――話をしよう。それは起こってしまった悲劇。『ホロコースト』と呼ばれる男が生まれることになった暗い夜。






 彼は復讐者だった。笑うことを忘れ、安らぐことを忘れ、失われてしまったもののために、二度とは取り返しのつかぬもののために、ひたすらに夜を滅ぼさんかの如く滅魔の道を行く。右手のナイフを返り血で染め、左手の拳銃を己が血で濡らし、それでも小石の転がる音にさえ目を血走らせ武器向ける姿を『追われる者』と呼んだのは、仲間であり、そして彼に追い詰められた敵自身だった。
 あいつは馬鹿だと、昔を知るものは言った。『自業自得ってやつさ……愚か過ぎたんだよ、ただ』それだけ言って硝煙の匂いがする女は顔を背けた。よく笑う奴だったと、馴染みの酒場マスターは言う。山の丸太小屋の方が似合いそうなマスターは、太く毛深い指に白い薄布を被せ、硝子細工めいたグラスを次々に磨き上げながら過ぎ去りし日を謳う。――小金が入る度、女を引っ掛けてはこの世の春と大騒ぎする。今が全てで、明日は明日の全て。惚れ惚れするぐらい解かり易く、人生を楽しんでいた。ある朝、ベットで裸の女の隣に冷たくなっていても、笑っていそうな奴だったのに――
 もう、長いこと見ていないよ。そう言って、棚奥のキープボトルに掛けられたタグへと向けられた瞳は、大きく黒く、濡れたように静かに光っていた。
 ただの屑野郎だったと、吐き捨てる青年がいた。小狡くて、ろくでもない知恵だけあって、意味の無い笑顔と良く回る舌先だけで真っ当な人間の懐を漁る、牢屋にでも収まっているのが似合いの――そこまで言った青年の頬を、同じテーブルに座っていた妙齢の女性が張った。話の最初、いや彼の名前を聞いた時から目尻に涙を浮かべ、俯くだけだった彼女は、そんな人じゃない、と小さいがはっきりとした声で言った。立ち上がり、溢れ出る止め様のないものに体を震わせながら、あの人はそんな人じゃなかった。そう確かに言い切る。しかしそれが限界で、後は白い小さな両手で顔を覆い、わっとばかりに泣き崩れた。何かを言い返したそうであった青年も、泣かれた時点で諦めたらしく、忌々しそうに顔を歪めて、そっぽを睨む。その若者二人の袖を、それぞれ鏡に映したようにそっと指先で掴む二人の少女。泣いている女性の妹だという双子の彼女達は、髪の長短意外は造作の丸きり同じ端正な顔を、心細そうに等しく曇らせている。
 一人の女性が席を立った。青年の妹であり、三人姉妹の幼馴染だと自己紹介した彼女は、自分も言いたいことがあったろうに、短く活動的に刈られた頭を一振りすると、泣いている親友の両肩を抱き、耳元で言葉を掛ける。
 憂いを秘めた顔で、若者達を見守るのは、早くに夫を亡くし女手一つで娘三人を育てあげてきた、まだ肌に張りの残る母。青年の歳近い叔母が、『こらっ。そりゃあんたにも色々言いたいことはあるだろうけど、まず先にあの娘の気持ちを考えな!』と、小声で叱りつけながら彼の耳を引っ張る。
 色々言う人間がいて、その多くが女性で、さらにほとんどが様々な理由で顔を曇らせ彼を語ったが、『もう、面影すら残ってない。――昔はあんなんじゃなかったのに』

 その言葉だけは、一致していた。



 今だけを知る人間は滅ぼすべき吸血鬼達よりも彼の存在をおぞましげに口の端に上らせた。
『そりゃ色々いるよ、この世界には』
 彼より経歴は短いが、それでもこの業界ではベテランだと自称する男は指を振った。
『殺したり戦ったりしか出来ない奴、オカルトや宗教に脳が染まっている奴、勘違いしたまま飛び込んできて、そのまま浪漫に浸っていられる幸福な奴。金? ――そうだな、金や名誉ってのは、実のところあんまり無い。命の対価っていったって、一般人がはたける財布の中身なんてのは、たかが知れてるもんさ。村だの街だの会社だのも同じ。むしろそういう集団(れんちゅう)の方こそ、これからのことも考えなくちゃいけないからな。終わってからの生活も考慮に入れると、自然、謝礼も経費もしわくなる。
 まあ、それでもそこそこの金は用意されるもんなんだが――そうだな、あんた。幾らなら自分を売れる?』
 今の手取りとこれまでの実績、勤続年数や昇給の可能性をざっと粗算し始めた聞き手に、違う違うと手を振る。
『そうじゃない。むしろ身代金、いや交通事故の賠償金って考えた方が早いか。自分の命、いや最悪自分の死後の永遠も含めて――あんた今、即金で幾らぐらい積まれたなら自分を売り払える?』
 返ってくるのは沈黙という最も当然で懸命な答え。
『そんなもんさ。満足できる妥当な金額なんてありやしねぇ。実際、傭兵や殺し屋なんて連中の方が、まだマシさ。奴らはいきなり杭一本を渡されて、敵陣地を横断し、相手指揮官の命をとってこいなんて命令されないし、殺しにしたって好きな時に好きな方法を選ぶことができる。――何より、少なくとも、失敗したとても死ぬだけ。『お先に地獄へ』なんて気取ることはあっても、ホントに永遠、腐った家畜として死に続けるような目にあう奴はいねェ。
 ……ああ、悪い。話がそれたか。まあ、ついでに言っとくと、名誉は長続きしねぇ。公言すれば電波さんで、一人浸っていても結局形がない分、薄れてきた記憶や感動の部分なんかは自分の妄想で意固地に埋め続けるしかないわけで、結局遅かれ早かれ最後には電波さんになる。助かった連中からしてみればそりゃその時ゃ英雄サマだが、時間が経てば普段は吸血鬼の存在なんて、克服した、忘れてしまいたい悪夢に過ぎない。その、忘れたいのに忘れさせてくれない、最悪の象徴であり証拠が俺様タチってわけだ。――あっという間に、邪魔もんよ』
 しばらくの絶句の後、聞き手側の影からこぼれた本音は『ならばあなたは、何故』。
 自分の失言に気付き、慌てて『失敬、では彼は何故?』と言い直すその姿を、苦笑して男は見守る。
『そこだ。
 この業界、一番多いのは、抜けられなくなっちまった奴だ。
 先にあげた幾つかの理由の他にも、運が悪くて、巻き込まれて、仕事で、好奇心で、たまたま助手として。そんな風に何の偶然か、関わっちまう理由なら、その辺にもごろごろ在る。まあ、大半ぐらいは被害者やその家族だったりするんだが……
 ――で、一旦、不本意でも関わっちまった以上は、もう戻れねぇ。逃げるか、生き残るか。死んだり死に続けるのが嫌なら長い夜の間中、足掻いて、這いずり回るしかない。そうして何とか最悪の夜を乗り越え、生き延びた連中の中には……人型に穿たれた黒い闇を忘れられなくなってる奴が居るんだ』
 横を向いて、持ち上げたカップに口を添える。口を湿らせるために閉じたのは一瞬、彼は淀みなく身振り手振りを交え、話を続ける。
『恐いから――忘れられない。そういう現実もあるってことを知ってしまったから、そんなことは無いという、平和な日々に耐えられなくなる。夜、目を閉じて安らかに眠れなくなっちまったから、異常な夜に飛び込んで直視し続けるしかなくなる。――何も考えずに済むように!
 ……いや、無論そんな逃避的な奴ばかりじゃないさ。でも……似たようなもんかな。
 一度、映画の主人公みたいな生き死にを体験しちまったから、普段の人生が有っても無くてもいい群集(モブ)役くらいにしか感じられず、『何か』なんていう錯覚を感じたくて十字架を取る奴。
 代償行為ってのも結構居るな。――済んだことはやり直せない。ガキだって知っているはずなのに……解かっていても繰り返そうとする。
 生き延びちまったから。自分だけ、生き延びちまったから。役に立たなかったのに、結局、何も出来なかったのに。それでも生き残っちまったから。だから、助けられなかった犠牲者の代わりに他の誰かを助け、、自分を救って死んでしまった恩人の代わりに他の『奴』を殺して。自分の腸ん中でチロチロ燃えている黒いものを少しでも削ろうという、そんな……奴(ばか)。
 ――ん? いや、立派な行為なんかじゃねーよ。考えてもみな。そもそも誰が『死なせるため』に助けようとする? 仇でもないのに自分の命と引き換えに『生きてさらなる地獄を這いずり回』って欲しいと願う? 当ったり前のことだけどな。死にたくなかったのに助からなかった人々がいて、自分だけが生き残ってしまったというのなら、その生き残りがまずすべきことは『生きること』だ。『生きて幸せになる』ことだ。それだけで足りないってんのなら、他の人々が幸せになるよう手助けして、助かった自分はこれだけのことが出来るんだから、そんな自分に強い絆と機会――命をくれた彼等はもっと素晴らしくて、間違ってなんかなかっんだと、証明すること――つまり、『普通に生きて死ぬ』ことだ。決して。決して、自分のもやもやした糞みてェに収まりのつかねえもんのために、関係ないとこで奇声あげて銀の馬鹿豆ばら撒くことじゃねェ!!』
 何時の間にか身を乗り出していた己に気付き、男は情けない笑みを浮かべ、何かを鼻先で嘲笑った。
『……済まねぇ。ちと、興奮し過ぎた……
 ま。ともかく、復讐や代替行為で夜をいこうとする奴も居るが、そんなのは碌な奴じゃねぇ。大体はそのうち理由が建て前に変わり、自己満足な行為が結果から目的になる。何のルールにも縛られず、理性や倫理も黙らせて殺し合いに耽溺しようっんだから――碌な奴はいねえし、碌だった奴も、碌でもねぇ屑になる』
 薬やアルコールと同じさ、と彼はポツリと呟いた。
 では、彼は。そう、向けられた言葉に、力なく項垂れていた男の眼が上げられ、宙を見通す。
『あいつ…あいつか……』
 それはまるで、視線の先に、幻覚か何らかの蜃気楼が見えるとでもいうように。
『奴は……』溜息のような呼気の後に、今までとは温度の違う言葉が彼の口から漏れた。『異常だ』
 立てられた右人差し指がぐるぐると顔の横で回され、空気を撹拌する。やがてそれは音無くこめかみに添えられ、これまでとは一転し言葉を考え選びながら、彼は続ける。
『最初にも言ったが……俺は吸血鬼狩人としてベテランの部類に入る。古参や化け物じみた連中に比べればまだまだだが、そう名乗っても焼きを入れられたり馬鹿にされることは無い。こんなことを始めて五、六……いや、もう七年ほどになるか。それで年に一〜二回は吸血鬼を殺っているし、まだ死んでもいない。――いいか? 何人で徒党を組んでもいいし、どんな雑魚相手でもいい。年に一回ぐらいは吸血鬼を退治して、大体五年も続けて……それで狂いも逃げもせず、死にも死に続けもしていなければ、それはベテランなんだよこの世界じゃ。
 いや……狂ったり絶望したり、死んだような生き方をしている奴は結構いるか。それでも廃業を選択せず、まだ新しい玩具を注文できるような異常者がベテランだ』
 まともな奴ならそれまでに辞めるし、大概は死ぬ。不幸な一部は返り討ちにあって死に続けるんだがな、と誰かを思い出したかのように口を歪めて笑う。
『あいつは古参だ。俺が初めて吸血鬼なんてものの存在を知った時。腰を抜かしたまま『神』だか『糞』だか泣き喚きながら闇雲に前へと鉛豆ばらまいていた頃にはもう若いながら、ちょっとしたベテランぐらいにはなっていたと思う。名も、その筋の端っこぐらいじゃ、それなりに知られていたとはずだ。変り種の、馬鹿野郎様ってな。――今と大違いだろ? その頃にはまだ居なかったんだよ、薔薇十字の『ホロコースト』なんて奴は。
 ……その頃の奴に俺は会ったことが無い。だから、噂だ。俺が知っているのは全部。
 本当か嘘かも解からない。どれだけ誇張されていて、どこまでがジョークなのかもはっきりしない。それどころか、本当に奴のことなのかどうかも――』
 今の、を知っている俺としては、全部性質の悪い冗談にしか思えないが。そう呟き、
『ただ、確かにあの頃聞いた話は、今言われているのとほとんど違わなかったよ』
 懐かしんでる連中が、面白おかしく誇張している訳じゃない。少なくとも、当時から奴の変わってしまう前の評判はああだった、と締めくくる。
『大物、有名どころは最初から狙わず、相手にせず。基本的に他人とは組もうとしない――まあ、これは今と同じか。で、アレだ。ああ。
 ……まあ、そこの所に関しては、どこまで本当なのかは知らないし、出来れば知りたくなんぞ無いってのが本音だな。
 それでも、少なくとも確実に仕事はしたし――生き残って次の仕事の話も聞くってことは、この世界でそういうことだ――噂通りなら、例え真実が八割でも救いがたい馬鹿だが、まあ吸血鬼なんてものが幅を利かせて居る所には、それぐらいの馬鹿で丁度いいと思うぜ。恐怖と絶望で何も出来なくなっている連中に前向きな発破かけるなら、あの噂ぐらいの大馬鹿でないと。
 ああ、下種だとか、状況を理解出来ていない反応物質って罵りも、勿論当時からかなりあった。っていうか、半分以上それだな。けど、卑怯者の脅迫者だとか、パック処理(吸血鬼と一緒に)した方が良い屑だとか、回覧状作ってきっちり粛清しちまおうなんて話は、不思議と出なかったはずだ。それはだから、多分、無茶苦茶だが、無体無道はしなかったってことだろうな。何だかんだ言って、奴は奴なりの美学というか信念に殉じていたみたいだし、それに……いや俺には理解できないんだが、何を考えてたんだか、あいつ、話を聞く分にはどうも本当の本気だったみたいなんだよ。――そう、あんなことをした理由も、あんなことをするその瞬間も大真面目に、全部。
 ――だから一層救いよう無く性質が悪ぃってのは、解かってるから言わないでくれ。多分それは人類普遍の真理の一つだ。
 恨まれるが呪われはしない、自覚や客観的な理解が根元から欠けている大馬鹿野郎。そんなもんだったんじゃないかね。状況が異常だし、規模も桁違いだが、やってることだけなら似たような奴は、その辺にだって居るさ。
 それに同業者として、そんな馬鹿でも手放しで褒めてやって良い点が一つある。
 ――皆で助かって幸せになる。最初っからそのつもりで、見切ったり諦めたりするだけの知恵も働かさず、終いには当然の結果として最後までやりとげちまう。正直、凄ェ。
 この仕事じゃ、な。どんな悪夢めいた状況でも絶対に諦めないのが、生き残るための絶対条件だが、同時にはなっから何一つ残らず諦め切っていることも肝要なんだ。
 ……よく解からねぇか?
 恐い、死にたくねぇ。そんな風に真っ当に怯えていれば、竦んで吸血鬼の前に立つことさえ出来ねぇ。だからまず、自分を諦める。
 戦えるようになるために、傷つくことを諦める。死んでしまわないように、生き残ることを諦める。最悪の事態にならないよう、無事に済むことを諦める。非常識を目の前から消し去るため、常識や当り前の世界ってのを諦める。
 そうやって全部無くして裏返して。引っかかり無く、新品の玩具みたいに体が軽く動くようになったら、次は身の回りのものを一つずつ諦める。吸血鬼との実戦の最中に他人なんて気に掛けてたら、命が幾つあったって足りやしねぇ。だから、他人の存在を諦める。人に限らず、物事に犠牲なんてつきもんだ。だから、助けるべき或いは殺すべき優先順位の一番意外は、二番も三番も足して残り全部も人も家も物も、例え差し引きマイナスが出たって仕方ねぇと諦める。標的にされた被害者が、間に合わず人間止めちまうこともある。仕方ねぇって諦める。操られて動く盾になる奴もいる。吸血鬼(れんちゅう)相手にこの次なんてぬるいものはない。仕方ねぇって諦める。フォローしてくれる頼りになる仲間、財産処分してまで娘を助けてくれってすがってきた家族、優しく声を掛けてくれる人の善い連中。全部、突くには格好の弱点だ。だから、仕方ねぇって諦める』
 とうとつと語っていた男は、そうして微笑みの形に顔の表皮を動かした。それは、この瞬間も、微笑みかけている眼前の相手も、全部全部『仕方ねぇ』と告げていた。
『な、正気の沙汰じゃなかろ? まあ吸血鬼なんて化け物相手に弱っちい人間様が物理法則にも近い優劣をひっくり返そうと思えば、打つ手を全部どころか打てない手まで打つぐらいが必要なんだよ。だから言ってるんだ。――奴は凄ぇ、ってな。
 皆で絶対生き残るっていう強く難しい信念。それを鼻歌歌って腰振って、当り前ぐらいにしか考えてなかったんじゃないか。しかも実現してやがる。そういう、そこまでの馬鹿なら――ああ、そうか。そんな風にどいつもこいつも考えてたのかもな――この業界、居るのを許してやってもいい』
 やってもいい、だなんて何様のつもりなんだか、と囁くように独り言ちる。
 そのまましばらく、余韻に浸るように黙って苦笑していた顔から、やがてある一瞬を境に、静かに温度が引いていく。『ああ、そうか』。先程とは全く違った空っぽの木霊が虚ろに響いた。
『……だからあんなにまで気持ち悪いのか、今の奴は。
 最初に訊いてきたよな、『彼は何故』って。
 それについちゃ俺も聞いてみたことがねぇ。だから知らないんだが、昔の奴なら多分愛とか正義とか、そういうもんのために、戦ってたんじゃないか? 色んな意味で頭痛のする想像だけどよ。
 で、今は――』
 抜けられなくなっちまったのさ。
 一番凡庸だと言っていた理由を口にした。
『……途中で眼の色が変わる。おかしい話じゃ無い。どんな慣れた奴だって、毎回毎回殺し合っていることには変わりがない。依頼人、犠牲者。同じ肩書きでも、全部違う人間なんだ。そう、何かを体験して変わっちまってもおかしくはない』
 だが、奴は。
『あんまり大きな声で言いたくは無いが、奴以外にだって忌まわしい奴は出る。これが、思う存分ぼったくれて好き勝手にお山の大将気取れる仕事だって気付いちまう馬鹿。吸血鬼に魅せられて、探して捜してついに『理想の御主人様』を見つけちまうのもいれば、逆の方向に魅せられたせいで、他の人間を狩りの餌ぐらいにしか扱えなくなっちまう奴もいる。前からずっと折れかけちまってたもんが、何かの拍子にポーンと飛んで、吸血鬼と人間の区別がつかなくなっちまうの、そして疲れてある日ふと『あっち側』になっちまうの……』
 奴は――
『言ったよな、奴は凄ぇって。凄い、馬鹿だって。
 月も無い血塗れの真っ黒な夜の中で誰もが手放しちまう『前向きな当り前』を、当り前だからって普通に両手で握り締めてやがる。なら、ならよ――そいつがその当り前のまんま、変わらず『抜けられなくなっちまった』ら……』
 忌まわしい。
『誰より化け物じみてるのに、誰より人間らしさを持っていて』
 忌まわしい。
『人間なんて買い直しのきく使い捨ての道具みたいな眼で、誰も見捨てず一人残らず助けて』
 忌まわしい。
『背を任せるどころか同じ部屋で隣に座ることも許さないくせに、どうあっても人と深いところまで関わることを止めず』
 忌まわしい。
『屍体の蠢く内臓を掻き出した手で、子供の淹れてくれたお茶を飲み』
 忌まわしい。
『自分の敵じゃないって理解しているのに、理解していて、殺し尽くすまで止まる気がなくて』
 忌まわしい。
『復讐に狂ってる片手で、突然普通に人生を楽しもうなんて言い出して』
 忌まわしい。
『誰よりも狂ってるのに、誰よりもまともで、でもそこは、立って掘り返しているそこは地獄の最下層も同じで狂ってない方がおかしくてならやっぱりそんな場所で普通に笑っている奴は狂っているのかと言えばそうでもなく、』
 間違いなく、誰よりも狂っている。
 それでいて、どこにでもある普通。
『――自分達の中では絶対に両立し得ないはずの、片方だけでも想像を絶するような両極端が、矛盾することなく一人の人間の形で、歩き、えぐり、殺して、照れる。
 そんなモノを目の前で見せ付けられるんだ。これも、ありえるんだ、と』
 間違っているのは、お前達の自覚の方だと。あれと、これに、違いなんて無い。其処と、此処に、差なんて無い。お前と、『あちら側』に、壁なんて無い。お前と、私に、断絶なんて無い。世界のどこにも一線なんて引かれていないのだと。
『奴自身は言わない。だが、あいつを目にする度、誰かが俺達の中で静かに囁くんだ』
 だから、奴は、誰よりも。吸血鬼よりも忌まわしい――
『……知ってるか? 奴はまだ自分が帰れると思ってるんだ。
 あれだけ殺しておいて、これからも殺し続けるつもりで、でもそれでも何時か日常に――ああ、いやあんたらの日常じゃない。奴が今みたいに変わっちまう前の日常、そんなところに何時か戻れるなんて、本気で信じてるんだよ。

 世界(存在する吸血鬼)の半分を殺せば――自分はやっと落ち着ける。

 ……本当さ。奴は確かにそう言った。それだけの狂気に浸されながら、心の底からそう信じている。抜けられなくなっちまったあいつは、抜けるために、何時か戻るために、進んでもっと深い所へと潜るんだ。『ホロコースト』なんて呼ばれてもなお』
 ――本当にそんな日が来ると、あなたは思うか?
 そう問われて、ナイン(否)とは告げず、答えを断言することを拒むように、男は顔を歪める。
『……今だってよ、止まればな。立ち止まって一歩でも踵を返せば、すぐにでも戻れるんだ。けど……そういうことが出来なくなっちまうから、抜けられなくなったっていうのさ』
 変わってしまったあの晩から。
 ――奴は未だ明けぬ絶望の夜に囚われ続けている。






 その日から彼の鶏は夜明けを告げず、独りきりであの時に繋がった暗い冥い夜の道を影を引きずり彷徨っているというのならば、起こり過ぎた悲劇は夢のように取り留めもなく語るこそが相応しかろう。






 巡り合わせだ。それを運命と呼んでもいい。余程犠牲者が追い詰められていたとか、たまたま彼が適任だったとか、他に手頃な吸血狩人が居なかったとか、納得できる合理的な理由は幾つもあるのかもしれない。不思議と呼ぶには不可思議が足りな過ぎる。しかし、それでもやはり、それは運命だったのだ。
 さもなくば。少しでも長くこの世界に足を浸した仲介屋が、その依頼を彼に回すなんて馬鹿極まったことをしたはずが無い。



 寝台の上に横たわる一絞りの純白の花の蕾。十と幾つの歳を数え、いよいよ綻び始めようかという春の中、しかし彼女が身に漂わせているのは、腐り落ちる寸前の萎れた枯花のくすんだ淡さ。
「――市長さんからお借りした十字架の御蔭で、このところ……アレが夜に忍び来ることは防げています。ですからもうそろそろ起き上がれるほどには回復してもいいはずなんですが……」
 今度は、心が病み疲れ果ててしまったのだと。案内してきた彼女の母親が言う。
 その俯きがちな顔へと、うなじできつく束ねられた黒髪からほつれこぼれたしだれ髪が落ち掛かっている。払うだけの気力も無いのか、憔悴しきった顔色は優れないが、それでも床の上の娘に比べれば、まだ生命力と呼べるものが彼女にはあった。
 少しずつ、少しずつ、その命を啜られる。朝に起きられなくなり、容易く目が眩むようになり、誰が見ても解るほどその頬がこけてきて、なお当人に自覚が無い。むしろ夜を心待ちにし、熱に浮かされたように己が御主人様を呼び、目だけを大きく輝かせて、喰われていくことの素晴らしさを恍惚と語る。
 そこに何とか脆くとも防波堤を築き、一時的に彼女を『こちら側』へと引き戻した訳だが、となると次に待ち受けるのは『現実』だ。憑きものが落ち、躁が消え、やがて落ち着いてものが考えられるまで体力が戻ってくれば、嫌でも現在進行中の状況と、明日へと延期されただけの未来について思いを馳せねばならなくなる。
 ――誰が、生きたまま貪り尽くされるその最期の瞬間まで、正気を保っていたいと思うだろう。
 何故戻した、と少女は母を責めたかも知れない。いや、むしろそんな風に詰っていたとしたなら、まだ良かった。怒りは命を燃やし、辛い現実から目を背けての誤魔化しは、何時か立ち向かうその時まで、力蓄えることを彼女に許す。
 だが、そうしなかったというのなら――少女という茎の細い花は、当り前の如く現実や運命といった重石に折れ伏せる。
 部屋の中心で伏せたまま空気一つ動かさず。そこからは既に命というものが断たれている。突然、入ってきた母親と見知らぬ男が自分のことについて語っているというのに、反応一つ見せない。眠っているのではない証拠に、寝台に横たわる彼女の両の瞳は、青く、乾いた硝子のように宙へと合わぬ焦点が向けられている。
 既に、薄く纏ったネグリジェは屍衣。その身に被せられた清潔なシーツは遺体を包む白布に過ぎない。なら、其処に横たわっている彼女は当然のこと、ただの死人だ。
 娘をどうか救ってやってくださいと、母親が声を絞り出す。まだこの娘は、大人にもなっていないのに、と。その娘とは、先程この若い男を廊下の角から窺っていた、さらに幼い双子の少女のことではあるまい。では、この寝台の上に横たわる彼女のことか? この女性は、既に死んでいる少女を救えと彼に言うのか?
 ――とりあえず空気を入れ替えましょうか、と男は言った。
 言うなり、動く。自分の悲痛な訴えを一言余さず受け止めていた男の、気軽な反応に、母親はその豊かな唇を閉じることさえ忘れ呆けた。
 ガラス窓の向う側を拒むように閉め切られていた白い薄紗の窓帳が、左右へと一気に押し広げられた。思わぬ眩しさに目を細めていると、小さく錠の音が響き、開け放たれた窓から湿った雑草や雑多な街の――生きている世界の息吹に溢れた猥雑な風が緩やかに滑り込み、彼女達の辛気臭げな鼻っ面をはたいた。
 呆然としている家人を背後に、なおも男ははきはき動く。窓際に吊り下げられていた幾多の呪いもの――聖別された十字架から、束ねられた大蒜、魚網といった民間伝承の類まで――の中から目に付いた辛気臭そうな代物をぶちぶち千切り始めた。
「ああ、これはですね――」心配そうな夫人の視線に気付いたか、反対の手にお洒落な小袋を乗せ、差し出した。「薔薇を始めとした薬草、香草の類を乾燥させて詰め合わせ作った匂い袋(ポプリ)です。胸が軽くなるような良い香りがしますし、実際健康にもいいんですよ? 害虫除けの効果もありますし、ついでに変な吸血鬼除けにもなります」
 ほら、どうぞと夫人に手渡し、上着のポケットから新しいのを取り出すと、嗅いで御覧と何時の間にか身を起こし同じく呆然としていた少女の手に押し込め、更にどこからとも無く取り出した三つ目を、部屋のインテリアらしく何度か迷った末に、窓枠の端へと吊るす。
「大蒜も効果はありますけどね。けど」
 実際のところ、女の子の部屋に吊るしておくような代物じゃありません。
 そう言って、むしったものをぽいと窓外へと捨てる。
「ああ、すっきりした」
 気持ち良く笑う。確かに怯えながら効果も解らず積み上げた呪物の壁は、そのほとんどが姿を消し、開け放たれた窓からほのかな花の香りを纏い入ってくる新鮮な風、洗濯物を思い出す澄んだ陽光。長く忘れていたそれらは、ほんのしばらく前まで一日の朝を気持ち良く飾っていた世界からの贈り物。
「こんな天気が良い日に、閉め切った部屋に居ちゃ、辛気臭くなるだけですよ。
 若い女性がそれじゃいけません」
 微笑みに目を細め、窓際で大きく深呼吸。全身で日差しを浴びながら、リラックスした様子で、ね? と小首を傾げ同意を求める。
 ああ、これが吸血狩人。
 夫人は唐突に理解する。藁にもすがるような気持ちで、亡夫の残してくれたものにも手をつけ、怪しげなつてを頼って呼んだ『悪夢の殺し屋』。だが、実際に来た人間は凄みの欠片も無い細身の優男で、その手に取り付くかたわら、心の一角では常に疑念が渦巻いていた。本当に、こんな若い男が頼りになるのか、と。
 だが。昼間とはいえ吸血鬼が跋扈する街の、狙われている寝室の開け放たれた窓際に、こうも気軽に佇める男。異常の中に日常という別の異常を持ち込める男。
 これが、『悪夢の殺し屋』。
 ――確かに。悪夢を滅ぼすというのなら。それはお呪いでも良い夢でもなく、当り前のものとしてやがてくる、明け来る朝こそ相応しかろう。
 一方、当の男の方はというと、畏怖や感慨は得られても残念ながら期待していた『そうですね。じゃあ、お茶の用意をしましょう』といった同意を得られず、一瞬、どう続けようかと悩む。それも、寝台上の彼女と目が合うまでの一瞬。女性の顔を見た瞬間、何も深く考えることなく、彼は運命の如く滑らかに跪き、彼女の手を取る。
「初めまして、レディ。私はこうしてお会いするために、あなたのために遠くからこの街へとやって参りました」
 何時の間に手を取られたのだろうと、そんなことをぼんやり考えながら、娘は青年の心地よい声に小さな頭を傾ける。
 ――そういえば幾日前からか、枕元で神父様やお母さんが何かを言っていたような気がする。興味も何も無かったので、水音のように反応せず聞き流していたが、あれは確か、そう、何と言ったか……
「……吸血……鬼……狩人?」
 久々に出した声は無残にも罅割れていた。それでもどこか、俯いていた花がもう一度、顔を上げようとする、その声に。
「違います」
「――え?」
 即答で返され、彼女は年頃の娘らしい声をあげる。
 青年は静かな自信をたたえた微笑みのまま、彼女の青い瞳を見つめ返す。
「私がここへ来た理由は一つ、あなたの可愛らしい笑顔を取り戻すためだけですよ、レディ」
 飾ったものではない、自然な声。
「そのために、気持ち良く寝られるよう、愉快なお話をたくさんしましょう。部屋の掃除もしますし、美味しいお茶だって淹れて御覧にいれます。この季節、散歩も良いですし、皆さんとピクニックに行くのも素晴らしいものですよ。それでも足りないのなら、余り得意ではありませんが、子守唄だって歌いましょう。お姫様の御所望とあらば、道化ともなって絵本だってお読みしましょう。――ああ、ついでに吸血鬼が邪魔なようなら、それも潰しておきますよ」
 吸血鬼。その言葉に、彼女の身の中で揺らぐように燃え出した命の火が、再び凍る。
 自分は誰よりあの闇の恐ろしさを知っている。
「――無理よ」そう、未だ囚われたままのこの自分こそが誰よりも。「神父さまも街の人達も、遠くから来たっていう偉い人だって何も出来なかったもの」
 それを、恨みはすまい。彼等は自分のために頑張ってくれたのだ。なら、その無力に感謝こそすれ、結果だけで測るまい。
 せめてもの想いを胸に、再び自分の殻に籠もろうとする彼女の鼻先を、花の妖精がくすぐった。
「――古来、香水には魔を退け、心を安らかにし、病を防ぐ効果があると言われています」宝石のように澄んだ輝きを見せる小さな硝子瓶を器用にも片手で開け、指先に振った雫で彼女の頬をなぞる。途端、少女の周りを立ち込めた香りが包んだ。「何より。遥か昔から、これはあなたのような綺麗なレディを飾るためにあるのです」
 小瓶を、まだポプリを持ったままの手へと一緒に握らせると、しばし浮かべた学究の徒の如き眼差しを、誠実ではあってももっと軽い先程までのそれに戻し、続ける。
「神父様達のことは仕方ありませんよ。神父様はコックさんじゃありませんし、コックさんは神父様じゃありません」
 また、不思議なことを言う。小首を傾げる少女が促すまでも無く、青年はとうとうと。
「私は神父様のようにありがたい聖書のお話なんて出来ませんし、レストランなんかを始めた日には、一週間でメニューを食べ尽くしたお客さんが去ってしまいます。同じように、神父様を食堂の厨房に押し込んでも、コックさんに日曜の礼拝を任せても、余り上手くいかないだろうというのは解りますよね?」
 頷く。
「やっているお仕事が違うのですから、それは仕方がないことです。
 神父様やコックさんの代わりが私に勤まらないように、他の人々が私の仕事を行えなくても、それが普通なんですよ」
「仕事っていうのは……」
「先程から何度も繰り返している通り『あなたに笑顔を』ですよ、レディ」
 こればかりは譲れませんとでも言いたげな満面の自信に溢れた笑顔。
「でも、吸血鬼が」
「神父様のお仕事は説法だけではありません。コックさんは料理だけを作っていれば良いというものでもありません。それぞれ疎かには出来ないものですが、大切なお仕事の一部に過ぎないものなのです」
 そして私の場合、と少女の捧げ持った手を掲げる。
「『あなたが再び、笑えるように』。それが、私の誇るべき仕事です。
 ――吸血鬼の存在など、枝葉末節。しかしあなたの笑顔の邪魔になるというのなら、灰になるまで打ち滅ぼして御覧にいれましょう。これまで何度と繰り返してきたように」
 絶対ではなく、当然の自信。それはプロフェッショナルにのみ許された貌。
 ふと少女は自分の片手が話の最初からずっと、男の逞しい手に支えられたままだと今更えだが気付く。精気のなかった指先に、何時の間にか暖かい温もりが移ってきていた。
「どうしました?」
 不意に顔を赤らめ、薄いネグリジェの胸元までシーツを引き上げた少女の様子に、何か失礼があったろうかと、男は首を傾げる。
 それでも、決して力ずくで握られているわけではない指先を何故だか取り返すことが出来ず、少女はますます赤くなり、清潔なシーツへと無言で顔を埋めた。



 赤かった。その女は紅蓮のように赤かった。
 その赤は炎の赤。触れる全てを燃やし上げる。
 その赤は憎悪の赤。理不尽を砕き尽くす正当なる怒りの赤。
 その赤は命の赤。巡る力の証、零れ落ちる情熱の陽炎。
 その赤は夕焼けの赤。戻らぬ郷愁を纏い、されどそれに浸ることを許さず。
 その赤は朝焼けの赤。一瞬の幻想、誰にも知られず、世界に夜明けを告げ。
 その赤は葡萄酒の赤。濃くたゆたい、夜に芳香と酩酊をもたらす濡れた唇。
 その赤は返り血の赤。私に触れたくば命差し出せと、笑いながら誘う悪魔。
 その赤は火打石(フリント)の赤。――火打石は赤くないなどと言うならば、もう一歩だけ彼女に近付いてみるといい。体臭のように彼女が身に纏う、硝煙の匂いに気が付くだろう。ならば――火打石が赤くない道理など、この世には無い。
 赤の体現者。その存在に相応しく、豊かな赤髪を波打たせ、真紅に色づけた爪で老人の胸倉を掴み上げ、彼女はがっくんがっくん前後に揺すった。
「正気かい! あんたこの仕事をあの馬鹿に廻したってェ!!」
 余りの勢いに、ぶら下げられた老人はオウオウオウオウと声にもならぬ鳴き声をあげる。半泣きになった男が彼女の腕にすがりついた。
「止めてくれ! 義父さんはこの前、風呂場で転んでから耳が遠くなってるんだっ!」
「それが何の関係があるっ」
 なおも猛る彼女の腕を、吊るし上げられている当の老人が叩く。揺さぶるのを止め、間近に寄せられた野獣の瞳に怯むことなく、口を動かす。
「――で?」
「うむ……いやの、丁度身が空いていて近場に居る腕の良い人間ということで、偶々奴が目についての」
「で?」
「じゃから奴に依頼した」
 再び紅蓮の赤が燃え上がる!
「ああ、止めて下さい。義父さんがっ、義父さんがっ」
「だからって、こんな環境の仕事を奴に廻したのか。あのっ」猛るまま、赤の叫びが世界を震わす。「――女の敵に!!」



 やがて夜が訪れる。
 明けぬ夜が無いように、幾ら拒もうとも漆黒の帳は死にも似た平等さで万物を覆い尽くす。
 昼間、心配していてくれた家族や幼馴染達と久々に笑い合い、果物ジュースとスープを少し摂ったところで、睡魔が来た。もう長く、床に就くことはあっても、本当の意味で安らぐことなどありはしなかった。
『ゆっくり休めばいい』次々と他愛ない雑談を強請る少女の、そのまま無防備に夕を超え夜を迎えることへの拭い切れない恐怖を見て取ったか、男は枕元の椅子上から優しく言って聞かせた。『大丈夫、ずっとここで手を握っていてあげるから』
 そこまで子供じゃありません、眠いなんて言った覚えはないです、……その、恥ずかしいに決まってます、変態みたいじゃないですか、――もう、出て行ってください。
 立て続けにあまり一貫性の無い言葉を男に浴びせたが、相手はいちいち反応はしつつも、腰を上げようとはせず微笑んでいるだけ。その頑とした態度に安心したか、何時の間にか少女は小さく寝息を立てていた。
 次に彼女が目を覚ましたのは、半ば以上本能の成せる技だった。音を立てぬよう注意されていたというのに、窓枠の鳴らす音、カーテンの走る音。長く怯え続けてきた音に、少女自身それと気付かぬまま夢すら見ていなかった深い場所から覚醒する。
 反射的に顔を巡らせれば、閉め切られた窓のこちら、まだ茜を残し透かすカーテンを背に、少し失敗したという表情で男が立っていた。
「少し寒くなってきたからね……起すつもりも、約束を破るつもりもなかったんだけど……」
 ごめん、と呟く。
 時計を見れば、あれから数時間しか経っていない。だが、少女の気分は一晩寝た後のようにすっきりとしていた。
 ついでにと厚手のカーテンもひき、枕元へと戻ってきた男の差し出した暖かい珈琲を受け取り、両手で包み込むようにして啜っている。  
「――あの」
「ん?」
「お母さん達は……」
 夕暮れにしてはしんと静まり返った家の様子に、耳を傾けつつ少女は問う。
「ああ……しばらく前に教会へと移って貰いました。私が来たことで、相手がどう出てくるか解りませんから」
 ま、初日からいきなりどうこうはないでしょうけどね、と続ける。
「夕食の支度はしていって下さいましたから、温め直して後で一緒に食べましょう」
 小さく頷き、少女は再びカップに口をつける。
 時間を掛け、ゆっくりゆっくりと味わい、黒色の向うに透けた底が見える頃になって、男の方へと顔を向け笑う。
「……悪い子だなぁって思いながら、ちょっとは憧れていたんです」
「なにを?」
「起きたままベットの上で、異性から手渡された珈琲を当然のように飲むことに」
「それはそれは。――で、ご感想は?」
「うーん、あんまり良くないです」
 と、力なく笑う少女の率直な意見。
「魅力とか砂糖とか、甘さが足りませんでしたかねぇ」
「あ、いえ、そんなことはありません」
 子供のように項垂れる男の様子に、慌てて手を振る。
「あ、あのあなたが悪いってわけじゃなくて、映画みたいじゃないっていうか、今、私こんなんですしっ。甘苦い珈琲を味わっているというより、病」
 病院で末期の患者が、それでも差し出された薬を啜るように。
 こぼしかけた言葉を慌てて飲み込む。
 気付かれなかったろうか。上目遣いに少女が窺うと、真摯にこちらを見つめる男の黒い瞳と合った。
「君の魅力に問題はありません。生きていて傷付かない人間などいませんが、瑕疵でさえ己を輝かすカッティングに変えてしまえるのが、良い女性というものです」
 そしてあなたは充分素敵ですよ。微笑みかけられ、慣れぬ言葉に赤らめた顔を、今度は別の意味で少女は伏せる。
「しかし、そうすると――フム、足りないのは魅力以外……映画のようではない、と……」
 男は少女を見つめたまま、何かを考える。
 そこで彼女は自分が何を言っていたか、ようやく気付いた。誰も家族が居ない家に、二人きりという確認。ベットの上から、更に誘うような発言。
 視線に身を竦める彼女に対し、男性は真面目な顔で確かめるように、問う。
「――淹れたてでないと駄目ですか」
 ……はい?
 口を半開きにした少女の無言の問いに、正面から男の視線が絡み、つついとそのまま引っ張るように横へ。つられて動かした少女の目線の先に、サイドボード上の大きな水筒が映った。
 よくよく見れば、自分の皿までついた珈琲カップとは違い、彼の手の中にあるのはピクニックの食事を思わせる、大きな水筒の蓋コップ。全身、爪先まで彼らしさに満ちて統一されているというのに、そこだけ微妙に似合っていなくも無いというか、なんというかその佇まいが真摯であればあるほど――浮いている。
 やがてどちらかともなく肩を震わせ、堪えられなくなった笑いが堰を切って溢れ出す。
「あははははっ、何を」
「――それとも豆に拘りが? モカマタリなんて名前じゃ許せないと?」
「な、名前なんですか、私の拘ってそうなところって」
「さて? レディの心中は推し量るものであって暴き立てるものではありませんから」
 ついでに、と神に宣するが如く胸に手を当て、一転真面目くさった顔で。
「正直、モカマタリかどうか、私は存じません。――珈琲豆なんてブラックとインスタントとついでにエスプレッソの区別さえつけばいいんです」
「それ無茶苦茶――ははっ――そもそも豆のことじゃないですって――」
「おっとっと」
 ベットの上、体をくの字に折って声をあげる少女の手から、男性がカップを取り上げる。
 思いがけず、体臭が届きそうな程、相手が間近に迫ったことで、少女の硬直が元に戻る。
 尻すぼみになっていく笑い声とは対照に、はしゃいでいた残滓が荒い吐息となって自分の耳に届く。何故か、体をそれ以上離そうとしていなかった男が、静かに顔を寄せ、耳元で囁いた。
「無理に笑わなくても大丈夫ですよ」
「――え」
 そうして身を引く男を、少女は見上げる。取り上げた皿とカップをサイドボードに戻し、優しく微笑む。
「夜が近付くのが恐いのでしょう? 吸血鬼なんて変態を恐がるのは普通ですし、来るかどうかも解らない、来たとしても何をやる気か解らない。なら、はっきりしない分、恐怖は簡単に倍になります。
 だから――どうせ解らないなら、楽しみに待ちなさい」
 自信を持って断言する。
「変態がくれば、嫌でもあなたの騎士である私とやりあうことになります。
 ――だから、その時を楽しみにしていなさい。この、自信に満ち溢れた、酒場の喧嘩すら避けそうな優男が、どれほどのものか。女性を守るついでに吸血鬼を張り倒すことを生業としている吸血鬼狩人(プロフェッショナル)が如何ほどのものか。あなたの夜を脅かしていた変態が、ただの血を吸う変質者に過ぎないことを、私が証明して御覧にいれます」
 浮かべるは、戦いと、そして勝利を知る戦士の貌。
「信じる必要はありません。ただ、期待していて下さい。
 幾つもの夜に身を投じ、幾人もの女性を守ると近い、邪魔な吸血鬼をことごとく滅ぼして、今、私はここに居ます。無数の誓いを果たし、無数の敵を打ち滅ぼした私が――」
 床に片膝をつき、そっと取った少女の白い手の甲に、誓いの接吻を捧げる。
「――今宵から、あなた一人に誓いを捧げ、あなた一人の騎士となりましょう」
 静寂の中。
 少女は“肯”とも“否”とも答えられず。どう応えればいいのか解らないままに、下からこちらを仰ぎ見る男の、むしろ自分こそが全てを受け入れようとしている、その黒く深い瞳を見て。
 ――どちらでもなく、ただ黙って自分も受け入れればいいのだと知った。
 眉尻を緩やかに落とし、小さく少女が顎を引く。それだけで、既に勝利を果たしたかのように男は破顔した。
 軽くなった空気の中、二人は話す。途中、食事へと移り、少女が久し振りにシャワーを浴びた後は、再び部屋でとりとめの無い話を弾ませた。
 何時しか彼女は横になり、ベットの端に腰掛けた男が、面白おかしく自分達の『活躍』を語る。時はゆっくりと深更へ手を掛け、されど夜がそれ以上、暗く淀む気配は無い。
 確かめたわけでも気を抜いたわけでもないが、それでも今宵は大丈夫だろうとの確信が、二人には芽生えていた。
「そんな風に覚悟を決めたら、いきなり目の前で、パンッ! 呆然としていたら、携帯に着信がありましてね。さっきの『気に食わないから、帰る』ってのを言って実行しちゃった赤いのから。『今、ホテルのスイートルームで就寝前のブランデーティーを飲んでるんだけど、ライフルのスコープ越しに見物してたら、当りそうだったから撃った』
 ……こっちが廃教会跡で血塗れになりながらナイフを振り回しているときに、優雅ガウン姿のまま紅茶を片手に飲んで。酒が入っているのに、キロ近い狙撃を、しかも夜で格闘中の片方は友人だって言うのに。
 『礼も報酬もいらないよ、気紛れだから』
 ……つまり私は報酬どころか礼も出ないような気紛れで殺されかけた訳なんだなーと思うと、しみじみ常識とか良識の大切さが身に染みて。
 正直、この非常識な世界から足を洗いたいって、初めてその時、思いましたよ。……原因の非常識が、吸血鬼じゃなくて顔見知りの同業者ってのが、悲し過ぎましたけど」
 身振り手振りも控え目。それ故に、他の話よりこの一件の真実味が増す。
「ふふっ――凄いお友達もいるんですね」
「友達なんかじゃありません、絶対に」
 男の子供めいた否定に、少女の笑いが深まる。
「あなたは銃は使わないんですか?」
「持ってはいますけど、あまり、ね。当らないし、当らないから直ぐ弾切れになる」
「ああ、成程。――その辺り、さっきの赤い人はなんて?」
「……へたくそ」
 口を尖らせそっぽを向く男の様子に、少女は声をあげて笑う。その屈託の無い声に仏頂面をさらしていたが、突然、何を思ったか悪戯めいた笑みを浮かべる。
「ああ、良く使う銃なら一丁ありますよ。吸血鬼退治じゃ抜群の効果を持つお守りです。もっとも――あなたに使うだけの勇気があるかどうか」
「……私が使うんですか?」
 にやり、と男の片頬が上がった。
「吸血鬼の食事は私達のそれと大きく違います。人間なら食事を抜くこともありますし、好きなメニューが無ければ他のものを注文したり、別の店に移ったりします。でも、吸血鬼が輸血パックや犬の血で我慢したり、一啜りで次々別の人をとっかえひっかえ襲うなんて話、聞きませんよね?」
 意地悪く囁く男に、こくりとベットの中の少女は頷く。
「連中は血を吸われることで生まれ、血を吸うことで仲間を作り出します。言ってみれば食事だけでなくて、誕生、繁殖、出産、そして人としての死。――他との交流、趣味、嗜好、習慣、仕事、ライフワーク……そういった自己を成り立たせるほとんど全てを、吸血行為に託しています。吸血鬼、それはその名の通り、血を吸うことだけが全ての存在なのです」
 少女の怯えを楽しむかのように男は続ける。
「だから奴らは、一度これと選んだ相手を執拗に狙い続けます。その結果、例えば狩人に阻まれて、諦めてなくては滅びると解っていても、それでも連中には逃げるという考えが浮かびません。他にもまた、血の一啜りで吸血鬼としても異常な回復力を見せたりします。
 血こそ全て。連中が処女や童貞の血を好むという話を聞いたことがあるでしょう? それは霊的に穢れてないからかも知れませんし、似非科学的に味が違うのかもしれません。ただそれが、老人や肌の荒れている大人に比べて、なんとなく美味しそうだからという程度の理由だったとしても――奴らはとことん執念じみて拘ります」
 きつくシーツの端を握り締める少女に覆い被さるようにして、だから、と。
「――処女じゃなくなるというのも、そこそこに有効な手段なんです」
 ハ、と。少女の思考が止まる。一転、朗らかな笑顔で男は言葉の結果が出るのを待つ。
「え、えっ、そそれって……」
「ええ。そういう銃です」
 紅潮してゆく少女の顔を楽しんで眺めながら、『結構効果はあるんですよ』と追い討ちを掛けてゆく。『誰かに抱きしめて貰って、肌の温かさを知れば安心できますし、度胸だってつきます』などと。
「――どうします? この銃を使ってみますか?」
「あ、あのわたしぃ!?」
 低く滑らかな囁きを、吐息のかかりそうな間近から浴びせられて、少女は鼻先までをシーツに隠し、うろたえる。その様子をしばらく楽しんだ後、男は優しくその頭を叩いた。
「無理に試してみる必要なんて無いんですよ。銃を使わなくったって、私はあなたを守って見せます。――そう、約束したんですから」
 大丈夫です。何度もそう伝えてきた笑みを浮かべる。
 そのまま離れようとした男の袖が、何かに引っかかった。見れば、目だけ出した少女の片方の指先が、シーツごと男の袖端を握り込んでいた。
 どうしましたと問う様に首を傾げると、ますます赤くなってシーツの奥に潜り込みながら、一層きつく布地を掴む。
「……使っちゃ駄目なんですか?」
「そうですね」しばし、男は考えるというより確かめるように沈黙を重ね。「あなたを守る、と誓いました。だから――」
 ――銃を使うのは、あなたではなく私が。
 ゆっくりと影がシーツの上へと降りていった。



 お母さんの様子が変だ。食卓でスプーンの先を咥えたまま、少女は朝食の用意をする母の姿をじっと目で追う。
 手伝おうとしても、まだ疲れがあるだろうからと許してくれない。――それは、ここしばらくいつものこと。
 妹達に顔を洗ってくるよう急かす声に、どことなく弾むものがある。――お母さんらしいし、喜ぶべきことだ。
 朝食のメニューが、昨日のスープにスライスしたパン、ハム、サラダ。果物に新鮮なミルク、そして今作っているプレーンオムレツと、充分ではあるが、珍しく寝坊した朝のように、手早く時間を掛けないもので統一されている。――昨晩はあの人の怪我の手当てを遅くまで手伝っていたみたいだから、仕方ないのかもしれない。
 珍しく化粧が丁寧で、結わえ上げられ生え際があらわになったうなじや、つややかな肌、
濡れた目元や鮮やかな唇の色に、娘ながらちょっとどきどきする。――寝不足だとしたら、それをお化粧で隠そうとするのは当然だし、ましてや今はお客さんが居るのだ。お母さんだって女性なんだし、お父さんが死んじゃってもう大分経つ。
 うん、別に変なことじゃない。……はずだ。
 少女はスプーンを咥えたまま、自分に言い聞かせる。
「おはよう、お姉ちゃん」
「はよっ、姉」
 妹達が元気に椅子を引く。挨拶を返しながら、視線だけは母へ。そう、気のせいだ。いつも通りといえばいつも通りの、変わったことなど別段無い、ありふれた朝の光景――
「この大皿はもう持っていっていいんですね?」
「はい。お願いします」
 見詰め合い、母と男が長年連れ添った夫婦のように理解し合った笑みを交わす。昨晩までは手伝おうとする男に、これぐらいは任せてくださいと、頑として譲らなかったはずの母。
 ふと二人の指先が触れ合うが、特に慌てたりもせず、はにかんだ表情を母は浮かべるだけ。
「……むー」
 少女が齧るスプーンは金属の味がした。



 成程、と男は理解した。強い弱いではないのだ。
 一見、気が強いように見える双子の姉は、それでもやっぱり歳相応の女の子で、ただ『妹を守る』或いは『姉らしく』を自分に課し、もう一歩進むための勇気にしている。
 大人しげな妹の方も、そんなもう一人のことをちゃんと理解しているのだろう。信じ、言うことははっきりと言いながら、それでも側に居ることでしっかり姉を支えている。
 どちらも相手にすがっている訳ではない。共に、いるのだ。
「きゃっ」
「こ、こらっ。――まずは私が先だって言っただろ!」
 こみ上げてきたものに、たまらず男は双子を抱き締めた。まだ若いというより幼いに近い、なめらかな肌の二人の体が、若魚のように男の腕の中で暴れる。その華奢な肢体を同じく一糸纏わぬ肌で感じながら、優しく二人の顔にキスを落とす。
「あ……」
「ん……」
 途端、おとなしくなった少女達の頭を、何度も何度も落ち着くまで撫でる。男と目を合わせるのは恥ずかしい。かといって、俯こうものならもっと恥ずかしいものが目に入る。双子達は男の胸にそれぞれ片頬を預けたまま、斜め中空へと視線を逃がすしかなかった。
「可愛いな、二人とも」棒のように細く白い二人の片手が、互いに相手の二の腕を握り締めていることに気付き、男は優しく語り掛ける。「本当に。こんなに可愛いんだから、大丈夫、うんと優しくしてあげよう」姉の耳たぶを甘噛みし、妹の顎下を子猫のようにくすぐる。
 脇下を掻き、横腹を指先でなぞる。途端、くすぐりだし、先程とは別の理由で暴れ出す少女二人。
 顔に出さず、男は少女達の恐怖が薄れてきたことを確かめる。
 双子の姉としてではなく、妹としてではなく。そして、双子の姉として、妹として。
 固く細くすぼまっている二輪の蕾を、言葉で、吐息で、目で、指で、舌で。自分の持てる全てを用い、全身全霊愛情を込め、ゆっくりとほぐしに掛かった。



「畜生!!」
 罵りながら横顔へと廻し打ちされてきた肘を流す。それから一歩踏み込めば終わるものを、男はあえて間合いの外へと引いた。
 格闘技の癖はみえないが、青年は大分、喧嘩慣れしているらしい。
 だが、それだけだ。
 ――ここでもし、男に何かあれば、幼馴染の少女を吸血鬼から守るものは居なくなる。頭に血が上っているせいで、そこまでは考えられなくなっていたとしても、連日化け物と殺り合っている人間の化け物を相手にしない程度の本能的な恐怖は残っているはず。
 ――では、何故ここまで喰らい付いてくる?
 拳を弾いた手で、続く蹴りも叩き落す。
 幼馴染ではあっても、恋人同士ではなかったはず。それは、しっかり確かめてある。親しい家族の窮状に付け込み――無論、自分自身はそんなつもりは無いが――ことごとく毒牙で彼女達を蹂躙したインチキ詐欺師とでも勘違いしたか? それとも実は少女に長の片思いであった――
 いや、それでも足りない。腑に、落ちない。
 考えるより先に殺し合うことも多い男にとって、首を捻る片手間に素人の攻撃を捌くことは容易い領域に属した。次第に乱れてくる拳を透かし、大振りの一撃を余裕を持ってかわす。
 それを機に青年もいったん離れはしたが、荒い息の下、目だけは炯々と男を睨みつけ離さない。
「――まで」
 ふと、聞こえた言葉に、男の眉が小さく寄る。
「あいつだけじゃなく、姉貴までエェェェェッ!!」
 再び殴り掛かってきた青年の叫びに、ようやく男は合点がいった。歳若い叔母のことを青年がそう呼んでいるのは、何度か聞いた。姉弟のようにも見えたが、本当の姉弟でない分、そこに大切な初恋の記憶や、憧れのようなものがあったのかもしれない。相手が幼馴染だろうと叔母だろうと、それらをまとめて汚されれば、逆恨みが加速もしよう。
 ――昨晩のことを思い出す。大分遊んでいるようにも見え、本人もそのつもりで振舞っていたが、意外な事態に見せるあのうぶな反応は、親しくなった人間をさらに深く引きつける魅力になるだろう。昔からの仲良い友人だという少女の母親が背後から絡んできたときのうろたえようを思い出し、ほんの一瞬、男の唇の端に笑みが浮かぶ。
 それにも気付かず、衝動のまま拳を振り上げた青年の胸を、カウンターが重く穿つ。何かに皹入るのを感じながら、呼吸もままならず青年が崩れ落ちた。
「――起きなさい」
 顔近くで響く砂利音。その音を立てた靴裏の遥か上から、吸血鬼狩人が青年を見下ろす。
「遊び半分にいい加減な気持ちで、私は彼女達を抱いたわけではありません。
 立ちなさい。気に入らないというなら、その想いがどこまで本物か、ここで私に見せてみなさい。
 ――そのことごとくを砕き、彼女達が選んだのがどれほどの男か、私は証明してあげます」



 獣のように暴れる少女。いや、人とて所詮は獣の一種に過ぎない。
「やれやれ……」
 拘束具の鎖が響く地下室の中、男が溜息を吐く。床に転がされているのは、あの少女の幼馴染み。先日殴り掛かってきた兄よりも、時に苛烈に男を貫いていた視線は、今や知性の無い獣の敵意に輝いている。
「ま、予想はしていましたが――」
 両手は黒革で肘までを一つに巻き纏められ、カットジーンズから伸びる両足は広げたまま、一本の棒の両端にそれぞれ固定されている。舌を噛まぬよう、噛まされた轡の奥から、涎と唸り声が次々とこぼれ垂れる。
「備えあれば憂いなし、ですか」
 そう言いながら、実に不本意だという顔付きで男は首を左右に振った。
 他にも頑丈な黒革紐が張りのある彼女の肢体を締め上げ、手首と首輪から伸びる二筋の太い銀の鎖が、地に差し込まれた杭へと少女を繋ぎ止めている。
 自分の流儀が即断即決戦で無い以上、こうなる可能性も大いに予測は出来ていた。どうも彼女はこちらの行状に含むところがあり、段々とそれを深めていっていたようだが、そこを吸血鬼に利用されたのだろう。無論、奴とてこれで吸血鬼狩人を殺せるとは考えていない。だが揺さぶり程度にはなると見ているはずだ。
 それは同時に、隙無く守られた犠牲者に手が出せず、吸血鬼がじれてきている証拠でもある。だが、だからこそ。この一手は迅速に、そしてしくじるわけにはいかない。
 再び一際大きい唸り声と共に、理性を掻き消された少女が男に飛びかかろうとして跳ねる。だが、拘束具はびくともせずにそれを阻む。魔を退けるという銀糸を編み込み、リミッターを外された人間の怪力にも耐える特注品。それでいて、拘束対象を傷付けぬ様、首輪の内側は布張りにするなど、安全面でも一流SM師の協力を得ている。
「幸い、吸われてはいないようですね……」
 噛み跡はTシャツを盛り上げる豊かな御椀型の胸の上、鎖骨の部分に薄くあるが、吸われたにしては狂乱の度合いがまだ単純である。従者や使い魔というよりは、猟犬。なら、ケダモノらしくどちらが上か、力でその体に教えてやれば、落ち着く可能性は高い。
「……今度は大人しく彼に殴られるべきでしょうか?」
 苦笑しながら、少女の顔を地面へと押し付け、ジーンズの腰後ろを鷲掴みにして引き上げる。問答無用で心臓に杭を打ち込まず、正気を奪われた妹を実質助けたことになろうとも、これからやることを考えれば、その程度は妥当な気がする。
「レイプする趣味はありませんが――」
 尻を高く掲げさせた犬のような格好で、鎖の一本を手に、それでも男は。
「構いません、存分に暴れなさい」
 少女の秘裂へと腰を刺し込んだ。



 嬲られているのかとも男は思ったが、違った。笑っていた。背後から廻した手で吸血鬼狩人の喉首を締め上げながら、それでも正真正銘、吸血鬼は笑っていた。
「愉快! 見事! 完全に嵌められたわ。
 これでは、ここで貴様を殺したところで私の負けか!!」
「……そうだ」
 手を緩められ、かろうじて男は言葉を漏らす。安心など微塵もしていない。鉄枷のように自分の首周りに添えられたままの吸血鬼の指は、たった二本でも男の首を千切るだろうし、それを奴が躊躇する理由など欠片も無い。
 背を押し付けられているは、巌のように冷たく、硬い使者の肉。後頭部の上から哄笑に混じり、時折噛み合わされた牙の鳴る音が降る。
「戦いを始めた時には、もう既に、負けても最悪の事態にだけはならぬよう、手を打ち終えておったのだな。――ここまで堅実に策を組むようには見えなんだが、いや実に見事。これでは私とて連中に手は出せぬ。貴様ほど老獪な輩、黴の生えた吸血鬼にもそうは居らぬわ!」
 冷たく濡れた息に、頭髪が毛根から残らずそそけ立つ。
 ――何の気紛れか、吸血鬼は男をその手中に捕らえたまま、戯れている。ならば、まだ絶望する理由など一つも無い。死と遊ぶものは、死からもまた遊ばれる。その程度のことすら人を辞めると共に忘れ去ったというのなら――
 この吸血鬼など、必死に生にしがみつくちっぽけな男の、全くもって敵ではない。
 吸血鬼の感覚が幾ら鋭かろうと、男がこの窮地を脱するため、何を企んでいるかは察知できない。何故なら彼はまだ、当り前のこととして諦めていないだけ。
「自分の命すら、捨て札として切るその男らしさ。気に入ったぞ」
「……捨てたつもりは無いんだがな」
「何?」
 絶対者と玩具でも、ハンターと獲物でもなく、対等の存在として吸血鬼と吸血鬼狩人は言葉を交わす。
「策でも覚悟でも無い。男の避妊と同じで、マナーとしてわきまえておくべき最低限のことに過ぎないつもりなんだけどね、私にしてみれば」
「――ますます気に入った」
 硬直した場が動くかと、軽い挑発の意も込めて鼻で笑ってみたが、帰ってきたのは一層力強く耳元で断じる賞賛の声であった。
「貴様のような男こそ、身内に加えるに相応しい。貴様のような男の血こそ、吸血鬼狩人を敵にまわしても、我が求めるに相応しい」
「……おいおい、私は童貞ではないぞ」
 軽く流しつつ、全身の神経を尖らせる。血が絡んできた吸血鬼は、容易く理性を崩す。なら、どのような形であれ、これは絶好のチャンスへの糸口――
「なに、童貞ではなくともこちらは処女なのであろう?」
 硬く太い男吸血鬼の指が、彼の尻を撫で上げる。一瞬で、吸血鬼狩人の理性に太い皹が走った。
「な、なにを悪い冗談を……」
「――人が生まれ育ち老いて死ぬ。その傍らを変わらず歩く、永劫の夜の住人に、男女の差などささやかなものと思わないか?」
 身震いの如く必死に首を横に振る。確かに孤独な永遠を過ごす連中には、年齢や性別の禁忌など薄れきった者も多い。だが、それでもそういった手合いが侍らすのは美少女に美少年、美青年の類であって、自分のように端からそちらの趣味が無い手合いは普通相手になどしない――
 初めてといっていいほど、錯乱し、絶句する吸血鬼狩人の後ろの割れ目に沿って、今度は指よりも硬く太く長い一本のものが、ズボンの布を押し込んでくる。
 首筋を巨大なナメクジのようなものが濡らし、続いてちくりと何かが当る。その瞬間、背筋を駆け抜けた快感に、男は死にも等しい絶望を覚える。
「君ほどの男には、屈服の誘いすら失礼にあたるだろう。故に、あえて我が物になれとは言わぬ」
 低い声の囁き。耳元を愛撫され、男の両手指が無意識に武器を求め彷徨い狂う。
「なに、五十年、或いは百年。睦み合い、殺し合い、愛し合えば――我々は深く、互いの魂の底まで理解し合えるようになるであろう」
 本能が絶叫していた。恐怖か、それとも何らかの力を使われたか。動かぬ全身が、それでも爆発物めいた力に満ちる。
「大丈夫――折角の記念だ。上も、下も、じっくりと味わってあげるとも」
 ――さあ、処女喪失だ。マイ・ラヴァー。



 その夜、一体の男吸血鬼が灰すら残さず滅ぼされ
 一人の陽気だった吸血鬼狩人の心が砕け
 絶望の明けぬ夜の始まりを――
 後に『ホロコースト』と呼ばれる復讐者の絶叫が告げた。






 木杭が夜をえぐる。不意打ちは、ばれれば終わり。しかしそれは引き寄せての迎撃にしても同じ。
 そう思う吸血鬼を嘲笑うように、次々と放たれる投げ杭が後を追い、残像を穿ち、ついには夜の貴族のマントを掠める!
「ッ!! ――貴様……本当に人間かっ!?」
 真正面から心臓に迫ってきた躱せぬ一撃を、重ねた両掌で受け止め砕き、痺れる手で木屑を払い叫ぶ。
 音飲み。それが闇の仲間からこの若い吸血鬼に贈られた二つ名。霧と化すことも出来ず、蝙蝠や獣に変じることも叶わず、邪眼、壁抜け、念動。何一つ力を持たぬ代わりに、力強く素早いだけの死体が手に入れた、無音の殺戮術。相手が警戒し、緊迫した静寂が満ちれば満ちるほど、呼吸も体温も無く、道具も武器も必要としない化け物が闇を見透かし迫る様は、まさに無声の怪奇映画(サイレント・ホラー)。青白い顔が直ぐ横に浮かんでいることにも気付かず、次の瞬間、人が死ぬ音だけが闇に響く。それも、僅かな間だけ。
 だが、その同族ですら恐れる接近を、この男は易々と見切った。振り返るより早く、逆手に闇を削った白銀のナイフ。不意打ちのその瞬間を思い出し、我知らず吸血鬼の喉仏が上下する。
 これが、『ホロコースト』。
 上位捕食者であるはずの吸血鬼を片端から滅ぼしてまわる、非常識を殺す非常識。化け物を襲う、化け物。――いや、人間。
 噂話から抜け出してきた最早闇の都市伝説に近い吸血鬼狩人は、暗く淀んだ瞳のまま、静かに左手の投げ杭を拳銃へとチェンジ。一歩一歩、ゆっくり吸血鬼へと向かって歩き出す。
 一方の吸血鬼は思う。肉を纏った怪談など、所詮はただの現実に過ぎない。如何に偉大な神であろうと、実体としてそこに存在すれば、それは最早新興宗教の教祖に堕す。ならば『ホロコースト』にしろ、現実の脅威として認識すべきだ。今さっきのやり取りとて、アレの凄腕度合いを測る……
 ――いや。
 吸血鬼狩人の足が止まる。不意に、追い詰められていたはずの吸血鬼が浮かべた得意げな笑みのせいだ。
 全身から無駄な力を抜き、あらゆる事態に対応できるよう、感覚を広げ――
「『ホロコースト』よ、貴様――」
 そうだ、居た。長じた者、鋭い者、そして同じ吸血鬼でなくとも己が気配に気付きかねない存在が。
「――吸われたことがあるな」
 その一言で、無防備に狩人の体が固まる。
 その反応で確信し、こらえ切れぬと肩を揺らしながら愉快そうに若い吸血鬼は笑い出す。
「ふふ、ふふふっ。――ッ、アハハハハハハ!!
 そうか、そうかっ。貴様、吸われたのだな! 殺すべき存在に、滅ぼすべき化け物に。アハハ、それはまた何とも間抜けな」
 例えその血を啜られようと、完全に堕ちる前に吸血鬼本体を滅してしまえば、吸血鬼入りは免れる。だが、深くまで魂に牙突き立てられた者は、人に留まっても、その最奥に闇の痕を残すことがある。
「そうか、それで我が接近にも気付いたのだな。牙跡でも疼いたか? 成程、故に『ホロコースト』か。確かにソレは、我等を相手取るにまたとない武器となろう。
 ――ちゃんと、それを与えてくれた血の親に感謝はしているか?」
 笑う、笑う、嘲笑う。こんな愉快なことは無い!
「夜の味はどうだった? 変わったろう、世界が。こんな良く見えない人の体を離れて、直に魂で感じる風景の鮮やかさは気に入ったか? ちっぽけな集団の常識など捨てて、人生を乗り換えるだけの自由と本物がそこにはあったろう?
 ――にも関わらず、吸血鬼狩人はまた馬鹿なことを。嫉妬か? 御主人様に捨てられでもしたか? こんな可愛げの無い奴は要らぬと。だから狩り続けてでもいるのか? 疼く体を持て余し、自分を捨てない本当の御主人様を捜して。
 ハハ、アハハハッ。……嗚呼、それとも忘れられぬのか?」
 一転、狂笑を収め、慈愛に満ちた顔で問い掛ける。
「――どうだった、奪われる喜びは?」
 再び笑う、笑う、笑う。今や俯いたまま反論一つ出来ぬ脆弱な生き物を。
 ……そうして衝動の赴くままに嘲笑い、軽く動揺の一つでも誘うつもりだった。
 まさか。
「ハハハハハハ――え?」
 ――それで『ホロコースト』が目覚めるとは。
 ゆっくりと、左手の拳銃が持ち上がる。若い吸血鬼の、人を超えた鋭敏な感覚がその叫びを捉えた。
 叫んでいる。殺ス殺ス全てを穿つと。一つも逃さず、確実に葬る。だから早く――早く逃がしてくれ!
 右手の銀ナイフが喚き狂っている。肉を寄越せ、血管を示せ。切る刺す抉るし、裂き割り断とう。だからとっとと振るえ、使え、それで――どうか許して!
 意思持たぬはずの道具が主人に怯えている。殺すために極められた凶器である自分達を、遥かに上回る殺戮の化身に。だが全てが終わるまで、道具は休むを許されない。
 主人の両手がきつくきつく、武器のグリップを握り込む。では、逃げられぬというならば――進んでその狂気に染まり、自分達もその一部となるしか他はない。
 白銀の切っ先まで音も無く狂気に染め上げられていく。弾倉に潜む金虫の一つ一つに、呪いじみた殺意が蟠る。
「えっ、え……」
 理解しない、したくない。すればそこで終わるし、理解しなくても――もうこの夜の先に道など無い。
 これはそういう、殺戮の『形』。
「――き、貴様が。貴様がっ」
 目覚めたのは化け物。血走った瞳が、食い縛られた白い歯が、全ての終わりを告げている。
 これが世界の半分、全ての男吸血鬼をことごとく滅ぼさんと誓った今はもういない男の成れの果。
「貴様が、『ホロコースト』!!」
 ――だから、結果はなるようにしかならず。
 これはそんな、明けぬ夜で足掻き続ける、救われぬ馬鹿の物語。



――――了