ドアを開け、コーヒーの入った紙コップを取りだしオフィスに戻っていった。
 オフィスに戻ったジェーンは、自分の椅子(いす)に座るとコーヒーを一口、口に注ぎ、「ふう……」とため息をついた。もう一口、口に注いだ後、紙コップを自分の机に置き、再び自分の仕事を続け始めた。

 午後十時四十九分。
 ロサンゼルスの夜闇の中、フォーマル社前を終点にする赤いバスが緩やかに走っている。
 バスの中には、終点間近でお客はみんなすでにおりてしまっていて運転手しかいない。
 メキシコ系の浅黒い肌の運転手は、バスをフォーマル社前終点より一つ前のバス停に停(と)めて、ドアを開いて客が乗ってくるのを待っていた。しかしこの時間帯に、このバス停ではめったにお客は乗ってこない。
(今日もだれも乗ってこないな……)そう思い、「次はフォーマル社前、終点」そう運転手が誰もいない車内にアナウンスし、運転席のすぐ横のドアを閉めようとした。その時、そのドアから一人の小さなお客がうつむきながら乗ってきた。
 まだほんの十一、十二歳くらいの少女だ。
(こんな夜更けに、こんな子供が一人でバスに乗ってくるなんて……!?)
 運転手は、怪訝(けげん)に思ったが、運転席に腰掛けたまま優しく尋ねた。
「お嬢ちゃん、もうこんな夜遅くに一人でどうしたんだい?パパやママはどうしたんだい?」少女は顔を上げずに言った。
「……はぐれちゃったの……それで一人でおうちにもどるの……」元気のない重た気な声で少女は呟いた。何となく気味悪さを運転手は感じながら、
「……そ、そうかい……、じゃあ、おうちはどこだい?おじさんがつれてってあげるよ」とバスの運転手は声を掛けた。
「・・・・」
 少女は答えない。
「住所がわからないのかい?」バスの運転手は再び尋ねた。
 少女はブツブツと小声でなにか言ったが、運転手はよく聞き取れない。運転手は、よく聞き取ろうと少女に顔を近づけた。その時、
 少女は顔を不意に上げ、太く不気味な声でこう言った。
「地獄だ!」
「ヒッ!」
 運転手は驚倒し、強い恐怖を覚え悲鳴を上げた。少女の目が死人のように白目をむいているのだ!尋常ではない!
 そう思った瞬間、少女の顔と体が液体のように歪んでいった。運転手は、突然の恐怖に縛られ、顔を引き攣(つ)らせた。不意に歪んだ少女の頭の先端が、餅(もち)のように伸び、悲鳴をあげ、開いた運転手の口めがけて飛んでいく。そして運転手の口に、突き入る濁流(だくりゅう)の如(ごと)く入っていった。
「ググッ!ゴゴゴッ!」
 運転手は息をする事も出来ない苦悶にうめいた。歯が侵入物に次々と折られ、喉を突き破られそうだ。
 運転手は、歯の折れる強烈な痛みになす術(すべ)なく体を痙攣(けいれん)させた。そして、今や液体の化け物とかした少女の体が、運転手の体内に半分以上入りきった時、運転手の目が失神するように白目をむいていった。一瞬のうちに化け物の体が、運転手の体内に全て収まる。
 運転手は、体から粘液を垂らし、ぐったりとハンドルに顔を突(つ)っ伏(ぷ)した。
 しばらくの間、運転手は、ぴくりとも動かなかった。まるで死んだように。しかしやがて運転手の体はもぞもぞと動き始めた。
 嘔吐(おうと)するような苦悶の声を漏らしながら、まず右肩だけが歪に起き上がる。それに続き、今度は、上半身がゆっくりと持ち上げられハンドルに伏していた頭がハンドルから離れた。最後に下がっていた左肩が持ち上がり、横に反れていた体が真っ直ぐになる。その動きはまるで、糸で操られた人形のように角張った歪なものだった。しかし、まだ苦しそうに呻き声を漏らしている顔は、うつむいたままだ。
「ウウウー!」突然運転手が一際大きくわめいた。だらんと垂れた腕を勢いよく持ち上げる。その両の掌でハンドルを固く握り締(し)めた。そして不意に顔を上げた。その顔は、歯を噛み締めながら剥(む)き出し、恐ろしい程、憤怒(ふんぬ)の形相にたぎっていた。眼球は瞳孔(どうこう)がなく、白目を剥いている。それがもう人間と呼べない事は明らかだった。
「シャー!」哀れな生贄(いけにえ)となった運転手は、人の声ではない身の毛もよだつ声で叫んだ。そして最早一刻も待ちきれないように、荒々しくアクセルを踏み込んだ。
 バスは、女の悲鳴のような甲高いタイヤの摩擦音を夜の闇に轟(とどろ)かせ、弾かれたように急発進し、フォーマル社に向かって猛スピードで走っていった。

 フォーマル社の壁の時計が、丁度、午後十一時を指した頃、ジェーンのいるオフィスに異変が起こり始めた。
 始めは、ジェーンから二十メートル程離れたオフィスの天井の蛍光灯が瞬き、ふっと切れただけだった。ただの電灯切れ、そうジェーンは思い、気にもとめなかった。その時だった。
 切れた電灯が破裂したような音を立て唐突に割れた。これにはジェーンも驚き、はっとして割れた電灯に目をむけた。すると何と言う事か、今度は今割れた蛍光灯よりジェーン側にある隣の蛍光灯が続けて破裂した。そして又隣その又隣と連鎖爆発するように次々と割れ出し始めた。それはまるでジェーンに向かって襲って来るような感じだ。
 ジェーンは異常な雰囲気を感じ、椅子から飛び上がる様に立ちあがった。
 ポルターガイスト!?ジェーンは、そう思い顔を凍らせ息を詰まらせた。
 逃げなければ!
 本能的にそれがとてつもなく危険な物であると感じたジェーンは、悲鳴を上げながら、何かが蛍光灯を壊しながら近づいてくる方向と反対の方向にむかって駆け出した。なおも蛍光灯は、ジェーンに向かって追いたてるように割れ続ける。ジェーンは恐怖で顔を引き攣らせながら、咄嗟にオフィスのドアに向かって進行方向を変えた。つんのめりそうになりながらも必死に駆ける。
 ジェーンは、無我夢中でオフィスのドアを突き飛ばすように開け、オフィスから廊下に飛び出した。
 それでもなお、廊下を逃げるジェーンを追うように廊下の蛍光灯も割れ続ける。
(い、一体何なの!?)そう思いながら、ジェーンは廊下を駆け抜け、階段を必死に降りた。しかし五階、四階、三階、二階、と降りたが、階段の踊り場にある蛍光灯さえジェーンをしつこく追うように割れ続ける。
 ……一階、ジェーンは走りながら後ろを振り向いた。
 廊下の蛍光灯は、けたたましい音を立て、割れ続けているが、ジェーンには、まだ追いついていない。
 なんとか無事にビルからでられると思い、正面玄関の自動ドアを開いた。
 しかしそこに待っていたのは安堵(あんど)ではなくさらなる危機だった。
 突如、闇から眩しいライトの光りが現れ、ジェーンの目を射ぬいた。その目に見えた戦慄(せんりつ)の光景は、真っ赤な暴走バスが正面玄関に向かって突っ込んできている物だった。しかも暴走バスは、まぶしいカーライトをジェーンに浴びせながら、もう既に、ジェーンの目の前まで迫ってきている!まぶしい!とてもよけきれない!!ジェーンは驚きと絶望で腰を抜かしてしまい、その場に座り込んでしまった。
(う、うごけないっ!!)
(ひ、ひかれるっ!!!)そうジェーンは思った。その時!
 マントがたなびくような音が上空からしたかと思うと、いきなりジェーンの目の前に黒いマントをはおった黒尽くめの何かが落ちてきた。そしてジェーンの前に着地した人のシルエットをした者は、暴走バスに轢(ひ)かれそうになっているジェーンを、すばやく横に突き飛ばした。
 ジェーンは宙を舞い、正面玄関から十五メートル程離れたすぐ側の噴水(ふんすい)に水柱を上げ落下した。
 しかしジェーンは無事だった。噴水の水がクッションになり、ジェーンは怪我一つ負(お)わなかった。それとほぼ同時に、暴走バスがフォーマル社のビルの正面玄関に突っ込んだ。
 身のすくむ轟音をならし、暴走バスは、正面玄関の自動ドアを粉々に破壊した。続けて弾けるような爆発音を上げ、激しく炎上する。
「何するのよっ」
 噴水に落ちたジェーンは、突き飛ばされた痛みに顔をしかめ激しく咳き込みながらぼやいた。そして突き飛ばした者の方を見た。しかしその目に映った光景にジェーンは愕然(がくぜん)とした。暴走バスがビルの正面玄関を跡形もなく押しつぶし激しく炎上している。
 ジェーンの頭は信じられないという思いで一杯だった。半ば放心し唖然としながら凝視している。しかしすぐに堪(こら)え様の無い恐怖が込み上げてきた。ついさっきまで自分が居た所が、見るも無残な惨状に変わり果てている。何者かに突き飛ばされなければ、自分は確実にバスに潰(つぶ)されていた。そう思うと体の芯からガタガタと震えが這い登ってきた。
 悪寒が皮膚を萎縮(いしゅく)させる。極度のショックで軽い呼吸困難に陥(おちい)った。体と頭が痺(しび)れ、恐怖以外、何も考えられない。
 なんとかそれが幾らかおさまった時、はっとジェーンは思い当たった。
(一体誰が私を助けてくれたの!?一体どこにいるの!?)
 ジェーンは、くらくらする頭で辺りを見回した。しかし何処(どこ)にも誰も見当たらない。又はっと思い当たる。自分を突き飛ばした場所にいたなら、自分を助けた後、逃げ切れずに轢かれたかもしれない。現に何処にも見当たらないではないか……。
 ジェーンは、助けてくれた者の無残な死を悟りさらに愕然(がくぜん)とした。自分を助けた勇気ある人が、自分の命と引き換(か)えに死んでしまったのだ。どうしてこんな事に……!?不運の事故にしては余りにも悲惨過ぎる……。
 やり場のない悲しみが込み上げ、目に涙が滲んだ。ジェーンは、ただ肩をしゃくり上げ咽(むせ)び泣く事しか出来なかった。
 ジェーンは、自分を助けた者が、上空から落ちてきた事を忘れていた。いや常識的に考えて、偶然通りかかった人が自分を必死に助けてくれたのだと思い込んでいたのだ。上空から落ちてきたように見えたのは、きっと恐怖で頭が混乱していた為とジェーンは思っていた。
 しばらくジェーンが泣きつづけた後、不意に炎上するバスの方から何かが動いたような物音がした。ジェーンは、しゃくり上げていた肩をピクッと止め、涙目でその方向を見た。
 炎が地獄の業火(ごうか)のように激しく燃え上がり、火の粉が宙を舞っている。ジェーンにも、その熱は伝わってくる程だった。
 しばらく、炎を虚(うつ)ろな目で、とりとめもなく見つめていた。すると、炎の中に唐突に、蜃気楼(しんきろう)のようにゆらめく黒い影が現れた。それは、鎧(よろい)を擦(こす)り合わせるような重い謎の音と共に、だんだんと大きくなっていく。やがてその黒い影は、炎の中で人の形になった。ジェーンは目をしばたかせた。
(そんなバカな!炎の中に誰かいるとでもいうの!?)そう思った直後、ジェーンは今までの人生で最も恐ろしい物を目にしなければいけなかった。
 激しく炎上する炎の中から、波打つ半透明の黒い体がぬっと出て来たのだ。ジェーンは肝(きも)を潰した。それはまるで、古風な異世界の地獄騎士さながらの見たことも無い甲冑(かっちゅう)で身を包み、激しい炎の中で平然と燃えずに歩いて出てきたのだ。そしてそれは、体を液体のように波打たせ、半透明の体から、闇夜より尚暗い漆黒の豪壮(ごうそう)な姿になった。それを見て、これが人間で無い事は否応無(いやおうな)しに分かった。さっきから聞こえてくる謎の音の正体がその怪物の足音なのだとジェーンは気付き青ざめた。
 ジェーンは、余りの光景に言葉が出てこなかった。しかしその光景は確かに自分の目で見ている物なのだ。ジェーンは、何かの冗談だと思いたかったが、玄関の惨状がそれを否定してくる。
 ジェーンは、一刻も早くその場から逃げ出したかった。必死で噴水から立ち上がらうとする。しかし過度のショックを受けた為、腰が抜けて立ち上がれない。
 ジェーンが何度も尻餅をついてあがいていた時、不気味な足音が徐々に大きくなっていくのにジェーンは気付いた。
 もがいていた噴水からはっと顔を上げると、あろう事か得たいの知れない騎士が自分の方に向かって歩いてくるではないか。
(な、なんなの!?何をする気なの!?)
 ジェーンは得たいのしれない者を前に、強い恐怖を覚えた。命の危機を感じ、噴水の中で尻餅(しりもち)をついたまま後ずさりする。
 五メートル、四メートル、三メートルと、黒く不気味な地獄の騎士が、ゆっくり近づいてくる。
 ジェーンは、声にならない悲鳴を上げた。ひたすら恐ろしい。向かってくる者の姿は、死を告げに来た悪魔に見える。
 ニメートル!ジェーンのいる噴水の中に黒い騎士が足を踏み込んだ。
 バシャと、足が水の中に入る音がするはずだった。しかし音はならなかった。なぜなら黒い騎士は水面の上を歩いていたからだ。ジェーンは驚愕(きょうがく)し、はっとある考えが頭によぎり、そのせいでより恐怖に凍りついた。
(まさかっ!?ゆ、幽霊っ……!?)
「こっ、こないでっ!」
 ジェーンは、震えが止まらない声で叫んだ。なんとか噴水から這って出ようとする。しかしまだ腰に力が入らない。
 ジェーンは、歯を擦り合わせながら、黒い騎士から目を離せないでいた。自分が座り込んでいる為か、その者の姿は人間より一回り大きく見える。
 一メートル!
 ジェーンの目の前まできた黒い騎士は、歩みを止めた。ジェーンの体は金縛りに掛ったようになり、目は動きを失っている。恐怖で呼吸が細く荒くなりだす。喉は猛暑にさらされているように渇き切っていた。
 そんなジェーンの姿を黒い騎士は、しばらく黙視(もくし)していたが、やがて手をゆっくり動かした。
「ひっ!?」
 もう逃げられないとジェーンは観念し、目を固く瞑(つむ)り、顔を背(そむ)けた。しかし黒い騎士の行動は、ジェーンの予期していなかった意外な物だった。
 黒い騎士は、掌を上に向け、ジェーンの方に差し出したのだ。まるで座り込んで立ち上がれないジェーンに手を差し伸べるように。
 ジェーンは、固く目を瞑ったまま、それには気付かずにいつ来るか分からぬ恐怖に耐えていた。てっきりジェーンは、バスで自分を轢き殺そうとした者が、止(とど)めを刺しにやって来たと思っていた。
 しかしいつまで経(た)っても止めはやってこない。ジェーンは、恐怖の中で戸惑いを覚え、恐る恐る目を開いた。
 目には、黒い騎士が何をするでもなく、ただ手を差し伸べている姿が映った。しかしジェーンの頭は、恐怖に縛られ、それが何を意味するのか分からない。
「いやあ……」
 ジェーンは、涙声で訴えた。この不気味な黒い怪物が、その手で何をするのか考えただけでも動悸(どうき)がし、生きている心地が殺(そ)ぎ取られていく。
「……」
 黒い騎士は押し黙って聞いている。それがジェーンの恐怖をより一層煽(あお)りたてた。もしかしてこの得体の知れない者には生きている者の意志が通じないのかもしれない。そう思った時、黒い騎士が意外な言動を取った。
「怯えなくていい。僕は君の味方だ」
 涼んだ若々しい声で騎士が兜の口を開いて優しく話し掛けてきたのだ。自分が考えていたよりずっと人間染みた何処か馴染(なじ)みを感じる声で。
 ジェーンは、その時初めて自分を取り巻く不自然さに気付いた。
 この黒い騎士が自分を殺すつもりがあるのなら、とっくに殺しているはずだ。しかしそう簡単(かんたん)には信じる事は出来ない。賭(か)かっているのは自分の命だし、ましてや相手は意志は通じるようだが、人ではない。そう考えジェーンが恐怖と当惑の表情で騎士の手と兜に包まれた顔を交互に見やった。そしてフルフルと首を左右に振った。やはりまだこの異常な存在を信用する事は出来なかった。
 騎士はそれに応えてか、昔の貴族にするように、片膝をつき、目線を自分と同じ高さにした。青い二つの瞳がじっと自分を見つめてくる。それは思いもよらず、人間とさほど変わらない物だった。
 最初は、より大きな恐怖を感じていたが、もしかして殺す気は無いのかもしれない。そうジェーンは警戒を残したまま感じた。顔に浮かんだ警戒心が少しだけ薄まる。しかしまだ差し伸べられた手を握り返すまでには至らない。まだジェーンには、その言葉を完全に信じる余裕は無かった。
 それを感じたのか、黒い騎士は、ジェーンを安心させようとするように、差し伸べた手を下ろして立ち上がり、ジェーンから数歩遠ざかった。その時、ペタペタと水で濡れたものが地面を這うような音が、黒い騎士の背後からした。黒い騎士は、さっとその音のする方向を見た。ジェーンも思わずつられて見る。そこには、より信じられない物がいた。
 ゴキブリのように地面を這い、鱗(うろこ)で覆われたような上半身と濃い体毛で覆われた下半身を持つグロテスクなモンスターが、異常に長い手足を交互に交え、激しく炎上しているバスの中から出てきたのだ。それは、炎の中から這い出ると、黒い騎士のように、体を液体の如く揺らめかし、淡い影の色から宇宙の深淵の色になった。それを見た黒い騎士は、そのモンスターの方にさっと体を向けた。そして腰の鞘(さや)に手をかけ、おもむろに剣を引き抜いて構える。その剣は、激しく炎上する炎の光りを反射し、冷たく煌(きらめ)いた。
 ジェーンの背筋に冷たい物が走った。異界の騎士は、氷のような刃を持っている。一瞬その刃の矛先が自分の方に向いたらどうなるか考えた為だった。まだジェーンの心の中には理解出来ない者に対する深い警戒心があった。それに騎士とモンスターが同じような体の構造を持っているのを見て一瞬仲間なのかもとも思ったのだ。
 でも騎士は、モンスターに向かってその剣を構えている。それを見る限りでは、今の所、騎士とモンスターは、敵対しているように思える。
 ジェーンは、そうある事を強く願った。どちらとも自分を襲いに来たのではなす術が無い。しかしその答えは程なく出た。
 炎上するバスから這い出てきた異形の生物は、ジェーン達の十数メートル先の所で、ピタッ、と動きを止め、首をけだるそうに回した。その後、糸を引く大きな口を開け、内臓に響く怨嗟(えんさ)の声でこう言った。
「もう少しの所を!シャドーナイトめ!!」
 モンスターは、しばらく黒い騎士と睨み合った。モンスターの赤い眼は、紙のような薄さから爬虫類(はちゅうるい)の上下瞼のように大きく見開いた物になった。それから背中を脈動させ、こうもりのような幅広の羽を水平に広げた。
 ジェーンは、信じられない思いで唖然とするしかなかった。何故こんな事が自分の前で起こらなければならないのか分からない。ただ一刻も早くこの場から逃げ出し、現実の世界に戻りたい思いだった。
 異形の生物が胃に響く威嚇(いかく)の声を放った。ジェーンは、その声に総毛だったが騎士は少しも動じない。
 業を煮やしたように異形の生物が羽を脈動し始めた。モンスターの巨体が重力を無視したようにふわりと浮いた。
 モンスターは、ジェーン達の頭上十メートル程の高さで静止し、赤い目をらんらんと光らせている。それは逆光でモンスターの体が闇夜に同化した為、ゆらゆらと揺らめく怨念のこもった人魂に見える。
 モンスターが月を背にしながら周囲の光りを遮(さえぎ)り創り出した漆黒の影は、噴水ごとジェーン達を覆い尽くしている。
 ジェーンは、モンスターが今にも飛び掛ってくる気がして生きた心地を失っていた。しかしその予想に反し、モンスターは、忌々しげに羽で夜風を何度も切り鳴らした後、ジェーン達を見据えたまま、矢のようなスピードで漆黒の夜の空に飛び去っていった。
 黒い騎士は、それを見届けた後、ほっと肩で息をつくようにすると、しばらくジェーンをじっと見つめていたが、徐々に体が半透明になっていき、やがて幽霊のように消え去った。
 !っ……ジェーンは、自分が夢を見ているのかと思った。それほど今見たものは、非現実的で信じられないものだった。ただ、今、分かるのは、ここにいるのは恐ろしく危険だという事だった。
 ジェーンは、悲痛の表情でよろよろと立ち上がり、冷たい噴水の中、何度もつんのめりながらも半ば這うようにして噴水の外に出た。ぜいぜいと肩で息をし、血走った目で駐車場に停(と)めてある自分の車の方を見た。
 少しでもここから遠くに逃れたい。まだあの奇怪な者達が自分をすぐ側で狙っている気がしてならない。
 ジェーンは、力を振り絞り、駐車場に停めてある自分の車の方にむかって危なげに歩き出した。
 自分の車に着いたジェーンは、救いを求めるように車の中に入ろうとした。しかし程無く車のキーがないことに気付いたジェーンは、糸が切れたように、車に寄りかかりながら、ずるずるとその場に倒れ込み気を失ってしまった。

 しばらくして、騒ぎを聞きつけた一台のパトカーが、けたたましいサイレンをならしながら現場にやってきた。
 パトカーから降りてきた中年の警官は、玄関に突っ込んで激しく炎上するバスを見て、愕然とした。何年も警察に勤務(きんむ)しているが、このような大惨事は、めったに目にする事はない。誰か被害者がいないか警官は辺りを見渡したが、誰も見当たらない。しかし、ふと地面を見てみると、何か濡れた物が地面を這ったような跡がついている。その跡を警官は辿っていった。すると誰かがその先にいるような切羽詰った荒い息づかいが聞こえる。その気配のする方向に懐中電灯の光りを当てると、そこには、冷たい外気の中、濡れたまま座り込み、震えている若い女性がいた。
「どうしました?」
 警官はギョッとしながらも、努めて自分を落ちつかせるように声を掛けた。
 女性は呆然とした表情で何も答えない。
 警官は、急いで女性の元に駆け寄り、被害者であろうその女性の意識をはっきりさせるように強い口調で尋ねた。
「一体何があったんですか?」
 尋常では無い事件の被害者である女性――ジェーンは、虚ろな目でうつむいたまま押し黙っている。
「大丈夫ですか!」
 警官がジェーンの肩をゆすり、我にかえらそうと声をかけた。ジェーンは、その時初めて警官とは視線を合わせず、独り言のように震えた声で呟いた。
「な、何か得体の知れない物がっ……!」
 それを見聞きした警官は、今はまともに話せる状態じゃないと判断したのか、ジェーンにどこか怪我をしていないか尋ねてからジェーンの腕を掴み立ちあがらせようとした。しかしジェーンは、腰が抜けたままで、うまく立ち上がれない。その時、他のパトカーと消防車が、どこかジェーンには実感の伴なわないサイレンを鳴らしながらやってきた。
 現場に着くなり職員達が数名車から降りてくる。
「担架をくれ!」
 ジェーンを介抱(かいほう)している警官は、その方向に振り向き、後からやって来た仲間に向かって言った。
「大丈夫ですよ。すぐに病院に搬送(はんそう)しますから」被害者を安心させるために言ったが、強いショックを受けていたジェーンには、気休めにもならなかった。
 駆け寄ってきた警官達は、ジェーンの意識を保たせようと、ジェーンの名前や住所、現場に他に人がいなかったかなどを聞いたり話しかけたりしてきた。
 ジェーンは、なんとか少し気を取り持ち、自分と自分を助けてくれた者以外に現場には誰もいなかったように思うと答えた。バスに衝突される直前に自分を助けた者が、幽霊のように消え去った者だったとしてもそれを警官達に伝える気にはなれない。
 それを聞き、その中の一人の警官が、胸ポケットにしまっていた警察無線を取り出し本部に連絡を入れた。
「こちらフォーマル社前。ただいま被害者を一名保護しました。被害者は混乱し、衰弱している模様。至急救急車を一台お願いします」
「了解しました」
 スピーカー独特の声が聞こえた後、音が途切れた。
 他の警官や消防職員達は、ジェーンに二人付き添いを残し、迅速(じんそく)に消火活動や他に人がいないかなどの職務を遂行し始めた。
 やがて悪夢の時を告げるようなサイレンの音を鳴らし、一台の救急車が現場にやって来た。
 荒々しくドアが開かれる音がし、救急車から職員が降りてきて、救急車の後部ドアを開いた。
 ジェーンは、すぐさま担架(たんか)に乗せられ、その中へと運ばれていった。
 ジェーンは、複数のサイレンの赤い光りが、サーチライトのように交差する光景を、まるで悪夢の真っ直中にいるように感じながら見つめていた。心の中は、ただひたすら又この恐怖が襲ってこないかを恐れるばかりだった。体はまだ危機が完全には去っていない事を敏感に感じているようにガタガタと震えていた。
 ジェーンを収容し終わり、救急車の後部ドアが閉められた。
 ジェーンに付き添って乗り込んできた職員が、ジェーンの体を点検(てんけん)し終わった後、「大丈夫ですよ。体に別状はないですから」と笑顔で語り掛けてきたが、それすらも何かジェーンの耳には空々しい。
 ジェーンは黙ったまま目を閉じた。そして、今見ている現実が夢であって欲しいと願いながら、全てを忘れさせてくれる眠りの中へ、安息を求めながら落ちて行った。
 救急車は緩やかに発進し、夜の闇にサイレンを轟かせながら、何処までも続く先の見えないハイウェイを疾駆していった。

白の悪夢

 目覚めた時は、生温かい空気を感じる白い壁に囲まれた殺風景な薄暗い部屋の中だった。
 目には、自分を頭上から覗き込んでいる数人の顔がおぼろげに映った。
 ほっとしたようなケインの顔。
 禿頭(とくとう)の目付きの鋭いグレーのスーツを着た見知らぬ小太りの初老の男性。
 やや険しい顔で自分を立って見下ろす、痩せた白衣の中年男性。それに付き添っているまだ若い看護婦。
 ジェーンは夢現(ゆめうつつ)のまま辺りを視線でなぞった。
 部屋を仕切る薄いカーテンがオレンジ色の電灯で淡く照らされている。
 どうやらここは病院らしい。そして自分はベッドで寝かされているようだ。その事に気付いた時、意識が鮮明になった。
 ケインの温かい手が自分の手をいたわる様に握っている。自分のその腕には点滴が施(ほどこ)してあった。
「ケイン来てくれたの……」ジェーンは、ケインの顔を見て、バスの一件以来初めて一息つけた気がしてケインに語りかける事が出来た。
「君が事故に巻き込まれたって聞いてっ……心配したんだぞっ。でも無事で本当によかった」
 ケインは、悲痛が混じった表情になりながらも、ジェーンの額(ひたい)を愛(いと)しそうに撫でながら言った。その仕草や表情から、ケインが自分の事を痛いほど思ってくれている事を今更(いまさら)ながらジェーンは感じた。嬉しさと共に心配かけたすまなさが心に湧き起こる。
「ごめんなさい。心配かけて」
 ジェーンはその思いを声に宿し、安心させようと微笑んで応えた。
「いいんだ。君が無事なら」ケインは、温かい目でジェーンを諭(さと)した。
 ケインの優しさに触れ、ジェーンは、もう少しで殺されそうになった恐怖心が氷解したのを感じた。と同時に全てを打ち明け、ケインに泣き付きたくなる衝動が湧き起こる。
 しかしジェーンは、ぐっと堪え、微笑んで言った。
「大丈夫よ。もう心配しないで」
 ジェーンは、生きてケインに会えた事を心から感謝していた。ケインが握ってくれている手を強く握り返す。
「ゴホン!」
 一つ大きな咳払いを白衣の男性がした。多分自分の担当の医師だろう。何故かその医師はいらだった咳払いでジェーンとケインのやり取りが早く終るように促した。
 ケインとジェーンがその医師に目線を向けると、医師は冷めた口調で語り掛けてきた。
「私はここで心療内科医をやっているモーリス・ロイドと言う者です。別に心配はいりませんよ。精神的ショックを受けているだけで、どこにも損傷はないですから」
 ケイン達は、それが自分達を安心させる為の言葉と受け取り、礼を言った。
「では、私は医務室に戻りますが、何かあればナースコールで呼んで下さい」
 医師は、にこりともせず、素っ気無い口調で応えると、白衣を翻(ひるがえ)し、看護婦と一緒にスタスタとジェーンの病室から出ていってしまった。
 その様子に、何かジェーンとケインは釈然(しゃくぜん)としない違和感を感じたが、取り付く暇も無く、傍(かたわ)らにいたグレーのスーツを着た禿頭の初老の男性が首をすくめてぼやいた。
「嫌な医者だな。あれはヤブだな」
 そう言うと、シニカルに微笑みながらジェーンに語り掛けてきた。
「えー、ジェーンさん。私はロサンゼルス市警のライトマンという者です」そう名乗った警官は、警察手帳を胸ポケットから取り出して、ジェーンの目の前に掲(かか)げた。そしてすぐにそれをしまい、「質問したい事があるのですが、よろしいですかな?」と言ってきた。
 ケインは明日にしてくれと言う顔をしたが、ジェーンは、「分かりました……」と答えた。
 ライトマン警部はうなずいてから、さっとポケットから手帳を取り出した。そしてペンを身構え質問し始めた。
「まず……あなたを襲ったバスを運転して死んだ者についてですが、この顔に見覚えはありますかな?」そう言ってライトマン警部は、浅黒い肌をした真面目そうな一人の中年男性が、バストアップで写っている写真を差し出した。
 ジェーンは、この人が自分を殺そうとした者で、しかも、もうこの世にはいない事を思うと、写真を手に取ることさえ億劫(おっくう)だったが、捜査の協力の為と思い手に取った。
 ライトマン警部が、「その男の名は、アルバート・レイルト。メキシコ系移民です」と付け加えた。ジェーンは軽く頷(うなず)いた後、今までの人生の中で、この男と会った事は無いか、注意深く記憶を辿りながらまじまじと見つめた。しかしどう記憶を辿っても、その男が自分の人生の中で出てきた記憶に行き着く事は無かった。ジェーンは首を振りながら、「いいえ。会った事はありません」と答えるしか無かった。
「間違いは無いかね?」警官ライトマンは再度確認した。
「ええ。名前にも聞き覚えがありません」
「……被疑者とは接点が無い……。うーむ……。これはおかしい」
 そう言って、ライトマン警部は、難しい顔で考え込みながら、ペンで頭をポリポリと掻いた。そして一呼吸置いた後、ライトマン警部は、堰(せき)を切ったように語り始めた。
「ジェーンさん。明らかにこの運転手は、何か目的があってビルに突っ込んだんですよ。その証拠にブレーキの跡は全く付いていなかった。そしてそこには見計らったようにあなたがいた。……もう一度よく思い出してください。何か身に覚えはありませんか?例えば何か恨みを買っていたとか」ライトマン警部は、少し語気を強めて言った。
 ケインはそれを聞き、「バカな!ジェーンはそんな人じゃない!」と語気を荒げ返した。
 しかしジェーンは、いいのよ、という表情をケインに向けながら、それを手で柔らかく制した。
「これは失礼。では質問を変えましょう。ジェーンさん。あなたが今日遅くまで会社に居残っていたのを知っていた者は、いませんでしたか?」
 ジェーンは、ケインの方をチラッと見た。今日、自分がその時間まで会社にいた事を知っていたのはケインだけだ。
「たぶん……、僕だけです」ケインが呟くような口調で言った。
 ライトマン警部は、その答えに少し驚きの顔を見せたが、その事はそれ以上追及する事もなく、違う質問を投げかけてきた。それは、ジェーンが救急車に運ばれる前に、警官に話した事を確かめるような物だった。幾つかの質問の後、メモ帳を閉じて、
「……そうですか。分かりました。今日の質問は以上です。ご協力感謝します」と言ってライトマン警部は、何事も見逃さない尋問調の鋭い顔つきから、穏やかな笑みに表情を変えた。そして、
「今日は災難でしたな。この件は、我々が全力で捜査致しますので、どうぞ安心してゆっくりお休み下さい」と安心させる為の技に長(た)けた年季の入った口調で言った。
「お願いします」ケインが、切実な思いを込めて言った。ジェーンも少し遅れて言った。
「では、私はこれで失礼します」ライトマン警部は、もう眠りについている他の患者に気を使ったのか、忍び声でそう言うと、歪なくらいにっこりとした。その後、軽い会釈をしながら、静かに病室から出て行った。
「……頼りになるかな?」ケインが、ライトマン警部が出て行ったドアからジェーンの顔に視線を戻し、苦笑しながらジェーンの手を軽く握り返す。
「大丈夫よ」ジェーンは、ケインの手を軽く握り返し安堵の笑みを浮かべた。ケインが側にいてくれるのが、今は何よりの薬だった。
「今日はもう疲れたろ。僕がずっと側にいるから。ゆっくりお休み」ケインがジェーンの頭をいたわるように撫で、諭すように言う。
 その言葉に心が春の日溜りの中にいるような安堵感をジェーンは覚えた。
「ありがとう、ケイン。そうさせてもらうわ」ジェーンはそう囁いてから、「おやすみなさい」と言い、疲れきった心と体をいたわる様に目を閉じた。
「おやすみ」ケインもそう言って、目を閉じたジェーンにそっとキスをした。ジェーンは、その軽いキスに熱い口付で返した。
「愛してるわ。ケイン……」ジェーンは、それが終った後、うわごとのように呟いて、スースーともう寝息を立てていた。

 その頃、ジェーンの病室から医務室に向かって、頬のこけたジェーンの担当医師、モーリス・ロイドは、うつむき加減でニヤニヤしながら、青白い蛍光灯で照らされている廊下の中を一人で歩いていた。
 もう深夜で、廊下はゴーストタウンのようにひっそりと静まり、誰もすれ違う者はいない。
 端(はた)から見れば、人の気配のしない深夜の病院は、やはり何か得たいの知れない恐さを感じさせる。しかしこの神経質そうな医師は、そんな事は頭に無かった。この医師の頭の中は、これから待っている淫靡(いんび)な行為の事で一杯だった。
 モーリスは、日ごろから手を着けていた若い看護婦と、深夜の医務室で淫靡な密会を日常的に重ねていた。初めは、彼女も医務室でそんな行為をするのは不謹慎(ふきんしん)だと嫌がっていたが、モーリスの巧みな技で、いつ誰が行為の途中で割りこんでくるかも知れない刺激的なシチュエーションに、すっかりはまるようになってしまっていた。そして今日もその約束をして、看護婦を医務室に待たせてジェーンを診断して来た所だった。
 それゆえ、ジェーンを診断している時も、この事で心は全く上の空だった。
 モーリスは、わざと自分を焦(じ)らすように、はやる気持ちを楽しみながら、歩調を抑えた。しかし患者の病室と医務室はそんなに離れてはいない。目指す所にはすぐに着いた。
 モーリスは、心臓を高鳴らし、顔を紅潮(こうちょう)させながら、医務室のドアのノブに手を掛けた。そして、又、自分を焦らすように、行為の事を考えて自然と荒くなった息をなるべく抑えようと深呼吸する。ついでに、ズボンを屹立(きつりつ)させている物も抑えようとした。自分はいつでも紳士的だと言う事をなるべく見せる為だ。だが堪えきれず、ニヤリと厭(いや)らしい笑みを浮かべ、医務室のチタンのドアをスライドさせ、ゆっくりと引き開けた。
 医務室の中には、約束通り、一人のまだ若い少しぽっちゃりとした一人の看護婦が、ナース服を着たまま淫靡な笑みを浮かべていた。
 挑発するように、普段モーリスが腰掛けている椅子に足を組んで座っている。彼女は、遠目に見てもそそられるナイスな体付きだ。
 モーリスは、ごくりと生唾を飲み込んだ。そして心の中で、厭らしく舌なめずりした。
 モーリスは、にやつく顔で部屋の中に踏み込み、中に入るとドアをゆっくり閉め、鍵をカチリと掛けた。そして発情期の動物のようなギラギラした目を看護婦の体に浴びせながら看護婦に歩み寄る。
「やあ。待ったかい?ジェシコ」
 医師は、にんまりとして声を掛けた。
「待ちわびたわ」ジェシコと呼ばれた看護婦も、同じようなギラギラした目で答えた。
 モーリスは、その看護婦の所まで行くと、その看護婦の肩を撫でるように指を這わせた。そのまま指を看護婦の豊満な胸まで持っていく。看護婦は、「うっ……」と吐息混じりの喘(あえ)ぎ声を漏らし、うっとりと目を閉じた。その反応を見て、たまらなくなったモーリスは、興奮し一気に開いた胸元から手を入れた。彼女は、嬉しい事にノーブラだった。
 モーリスは、鼻息も荒く、彼女のもう既に立っている乳首を掌で撫で擦りながら、強く胸を揉(も)みしだいた。彼女の揉み応えのある乳房は、水に浸した綿のようにしっとりとしていて、吸い付くように柔らかい。そうしながら、モーリスは、器用に手馴れた感じで、ナース服の胸元のボタンを外した。ぽろんと看護婦の豊満な乳房がナース服からこぼれ出る。
 二人とも興奮高まり、熱い吐息を掛け合いながら、ねっとりとしたキスをした。
 まさか医者と看護婦がこんな所で、こんな事をしているとは、患者は夢にも思わないだろうな。そうモーリスは思いながら、さらに勃起を強めた。そのシチュエーションがたまらなく淫靡で刺激的なのだ。
「はあ、はあ……はあ!」と興奮は絶頂近くまで高まり、二人とも、もう我慢できない様子だ。
 モーリスは、「愛してる!ジェシコ!」と言い、スカートを捲(まく)り上げ、彼女の尻を側の机に降ろした。荒々しい手で彼女の股を開かせる。
 ジェシコは、別に恥ずかしがる様子も無く、「いいわよ、来て!」と淫靡な笑みを浮かべながら、さらにモーリスを猫なで声で挑発した。
 モーリスは、もう我慢できずに、普段は装(よそお)っている紳士の仮面を脱ぎ去り、本能の赴(おもむ)くままに、女の体を求め始めた。
 まず、何日も何も食べていないように、柔らかい唇にむしゃぶりついた。そして舌を彼女の口内に這わすように挿入した。モーリスが、目を閉じて、その感触を楽しんでいると、ジェシコは、もう離れたくないといわんばかりに、腕をモーリスの首に絡(から)ませてきた。彼女も情熱的だ。
 モーリスもそれに応え、腕を彼女のうなじに絡ませ、グッと彼女の顔を引き寄せる。それからさらに彼女の唇を自分の唇に押しつけた。そうしながらも、モーリスは、彼女の太ももを荒い手つきでまさぐっていた。
 ねっとりとした唾液(だえき)が混ざり合い、甘い恍惚感(こうこつかん)が高まった。
 モーリスが、堪らなくなり、次の段階に進もうとした時、むさぼるように接吻(せっぷん)していた口の中に、奇妙な味が広がった。何か甘ったるいような、重々しい、何とも味わった事の無い味だった。それは、とろろ芋(いも)のようにドロドロと舌に粘(ねば)ついてきた。唾液にしては変だ。
 モーリスは、それに奇妙な危機感を感じ、目をうっすらと開けた。しかし次の瞬間、ギョッ!とし、目を見開いた。
 自分が夢中になり、熱く接吻していた女の顔が、まるで強酸を浴びたように、溶け出していたのだ。その顔は、吐き気を否応無く催(もよお)す、ホラー映画でしかお目に掛れないような醜悪(しゅうあく)な物だった。
 皮膚がドロドロに溶け、赤黒い肉が剥き出し、その中の電子コードのような無数の青い血管さえ溶けかけているのがはっきり見える。
 まるでゾンビの顔その物だ。
 頭蓋骨(ずがいこつ)から顔の肉が滴り落ちるのは、時間の問題に見える程だ。
 モーリスは、心臓が口から飛び出そうなくらい驚愕に震えた。
「うううっー!」
 血相を変え、必死に口を離そうとする。しかしそれはすぐにねじ伏せられた。
 人間の女と信じて疑わなかった者が、自分の首に絡めていたおぞましい腕を解いたと思ったら、今度は万力のようにモーリスの頭をその両手で挟(はさ)んだのだ。それは、人の力とはとても思えない凄まじい力だった。モーリスの頭は、ピクリとも動かせなくなった。
 モーリスは、ガタガタと体を震わせ失禁した。
(これは夢だ!こんな事、現実にあるわけないじゃないか!)
 モーリスは、必死になって現実を打ち消そうとした。しかしこの強烈な体験の中、そう思いこもうとするのは、しょせん無理な話しだった。
 甘い果実のような口付が、一瞬にして、凍りつくような悪夢の口付に変わった。全身に身の毛もよだつ鳥肌がたっていく。
 モーリスは、最早生きている心地がしなかった。こんな変性作用のような現象が人間に起こるはずが無い。しかし今五感で味わっているのが現実なのだ。この事態について自分が無知に等しい事を思い知らされ、モーリスは死が現実的に迫っているのを$(辻簫ぢ(るいるい)と感じた。
 大量の冷や汗が、どっと体中から吹き出る。
 このままでは殺される!!
 吐き気を催しながら本能的にそう悟った。
 モーリスは、ショックで失神しかけながら、まだ悪夢の口付を続けさせられた。
 モーリスは、看護婦が何故こうなったのか、看護婦がどうなったのかなどは、今はどうでもよかった。これから自分の身に一体何が起こるのか!?それが全てだった。
 不意に口の中に、今までよりもドロドロとした酷く気持ちの悪い液体が侵入し始めた。
 それにつれて、怪物の顔の肉が自分の口に吸い込まれるように移動していく。モーリスは、目の端が切れそうなほど、目を大きく見開き、目から粘液を滲(にじ)ませた。
 自分が身も毛もよだつモンスターの肉を食わさそうになっている事に気付いたのだ。一体この化け物が何の為にこんな事をするのかモーリスにはまだ分からない。
 さらに悪夢は、その様相(ようそう)を増していった。
 化け物の顔は、目が溶け、耳が溶け、鼻が溶け、顔中の肉が溶け、ごちゃごちゃに混ざり合った。ついには、モーリスの口が吸い付けられている化け物の口まで溶け出した。その形相は、まるで人肉のミックスジュースだ。
 モーリスは、出るものは全て出しきってしまい、もう救いを求める恐怖の表現方法が残されていなかった。悲鳴を出そうにも口の中には、汚水のようなドロドロとした液体が、口一杯に入り込み、声を出す事はおろか、息をする事も出来ない。
 そのねばねばしたおぞましい液体は、喉(のど)を突く様に胃の中に侵入し始めた。
(なっ!、何をする気だ!?やめろっ!!やめてくれー!!)
 モーリスは、驚倒(きょうとう)し、絶望に痺れ、必死になって、まだ自由な手足で化け物の体を殴打した。しかしまるでゲル状の物体を殴っているような、わずかな手応えがあるだけで、化け物は、モーリスの体内にかまわず自分の組織を入れ続ける。
 溶けた顔の肉の大部分が、胃の中に入り込み、化け物の頭蓋骨が露(あらわ)になってきた。それは、何故か人の頭蓋骨と何ら変わらない物だった。
 モーリスは、それを見て卒倒しかけた。その姿が、自分のなれの果てと気付いたのだ。
(い、嫌だ!!こ、こんな死に方したくない!!)
 そんな叫びをあざ笑うように、食道をうごめかしながら、胃の中に流入する組織の勢いは増していく。
(だ、誰か助けてくれー!!た、助けて神様!!)
 モーリスは、わらにもすがる思いで必死に祈った。しかしその祈りは、永遠に届かなくなった。
 蛇口から水がほとばしる勢いで、全ての化け物の組織が、卵の殻(から)がつるりとむけるように自らの骨だけを残し、一気にモーリスの体内に滑りこんだ。
 食道が一気に押し広がり、巨大な芋虫が体内を這っているように、胸の表面がビクンビクンと蠢(うごめ)く。
 モーリスは、生き肝(ぎも)を全て引きずり出されるような表情で苦悶(くもん)し、目を白黒させながら激しく痙攣(けいれん)した。
 気の遠くなる苦痛と共に、急激な速さで、自分の体が何かに乗っ取られていくのを感じる。モーリスは、儚く抵抗したが、もう命運は尽きていた。
 モーリスの意識は、闇に覆い尽くされるように、やがて消滅していった。
 それからしばらく、モーリスの体は、ピクピクと電流を流されているように震えていた。やがてそれもなくなり、ピクリとも動かなくなる。
 口から泡を吹いて、体から体液を垂れ流しているモーリスの顔の目は、もう完全に白目を剥いていた。
 今や骨だけとなり、モーリスの体を押さえつけていた化け物の体は、役目を終え、捨てられた物のように乾(かわ)いた音を立て床に崩れ落ちた。それに伴い、モーリスの体もドサッと床に倒れこむ。
 後には、消化しかかった骨の山と、死体のように動かない哀れな中年の体が横たわっているだけだ。
 しばらくして、その部屋の壁時計の針が、静かに午前二時を指す音が室内に響いた。
 突然、モーリスの体が、蘇生(そせい)したように、ビクビクと脈動(みゃくどう)し始めた。
「うううっ……」
 モーリスは呻き、頭を手で押さえながら、よろよろと立ち上がった。
 どっかと仕事に疲れ果てたサラリーマンのように、看護婦の座っていた椅子に座り込む。
 モーリスは、意識をはっきりさせるかのように、頭を左右に振った。
 それが終わると今度は、床の骨の中に埋(う)もれている白いナース服に手を伸ばし、おもむろに手に取った。その服で、顔の汚れをゴシゴシと拭(ふ)く。
 それから机の上にある、小さな置き鏡に目をやった。
 その鏡に映っていたのは、この惨事に見まわれる前のモーリスの顔となんらわらない姿だった。
 目は生者のように黒い瞳孔が戻っていた。しかし、何か雰囲気が以前と違う。まるで感情を一切なくしたような、人の暖かみがまるで感じられない能面のように冷徹な表情になっている。
 モーリスは、しばらく鏡に映ったその顔を、見慣れない物を見るような表情で覗き込んでいた。顎(あご)を手で撫でたり、頬(ほほ)を掌でピシャリピシャリと打ち叩きながら、感覚を確かめるように。
 最後に、汚い物を見ているように侮蔑(ぶべつ)の表情で、フンと鼻で笑った。その表情からは、心に内包(ないほう)しきれない、様々な物に対しての、数々の永年の怨念の一片が見て取れた。しかしすぐその表情は、これからやる事に対してのギラギラとした恐ろしい程の情念のこもった物に変わった。
 モーリスは、すっくと椅子から立ち上がった。
 握り潰すように持っているナース服のポケットの中をまさぐり、何かの液体が入った小瓶とキャップの付いた小さな注射器を一つ取り出す。
 その小瓶のラベルには、《劇薬 シアン化合物》と記されていた。
 モーリスは、ナース服をパサッと床に落とした後、それらを目の前に掲げ、目を細めた。そして堪え切れない喜悦を、口元を大きく歪め吐き出した。くぐもった声が閑散とした室内をより不気味な物にする。
 一頻(ひとしき)り笑い続け、やがて笑い声が枯れるように萎(しぼ)んでいった後、元の感情のない表情に戻った。その表情のまま、自分の足元に散らばっている看護婦の骨に目をやる。
 しばらくの間、モーリスの目は、それらを皿の上に盛られた料理を眺める様に見ていた。
 腰を曲げ、足もとの一本の大腿骨をおもむろに手に取る。その骨は、消化しかかっていて、圧縮鍋(あっしゅくなべ)で煮た魚の骨のように柔らかく大変脆(もろ)くなっていた。
 モーリスは、まじまじと、品定めするようにその骨に視線を這わせた。
 その後、そいつは、信じられない事をやってのけた。
 その骨を口元に持っていくと、いきなり歯を剥き出し、その骨にかぶりついた。
 コリコリと音を立てながら、骨は見る間に口の中に消えていく。
 食い終えた悪魔は、まだ食い足りないように、足元の骨を口から涎を滴らせながら眺めた。もう我慢出来ない様に床に座り込むと、目の前にある骨を片っ端から鷲(わし)づかみ、口の中にほおりこんでいく。
 目の前から骨がすっかり無くなると、モーリスは、口元を拭(ぬぐ)い、憤怒の形相に突然なった。それから両の掌を冷たい床について狼のように四つん這いになり、これが本当に人間の口かと思えるほど口を大きく開いた。
 口が裂け、だらだらと口から血が滴り落ちる。
 それをも楽しむようにモーリスは、口をさらに開き、噛み付くように唸り散らした。
 それは今まで溜めてきた積年の恨みを喉から一気に吐き出すような艱苦の叫び声だった。
 しかしそれは、誰の耳にも届きはしなかった。なぜならそれは、人の聴力の知覚を超えた高周波の声だったからだ。しかしそれが、新たな悲劇の幕開けを確立する物だと言う事は、誰が見ても明らかだった。

三十分

 ジェーンの病室の壁時計の針が、新たな運命の歯車が、動き出したのを告げるように、午前二時十分を指し示した。
 ジェーンは、白いベッドの上で、軽い寝息を立て、日頃から仕事で溜まっていた疲れと数時間前に受けた強いショックを癒すように熟睡していた。
 ジェーンは、夢を見ていた。何処か懐かしい不思議な夢を……
 夢の中で彼女は、現実と同じようにベッドに寝かされていた。ただそこは、病院の病室では無く、自然の香りが鼻腔染みる粗末な木で造られた小屋の中だった。
 その小屋の中には、窓が一つも見当たらないのに、何故か光りが自分の周辺を覆っている。その光りは、電灯や蝋燭(ろうそく)などの光の色ではない。太陽の光が直接、帯のように差し込んでいるような白く眩しい光りだ。その光りの帯びの元を目で辿ると、天井に幾つか鏡が備え付けられているのが見えた。その鏡に、小屋の小さな隙間を通し、小屋の外から差しこむ僅かな太陽の光が反射され、自分の周辺をスポットライトのように照らしているのだ。
 彼女は、その光りに急かされるように夢の中で目を覚ましたのだった。
 突然、木造の床をきしますような音がして、誰かが自分の方に近寄ってくる気配がした。
「誰?」
 彼女はギクリとし尋ねた。小屋の中は、自分の周りにしか光りは届いては無く、音のする方向は、暗くて何が居るのかよく見えない。
 彼女は、重く軋(きし)む木製のベッドの上で、上半身だけ起き上がらせて、身構えた。
「目が覚めたか。シーラ」
 穏やかな声がし、部屋の暗闇の中から、確かに見覚えのある優しい顔つきをした一人の老翁(ろうおう)が現れた。
「……ファーディー師父だったの」
 彼女が、その名を口にした途端、彼女の体から緊張がスウーと抜けていった。ほっと胸を撫で下ろす。
 自分が誰の名を言ったのか、今の彼女には、よく分かっていた。この人は、自分を育ててくれた大切な育ての親。
 その老父は、木で出来たコップを手に持っていた。彼女は、喉に渇きを覚え、丁度何か飲み物が欲しい所だった。
 その老父は、我が子をいたわる様に彼女の背中に手を廻し、上半身を支えながら彼女にコップに満ちた水を与えた。彼女は、喉を鳴らしながら、コクコクと一気に飲みほした。
 水を飲み、幾分心が落ち着き、現状を確認する余裕が出来た。彼女は、その老父に尋ねた。
「ここはどこ?どうして私はここにいるの?」
 ファーディーと呼ばれた老父は、一瞬、やや不可思議な表情を見せたが、やがて淡々と話し始めた。
「今は、西暦1582年。場所は、フランス南部のとある場所だ。そして今は、甦った悪魔との戦いが最も激化している所だ。……救世主よ。あなたは、その戦いで深手を負い、我々は、ここであなたを守りながら、あなたの回復を待っていた」
 言葉尻は微かに震えていた。一瞬老父の額に悔しさが滲んだのを彼女は見逃さなかった。その表情を老父がなるべく自分に見せないようにと努めている理由が彼女には良く分かっていた。
 その戦いで多くの仲間達を失ったのだ。
 彼女は、ようやく全てを思い出した。自分が何者で、何の為に生まれてきのかも。
 自分は、シーラ・ニキアという女性で、この世を救う事を義務付けられた者だと言う事を。
「そう……。そうだったわね……」
 彼女は無残な現実を思い出し、目を伏せ寂しそうに呟いた。
 しかし老父はそれを見て、静かに毅然(きぜん)として言った。
「気をしっかりと持つのだ、シーラ。お前が生きている限り、我々の希望は、決して消えはせん」
 老父は、彼女の心の重荷が少しでも軽くなるようにと慰(なぐさ)めた。
「……分かっているわ……」
 彼女は、それでもやりきれない思いで胸を痛め、重くなった頭を額に手を当て支えながら答えた。
 そして死んでいった仲間に思いを馳(は)せ、切実に冥福を祈った。その時、はっと自分にとって、今、最も大事な事に気がついた。
 最愛のラリーの安否(あんぴ)だ。
 彼女は、崖から転がり落ちる寸前のような顔で懇願(こんがん)するように訊いた。
「ラリーは!ラリーは何処?ラリーは、無事?」
 老父は、一時、押し黙ってしまったが、すぐに安らぎの笑みを浮かべ言った。
「大丈夫だ。心配するな。ラリーは無事だ。今は、ここを守る為、見張りに行っている」
 それを聞いて、彼女は心の底から安堵した。張り詰めていた体中の力が溶けるように抜けて行く。
「よかった……」
 息を詰まらせ、水面から出てきたような思いだった。
 そう一息ついた時、不意に、お腹に重りが乗っているような感覚が襲ってきた。彼女は、少し当惑しながら自分のお腹に視線を合わせた。気のせいなのだろうか、何もお腹の上には乗っかっていない。
 それを見た老父は、心痛を抑えきれない面持ちになり、彼女の白い服の裾(すそ)を掴み、お腹辺りまでゆっくりとめくり上げていった。
 彼女は、一瞬恥らったが、それが何の為かすぐに分かりじっとした。
 それは、先の大戦で深手を負った彼女の腹の傷を診断する為だった。彼女の白いお腹には、木の根が張ったような生々しい傷跡があった。まだ出来てから月日が経っていないようで、まだ治りきってはいない。
 老父は、その傷を熱心に診察していた。しかし眉を僅かに顰(ひそ)めた後、服の裾を元に戻して言った。
「……シーラ、痛むか?」
 彼女は、首を左右に振り答えた。
「少し気分が悪いけど、大丈夫よ。時期に良くなるわ」
 老父は、それを聞き、彼女の手を強く握った。その手は、父親の愛情を感じる温かな感触だった。だが別の物も伝わってきた。それは何か切羽詰り、何か大切な物を繋(つな)ぎ止めようとする強い思いに感じられた。
 老父は、彼女に諭すように語り掛けた。
「シーラ。良く聞きなさい。目を閉じて、深く呼吸をし、私の気と自分の気を同調させるのだ」そう言うと、老父は、服越しに、彼女のお腹の傷の上に手をかざした。
 彼女は、頷(うなず)いて言われた通りにした。
 老父の手と彼女のお腹の間の空間が、微震動し、老父のかざした掌から、柔らかな青白い光りの粒子が無数に出現した。それらはまるで、宇宙の星の輝きのように神秘的で美しい。それらが彼女の蜘蛛のように張りついた傷跡に向かって降り注ぎ始めた。
 彼女は、母なる大宇宙に抱かれているような暖かな安らぎを感じ、傷が癒(いや)されていくのを実感していた。
 しばらく、その光景は続いたが、やがて老父が息を切らし、どっと疲れ込んだような溜息を漏らし、治療を中断した。
 老父は言った。
「私の力では、ここまでが限界だ。後は、お前の回復能力に任せるしかない。しかしもう峠は越えたようだ。安心しなさい」
 彼女は、瞑想から覚めたようにゆっくりと目を開け、老父に優しく微笑みかけ言った。
「充分よ。だいぶ楽になったわ。ありがとう」
 そう言いながら、その時ふと、老父の顔が自分が知っているより、生気の無い、青白い顔色だと言う事に気がついた。今までそれは見えてはいたが、他の事で頭が一杯で気がつかなかった。自分の眠っている間に何か大変な事があったのだろうか。
 彼女は、探るように訊いた。
「顔色が悪いけど、どうしたの?」
 老父は、一瞬、押し黙って何か考えているような態度を見せたが、かぶりを振り、「大丈夫だ。何でも無い」と答えた。しかし彼女は、その態度を見て悟った。自分の育ての親は、自分の魂を使い、彼女の傷を自分が眠っている間、ずっと癒し続けていたと言う事に。
 その技は、エナジードレインの逆作用を使い、自分の魂を削って相手の傷を癒したりする大変危険を伴(ともな)う物だ。力の調節を誤り、使い過ぎれば、生命の源である魂を維持できなくなり、魂がロストすることさえある。例えそうならなくても、使えば必ず寿命は大きく削られる。それは、その力を使わなければならない程、自分の傷は、重症だったと言う事なのだが……。
 そんな危険な技を老父は、彼女の為に、ずっと使い続けていたのだ。
 彼女は、それを知った時、ありがたいと言うより、やりきれない悲しみが込み上げた。 
 今までも多くの大切な仲間を失ってきたのに、この上、自分の大切な親さえ失ってしまうのは耐えきれない。
 彼女は、老父の手を優しく握り、「無理しないで」と切実に言った。老父は、少し微笑み、彼女の頭を撫でながら、「それが、シャーマンである私の使命だから」と言った。
「でも……」彼女は、伏し目がちに言ったが、老父は、すっくと立ち上がると、彼女に言った。
「シーラ。まだ傷が完全に癒えるまで時間がかかりそうだ。このままここで安心してゆっくりと養生(ようじょう)しなさい。ここは、敵に見つかる事は絶対に無いから」そう言って、老父は、彼女に毛布を掛けた。そして、
「……私も少し疲れた。少し休ませてもらおう。何か用事があれば声を掛けなさい」と言い、又、元の見通せない部屋の影の中に消えていった。その後に、老父が、椅子に腰掛ける重い音がして、それきり何も音のしない静寂が彼女の周りに漂った。
 彼女は、鏡に反射される、暖かいオレンジ色に変わった太陽の光りの中で、天井をとりとめも無く見つめながら、今までの事、そしてこれからの事に思いを馳せていた。
(私達は、優秀な多くの仲間を失ってしまった。これから一体どうすればいいんだろう。今の状態で、果たして強大な悪魔に勝てるのだろうか……。みんな……。みんなの死は、決して無駄にしたくない。でも……。私達は、このまま何処に向かって進めばいいのだろう……)
 彼女は、時間が経つのも忘れて、思いを巡らせていた。
 やがて、部屋に差し込む燃えるような太陽の光りが、枯渇(こかつ)するように、不吉を暗示するようなカラスの羽色に変わっていった。
 彼女は、思案を巡らせている内に、いつのまにか、うとうとと眠りについていた。
 しばらく、ホウホウとフクロウが鳴く、森の囁きが聞こえてきそうな静寂が続いた。
 突然、それを寸断して、四方八方から、ドラを乱打するような、心を逆撫でる恐ろしいときの声が沸き起こった。それは今まで嫌というほど戦場で聞いてきた悪夢を告げる物だ。
 ファーディー老父と彼女は、その声に肝を冷やし、はっ!として、ファーディー老父は椅子から、彼女はベッドから弾かれるように立ち上がった。
「そんなバカな!!どうしてここが分かった!?」
 ファーディー老父は、全く予期していなかった最悪の事態に唇を震わせながら、激しく動揺した。それは彼女や他の仲間の前では、今まで決して見せなかった姿だった。
 彼女は、それを見て、とてつもない渦中(かちゅう)の真っ直中に自分が今いる事を知った。
「シーラ!お前はここにいなさい!私は様子を見てくる!」
 老父は、酷く青ざめた顔を大きく引き攣らせながら、疲れが残っている掠(かす)れた声で言った。
「駄目よ!そんな体で!」
 彼女はそう叫びたかったが、毛布の端を噛み締めるようにぎゅっと握り、ぐっと堪(た)えた。今はそうしてもらうしかない。
「気を付けて!」彼女のその叫びを背に、老父は、それに答えることも無く、急いでドアを開け閉め小屋から出て行った。
「どうした!?何があったのだ!?見張りからの連絡は!?」
「分かりません!突然、火の手が上がり、既に我が軍は、包囲されていました!ここは、もう持ちこたえられません!!もう敵は、目の前まで迫ってきています!!ここは、もう危険です!!ファーディー老師は、シーラ様を連れてお逃げください!!」
 ファーディー老父と守衛のやり取りが、剣と剣が激しくぶつかり合う音に混じり、小屋の壁のすぐ外から聞こえてくる。
「……いや。私がシーラを連れて逃げたとしても、今の力を使い果たした私では、到底逃げ切れないだろう。私は、ここに留まり敵の注意を引く。敵がここにまだ、私と共にシーラがいると思っている間に、お前がシーラを連れて逃げるのだ」
「わ、分かりました。クッ」
見つけたぞー!!ここだー!!
 その企(たくら)みを打ち破るように敵の怒号が響いた。
魔女シーラを捕らえろー!!後の者は、誰であろうと生きて帰すなー!!
「さあ!早く!」
「必ず、必ずシーラ様をお守りします!」
「頼んだぞ!」
 守衛とファーディー師父の最後のやり取りが終わり、守衛が彼女の居る小屋の中に入ってきた。
「さあ、シーラ様!ここから逃げましょう!」
 そう言って、守衛は、手早く床の隠し扉を開いた。
「さあ!早く!」守衛は、手を差し伸べた。
 彼女は、身を固めながら立ち、ファーディー師父の出て行ったドアを見つめていたが、悲しそうに顔を伏せ、守衛の手を取った。
(さようなら……ファーディー父さん……)
 彼女の心には、言い知れぬ穴がぽっかりと開き、冬の冷たい風が吹き荒ぶっていた。
 彼女は、それを今はただ、打ち消す為に、頭を何度も振り、又、悲しみを積み重ね、鋼のように鍛えられた青い瞳で、顔を上げ、前を見据えた。その目には、百戦錬磨の阿修羅さえ、たじろぐような危機迫る決意が込められていた。
 守衛は、その捕らえて離さない流れ星のような瞳に魅入ってしまったが、はっと気を取り直し、「行きましょう!」と彼女を促した。彼女は、目を閉じ、深く頷き、守衛と共にその隠し扉の中に入って行った。
 シーラと守衛が隠し扉の中に入ると、守衛は、手早く隠し扉を閉めた。そして光りの一筋(ひとすじ)さえ差しこまなくなった真っ暗な暗闇の中で、守衛は、まるで見えているように、少しも躊躇(ちゅうちょ)せず、側に備え付けられた松明を手に取り、何かで擦り火をつけた。
 油の焦げる臭いが鼻に突き、火の光りは、周りを照らし出した。
 松明は一瞬、暗闇に慣れた彼女の瞳孔が少し痛むほど、眩しく燃え上がった。
 その光りで、扉の中は、土の匂いがむせかえる、ひんやりと濁った空気の漂う木の柵で支えられた土の坑道だという事が分かった。
 守衛は、その松明の光りを頼りに、頑丈そうな隠し扉の鍵を掛けた。それから素早く、その松明で側の壁を照らす。照らし出された土の壁の表面を手で削り、壁の中から何本かの束になった太いコードのような物を取り出した。
 守衛は、その中から一本を選び抜き、それに松明の火を付けた。
 ジリジリと導火線が焼きつくような音がして、唐突に、前方に火の光りが灯った。その光りは、前方の壁の両脇に備え付けられている、逆さまになった漏斗(ろうと)に入っている油が、漏斗の尖(とが)った先から燃え上がっている光りだった。しかしその光りは、その周囲しか照らしておらず、そのすぐ先の前方にさえ届いてはいない。
 守衛は急(せ)かしながら言った。
「あの炎は、次々と次の漏斗に導火線を伝って燃え移り、迷路状のこの坑道の正しい道を教えてくれます。しかし敵の追っ手を阻(はば)む為に、じきに消える仕組みになっています。さあ、消える前に急ぎましょう!」
 守衛は、彼女の手を掴み、引っ張るようにして彼女の前を走り先導した。
 彼女も必死に走った。今は、少しでも立ち止まっている時間は無いのだ。
 彼女の行くべき道を照らす為、命の灯火のように、現れては消えて行く前方の炎を見つめていると、彼女には、その炎がまるで仲間の命の灯火のように思えた。涙が溢れそうになってくる。
 彼女は、気を少しでも抜くと泣き崩れてしまいそうな身と心を、使命感と犠牲になった仲間の命の重さで必死に支え続けた。
 しかしそれでも、前に走れば走る程、後ろ髪引かれる思いは、強く激しくなっていく。今、自分がしている事は、残った家族同然の仲間を見捨てて行く事に他ならないのだ。しかし使命を終えるまで自分は死ぬわけにはいかない。彼女は、唇を強く噛み締めながら耐えていたが、ついにその思いは、心の中にしまえるほど小さな物では無くなり、彼女の体に溢れ出た。
 糸が絡(から)まり動きが鈍くなっていく歯車のように、足が重くなり、走るスピードがどうしても鈍くなっていく。
 今すぐ戻ってみんなを助けたい!!
 でも救世主としての使命を最優先しなければ!
 この二つ思いが、彼女の心の中で激しく葛藤(かっとう)していた。
 前者が、救世主としてのあるまじき甘えと知っていながら、彼女は、その考えをどうしても拭いきれないでいた。
 不意に、今まで意識的に避けてきた最も見たく無い情景が、頭に浮かんでしまった。
 最愛のラリーが無残に殺されていく光景だった。それは今まで何度も的中した予知夢の如く鮮明で彼女を戦慄させた。
 彼女は、ついに立ち止まり、頭を抱え、取り憑かれたように叫んだ。
「ラリーが危ないわ!!ラリーそこにいては駄目!お願い早くそこから逃げて!!」
 熱い涙が、堰(せき)を切ったように、とりとめもなく溢れてくる。それを抑える事は、どうしても出来なくなっていた。
 感極まり、声を枯らし何度もそう叫んでいる内に、ふっと気が途切れ、視界が闇に吸い込まれるように縮小しだした。目の前がゆっくりと暗転し始める。やがて全ての感覚が彼女の意識から無くなっていった。
 はっ!と目を覚ませば、そこは、豆電灯が一つ灯った殺風景な部屋の中だった。心の中は染み入るような熱い哀愁が支配している。
(ここは……何処?……)彼女は、一瞬にして変わった景色に戸惑い、辺りを見回した。
 そこには、壁の変わりに、薄いカーテンが自分の居る空間を仕切り、自分の個室を作っている光景がある。そして、自分の頭のすぐ側の小さな机の上に、電気ポットが置いてあるのが目に入った。最後に自分が寝ているのが、清潔に除菌されたベッドの上だと気付く。
 それでジェーンは、ようやく自分が今、病院に居ると言う事を思いだし、自分が今、夢を見ていた事に気がついた。
 心は、今見た夢のせいで酷く切なく、胸が締め付けられるほどの哀愁で潤(うるお)っている。
 ふと、頬にひんやりとした感触を感じ、熱い涙が、頬をぐっしょりと濡らしているのに気がついた。
 どうやら夢と同調し、自分も泣いてしまっていたらしい。
 ジェーンは、のめり込んでいた夢から突然切り離され、一人取り残された気持ちになった。ケインにこの心の空白を埋めて欲しい。彼女はそう思い視線をさ迷わせた。
「ケイン?……」
 ジェーンは、幼子(おさなご)が親を呼ぶような気持ちで尋ねた。
 しかしケインの姿は、何処にも見当たらない。
 手には、ほのかに温かい肌のぬくもりが残っていた。ついさっきまで誰かが自分の手を握っていた感じがする。それがケインだとジェーンは疑わなかった。
(何処に行ったのケイン。早く戻ってきてっ!)
 ジェーンは、切なげな目で病室のドアを背にし布団の中で丸まった。
 しばらくして、背後でスウーとドアが風を含みスライドする音がした。
 ジェーンは、はっとして、首だけを捻(ねじ)り、ドアの方を見た。
 白い湯気を揺らめかせ、手に白い紙コップを持ったケインが、ゆっくりと病室の中に入ってくる。
 ジェーンは、何年も離れ離れになっていた人にやっと会えた気持ちになり、抱きつきたい衝動が湧き起こるのを感じた。
「ケイン」ジェーンは、耳元で囁くように、ケインの名を呼んだ。
 その声が届き、ケインがはっとした様子で目線をジェーンに合わせる。ケインは安息の溜息と共に口元を緩め、「もう目が覚めたのかい。ジェーン」と小声で言った。
 ケインは、ジェーンのベッドに歩み寄り、ベッドの側の椅子に腰掛けた。しばらくジェーンの顔を眺めていたが、愛する人の顔が、何か思いつめているような様子だと言う事を見て取り、「どうしたの?」とジェーンに問いかけた。
 その言葉を耳にし、ジェーンの思いが、自然と口から言葉となって溢れ出た。
「恐い夢を見たの」
「……どんな夢?」
「……大切な人が、いなくなる夢」
 ケインは、それを聞きながら、汗で額に張りついたジェーンのほつれ髪を整え、不安を溶かすように何度も優しくキスをした。
「大丈夫。ただの夢さ」ケインは、微笑み、ぐっと顔をジェーンの顔に近づける。お互いの前髪が触れ合い、ジェーンは熱い目でケインを見つめた。
 見詰め合いながら、ジェーンは、ふと思った。なぜいつも夢の中では、こんなにも愛しているケインではなく、ラリーと言う人の事で、私の心は一杯なんだろう……。それに、良く出来たドラマのような、酷く切ない愛を詠(うた)ったこの夢には、ケインが一度も出てきた事は無い。どうしてなのかしら。夢って潜在的な願望が出る事があるというけど……。もしかして、私が違う人に心引かれていると言う事?……。そ、そんな事絶対に無いわ!こんなにも私は、ケインの事を愛しているんですもの!
 ジェーンは、不快な考えに行き当たり、心の中で、何度も首を激しく振って、その考えを馬鹿らしいと否定した。
 夢の中で、私が何になって、誰を愛していようがそんなの関係無いわ!夢は夢よ!
 ジェーンは、自分を叱咤(しった)するようにし、その考えを頭から追い出した。

「何を考えているんだい?」
 突然、表情が固くなったジェーンを見て、ケインは、少し困惑気味の顔で小声で尋ねた。
 ジェーンは、ドキッとしながら、慌てて笑顔で取り繕(つくろ)った。熱い視線をケインに向け、にっこり微笑み、「そうね。大切な人は、ここにいるもの」と囁いた。
 点滴が繋がっていない方の腕をケインの首に甘えるように絡める。そして、お互い引き寄せ合うように、今までで一番熱い愛を込めキスをした。
 お互いの愛を唇を通して確かめ合い、二人は満足したように溜息を同時についた。心を優しく抱(いだ)き合っているような気持ちになり、自然と顔に何とも言えない幸せそうな安堵の表情が浮かんでくる。それはケインも同じだった。
 しばらくこの甘い光景は続いたが、やがてジェーンが口火を切った。
「ねえ。もっと甘えてもいいかしら?」

 ジェーンの病室の時計の針が午前二時四十分時を指した頃。
 病院の薄ら寒い廊下に、急いているような靴音が鳴り響いた。
 青白く凍りついたような蛍光灯の光りが壁の表面を薄く照らし出す中、白衣をまとった男が、廊下の曲がり角から唐突に現れた。
 その顔は、時々ピクピクと痙攣したように震え、目は何故か取り留めがないように虚ろだった。しかし口元は、ピエロのように大きくにやつき、手はその口を何度もほぐすように摩(さす)っている。時折その口から白い息吹が漏れ出しているのは、薄ら寒い院内の空気のせいだ。
 それは、間違い無く、ジェーンの担当医師モーリスだった。
 モーリスは、かなりの早足で何処かに向かっていた。それがジェーンの居る部屋である事は明白だった。
 モーリスは、ジェーンの居る部屋のドアに着くと、そっとドアをスライドさせ部屋の中に入って行った。部屋の中は薄暗く霊安室のようにひっそりと静まりかえっている。
 部屋の中を素早く見渡した後、モーリスは唇の端を吊り上げながら、ポケットから液体の入った注射器を取り出し、キャップを取り外した。それから獲物を狙うハンターのように息を潜め、足音を忍ばせながら、自分の目指すただ一つの目的の場所に近づいて行った。
 部屋を区切っているカーテンをそっと払い、ジェーン・ハリーと記してあるフダの付いたベッドを見つけ、ついにそのベッドの横に辿りついた。
 オレンジ色の豆電灯の光に照らされたベッドの布団は、こんもりと人型に盛りあがり、確かに目的の人物がいる。モーリスは、それを確認するや否や、注射器を大きく振り上げ、その布団のふくらみに深々と針を突き刺した。今まで隠していた悦楽の感情を顔に表しながら、猛毒を注入した。
 もう勝利は確実だった。
 ついに神との戦いに終止符を打った。
 モーリスの顔は、例え様も無い喜悦(きえつ)を物語っていた。しかしその表情はその後一瞬で固まった。
 猛毒を注入されたのに、ベッドにいる人物からの反応が全く返ってこない。まるで人形に針を突き立て毒を注入したようだ。
「ギッ!」
 モーリスは、人間の言葉ではない言葉でうめいた。そして乱暴に布団の端を鷲掴み、布団を飛ばすようにめくった。
 そこには案の定、人ではない、まして憎悪する神の使いでも無い、ただの二つのマクラが置いてあった。それによって、まるで人が布団の下で寝ているように上手くカモフラージュされていたのだ。
 悪魔に取り憑かれたモーリスは、その予想外の事実を知り、怒り狂った表情で、そのマクラに指を突き立て、力任せに掻き切った。
 そのまま怒り狂った鬼のような形相で腕を振り上げ、ベッドに向かって力任せに振り下ろす。
 車どうしが正面衝突したような尋常ではない轟音が鳴った。信じられない事に鉄製のパイプで組み立てられていたベッドは、跳ね上がった桟橋(さんばし)の如く中央で真っ二つに折れ曲がった。
 その音で隣のベッドで寝ていた患者達が地震でも襲ってきたのかと目を覚まし、「な、なんだ今のは!?」と恐怖に怯えた声で慌てふためく。
「フウ・・フウ・・」
 憤怒の熱気を帯びた重い息吹を吐き出しながら、憎しみを噛み潰すようにモーリスは歯軋りした。ベッドを打ち崩したモーリスの腕は、その代償に骨が砕け肉が潰れ無残な姿になっていた。しかしモーリスは、その事などは眼中にないように、その腕では無い方の手で、折り曲がったベッドの上の布団に手を這わせた。
「ギッ!」悪魔に操られているモーリスは、怒り治まらぬ顔を不意に上げ、ベッドの頭の先にあるすぐ側の窓を睨みつけた。
 その窓の鍵を外し窓を一気に開く。
 冬も間近の冷たい風が一気に病室に流れ込み、病室を区切る薄いカーテンを激しくはためかした。
 モーリスは、その窓から首を突き出し眼下を見渡した。そのまま、あわや落ちるという所まで身を乗り出す。
 突然、衣服が弾け破れる音がし、モーリスの背中から黒々とした羽が、風を切るように突き出た。今までジェーンを襲ってきた悪魔のように粘液で濡れたような羽だ。
 その羽は影が伸びるように大きく広がった。
 不意に音も無く、魂が抜けるように、モーリスの体からその羽と共に悪魔が抜け出た。
 悪魔は、羽を激しく躍動させた後、モーリスの体を残し、放たれた矢のように窓から飛び出した。そのまま猛烈なスピードで、暴風吹き荒れ、鉛色の厚い暗雲が蠢く闇夜の空に飛び去っていった。
 その様子を不幸にも目撃してしまった患者がいた。ジェーンのベッドの一つ横のベッドで寝ていた若い男の患者だった。
 その患者の見た光景は、カーテン越しに映った例え様も無く恐ろしい形の化け物のシルエットだった。
 その影は、カーテンが暴風に煽(あお)られ大きくめくれ上がった時には忽然(こつぜん)と消えていた。代わりに目にした物は、硬直し、窓から身を乗り出している白衣の男の姿だった。一瞬目にした光景が信じられず呆然としたが、白衣の男の体が硬直したまま、ゆっくりと窓の外に向かって傾いていく姿を見て、目を丸くし、抑止(よくし)の言葉を掛けようと咄嗟に口を開いた。しかしもう既に遅かった。白衣の男の体は、救いの手の届かぬ死の縁を乗り越えてしまっていた。
「――う、うわああああー!!」
 落ちて行く途中で目を覚ましたような奇妙な叫び声が耳を突いた。その後、鉛が落下したような重い音が聞こえた。その後は、ただ外の鋭い風の音が聞こえるばかり。
 患者は、見てはいけない物を見てしまったという思いを顔に浮かべ、ガタガタと震えだした。
「ひっ、ひっ!」
 上ずった悲鳴を漏らし、ベッドの上で座ったまま後退りする。それから、恐怖に引き攣った顔で、冷たい床に足を付け立ち上がると、一刻も早くその場から離れたい恐怖に駆られた。
 患者は、裸足(はだし)のまま床を駆け抜け、ドアを開け、廊下に出ると大声で叫んだ。
「人が!人が落ちたぞ!!」
 その後、病院内は騒然となった。
 職員の通報で数台のパトカーがサイレンを鳴らし、すぐに駆け付けてきた。それからすぐに捜査と現場検証が始まった。
 数人の警官達が、窓から落ちて無残に潰れたモーリスの死体を検分(けんぶん)している。その周囲には、《立ち入り禁止》と書かれた蛍光色の黄色いテープが張られている。その警官達の中に、病室でジェーンに質問したライトマン警部の姿もあった。
 一人の若い警官が病院内から駆け足で出てきて、ライトマン警部の前に息を切らしてやって来た。
「どうだった?」ライトマン警部が駆け付けてきた警官に尋ねた。
「駄目でした。ハアハア、病院内には見当たりません」
 息を整える間も無く若い警官は答える。
「そうか……」ライトマン警部は、考え込む顔つきになった。しかし目は何かを嗅ぎつけたように鋭く光っている。
「そのいない患者の名は、ジェーン・ハリーに間違い無いな?」
「間違いありません」
 しばしの沈黙の後、ライトマン警部は言った。
「よし。ジェーン・ハリーと言う女性を緊急手配。一刻も早く見つけ出せ」
「分かりました」
 若い警官は、頷くときびすを返し、パトカーの方に駆け出した。その姿を見送っていたライトマン警部の目は、不安に揺れていた。昨日今日とロサンゼルスで起こった一連の事件は、何かの繋がりがあるように思えるのだ。これは理屈ではなく永年培(つちか)ってきた刑事のカンだった。それをはっきりさせるには、どうしてもジェーン・ハリーと言う女性をもっと深く調べる必要がある。ライトマン警部には、これらの一連の事件の基点(きてん)が、ジェーン・ハリーと言う女性にあると感じられるのだ。
 そしてライトマン警部は強い不安を抱いていた。
 この悲劇はまだ続く!
 心を蝕(むしば)む不快な苛立ちが、鎌首(かまくび)をもたげる蛇のように心をじわじわと威嚇(いかく)する。
 ライトマン警部は、その感覚に耐えながら夜空を見上げた。
 空にはライトマン警部の不安を象徴(しょうちょう)するように不気味な暗雲が空を覆い尽くし渦巻いている。その様子は、長い長い悪魔の腸が蠢いているようだ。
 ライトマン警部は、それを見つめていて、まるで世界が終わるような恐ろしい不安にふとかられ身震いした。
 はたしてその不安の行方は……。そしてジェーン達の姿は一体何処に消えたのだろうか……

悪夢の再来

 真っ直ぐに伸びる街灯もまばらな寂しい夜のハイウェイを白い車が走っている。
 ジェーンは、その車の助手席に、物思いにふけりがちな目で座っていた。それとは対照的に意気揚々と運転しているのは、もちろんケインだ。
 ジェーンは、病院を抜け出す際に、病院の服からクリーニングされた元の私服に着替えていた。
「驚いたな。君が病院を抜け出そうと言うなんて」ケインが口元に笑みを浮かべ、冗談めかして言った。
「だって、あそこに居ると胸騒ぎがして落ち着かないのよ。それに医師も体には別状は無い、心の問題だけだって言ってたし」ジェーンが、少しむくれ顔で答える。
「まあいいさ。こうして君を我が家に招待するチャンスが出来た事だし」ケインはそう言ってにんまりとした。ケインの横顔を見ていると今にも口笛を吹き出しそうなくらい嬉しそうだ。
(良かった)ジェーンも心を和(なご)ませ、自分がケインのアパートに泊まる事を快諾(かいだく)してくれた事に感謝した。今は最も安らげる人の元に寄り添っていたい。
「……ねえ。アパートに着くまでどれくらいかかるの?」
「うーん、そうだなあ。後三十分はかかると思うよ。どうした?疲れたのかい?」
「ええ。少し」ジェーンは正直に答えた。病院で眠りについていた時もあの夢のせいで疲れが一向に取れた気がしていなかった。
「着いたら起こしてあげるから、ゆっくりと眠りなよ」
「……そうね。じゃあ、素敵な時間を夢見ながら待つとするわ」
「ハハハ。じゃあご期待に答えましょう、眠り姫」ケインとジェーンは、そうかけ合って心がときめくのを感じ合った。
 その時、ぽつぽつとまばらな雨がフロントウインドーに降りかかり始めた。
「ついに降ってきたか」ケインが少し眉間にしわ寄せ呟いた。
「もう二日前までみたいな長雨はごめんだな」ケインが溜息を漏らしながら肩をすくめる。
「そういえば……」ジェーンは途中まで言いかけて口をつぐんだ。長雨と言う言葉が呼び水となり、昨日聞いたラジオの天気予報を思いだしたのだ。その時、ラジオから聞こえてきた無気味な声の事も。しかしその先に起こった信じられない出来事を口に出そうとした時、喉が縮こまり、声が出なくなってしまった。
(いくらケインでもこんな話、信じてくれるかしら?……)自信が持てない。
「そういえば、なんだい?」ケインが尋ねる。
 だがジェーンは、その問いに答えられないまま、難色を顔に浮かべた。
 ジェーンは否定されるのが恐かった。
 ケインなら鼻で笑ってバカにすると言う事はないけれど、信じてもらえなければ、誰かの助けがあっても到底理解出来そうに無いやっかいな出来事に、一人で頭を抱え込まなければならなくなる。
(アパートに着いて、よく考えてから話そう)ジェーンは、今、解決すべきだった問題を苦し紛(まぎ)れに先送りした。
「なんでもないわ。なんでもないの本当に……。じゃあ、おやすみなさいケイン」
「わかった。おやすみジェーン」
 ジェーンは、強張(こわば)りの残った表情で助手席のシートに体重を預け、とりとめの無い夢の世界へ入り込んで行った。
 それからどれくらい経ったのだろう。いきなりジェーンを守る安らぎの闇を、瀑布(ばくふ)のような轟音が剥(は)ぎ取った。
 ジェーンは、胸を突かれたように、はっ!として目を覚ました。
 極度の驚きと不安が入り混じった目で、命の危機を感じ、咄嗟に何事かと周りを見回した。
 目の前には、タールのような水滴が張りついたフロントガラスがあり、そこに大雨が叩きつけられている。
 耳に聞こえてくるのは、瀑布と聞きまごうばかりの豪雨の音だった。
 ジェーンは、肩の力を抜き、安堵の溜息をか細く吐いた。
「なんだ。もう目が覚めたのかい」ケインの声が不意にかかり、ジェーンは内心ドキッとした。
 ジェーンは、うんざりしながら目を擦(こす)り、落胆の溜息を吐きながら、「この音じゃ、寝てもすぐに目が覚めちゃうわ」と力無く答えた。
 寝ていた時間は、まだアパートに着いていない所を見ると、ほんの少しだけのようだった。
「ねえ。今どこ?」ジェーンが声を掛け、「もうすぐさ」とケインが答える。
 ジェーンは、早くアパートに着いて早く休みたいなと考えながら、今の場所を確認する為、蒸気で曇ったサイドウインドーを手で拭いて、外の光景を見つめた。
 車の中から漏れている電灯の光で、かろうじて見える外の様子は、不気味な程寂しかった。
 暗闇の中で照らされ、浮き上がった焼け焦げたような葉の無いか細い木々が、窓のすぐ外を過ぎ去って行く。その木々は、自分達の車が通り過ぎると瞬く間に闇の中に溶けて行った。それを見てジェーンは、車の走っている道には、一つも街灯が無い事に気がついた。
まるで生者の世界から隔絶され、この世界にケインと自分の二人しか存在しない気にさせられる。
 ジェーンは、目にしている光景を理解出来ずに目をしばたかせた。ケインのアパートには、何度か行った事はあるが、このような風景のある場所は通らないはずだ。ケインのアパートは割合都心にあり、こんな墓地のような街灯一つ無い場所を走っているのはおかしい。
「……何処なのよ、ここわ?」ジェーンは、なんだか薄気味悪さを感じ、その心の震えを声に宿しながら怪訝そうに訊いた。
 しばしの沈黙の後、ケインがさらりと言った。
「ここは君のハカサ」
 ジェーンには、今の言葉が他国の言語のように意味不明な物に聞こえた。頭の中に全く用意していなかった言葉だったからだ。
「え?今なんて言ったの?」ジェーンは、不吉な影を何処かで感じながら、眉間にしわ寄せ聞き返した。
「分からないのかい。ここは君と僕の墓だって言ったんだよ」ケインがぶしつけに言う。
「な、何言ってるのよケイン。そんな冗談面白くないわよ」ジェーンは顔を引き攣らせながら、冗談はよしてとケインの方に振り向いた。
 その直後、ジェーンは真の恐怖を目の前で実感し、背中をドアに押しつけ息を詰まらせた。
 ケインの目が。ケインの目が明らかにおかしいのだ。
 ケインの目は、頭を炙(あぶ)られ、怨悪(えんお)の内に死んで行く時の突き出した魚の目のようだ。生物のパーツではない、無機質の飾りのようだ。
 ジェーンの肌には一気に鳥肌が立った。顔は青ざめ大きく引き攣り、信じられない物を見て目が震えている。動悸(どうき)がし、鼓動が激しく胸を突いてきた。
 ジェーンは、そのまま硬直し、首は互いの視線が見えない針で繋がれたように動かなくなってしまった。
「ケ、ケインっ。目が、変よっ!」ジェーンは困惑し、上ずった声を上げた。
 ケインは、それに答える代わりに、強姦魔を思わす厭(いや)らしい笑みを満面に浮かべた。
 ジェーンはそれを目にし、大量の血が体から抜き取られたような強い悪寒を感じた。それは、ケインとは似ても似つかない異質で陰気で邪悪な者に見える。
 ジェーンは、ケインという理想を踏みにじられた脱力感を感じ、命の危機に冷や汗を額に滲ませ震え声で言った。
「だ、誰よ、あなたっ!……?」冷たい涙が目の奥から染み出してくる。
 ケインと思っていた者は、その顔のまま、手を小さく動かした。そしてハンドルの下の何かを押した。
 突然、凍りつくような静寂が耳を襲い、それから豪雨の音と入れ替わるように、何かの旋律が聞こえてきた。
 やがてそれは、壊れかけのコンピューターが作動しているような音になり、それから、ずるずると引きずるような、重い呻き声へと変わっていった。まるで地獄の罰に苛(さいな)まれているかのような声だ。
 ジェーンは、はっと思い当たった。それは、昨日オープンカフェでラジオから聞こえてきた身の毛も凍る艱苦(かんく)の声と同じなのだ。
「ク・ク・ク・ク」ケインの姿をしたおぞましい化け物が、奇妙な声で笑い始めた。それにつられるかの様に、ラジオから聞こえている声も、ジェーンの心をかき混ぜるように笑い始めた。ジェーンの顔中が恐怖に圧倒され小刻(こきざ)みに震える。
 ケインが、さも可笑しそうに、顎(あご)を突き出しながら笑い、掌を額に押し当てた。そして当代一の喜劇役者の演技を見ているように、声の無い笑い声を車内に響かせ、狂ったように頭をしゃくった。
「この男の身も魂も、お前がすやすやと寝ている間に、みんな食ってやった。もうこの世には居ない!」笑い声に、恐ろしい言葉を混ぜて言い放つ。
 ジェーンに悪意の塊がぶつかってきた。窒息しそうだった。
 ジェーンが底抜けの闇に囚(とら)われ、身動きが出来なくなった時、さらに絶望が牙を剥いた。
 ケインの姿をした者が荒々しく声を上げ、ジェーンの首を片手で掴みかかった。
 物凄い圧迫がジェーンを襲う。
 首が握り潰(つぶ)されそうだ。
 ジェーンの顔は、みるみる鬱血(うっけつ)していって、行き場を失った血液が皮膚を裂いて流れ出しそうだ。
 ジェーンは、喉が焼ききれるような苦痛を感じ、救いを求め、ケインの顔を涙で歪んだ視界で見た。
 その顔は、容赦(ようしゃ)など一切無縁の憤怒に満ちた物だった。
 ジェーンは悟った。本気で自分を殺そうとしている。
 意識が朦朧(もうろう)としてきた。
 ついさっきまで、ケインのアパートに行く事に浮き立っていた自分の姿が遠い過去のようだ。
 予期せぬ事に、ケインの顔が見るも無残に崩れ出した。そして丁度、ケインの憤怒の顔を際限無く助長したような心すさむ顔になった。目は切れ上がり、頭髪も無い。口は蛇の口の如く、アンバランスなほど大きい。皮膚は、絶望の闇色。
 それはもう人とは呼べない。ジェーンは、悪魔と感じた。
 悪魔の片手がもぞもぞと彼女の眼下で動いた。
 その手は、人の腕を焼いたような命の温かみを失った炭のよう。それがジェーンの太ももをまさぐっている。
 ジェーンは背筋が凍った。朦朧としているが、まだ五感はある。無くなればそれは死ぬ時だ。
(やめて!!何をする気!?)
 悪魔がおぞましく口を開け、口から痰(たん)のような粘液が滴り落ちた。不快な音と腐臭と共に、ジェーンの股(また)の間のシートを焦がす。
「ひっ!」短い悲鳴を上げ、ジェーンは、生きている心地を失い、目を瞑(つむ)った。
 やがて静寂が二人を分け隔てた。
 意識が無くなったと思ったら、別の意識が躍動(やくどう)するのを感じた。
 瞼(まぶた)の外の幽霊を見る思いで、勇気をふり絞り、恐々としながら瞼を押し上げた。そこには心配そうに覗き込む、ケインの顔があった。
 ジェーンは、ほっとする所か、激しい危機感を感じ、車内に響く程の音を立て、平手でケインの頬をぶった。
 しとしとと降る雨音が、ジェーンの嘆(なげ)く心を現しているようだ。
 ケインがおもむろに口を開いた。
「又、悪い夢でも見ていたのかい。そんなに怯えた目をして……一体何があったんだ?」
(夢!?今の夢だったの!?)ジェーンは、まだ首を締め上げる苦しささえ残る、余りにリアルなさっきの出来事が夢だとは簡単には信じられなかった。いや今この目にしている光景こそが夢なのではないか、そんな気がする。ジェーンは、引き攣った顔で背中で押さえつけている窓の外を見た。
 車は停車していた。人気のいない墓場の前で。
「ここって墓地じゃない?」ジェーンは、鳥肌が立つのを全身で感じながら言った。
「ああ。でもここは、僕のアパートの近くの教会で、君の両親が埋葬されている所だよ。君がここを通りかかった時、突然、苦しいとうめき出したから心配になって車を止めたんだ」
「……だ、だめよ!早くここから車を出して!」ジェーンは、すがる様に言った。これが悪夢の続きかもしれないと思うと、墓から死体が這い出てきてもおかしくない。しかも夢だか現実だか分からない。夢と分からない悪夢ほど恐ろしい物はないのだ。
 彼女の切羽詰った声に、ケインは戸惑いながらも返事を返し、車を進ませた。
 しばらく押し黙っていたジェーンが意を決し言った。
「さっきあなたの頬をぶったの、ごめんなさい。とても恐い夢を見ていたから取り乱してぶっちゃったの」
「ああ。別にいいんだ。驚いたけど」
 この優しさは、いつものケインだ。だが、これで信じて良いのだろうか。魔物に変わったケインのように突然、牙を剥いたとしたら……。もうこれ以上耐えられない。今は心の限界すれすれの状態だ。昨日の今日にあれだけ不可解な恐怖を味わったのだ。無理も無い。
 ジェーンは、一刻も早く、この異常な事態から抜け出したかった。その為に出る言葉は一つ。
「ケインお願いがあるの。聞いてくれる?」
「なんだい?」ケインが前を見据えながら言う。
「あの。言いにくいんだけど、やっぱり私を私の家まで送ってくれないかしら?」
「ど、どうして!?」これにはケインも驚き戸惑った。ケインの笑みが消え、顔が曇(くも)る。
 ジェーンは、それを見て心が痛んだ。やはりこのケインは本物だ。ジェーンはそう思った。
 何をしたらケインがどう反応するか、全てジェーンが知っている通りだった。こんなに残念そうな顔をするのは自分の事を愛してくれている何よりの証拠だ。魔物に変わったケインのように愛の無い物には決してマネ出来ないはずだ。しかしジェーンの心は固まっていた。一刻も早く今までの事をじっくり納得できるまで考える必要があると思った為だ。
 今の状態で自分が納得するまで考え込むには一人の方が効率はいい。今までに起こった事が、これから起こるさらなる恐怖に警鐘(けいしょう)を鳴らしている。それは、上手く使えば危機への回避につながる物でもある。そう思うとジェーンは、いてもたってもいられなくなった。彼女の心はそれ程追い詰められていた。
 ジェーンは、へたな言い訳をする代わりにケインの目をじっと見つめた。切願する時の子供時代からの癖(くせ)だった。ケインは何も言わず眉をひそめた。
 重い沈黙がしばらく流れた。
「わかったよ」ケインが落胆の溜息を吐きながらしぶしぶ頷いた。
確信した。これは夢じゃない。この癖の意をくんでくれるのはケインだけだ。
(ごめんねケイン。わがままな私を許してね)ジェーンは、心の中で心の底からケインに詫(わ)びた。そして、これ以上、人の良いケインを騙(だま)しているような事をするのには胸が痛み、ケインの目から視線を反らし、うつむいた。
 車は進路を変え、霧の様に漂う水煙の中、静かに疾駆して行った。
 車の時計は午前四時十二分を指していた。

悪夢の追憶

 一戸建てのジェーンの家が見えてきた。周辺に他の家が無いが、そのたたずまいはアメリカの中流階級の一般的な家だ。白い壁にカーキ色の屋根。そして狭くも広くもないきれいに刈られた黄緑色の芝生の庭。
 鉄柵(てっさく)の門をくぐると正面にジェーンの家、その母屋に続いて隣に車庫がある。しかしその車庫は、ずいぶんそまつな物だった。それは、四つの鉄パイプが地面に垂直に立っていて、その上に厚手の薄汚れた綿のシートが乗せられて屋根にされ、シートとパイプがしっかりとひもで固定されている。中は壁もなく吹き抜けの粗末(そまつ)なものだ。その車庫の上に丁度ジェーンの寝室の窓がある。
 車が鉄柵の門を潜り、ジェーン邸の敷地に入る。
「ずいぶん粗末な車庫だけど、前の車庫はどうなったんだい?」ケインがジェーンに訊いた。
「前の車庫は、ついこの間の異常気象でひびがはいっちゃって……。危ないから造り変える事にしたの。そして取り壊して今は業者がくるまでの仮の車庫というわけ」とジェーンが説明した。ケインは、「そうか」といって慎重に車庫に車をぶつけないように入れた。
「さ、着いたよ」ケインはジェーンに言った。
「ありがとう」ジェーンは、なるべく笑顔をみせようとしたが、不安と恐怖がくすぶっている心持ちでは少し無理があった。それを感じ取ったのか、「一人で大丈夫か?」とケインは心配そうに訊いてきた。
「泊まっていって欲しい」と言いそうになったが、なんとか理性を働かせ思い止(とどま)った。
「ううん。大丈夫よケイン。あなたもはやく家に帰って休んで。今日はごめんなさい。本当にありがとう」と精一杯の元気をだしてケインが心配しないようにと言った。
「本当にだいじょうぶか?」ともう一度尋ねるケインに、「大丈夫。心配しないで」とジェーンは努(つと)めて明るく言った。ケインはしばらく考えていたが、「わかった」とうなずき、「何かして欲しい事があるなら遠慮なく言ってくれよ。力になるから」と言った。
「わかったわ。ありがとう」
 その言葉に心がほぐれ、ジェーンは、心から微笑む事が出来た。

 ケインが「車は明日会社で返してくれればいい」と言って車を車庫に残したまま帰って行った後、(ジェーンは、「そんな事までしてもらうのは悪いわ」と言って断ったが、ケインに「車だけでも君の側に置いておきたいのさ」と言われ、苦笑しながら承諾してしまった)ジェーンは二階の寝室に入り、明々(あかあか)と蛍光灯が灯る中、ベッドに倒れこんだ。
 自分が思っていた以上に心と体は疲れ切っていたようで、ベッドにうずくまった後、指先一つ動かす気力が湧かなかった。
 体が石のように重い。
 雨が今までの小降りから本降りに変わったのだろう。地面を叩きつけるような雨音が聞こえる。
 ジェーンが、圧し掛かる疲労感に負け、考えるより先に、うつらうつらと眠りかけた頃、
 突然、大雨の音にかき消されない程のガラスの割れる音が一階からした。
 心臓が飛び跳ねるような驚きと共に、眠気が吹き飛んだ。
 一階に何か居る!
 心臓が激しく脈動し、危機的状況に、アドレナリンが多量に分泌される。
(まさか、強盗!?)
 酩酊(めいてい)状態に陥(おちい)ったように頭がくらくらしたが、今は、不運を嘆いている場合ではない。
 ジェーンは、震える心を必死に自制し、闘争心を揺り起こした。
 まず身を守る武器を手に取らなければならない。それから警察に通報するのが上策だった。
 しかしジェーンの今居る寝室には、武器になりそうな物は置いていない。
 一番頼りになる武器。それは銃だ。
 いざという時の為、ジェーンの家にも置いてある。しかしそれは寝室を出た廊下の突き当たりの部屋にある。
 ジェーンは、生唾を飲み込み決心した。
 それしか手は無い。
 問題は、廊下に出た時に、侵入者に見つかるかも知れないと言う事だった。もしそうなれば、その時点で凄惨(せいさん)な死が襲ってくるだろう。
 ジェーンは、ドアのむこうに何もいないかドアに耳をあて確認した。いないのを確認すると神に祈りながら、汗ばむ手でドアのノブを出来るだけ静かに回し、ドアをそうっと開けた。
 廊下に勇気の一歩を踏み出すと、息を殺し目的の部屋に向かった。
 槍(やり)のように刺す視線を背中に感じたが、振り向いて侵入者の姿を見れば、立ちすくんでしまいそうで、恐ろしくて振り向けなかった。
 死ぬ思いで目的の部屋の前に辿りついた時は、服は冷や汗でべっとりと背中に張りついていた。
 祈りながらドアのノブを回し、部屋の中に入り、ドアを閉めてから、喉を振るわせ、浅い深呼吸をした。
 ビルの外壁をよじ登って来た気分だった。
 銃は奥のタンスの一番上の引き出しにあるはずだ。ジェーンは、恐怖に急かされながら歩を早めた。電灯は、侵入者に居場所を知られないようにつけない事にした。
 銃の入っているタンスの引出しには鍵が掛っていた。
 ジェーンは、別の引出しを開け、その天井に引っ掛かっている鍵を手に取った。心の中で早く早くと急かしながら。
 鍵を外し、引出しを手前に引っ張った。
 木同しの摩擦でギクッとする嫌な音を立てながら引き出しは開いた。
 中には、リボルバー式の短銃と弾丸の赤いパッケージが入っていた。ジェーンは、救いを求め、震える手で銃を取った。続いて弾丸のパッケージのふたを開け、銃に入るだけの弾丸を出して銃に詰め込む。
 その作業が終わり、やっと一息ついた時に、命を揺るがす大切な事を忘れていた事に気付いた。
 警察に通報する為の電話は、寝室と廊下にしかなかったのだ。それをするには又寝室に戻らなければならない。
(なんで通報してから銃を取りに行かなかったのよ!私のバカ!!)ジェーンは、自分の取った行動が不思議だった。しかし今は自分の間抜けさに自己嫌悪している場合では無い。そんな余裕も時間も無いのだ。
 考えるのも嫌なくらい億劫(おっくう)だったが、生き延びる為にやるしかない。
 銃のグリップを握り締め、今は銃が味方してくれていると自分を勇気付け、ドアに耳を当てて外の音を聞いた。
 気が急いているせいで、よく聞き取らないままドアを開けた。恐々(こわごわ)廊下の様子を覗き見ると、幸いな事に侵入者はまだ気付いていないようで姿は見えない。
 先ほどと同じように足音をたてないようにして寝室に向かった。ここが正念場だ。
 数歩歩くと、死角になっていて今まで見えなかった二階に通じる階段が正面に見えた。
 先ほどから、しんと家の中は静まっている。ジェーンは、もしかして侵入者が目当ての物を強奪(ごうだつ)して家から出て行ったのかもしれないと期待した。まだ居るとしても見つかってはいないようだ。とりあえずほっとして寝室のドアのノブに手を掛けゆっくりと回した。
 ふと冷たい雫が腕に落ちた。ジェーンは、首筋に冷水を垂らされたように体を震わせた。
(まさか!?)
 雨漏れだ。雨漏れに違いない。そう信じ、上を見た。
 そこには、夢の中にしか居ないはずのケインに化けた化け物と同じモンスターがこっちを見据えていた。口から粘液を滴らせながら。
 そいつはジェーンの真上の天井にいもりのように張りついているのだ。
 ジェーンは、首から上が硬直してしまい、顔をぶるぶる震わせた。
 銃はドアのノブに掛けた手ではない方の手で持っているが、銃口は下がったままだ。今からでは銃口をモンスターに合わせる前にモンスターが襲いかかるだろう。
 心臓を伝い失神しそうな恐怖が込み上げる。その爆発しそうな感情は絶叫となって現れた。
 ジェーンは、死に物狂いでドアを開け、寝室に転がり込んだ。足でドアを乱暴に蹴飛ばし閉めた。心臓が破裂しそうなくらい激しく打つ。
 ジェーンは、半狂乱し、床を這って許された時間で出来るだけドアから離れ、立ち上がる余裕も無く銃をドアに向けた。
 崖から落ちて行く途中のようだった。すぐ先には苦界の死が待っている。
 モンスターは焦(じ)らすように中々部屋に入ってこない。もう仕留める確信があるのか、あるいはジェーンが怯えるのを楽しんでいるのか。
 濡れ雑巾(ぞうきん)が床に落ちたような音がした。モンスターが床に着地した音だろう。いよいよ自分を仕留めに掛ったのだ。
 ジェーンは撃鉄を引いた。今打つべきだろうか。しかし無駄弾を撃つわけにはいかない。
 時間の余裕を考えれば、実質的に使える弾丸は、今、銃のシリンダーに入っている六発だけだ。新たに弾をつめ込む余裕はありそうも無い。まして相手は人では無い。人間のように胸か頭に一発打ちこめば終わりとは限らない。しかし牽制(けんせい)の意味でも一発くらいならやるべきかもしれない。そう思考を巡らし引き金を引こうとした矢先、ドアが爆風で吹っ飛んだようにジェーンに襲いかかった。
 運の良い事にジェーンに当たる直前に、ドアは奥ゆきのある縦向きになりジェーンの横を掠(かす)めていった。
 その直後、鉛が激しくぶつかったような鈍い音がした。
 ジェーンが一瞥(いちべつ)すると、ドアが壁に突き刺さっていた。ジェーンの顔から血の気が引いた。
 なんという力!
 はっとして前を見た。
 ほんの七メートル程先に、黒光りした怪物が立っていた。生まれた瞬間の乳児のように体中がヌメヌメとした粘液で覆われていて、それが電灯の光を反射し不気味に光っている。
 間近で見ると、感情の無い飾りのような赤い二つの目玉が、自分を見下ろしているのが分かった。
 その威圧的な姿は、実際以上に大きく見える。
 口元は、歪につり上がっていて、笑っているよりはむしろ、脅(おど)しているように見えた。切れかかった人が、これから自分がする酷刑(こくけい)を相手に無言で語るように。
 床を踏み潰すような重い足で、モンスターがジェーンの方に歩み出た。足から粘液が床に伝い落ち、腐臭を撒(ま)き散らしながら煙をまいて床が溶けた。その様子に驚愕しながら、ジェーンはさらに青ざめた。
 うむを言わせずに殺す死刑執行人が近づいてくる思いだった。
 ジェーンは、死にたく無い一心で引き金を引いた。
 怒号のような破裂音が鳴り、耳をつんざいた。
 恐慌状態の中、続けてニ発!三発!とそのグロテスクな怪物に発砲した。
 確かに当たったはずだった。この至近距離で外すはずが無い。
 しかしそいつは撃たれた感じも見せず、口を大きく開け、異世界の怪物的な威嚇の声を発した。続けて思いもしない言葉を発した。
「ジェーン・・・」
 それは確かに自分の名を呼んだ。その言い方は、昨日ラジオで聞いて、今まで耳からこびり付いて離れなかった怨恨(えんこん)のこもった物と寸分違わなかった。ジェーンの脳に残っていたその声に、今の名を呼ぶ声が被(かぶ)さった。まるでパズルのピースがピッタリと枠に収まるように。
 ジェーンは確信した。今、目の前に居るモンスターこそが、ラジオの向こうから自分を呼んだ首謀者だと。そいつが今、現実に襲い出したのだ。
 ジェーンは、その恐怖を打ち砕く思いで発砲した。だが、その怪物は何もなかったかのように近づいてくる。ききめがない!まるで何も感じていないようだ。ジェーンはどうして!?と感じながら、目を見張り、ジワリ、ジワリと後ずさった。
(こいつ、銃がきかないの!?)ジェーンは、命綱を断ち切られた思いだった。
 おしりが行き止まりの小窓にぶつかった。もう後が無い。考えあぐねている時間も無い。
 ジェーンは、神に祈りながら銃口をモンスターの頭部に向けた。これが最後の一発だ。これが効かなければ、もうどうあがいても殺されるのは確実だった。
 正体不明の化け物が四メートル程に迫ってきた。
 引き金をめい一杯引いた。銃口が火を吹き、けたたましくガラスが割れる音がした。しかしそれはモンスターの頭部が砕けた音ではなかった。モンスターの頭部の丁度後ろにあったシャンデリアが割れた音だった。肝心のモンスターは悠然(ゆうぜん)と歩いてくる。
 ジェーンは続けて銃のトリガーを引いた。だが弾はでてこない。銃はむなしくカチッ、カチッ、と音を出すだけだ。
 ジェーンは、額に汗を浮かべ、役に立たなくなったその銃を怪物に投げつけた。
 投げつけた銃が怪物に当たりそうになった時、その怪物の体が波打ち半透明になったかと思うと、投げつけた銃はそいつをなんとすり抜けてしまった。
(そんなバカな!?)
 ジェーンは驚愕し、じわじわと近づいてくる怪物に、そこら一帯にある物を片っ端から投げつけた。しかし投げつけた物は、全てその怪物をむなしくすり抜けていく。
(もう駄目だ!)ジェーンは絶望で気が遠くなりかけた。体の震えが止まらない。自分はここで生涯を終えるのか?こんなわけの分からない事で……。きっと警察は、この事件を迷宮入りさせてしまうだろう。誰もこんな話し信じやしない。自分だって他人事なら、自分が体験していないなら信じない。いや信じられない。ただ残るのは、ジェーン・ハリーと言う女性が何者かに殺されたと言う事実だけ。
 今までの人生を思うと涙が滲んできた。
(ケイン……まさかさっきのキスがケインとの最後の別れのキスになろうとは……なんで私がこんなめに……)
 突然、突き付けられた理不尽な死を前に、ジェーンは、ただ嘆き悲しむしかなかった。
 その時、「こっちだ」という声が頭の中に響いた。
 ジェーンは、吸い付けられるように声が聞こえてきた方に顔を向けた。
 その声が聞こえてきたと感じた所は、ジェーンのおしりが当たっている真後ろの窓の外だった。
 ある考えが咄嗟に浮かんだ。
 寝室のドアを見た。そのドアの前には得体の知れない、しかし自分を確かに狙っているモンスターが立ちはだかっている。ドアからは出られそうもない。今、このモンスターから逃れる方法はこれしかない!そう思い込んだジェーンは、もう一度、窓の方を一瞥し、意を決した。
 ジェーンは、手元にあったスタンドを手に持ち、後ろの小窓に向かって投げつけた。
 平常心を打ち砕くような音が鳴り、ガラスが飛び散った。
 モンスターは、ターゲットに予想外のことをされた為か、一瞬戸惑い動きを止めたが、すぐ体を波打たせ、半透明から元の漆黒の体に戻り、大きなおたけびをあげた。
「ウオーン!!」
 その怪竜のような怒号を聞き、生きた心地を失いながらもジェーンは、今だ!今しかない!と心を奮い起こし、叫びながら割れた小窓の外に飛び出した。
 階段を転げ落ちるような切迫感を感じながら、ジェーンは、その窓の丁度真下にあった仮車庫の綿の屋根に受身も取れないまま落ちた。だが、それだけでは終わらない。雨水を浴び滑りやすくなった綿の屋根を、ジェーンは勢い余って転がった。端まで滑り、転がって屋根から落ちそうになった時、必死で落ちまいと屋根の縁(へり)を掴んだ。しかし雨水で手が滑って、幾分勢いは殺したが、結局は、固い地面に背中を打ちつける事になった。
「ゴホッ!」とジェーンは咳き込んだ。打ちつけられた衝撃で一瞬息が出来なくなった。だが頭の中は、逃げる事で一杯だった。痛みよりも何よりもそれが最優先されていた。
 ジェーンは、顔を引き攣らせながらも必死で立ちあがった。向かうべき所は、車庫の下にある車だった。
 地面に落ちた時に打ったのだろう。鈍痛のする足を引きずって、なんとか車のサイドドアの横に辿りついた。
 喉は猛暑の砂漠にいたようにカラカラだった。頭が過度のショックでくらくらする。眩暈(めまい)がしてきた。だがここで倒れる訳にはいかない。ジェーンは、ぼやけた頭を振って意識を必死で保とうとした。
 車のドアを開け、中に入り込んだ。
 安息の時間は無い。
 その時、はっと気付いた。
(く、車のカギはっ!?)
 一瞬、顔から血の気が失せ、鍵穴を凝視した。
 しかし疲れていたのが幸いした。いつもなら必ず車のキーは抜いて家の中に入るのだが、今日は疲れていたせいで抜くのを忘れていたようだ。
 九死に一生を得て、生気の無い溜息をついた。だが、ゆっくりしていられないのは充分わかっている。すぐにキーを回してエンジンをかけようとした。
 突然、体が縛られるような重さが圧し掛かった。そして頭上で何の前触れもなしに、ダイナマイトが爆発したような轟音がした。車庫の屋根が紙の如く吹き飛んだ。
 ジェーンは、体を震わせながらサイドウインドーから何事かと上を覗き込んだ。
 目にした光景が信じなれなかった。
 まるでダイナマイトでも使ったようにジェーンの寝室の壁に大穴が開いていた。もはや小窓のあった形跡さえ見て取れないほどに。
 その時、ジェーンの心に浮かんだ物は何をしたの!?より、なんて事を!!だった。
 最早、考える事なんて無意味だ。一刻も早くここから逃げ出し、遥か遠くに行く事だ。例え全てを捨ててでも。そうしなければ、とても逃げ果(おお)せない。とジェーンは感じた。
 イグニッションキーを思いきり捻り、エンジンをかけた。運良く一発で掛ったが、喜んでいる暇は無い。
 アクセルをめい一杯踏み込んだ。雨でぬかるんだ地面がタイヤのグリップ力を奪い、タイヤがしばらく空回りした。やがてタイヤが地面に絡み、車は弾かれたように発進した。しかし前方すぐの所に、あのモンスターが降りてきた。羽を大きく開けたその姿は、まるで巨大な黒い壁だ。
 ジェーンは絶句し、咄嗟にブレーキを踏み込もうとした。だが、間に合いそうも無い。
 モンスターは、その恐怖にたたみ掛けるようにジェーンの車に向かって飛びかかった。ブレーキを踏み込む足に力をいれた。車の底が抜けんばかりに。しかしジェーンの踏み込んでいたのはブレーキではなかった。アクセルだった。
 車はさらに勢いを増し、モンスターに突っ込んで行く。
 もう駄目だ!ジェーンが目を固く瞑った時、モンスターは、車を飛び越えていた。モンスターの予想外に、車が勢いを増した為、着地地点に車がなかったからだ。
 ジェーンが再び目を開けた時、何ともなっていない現状に驚きと不安を感じた。助かったとはとても思えなかったからだ。モンスターは、獲物が怯えるのを見て楽しむように、どこかに潜伏(せんぷく)し、意外な所から襲ってくるかも知れない。それとも、もうすぐ側にいるかもしれない!
 ジェーンは、目を皿のようにして周りを見た。
 しかしその不安は取り越し苦労だった。
 後ろを見るともう車は鉄柵を潜りぬけ、その奥にモンスターが身動き一つせず立ちつくしていた。その姿は、もうタバコの箱の大きさ位になっている。
 何が起こったか全く分からなかったが、奇跡的に助かったようだ。このまま手の届かない遥か遠くまで走りきろう。モンスターが行き先を読めない所まで。ジェーンはやっと安息の溜息を漏らした。喉に詰まっていた異物が取れたような思いだった。ジェーンは、前を見据え、ハンドルを強く握り締めた。
(生き延びて見せる!!)
 死んで当然の窮地(きゅうち)を切りぬけた事で、ジェーンは、自分が強くなった気がしていた。
 だが、モンスターの姿がバックミラーに映っていなかった事には、ジェーンは気付かなかった。
 ジェーンの車は、先の暗い街灯もまばらな寂しい道を、水煙に撒(ま)かれながら何処までも走って行った。
 ついさっきの午前五時三十二分頃、ジェーンは、危険を避けるにはどうしたらいいか考えたあげく、ある程度人が居て、警察署のある街に行こうと決めた。何かあれば警察か誰かが助けてくれる。そんな一抹(いちまつ)の期待を持った為だった。それに人が密集していた方がモンスターにも見つけられにくいだろう。そう考えた為でもある。ただ地図などは持ってなく、自分が今何処を走っているのかは分からない。その上、霧雨(きりさめ)で見通しもよくない。運良く街を見つける偶然に期待するしかない。ただ心配なのは、何よりもガソリンが街につくまで保つかと言う事だった。だだっ広いアメリカに点在するガソリンスタンドは、そんなに近距離に点在する訳ではない。ガソリンが切れたら、もしかするとさっきのモンスターが追いついてくるかも知れない。それが一番恐ろしい。霧雨でモンスターの所在(しょざい)が煙に撒かれた様に見通せず分からないのが一層不安と恐怖を掻き立てていた。
 今は午前五時五十九分。冬も間近なのでまだ辺りは暗い。
 こんな時、ひとりで居るのは本当に心細い。
 ジェーンは、ケインの事を考えた。もう会えないと覚悟したのに、又生きて会える状況にある自分が素直に嬉しかった。
 さっきのあの頭の中に響いた声。あれが自分を救ってくれた。一体あれはなんだったんだろう。ジェーンは、その声は、自分をいつも見守って愛してくれている者。つまりケインの声だと思った。その声は、若々しく包み込むような優しさを宿した声だったからだ。
(ケインに会いたい!)ジェーンは、そう強く思った。しかし今はその手段が無い。ケインに会いに行けば、ケインまでモンスターに襲われる危険性がある。それだけは避けたかった。ただ会えないのならば、声だけでも聞きたかった。しかしそれもだめだ。ケインは携帯電話を持たない主義で車にはありそうも無い。かく言うジェーンも携帯電話は持たない事に決めていた。体にも悪いし、何より持つと遠慮なしにプライベートに入ってくる人もいるからだ。特にケイン以外からのデートの誘いなら最悪だ。
 ジェーンは、溜息をついた。ただ誰かの助けが必要な事は明らかだった。
 どれだけ車を走らせただろう。霧雨に水彩画のように滲んだ明るいネオンの煌(きらめ)きが見えた。
 ジェーンは、身も心も救われた思いで狂喜した。やっと死神の腕を振り解いてやった気持ちがした。
 だんだんと近づくにしたがって、街の様相が見えてきた。近代ビルの立ち並ぶ割りと大きな街だった。ジェーンは、安息の溜息をついた。理想通りの街だった。ある程度、人も居そうな街だ。きっと警察署もあるだろう。
 ジェーンの車は、そのオアシスに見える街に続く大きなコンクリートで舗装された橋の上を水しぶきを上げて走っていた。
 ジェーンは、張り詰めていた力が抜け、もう大丈夫とアクセルを踏み込む足を弛(ゆる)めた。

追い続ける悪夢

 その橋は、丁度大きな河(かわ)に架(か)けられた橋だった。この時間帯でこの雨の中、行き交う車などは見当たらない。スピードメーターが今までの百キロ前後から六十キロ前後に落ちた時、岩が車の屋根に落ちたような音がした。ジェーンにとっては青天の霹靂(へきれき)で全く予期していなかった為、初め何が起こったのか分からなかった。一刻後、まさか!?と思い当たった。しかし今はあらゆる事態が起こっても不思議ではない時なのだ。雷に打たれたような衝撃が全身を襲った。
 又、悪夢の直中(ただなか)に引き戻す奇声がした。それも距離を置いてではない。屋根を隔てたすぐ上でだ。
 ジェーンは、どうして!?と命運を恨みたい気持ちと共に、あのモンスターがすぐ上にいる事を直感で悟った。バックミラーに目を凝らした。しかしモンスターの姿は映っていない。バックミラーは車の屋根までは捕捉出来ないのだ。それが、暗闇の中、死体を踏むような不気味な恐怖を感じさせた。
(一体どうすればいいの!?)ジェーンは、発狂しそうだった。もう全てを諦めて投げ出してしまいそうになった。その時、フロントウインドーに沼から這い出てきたようなグロテスクな腕が唐突に張りついた。
 その手がフロントウインドーを力任せに叩き始めた。始めの一発でフロントウインドーに蜘蛛(くも)の巣のようなひびが入った。
 ジェーンは驚倒した。
 なげやりな気持ちが恐怖で吹っ飛んだ。ここまで切り抜けたんだ。こんな事で生きる気持ちを失ってたまるか!
 ジェーンは、必死で自分を叱咤(しった)した。こんな所で死んだら、ケインが許してくれないぞ!
 ジェーンは、ハンドルを左右に激しく切った。高いタイヤの摩擦音が辺りに響く。
 車は横幅十メートル程の橋の上を蛇行した。ジェーンは、無我夢中だった。モンスターを振り落とそうと必死だった。
 フロントウインドーを殴打するモンスターの腕が、フロントウインドーから逃げるように引っ込んだ。しかし一息つく事は出来なかった。頭上で金属が焼かれるような音がした。蛇行しながら上を見た。ジェーンは絶息し、青ざめた。頭上の屋根に小さな穴が開いている。ジェーンは瞬時に悟った。屋根をモンスターが溶かしている!しかし気付いた所でどうしようもない。穴は見る間に大きくなっていく。この穴が腕が入りきる位の大きさになれば、自分は確実に殺される。断頭台の刃が落ちてくる寸前のような気持ちだった。
 ジェーンは、最早、声もなく、激しい恐怖に飲み込まれながらも悪夢の中、戦った。だがその勇気も虚(むな)しく打ち砕かれた。
 穴から大蛇の胴体のような腕が入ってきた。ジェーンは、その腕を頭を反らせ避けようとしたがそうは上手くいかなかった。なんとか頭を鷲掴(わしづか)みにされるは免(まぬが)れたが、ジェーンの金髪の髪までは、そうはいかなかった。物凄い力で髪の毛を上に引っ張られた。一瞬、重力がなくなったかと思う程、体が浮いた。
 ジェーンは、たまりかねて絶叫を上げた。髪を引っ張られる痛さより、自分の頭がモンスターの手の内にある事がたまらなく恐ろしかった。
 ジェーンの頭は屋根につっかえた。まだ運のいい事に、穴はジェーンの頭が出られるほど大きくなってはいなかった。しかし事故に遭わす為、運転の自由を奪うのには充分だった。
 ジェーンの頭は、何度も何度も屋根に打ち付けられた。モンスターは陰湿で容赦ない暗殺者のようだった。
 首の骨が折れる!ジェーンは、呻き声を上げた。
 ジェーンが恐怖と苦痛に顔を歪め、もう今度こそ自分は終わりだと思った時、前方に黒い人影が現れた。霧雨の中、ジェーンの車のライトを浴びて、悠然と立っている。ジェーンの霞(かす)む目がそれを捕らえた。
「ギッ!」モンスターがうめくような声を出した。そして唐突にモンスターの髪を引っ張る力が弱まった。
 黒い影がジェーンの車に向かって跳躍(ちょうやく)した。その瞬間、肉を切る鈍い音がした。
 それとほぼ同時にモンスターの髪を持つ手が、動きを失い、ジェーンの金髪を指の間から取りこぼしながら、穴の外に引っ込んでいった。それは、ジェーンが一瞬きする間の事だった。
 ジェーンは、反射的に車を止めていた。
 後ろのコンクリートの橋の上に、黒い蒸気を上げて、モンスターの二つに割れた体がうつ伏せになっている。
 唐突に、ガラスを金属で引っかいたような悲鳴を上げたかと思うと、いきなりその体が細切れになりドロドロに溶け始めた。
 ジェーンは、夢でも見ているのかと目を疑った。――と突然、遠くの方から規則正しい兵隊の行進のような足音が聞こえてきた。しかし姿は見えない。ただ不気味な足音がだんだんと近づいてくる。ジェーンは、又、恐怖に駆られ辺りを見回した。モンスターの体が完全に蒸気となり消えた時、遠くまで見通せない霧雨の中、赤黒く光る刃がモンスターのいたさらに奥から現れた。続いて黒く光る長身の体が現れた。それは見た目、人の姿をしていたが、ジェーンはそれが人間でないことを知っている。それは、バスに襲われた時、何処(いずこ)となく現れた地獄の騎士だった。
 雨風を切る鋭い音を鳴らし、その騎士は、手に持っている剣を一振りした。すると血で濡れたような真っ赤な刃が白く煌(きらめ)く刃に変わった。
 騎士は、剣を鞘に収め、歩調を乱す事無く近づいてくる。
 ジェーンは、魅入っていた自分に気付き、はっとした。
 何故だか分からないが、又この騎士が救ってくれたようだった。その騎士が自分に近づいてくる。バスに襲われた時、この騎士が言った言葉が脳裏を過(よ)ぎった。
『怯えなくていい。僕は君の味方だ』……この言葉通り受け取ってもいいのだろうか。
 ジェーンが考えあぐねている間に、黒い騎士は、ジェーンの前方五メートル程の所まで歩いてきて立ち止まった。
 何も言わず立ちつくしている。
 ジェーンは感じた。この正体不明の何者かは、私が話し掛けるのを待っている。
 ジェーンは、しばらく探りを入れるように黒い騎士の様子を観察していたが、相手が危害を加える意志が無い事を感じ取ると、勇気を掘り起こし声を掛けた。
「ねえ。あなた一体何者なの?どうして私を助けてくれたの?」
 騎士は、しばらく黙った後、若々しい声で言った。
「僕は、この世にあってこの世に無い者。そして救世主の守護者だ」
 ジェーンは、この答えを理解しかねた。全く何を言っているのか分からない。そのせいで幾分警戒心が強くなった。
「何を言っているの?救世主って何の事よ?」
 ジェーンは戸惑いながら尋ねた。
「君がすぐ理解できないのは分かっている。しかし聞いてくれ。君は悪魔に呪われている。このままでは、君は悪魔に殺されてしまうだろう。それを避ける為にも君はやるべき事をしなくてはならない。僕を信じて僕に付いて来てくれ」
 黒い騎士は淡々とそう言った。
 ジェーンはその言葉に色んな意味で引っ掛かった。
 まず一つは、自分が悪魔に狙われていると言う所だった。もしそれが本当なら今までに襲ってきたモンスターは悪魔という事になる。
 もう一つは、付いて来てくれと言う所が、何か誘拐(ゆうかい)めいた物のように思えた事だった。
 判断に迷った時は、慎重過ぎるほど考えた方がいい。しかし銃さえ効かなかった化け物を両断できるこの騎士が、本当に味方ならこの上なく心強い。それにあのモンスターと対等に戦えるのはこの騎士だけかも知れない。
 ジェーンは、今、自分にとって一番大事な質問をした。
「何故私なの?どうして私が狙われるの?」
「それは、君が救世主だからだ」
 騎士は、淀(よど)みなく言った。
 ジェーンは、面食らったが、恐いのは、それが冗談に聞こえない所だ。ちゃかしているとは思えない。こんな大掛かりな用意をして自分を騙しても何(なん)にもならない。もちろん自分がその救世主とは思っていなかったが、自分を殺そうとしている者がいる事は確かなようだ。
 ジェーンは、もう少し詳しく話を聞かして貰(もら)おうと、騎士に話しかけようとした。その時、
「そうはさせぬ!」
 突然、空が唸った。辺りの気圧が激増したように体が重く息苦しくなった。何事かと空を見上げると、蛇のとぐろのような赤茶けた暗雲が、獲物を狙う眼の如く睨んでいた。まるで意志を持っているかのように。
 今までに感じた事の無い恐怖が全身を貫(つらぬ)いた。爆弾の投下地点にいるような感じだった。
 黒い騎士が突然うめき出した。見ると何か強い力で圧迫されているようで片足を地面につけている。
「に、逃げろっ!」
 黒い騎士が搾(しぼ)り出すような声で言った。次の瞬間、目も眩(くら)む光りを発し、雷が黒い騎士の体を貫いた。
「ひっ!」ジェーンは、考えもしなかった出来事に悲鳴を上げ絶句した。そして次の光景に放心した。
 黒い騎士は、雷に打たれ、高温で焼かれ溶け出した肉のように、見るも無残に形を崩していく。
 頼みの綱が余りにもあっけなく絶たれてしまった。
 ジェーンは、次は自分の番だと悟るや否や、車を置いて、振り返る事もせず、僅(わず)かな望みを背負い、前方に佇(たたず)む街に向かって橋の上を全速力で駆け出していた。
 ジェーンは必死で駆けた。肺が悲鳴を上げる程に。しかしそんな事には構ってられない。
 足を止めれば即死だ。いや、後一歩踏み出した所で、死の刃で切り裂かれるかも知れない。
 今までの生涯(しょうがい)で、こんなに懸命になって走った事はなかっただろう。ジェーンが街に一歩踏み込んだ時には、ジェーンの体は汗だくになっていた。ジェーンは、街に着いて一番初めに目についたコンビニに駆け込んだ。頭上の雷の恐怖を一刻も早く取り除く為にだ。
 やや中年の男の店員は、いきなり切羽詰った形相で、勢いよく飛び込んできたジェーンに目を丸くして、レジの椅子からさっと立ち上がった。そして、じろりとジェーンを警戒心のこもった目で見据えた。強盗でも見るような目付きだ。
「な、なんだ、てめえはっ!か、金ならここには無いぞ!」そう言った店員の片手は、レジの下に潜(もぐ)っていた。
「電話は何処?電話を貸して!」ジェーンは、きっと店員を睨んで言った。
 店員の片眉が吊り上がった。明らかに不審者を見ている表情だ。
「電話なら外にある。そこを使いな」店員は、顎をしゃくった。
「外じゃなくて、中の電話を使いたいのよ!」興奮しているせいで語気が荒いだ。
 しばらく店員とにらみ合った後、店員が、「分かったよ。これを使いな」と言ってすぐ側にあるファクシミリ装備の電話の子機を差し出した。
 ジェーンは、それを受け取り、「ありがとう」と言って警察に通報しようとした。その時、コンビニの天井に備え付けられたテレビから信じられない言葉が聞こえてきた。
「臨時ニュースです。深夜、午前ニ時五十分頃、ロサンゼルス市内の病院で奇怪な事件が起こりました。この病院に勤務するモーリス・ロイド医師、三十四歳が、窓から転落死すると言う痛ましい事件が起きました。これから見て頂くのは、目撃者の談です」そう言って、女のニュースキャスターの映像から患者用の服を着た若い患者と思われる男性に画面が切り替わった。
「夜中になんか物凄い音がして、ビックリして目を覚ましたんだ!そしたらカーテン越しに、今まで見た事もねえ恐ろしい化け物のシルエットが見えたんだ。肝(きも)を潰したよ。ちびりそうになった。そしたらそれがさっと消えて、カーテンがめくれ上がったんだ!そしたらよお。目を疑ったよ!あの医師が、窓から今まさに落っこちる所だったんだから」
「誰かに突き落とされたようだった?」インタビュアーがマイクを自分の方に向け質問した。
それからすぐにマイクを患者に戻すと、
「いや……そうは見えなかった。ただ奇妙な所があった」
「それはどう言う所?」インタビュアーが忙しくマイクを自分に向け質問した後、又すぐにマイクを患者に戻した。
「落ちて行く時が奇妙だったんだ。まるで落ちて行く途中で目が覚めたような叫び声だった」
 考え込んでいるのか、短い沈黙があった。
「それはジェーン・ハリーと言う患者のベッドの所で起こった。そしてそこにはジェーン・ハリーと言う患者はいなかった。そうですね?」インタビュアーが同様の動さをして訊いた。
「ああ。それは間違いねえ」男性患者は、やや気後(おく)れして言った。
 画面が元のニュースキャスターに切り替わった。
 原稿を取り、おもむろに言った。
「ええー。今話しに出ましたジェーン・ハリーと言う女性ですが、警察は、この女性とこの女性に付き添っていたケイン・クランクと言う人物を何らかの重要な鍵を握る重要参考人として行方を追っています。お気づきの方は、すぐにこちらの電話番号まで御一報頂きますようご協力お願い致します」そう言った後、画面が見間違えるはずの無いジェーンとケインの顔写真に移り変わった。
 ジェーンは唖然としていた。ショックで言葉も無かった。これではすでに犯人扱い同然ではないか。
 ジェーンは慌てて受話器を置いた。これでは警察に通報できない。通報した所で事態をどう説明したらいい?へたすれば、逮捕され、自分は何年か独房の中で過ごすことになるかも知れない。ジェーンは、今その事に気付いた。
 店員がじと目で目の前にいるジェーンと画面の顔写真のジェーンとを見比べていた。そして気付いたのか、「お前さん。もしかして!?」と驚きの声を上げた。
「ち、違うわ。違うのよっ!」ジェーンは、うろたえながら言い、急いでそのコンビニを後にした。もう何がなんだか分からない。ジェーンは、世の中の全てから逃げ出したい気分だった。もう雷の恐怖より人の世の方が遥かに恐ろしい。ジェーンは、頭上の雷の恐怖にも構っていられず街の中を必死に駆けた。まだ人の余り出歩いていない辺りが暗い内に、出来るだけ遠くに行きたかった。これだけの大きさの街なら隠れる所の一つや二つ位あるはずだ。しかし何で自分がこんな犯罪者みたいな事をしなければならないはめになったのか、どうしても分からない。自分に落ち度があったとは思えない。ジェーンは、この理不尽な仕打ちに激しい憤(いきどお)りを感じながらも、何とかこの事態から抜け出す方法を摸索(もさく)していた。
 ふと、人が入る事を拒みそうなビルとビルの狭い隙間が目に入った。まだ辺りは若干日の光りが差し込んでいる程度で、その隙間は、いかにも何かが出てきそうな程の不気味な暗闇に覆われていた。
 しかし今のジェーンには、救いの場所に見えた。一瞬、警戒心が入る事を拒んだが、背に腹は替えられない。走っているスピードを落とさずにその隙間に駆け込んだ。
 見渡せる範囲では、ここには誰も居ないようだ。ジェーンは、やっと一息つく事ができ、今まで胸に巣食っていた腫瘍(しゅよう)のような過度の悪感をここぞとばかり吐き切った。
 腕時計を見ると、もう午前六時十分だった。
 ジェーンは、ぼうっとする頭であれこれとりとめも無い事を考えていた。
 ケインは、今どうしているのだろうか。私達はもう新聞に犯罪者の見出しで載っているんだろうか。その事を知った知り合いはどう思うのだろう。何でこんな事に……。私は何も悪い事はしていないのに……。もうやりがいのある仕事とも気の合う同僚ともお別れしなければならなくなるんだろうか。
 ジェーンは、強い喪失感に打ちのめされ、ビルの冷たい壁に持たれかかっていた背中が、挫折感(ざせつかん)と共にズルズルとずり落ちた。ジェーンは、そのままへたり込み、膝(ひざ)を抱え、膝に顔を埋め、むせび泣いた。
「私が何したって言うのよっ」ジェーンは、悔しさを吐き出すように言った。
 しばらくして光りがビルの隙間を照らした。しかしそれは太陽の暖かい光ではなかった。
 今までのジェーンの懸命の努力を打つ砕くライトの光りだった。
「見つけたぞ!ここだ!」
 数人のドタバタとした足音が近づいて来るのが聞こえた。顔を引き攣らせて見ると、ライトを持った警官がビルの死角にいるのだろう、仲間を手招きで呼んでいる。
(もう逃げられない!)ジェーンは思った。次の瞬間、もうどうでもいいわよという諦めが頭を支配していた。もう逃げようという気力さえ湧いてこない。ジェーンは、警官など意識の外と言うように視線を警官から外し、再び膝に顔を埋め、むせび泣き始めた。
 砂利(じゃり)を踏みしめ警官が静かに近寄る足音が聞こえてくる。しかしジェーンは、無反応で顔を上げる事すらしなかった。
 警官の足音がすぐ側で止まった。
「ジェーン・ハリーさんですね?」警官が尋ねたがジェーンは答えなかった。
 警官が優しくジェーンの肩に手を置いた。そして、
「心配しなくてもいいですよ。我々はあなたを逮捕する為に来たではじゃなく、保護する為に来たんですから」と言った。
「えっ!?」ジェーンは、やっと顔を上げ、目をぱちくりさせながら若い警官を見た。
 警官はにっこりと笑っていた。どう見ても犯人を捕まえようとしている感じでは無い。
「ど、どう言う事?」ジェーンは、喉をしゃくり上げながら訊いた。
「ハハハ。どうも勘違いされているようですが、我々は、あなたとあなたの連れ合いのケイン・クランクと言う男性が事件を起こしたとは思っていません。どうかご安心を。我々があなた達を探していたのは、上の指示で、あなたが今後、危険な目にあわないようにする為に保護する事が目的だったんですから」
 ジェーンの目は、まだ点になったままだ。
「おや、信じられませんか?分かりました。それならもう少し待ってください。お友達が来るはずですから」そう警官が言った矢先、パトカーがすぐ近くに停まるのが見えた。
 パトカーのドアが開けられ思いもしなかった人物が降りてきた。
「ジェーン!」降りてきた女性が切羽詰った声で自分の名を呼んだ。会社の同僚の真理子だった。
 真理子は、ジェーンの所に駆けつけて、ジェーンの体をギュッと抱き締めた。
「良かった無事で!一体何があったのよ!?心配したんだから!」真理子が、行方知れずになっていた我が子にやっと出会えたように涙を流しながら言った。まるで母親に抱きしめられているように温かく柔らかい。体から緊張が抜けていった。生き返った思いだった。
 ジェーンは、やっと自分は救われたんだと感じ、自分の事をこんなに思ってくれる友達がいる事に嬉しさを感じながら、真理子をギュッと抱きしめ返し、「ごめんね。心配かけてごめんね」と子供のように泣いて言った。
 しばらくしてジェーンは、真理子に寄りそって、狭いビルとビルの隙間から出てきた。
 外は、もう日の光が辺りを照らし出していた。空には、さっきまでの不気味な暗雲は無く、夏が置き忘れていったような雲華(うんか)が泳いでいた。
 辺りには先程までの重苦しい空気とは違い、爽(さわ)やかな風が吹いていた。ジェーンには、それらがまるで危機を乗り切った自分を祝福してくれているように感じられた。
 こうして長い悪夢の一夜が終わった。
 話しによると、これから警察署で色々話を聞かれるらしい。ケインもロサンゼルスの警察署で待っているという事だった。
 真理子が近くの警官に声を掛けた。
「彼女、私の車に乗せていいかしら。今までのショックで疲れきっているようだから。少しでも安心させてやりたいのよ」
 警官はその提案にしばらく首を傾げていたが、「特別ですよ」と言って許してくれた。
「ありがとう」真理子が言い、ジェーンがほっとした。こんな気のきく友達を持って自分は幸せだと
った。
 ジェーンは、真理子の黒い車の助手席に乗って、二台のパトカーに前後を挟まれ誘導されながらロサンゼルスの警察署に向かった。
 ニ時間ほど真理子と談話しながら、真理子の車とパトカーは、街を抜け、人気の無い荒野の舗装道路を何事も無く進んで行った。
 パトカーが真理子の車から少し離れ、スペースを開けた時、真理子が信じられない事をした。
 いきなりハンドルを大きく切ると道を外れ、荒野の道なき道を猛スピードで走り出した。
 不意を突かれたパトカーは、すぐには反応できず、慌てた為か、真理子の車の前を走っていたパトカーは、急ブレーキをかけ、後ろにいたパトカーと激しくぶつかって、つんのめるようにして止まった。その隙に真理子の車は遥か遠くまで行ってしまった。
 その様子をジェーンは、バックウインドーから見た後、泡を食いながら、「な、何をしているの真理子!?」と信じられない思いで言った。
 しばらく真理子が黙った後、
「気付かなかったの?やつら安心させるような事言っておいて、あなたを捕まえようとしていたのよ」と言った。
 ジェーンは耳を疑った。それ程、信じられない言葉だったからだ。
「じゃ、じゃあ、ケインは?」ジェーンは、喉を詰まらせながら訊いた。
 真理子はジェーンを一瞥してから少し唇の端を上げ、「ケインなら大丈夫よ。容疑者はあくまであなたなんだから」と言った。
「私、何もやってないわよ!」ジェーンは、声を荒げて訴えた。
「分かっているわよ。第一動機が無いし、それに世界中の誰もがあなたが犯人だって言っても、私は信じないわ」真理子はそう言ったが、ジェーンの慰めにはならなかった。
 声の調子を変えて、「とりあえず今日の宿を確保する事が先決ね。あなたも水も何も無い車の中でずっといるのは嫌でしょう?」と淡々と真理子が言った。
 ジェーンは、再び重くなった体をシートに埋めて黙り込んでしまった。
 すれ違う人が全くいない荒野をニ時間半程走った後、一つの寂(さび)れたモーテルに着いた。こんな寂れたモーテルならまだ警察の手配が行き届いていないだろうと判断した為だった。
 ジェーンを車に残し、真理子がモーテルの中に入って行った。モーテルのオーナーと交渉(こうしょう)する為だ。
 しばらくして真理子がモーテルから出てきて、指でOKサインを出した。
 ジェーンは、車のドアを開け、重い足取りでモーテルに向かった。
 モーテルの中は、御世辞(おせじ)にも衛生的とは言えなかったが、文句を言っている場合では無い。
 ジェーンは、中で椅子に座り帳簿(ちょうぼ)に記入している無愛想なオーナーに会釈(えしゃく)をして、そそくさと真理子と連れ立って宿泊する部屋にドアを開け、入って行った。
 部屋の中にはツインベッドが備えてあった。
 真理子がどっとベッドに倒れ込むと、真理子の体がベッドの弾力で弾んだ。それを見てからジェーンは、そろそろと力なくベッドに腰を降ろした。
「これからどうしたらいいんだろう……」ジェーンが頭を抱えながら悲嘆に暮れて呟いた。
 しばらく沈黙があって、「元気出しなさいジェーン。そんな事じゃあ、解決する物も解決しなくなるわよ。まず前向きに気持ちがなってから考えましょう」と真理子が優しく諭(さと)した。
 それでも生返事を返すだけのジェーンに真理子は、「……そうだ!ジェーン、お腹減ってるでしょう?私が本場の日本の寿司を食べさせてあげるわよ。きっと寿司なら食欲のなさそうな今のジェーンにも食べられるわ。私なんかどんなに落ち込んでいても寿司だけはペロリと平らげてしまうもの。元気の元は食べ物からよ。ね?食べるでしょうジェーン?」とまくして言った。
 ジェーンは、顔を上げ、真理子の気遣いに笑顔を向け、「そうね。ありがとう。ご馳走になるわ」と答えた。考えてみれば昨日の夜から何も口にしていない。それに気付くと今まで忘れていた空腹感がひしひしと感じられた。
「じゃあ、私、買出しに行って来るから。二時間ほどしたら帰って来るから、それまでは我慢していてね」と真理子が嬉しそうに言った。
 その言葉にふと違和感を感じた。それを質問にしてみた。
「買出しに行くって何処に店があるか知っているの?」
 一瞬、黙った後、
「ちょっとここら辺の地理には詳しいの。そうじゃなきゃ、こう簡単にモーテルは見つからないわよ」と真理子は答えた。
 言われてみればそれもそうだ。ジェーンは、それ以上、何の疑問も持たず納得した。
 真理子がモーテルから出て行った後、ジェーンは、真理子が帰ってくるまで何をしていようかと考えていたが、すぐに答えは出た。まず疲れ切った心と体を癒そう。その為には寝るのが一番だ。考えてみれば、昨日からろくに寝ていない。
 ジェーンは、腕時計を見た。時刻は、午後一時三十八分を指していた。
 眩しい太陽の光が小窓からさし込み、部屋の中を照らし出している。
 ジェーンはベッドから立ち上がり、ブラインドを下ろした。これでゆっくり眠る事が出きる。
 ジェーンは、ベッドにうずくまり、柔らかいマクラに愛おしそうに顔を埋めた。
 ジェーンは、つかの間の安堵に微笑みを浮かべながら、もう眠りについていた。
 モーテルの薄汚れた壁時計が午後二時三十分を指した。
 ジェーン達の寝室にそっと忍び寄る影がある。その影の手には、太陽の光を反射して、鈍く光る刃物の影が映っていた。
 息を潜め、寝室のドアを開けて部屋の中に踏み込むと、音がしないようにドアを閉めた。
 目の前のベッドの上に、すやすやと眠るジェーンの姿がある。
 ジェーンを狙う何者かは、足を忍ばせジェーンのベッドの側に立った。頭に狙いをつけ、手に持ったナイフを振りかぶろうとした時、突然、けたたましい電話のベルの音が鳴った。
 ジェーンは、その音ではっと目を覚ました。そして目を疑った。目の前にナイフを今まさに自分に向かって突き立てようとしている真理子の姿が目に飛び込んできたからだ。
 ナイフが風を切り、勢いよく振り下ろされた。
 ジェーンは、悲鳴を上げる間もなく、反射的に頭を動かした。
 重い音が耳のすぐ側でした。視界の端で、ついさっきまで自分の頭があったマクラにナイフが深々と突き刺さっているのを捕らえた。
 ジェーンは、愕然(がくぜん)とした。真理子が凄い形相で自分を睨んでいる。その目は、総毛立つ程恐ろしい事に、ケインの時と同じように生気の無い剥き出しの白目になっていた。
 ジェーンは、考えるより先に激しい身の危険を感じ、反射的に真理子を突き飛ばそうと真理子の体を腕で押しやりながら、自分はベッドの上を転げまわった。そして真理子とは反対側のベッドの向こう側に転げ落ちた。
 ジェーンは、咄嗟に起きあがり、前を見た。
 真理子が荒々しくマクラに突き刺さっているナイフを引き抜いた。マクラに詰め込まれていた白い羽毛が宙に舞い上り、それが白い供花(きょうか)に見え、ジェーンは恐慌状態に陥った。
 極度の興奮で頭に血が登り、体が酔ったように熱い。心臓が早鐘のように脈打っていた。
 言葉がすぐに出てこない。やっと搾り出せた言葉は、「真理子どうしたの!?やめて!真理子!?」だった。
 正気とはとても思えない真理子が、凶器を手に、じりじりと自分の方に近寄ってくる。一足飛びで捕まりそうな距離しかない。
 真理子が唸りながら飛びついてきた。逃げる暇も無く、ジェーンは凄い力で腕を捕まれた。息詰まる恐怖がジェーンを襲った。真理子がナイフを大きく振り被った。ジェーンが信じられない思いで目を丸くした。
 ジェーンは、もう駄目だと恐怖に震え目を瞑った。
 激しい痛みが全身を襲うはずだった。
 しかし、しばらく経っても激痛は襲ってこない。腕を掴む物凄い力は、ひしひしと感じられるのに。
 恐怖と戸惑いで目を開けると、さらなる驚きがジェーンを襲った。
 何も無いモーテルの壁から真っ黒な腕が伸びていて、ナイフを持った真理子の腕をがっしりと掴んでいる。真理子はそれにあらがって、それでもジェーンにナイフを振り下ろそうともがいている。
 ジェーンには、理解不能だった。見ている物全てが理解不能だった。
 真理子の腕を掴む黒い腕は、雷に打たれドロドロに溶けたはずの黒い騎士の物だったのだ。
 ジェーンにとっては、何故こんな事になったのか、なぜ真理子がこんな事をするのかという事より、それが一番の衝撃だった。
 その衝撃にたたみ掛けるように黒い騎士が壁の中から全身を現した。そしてジェーンがさらに青ざめる事をした。
 腰の鞘からあの鋭利な剣をすばやく抜き払い、ジェーンが止める間も無く真理子の体を横になぎ払ったのだ。
 ジェーンは、窒息しそうなくらい驚いた。
 鮮血が飛び散ると思った。
 しかしそうはならなかった。
 真理子の体から、何度となくジェーンを襲ったあのモンスターが、弾かれたように抜け出たのだ。その体は奇声を発しながら、上下二つに分かれ、床に音もなく落ちると、気味悪く蠢いた。しばらくそれらが小刻みに痙攣した後、上半身だけが突然浮かび上がり、凄い速さで壁に向かって猛進した。しかしそれは、壁に辿りつく前に黒い騎士が投げつけた剣によって頭をい抜かれ、動きを止め床に力なく落下した。そして恐ろしい苦悶の唸り声を上げ、全身が泡立つと、やがて粘つくようなその泡は次々と破裂し、文字通りモンスターは泡と消えた。床に何の形跡も残さずに。
 ジェーンは、信じられないその光景をただ唖然として見つめるしかなかった。
 目の前の黒い騎士が血塗られたように赤く光る剣をさっと一振りした。一瞬で赤い刃が白く神秘的に輝く刃に手品のように早変わりし、騎士はその剣を流れる動作で鞘に収めた。
 ジェーンは赤い刃を見て震えた。それは真理子の血なのだろうか。
 ジェーンは、床にぐったりとうつ伏せになっている真理子の元へ、よろよろとした足取りで近づいた。
 真理子の背中に沈痛(ちんつう)な面持ちで視線を這わせる。
 ジェーンの中で、襲われた恐怖より友を思う心の方が勝(まさ)った。
 ジェーンは、目に涙を溜めながら、そろそろと手を真理子の背中に這わせた。
 てっきり背中が両断されていると思っていた。しかし服にも体にも刀傷どころか傷一つ付いていなかった。
 ジェーンは、安堵と一緒に、どうして!?と言う当然の疑問が湧いた。全く理解出来ない。確かに黒い騎士に切られたはずなのに。
 後ろを振り返ると、黒い騎士が少しも動じていない様子で腕を組んで立っていた。
 ジェーンは、思わず声を掛けた。
「どうして真理子はなんともなっていないの?それにあなたは死んだはずじゃ!?」
 黒い騎士は、すぐには答えなかったが、やがて噛み砕くような口調で驚きの言葉を口にした。
「君の友達は無事だ。安心していい。この剣は悪しき幽体しか切る事は出来ない。それに君が見た僕の死に様は、君が悪魔に見せられていた幻だ。それだけじゃない。君が今までに恐怖の中で体験したほとんどの出来事は、悪魔によって見せられていた幻だ。幻で君を殺す事は出来ない。だから幻覚の中で悪魔は君を追い詰めても君を殺すまでにはいたらなかった。悪魔が実質的に襲ってきたのは、今のとバスが襲って来た時の二回だけだ」
 ジェーンは、絶句し耳を疑った。あれが幻ですって!?
 とても信じられない。ジェーンは、少し皮肉を込めて言った。
「じゃあ。私が救世主だと言うのも嘘だったのね」
「それは違う。僕は君を迎えに来た」黒い騎士が即答した。
 ジェーンは、訝(いぶか)しながらも、「迎えに来たって何処へ?何をしに?」と訊き返した。
「君を救世主として覚醒させる為にさ」
 黒い騎士がまるで漫画のような事を言ったので、ジェーンは顔を顰(しか)めながら、
「何をバカな事言っているのよ!」と言った。
「バカなことじゃ無い。君も見ただろう悪魔の姿を。悪魔が君を執拗(しつよう)に殺そうと狙ってくるのは、君が唯一復活した悪魔達を地獄に封じ込め、悪魔王の復活を阻止出来る力を持っているからだ。そして僕は、救世主を全身全霊を賭けて守る存在だ。どうか僕を信じて力を貸してくれ。そうしなければ、この世は悪魔に乗っ取られ、人類は滅ぼされてしまうだろう」
 それを耳にしジェーンは思った。確かにこの騎士が悪魔と呼ぶモンスターが存在するのは認めざるを得ない。しかし後の部分はどうにも信じられない。この一見平和な世を破壊し、人類を滅ぼす物が核戦争や隕石ではなく悪魔だなんて。そして自分がそのモンスターに立ち向かえる力を持っているなんて。
「信じられないわ」ジェーンがきっぱりと言った。「何か証拠でもあるの?」ジェーンは、突き放そうとして付け加えたが、騎士は予想外に答えた。
「あるさ。君は御守り代わりに首にいつもペンダントを付けているはずだ。それを取り出して見てくれ」
 ジェーンは、何故そんな事知っているんだろうと思いながら、一緒に生み落とされたように物心ついた時から付けていた牙のようなペンダントを胸元から取り出した。そしてあっと息を飲んだ。
 いつもなら、エナメル質のように白く鈍く光っているペンダントが、いつの間にか海のように揺らめく青蒼(せいそう)に変わっている。今までに見た事も触れた事も無い物で出来ているようだ。
 ジェーンは、目を見張り、戸惑いながら、「い、いつすり変えたの?」と訊いた。
「それが本来の姿だ。それは、君を生まれた時から守ってきた守護石だ。そのペンダントの変化が君が救世主だと言う証しだ。そして、その変化は、未曾有の危機が迫っている事を意味している」と騎士が答えた。
 自分の親が、いつもこれを身につけていろと言い聞かせてきたのは、その為なの!?と言う思いが頭を過ぎった。同時に私の両親は一体何者だったのだろうと疑念が湧いてきた。しかしここまで来ると完全に信じない方に無理がある。
「わ、分かったわ。まだ完全じゃないけど信じる事にするわ。でもその前に答えて。私の両親は何でこのペンダントを持っていたの?」とジェーンは詰問調に尋ねた。
 少し答えるまでに間を置いてから騎士は言った。
「君のご両親には、君が生まれた時に我ら神教に入って貰った。その時に事の重大さを告げ、今、君が持っている守護石を渡したんだ」
「……そうなの。全然知らなかったわ」ジェーンは少しはがゆい思いで言った。どういう訳があるにせよ親に隠し事をされたまま死に別れてしまうのはなんとも居心地が悪い。
「それじゃあ、何で私に両親はその事を言わなかったの?」ジェーンは騎士に疑問をぶつけた。
「君のご両親なりに考えたんだろう。言うか言わないかは君のご両親に一存しておいた。本来ならこの時代に救世主は生まれるはずはなかったんだ。僕達も君は救世主としてではなく、普通の人間の人生を体験する為に、生まれてきたと思っていたんだ。でも救世主は悪霊に狙われやすい。だから万一の為にも守護石を渡し、僕達は君を見守ってきたんだ。だから君のご両親は君に余計な心配を与えないために伏せておいたんじゃないのかな」
 騎士が黒い仮面の口を開き、もごつかせるように言った。敵ではないととりあえず分かっていても、この世の物とは思えない物は見なれるまでに時間がかかりそうだ。
「それじゃあ、私は何をしたらいいの?」ジェーンは伏し目がちに訊いた。
 騎士は頷くと、
「まず君を救世主として覚醒させる事が出来るシャーマンに会いに行く。それから先は僕にも分からない。悪魔達が何処を通ってこの地上に出ているのか、悪魔王が何処から復活しようとしているのかは、まだ謎のままだ。その謎を解く事が出来るのは、救世主に覚醒した君だけだ」
 ジェーンは、黙って黒い騎士の話しを聞いていたが、やがて視線を真理子に向けると、
「真理子はこれからどうなるの?」と沈痛な面持ちで尋ねた。
「君を襲った記憶は失ったままで、やがて気を取り戻すはずだ」と騎士が答えた。
「そう……。良かった」ジェーンは、それを聞き安堵した。そんな残酷な記憶は永遠に失っていて欲しい。
「協力してくれるね」騎士が諭すように言った。
 ジェーンは、黙って頷いた。
 騎士の話しによると、自分はこれからある教会につれて行かれるという事だった。それも今からすぐに。
 ジェーンは騎士と相談し合って、真理子はモーテルに残して行く事にした。なるべく早く災いの種である自分から離れた方が真理子には安全だったからだ。他にも分かった事があった。自分達の事を警察は、警官が言った通り、逮捕する為ではなく、保護する為に探しているという事だ。真理子の言った事は、悪魔に乗っ取られていた為の狂言だったのだ。
 ジェーンはその時ほっとした。それならケインも無事だろう。
 騎士は、真理子は体を乗っ取られてからまだそれ程時間が経っていない内に霊剣で切られたので、乗っ取られた事による後遺症は残らないと断言した。
 ジェーンは、その言葉を医薬にして、一抹の不安を残しながらも真理子の黒い車に乗り、ハンドルを握った。
 真理子には悪いが今はどうしても車が必要だ。ジェーンは、心の中で真理子と神に懺悔(ざんげ)した。
 黒い騎士は、ジェーンが車に乗り込むと、初めてジェーンがこの騎士を見た時と同じようにして幽霊のように姿を消した。
 ジェーンは、姿の見えない黒い騎士の声に先導されて教会に向かって車を走らせて行く。
 教会のある行き先は、美しい海岸に恵まれた南国の海の街サンディエゴだと言う事だ。
 ジェーンは、こんな事情ではなく、ケインと二人で泳ぎに行くのならどんなに良いかと溜息をつき、遠い旅路の行き先を曇った目で見つめていた。

教会にて

 モーテルを発ってから五時間余り。やっとサンディエゴの街が見えてきた頃には、もう夕暮れ時だった。
 重みのある太陽が、西の水平線に沈んで行く。ジェーンの車は、それが真横に見える海岸沿いの道路を走っている。しかしその美しい風景をゆっくり見る時間は無かった。このまま海岸沿いを抜け、郊外の教会に今日中に辿り着かなければならない。
 ジェーンは、南国風の木々が歓迎するように立ち並んでいるのを恨めしく思いながら、疲れて痺(しび)れてきた足でアクセルを踏み込んでいた。もう少しで着くから、それまでの我慢だと自分を励(はげ)ましながら。
 途中、何度か車を停めて休んだが、黒い騎士は、充分足の疲れが取れるほど休ませてはくれなかった。今日中に着けと何度も言うのだ。その時、ジェーンは、厳しい教官だわと愚痴(ぐち)をこぼしたのだった。
 警察の検問には運良く引っ掛からなかった。手配されていると言っても自分は殺人を犯した訳でも無いし、新たに事件を起こす訳でもない。だから警察の方もしゃにむになって捕まえようとはしていないのかも知れない。まあ、そんなもんだろう。そうこう考えている内に車は海岸沿いを抜け、人気の少ない両脇に畑の広がるのんびりと続く広い道を走っていた。
 それから二時間ほど車を走らせていると、変わり映えのしない風景の奥に一風変わった物が見えてきた。辺りにはひょろりとした細い木々がまばらに生えているだけなのに、そこだけやけに青々とした木々が密集している。辺りの殺風景な様子と合わせて見ると、まるで偉大な英雄か何かを祭った巨大な森の墓標に思えてくる。そこは、丁度山裾(やますそ)にあり、バックの山の方まで深い森が続いているように見える。
「あれが目的の場所だ。あそこに教会はある」
 相変わらず姿を見せないままの黒い騎士の声が聞こえた。
 ジェーンは、目を細めて目を凝らしたが、騎士の言う教会らしき物は見当たらない。しかし近づけば分かるかも知れない。
 ハンドルを切ってメインストリートから外れ、幾分細くなった道路を目的地に向かって車を走らせて行く。
 ジェーンは、目的地のすぐ横に着くまで、どこに教会があるのか分からなかった。と言うより見えなかった。教会は、森の中に隠れるようにして建っていた。教会に続く森の入り口も目立たないように作られているようで、その入り口も道路の脇にたっている、こじんまりとしたプレートの
[教会]と言う文字に気付かなければ見過ごしている所だった。
 ジェーンは、車を森の入り口に少し入った所で停め、ドアを開け、車を降りた。地面は少しぬかるむ柔らかな土だ。森の独特の濃厚な臭いが鼻腔(びこう)をくすぐる。ジェーンは、深呼吸をして軽いストレッチをし、何時間も同じポーズで固まっていた体をほぐした。
 唐突に、目の前に黒い騎士の姿が幽霊のように現れた。ジェーンに一瞥をくれると、
「さあ、行こう」と促(うなが)した。
 ジェーンは、少しくらい休ませてよと思いながら仕方なく後を付いて行った。
 教会は、森の入り口から結構奥にあった。佇まいは、大きな鐘が、天辺(てっぺん)に吊り下がり、先端が槍のように尖(とが)った鐘楼(しょうろう)を中心に、肩の広い母屋が連なっている。歴史を感じさせる黒ずんだ白い壁は、ここの所続いた雨風のせいだろう、染みが幾つも付いている。しかしそれ程大きいと言うわけではない。極ありがちな教会だ。
 辺りはひっそりと静まり返っている。森の動物達は、もう冬眠に入ってしまったのだろうか、鳴き声一つ聞こえてこない。それに加え、辺りは急に暗くなってきている。聞こえるのは、何かが忍び寄るような木の葉が擦れ合わさる不気味な音だけだ。それに所々木がなぎ倒され地面が削られたように剥き出しになっている所がある。何だか気味が悪い。
 急に心細くなってきた。考えてみれば自分は今、異常な状況にいる。側には味方とはいえ、幽霊より考え様によっては恐ろしい者がいる。そう思うと寒気を感じた。
「どうした?」黒い騎士が、血の気の無い顔をしているジェーンに声を掛けた。
 ジェーンは、肩をびくつかせながら、「あなた、本当に味方よね?」と伺(うかが)った。
 黒い騎士は、「大丈夫だ。安心しろ」とだけ言った。黒い騎士が手を差し伸べ、「さあ、行くぞ」と言う。
 ジェーンは、観念し、その手を取った。
 教会の扉に続く短い階段を登り、木製の扉の前に着いた。
 ジェーンは、これから何をされるんだろうと胃が絞られる思いで騎士の動向(どうこう)を見つめていた。
 騎士が手を扉に押し当て、ゆっくりと扉を押し開けた。
 自分を覚醒させる為の何か凄いセットでもあるのかと思っていたら、中の様子は何のへんてつも無い教会と同じ物だった。
 安堵とともに、騙された!?と言う思いが頭を過ぎった。
 黒い騎士の後を付いて行き、中に入ると何か雨漏れのような規則正しい音が聞こえてきた。
 それに混じり、しわがれた祈りを捧(ささ)げる声が聞こえてくる。
「グリフ!何処だ!」黒い騎士が声を張り上げた。
 しばらく沈黙が続いた後、何処からとも無く、「よく来たな」と流暢(りゅうちょう)な声が聞こえた。そして、正面の祭壇の影から薄緑のフードを頭からすっぽりとかぶった優しい笑みを浮かべた老人が立ち上がり現れた。
「無事だったか。グリフ」騎士が安堵したような声を掛けた。黒い騎士が老人に向かい足早に近寄って行く。ジェーンもその後に付いて行った。
 どうやらこの二人は黒い騎士が車内で、「グリフは頼りになる奴だ。長い付き合いのある僕の親友でもある」と語ったように知己(ちき)の仲らしい。
「紹介しよう。グリフ神父だ」騎士が老人の数歩前で立ち止まり、すぐ後ろのジェーンに声を掛けた。
 この人が私を覚醒させるグリフ神父!?それにしても何だか神父には不釣合いな格好をしている、ジェーンの第一印象はそれだった。
 グリフ神父と呼ばれた者が、両手を広げ、「おお!ついに来てくれたか!神よ感謝します!」と喜びの声を上げ顔を輝かせた。そして、そのままジェーンに足早に向かってきた。
 ジェーンもアメリカ流の挨拶(あいさつ)に従って両手を広げ向かえ入れようとした。
 老人が包み込むようにジェーンの背中に手を廻す。その時、スパーク音が鳴り、老人が急に呻き声を上げ、後ろに吹っ飛んだ。同時に胸の辺りが熱くなっているのを感じ、胸を見てみると、胸元から青い光りが溢れ出している。
 ジェーンは、何が起こったか分からないまま驚いて老人を見て目を見張った。
 老人の手がドロドロに溶け出している。老人は苦悶の表情でうめいている。黙って見ていられない程苦しそうだ。ジェーンは、顔を引き攣らせ、「だ、大丈夫?」と老人に近づきかけた。その時、黒い騎士が慌てた様子で老人との間に割って入り、「近づくな!こいつはグリフじゃ無い!」と怒鳴った。そしてジェーンをいきなり抱き上げて、後ろに跳躍し老人との間合いをあけた。
 老人が何事も無かったようにすっくと立ち上がった。
「もう少しの所を!よく分かったな」怒ると同時に顔に不敵な笑みを浮かべて言った。
「どう言う事!?」ジェーンがうろたえながら騎士に訊く。
 騎士はジェーンを抱き上げたまま、「僕にも分からない。ただあいつは僕らの味方じゃない。それは守護石があいつを弾いた事が示している」と早口で言った。無理やり感情を押し殺しているのか、声が少し震えている。同時に胸元から溢れ出している熱い光りは、守護石が発している物だとジェーンは悟った。
「ククク・・・。バカめ!お前達は本当に愚かだな」冷ややかに老人が言う。
「グリフ神父はどうした?キサマが殺したのか!?」黒い騎士が剣を鞘から抜き払いながら声を張り上げた。
「ククク・・・」老人がさもおかしそうに笑った。老人の体が波打ち、悪夢のモンスターに様変わりした。
 ジェーンは絶句した。もう少しで殺される所だった。今更ながら実感した。
 悪魔が教会の奥を指で指し示した。その先にはキリスト像が張り付けにされた十字架がある。
「クク・・・。あのへぼ神父ならあそこにいる」そう言って悪魔は指先を曲げた。すると十字架がゆっくりと回りだした。表と裏が入れ替わり始める。
 十字架の裏側が露(あらわ)になった時、ジェーンはゾッとした。
 十字架の裏側には、丁度、表のキリスト像と同じように、悪魔が化けていた老人と全く同じ顔をした老人が、口から血を流して張り付けになっていたのだ。今までに聞こえていた雨漏れのような音は、口から滴り落ちる血の雫(しずく)の音だったのだ。
 下半身は無残に捻じ切られたように無くなっていて、巨大なミミズのような腸(はらわた)がだらんとぶら下がっている。
「ひ、酷い!」ジェーンは、口に手を当てうめいた。吐きそうだった。
 悪魔は声高らかに笑いながら、さらに心荒(すさ)む事をした。
 勢い良く悪魔の腕が伸び、槍の刃先のようになった腕が、グリフ神父の死体の腕を切断したのだ。切られた腕は重い音をさせ床に落ちた。さらに続けて悪魔は腸を切断し、それから徐々に胴体を下から切り刻んだ。最早残されているのは、頭部と太い杭(くい)で打ち付けられている片腕と僅かに残った胸部だけた。ジェーン達が止める間もなく、悪魔は首をはねた後、最後にぶら下がっていた腕を切り落とした。落ちた肉塊は、まるでゴミのように床の上に積み重なっている。
 もう十字架には、硬直し、大きく開かれた掌(てのひら)が、もがれた人形のように残っているだけだ。
 ジェーンは、恐怖ですくみ上がった。自分もああなっていたかも知れない。
 黒い騎士を見た。今にも飛び掛りそうな雰囲気(ふんいき)だ。
「だ、駄目よっ」ジェーンは、何故か、今、騎士が悪魔に飛び掛れば、この騎士まで殺されてしまうと感じ必死に声で制した。そのカンは当たってしまった。
 信者用の机の間にある道――つまり、ジェーンを抱いて黒い騎士が立っている所に敷き詰められた赤い絨毯の道が、凝固しかかった血液のようにゲル状になると、その液体が盛り上がるようにして新たな悪魔の形になった。それも一体では無い。ゴキブリのようにうじゃうじゃと出てきた。
 急に騎士の動きが止まった。顔を引き攣らせながらジェーンが騎士の足を見ると、大蛇の胴体のような物が騎士の足に巻き付いていた。
「ひっ!」とジェーンが悲鳴を上げ、騎士にしがみつくと、ジェーンに達する直前で騎士がそれを薙ぎ払った。粉雪のように切られた物が霧散する。
 息詰まりながら顔を上げ、さらに愕然とした。
 いつの間にか視界一杯に悪夢のモンスターが広がっている。数えるのも億劫な位の数だ。
 後ろを慌てて見ても、モンスターしか目に入らない。完全に囲まれている。逃げ場は最早ないように思える。恐怖で押し潰されそうだ。
「いいか、よく聞け」騎士がジェーンに囁(ささや)いた。
「僕がいいと言うまで目を瞑っていてくれ」続けて囁く。
 もう観念しろと言う事だろうか。ジェーンは、泣きそうになった。しかし、こんな時、出来る事と言ったら、自分より能力に優れた者を信じる事だけだ。ジェーンは、素直に従い目を固く閉ざした。
 すると、不意に、先ほどより胸の辺りが熱くなり、瞼越しに視界が真っ白に輝いた。続けて体が浮かび上がった感覚がして、顔に風の圧迫感を感じた。まるで猛スピードで宙を飛んでいる感じだ。
 突然、ガラスがけたたましく割れる音が耳元でして、重力が戻った。
 黒い騎士の許可が出る前に、ジェーンはそおっと目を開けた。
 信じられない事に自分達は教会の外に出ていた。
 一体どうやって!?魔法でも使ったのかと教会の方を見ると、教会のステンドグラスに大穴が開いていた。地面に目をやると、ステンドグラスの破片が辺り一帯に散乱している。
 あそこから出てきたの!?ようやく分かった。でもどうやって!?ジェーンは尋ねたが、今は時間が無い、後で説明すると騎士は言った。ジェーンも、今はそんな事態では無いと思い納得した。
 自分達が降りた場所は、丁度教会の入り口とは反対の方だった。車に戻るのは、余りいい考えとは思えない。それは騎士も同じようですぐに、「このまま奥の森に入り、悪魔の追撃を撒こう」と言った。
 ジェーンを抱き上げて、黒騎士は、教会の裏手の墓地を駆け抜け、その奥の深い森の中へと分け入った。
 騎士の走るスピードは、人一人抱きかかえているとは思えないほどだ。改めてこの騎士が人間では無いんだなと感じた。
 静かな森だ。まるで生き物が住んでいないような生気の感じられない森だった。ただ追っ手を撒くには好都合な見通しの悪い森だった。
 辺りは一条の光さえ通っていない暗闇で覆われている。腕時計の蛍光文字を見ると時刻はすでに八時三十分を指していた。辺りは草木も眠っているように静まり返り、身の縮まる孤独感さえ感じさせる。それに今夜は特に冷え込んでいる気がする。ジェーンは、暖を取る為に火を起こしても良いかと尋ねたが、そんな事をしたらここに自分達がいると教えているようなものと即座に却下(きゃっか)された。
 人の目では到底見通せない真っ暗な森の中、足場の悪さに何度も足を取られながらも、ジェーンは、騎士の腕から降ろされた後、手を騎士に取られながら何とか進んだ。どうやら騎士には辺りが見えているようだ。
 ジェーンは、ずっと抱き上げていてくれてもいいのにと愚痴をこぼしたが、いざと言う時、手がふさがっているのは却(かえ)って危険だと忠告された。そう言われては、しぶしぶ呑むしかない。
 しかしこう真っ暗では、悪魔達の姿が見えるより却って恐い。悪魔達が地面に潜む毒蛇のように、いつ自分達を襲ってくるのか分からない。何かすぐ側に既に潜んで機会を覗(うかが)っているように思える。その心を読んだように騎士が静かに言った。
「大丈夫だ。悪魔が近づいてくれば、僕は気配で分かる」
 しかしすぐに否定の疑問が頭に浮かんで、ジェーンは押し殺した声で尋ねた。
「でも、教会では分からなかったみたいじゃない?」
 痛い所を突かれたのか騎士はすぐには答えなかった。やがて、
「あれは僕のミスだ。すまない。もうあんなミスは冒さない。僕を信頼してくれ」と言いきった。
「どうして分からなかったの?」
 大事な事だ。ジェーンは、はっきりさせようと尋ねた。
「分かった話すよ。本来あそこには悪魔は入り込めないように強力な結界が張られていたんだ。その結界は我々が神教の者だと悪魔教の者達に気付かれないように、全ての気配を外部に漏れないように遮断している。しかし何らかの事情により、悪魔達に気付かれ、結界が破られたらしい。悪魔はシャーマンであるグリフを殺し、結界の作用を逆に利用して僕達を待ち伏せていたんだ。だから……」
 そこまで言って、騎士は言葉を詰まらせた。
 ジェーンは、一瞬聞くのをためらったが、今は言いにくい事でもちゃんと聞かせておいて欲しいと思い直し、「じゃあ、これからどうするの?もう私の出番はなくなったの?」とおずおずと尋ねた。何処かでほっとしながらも。
「これからどうするかは今考えている。しかし君を覚醒させる方法が完全に無くなった訳じゃない。ただそれには……」そこまで騎士が話した時、突然、悪魔が近くにいる時、何度も感じた胸が圧迫される重苦しい空気が圧し掛かった。
 騎士がジェーンを手元に引き寄せ、「しばらく静かにしていてくれ」と抑揚の無い声で言う。
 気配を消す為ジェーン達は立ち止まり、騎士が辺りの気配を探りだす。
 ジェーンは息を細くし、今、唯一頼れる騎士の手を強く握り締めた。
 見ていると噛み付いてきそうな暗闇に、ジェーンは目を固く瞑った。それからどれほどの時間が経過したか定かではないが、騎士に、「もう大丈夫だ」と声を掛けられ恐る恐る目を開けた。再び時間が凍りついたような暗闇が目の前を覆(おお)う。
 ジェーンは、早く光りのある場所に抜け出たいと思いながらも、とりあえず無事に悪夢の時間が過ぎ去った事に胸を撫で下ろした。
 ジェーンは、悪魔が去った後、騎士と共に歩を進めながら気になっている事を尋ねた。それは教会からどうやって脱出を計(はか)ったかと言う事だった。何の力が働いて無事に脱出出来たかは、ジェーンにも察(さっ)しはついていた。騎士の話しによると、思った通り守護石の力を使い悪魔をひるませた隙に脱出したと言う事だった。自分を守ってくれる御守りにはそんな力もあるのかと分かると騎士と同じように頼もしく思えた。
 それから又しばらく歩き続けると、遠くに、闇に滲むように青白く光る月明かりが見えた。
「光だわ!」ジェーンは小声で歓喜し、騎士にあそこに行って休みましょうと囁いた。騎士もそうだなと頷き、ジェーンは救われた気持ちでその光りに歩み寄った。
 その光りは蜃気楼のようにゆらゆらと揺れ、儚い光りを発していた。
 少し近づいて何か変だと感じた。
 月の光にしては輪郭(りんかく)がぼやけている。それに変に温かみのある光りに見える。
 それでも引き寄せられるようにその光りに歩み寄ると、だんだんとそれが月の光ではない事が分かってきた。
 ジェーンは、訝しがり歩みを止めてしばらく観察した。
 光りの輪郭がさらにぼやけ、不意にそれが輪郭のぼやけた人の形になった。ジェーンは、危機感を感じ騎士の様子を覗った。
 青白い光りを受け、微かに見える騎士の手は腰の鞘にまわっていた。何かあればこの騎士が守ってくれるはずだ。しかし騎士の取った行動は以外なものだった。
 腰から剣を抜かず、鞘に掛けていた手をゆっくりと降ろし、無防備な姿を晒(さら)した。まるでこちらには攻撃意志がないと相手に伝えるように。
 それを待っていたように、人型になった青白い光りは、地面を滑るようにしてジェーン達に向かって動き始めた。
 異様な光景に危機感を募らせ、騎士にどうして何もしないのよ!とジェーンが問いただそうとした時には、光りは間近に迫っていた。
 余りのすばやさに、ジェーンは腰を抜かしそうになったが、騎士が体に手を廻しそれを押しとどめた。
 今はもう自分の手が届く距離にぼやけた人型の光りが静止し浮かんでいる。
 未知との遭遇(そうぐう)のように感動的な出会いと言う感じではなかった。ジェーンは心底震えていた。
 しかしよく見ると光は案外小さい。まるで子供を光りでかたどった様だ。はっと思い当たった。これは子供の幽霊なのではないか。
 そう考えた瞬間、ぼやけた光が鏡に姿を映したように、はっきりと頭をうな垂れた子供の姿になった。
 ジェーンは、恐怖と共に目をしばたいた。何度瞬(まばた)きしても子供の姿にしか見えない。
 目の前の子供の姿をした光りが、ゆっくりと顔を上げた。
 その姿は、どこにでもいそうな幼い黒人少年に見える。顔にはどこか寂し気な笑みを浮かべている。その表情を見て心が少し弛(ゆる)んだ。一見そんなに害はないように感じさせられた。しかし油断は出来ない。相手は人間ではないのだ。ジェーンは、弛んだ心を引き締めた。
「君は誰だ?」騎士が、今までジェーンが恐怖に迷い口に出来なかった事を言葉にした。
 黒人少年の姿をした者は、にっこりと微笑み、「僕はサン・ブライアン。心配しないで。僕はグリフ神父に頼まれて迎えに来たんだ」と言った。何かその言い回しに誇らしさを感じさせる。
 ジェーンは黙って騎士と黒人少年の姿を見比べた。騎士は考え込んでいるようだ。
 何を考え込んでるの!?まさか、付いていく気なの!?そう思った瞬間、ジェーンは強い悪寒を感じた。
「分かった。君を信じるよ」騎士が穏やかに言った。ジェーンが呆気に取られた顔をする。
 黒人少年は、騎士の言葉に嬉しそうに声を弾ませ、「付いて来て。グリフ神父の所に案内してあげるよ」と言い地面を滑るように、今度はジェーン達が付いて行ける速さで前方に動き始めた。
 騎士はジェーンに、さあ行こうと促したが、未知への恐怖で体が硬直して動かない。どうしても足がすくんでしまう。大体ろくに相手の正体も説明して貰っていない状況で、相手を信じて付いて行けと言う方に無理がある。そう思っていたら、黒人少年が立ち止まり、振りかえって言った。
「恐がらなくてもいいよ。僕は幽霊だけど、幽霊の中にもちゃんと良い幽霊もいるんだからさ」
 その言葉を聞いて、ジェーンは安堵する所か、やっぱり幽霊なのと思い、涙を滲ませ我が身の不幸を嘆いた。
 静寂と闇に覆われた木々の間を抜け、騎士と黒人少年とジェーンは、歩調を一定に保ちながら目的地に向かってひたすら歩いた。しかし不公平にも汗をかいて、はあはあと喘(あえ)いでいるのはジェーンだけだ。
「ねえ。もう少しゆっくり歩きましょう」ジェーンが懇願(こんがん)するように言った時、「着いたよ」と黒人少年が前方から声を掛けた。
(え!?もう!?)と思いながら辺りを見渡しても、やはり辺りは真っ暗で見える物は何も無い。こんな時頼れるのは聴覚だ。ジェーンは、耳をそばだて辺りの様子を覗った。
 不思議な事に、ついさっきまで聞こえていたカサカサと木の葉が擦れ合う音が聞こえてこない。不安にかられ、つい握り締めていた騎士の手を離して、手の触覚で辺りを探ろうと数歩歩いた。
 手が湿り気を帯びた冷たくごつごつとした物に触れた。ビクッとして手を引っ込めて顔を顰(しか)めた。何今の!?ここは何処!?知らぬ間に崖縁に追いやられた気分だ。ジェーンが得たいの知れ無い物に囲まれていると思い、身を縮めて怯えていると、すぐ側でシュッと軽く何かが擦れる音がして、数歩先に一つの炎が灯った。
 辺りが温もりのある光りに包まれる。ジェーンは目を見張った。さっき火を灯すのは、敵に居場所を教えるようなものと言っていたではないか。それなのに……と思いながらも目は辺りの光景に自然といってしまう。
 目にした光景に、さらに目を見張った。自分が森の中と思っていた光景が、ごつごつとした岩で囲まれた洞窟の中にすり変わっている。岩肌は水分を含んでいるのか妖しげに炎の光を反射している。
 いつの間にこんな所に!?と目を丸くし唖然とした。まるで魔法に掛ったようだ。
 人魂のように宙に漂う炎の残像を視界に漂わせながら、前後左右に目を闇に慣れるまで凝らしたが、真っ暗で入り口らしき物は見えてこない。
「ここは何処?」誰に聞くとも無しに、ジェーンは呟いた。声が静かに反響する。
「ここは秘密の洞窟だよ」黒人少年のやや冗談めいた声が答えた。
 声のした方に目を向けると、騎士が片手に松明を掲げているのが目に映った。その側に問いに答えた黒人少年がにやつきながら立っている。余り居心地の良くない光景だった。
「ちゃんと答えてよ!ここが何処なのか説明して!」ジェーンが、非難めいた声で詰問し、声が洞窟内に木霊する。
 黒人少年が少し落ち込んだ顔をして俯(うつむ)くと、騎士が変わりに答えて言った。
「ここは、どうやら天然の地下道を利用した隠れ家らしい。敵味方問わずに、こんな洞窟を利用しているのは別に珍しい事じゃない」
「隠れ家なの!?ここが?じゃあ、ここが私を覚醒させるって言うグリフ神父のいる部屋なの!?余り良い趣味とは言えないわね……」
 意外にも騎士と黒人少年は、その言葉に声をそろえて笑った。
(何が可笑しいのよ)ジェーンは、何だか面白くない。
 やがて笑い声が治まり黒人少年が静かに言った。
「ううん。ここじゃないよ。グリフ神父が待っている部屋は、ちゃんとした部屋になってるよ。その部屋は、ここからずっと先で、ここは単なる入り口付近」
「こんな所じゃ何にも出来ないさ」騎士が口添えする。
 不意にブルブルと身の縮まる寒気がした。急に洞窟のひんやりとした湿った空気が身をちくちくと刺しているのを感じる。
 ジェーンは、手招きして騎士を呼んだ。しかし目的は騎士じゃなく松明で暖を取ることだ。
 それを私に持たせてと騎士に頼んで松明を手に取る。じんわりと体の芯まで染み入る温かさに強張っていた頬が弛(ゆる)んだ。
 一行は、水滴の滴り落ちる音だけが聞こえる静かな洞窟の中を迷わないように確認しながら進んで行った。時々ジェーンが足を休めて騎士の見つけた壁から染み出す清水を手に受けて飲み、水分を補給した。
 狭い範囲を照らすだけの照明としては心許ない松明の光りで足元を照らしながら、足場が悪く歩きにくい洞窟の中を随分(ずいぶん)歩いてきた。さっきから延々と続いている景色は、いつ果てるとも無い灰色の岩の壁だけだ。足も疲労で痺れ、いいかげん飽きてきてうんざりして来た時、前を行く騎士達の歩みが止まった。
「着いたよ」前方で少年の声がした。
 やった、着いた!と思いながら騎士の背中越しに前方を覗き見て、心臓が飛び跳ねた。
 自分達の数歩先の床に冷風が吹き上げる大穴が開いている。
「そこじゃないよ。こっちこっち」と黒人少年が可笑(おか)しそうに行き止まりの壁の遥か上を指差して言った。
 指の指す方向を仰ぎ見たが、自分にはどん詰まりの岩の壁にしか見えない。
 松明を壁にかざし、目を凝らすと何か宙にくねくねと動く細い物が見えた。
 一瞬、何を目にしているか分からなかったが、やがてそれが自分の一番苦手な物に見えだし、弾かれるように大声をだした。
「へ、蛇じゃないあれ!」
「違うよ。よく見て。あれは風に揺られているただのロープ」少年が冷めた口調で言う。
 何だ。びっくりした。ジェーンが冷や汗をかいていると、今度は騎士が冷や汗が吹き出るような事を言った。
「あれを伝って登るんだな?」
「うん、そう。その先にグリフ神父が待っているんだ」少年が淡々と言う。
(う、嘘でしょ……)ジェーンは家に帰りたい気分だった。
 騎士が床の大穴から吹き出す風を利用して、風に煽(あお)られ手元に寄ってきたロープを掴むと、半ば放心しているジェーンに握らせた。松明は、今は騎士の手に握られている。
「これを乗り越えたら一息つけるぞ!気を引き締めて行け」と騎士が言った。
 なんで私がこんな事を……嘆いても始まりそうに無かった。
 心と体が拒否反応を起こしたが、しかたなくロープを手に取った。何だか湿っいて滑りそうだ。しかし一つ救いがあった。ロープは等間隔で盛り上がった結び目があった。これに手足を掛ければ幾分楽に登れそうだ。とは言え自分は登山家でも恐れが欠落しているのでは無いかと思うロッククライマーでも無い。こんな経験は今までにした事が無い。果たして上手く登りきる事が出来るのか確信は無い。ロープに体を預(あず)けて地面から足を離せば、必然的に自分の体は大穴の開いた床の上で宙吊りになる。そうなった時、恐怖に耐え、上に進む事が出来るのか、はっきり大丈夫と断言できそうに無い。それにもしロープが切れたら……。
「ねえ。このロープ大丈夫?切れたりしない?もし落ちたらどうするの?」ジェーンは、騎士と少年に向かって訊いてみた。
「大丈夫。ロープはさっきグリフ神父が上から垂らした物だから」と少年が言い、騎士が落ちた時は自分が助けると言った。
 ジェーンは意を決し、「分かったわ」と自分に言い聞かせた。
 床から足を恐る恐る離した。引っ張られるように体がロープごと壁の方に向かって勢い良く宙を走る。あわや壁に激突するという所でロープと体は反対方向に戻った。ひやっとしたが恐いのはこれからだ。ジェーンは、慎重に腕を交互に上げ、真っ直ぐ上を見据えながらゆっくりと登って行った。下には獲物が落ちてくるのを大口を開けて大穴が待っている気がする。下の底抜けの闇を目にしたら、その瞬間に、目がくらんで降りるも登るも出来なくなりそうだ。
 上を見ても無情にも出口らしい光りは見えてこない。だが、今いる所が外に通じている事を証明する冷え込む風は体にはっきりと感じる。信じて登るしかない。
 何メートルか定かではないが、何事もなく進んで行った。しばらくして急に胸の辺りがぬるぬるした岩肌に擦(こす)れ出した。ひやっとする感触が脊髄(せきずい)を登る。
 同じような感触の岩の固いでっぱりに、上に差し出した手がぶつかった。暗闇で何も見えない為、手探りでロープの元を辿るとロープはそこで横に方向を変えているのが分かった。どうやら横穴にロープが導いているようだ。進むべき道は一つしかない。ジェーンは、ロープを強く握り横穴へともぐり込んだ。
 横穴は、横幅はあるが縦幅は這いずって進むしかない程狭い。ジェーンは、狭い通路に胸を圧迫されながらも文字通り必死に進んだ。やがて希望の光が見えてきた。地獄の中のオアシスと言う感じで、まだ小さなその光りを目指し、出来うる限りの速さで進んだ。
 微かな温かさが光りに近づくにつれ増してきた。そして、光りがどうやら出口らしいと分かり、出口の向こうの様子が、汗が入り、ぼやけた目で見える距離になると、どうやら出口の向こうから流れ込んでいるらしい温もりが体をいたわる様におし包み、薪(まき)がはぜるような音が出口の向こうから聞こえてきた。それは長い間忘れていたような人の居る温もりを如実に感じる物だった。何だか出口の向こうに童話にでてくるような木こりのおじいさんの部屋があって、そこで温かいシチューを手に、人の良いきこりのおじいさんが優しく向かえてくれそうなイメージが湧いた。何だか急にお腹が減ってきた。心なしか、鼻腔がとろける食べ物の良い匂いがする。
 唾液が喉を潤す。出口から、ちらちらと見えてきた赤い光りを目指し、手を伸ばし、出口の縁に手をかけた。ずいと体を押し出して出口から出たと思ったら、体は地に付かず肩透(かたす)かしを食らった感じで転げ落ちた。どうやら出口は割合高い所にあったらしい。
 落ちた時に打った頭を押さえて、(頭を打った所が岩より柔らかかった為、それ程痛くなかった)暖かな光の満ちている床の上に立った。ぎいと音がなり、足元を見ると、床は木の板張りだった。ジェーンの立っている所は、ジェーンの妄想通り、今は忘れられているゆったりとした時間が流れる童話に出てくるような小さな木製の小屋の中だった。
 部屋の中は、充分な暖が取れるほど温かい。正面に暖炉があり、誰かが住んでいるのを証明するように息づく炎が語り掛けてくるようだ。
 見まわすと、部屋の中央に素朴(そぼく)な感じの手作りを思わせる木で作られたテーブルと幾つかの対の椅子が置いてあった。
 テーブルには、何故だか、この小屋に似合いそうな、素朴だが、それでいて豪華な料理がテーブル狭しと並べられていた。ジェーンの目は輝いた。一際大きい生唾を飲み込む音が喉を鳴らした。子供の頃、断りも無しに小人の料理を平らげてしまう白雪姫の話しを読んで、なんて厚かましい女だろうと思ったが、それをする気持ちが良くわかった。ジェーンは、もうテーブルの料理にむしゃぶりついていた。
 しばらく夢中になって料理にかぶりついていたが、背後で、「もう、下品だなあ。見てられないよ」と言う聞きなれた少年の声がして、はっとして振り向くと、いつの間にか騎士と少年が部屋の中に立っていた。その言葉の趣旨(しゅし)に抗議しようとしたが、大きな肉の塊に齧りついている格好で言い返しても説得力に欠けると気付き、口をもごつかせながら、料理を手から直接テーブルの皿の上に置いた。なんと自分は今まで手掴みで料理を食べていた。これでは下品と言われてもしょうがない。ジェーンは頬を染め、「今の見なかった事にして」と冗談を言ってごまかした。
 騎士と少年は声を殺して笑っていた。特に少年は、今までで一番大きくにやついている。まるでいたずらが上手くいった子供のように。
 それを見てジェーンは、小憎らしさと共に、言い知れぬ親近感を騎士と幽霊少年に感じていた。
 何かが近づく気配がして、人が出入り出来る程の小屋のドアが軋みを立て、ゆっくりと開いた。秋も終わりの冷たい風が吹き込んできて、暖炉の炎を揺らした。時を刻むようにゆっくりとドアが閉まる。
「ファーザー!連れて来たよ!」少年が弾けるような声を掛ける。
 そこには包み込むような穏やかな笑みを湛えた老人がドアの前に立つ姿があった。
 服装はまさしく神父が着る物で、首には目が覚めるようなマリンブルーの十字架のネックレスを下げている。それは何故だか分からないが、自分の持つ御守りと同質の光りと生気溢れる揺らめきを映し出していた。かもしだす雰囲気は、子供の頃、クリスマスの日にプレゼントを携(たずさ)えて、ベッドの側でおどけて見せたサンタクロースの姿をした父親を連想させた。それでつい気が弛んだ。しかし次の瞬間血の気が引いた。顔が教会で見た張り付けにされていた死体と怪物が化けていた顔に寸分無く一致したからだ。ジェーンは、鳥肌が立つのを感じ身を引いた。
 騎士がすかさず言った。
「心配無い。今度は正真正銘グリフ神父だ」
(本当なの?)ジェーンはまじまじと神父を見た。
 少年と違って体から青白い光りを発する事もなく、体の色も形もあやふやな所は無い。一見普通の生きている人間に見える。

おつかれさま。ここで丁度半分です。続きが気になる方は、下記の郵便振替口座にて、ご入金下さい。
 定価は税込み130円です。尚、この小説の価格は予告なく良心的な範囲の価格で値上げする場合があります。
 こちらが入金を確認次第、こちらから電子メールとして続きをお送りいたしますので送料はいりません。又、郵便振替口座へのご入金と言う形式なので、クレジットカードは不要なので安心してお求めいただけます。
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 又ここまでの部分はクオリティーアップの為、予告無く変更する事があります。又誤字脱字があれば発見次第訂正し、ホームページに誤りを記載します。ご感想御待ちしています。
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