零れようとする褐色の液体を止めるかの如く、唇の端を吊り上げ彼女は一言。
「見事」
 そして崩れ落ちた。
 既に数刻、変わらずに降り続けている雨の韻が、薄暗い部屋の中に響き渡る。漠とした空間に立ち残る、勝者は只一人。
「――ん、せぇ?」
 まだ少年の面影を色濃く残した若者は、やがて呆然と視線を下げる。
 倒れ伏す彼女の、長年『仕事』を続けてきた、女というよりは職人の形をした指の間から、白い陶製の器が転び出ていた。今更の様に広がりだした液体が、師の体を床を、黒く静かにじんわり染め上げていく。
「せん、せえ……?」
 短めの髪に隠されたその顔は、どこか寂しげに、それでも確かに笑んでおり――
「ッ先生!」
 ――勝った青年こそが、蒼白に顔を歪め崩した。
 膝を付き、師を胸元へと抱き起こす。細いが強靭な、なめし革を思わせた逞しいはずの体は意外と軽く、それが師と自分は五歳も違わぬという事実を、改めて青年に思い出させた。
「先生っ、先生ぇっ!」
 掻き抱くように、耳元で叫ぶ。これは何かの間違いだ。こんなことがあって良い訳がない。あの師が倒れるなど、自分如きが師匠を倒すなど、そんなことは絶対に――
「――見苦しく騒ぐな。馬鹿者が」
 師の口から零れた、口汚く、されど優しい常の物言いに、半泣きだった青年の顔に安堵という水滴が、落ち広がる。
「あ……良かっ――」
「――これからはお前が当代だ。無様に狼狽えなどするんじゃない」
「っ!」
 息を飲んだ。青年は、弱く、小さく、だが何度も首を横に振る。
「せんっ、せぇっ……せんっ、せえッ……」
「お前は確かに私を越えた。なれば今、この瞬間よりお前こそが当代。我は既に過去、師であった者に過ぎぬ。
 ――そのような顔をするな。傲慢に胸を張り、誇れ」
 しかし若者は頑是無い子供のように首を振る。そうすれば、まるで失われていく何かを押し留められるとでもいうように。間違った現実が消えてしまうとでもいうように。
 若者は確かに師の技量に惚れ込んだ。少しでも師の技を吸収し、彼女に追い付こうと昼夜を問わず己が腕を磨き続けた。流派当代、それは正しく彼に与えられるべき称号。だが――
「……違います」
 抱き締める手に更なる力を込め、なおも首を打ち振る。
「僕は……当代なんかじゃありません」
「――戯けたことを抜かすな」
 師の声が鋼の白さと冷たさを帯びる。
「最初に言ったはずだぞ。我が教えには何も無い。金も地位も名声も。誇りも伝統も思想も。道具、技、手段。学ぶ者の背負う理由、意思、年齢、性別。何一つ無い、何一つ関係ない、ただ、ただ強き者のみが高きに立つ。――お前に教えてやれるのは、そういうものなのだと」
 聞き分けの無い愚弟子の言に険しさを増していた彼女の顔に、音無く触れるものがあった。見ること叶わぬ自分の頬に、小さく落ちたものに気付いて、ふと彼女の力が抜ける。
「嫌、です……」
 若者が胸の内で叫ぶ。
 自分が門を叩き、あなたに師事したのは。時間という時間を、その教えに割いたのは。「そうじゃない、違うんです……」
 あなたが見ているものを見たかったから。あなたのことを知りたかったから。
「僕は……」
 自分という人間のことを知って欲しかった。あなたの人生に寄り添いたかった。
「僕は、少しでも……」
 また、彼女の頬に雫が落ちる。それはまるで彼女のもののように、音も無くすっとその頬を滑り下る。
「少しでも、ただ、あなたと一緒――」
「黙れ」
 はっきりとした、けれど優しい呟きだった。拒むのでも否定するのでもなく、不可思議な穏やかさをもって、彼女は至近から若者の眼差しを受け入れる。
「お前は私を越えたんだ。だから、諦めて当代になれ」
 違う。違います。あなたを先生と呼び、教えを請い続けてきたのは、そんなもののためじゃないんです!
 口唇を噛み締めていた彼は、やがて絞り出すかのように小声を吐いた。
「……嫌ですよ先生。僕は、そんなものが欲しかったわけじゃない……」
「知ってたよ」
「え?」 
 けど、と瞼を閉じ、心音に耳を済ませるかのように彼女は青年の胸板にそっと顔を寄せる。
「――諦めるんだ」
「ウッ――ク、せんっ……せぇッ……」
 それ以上の駄々は捏ねられなかった。
 それが、今まで言葉に出せなかった自分の告白に対する、彼女からの告白だと、解かってしまったから。他の誰でもない、この世界で唯一人。彼女の弟子であり、彼女を倒した者であり、そしてこれから流派の当代を巡り、どちらかが死ぬまで何年も何十年も争い続ける相手への、出来うる限りの答えだと、気付いてしまったから。
「聞き分けのない奴だな。――だから泣くなというに。しょうの無い」
 若者の腕の中で、微かな苦笑を浮かべながら、最早先代となった女性は、ただ黙って落ちてくるものを受け続けた。
 雨音が響く。世界を打ち据えるざわめきが、途切れぬ漣となって全てを覆う。幸せな表情で、彼女は囁く。
 諦めろ、と。
 彼と、自分。その二人共に言い聞かすように。
 ――どれだけ、時が経ったか。雨の止む気配は未だ無く、外の暗さも変わらぬまま。身じろぎはしても何一つ次へとは移ろわぬ閉じた世界の中で、ゆるり、と細い影が身を起こした。まだ本調子ではないのだろう。背を見せ一歩、踏み出したところで彼女のその身がふらつき――
「触るな!!」
 支えようと伸ばした彼の手を叫びが打ち据えた。小卓に手をつき、椅子の背に縋り付きながら。一歩一歩、己が力だけで彼女は進んでゆく。自分を拒んだまま小さく、確実に遠ざかってゆくその後姿へと、幼子のように彼が問う。
「先生……何処へ?」
「知れたこと。弟子に敗れ死にそびれたからには、道は一つ。再びお前に挑み、当代の座を奪い返すその日まで。この弱き身をお前の目前より隠し消す」
 答える間にも、歩みが止まることはない。振り返ることもない。
「そんな――」
 解っていたことだ。それは止めるどころか、止めようとすることさえ許されない。始まりの理由はどうであれ、彼女を師と呼び、彼女が人生をかけて得たものを学び受け、そして彼女を越え倒した自分には。
 やがて、どうにか建物の入り口へと辿り着いた彼女は、ゆっくり扉を押し開いた。そこから入ってきた激しい雨音が、薄暗い室内を洗うように満ちる。
「せっ――」
「――先代として、そしてかつて師であった者として最後に命ず」
 なおも背を向けたまま、地を叩く雨の響きに負けぬ強い声で彼女は宣じた。
「当代として好きに生きるがいい。この屋敷とて、既にお前の物だ。弟子を取るもよし、取らぬもよし、だがな――」
 言葉を切り、振り返りもせず雨闇の奥を眺めるその瞳には、一体何が映るのか。
「だが、負けることだけは許さん。誰であれ、何であれ、負けることだけは絶対に。
 ――何時の日か私がお前を打ち倒しに来るその日まで。その腕、決して鈍らせるな!」
「――はいっ」
 その答えに何を思ったか、不意に彼女は振り返った。片手を戸口に付いたまま、それまでの遣り取りが冗談ででもあるかのように、照れた笑みを浮かべる。
「実はな、私はそんなに嫌いじゃぁないんだ。
 これがある限り、私は君のことを忘れないし、君も私のことを絶対に忘れない。
 倒すとか、返り討ちにするとか、物騒で救いの無い生き方ではあるが――
 けど、世界中でたった一人。
 私は君のことを想って――君は私のことを想い続ける」
 まるで少女の如く誇らしく嬉し気に、真っ赤な顔でそう言い切ると、彼女は雨の中へ歩み出す。
 その背へ、最早止めること叶わぬ彼女の去り行く影へ、彼は唯その人の名を叫んだ。
「―――!!」






『主のいない喫茶店』






 コツコツコツ、とこめかみに音が響く。目蓋を上げると磨き上げたカウンターの木目に映る朧な影が、まず目に入った。その向こうに、九十度回転した少女の横顔。
「……あ、いらっしゃいませ」
 彼の寝顔に合わせて首を傾げようとしていた少女が、目を大きくすると、素早く後ろへ身を引いた。その姿を見て、同じセーラー服に身を包んだ娘が二人、何がおかしいのか声を殺して笑っている。
「――寝てた、よね。聞くまでも無く」
 情けなさそうに苦笑する若者――こちらは明らかに高校生ではないが、更に年上から見れば大差ない――の言葉に、その白い指先でカウンターを叩き起こした少女がこくりと頷き、次いで両手を前に差し出し、ぶんぶんと左右へ振った。
「い、いえ、そんなことは無くって――あ、その、寝てるのは寝てましたけど、その、そんなこと無いって言うのは、わたし達も来たばっかりだから気にしないで下さいというかなんというか――」
 まだ高校生といっても一二年だろう。ただでさえ小さな体が、更に目まぐるしく独楽鼠のように慌てふためく。
「普通ですよ、普通。居眠りの一つ二つぐらい。今日はお天気も良いですし、お客さんだっていないんですから。そうそう私だって何と数学の授業中に――」
「いや、でもねぇ」
「大丈夫ですって、暇なんですから。あ、それはお店が流行ってないって言ってるわけじゃなくて、いえあのその、他にやること無いんだったら寝るのも有意義――って、ああ、違う! 巻き戻して、エーとですね、私達にしてみれば寝顔が見れてラッキーかな……あああっ、今の無し無しオフレコ、ノーカンっ!」
 潮時だと判断したのか、連れ二人の片方、幾分背の高い少女が手馴れた動きで後ろから羽交い絞めにして口を塞ぐ。小柄な少女はもがくものの、非力さ極まって抜け出すことが出来ない。
 あまりといえばあまりな光景だが、もう何度か見慣れている身としては、むしろ微笑ましい。そうして青年が元気の有り余った彼女達のじゃれ合いを見守っていると、残る一人。人によっては何かを企んでいるとも挑発しているとも取りかねないほど、目尻の切れ上がった少女が、横を向き、今気付いたとばかりに呟いた。
「お客さん、いるよ」
 その言葉に、他の少女二人どころか、青年までもが真顔になって店の奥を覗く。最奥に位置する二人掛け小卓。騒ぎは耳に入っているだろうに、我関せずとハードカバーのページをくる背の高い影があった。その手元に置かれているティーカップを見て、思わず彼は安堵の息を吐く。
「――良かった」
「――みたい、ですね」
 そこで、カウンターを挟み、目の合った少女達と笑い合う。
「改めて。いらっしゃいませ。それから、起こしてくれてどうも有り難う」
 稀少な常連客三名に向け、紅茶専門店『雨韻亭』現マスター――あるいは店主代理、蔦壁和泉は笑顔を向けた。





 さて――まずは紅茶の淹れ方だが、奥が深そうに見えて実は全く大したもんじゃない。良い茶葉を、少し多目に。それを、程好い温度のお湯で適当な時間、蒸らすだけ。余裕があるなら、ポットやカップを先に温めておくと、なお良し。で、これがかなり大切なことなんだが――





 目の前でポットから三人のティーカップヘセイロンを注ぎ入れる。この時、濃さが均一になるよう、見事に注ぎ分けてみせるのが腕の見せ所だ。台湾茶の方で使われることもある分茶器――茶海、公道杯、母杯等と呼ぶ、まるきり大きなピルクピッチャー――へと、一旦注ぎ移せば容易に濃度も均しくなり、それ以降幾ら時間をおいても濃く出過ぎないという利点はあるが、それではマスター自らが、腕を振るって最初の一杯を淹れる意味が無くなる。では、二杯目以降はどうかといえば――この国の客は幸か不幸か自分の手で紅茶を淹れるということに全く興味を持っておらず、多少の渋味えぐ味は改善するより我慢を選ぶ。
「はい――どうぞ」
 ――他人に出すときには、絶対に笑顔を忘れないこと。
 自主的行方不明中の前マスターの言葉を思い出すまでも無く、蔦壁は満面の笑みを浮かべる。上等の茶葉を用い、自信を持って淹れた最高の一杯。ならば紅茶好きとしては顔も綻ぼうというもの。
 少しの間、その顔に見とれる少女達。この瞬間の微笑が一部で客寄せとなっているのだが、当の本人は自分の出した紅茶の香気にあてられているのだと信じて疑わない。茶馬鹿である。
「起こしてくれた御礼に御茶請け、おまけしておいたから」
 卓の中央に、多目に盛ったクッキー皿を置く。季節の果物をふんだんにあしらった本場仕込みのケーキ、シェフ自慢のカナッペ盛り合わせ。――そんなものは到底出せないが、二三枚のクッキーや生チョコといったちょっとした摘みものは、ティースプーンと同じ値段で付いてくる。それに、ポットへの御湯は何杯でもお替り自由というのが、ここ『雨韻亭』の基本的な形だ。
 心ばかりの差し入れに、子供達は声を上げ喜ぶ。幾ら良心的な価格設定の店で、人数分をお得な大ポットで注文しようと、高校生に喫茶店通いは苦しい。無駄な余裕の無い財布では、他に御茶菓子を頼むことなど、そうそう出来はしない。
「ところでマスター。随分ぐっすりとお休みでしたけど、疲れでも溜まっているんですか?」
 まだ若いのに。と、先程、友人を羽交い絞めにしていた少女が呟く。
「いや、そんなことはないよ。――疲れようにも、疲れようが無いからね」
 ぐるり、と店内を見回す。夕暮れも近いというのに他に居る客は一人だけ。普段よりさらに閑散とした有り様に思わず薄い溜息を漏らすと、「それはそれで侘びしい話だ」目元の印象的な少女がまるで独り言のようにそう呟いた。
 もう一人、最初に騒いでいた少女は、今は顔を赤く染め小さく俯いている。多少なりとも落ち着いて、今更ながら恥しくなったのだろう。何時ものことに微笑ましく思いつつ、蔦壁は話を続けた。
「念のために聞いておきたいんだけど、――寝言とか言ってなかった?」
 涎は確かめたんだけど、と笑う彼に三人は顔を見合わせ、首を傾げた。
「無かったな」
「ええ、静かなものでしたよ」
「だよね。寝言や鼾どころか、寝息も聞こえなくて――」
 『正直、突然死かと思いました』なる不吉な総評を受け、微笑みが苦く変わる。
「でも、尋ねるってことは、そういう癖でもあるんですか?」
「いや、無いと思うけどね。ちょっと夢を見ていて――」
 そこで涼やかに扉鈴の打ち合う音が響き、蔦壁が声を飛ばす。
「いらっしゃいませ! ――じゃ、ごゆっくり」
 そうして去っていく背を一人、小柄な少女は目で追い続け、やがてちょっと肩を落とした。
 そんな彼女の様子を気にすることも無く、残る二人は砂糖壷を回し、ゆるりとティースプーンで一混ぜすると、カップを鼻先へ持ち上げる。相変わらずの友人の方へ用を終えた砂糖壷を押しやりながら、呟く。
「――そんなに気になるのなら、一人でカウンター席に陣取れば良かろうに」
「確かにね。このお店なら、ほとんど独占できるわよ。やってみたら、詩乃ちゃん?」
 何気ない提案に、佐々木詩乃はポンと顔を赤らめた。慌てふためき、小声で返す。
「酷い……そんなの出来るわけ無いよ。そりゃ何時かはカウンターに座って、マスターさんと差し向かいで話したいけど、夢や野望っていうのは努力して実現していく、けれどすぐには無理なもののことであって、ええと、頑張っていくつもりはあるんだけど、今は無理。
 私は友江ちゃんほどしっかりしてないし、硝子ほど――硝子じゃないから」
「うーん、そんな深く構えるようなことでも無いと思うんだけどねえ。案ずるより産むが易しって言うし」
「でも、急には――御免ね。二人には何時も何時も付き合わせちゃって」
 その言葉に、向かいに座る篠原友江は大らかに微笑む。
「いいわよ、私は。ここの紅茶は美味しいから」
「金が無いなら付き合わん。というか見捨てる」
 クッキーを二本の指で摘み上げながら、薄井硝子も同意する。
「ん。有りがと」
 ようやく詩乃も自分の紅茶に手を伸ばす。ミルクも砂糖も大量に使う方なので、せめて最初の一口は礼儀としてブラックで飲むことにしている。癖の無い香りを口中で転がしながらふとカウンターへ目をやると、マスターは来たばかりの若い女性客と笑いながら何やら言葉を交わしていた。仕事帰りか、休憩か。その乱れなく手入れされた綺麗な髪と、少しも崩れたところのないスーツの後ろ姿には見覚えがある。彼女もまた結構な常連客で、そしてどうやら自分以上にマスターとは深い仲のようだ。
 幾度か見たその横顔。細部までは覚えていないが、自分とは到底素地からして違う顔に綺麗な化粧が重ねられていて、輝くように満ちていた彼女らしさに、大人の女とはこういう人を指すのかと思ったものだ。
 今、楽しそうに語らう二人を見ても、不思議と嫉妬や不安、焦りといった負の感情は詩乃の中に浮かんでこなかった。ただ、自分も後何年かしたら、あんな綺麗になれるのだろうか、彼女のように当然といった顔でカウンターに腰掛け、マスターと自然に笑い合うことが出来るのか――そんな憧れめいたものが胸でもやめく。
 その光景は詩乃の思い描く理想の一つであり、今の彼女達はまさに形を得た夢であった。
「でも、確かにこのままだと、何時まで経っても進展しないような気もするわね」
 友江の声で我に返る。頬に片手を添え、彼女は提案する。
「突然今すぐ急にっていうのは、確かにやっぱり難しいと思うの。だから、今度からは三人でカウンターに座るとか、少しずつ慣れていくのはどうかしら」
「うーん」
 どうにも答えかね、うやむやに引き攣った笑顔で返事を誤魔化す。
「私のことはもうそれぐらいでいいからさ、友江ちゃん達はどうなの? 色々お世話になってる分、もう嫌ってほど力に――」
「詩乃ちゃん」
 机の上、カップを持っていない方の詩乃の手を、友江がそっと両手で包み込む。優しい眼差しは、小さな子を見守る先生のようで。
「不安かも知れないけど、でも詩乃ちゃんは詩乃ちゃんが思っているより、もっといい子だよ。可愛いし、優しいし、喋っていて楽しいし――それはずっと一緒に居る私達が保証してあげる」
「……友江ちゃん」
「でもね、どんな良いところも、相手に見てもらわなきゃ伝わらないんだよ?」
 照れくさい。けど振り払い、笑い誤魔化そうという思いを、彼女の温かい手から伝わってくるしっとりした優しさが押し止める。
「まずいっぱい話すの。いっぱい見てもらうの。そうして自分を知ってもらって、相手の人のことをもっと知ろうとするの。お付き合いするっていうのはね、そこがゴールじゃなくて、『私はあなたが好きだから、あなたのことをもっと教えてください、私のことをもっと知ってください、そのためにもっと側に居てください』ってお願いする、一緒に沢山の時間を過ごすためのスタート地点なの。だからね、ほんの少し勇気を持とう。大丈夫、だって――」
 きゅっと握り込む手に力が加わる。
「だって、女子高生っていうのは最強のブランドだから」
「……ハ?」
「だからね、男は皆、女子高生って言葉に弱いの。――馬鹿だから」
 慈母の如き微笑みは揺るぎもしない。だからこそ、からかわれたと詩乃が気付くまで、若干の時間が掛かった。
「とーもーえ、ちゃぁぁン」
「――成程」
 と、そこでそれまで興味無さげにクッキーだけへ集中していた硝子が、良く解ったとばかりに頷いた。
「ふむ。なら、付き合おうと付き合おうまいと、あと二年ということか」
 にやりと不敵な笑みにその顔が歪む。。
「蝉に然り、蛍に然り。恋だ愛だ騒ごうとも、咲いた花なら散るのが定め。――フフ、所詮人とて虫ケラよっ!」
「そこ、虫ケラゆーな!!」
 ――小雀達は今日もかしましい。





 一方、佐々木詩乃に大人の女性と評されたその客は、カウンター向こうのマスターが注文を聞くより早く、その赤いルージュの引かれた形良い唇を開いた。
「酒。」
 何かおかしいのなら、それはむしろ違和感を覚える方が間違っているのだと言外に断定するような自信に満ちた声。
「バーボン。ストレートで」
「……うちは紅茶専門店です」
 少しも自分の正義を疑っていない彼女の完璧な笑顔に、蔦壁も文句の出ようが無い見事な接客スマイルで切り返す。
「無いの? しょうがないわね。じゃ、スコッチかアイリッシュでも構わないわ」
「残念ながら当店ではアルコール類は一切取り扱っておりません」
「嘘ね。ブランデーとかあるじゃない」
「あれは香り付け用ですので」
 にこやかに微笑みを交わす男女二人。お互い、そこに隙はない。
 ――先にスーツ姿の女性が折れた。冗談はここまで、とばかりに小さく息を吐くと、幾分柔らかくなった笑顔で注文する。
「仕方ないわね。じゃ、ロシアンティー。蜂蜜とジャム、あとついでに紅茶も抜いてお願いね」
「分かりました――って、それじゃウヲッカしか残りませんよ」
 そこでようやく、一転、女性客は不満そうに睨み上げる。
「何よ。この店は客のちょっとした注文も聞けないってわけ? 黙って俺の紅茶を飲めないんだったらとっとと出てけって?」
「いや、その、そういうわけじゃないですけど……」
「大体ね、長さで言えば私は今のマスターであるあんたより古くからこの店と関わってるの。開店当時どころか、企画構想段階から。資金だって幾らか出してるし、言うなればオーナーさまのお一人よ、オーナーさま。そんな私の言うことが聞けなくって、マスター?」
「だったら店の経営方針を根底から否定するような注文はお控えください、オーナー」
 蔦壁が微笑むと、女性客も優しい顔で見詰め返した。再び、外見だけは友愛に似た、しかし何をどうまかり間違っても絶対にそういったものとは違う視線が、二人をザイル並の太さで繋ぐ。
「――ミルクティー、葉はお任せ」
「……少々お待ち下さい」
 しばらくの間、薬缶がレンジの脚に当たる音、密閉容器から取り出された茶葉がさらさらと崩れる音、そういったものだけが耳に響く。音も気配もありながら、カウンター周りの静寂はむしろ深まり、自分を捕らえたその雰囲気に従うかのように、そっと差し出されたカップを山瀬楓は黙ったまま大人しく口に運ぶ。
 後ろで時折あがる笑い声さえ、どこか遠い。二度、三度。カップの縁を傾けていると、その間隙を縫うように、小さく音が届いた。横目で見ると閉じたハードカバーを手に男性が席を立つところだった。背が高い。余り気配も無く彼女の後ろを通り、レジへ。合わせて向こう側の蔦壁もカウンター端へと移動する。
「――はい、丁度頂きます。
 それにしてもすみませんね、片桐さん。いらっしゃるのにのに居眠りなんかしちゃって……」
「――別に」答える声は低く小さく掠れ、囁きに似ているものの、不思議と耳へはしっかり届いた。「ここには紅茶を飲みに来ている。注文通りのものが出てきさえすれば、文句は無い」
 そうして小型のヘッドホンを取り出しながら背を向けかけ、そこでふと自分の言葉が嫌味めいていたことに気付いたか、幾つか言葉を繋ぐ。
「追加注文がしたければ起こすし、騒がしいのは苦手だから、むしろ寝ていてくれた方が静かで有り難い。――御馳走様」
 店長一人で騒がしいも何も無いだろうが、そのままふいと彼は出て行った。戻ってきた蔦壁に楓は問う。
「今の、知り合い?」
「ええ。て、御存知ありませんか? 開店当初からの常連さんらしいんですけど」
「さて。――ちょっと見覚えないわね」
 常連同士とはいえ、時間帯や曜日がずれれば、むしろ顔を合わすこともない。しかしその言葉に、ああそれはと蔦壁が納得する。
「片桐さん――と仰るんですけど、その騒がしいのが苦手というか、人間嫌いだそうで。大概、人の居ないときを見計らって来られるんですよ。あと勘がいいのか、他のお客さんが入ってくる前に出て行かれますしね」
「何よそれ」
 顔を顰める彼女に、蔦壁は苦笑しつつとりなす。
「悪い方じゃありませんって。よっぽどここの紅茶が気に入ったのか、かなり足繁く通って下さってますし、それに味覚が――」
「味覚が?」
「嗅覚、かもしれませんけど。恐ろしく鋭敏な感覚をされているみたいで、薄目のお茶を御所望なんですが、それでも茶葉の変化やこちらの調子の良し悪しに確実に反応なさるんです。紅葉さんも昔、よく洗ったはずの茶缶に別の茶葉を入れたことを指摘されたとかで、不思議がってましたね。
 多分、僕や紅葉さん以上にこの店の味を知っている、良い意味で気の抜けないお客さんなんですよ」
 ふーんと、楓は生返事。久々に聞いた友人の名を反芻しながら、にやりと笑う。
「で、何したって?」
「……聞いてたんですか」
「聞こえたのよ」
「あーその、他にお客さんも来なかったんで、ついウトウトと。申し訳ありません、オーナー。深く反省し、以後身を慎んで経営に邁進致しますので、エーと首だけは御勘弁」
「冗談や言葉尻を引きずる奴は女性に嫌われるわよ」
 いや、あんたの場合は殴られるか。楓がそう続けた言葉に、ええ確かに手の方が早そうですね紅葉さんの場合、と蔦壁は頷く。
 後ろのテーブルからは、また女子高生達の元気な騒ぎ声。若いっていいなと思い、あえてその言葉が意味するところを深くは考えず、山瀬楓はカップをソーサーへと戻した。陶磁の肌の中、薄白い面が、ささやかに揺れている。
「和泉君」身を乗り出すようにして、蔦壁の目を覗き込む。「――お願いがあるの」
 対する蔦壁も顔を寄せ、他に聞かれまいとするかのように小声で答える。「酒だけは絶対駄目です」
 カウンターに突っ伏す楓。そこにはもう、大人の女などどこにも居ない。
「お酒は結構臭うんですよ。それにアルコールが入ると、どうしても店の雰囲気だって変わるんです。紅葉さんも絶対、出してはくれなかったでしょう?」
 当てずっぽうだったが、外れるとは思わなかった。案の定、呻き声が同意する。
「……そんなに、飲みたいんですか?」
「そんなに、飲みたい気分なのよ」
「なら、会社の同僚や友達でも誘ってみれば」
「駄目」
 苦悩に眉根を寄せた表情で、首を振る。
「男だろうと女だろうと、付き合ってはくれるんだけど、でもただお酒を飲むためだけにってのは」そもそも、と鬱に言う。「皆、お酒強くないし」
「あぁ、そう言えば一人一瓶が基本とか、紅葉さんもふざけたこと言ってましたね」
「一般常識じゃないの? それ」
 あいつさえいれば、朝までいけたのに……
 聞かせるための言葉ではなかったのだろう。ほとんど呻き声と大差ないそれは喉奥から口腔を経る間に交じり合い、紅唇を出たときには既に意味不明の音の塊と化していた。
 大空紅葉と山瀬楓。名前で勘違いされることもあるが、この二人、血縁は全く無い。並べてみれば、よく解る。だが酒に関しては学生時代から魂の双子だったのだ。
 やがて、蔦壁の目の前で楓は伏していた体を起こすと、背筋を正し、白い喉首を晒すように伸びをした。ほんの数秒。それだけで、雰囲気がシャンとしたものに戻る。
 優雅な指の動きで、冷めたミルクティーを口元へ運ぶ。
「――閉店後なら構いませんよ」
 意識せずに蔦壁の口から言葉が出た。さして表情を変えず、ただ方眉だけを起用に跳ね上げて楓は問い返す。
「無理に気を使ってくれなくていいのよ? もう、大分楽になったし」
 そんな楓の言葉を無視するかのように、目を合わせもせず薬缶へと水を入れる。そろそろテーブル席の女子高生達が追加のお湯を必要とする頃合だろう。
「まあ僕はそんなに飲めませんけど、簡単な肴ぐらいなら作りますよ。それに、紅葉さんの話なら相槌を打つ程度は出来ますから」
「ふーん。――久々に彼女のこと、聞きたい?」
「ええ」
 笑顔で返す。それがどの程度作ったものかは、浮かべた蔦壁自身にもよく解らなかった。





 清掃を終えた店内の明かりは既に落とされており、唯一絞った琥珀色の光だけがカウンターを薄闇に浮かび上がらせている。内側には、何時も居る場所が楽だからと、エプロンを外しただけの蔦壁和泉が立っており、反対の客席側には向かい合って唯一人、ざっくりと楽な私服姿に着替えた山瀬楓がそこにいる。
 まさかと思うが、元からここはそういう営業も想定していたのか、暗い中にバーボンのグラスを置いただけで、自然過ぎるぐらいにそこはもう紅茶専門店ではなく、何年も続いたバーの片隅となった。若い燕のような男性が白い指でグラスに氷を落とし、幾らか酔い崩れた女が艶めいた笑みを浮かべ、それを受け取る。彼女の手の中で、琥珀色の液体がとろみ帯びた光を揺らめかす。
 最も、バーテンはシェイカーを振るどころかカクテルの作り方一つ満足には知らず、客の女性も最初こそ遊戯めいたもてなしを楽しんでいたものの、今じゃ面倒だとばかりに手酌でぐいぐいやっている。――しかも度数五十度といった濃口のバーボンを。
「しかし、紅葉も今頃どこをほっつき歩いてるんだか。連絡とか来た?」
「いいえ。稀に茶葉の木箱が送られてくる以外は、何も」
 こちらはそう酒に強くない蔦壁が、まだ幾らか残っている自分のコップに冷えた麦酒の瓶を傾け、新たに泡を立たせ足す。
「ということは、まあそれなりに元気でやってるってことよね、あの時代遅れのバックパッカー。全く……」
 店の残り物で作ったサンドイッチを楓が摘む。強めに効かせた香辛料の刺激が、酔っ払いの舌には心地良い。
「――ねぇ。今、どこら辺に居ると思う?」
「そうですねぇ……最後に送られてきた葉がダージリンだったから、インド、スリランカ近辺じゃないですか?」
「そこが私みたいな素人には分からないのよ」と楓。
「あいつはあんたより美味しいお茶を淹れられるようになるため、修行の旅に出たんでしょう? だったら、まずイギリスなんかに行くのが道理じゃないの?」
 その言葉に、なるほどそうですね、と相槌を打って、少し考え蔦壁は言う。
「紅茶ならば本場はイギリス、飲茶なら中国台湾。それは、ええ確かです。けれどお茶を飲むという風習は世界各地にありますし、それぞれの国の作法には、それぞれの国の気候や料理、文化、風習、生活といったものが密着しています。インドにはインド、モンゴルにはモンゴルのお茶があるんです。
 紅葉さんぐらいになると基本はあらかた押さえているでしょうし、むしろ見知らぬ土地で新しい淹れ方に出会うほうが勉強になるんじゃないでしょうか。もしくは――美味しいお茶を淹れるという一点だけについて言えばですが、当たり前の話、さらに良い茶葉を手に入れればいい。
 実際、この店で出している葉のほとんどは、紅葉さんがその足と鼻で見付けてきたものですよ」
 自分のことのように誇らしげに笑う蔦壁を前に、楓はふと皮肉げに唇の端を上げる。
「腕じゃ敵わないから、材料でってこと? それはまた情けない」
「良い材料を見付け選ぶのも、料理人の腕の一つですよ」
「料理人?」
「いえ、紅茶人」
 変だ変だと互いに笑い合う。
「で、紅茶の産地に限って言えば、まずインド、スリランカ、それから中国」
「――中国にも紅茶があるの? 烏龍茶とかジャスミン茶じゃなくて」
「ありますよ。世界三銘茶といえばインドのダージリン、セイロンのウバ、それに中国は祁門。アールグレイにしても、元になったレシピは中国の古いものだったということですしね」
「……世界五大ウイスキーならそらんじられるんだけどねー」
「インドネシア、タイ、最近だとネパールなんかの茶葉の評価も上がってきてますね。地理的にはダージリンのお隣に当たるんです。大穴だとケニア。ああ、あとここ数年ブームになってきている中国茶の方を極めようとしている可能性もなきにしもあらず、といったところですかね」
「つまり」楓が振った手先のグラスでからんと氷が音を立てる「世界規模で行方不明」
 どちらからともなく溜息が零れる。瓶の首を握り締め、豪快な仕草で楓はウイスキーをグラスへと注ぐ。
「ちゃんと帰ってくる気があるんだか……」
 その言葉に、向かい合う蔦壁が情けない笑みを浮かべる。幾らかは自分に言い聞かせるかのように。
「でも、『自分が戻るまで』店は任せた、と手紙にはありました。新しい良質の茶葉が売っておけと送られてくるのも、その気があるからのことでしょう」
「――私には置手紙一枚で常連客に店を押し付けるあいつの気が知れないわよ」
 ついでに、とグラスで指差す。
「置手紙一枚で店を引き受けるような客のことも」
 苦笑して蔦壁は流す。
「……まあ、紅葉さんには紅茶に関して素人だった僕を、ただでここまで仕込んで頂いた御恩がありますし、弟子として、多少の先生の無茶は可愛がって貰った御礼に聞くのが道理かと」
「弟子として、ねぇ。――無茶にも程があると思うけど?」
「物は考えようですよ。就職難のこの時代に、腕を見込まれ店一軒、この若さで任されたと思えば――」
「お願いだから、潰れて当然のお店と縄一本で心中するのは止めてよね」
「……酷いこと言いますね、オーナ−。これでも頑張って商いやってるんですけど」
 冷えた水を別のグラスに貰うと楓は火照った喉を洗い流した。空になった細身のグラスを手で弄びながら『私はね』と呟く。
「私はね、いいのよ。あいつとは高校からの腐れ縁だし、たまに受ける突拍子無い迷惑も、それなりに納得した上でのことだから。極端な話、どうしても付き合いきれなくなれば、怒鳴りつけて縁を切るぐらいのことはするし出来る。そんな自信みたいなものがあるから、大抵の無茶には逆に諦めて付き合おうって気にもなる。けど君は――」
 違うでしょ。その呟きに応えは無い。
「紅葉はね、昔から男とか恋愛だとかに興味が無い風だった。本人は、『よく解らない』とか言ってたわね。まあ、寝袋担いで旅するのが何より楽しい時期に、同年代の、好きなんだかヤりたいんだか今一つ区別が付いていない連中との付き合いなんて、鬱陶しいだけだったでしょうし、そういう意味で最初から大きく『押し売り・宗教お断り』の看板を上げるのは、正しい選択だったと思う。でもね、そのせいかな。あいつは、解っていても無視する癖がついちゃったのよ。
 好意を向けられても、それが男女のものだとは気付かない振りをする。誰かに気が惹かれても、あえてそれ以上は考えない。しばらくそうしていれば、そのうち世界はその通りに上手く回りだすから。
 見事な処世術には違いないけど、ね」
 ふと、蔦壁は何故この店で音楽を流さないのかを思い出した。元々、有線を引く金も惜しんだということもあるし、静かに紅茶を楽しんでもらいたいという考えもあったそうだが、それより何より。
「ずるいとか思わなくも無いけど、それは君と紅葉の問題だから、口を挟むつもりは無いわね。ただ、何と言うか」
 確かまだ通い始めて間もない頃の自分が問うた。彼女は、聞きたいから。そのためにはちょっと邪魔なんだと笑った。
「まだ、私より紅葉よりそんなに若いのにさ、背負い込んで、決め付けて、この店に縛られる必要はないってこと。付き合いの長い私が自信を持って保証するけど、この店を頼むって言ったあいつ自身、無理をしてまでの人柱なんて絶対望んじゃなかった。君自身のためにも、今、やっておくべきことはあるだろうし、やりたいこともあると思う。なら、そっちを優先させて欲しいの。後になって、誰も後悔しないために。
 お店なら、紅葉が帰ってから再開すれば良いわよ。店長のくせに遊び歩いているような人間が、全部悪いんだから」
 乾いた舌を、新しい水で潤す。二人はしばらくの間、黙って己の手元に視線を落とした。互いに無言だから気が紛れることも無い。シャツの上に落ちる店の暗がりが重い。飲み過ぎたかと、蔦壁は判じる。
 ふと、楓が顔を上げた。肌がとらえた微かなざわめきに、闇一色となった窓の外を望み、耳を傾ける。
「――雨、降ってきたみたいね」
「ですね」
 昼間見たとんでもない夢を思い出し、蔦壁の唇端に微苦笑が浮かぶ。
 二人して心地良い雨音に耳を澄ます。多分、思い浮かべていることは同じだ。
 やがて穏やかな静寂を気遣うように、控え目な声で蔦壁が囁く。
「――紅葉さんに出会うまで、雨がこんなにいいものだなんて知りませんでした」
 雨が好きだと言っていた。雨音を十二分に楽しむため、窓を開いても店内が濡れぬよう改築を行い、『雨韻亭』と名付ける程に。
「紅葉さんに教えて貰うまで、紅茶がこんなに美味しいものだと知りませんでした」
 傘も差さずに歩くような人だった。落雷が響けば窓際の特等席で見物と洒落込み、燕を見掛けたと言っては騒ぎ、名も知らぬ花が咲いては散るさまを綺麗だと感じ入っていた。
「同じ時代、同じ場所で同じものを見て――なかったんでしょうね。はしゃぐあの人に全部教えてもらったんです。世界は、もっと違うものなんだって」
「……子供なだけよ」
 無言で笑って頷くと、蔦壁は薬缶をかけた。
「嫌じゃ――ないんです」
 その顔を、目を細めじっと見詰めていた楓は、やがて頭をボリボリ掻くと一気にグラスの残りを呷った。
「ハァッ。余計な御世話だったみたいね。『嫌なお方の親切よりも、好いたお方の無理がいい』ってか。――苦労するわよ」
「もうしてます」
 酔いが手伝ったか、何時もより若干強気な蔦壁の発言に、楓も満足げに微笑む。
「大変だろうけど、あいつに惚れたんだから自業自得よね。――寂しくたって、泣いちゃあ駄目よ?」
「僕は何ですか」
「じゃあ寂しくはないの?」
「子供じゃあるまいし。――はい、どうぞ」
 出された白碗を受け取り、口を付けた楓はその自然な甘さに笑み崩す。
「――美味し。これ玉露よね? 家で飲むよりずっと甘くて良い香りがするんだけど、やっぱり葉からして違うわけ?」
「それもありますけど、コツがあるんですよ。少し冷ましてぬるいぐらいのお湯で淹れるんです」
「胸がすくような感じね。御飯の後に欲しいかな」
 そこで楓は自分の前を見る。濡れ底を晒すグラス、空いたバーボンの瓶、皿の上のつまみは粗方食い尽くされ、その姿は既に無い。
 丁度頃合か、と彼女は呟いた。
「ね、和泉君。お酒も無くなっちゃったみたいだしさ」
「はい」
「新しい瓶、頂戴」
「……まだ飲みますか」
「当たり前じゃない」





 結局、水割りをもう二杯ほど飲んだ後、帰り掛けの駄賃とばかりに生をショットグラスで空け、雨の中を危なげなく山瀬楓は帰っていった。
 余り飲んでいなかったこともあり、既に酔いの抜けかけている体で空気を入れ替え、後片付けをし、最後に店の明かりを落とす瞬間。暗闇の中、一層深まって響く雨の音に包まれながら、ふと蔦壁は先程の遣り取りを思い出した。
「――寂しくなんか、ないわけないじゃないですか」
 自分の指さえ見えない宵闇が、誰も表情を窺う人間は居ないと判っていても、ただ有り難かった。









 昨晩の雨が大気を洗ったか、蒼穹は遥かに澄んでいる。アルコールの残り香を消すように全ての窓を開け放ち、朝一で洗い終えた布巾を日向へ干して、蔦壁和泉はまた暇な時間を過ごしていた。
 客も途切れ、店頭販売用に茶葉を袋に小分けしていると、扉鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ――」
 見れば、天気も良いのに大きな雨傘を手にした片桐が立っている。彼はそのまま店の最奥へ足を運ぼうとして、ふと眉根を寄せ、鼻先を動かす。
「――ウイスキー」
「あ、まだ匂います?」
「……いや、大丈夫。多分、普通なら気が付かない」
 そこで珍しいことに、今度は片桐が蔦壁に話し掛ける。
「マスター。外の、入れておいた方が良い」
「外……布巾ですか?」
「雨が降る」
 それだけ言うと、後はどうでもいいとばかりに何時もの場所へ向かう。その言葉に空を覗くが、陽光は燦々と注ぎ、からりとした空気にその気配は微塵も無い。
 まあ、そろそろ乾いているかと青空の下へ赴き、布巾を取り込む。そして注文をとりに、既にテーブルの上へ本を広げた片桐の元へと向かい、去り際に、何気なく思いつき、問うた。
「あの片桐さん。降るっていうことですけど、この時間帯なら学校帰りの子達なんかが、雨宿りに寄りかねませんが……良いんですか?」
 何時もの人嫌いはどうした、と言外に不躾な問いだが、蔦壁の他意の無さは片桐にも伝わったらしく、淡々と返される。
「良くは無い。面倒になったら店を出る。けれど――」
 開いた窓から強い風が吹き込んできた。そこに微かな雨の匂いを嗅ぎ、蔦壁の顔に驚きが浮かぶ。
「ここは雨の時の居心地が凄く良いから」
 囁きに似た小さな言葉の意味をゆっくりと理解し、『雨韻亭』店長代理は満面に笑みを浮かべる。
「――有り難うございます」
 やがて地を穿つ黒点。それは直ぐに増え、大きな水滴は音高く世界を叩き始める。
「とりあえず、このまま行って雨宿り!」
「そうね、急ぎましょ」
「ハッ、走れ走れ愚民ども。愚か惨めに慌てふためくがいいわ!」
「あんたもでしょうが!!」
 傘を忘れた小雀達を飲み込み、気紛れな通行人達を迎え入れ、今日も変わることなく。 紅茶の香りを纏い、喫茶店は雨景色の中に佇み続ける。





                           

――――了