『蛍火綺譚』


 





 夜闇の向こうで蛙が鳴いている。柱にもたれて真っ暗な六畳一間に足を放り出したまま、その単調な響きを聴くとは無しに聴いていた。こうしてもう、どのくらいになるのだろう。喉奥を潤したビールの空缶だけが、刻まれた時の代わりに畳の上に増えてゆく。
 こうやって座り込んでいると、馬鹿げた話かもしれないが、自分が捨てられた糸繰り人形にでも成ってしまったような気がする。身も心も、格好だけでなく、つまり全て――
 幾本目かの空缶を暗い部屋の隅へと放り、新しいやつを手探りで捕まえる。びっしょりと濡れたアルミの胴を片手の四指で押さえ、残った人差し指の先でプルタブを起こすと、縁に口を押し付けた。口唇の間から舌の上を、慣れ飽きた刺激が流れて行く。味わいもせずに、ゆっくり缶を傾けていると、丁度部屋の反対側、開け放たれた窓の向こう。四角く切り分けられた闇の中の、リンとも鳴らない軒先の風鈴の脇を、青白い小さな光点がすうっと尾を引いて溶けるように滑って行った。
「蛍、か」 
 残像すら消えてから、自分でも聞き取れないほど掠れた声で呟いた。それから目を閉じ、あの時の光景を瞼の裏に描こうとする。もう、十年以上も昔の、夢かもしれない思い出。細部の輪郭などとうにぼやけ、あの人の顔立ちや声が記憶の合成した紛い物となった今でも、すがり続けているただ一つの約束。



 夏夜、せせらぎをかき消すかのように夏虫や蛙達は鳴いており、遠い水面は幽かに白を映して更に闇の奥へと消えていく。それと共に遥かに続く土手道の下、草深い河原の一角で全身に淡い蛍火を纏わり付かせながら、彼女は艶かしく、それでいて不思議と透き通った声で「僕」に言った。
「あなたの背が私より高くなったら、きっと連れていってあげる。だから――」

 ――今は、まだ。ね?

 今は、まだ。その言葉を信じ、今日まで生きてきた。しかしあれから彼女と再び巡り会うこともなく、先月、何も変わらぬまま俺は二十歳を迎え、そうしてまた幾度目かの夏が来た。

 

 

 







 夏祭り、だったのだろうか。花火を見に行った帰りかもしれないし、蛍狩りに出掛け一人はぐれたということも有り得る。縁日で遊んだような気もするのだが、その辺りの記憶はどうもあやふやではっきりとしない。覚えているのは、俺が自分を「僕」と呼ぶような子供で、何故か一人、夜の土手を歩いている光景からだ。
 周囲に明かりはなく、すれ違う人影もまたない。そこがどこなのかも知らず、なのに心細く怯えるどころか俺――僕は嬉々として蛍を追っていた。遠く近くからは初夏の宵にふさわしい蛙の輪唱が響き渡り、辺りを包み込んでいる。右手にはまだ青葉の低い田圃が広がり、反対側では草深い土手の斜面と河原を隔てて、真っ黒な川が緩やかにその体をうねらせている。未舗装の道路はでこぼこと草陰で形を変え、時々足下をとられもしたが、かまわず僕は歩き続けた。
 源氏だか平氏だか知らないが、ずっと暗闇を見廻していると、どこからともなく蛍が現われ空中を滑って行く。それを追い掛けて僕が二三歩踏み出した所で、光は不意に跡切れ、見失ったんだろうかと立ち止まると、再び現れては少し先に新たな軌跡をしるし出す。一つの光点がどれだけ手を伸ばしても届かない遠くへ去っていったかと思えば、すぐに別の一匹が誘うように近寄ってきて、他にもいきなり目の前すれすれを横切っていくような奴もいた。飽きもせずにそれらを眺め、また時には土手草の中でほのかに光っているものを、草の葉ごと両手で包み込み、指の隙間から顔を寄せて覗き込んだ。その時にする蛍独特の匂いを、僕はどうしてだか夜の川の匂いだと信じていた。そしてそれを嗅ぐ度に、祖父に買ってもらった金属製の虫籠のことを思い出した。あれも確か、同じような匂いがした。
 そうして延々と歩き続けるうちに、次第に蛍の数は増し、ついには川の上、土手の先といわず周囲のいたるところで光は入り交い始めた。見渡す限りの田圃の上を、どこからともなく湧き出した無数の蛍が乱れ飛ぶ。ふうっ、ふぅっと青白い残像が夜闇に絡み合い、消えてゆくその下の川岸の葦間では、幾つもの光点が呼吸するかのように緩やかな明滅を繰り返し、たまに一匹、二匹、川に落ちたらしく、低い場所を物凄い速さで流れていく光がある。 
 僕の存在など気にも掛けず、実体など持たないかのように、彼等は幽かな夜風に舞っていた。川の、消え入りそうでいて絶えることなき細やかな水音。それを蛙や虫達の声が包み込み、周囲を異界へと切り離していく。
 そこかしこで何かを招いて、光っては消え、光っては消えしている光景を見詰めているうちに、僕は自分が何をしていたのかも忘れ、一緒になってその中に溶け失せていった。
 一体幾らそうしていたのだろう。ふと、何かの気配に振り返った時には、着ていた浴衣の裾や、そこから突き出した膝や脛、ふくらはぎからサンダルを履いた足の指先までもが、下草の含んだ夜露で冷たく濡れていた。
 舞い交う蛍の向こう、透かし見た道の先から何かがやってくる。草を踏む音と、忍びあうような笑い声にそれが若い男女だと判った時、僕はその晩初めて恐いと思った。足下さえ定かではない闇の中を、たった一人で蛍を追っていた時ですら微塵の恐怖も感じていなかったというのに、僕は近付いてくる人間を幽霊や闇より何より恐いと思ったのだ。
 背中を見せて逃げ出すことすら恐ろしく、じっと道の端で待ち受ける僕の前に、二人は徐々に姿を現した。
 男の方は青年、としか覚えていない。いや、判らなかった。幾ら多くの蛍に囲まれていたとはいえ、他に光るものなど高い空の星か、遥か遠くの街明かりしかない闇の中では、姿は影となり夜に滲んで見えなかったのだ。
 なのにどうしてだか、青年と腕を組み寄添っていた女性の姿を、僕ははっきりと覚えている。
 夜に溶ける紺の浴衣に、腰を包み締める赤い帯。ほっそりとした肩から伸びるたおやかな手先には、巾着袋がぶら下がっていた。束ねて片方の胸元へと流された黒髪の付け根に、浮かび上がる白い襟足や、柳葉の如く涼しげに引かれた口唇の紅。そんな幾つもの部分が、今も脳裏に焼き付いている。
 その中で顔立ちだけは曖昧だが、表情、というか雰囲気は覚えている。記憶の中で、彼女は作ろうとして作れるものではない、ごく自然な微笑みを隣の彼へと向けていた。
 何かは判らない、しかし先程まで蛍群れを見ていた時とは明らかに違う理由で、僕は二人から目が離せなかった。一方、彼等はというと、互いに言葉にならない言葉を視線の端や息遣いで交わすのに夢中で、僕のことなど気にも掛けずに目の前を横切っていく。
 ただ一度、彼女が僕に気付いてこちらを見たとき、彼も僕の方を見たようだったが、それはあくまで彼女が目を向けたから見た、という程度に過ぎなかった。
 そうして二人の後ろ姿が現れたときと同じく闇の奥へと消えてゆき、微かな気配すら届かせなくなってから、僕は二人とは逆の方向へと駆け出していった。恐かったから、ではない。ちらりとこちらを見やった彼女の眼差しや、耳元からすっと伸びた白い顎、そして顔を寄せ合う二人の姿が頭の中で踊り狂い、走らずにはいられなかったのだ。
 今にして思えば、嫉妬していたのかもしれない。もはやもう蛍など目にも入らず、僕は闇雲に泣きながら土手道を走った。下草と石に足をすくわれ、一体何度転んだことだろう。幾度目かに立ち上がった時には、打った膝小僧が痛くてそれ以上走れず、代わりに僕は更に大きな声を上げて泣いた。
 喉が渇くまで声と涙を絞り出すと、少しは落ち着いた。それでも擦り剥いた両手を開いたままぐじぐじとしていると、不意に優しげな声が掛けられた。
「ねえ、どうしたの?」
 前を見ると、そこには何時の間にか上体を折って覗き込む人影があった。
「ああ、転んじゃったんだ。どこが痛いの……そう、でも大丈夫。もう痛くない痛くない、痛くても男の子だから我慢する。――ねっ?」
 声からして、まだ二十歳前後だったと思う。彼女はしゃがみ込むとハンカチで僕の涙を拭いつつ、元気づけるようにそう笑った。
「それにしても、こんな所に一人だなんて。お父さんやお母さんは? はぐれちゃったの?」
 問う彼女に真っ暗闇の中で頷き、少し遅れて「うん」と呟いた。泣いていた理由も、一人でいた訳も正確には違うのだが、なんとなくそう答えておくのが良い様に思えたのだ。
 そのまま彼女は僕が落ち着くまで、色々と話し掛け続けてくれた。きみの名前はなんていうの、お姉さんはね――。何歳? 誰と一緒にどこから来たの。へぇ、そっかぁ……
 端的に聞かれたことだけに答えていると、思い出したかのように彼女が尋ねてきた。
「あのさ、どこか途中で、若い男の人と女の人にすれ違わなかった?」
 うん、と何気なく頷くと、途端に彼女は僕の肩を強く掴んだ。
「いつ、どのくらい前に何処で? どんな感じだった?」
 何が何だか判らず、それでもその気迫に押され「向こう」と来た道を指し示すと、彼女は勢いよく立ち上がった。しかし、走り出しはしない。困惑が、闇の中からありありと伝わってくる。
 すぐにでも先程の二人を追い掛けたいのだろうが、迷子の子供――つまり僕を放っても置けずに、悩んでいるようだった。多分、一緒に両親を捜している余裕も、どこか交番といった所に連れていっている時間もなかったのだろう。 まだ子供だった僕には、そこまでのことは判らなかったが、それでも自分のせいで彼女が困っているらしい、ぐらいのことは理解できた。
 僕は彼女の浴衣の袖口を掴むと、蛍を追いかけやってきた方へ、彼等が歩いていった方へと引っ張った。
「どうしたの……あ、そうか。あっちから来たのなら、お父さんやお母さんも向こうにいるのよね」
 いるのかどうかは知らないが、僕は頷いた。家族に会いたいのでも、困っている彼女が気の毒になったわけでもない。僕はただ、もう一度あの女性に会いたかったのだ。
「じゃあ、お姉さんと一緒にいこうか」
 どこか嬉しそうにそう言った彼女と手をつなぎ、まばらになった蛍の飛ぶ中、僕はやって来た道を戻り始めた。

 

 







 次に思い出すのは無数の蛍が飛び交う闇の中、まとわりつく蛍火にその姿を青白く浮かび上がらせたあの女性が、流れゆく川の水みたいに透き通った、暖かみのない眼差しで、足下に倒れる青年を見下ろしている光景からだ。
 それまで優しく手を引いてきてくれたお姉さんは、土手草に半ば埋もれ伏している彼を見るなり、名前らしきものを叫びながら駆寄って、その体を揺り動かした。しかし彼がどうなっているのかは、近付かずとも次第に涙混じりになってゆく彼女の声で解った。
 一人取り残されている僕の前で、現実感を欠いたまま状況は進んでいった。
「ねえ、どうしたのよう……お願いだから起きてよ……」
 幼子に戻ってしまったかのように、彼女は繰り返す。その様子を身じろぎもせずに見詰めていたあの女性が、もう興味を失ってしまったといわんばかりに、抑揚のない声で告げる。
「もう、死んでいるわ」
 その言葉にぎこちなく彼女が顔を上げる。非常識なまでの蛍火に照らされた口元が、ドウシテ……と小さく動いた。
「彼が、望んだから」
 呆然としている彼女をあの女性はどこか醒めた瞳で見返し、静かに続ける。
「そう。私が殺したの」
 しばらくの間、沈黙の中を蛍だけが舞った。そのうち、力なく開かれたお姉さんの口からあぁぁと声が漏れ始め、それはたちまち大きくうねり、獣じみた叫びに変わっていく。そしてお姉さんはあの女性に掴み掛かると、されるに任せる彼女を引き倒し、共に草深い土手を転げ落ちていった。
 二人が土手の下に消えてから、ようやく僕は我に返り、自分の背丈ほどもある草を掻き分け後を追った。一歩僕が進むたび、草葉の上で休んでいた蛍が払われ、宙にこぼれる。滑り落ちるようにして土手を下り、少し進むと急に視界が開けて、河原へと続く河川敷らしき場所に出た。
 のんびりと蛍の飛び合う中、水の流れる音が近くに聞こえる。足の裏には砂と小石の感触が伝わり、汗ばんだ肌に柔らかく触れてゆく夜風が心地よい。そんな時間さえもが眠ってしまったかのような夜の一角で、場違いにせわしく喚き狂う影があった。それがあの女性に馬乗りになったお姉さんだと気付き、止めに走ろうとする僕を、不意に後ろから伸びてきた腕が抱き止める。
両肩から包み込むようにしてまわされたその腕は、夜の影よりなお黒く、優しく抱かれているだけなのに何故か抗うことが出来なかった。人のものなら当然それは肩へと続き、さらに後ろの体へとつながっているはずなのに、僕の背中には少しも変わらず雑草の穂先や夏虫の音、そして夜風が届いている。
 背後を確かめるより、振りほどいて逃げ出そうとそれに両手を掛けたとき、耳元に誰かの顔がそっと寄せられた、気がした。
「おやめなさい。大丈夫だから」
 囁かれたその声に僕は体の力を抜いて、まわされた腕の片方におずおずと頭を乗せた。向こうでは、まだ彼女が荒れ狂ってあの女性を殴り付け、何かを泣き叫びながら胸元を掴んでは地面に叩きつけているが、その姿はどこか滑稽で、そして滑稽に見えることが僕にはとても悲しかった。
 そのうち、彼女は何かを両手で振り上げた。それが石だと気付く前に、また別の手が後ろから現れ両目を塞ぐ。
「――見ない方がいいわ」
 次の瞬間、生まれて初めて聞く、しかし何が砕け潰れたのかは本能的に判る音がした。
 首を竦める僕の両耳を、新たな二本の腕が頭を抱え込むようにして塞ぎ、別の一本が優しく髪を撫でる。その頃には恐怖も消え失せ、信じて僕は腕に身を委ねていた。闇から生えているとしか思えない、この幾本もの腕は何なのか。一体どうすればこんな重なり方がありうるのか。そして何故、あそこに倒れているはずの、あの女性の声が耳元で聞こえるのか。どれ一つとして説明はつかないのに、僕はそれらの不思議を不思議として受け入れていた。多分、もうその頃には気付いていたのだろう。あの女性は人でないと。
 随分とそうしていたような気がする。
 包んでいた腕々がすうっと後ろへ引いていき、再び僕の前に無数の蛍が現れたとき、お姉さんはぼんやりと同じ場所に座り込んでいた。脱力しきった肩が、時折しゃくりあげる声と共に上下する。
 振り返り、背後に夜以外何もないのを見届けてから、僕は彼女に小走りに駆け寄った。そして後少し、という所まで近付いたとき、静かに語り掛ける声があった。
「――もう、気は済んだ?」
 顔を上げる彼女の前に、何もなかったようにあの女性は佇んでいた。
 ドウシテ……と、再び彼女が問うた気がした。二人の間を、淡い光が音を吸いつつ飛び交う。彼は、とあの女性は虚ろな声を空に漏らした。
「彼は本当にあなたを愛していたの。誰よりも、何よりも。
 ――今が全て。そう言っていたわ。あなたといる、この瞬間以外は何も欲しくないと。
 だから、死を望んだ」
 彼女は何も言わず、口をぽかんと開けていた。
 聞こえてはいたのだろうが、何を言われているのかは、理解していないようだった。理解したくなかったのかもしれない。
「あなたを愛している。その今に偽りはないわ。でも、人の心は移ろうもの、永久にその想いが続くとは限らない――
 この先、あなたをより深く知ることで、あなたを想う気持ちが薄らぐかもしれない。二人の関係に慣れ飽きてしまうこともありえたでしょう。何かの理由であなたと別れ、別の誰かと運命の出会いを果たすことだって。
 勿論そうならないことも有り得たわ。今のこの想いとは違っても、その時々の偽らない気持ちであなたを愛することも、二人一緒に互いへの想いを育んでいくことで、さらに幸せになることも出来たでしょう。
 確かに人の心は変わってゆくもの。でも、だからこそ彼はあなたを愛するようになったし、あなたも彼を愛した。
 ――けれど彼は自分がどんな人間か知っていたの。正確には人の心と、時の力を。この先、あなた方がどうなるのか。おそらく良くも悪くも変わっていったんでしょうけど、今以上に望むもののない彼にとって、それは少しずつ幸せを失ってゆくことに過ぎなかった……咲き切った花が、一枚一枚美しかった花弁を散らしていくように。
 彼にとってあなたや、あなたといられる時間は、例え欠片でも失えるものではなかったの。今が全て。そのためなら、彼はどんなことでもしたでしょうね。
 それでも。人がいつかは死ぬように、移ろうものはとどめられない。だから彼は止められる唯一のもの――自分の時を止めたの。
 一瞬と永遠を重ね合わせ、あなたへの想いをこのままで留め置くために」
 かなりの間、二人は影となって動かなかった。
「なんで……」
 彼女がゆるゆると腕を伸ばし、あの人の肩を掴む。
「……どうしてそんな馬鹿なこと……ねぇ、なんで止めてくれなかったの、どうしてそんなことしたの、なんで、なんで……」
「彼は本当にあなたのことが――」
「だから、どうしてよっ!」
 彼女の求めているものが理屈や説明でないと知って、あの女性は静かにその白い手を、肩を掴むお姉さんの手に重ねた。
「……彼からのね、ことづてを伝えるわ。『一緒に過ごせて、本当に良かった。――ごめん、君はどうか幸せになって』」
「幸せになんか、なれるわけないじゃない!」
 絶叫は飛びまわる蛍を乱すことなく、ただ深い闇へと消えていった。涙の落ちるまま腕の中で声を立てる彼女を抱き止め、「そうかもね」と、あの女性は呟いた。
 そうしてしばらくの間、母娘か姉妹のように溶け合った後、彼女は問うともなく、再び言葉を絞り出した。
「ねぇ、あなたはどうして彼と一緒にいたの、本当に殺したの、あなたは一体――」
 あの女性は、それに答えようとせず逆に尋ねた。
「あなたは、どうしたい?」
「……え」
「彼を追ってこのまま死ぬか、それとも全てを抱えたまま生きてゆくか。狂うことも、忘れてしまうことも、この瞬間に思い出に変えてしまうことも出来るわ。
 ――どれを、選ぶ?」
 しばらくの間、彼女はぼんやりと顔を上げていたが、やがて意志の全く感じられない声で、バケモノとだけ呟いた。
「辛いことだけでも、思い出にしてしまう?」
 そう言ってあの人は彼女の瞳を覗き込んだ。彼女は何も言わなかったが、それでも想いは伝わったようだった。
「……そう。なら、あなたはあなたの選んだまま生きていけばいいわ」
 その代わり、とあの女性はその繊手で彼女の両頬を包み込む。
「彼のことは全部残しておいてあげる。想いも、記憶も。ただ、今晩の私に関することだけは貰っていくわね」
 その言葉と共に、泣いていた彼女の体が薄っすらと、淡く青白く光った。光は幾つもの微かな粒子となって浮かび上がり、流れるようにして見詰め合う二人の間に集まってゆく。そしてそれは二人の顔の前で、一つにまとまった。
「――さようなら。幸せに、ね」
 あの女性が呟いた言葉を、彼女はもう聞いていなかっただろう。小さくまとまった光が、近付いてきた一匹の蛍に誘われて宙に滑り出すと、彼女はがっくりとその身を崩した。
 それをそっと地面に横たえ、飛び交う無数の光に全身を染めあげて、あの女性は立ち上がった。
 その頃には僕にも、あの女性の周りを飛び回っているものが蛍などではないことは判っていた。想い、記憶、感情、心の切れ端、魂――どの言葉が適切かはともかく、あの光の珠の一つ一つがそういったものだとは気付いていた。
 誰に聞かせるともなく、あの女性は語り出す。
「彼を止めなかったのは、何がいいことなのか判らなかったから。心を持たない私には、選べなかったから。
 彼はね、可哀相だって言ってくれたの。誰かを愛するという気持ちを持ったことのない私を、可哀相だって。だから彼女ほどは愛せないけど、君も誰かを好きになれるよう、まずは僕が君を愛してあげる。そう言ってくれたの。
 でも、だめだった。結局私は何も感じなかった。彼が死んでしまった今も、そう。
 あなたたちが誰かを好きになったり、憎んだり、悲しんだりするのは理解できるわ。それがどんなものか、何故そう想うのか。ひょっとしたらあなた達よりも、私の方が詳しいかもしれない。でも判らないの。
 いくら知ってはいても、理解できても、それは誰かの感情でしかないの。私のものじゃない。今だってあなた方にどんな複雑で素直な想いを向ければいいのか……それはよく判ってる。どれだけだって例を挙げられるし、どんな感情だって意識の裏の裏、細部まで思い描ける。
 でも――それは私のものじゃない」
 俯き、淡々と語る彼女の姿は植物か彫像のように何の感情も漂わせてはいなかった。だからこそ、ぼくには悲しみすら借り物の彼女が、泣いているように見えた。夜が流す、露という名の涙。
「こんな自分をなんとも感じず、幾らその本人が望んだとはいえ、心をちぎり、命をむしる。そうして、欲しくもないのにそれを集めている。
 ――そう、かもね。確かに私は化け物ね。心が無い人間は、人じゃないわ」
 そのまましばらく彼女は立ち尽くしていた。まとわりつく淡い光が、伏せたその目を映す。声を掛けたくとも何を言えばいいのか判らず、この時初めて、僕は自分が子供であることを憎んだ。
 それからこちらを振り返った彼女は先程の独白など微塵も感じさせず、柔らかに笑うと、歩み寄り僕の前に屈み込んだ。
「大丈夫、何も恐いことはしないから。――君はさっきの子ね?」
 こくん、と頷くと彼女は何も聞かずにそのまま続けた。
「あのお兄さんやお姉さんとは関係ないのね。――そう、迷子になちゃったの……平気。心配しなくても、ちゃんとお家には帰れるから」
 そう言いつつ顔に伸ばされてきた両手の袖口をしっかりと掴むと、僕は勇気を振り絞って言った。
「ねぇ、僕も連れていって」
 一瞬、驚きはしたものの、すぐにあの女性は駄々をこねる子供をあやそうと笑った。
「あのね、それはできないの」
「どうして? 僕も蛍にしていいから、一緒に連れていってよ!」
 本気でそう叫んだ。もしそれで自分が死ぬのなら、死んでもいいと幼心に思った。これといった理由など無い。ただその時は、心の底からそう思ったのだ。
 あの女性は困ったように笑顔を崩すと、僕の両肩に優しく手をそえた。
「でもね、そうするともう帰れないのよ。お父さんやお母さん、お爺ちゃんお婆ちゃん、それに学校の先生やお友達にだって会えなくなるの。一緒に遊ぶこともできなくなるし、テレビを見たり、お菓子を食べて笑うこともできなくなるわ。それに君がいなくなったら皆悲しんで泣いちゃうのよ。――それでも、いいの?」
「いい! お父さんやお母さんに会えなくなっても、いい! だから――」
「本当に? 本当に皆に会えなくなっても?」
 僕は頷いた。本当は皆と会えなくなるのは嫌だったが、それ以上に彼女と別れてしまうことの方が辛かった。
 そんな僕の顔に、彼女はゆっくりと手を伸ばす。自分もまた記憶だけ抜かれてしまうのだろうかと、びくんと身を竦ますと、彼女は笑いながら冷たい指の腹で、何時の間にか流れていた僕の涙を拭う。
 蛍とも人魂ともつかないものが飛び交じる下で、僕たちはじっと見詰め合った。
 そのうち、彼女は何を思ったか、ふんわりと微笑んだ。気のせいか、それは今までの笑みとは違い、やけに人間臭いものだった。
「じゃあね、約束をしない?」
「約束?」
「そう」
 何か淡い夢に想いを馳せるかのように、彼女は囁く。
「あなたの背が私より高くなったら、きっと連れていってあげる。だから――」
 そうして、彼女はそっとその柔らかい口唇を、僕に重ねた。周囲の夏夜の虫音が、今頃になってうるさく響き出す。
 朦朧となってゆく意識の中、「今は、まだ。ね?」そんな彼女の声を、微かに僕は聞いた。









 
 黒々と足下を流れる遠い川の先で、音と微妙にずれて、弾けた花火が夜空を滑り落ちてゆく。欄干、と呼ぶにはあまりにも風情の無い金属の円柱に腕を乗せたまま、俺は夜風に惚けていた。
 子供の頃から、橋の上や校舎の屋上で一人見る風景が好きだった。学校に遅れぬよう、電車に間に合うよう過ごす毎日の中では、何も考えず、ただ現実としてそこにある風景を受け入れることが心地よかった。ひょっとしたら、自分もただの景色の一部として、その中に消えてしまいたかったのかもしれない。
 今もそうなのだろう。下の川闇はただ街灯のみを映し、時折そこに花火の崩れた白や赤や黄や緑が覆い被さる。だがどこにも蛍の影はない。下宿の軒先にその姿を見てから、早二ヶ月は経とうとしているのだから、当然といえば当然なのだが、それでも俺の目は悠然と闇に飛ぶ蛍を――いや、蛍火の中に立つ彼女の姿を捜し求めている。
 あの後一体どうなったのか、実は全く覚えていない。それとなく両親に尋ねてもみたのだが、「そういえば、お前は昔からやんちゃ坊主だったなぁ。どこに連れて行くにしても、すぐ一人で遊びに行こうとするもんで、こっちは大変だったぞ」と曖昧な答えしか返ってこなかった。
 同様に、夏夜の川辺で変死した青年と、その彼女の話も全く聞かない。図書館で古い新聞の地方欄を漁ってみたりもしたのだが、どこにもそれらしい記事はなかった。案外そんなことは記事にするまでもなく、良くあることなのかもしれないし、それとも本当はなかったのかもしれない。
 蛍と怪談にのぼせた子供が見た、とある夏の夜の夢。
 その辺りが最も妥当なのだろうが、それでも十数年間、俺は真剣に彼女を待ち続けてきた。一日でも早く会えるようにと、小、中、高校と毎日水代わりに牛乳を飲み、良く寝て良く走り、少しでも身長を伸ばそうとした。さらに毎年夏が近付いてくると、散歩と称しては夜中に近所の川沿いを歩きまわり、時々は自分でもよく判らない衝動に駆られて、空が白むまであてどもなくさ迷い続けた。
 別に今振り返らずとも、その頃から馬鹿なことをしているという自覚はあった。だが俺にとっては彼女との約束が何より大事で、それが自分の存在する理由にまでなっていた。
 ――この人生は、彼女が迎えに来るまでの仮初めのもの。それを言い訳に現実から逃げてきた覚えはないが、確かにそんな思いはあった。むしろだからこそ他人より短いであろうこの現を楽しみ、慈しんで、悔いの無い充実したものにしようと、駆けるように生きてきた。
 だがどれほど友人達と騒ぎ、何かに打ち込もうとも、自分の中にぽっかりと開いた予約済みの空洞は、その虚を縮めなかった。
 ――俺にはさぁ、お前の話が現実かどうかなんて判らないけど、でもやっぱり何かおかしいような気もするぞ。前世に愛し合った恋人の転生だの、いつか出会う運命の美青年といった、発情期未満思春期以上の少女の妄想と同じ、とは言わんよ。言わんけど、お前はそうして理想の偶像を持つことで、他人から一歩引く余裕を心の中に作っているんじゃないか? 
 この人を好きになれなくても仕方ない、あの人じゃないんだから。そう考えることで自分が傷付かないように、恋愛から逃げてないか?
 そう、酒の入ったグラスを片手に素面で問うたのは、唯一あの女性のことを話した、高校時代の友人だった。奴は俺が中、高と付き合った二人の女性のことを、暗にほのめかしたのだ。
 一人目は中学生の時、気がつけば周りに担ぎ上げられて、そのまま付き合うことになった級友だった。だが一ヶ月もしないうちに「あなたは全然私のこと好きじゃないんでしょう。他に本命がいるのに、代用なんかで付き合わないでよ!」と、俺が振ったことにして振られてしまった。もう一人は高校時代のサークルの先輩で、彼女とは六ヶ月ほど続いた。しかし、結局俺は「もっと好きな人ができたんです」と嘘をついて、先輩とも別れてしまった。六ヶ月、頑張ってみたがあなたを愛せなかった。そう本音を告げるよりよりはましだろうと考えたのだ。
 好きにはなれた。彼女が愛してくれた分、彼女を愛し返すこともできた。けど俺は彼女がいなくともそれはそれで平気だったし、好きだというのも、他の人よりは、というのに過ぎなかった。
 あの頃の俺は、誰かを愛してみたかったんだと思う。人肌が恋しかったとでもいうか、自分の中の虚を少しでも埋めることができるかどうか、そして自分に人並みの恋愛ができるのか、試してみたかったのだろう。かといっていい加減に臨んだわけでもなく、自分なりに頑張ってみたつもりだったのだが、結果は虚を埋めるどころか、かえって際立たせることとなった。誰かを愛するという感情は努力して作り上げる様なものではないらしく、似たものを育てることはできても、本物を無から生み出すことはできなかった。
 何人かの友人はこの顛末を聞いて即座に「馬鹿!」と罵り、また幾人かは「お前は恋愛に幻想を持ち過ぎだ。小説や映画のような、あんな特別なものじゃないんだぞ」と語った。
 そうなのかもしれない。実際は誰もがこんなもので、それを恋愛と呼んでいるのかもしれない。ただ、何にせよもう俺は彼女など欲しいとは思わない。
 あの程度の感情で誰かと寄り添うぐらいなら、朧気なあの女性を想い、一生独りでいよう。無理に誰かを愛するぐらいなら、それでいい。本やテレビ、友人の話などから愛と呼ばれるものがどんなものかは知っている。だが判りはせず、その感情を持ち合わせていない俺もまた、あの晩、彼女が呟いたように人ではないのかもしれない。
 手の中に残っていた缶ビールを飲み干し、俺はゆっくりと息を吐いた。川の上を走る風が、水のように肌に触れ、流れてゆく。大通りからは大分離れたこの橋を渡る者もおらず、しばらくの間、一人目を閉じて夜風を味わう。
 ――それでいい。このまま一人でずっと。
 ふと気付くと、いつのまにか花火の轟きは途絶えていた。もとより行き交う車も無く、人気の絶えた世界で、虫と蛙の鳴く音の間を幽かにせせらぎが流れ過ぎてゆく。目を開くと周囲の人家や街灯は光を失い、ただ遠くで所々に白や黄の色として闇に貼り付いている。
 欄干に預けていた上体を起こし、ぼんやりしている俺の目の前を、一粒の淡光が横切っていく。それ
が右の橋下に消えてゆくのを見届けてから、ゆっくりと振り返った。
 どこからこぼれ出たのか、音も無く飛び交う無数の蛍火に囲まれて、その女性は橋のたもとに佇んでいた。
 濃紺の浴衣、赤い帯。白い繊手は闇に浮かび上がり、束ねて首筋から片方の胸元へと流された黒髪まで、全てがあの時のまま――
 一歩一歩、彼女に近付くたびに何かが遠ざかり、蛍の数が増してゆく。虚などもとから無かったかのように消え失せ、一緒に二十年間積み重なってきたものがぽろぽろと剥がれ落ちていく。
 ――構わない。それは本当に欲しかったものじゃない。
 そうして彼女のもとへとたどり着くと、そっと背に手を廻した。約束通り、俺の方が高くなっており、
あの時とは逆にこちらが顔を寄せなければならなかった。
 一瞬と永遠が溶ける。
 離れていく唇が微笑むのを見て、俺はああと思った。
 ――そうだ、彼女の笑みはこんなだった。ただ、以前とは少し雰囲気が違う。
 多分、俺も中学や高校の時にはできなかった、同じ様な目で彼女を見詰めているのだろう。
「――待った?」
 彼女が問う。
「いや」
 俺は微笑む。
「――行こうか」
 そう呟くと、彼女は小さく頷いて、俺の腕に自分の細い腕を絡める。
 無数の蛍火が、どこまでも延々と伸びる土手道を青白く染め上げる。
 そして二人は寄り添いあったまま、ゆっくりと歩き、消えていった。
 蛍火の闇の中へと――

 
――――了