『掛け軸売り』


 
 掛け軸売りを見た。何時も使っている川沿いの道、その木蔭に一幅だけを竿立てて吊るし、小風に揺れるに任せている。脇に積まれた小荷物の山を見れば、他にも品はあるだろうに、当の主人は客呼びもせず、川の石堤防に街を向いて腰を下ろし、ただのんびりと煙管を燻らせて、

 ふかーっ。

 商いというより、まるで旅の途中で邪魔になったものを、休憩ついでに売り捌こうとしているかのようだ。まあ、世の中様々、売るも酔狂なら買うも酔狂。こういったものもまた、なるようにはなるのだろうと、その時は余り気にせず先を急いだ。






 松、菊、牡丹 梅、笹、菖蒲
 鶸、鶴、鴛鴦 四十雀
 荒れる波頭 磯打つ飛沫
 巻き立つ落ち葉 走る花びら
 孤山が頂 銀狐の薄野
 桜の花雲 湖上に舟影

 花鳥風月、此処に在り






 件の掛け軸売りだが、まだ、たまに見掛ける。相変わらず一幅だけを木蔭に広げ、己は川面を走る風に吹かれながら、煙管をふかーっ。このような遣り方でよくも商いが成り立つものだと思うが、ひょっとすれば掛け軸の商い以外に目的があるのやも知れないし、単にまだ、破綻するまでには余裕があるだけなのかもしれない。そういえば、以前に聞いたことがある。古に立った市や縁日、その片隅に絵を広げ、弁舌をもって衆を集めた者が居たと。六道地獄の絵をもって、仏道説く者左に在らば、勇壮な合戦絵巻を此れは彼の折、彼の武将と、鮮やかに朗じる者また右に。中には幻術をもって衆人庶民を楽しませ、驕り高ぶる権力者に一泡吹かせた幻術使いの奇話も残る。当時の者達にとってそれだけ絵や講談というものは素晴らしくも物珍しい娯楽であった訳なのだろう。なら、その流れを汲む者であれば、成程掛け軸は売り物ではなく客に見せ語るための商売道具。そして弁立つ者ほど、緩急のつけようは心得ておろう。締めるときは締める、休むときは休む。客の来ぬ間は休憩時間と割り切りって――
 ふかーっ。
 ……ならばそもそも人の居らぬ処に店は出さぬか。
 掛け軸を旗目印にした何かの行商が、たまたま何時も一服をつける場所。にしては居るときは終日居り、時折、掛け軸の絵柄も変わっている。では、何処ぞの数奇者が捻くれた持ち物自慢をして――いるようには到底見えず、ただ、
 ふかーっ。
 ……矢張りどうもやる気の無い店主が、掛け軸を一幅だけ売っているように見える。
 どうせ売るなら古物市の立っている境内、或いは大橋のたもとや、人通りの激しい街中大通りは一角の方が良かろうことは、子供でも思い至ろうに。このような風通しの良い静かな場所では、陰干しを行っているのと何ら変わらぬ。
 ふかーっ。
 そこはかとなく気にはなるが、足を止め絵を眺めていくことを躊躇うほどに、当の男は投げ遣りで。
 今日も今日とて、用すら無い自分は、ただその脇を通り過ぎ行くだけ。
 そんな変わらぬ日が、しばらくは続いた。



 当の店主と言葉を交わす機会を得たのは、気の短い一人の客の御蔭であった。その男は、我慢できなかったのであろう。私が胸中、奥で疼かせるだけにしておいた疑問を、客という紋付の羽織袴で飾り固め、正面堂々、尋ねに行った。私は頭から其処に居合わせた訳ではないので、正確な処は知らぬが、後に諍いの一方が当事者であった店主が語るには、確かに客は初めより、掛け軸を求めてはいたらしい。ただ、同じく最初から本紙や表紙、或いは裏打の良し悪しなど、つまり掛け軸そのものには余り気をやらず、しきりに主人へと話を振ってきたのだとか。
 ――扱っているのは掛け軸であって、自分は売り物じゃァ御座いません。
 などと店主はその時を振り返って語りなどしたが、彼の為人を多少なりとて知った今では、単に面倒臭かっただけではなかろうかと踏んでいる。とにかく、そんな拘りだか建て前だかも一応あって、適当にあしらう店主の様子に、客はじれつつも、むしろより依怙地になってしまったらしい。手を変え品変えしつこく食らい付き、やがてこれ以上はどうにもならぬと悟ると、ヨシではその掛け軸を貰おうかと言ってきた。
 元々、話し賃ぐらいのつもりがあったのかもしれないし、また、掛け軸は掛け軸で本当に気に入っていた可能性もあろう。ひょっとしたら、自分はただの冷やかしでなく、ちゃんとした客であるんだぞと、店主に念押して、そう伝えたかったのかもしれない。
 そのようにしてそれまでの我意を折り、本来の客として正しい振る舞いを為した男に、当の店主はつれなく一言――相済みません。そいつァ、売り物じゃ御座いません。
 そう、答えたらしい。
 ――一幅しか開かず、にも関わらず掛け軸売りを名乗り、挙句の果てにその対応。
 ……そりゃぁ、怒る。
 当時、そこへと通り掛かった私は、こんな道端で怒鳴り散らすなど、なんと行儀の悪い輩だ。そのように思ったことを覚えている。いや、申し訳ないことをした。むしろ正義は彼にこそあったのだ。
 顔色を変え、何やら喚く男を前に、店主は、風鈴は紙尾の如く諸々を受け流し、慣れた手で悠々と煙管に細かく刻んだ葉を詰めると、
 ふかーっ。
 やがて程なくして男は、離れた場所から己が狂態を見詰める通りすがりの存在――早い話が私である――に気付き、咳払いを一つすると、早口で『悪いのは客を客とも思わぬいい加減な商いをしている貴様であり、自分はむしろ被害者で、この怒りは正当な義憤である』といった旨のことを、殊更こちらにも聞こえるようまくしたてると、早々に踵を返し去っていった。
 期せずして掛け軸売りを取り巻く舞台に半歩踏み込むこととなってしまった私は、ふとこれからどうするべきかを躊躇い、つい何気なしに店主の方へと目をやった。
 ふかーっ。
 何ら変わった風は無い。怒っていた客が去ったというのに、安堵や疲労の吐息一つ漏らさず、それどころか、サテ半刻前から空をぼんやりと眺めておりやしたので、何ぞ変わったことがあったようにも気付きませんで。今にもそう言い放ちかねない、いい加減に脱力し切った風情を漂わせたままであった。
 つい、引き込まれるように草履の先が一歩、そちらを向いたのは、川岸を吹く風が背でも押したか。
 ……それは売り物ではないのかね?
 ――いえ、売り物で御座いますよ。
 てっきり、返答も無くあしらわれるだろうという予感は覆され、あっさりと声が返ってきた。
 まあ、顔はそっぽを向いたままだが、そのようなこと、拘るほどのものでもない。
 しかし、先程の彼には……
 ああ、あの御仁ですか。――まあ物にはその物に相応しいお客さんがおられるということでして。
 先程の彼では相応しくなかったと?
 ハイ。驕った物言いに聞こえやしょうが、まあそんなところで。
 どこがいけなかったのかね?
 ……そうで御座いますね、足りる足りないじゃなしに、違った、と申し上げるべきでやしょうか。資格、風格というよりは、相性とお考え頂いた方が……
 ――フム。つまり商売人としての勘で上客かどうかを見極め、客を選んでいるという訳ではないのだね?
 ヘェ、仰る通りで。――まぁ、勘、というのはその通りで御座いますが。
 ……では、私などはどうか――
 嗚呼、旦那。申し訳有りませんが、そいつァ、売り物じゃ御座いやせん。

 まあ、そんなこともあり。それから折に触れ、見掛けた時、暇な時など、大して意味の無いことを言い交わすような間柄へと、相成った。



 付き合い始めて気付いたことだが、掛け軸売りには普通なら当然あるべきものが何故だか無かった。――いわゆる、書だ。
 古筆名筆先人の蹟。掛け軸なら真っ先に思い浮かぶそれらが、竿から吊るされたことは一度も無かった。同じように、仏画も目にしたことが無い。あるのは水墨画、それもどちらかといえばより写実的で、色数の少ないものだ。池に波紋を描く鴛鴦が寄り添い浮かび、風に枝垂れ柳がそよぎ立つ。濃淡とはいえ墨一色の山中にそこだけ色鮮やかに躑躅が開き、どこか忘れ去られた廃墟を孤月が照らす。
 よくは知らぬが、こういったものには得手とする専門の分野があるらしいし、或いは店主の決めた――一幅だけを風になびかせ、売れればようやく次を取り出すこの出たとこ任せの放蕩商いに、そのような代物があるとも思えぬが――店の販売方針、理念、傾向。又、或いは仕入先の都合。そんな理由によるものかと納得できそうな理屈を手前勝手に捏ね合わせ、胸中に落とし込んでみたものの、しかしどうにも据わりが悪い。
 ならば問うが正道かと、ある日、当の店主に尋ねてみるも、
 ――いえね、言葉ってのも確かに響くっちゃぁ、響くんですがね、どうにも一箇所に集中しちまうっていうか、何と言うか――
 ……余計、訳が解らなくなった。
 全く扱わぬという訳でもないが、まずやらぬらしい。どうも言葉は今一ついけませんや、とのことだが、書家でも絵師でも商売人でも、ましてや粋を解し美を愛す風流人や芸術愛好家に程遠い私では、何が今一つ、どう″なのか解らない。ただ、この掛け軸売りにとって書は余り良くないものなのだということだけが、辛うじて解っと言えようか。
 ふかーっ。
 思い切りいい加減に見えて、彼にも色々あるのだろう。まあ、人とは誰しも自然そのようなものである。
 着物の袖口に手を入れたまま、ぼんやりと取り留めなくその時はそのように結論付けてみた。



 気が向いたときに足を止め、下らぬことなどを話す。
 天気のこと、客足のこと、その時脈絡もなく思いついたことなどを。顔を向かい合わせにもせず、低い石垣を背に、二人同じ道の方向を眺めながら、取り留めも無く言葉をこぼす。大体は私が一方的に喋り、彼が相槌を打つといった風情だ。別に疎ましがられている様でもない。話題によってはそこそこ喋るし、何より彼はそんな面倒臭いことを考えるような人間ではなかろう。
 元より共通の話題などそうはなく、自然、最も多いのは吊るされている掛け軸に関するものとなる。高名な画人など見極めどころか名も知らぬ無芸浅学の身であり、故に素人らしく本紙に関する率直な感想しか述べられないが、それで不興を買うようなこともない。こういう時には、彼のいい加減さも有り難い。
 私達の頭の上を、時折、燕が行き交う。そして掛け軸の中、そこにもまた、白い紙の細間を滑り行くままに囚われたる黒一つ。或いは、長々と伸びる軸先は地面近くで、下を突付く丸々とした鶉が数羽。
 木蔭に、或る日唐突に現われた竹林の影が、湿った涼気を漂わせ、又、薄墨に枯れた景色の中、黒枝に其処だけ溢れる楓の朱雲が、忘れていた遠い季節を此処に呼び起こす。
 或る時は、夜景。何処か山裾の荒屋を、静々と月が昼めいて照らし、こちら側の音まで吸い込んでゆく。
 寸胴で、横長の本紙があるかと覗けば、ぼやけた其処に並ぶは幾つもの短い縦線。ハテ、墓石の群れでもあるまいし、これは何処ぞの石垣か、と問えば掛け軸売り応えて曰く、ハイ、此れは霧に煙る西洋が街並み、その遠景に御座います。
 成程、言われて見れば確かにそのようにも見える。これはこれで味わい深くもあり、顎先を指で捻ったまま、感嘆の唸りを発していると、――旦那、水墨画を舐めちゃいけませんぜ。
 そう、言われた。
 確かに、と頷く私を見遣りもせず、彼はくわえた煙管の先をを小さく動かし、
 ……まあ、支那の奇岩絶景なんかは、単にあちらさんの山奥の景色がマンマあれで、それを描き写しただけ、とも言われてますが。
 そうも、言われた。
 ……私はどう反応すれば良いのだろう。
 彼の言わんとするところを図りかね、暫し迷ったが、すぐに自分の悪い癖だと切り捨てた。人の言動の裏に、一々何か筋通ったものがあるだろうと窺うは、小心者の下衆の勘繰りであろうし、何より、
 ふかーっ。
 ――彼だ。
 掛け軸に近寄り、離れ、眺めながらふと浮かんだままに口にする。
 ――こうして見ると、掛け軸とはまるで窓の様だね。
 掛け軸売りは煙管を口先にくわえたまま応えない。
 つらつらと、私は思うところを勝手に述べていく。
 ――知らぬ場所の風景があり、違う時間の光景がある。過ぎた季節の花を留め、一瞬の風の振る舞いを音無く切り取る。まるで、窓だ。それも、無数の美しい世界、素晴らしい刹那の時間へと繋がった、魔法の窓だ。
 ……魔法の窓、で御座いますか。
 ああ。――もしくは異界を覗く水鏡。暗い庵室から外へと開いた潜り戸かな。
 そのように言いつつも私は己が物言いに、浮かぶ苦笑を隠せなかった。率直な想いではあるが、何ともいや言葉にしてみれば陳腐さが漂うものだ。幼稚な小児でもあるまいし。
 ちらり、と見れば掛け軸売りはその手の煙管を口元より離し、やや俯いているように見えた。常に被っている編み笠に隠れ、その面は窺えない。
 やがて、
 ――壷中の天、という言葉が御座います。
 そう、小さく口を動かす。やけに深く、畏まった声であった。
 ああ……聞いたことはあるよ。支那の故事だったかな?
 そう、私は返した。確か仙人に連れられ壷に潜ると、そこは蝶が舞い花が咲き誇る素晴らしき別天地だった。そのような話だ。
 ハイ。左様で。
 掛け軸売りは顔を上げない。
 フム、ではこれらの掛け軸はそれぞれ別の仙境へと繋がっているのかな?
 冗談めかした声で私は応える。では、これらは窓と言うより入り口なのだね。そう、続けてみる。すると、
 ――何故に、
 うん?
 ――――何故にそちらが異界とお考えになられやすか。
 ぞっと静かに、身の内が凝った。
 芯の芯、腹奥の底から。解らない。どうして自分がこれほど、怖気だっているのか。
 目が、掛け軸から離れない。離せない。離してはいけない。
 意識が視界の端より散じていく。
 そんな中で、何故か掛け軸売りの低い声だけが良く響き通る。
 ――胡蝶の夢、という考え方が御座います。
 知っている。先程の壷中天より、遥かに有名な故事だ。
 ――こちらが夢か、あちらが夢か。一度、頭を捻ってみるも面白う御座いましょうけど、本当にどちらが夢か、解らず悩むような御仁は居りやせん。
 それは、その通りだ。しかし私は声を出すどころか頷き返すことも出来ず、ただ顔を前へと向けたまま、掛け軸売りの言葉を拝聴する。
 ――夢と違い、現実は続きます。昨日から今日へ、今日から明日へ。それに如何様な夢を訪なおうとも、覚めて戻るは誰もが同じ此の世界。では――
 嗚呼、彼の声ははっきりと届くのに、何故だか今は何もかもが遠い――
 ――では、最初から一つの夢の世界に囚われている人間には、どちらが現なのでありましょうねェ。
 ゆるゆると。ゆるゆると世界が解け、彼の声が束ね――
 ――同じ世界と言い、現実を同じくする人々が居て、しかし皆が皆、同じ壷中へと迷い込んでいるのなら――
 ふかーっ。
 ……サテ、どちらこそが真なのでやしょうねェ――
 白く巻きつくようにして、煙草の煙が私の目の前でたなびき、絡まる。
 ……そうだ。ならば、夢は。いや違う。この場合、掛け軸の向う側、そして私は――

 カァ――ン!!

 突然の高い金音が、私の鼻っ面を引っ叩いた。びくりと瞬き、それでようやく我に返って振り向けば、掛け軸売りがその煙管は雁首を石垣に打ち付け、火種を川へと落としたところだった。
 ――成程、今先程の音はこれか。
 長く長く息を吐く。
 気が付けば地に黒く敷かれた木蔭はその位置を先より僅かにずらし、川面はきらきらと魚の鱗めいて白光を散らせ、竿に掛かった掛け軸は何処か異郷が街並みを霧雨に滲ませ、相も変わらず微風にゆら、ゆらり。
 ――イヤ、どうにも話し込みすぎたようだね。
 急かされるように私は笑う。何処か軽く乾いた声で、お暇するよと告げると、掛け軸売りは常のように顔も上げず、有り難う御座いやした又のお越しを、と投げ遣りな声。
 だから、そんな何時もの様子に安心して、逃げるように去る私が背中で聞いた小さな呟きは、きっと気のせいだ。

 ……チッ、だから客の相手なんぞするんじゃなかった。情が移ってしょうがねェ。

 ――気のせいなのだ。



 げに恐ろしきは、半端に動物としての本能を知性という足裏で踏みにじっても平然と生きる人の性か。食って寝て起きて。三日もすれば、当然のように草履の先は川沿いの道へと向かっていた。縄張りの点検を日課とする野良猫ですら、気に入らぬ異変があった後には、もう少し慎重に動こうものを。いや、習慣とは実に恐ろしい。
 そんな巫山戯た戯言を頭の隅で弄びながら足を運んだ木の下には、新しい絵柄に変わった掛け軸と、
 ふかーっ。
 何ら変わらぬ掛け軸売りが居た。
 やあ、と私が声を掛ける。毎度、と視線も合わさず掛け軸売りが返す。小さく上下した編み笠は、会釈のつもりか。
 その変わらぬ風情に安堵し、そうして私はまた、前にも増して頻繁に川沿いへと足を運ぶようになった。それは、そうやって今までと何も変わっていないことを確認していたのかもしれないし、もしくは逆に、あの日、あの時から胸の何処か片隅で、立ち上がったまま消えぬ靄影と向かい合い、その正体をどこか怖いものが故に見定めてみたかったのかもしれない。
 兎も角、そうして懲りずまめに足を運んだ御蔭で、私はある日、実に珍しいものを目にすることとなった。――なんと、掛け軸が売られていくところに、初めて立ち会ったのだ。
 その掛け軸は、この頃特に気に入りの一品であった。故に、訪れる回数も、居座る時間も、普段よりいや増しており、よって私はその機会を得たのだろう。
 ――書や仏画を扱わぬ他にも、ここの掛け軸には特徴があった。同じ絵師の手によるものなのか、濃淡だけで描かれた墨の世界に、鮮やかに一色だけ、彩りを加えたものがしばしば掛かるのである。古来水墨画は墨の濃淡に幾つかの技法だけで、無限の色持つ世界を描き上げるものという。確かに素晴らしき絵を見ると、黒一色で織り上げられた世界は、頭では理解できても信じられぬほどの、複雑な色の階層をそこに持つ。それは一つの、極みに至った芸術であるといえようものだが、しかしそれでもなお同時に――それは白と黒の二色しかない絵でしかないとも言えるのだ。
 そこに一点、色を落とす。
 例えば花。ざっくりと墨削る古風な枝に、ぽつり、ぽつり、と燈る柔らかい紅色は梅か。或いは、丁寧に描かれた人里近くの静かな光景。その端に幾つか、小さな朱。すっと伸びた黒い茎の上に、開くは紅蓮の彼岸花。山の古木には硬くふしくれだった蔦葛が絡まり、しなやかで張りのある若蔓を地へと長く伸ばしている。その薄墨の葉陰から惜し気なくこぼれて覗く、山藤は花房の深い紫。
 急流は音を止め、それでも飛沫激しく滝と落ち、瀬と駆け去る。そこを跳ねる小さな魚影の、首筋に浮かぶ小さな楕円の若緑。それは鮎が証の薄苔色。
 豪奢な装いの花魁は後姿。横顔一つ見せず残さず、その心意気の潔さ。艶やかな柄の着物、白々とした項、高く結い上げられた黒髪。その中で、差し込まれた簪のこぼれる玉飾りだけが、青く澄んだ色を見せる。
 確かに世には彩色水墨画というものも古くから存在するが、ここで許されているのはただ一色。しかも水墨画と同じ技法で描かれているだけに、その彩は一色だけで千変万化。そうして他の全てが墨の濃淡だけで形作られているが故に、その世界で唯一つ許された色の鮮やかさは一際に引き立つ。
 活花が花を生けているのなら、これは色を生けているようなものだ。芸術の良し悪しなど解せぬ自分でも、感嘆の吐息と共に心動かされること、しばしば。そうして、その時掛けられていた掛け軸もまた、墨絵の中に咲き誇る一色が実に美しいものであった。
 ――日頃から使われているのだろう、こざっぱりとした井戸の釣瓶に、朝顔が巻きついている。無骨に変色した縄と桶。そこに細い蔓が優しく絡み、ふんわりと色づいた花を開かせている。脇には、先だけを同じく絞り染めた固い蕾。何とも涼し気で、また愉快な味わいがある。この井戸を使っている人間は、さてこの後どうするのだろう? 邪魔と毟るか、それとも外すか。いやいや、そのような人間ならば、そもそもここまで伸びるに任せては置くまい。人は、生活において水を我慢することなど出来はしない。なら、違う釣瓶を用意するのか、それとも別の近所の井戸まで足を運び、頼むのだろうか。そう例えば――済みません。うちの井戸は朝顔が咲いてしまってるので、水を分けては頂けませんでしょうか、などと。
 ――いや、何とも、心地良い間抜けさではないか。
 そのような想像が自然に浮かぶ、ただ綺麗なだけではないこの掛け軸が気に入って、私は何度も何度も此処へと足を運んだ。時には朝にも夕にも、まるで日課の如く。そうした或る日。絵を覗き込む私の隣にふらりと立つ人影があった。
 半歩譲ってちらりと見れば、まだかなり若々しく、静かな佇まいの中にも活力が残って見える――そのように形容できる程度には老けた男が居た。
 こちらへと小さく会釈する間も目は掛け軸から離さず、その初老の客はじっと強い視線を注ぎ続ける。それは鑑賞と言うより鑑定、それも書画骨董に向けるようなものではなく、まるで誰かの人生を計っているような、強さがあった。
 ……そのように見るべき絵ではないと思うのだが。
 とはいえ他人の鑑賞方法に注文をつけるような傲慢な嗜好も肩書きも、知識や薀蓄の欠片さえ私は持たない。しばらくは並んで眺めていたが、どこか息苦しいものを覚え、川の方へと私はその場を抜け出した。
 石垣を背に、一息。こちらの動きに気付いた様子もなく、髪に白の方が多く混じる客は掛け軸と向かい合っている。掛け軸売りはと見れば、相も変わらず。煙管を片手に商売っ気の欠片も窺えぬ。
 そうしてどれぐらい経ったか。私が川風に乗る鳥をのんびりと眺め追っていると、
 ――此れを、貰いたいのだが。
 そう、声が聞こえた。
 そこで目を剥くほど驚いた私も私だが、
 ……本当によろしいんで?
 当の店主からしてこの物言い。よって許される気は充分にする。
 そんなにするのかね? と落ち着いた声音で客。
 いえ、御代の方はそうでもありやせんが、と掛け軸売り。
 では、との客の問い掛けに、何時ぞのように乱暴な客あしらいをするでなく、むしろ丁寧に低い物腰で、イエ、これは手前の勝手な想像で御座いますが、と受け答える。
 ――ハハァ、さてはこれが以前に言っていた相応しい客への対応かと、興味深く見守る私は、既にこの場で蚊帳の外。
 失礼ながら、先程まで御覧になっておられた様子を脇より拝見させて頂きますに、余りこの掛け軸を楽しんだり、気に入っておられるようには窺えませんでしたので。お買い上げ頂く理由に一々口出しするのも愚かなこととは存じますが、何かしら思うところがおありなようでしたら、そう急いて買われることもないかと。……何、大丈夫で御座います。二日三日で売れてしまうような、真っ当な商いは、残念ながら致しておりません。よく、お考えの末に、次に足をお運びになるまで、これはきちんと残っておりやしょう。こういったものは、縁や相性があればあるほど、持つべき人の手へと、自然に渡ってゆくものです。ですから、今一度、ゆっくりとお考えになってみるのも如何でしょうか――
 矢張り、売る気が無いようにしか聞こえない。しかし呆れている私の前で、客には何かしらその言葉に思い当たるところがあったらしい。怒りも呆れもせず、しばし真剣な顔で考え込んでいて――
 ――いや、やはり今、此れを貰おうか。
 存外、あっさりと言い放った。
 客は竿に掛かった掛け軸を振り返り、確かにね、と呟く。
 この掛け軸は僕にとって、どこかしら辛いものがある。惹かれるところはあるのだが、同時にすぐにでも目を逸らして忘れ去ってしまいたいような。何故かしらとても懐かしいのに、それなのにそのことを忘れていたと責められているような――いや、違うな。忘れていた自分を責めずにはおられないような、そんな何かが。
 ……でしたら、無理をなさらずとも――
 けれどね。それでも僕はこの絵を側に置いておきたくてたまらないんだよ。
 微笑みすら浮かべる客の言葉を、掛け軸売りは黙って拝聴する。
 そうだね。これ程、この掛け軸が良くも悪くも私を揺さぶる理由はやはり、解らない。すうっとどこか落ち着くし、自分の一番酷いところを指摘されているようにも感じる。昔、ずっと大切にしていたもののようにも、大切にしていたのに捨て去ってしまったようでも、ある。
 でもね、そんなあやふやで不確かな諸々だけど、心を揺り動かす。それだけは全部――全部一つ残らず確かなんだ。
 それはこの歳に至るまで辿ってきた過去、人生みたいなものかな、と彼は言う。
 苦しかったことも、嬉しかったことも、悔しかったことも、楽しかったことも。幸せだった日々、悲しかった出来事、好きだった人、許せない奴。しかし、こうして遠く遥かに過ぎ去ってしまえば、全てはただ思い出になる。嫌らしさも愛しさも消え、懐かしさだけが残ってしまった。
 それと同じかな。私がこの絵に感じる郷愁も後悔も安堵も恐怖も、全部。
 ――好きや嫌い、良いとか悪いとかじゃ、ないんだ。そんな風に、ただどこか感じるんだよ。だから、何故か解らなくとも、快いだけでなくとも、私はこれを側に置きたいんだ。
 そう言った後、そこで初めて初老の客は、私と掛け軸売りの存在に気付いたとばかり、我に返って、はにかんだ笑みで、いや、これは、と何やら意味ないことを呟きつつ、頭を掻いた。
 ――あい、解りやした。
 すっと立ち上がった掛け軸売りが棒を使って竿より掛け軸を下ろす。丁寧な手付きで外した掛け軸を石組みの上に布を敷いて横たえ、
 最後にもう一度だけお尋ねしますが――本当によろしいんで御座いますね?
 何やら解らぬ問いを投げ掛け、
 ――ああ、構わないよ。
 一瞬小首を捻りはしたものの、別に今更迷うようなことはないよと、解らぬままに客が頷く。
 では、と掛け軸売りが取り出したのは、朱肉と石印。はてまさか、と見守る私達の前で、彼は本紙水墨画の左下へと落款を押した。
 唖然としているこちらに構わず、それでは乾きますまでに、御代の方を先に頂戴、と当り前のように振舞われれば、我々は素人、そのようなものかとつい従ってしまう。
 結局、流されるままに私は口を挟まず、客は代金を支払い、桐箱に収めた掛け軸を手に、去っていった。その表情は、まるで思いがけず何年も前の落し物が戻ってきたというように、小さな笑みを頬の端に張り付けていた。
 初めて見る掛け軸売りの真っ当な――少々微妙ではあろうとも――商い風景の余韻に浸っていた私だが、やはり気になっていたのだろう、気が付いたときには出した朱肉などを仕舞っている掛け軸売りに、つい声を掛けていた。
 ……普通、落款というものは書画の書き手が、最後に署名と共に落とすものではなかったかな?
 ヘェ、まあ仰る通りで。
 ――では、先程のは?
 荷物を包む大風呂敷の口をきゅっと締め、天気を語るような口調で掛け軸売りは答える。
 ――うち独特の習慣で。扱った証と言いましょうか――販売済み、ぐらいの意味合いで御座いますねェ。
 ……奇習というものは誰しもがその内に持つものであり、他人に不快迷惑を及ぼしていなければ、そう追及するようなことでもないだろう。幸い、あの絵には落款が無かったことだし、むしろ全体に締まりをもたらす良い読点になったとも言える。
 そう、思い込んでみた。
 そこでふと、思いついてもう少しだけ問うた。
 ――何時もやっているのかね?
 いえ、その時々で決めやす。

 ……やはり、奇習だ。



 さて、過日の一件で竿掛かるものが時折変わるのは、売れない掛け軸をとっかえひっかえしているからだという疑惑は晴れた。彼は正真正銘、掛け軸売りであったのだ。
 そして、山の茸は一度見つけると、二つ目からはすぐだという。それと関わりあるのかは知らぬが、私が次に掛け軸を購入せんとする客を目にしたのは、あれから十日と経たぬうちのことであった。
 此度はこちらが遅参であった。ぶらりと川沿いの道を水の流れに沿って下るうちに、何時もの木陰へとたどり着き、そこに先客の姿があるを目にした。
 その時の掛け軸の本紙に何が描かれていたかを、私は知らない。ひょっとすれば前に訪うた時に掛かっていたものと同じであったやもしれぬ。が、さりとて寄って確かめた訳ではないので、やはり知らぬというが正しかろう。
 その先客の体躯は並みを抜き、遠目にも良く目立った。同じく大きなその泣き声は、かなり手前で私の足を止めるに充分なほどである。どうやら彼は、稀に港近くで見掛ける紅毛の異人であるようだった。オウオウと声をあげ、彼は辺りを構わずむせび泣く。
 ……違ウ、違ウ、私ハ此処ノ生マレデハナイ、私ハ此処ノ民デハナイ……
 また何か揉めているのかとも思ったが、異人の客が向かい合っているのは竿から吊り下げられた掛け軸だ。では、彼が只おかしいのかといえば、別にそういう訳でもなさそうで。我々が名画を前に思わずホウと吐息をこぼし、時には眦から水滴を滑らすように、程度こそ違え、彼の騒ぎようもまた、自然と内から溢れ出したもののように見えた。
 流れるものを拭おうともせず、顔を大きく顰め、叫ぶように彼は嘆く。
 私ハ違ウ、私ハ要ラナイ! 乞イナドスルモノカ、捨テタノダ、私ガ、私ノ方コソガ踏ミ躙リ、捨テテヤッタ!!
 見れば、掛け軸売りは何時ものように脇で煙管を片手に腰を降ろしている。
 ――嗚呼、そうか。
 その自然石の如き佇まいを、無視無関心ではなく控えているのだと理解したのは、付き合いの長さ故にか、妄想か。
 ――この異人は客なのだ。
 そのまま、私はそれ以上、近付くのを止めた。今、少なくとも私は客では無い。
 掛け軸を揺らす川風も、その上を行く鳥影も、木蔭の掛け軸売りも、声あげる客も。私自身ですら、私のことなど、この場では気に掛けていない。
 モウ、アノ邦モ無イ。語ルヨウナ思イ出ナド無イ。仲間モ友モイルモノカ。私ハ自由ダッタ! 私ハ自由ダッタ!!
 ――耶蘇は己が罪を懺悔するという。しかし許す神も、聴く司祭も居らねば、誰がそれを許すというのか。誰が、自分自身を許せるというのだろうか。ましてや、
 オオオ、オオオと異人が咽を震わせる。
 ――それを罪と、頑ななまでに本人が認めたがらねば。
 ふと。掛け軸売りが、何やら口を動かした。
 ……れでも……は失せたりは致しませんよ……
 異人の大きな声に比べれば、切れ切れにしか届かない。しかし、近くにいる彼には聞こえたようだ。泣き濡れた顔が、そちらへと動く。
 ……の名が変わっても、無かったことにはなりません。違うとは仰いますが……拒むことも……優しくはないでしょうよ。なら……
 ぽつり、ぽつりと思いつくまま適当に言葉を漏らしているようにしか見えない。だが、異人の客はその巌の如き巨体をじっと固めたまま、掛け軸売りの言葉に聞き入っている。
 掛け軸売りの言葉は、どんどん小さくなり、消えていく。やがて、此処まで声が届かなくなったのか、話が終わったのか、解らぬままの時間が長く過ぎ、
 ……私ノ……私ノ――ダト言ウノカ……
 泣き枯れた声が低く響き、
 ――本当に無いものや、愛さぬもののために、そこまで泣く仁はおられやせん。
 同じほど良く通る掛け軸売りの言葉が聞こえた。
 オオオ、オオオ、と再び始まった嗚咽に背を向け、私は足早にその場を去る。
 事情も良く知らぬ他人事にあえて関わる趣味は無く、何より私は怒ったり泣いたり、ああいった人の生の感情がすこぶる苦手だ。
 それに――胸の奥底が矢鱈と落ち着かず、ざわめく。
 何時か以来、起き上がり、しかし近頃では目を逸らし忘れたつもりになっていた靄影が、異人の振る舞いに感化されたか、息を殺すことを止め、ゆらゆらと揺らめいている。
 ――偉く不快で、不安だ。
 追われ急かされるが如く、足裏が地を擦る音も高々と、次から次に路地を折れる。だが、元より目的も無かった身。彷徨い続けるにも限度があり、そして一度あの場を離れてしまえば、そのような怯えは薄れるを転じて、無意味に育ち、何とも恥ずかしいと笑い飛ばさずにはいられない杞憂と化す。
 ――枯れ尾花を冗談に留め置くには、手に触れるまで近付いて、いや情けない話と苦笑することが必要だ。
 気の向くままにと呟いて。曲がる路地を折れて折れて折れて、――そうして元の川縁へと戻ったときには、既に其処に異人の客の姿は無かった。
 吐く息もどこか軽く、掛け軸売りの居る処へと向かう。地にしゃがみ込み、何やら竿から降ろしたらしい掛け軸を巻いている彼に、何気ない風を装って朗らかに話し掛ける。
 ――おや、あの大男はもう帰ったのかね?
 編み笠を常の如く被っているその容貌は窺えない。だから、その掛け軸に何が描かれていたのか。その時、彼がどんな表情を浮かべていたのか。――私には分らない。
 最後に巻緒を綺麗に結び整えた掛け軸売りは、下を向いたまま、低い声で私に応えた。

 ――ええ、お帰りになられやした。

 ……何故か、枯れ尾花が冷たい手で握り返してきたように感じた。





 薔薇に朝顔 蒲公英、向日葵
 紅葉、山藤、玉梓
 飛び交う燕 籠には金糸雀
 庭突きつつくは 雀か鶏か
 響く風鈴 白い舟雲
 雨傘叩かれ 外套引かるる
 暗き街角、橋下川面
 透かす窓枠 宵待孤杯

 花鳥風月、其処に在り






 そうして私は今日もまた、掛け軸売りへの元へと足を運ぶ。
 実のところあの異人の客の一件以来、しばらくの間、足が遠のいていたので久々だとも言える。行こう行こうという想いと、それを拒む何かが私の中でせめぎ合い、共々に打ち消されては今日まで動く気にはなれなかったのだ。
 にも関わらず、こうして暗い路地の間を歩んでいるのは、今朝方、梢より散り落ちて地へと散らばる花屑を見たせいか。樹上には、浮かぶが如く満開の花。そこからこぼれ、役目を終えて地面に広がる花屑は、風か人の箒に掃き清められ、幾らと経たず消えていくことであろう。ただ、
 ――私は美しいと思いますのよ。
 ただ、萎れ朝露に濡れたそれを見て、私は、
 ――咲く花が綺麗なら、それまでの葉っぱも蕾も、そして萎れて散っていく様も、全部全部が美しいのだと私は思いますわ。
 私は……私は、別にこの身など、どうなっても良かろうと思ったのだ。
 差し迫って命の危険など無く、日々の生活に強い目的も情熱も拘りも無い。その程度の浮き草の如き身が、よくも解らぬものに怯えるなど、滑稽を通り越して甚だ無意味だ。
 空っぽになってみれば、心は大気の希薄さで落ち着いて、澄む。紙風船の軽さで浮くように歩み、両側から壁めいて迫る薄暗い路地を抜けると――
 其処に、掛け軸売りが居た。
 薄く澄んだ青空の下、川沿いに低く組まれた石堤防を背に、木蔭へと一本だけ竿立てて掛け軸を吊るし、やる気も無さげに煙管をくわえ、
 ふかーっ。
 あるかないかの川風が、揺れる掛け軸と同じ方向へ、微かな白煙をたなびき流す。
 ――やあ、久し振りだね。
 ……へい、御無沙汰さんで。
 そんな言葉を何時ものように交わす。当り前のように彼が此処に居たことに安堵を覚え、さてと顔を回したところで――

 其処に、彼女が居た。

 揺れる掛け軸に描かれているのは、写実的な水墨の美人画。籐椅子に腰掛けた着物姿の彼女は、何処か困ったように此方へと微笑んでおり――
 ……嗚呼
 その肩には薄く色付いたストールが、繊細に描き掛けられている。
 ……それは
 水墨画の女性は余り丈夫な性質にも見えず、ならば、それは当然のことで。
 ……まだ、持っていたというのか
 頭上にかかるは花の枝。足元にはぽつぽつと花びらが散り落ちている。
 ……それを汚いと掃き捨てることを君は嫌っていたな
 知らぬはずの女性の絵。しかし次から次へと彼女がどのような人だったかが思い浮かぶ。
 外見通り良いところのお嬢さんで、しかし素直に親の言うことに従うような性格でもなく、我儘とは違う、一捻りした我の強さを芯に持っている。控え目なようで、実は恐ろしくしっかりとした本質を持つ。だからきっと、彼女はどうしようもない男を、放っておけずに選ぶのだろう。
 甲斐性が無くて済まないと、情けなく己のことを口にする男へ、あなたの良さは其処ではありませんわ、そう微笑むような。
 そうして彼女と寄り添いあって生きることは、とてもとても素晴らしい人生に違いない。
 ――其処に、何事も無かったのならば。
 幾ら気高く咲こうとも、花の柔らかさ儚さは変わりはしない。彼女の輝くような心根も、その蒲柳の質を打ち消すには至らない。
 屋敷に居た頃のように余裕あるとはいかない生活。詫びる旦那に、そのようなことは端から百も承知です、と彼女は笑い。
 ――お気になどなさらず。初めてのことと楽しんでおりますし、
 甲斐性が無いから楽をさせてやれぬと項垂れる亭主に、
 ――共に苦労するのが夫婦ではないですか。
 しかし病へと至れれば、その強さ優しさがなお辛い。
 死病でもありませんのに、と彼女は床で微笑む。済まぬ、済まぬと亭主が詫びる。自分がもっとしっかりしていれば、自分がもっと楽をさせてやれれば。
 女房の実家へと泣きつけば、間違いなくずっと良い治療と環境を与えてやれる。強引な縁組で半ば勘当も同然だが、あちらとて人の親。彼女ほどの娘を育てた人達だ。現に、親族使用人という伝手で折に触れて消息を問い、何かしら要るものはあるかと、遠回しに気遣いがくる。
 ――亭主が頭を下げて地に擦り付ければ、それで四方丸く収まる。しかし、それだけはしてくれるなと、当の女房が訴えるのだ。あなたが悪いわけではない、調子が良ければ家事とて出来る、だから――末まで一緒に居させてくれと。
 彼女が謝る。このように病弱で申し訳ありません、と。満足に家事も為せず、御迷惑ばかりお掛けして、と頭を垂れる。
 ――違う、違う、違うのだ。悪いのは君では無い!
 病が悪かろうものだとしても、病人に何の罪があろう。病んだ妻さえ十二分に支えてやれぬ、情けない男に何の価値があろう。君の隣はもっとしっかりした者こそが相応しい。嫁いだと、実家に縁切られるような男が、どうして此処に居ていいものか。屋敷に居りさえしていれば、しっかりと養生出来たろうに。いや、そもそもここまで悪くなることなど、なかったものを。
 ――私だ。
 彼女が満足に病癒せぬのは、彼女が親の待つ屋敷へと戻れぬのは、優しき親が彼女に手を差し伸べられぬのは――
 ――私だ。
 そは、そもそも誰のせいか。此処に居るべきでないのは誰なのか。何が彼女の甘受すべき幸せを妨げているのか。
 ――私だ。
 嗚呼、そうだ、その通り! 亭主さえ居なければ、彼女は幸せになれよう。親も彼女も拘る些細なものが消え、全てが上手くたちゆくはず!
 だからこそ、病身の君を見捨て、私はあの世界から消えたというに――
 あれから幾らも年月が経ち、病も大分癒えたのだろう。落ち着きを増した佇まいで、彼女は情けない男から贈られたストールを肩に掛け、
 嗚呼、嗚呼、なのに君は――
 仕様のない人、と懐かしい笑みを私に向ける。
 嗚呼、嗚呼、嗚呼! 今日の今まで私は君のことさえ忘れていたというのに――
 彼女の細い指が本紙を離れ、そっと掛け軸の此方側へと伸ばされた。
 ――それでも君は私を許すと――
 震える私の指と、確かに絡み合う。もう離さぬとばかりに強く掴んだ手が、ぐいとこの体を掛け軸のあちらへと引きずり込み、
 ――嗚呼、それでもなお戻って来いと言ってくれるか――




 

 くるくると、花押を押し終えた掛け軸を巻き、丁寧に二度とは解けぬよう、巻緒を締める。桐箱に収め終わると、掛け軸売りは煙管を一呑み。深々と味わって、
「――毎度アリ」



 ふかーっ。



                                  






                 

――――了