『迷ひ家』


 
 山中に屋敷在り。門くぐれば広き庭に咲き乱る紅白の花々、其処彼処で遊ぶ鶏の姿。牛舎には毛色も良き多くの牛、馬屋には馬、並び繋がれ飼葉を食む。家屋へと上がれば、朱と黒の膳椀あまた並べられし部屋まず在り。奥の座敷では今まさに沸き立たんとする鉄瓶、火鉢の上で小さく音を立てて鳴る。
 隅々まで手入れされた長者が屋敷。声をあげれば廊下の角、その襖の向こうより直ぐにでもふくよかな家人下人現われように、されどされど幾ら呼ぼうと探せども。
 その屋敷、人の姿のみ在らじ。



 これ、迷ひ家也と古老は言う。山奥に突如現われる無人の屋敷。ここを訪れた者は什器家畜、何であろうと家内の物を一つ持ち帰ることを許される。それは不可思議なる力をもって、富と幸をもたらすものなのだとか。
 次のような逸話も残っている。ある時、山菜取りに出掛けた一人の女がこの迷い家に行き合うも、怖じ気づき、取る物も無く逃げ帰った。後日、彼女が川で洗い物をしていると、それは美しい赤椀が上流より流れてきた。思わず拾い上げ、櫃に入れ穀物を掬うのに用いてみたところ、以後どれだけ使おうと穀物が尽きることはなかったという。
 女、無欲にて何物も盗みざりしが故に、この椀自ら流れ来たりと伝承は結ばれる。






 不器用というわけではない。要領が悪いわけでもない。特に愚かでもないと思うし、星の巡り先祖の因縁云々など、はなから信じる世代でもない。しかし、何かが確実におかしい。発端や経過がどうであれ、いつも自分を待つのは笑うしかない結果だ。
 ぼんやりと、温くなったペットボトルの中身を呷りながら、川上和樹は目の前に横たわる道を見た。右から左へ。もしくは左から右へ。山中には不釣り合いなほど広く作られた舗装道路は、やがて両端で緩やかなカーブを描き、山陰へと消えている。恐らくそこまで行けば、また緩やかに山向こうへと伸びる道が見えるのだろう。これまで数時間、ずっと歩いてきたのと同じ様に。



 今回はそもそもどの辺りで選択を間違えたのだろうか。
 付き合い出して、早数ヶ月の彼女。遠回しに誕生日のプレゼントをねだられ、こっそり用意して喜ばそうと必死になってバイトに打ち込んだ結果、『冷たくなった』と別れ話を新しい男性ののろけと共に持ち出され――
 なら、と頼んでおいた品を断りに、ジュエリーショップへ重い足を運べば『ああ、丁度良かった。御注文されていた品ですが、つい先程、予定より早く用意できまして』と、満面の笑顔でシンプルに包装された小箱を差し出され――
 キャンセル料も結構な値段であり、店員の強い勧めもあって『次に好きな娘が出来たなら、その時に贈ればいいか』と半ばやけっぱちな気持ちで買い帰れば、いきなりアパートが工事中。貼り紙に気付いていなかった自分が悪いとはいえ、朝早くから夕遅くまで響く騒音は傷心を紛らわすどころか、かえって社会へのあてなき復讐心を掻き立てるほど、良い具合に薄い壁を越えて彼のささくれだった心に爪を立て――
 男友達の所に転がり込んで愚痴の一つでもこぼすつもりが、逆に丁度良い酒の肴にされ、挙句の果てに呑み潰れるまで付き合わされた。
 起きてみれば、自分だけが二日酔い。ここに至って川上和樹は諸々に嫌気が差し、友人の所を出たその足で残りのバイト代を懐に旅へと出るも、目的地を決めるまで適当に乗り続けていたバスに終点ですと、見も知らぬ山中で放り出され、そして――



 涼やかな山の風が、虫や鳥の声を乗せて吹き過ぎていく。秋も近い夕暮れの山気が、汗の引いた腕や首筋を擦りあげ産毛を立たせる。
 道の端に腰を降ろしたまま顔を上げると、視界のほとんどを占める山の背景が、青から茜に変わりつつあるのが目に入った。
 陽が沈み切るにはまだ時間があるが、それは平地での話。この辺りでは差し迫った山々に陽光は遮られ、周囲は既に彼誰刻へと様相を移しつつある。
 寄ってくる羽虫を払い、最後にもう一口だけペットボトルを傾けると、それをリュックに放り込み、勢いを付け和樹は立ち上がった。軽く伸びをすると、良しとばかりに左手、隣町へと続くはずの道先へ顔を向ける。
 とりあえず、再び高いバス代を払ってまで引き返すのも馬鹿らしく、地図を頼りに駅のある隣町を目指してここまで歩き続けてきた。が、それで得たものは幾ら正確であろうと、自動車地図を徒歩旅行の参考にすべきではないという教訓にもならない教訓だけであった。
 ちなみに現在も引き続き身を持って学習中。
「……まあ、あのおじさんの言う通りなら、道はこれで間違ってないはずだし――」
 一人呟き、昼間、まだ歩き始めたばかりの和樹に声を掛けてきた、軽トラックの地元民を思い出す。あの時、同乗を勧めてくれた彼に『有り難うございます。でも、たまには歩くのも気持ち良いものですから』などと調子に乗った受け答えをしなければ、今頃はホテルのベットなり温泉なりでゆったりと心身をほぐせていただろうに……
「あーっ、止め止め! 考えて無駄なことは考えない。日暮れ前に街につきたくば、頑張れ俺!」
 力強く両拳を握ると、和樹は再びアスファルトの上を歩き出す。前向きに己に喝を飛ばした和樹は、しかしまるで気付いていなかった。自分が隣町への道筋を確かめはしたが、一体そこへ至るまでどのくらいかかるかは、聞いてはいなかったことに。
「……にして腹減ったなぁ……」
 街は彼の予想を越え、まだ遥かに遠い。



 どれほど歩いたのか。街灯すらなく、唯一の光源が細く尖った月だけという中では、腕時計の針の位置など判別できようもない。道も格段に狭くなり、僅かな陰影の差だけが、道と木立を切り分けている。
 そう、川上和樹は迷っていた。
 何をどうすれば、山中の広い一本道で迷えるのか。まあ、途中で出会った林道が下りで楽そうだったとか、いい加減先の見えない道行きにうんざりしていただとか、腹の飢えと咽の渇きが限界に達していただとか、色々あることはあるのだが、疲労で判断力の鈍っていた和樹は、総合的かつ単純にこう考えたのだった。
 ――分岐して下りってことは、麓の街に続いているはずだ、多分。
 そして気がついたときには、既に戻ることも出来ないほどに坂を下り切っていた。
「……どうするよ。山で野宿なんて、そんな用意してきてないって……」
 惰性でなおも歩き下りながら、一人ごちる。
 彼自身気付いてはいないが、最早『道に迷った』ではなく『遭難した』と言うべき状況である。
 頻繁に足首が下草をかき分ける。大分前から道に落ちている土や石の量が増えた気がしていたが、ひょっとすると既に舗装道路の上ですらないのかもしれない。意を決して足を止めると、爪先で道路を蹴ってみた。一蹴り、二蹴り。場所を変えて、もう一蹴り。間違いない、ただの土だ。
 振り返るが、そこに広がるは完全な夜闇。自分がどこをどうやって来たのかすら判らない。
「……嘘」
 呆然と和樹はその場に立ち尽くした。
 闇の奥下より川のせせらぎが幽かに届く。夜だというのに鳥らしき甲高い鳴き声が響き渡り、木の葉の擦れる音、虫のあげる声が、彼という人間の存在など忘れたかの如くじわじわと高まっていく。どこかで遠くで枝の揺れる音。小石か木の実か、小さく硬いものが落ちて敷き詰められた木の葉を打つ。低く伸びやかなる牛の鳴き声。しかし、幾ら耳を澄まそうと、その中に車や街の喧燥といった人の生活音が混じ入ることはない。
 段々と己の置かれた状況が身に染みていき、和樹の背に嫌な汗がじんわりと滲み出す。
 山の匂いを含んだ風が一際強く吹き抜け、草葉が揺れ騒いだ。それに怯えたか、虫の音が唐突に掻き消え、静寂が辺りを満たす。
 夜山がじっと息を殺す。
 その間隙を衝いて、再び穏やかな牛の声が届く。
 ……牛?
 ようやくその場違いさに気付き、和樹は慌てて辺りを見回した。夜の奥、木々の隙間の向こうに朧に浮かぶ淡光が見える。それは気を付けなければ見失ってしまいそうな、しかし確かに人工の明かり。
「助かったぁ……」
 目の端に熱いものを浮かべ、足場の悪い山中を一歩一歩、慎重に明かりへと近づいていく。
 時折聞こえてくる牛の声が次第に大きくなり、何時の間にか踏みしめる足元も格段に歩きやすい道らしきものへと変わっていた。
 やがて、暗闇の中になお黒々と浮かび上がったもの。それは見事に年代を経た日本家屋であった。厚みのありそうな塀が周囲を取り囲み、唯一開いた門の上にも瓦の乗った屋根が細く続く。表札すらないそこを潜り抜けると、意外に広い庭がまず目に入った。そして夜闇に茫と漂う甘い香り。
 藍、白、黄、赤、薄紅。住人の趣味なのだろう、様々な花があちらこちらで夜だというにも関わらず、花弁を広げて濃密な芳香を零している。
 奥には彼をここまで導いてくれた牛の小屋らしきもの。そしてその手前で、庭の一角を薄く照らす部屋の明かり。これだけの屋敷にしては目に付く光が少ないが、それでも確かに障子越しに零れる薄い灯火といい、ここには人の気配が満ちている。
 安心のため脱力しきったまま、和樹は玄関を探した。そう、門灯が無いため文字通り探す羽目になったのだ。
 やがて勝手口とおぼしき戸口を見つけ、木の引き戸へと手を掛ける。
「すいませーん」
 その土間は、意外なほど古めかしいものだった。
 奥の上がり口の板の間に、小さく灯かりを点した燭台が立っている。緋に揺れる火が周囲の重厚な闇を穿ち、太い梁、固められた床土、黒々と沈む板張りや柱を静かに照らし出している。視界の隅に見えるのは、もしかして――竃か。
「今晩はー。誰かいませんかー」
 再び声を張り上げ待つこと暫し。だが、人が出てくるどころか家の中からは何の応答も無かった。
 もうしばらく待ち、仕方なく和樹は再び庭へと回る。
 幸い、屋敷を訪れた時、最初に見えた明かりはまだ点いていた。黒い縁側に添い、その部屋を直接目指す。
 間近に寄ってもなお暗いその室内へ、一息吸い込み、和樹は障子越しに庭から声を掛けた。
「すいません! 道に迷った者ですが!」
 その声に驚いたか、どこかで鶏の羽ばたく音がした。
 山間に、幽かに木霊が響く。だがそれも直ぐに落ち着き、辺りは元通り平坦な夜に戻る。
 埒があかないと悟った和樹は、縁側を越え、廊下に膝をついて伸ばした指先を障子の桟へと掛けた。そのまま、ぐい、と押し開く。
「あのっ――」



 そこには用意されたばかりの夕餉の膳が並んでいた。畳の上、光量が少ないとはいえ不自由を感じさせない程度に、行灯が配されている。盛られた飯椀からは薄く湯気が立ち昇り、焼き魚の香ばしい匂いが鼻を打つ。
 これから家族皆で遅目の食事をとろうというのだろう。唐突な闖入者に乱されることなく、そこには和気藹々とした雰囲気が流れていた。
 ――雰囲気だけが誰もいない畳敷きの和室に満ち溢れていた。
「えっ……」
 茫然と和樹は固まった。どう見てもたった今、支度を整えたばかりという光景だが、食べる方も用意した方も、人の姿がそこにはない。
「……隠れたんだろうか?」
 しかしそんなことをする理由は思いつかない。仕方なく、このまま人を待とうかとも思ったが、炊き立ての白い御飯が忘れていた空腹を刺激したため、締め上げられる胃腸に手を当て、ふらつくように土間へと戻った。流石に、飯泥棒にはなりたくない。
 相変わらず闇が敷き詰められた土間には誰もいなかった。だが、先程とは一個所違う点があった。
 板の間の上で小さく揺れる燭台の火。その脇に、湯呑みと急須を載せた黒い丸盆が置かれてある。
 崩れ込むように上がり口へと座り込み、和樹は横目でその盆上を伺った。
 はっきり言って、怪しい。こんな形で誰も姿も見せず、なのに茶だけは出すのもおかしな話だ。かといって自分以外の誰かのために用意されたものとも思えない。
 不意に和樹は状況の異常さを実感した。怯えたように周囲を見回すが、闇は闇。そこには何も見つからない。
 だが、それでも誰かがその影からじっと見詰めているようで落ち着かない。この茶とて、一体何が入っているものだか。
「そうだ、携帯!」
 まるで携帯が、この事態がどうにかしてくれるとでもいうように。それで友人と話すことさえ出来れば、この状況を笑い飛ばせるとでもいうように。和樹はリュックに手を突き入れた。。
「――あった」
 確かに携帯さえ通じれば、いざという時、間に合うかどうかは別にして警察に助けを求めることも出来よう。運が良ければ、自分の現在地を知ることも出来るかもしれない。だが――
「……圏外」
 通じない携帯はただの時計。
 自分の貧乏籤体質を思い出し、和樹は片手で顔を覆うと、大きく溜め息を吐き出した。そのまま、ぐったりと俯いた。
 そのままかなりの時間が過ぎた。どこかで小さく風鈴の音が零れる。
「――と」
 軽くうとうととしていたことに気付き、頭を振る。
「あー駄目だ駄目だ。このままじゃ駄目だ。寝るにしても、もうちょっと何とか――」
 冷めた御茶を呷りながら、呟く。だがそこに意味はない。休憩を入れたことで、溜まっていた心身の疲労が一気に噴き出した。最早、この家が妙だからといっても、夜通し歩く気力など湧かない。
「はぁぁー」
 欠伸ともつかない脱力しきった声を漏らし、湯呑みの残りを一気に干す。渇きに従って新たに御茶を注ぎ、それを口へと――
「……あ」
 口元で湯呑みを止める。
 飲んだ。
 飲んでしまった。
 怪しげな山中の屋敷で、何時の間にか出されていた得体の知れない御茶を、自分は何の考えもなく飲んでしまった。それはもうごくごくと美味しそうに喉を鳴らして。
「――実際、美味しかったよな」
 停止は一瞬。まあ良いかとばかりに、一息に二杯目を干す。少し濃く出過ぎてはいたが、甘い茶の香りが喉奥に満ちる。
 笑顔で息を吐くと、三杯目を求める。この辺り、『毒を喰らわば皿まで』といった豪胆さの現れでなく、『毒でも美味しければ幸せ』という能天気さのなせる技だが――本人がそれで良ければ問題はないのかもしれない。
 最後の一滴まで味わい終えた頃には、すっかり和みきった顔に仕上がっていた。
 ――このまま、この板の間で寝るのも悪くはないかもしれない。床は冷たく硬いが、野宿するよりよっぽどましだ。
 ぼんやり楽観的な思考に浸っていた和樹の耳に、カタッという小さな音が響いた。
 びっくりして振り返る。と、先程まではただの暗闇でしかなかった廊下の奥で、薄ぼんやりと壁を照らす光がある。
 黙って靴を脱ぐと、和樹は傍らの燭台を掴み、静かにそちらへと歩き出した。
 人気のない屋敷の中を慎重に進む。廊下の床板を踏み軋ませながら、辿り着いた場所。そこは湯殿だった。
 ここも他と変わらず、明かりは小さな蝋燭のみ。だが、その程度の光でも、脱衣所や風呂場に人がいないのは一目瞭然であった。
「やっぱり、入れってことなのかなぁ……」
 返事はない。だが、ゆったりとした湯船に満ち満ちた湯が、一日中歩き続けた和樹の体を、艶めかしく招いている。
 少し考える振りをした後、和樹は汗臭くなっていたシャツをさっさと脱ぎ捨てた。



「で、今度は何だ?」
 湯上がりのさっぱりとした顔で、タオル片手に和樹は屋敷の廊下を進む。身に纏っているのは脱衣所に畳んで置いてあった浴衣。何時の間にか服を荷物ごと何処かへと持ち去られていては、これを着るより他にない。
 時折、襖や障子を開け部屋を覗いてみたが、どこも人の生活している痕跡はあったものの、肝心のその人の姿だけは見当たらなかった。
「ついでに、電気も通ってなさそうだよな」
 蛍光燈、コンセント、電話。そういったものを何気なく探してみるが、全く見当たらない。
 やがて、明かりの点いている部屋が前方に現れた。先程、誰か達のために夕餉の支度がなされていた部屋とは、また別の部屋だ。
 幾らか開けられていた障子に手を掛ける。八畳ほどのその部屋隅には、案の定、風呂場から消えた和樹の荷物が置かれていた。
 そして部屋の中央に敷かれた布団と、行灯の脇に整えられた一組の膳。
 恐らく、いや間違いなく和樹のために用意されたものだろうが、それにすぐさま手をつける気にはなれなかった。
 とりあえず荷物を引き寄せると、胡座をかいて中身を一応確かめる。あまり心配はしていなかったが、財布の中身にしろ、空になったペットボトルにしろ、なくなっているものはごみ一つない。
 なおもリュックの中をまさぐっていた和樹の手が小さな箱に触れ、止まる。
「……」
 今、この和樹の荷物の中で最も高価な品。しかし、同時に今の和樹には何より価値のないもの。話の種にと友人宅へ持参し、そのままここに入れて忘れていた。
 しばらく取り出したその小箱をじっと見詰めていたが、やがて微苦笑と共に仕舞い直す。ふと、膳の上に目を移すと、塩を振り焼かれた肥えた川魚と目が合った。
 菊花らしきものが散らされた御浸し、大量の刻み葱と卸生姜が添えられた冷奴。御飯は粒が揃い立ち、おかわり用の小さな御櫃まで用意されている。
 味噌汁らしき椀物。気を利かせて付けられた二本の銚子。古漬けにぬた和え、茄子の煮物ときては、どれも一人暮らしの学生には縁のない代物だ。
 湧き上がる唾を押さえるように、銚子へと手を伸ばす。小さな御猪口ではなく、少し大き目のぐい呑みを添えておいてくれる心遣いが有り難い。
 ――まあ、本当は良く冷えた麦酒が欲しいところなんだけど……
 透明な液体を気を付けてぐい呑みへと注ぎ、一気に呷る。
「あ――」
 清流をそのまま酒に変えたような、冷たく癖のない芳香が喉を駆け降りていく。
「……美味しい」
 思わずそう言葉を零した口元が、やがて笑みの形に崩れる。
「――有り難う。頂きます」
 この食事を用意してくれた誰かに、感謝の念をこめて手を合わせると、和樹は箸へと手を伸ばした。



 夜と朝の境は、意外なほどはっきりとしている。ほんの少し、夜闇に薄藍が交じり出した途端、鳥達が鳴き騒ぎ出し、山々へ朝の来訪を告げる。
 昨夜の疲れもあり、ぐっすりと眠り込んでいた和樹であったが、旅の途中、慣れぬ布団ということもあり、微睡もなく目を覚ました。
 頭の動きに合わせ、蕎麦殻の枕が音を立てる。横になったまま廊下の方を見やると、桟によって黒く格子に区切られた灰色の障子紙が目に入った。
「……夢じゃなかったのか」
 体を起こす。室内に時計がないので正確には判らないが、朝であることは確かだ。洗面用具を持って、ふらふらと廊下に出た。早くもこの屋敷では人の営みが始められているらしく、各所の雨戸は引き開けられ、どこからともなく味噌汁の良い匂いが漂ってくる。
 相変わらず人の姿のない屋敷内をさ迷い、何とか厠と水場を見つけ、用を足す。途中、廊下から空を覗いてみたが、生憎の深い霧に包まれ、天気は判然としなかった。庭では朝顔や露草を始めとした花々が、しっとりとその身を濡らしている。
 部屋に戻ると布団は既に片づけられており、かわりに朝食の膳が用意されていた。
「――頂きます」
 すっかりこの事態にも慣れたか、躊躇うことなく御馳走に与る。
 そうして純和風の朝食を全て平らげ、食後の熱い茶を啜りながら、これからのことを和樹は考えた。
 まあ、昨晩目指していた街までまた歩くだけなのだが、これほど世話になった屋敷から、何の御礼もせずに立ち去るのは心苦しいと感じていたのだ。
 あからさまに怪しく、異様だが、それでも丁重に持て成してもらったことは確かだし、実際とても助かった。
 ただ、それをどう伝えれば良いのかが思い付かない。
 直接礼を述べようにも、家人は会うことが出来ないどころか、実際に居るのかどうかさえ判らない。宿なら、色を付けたお金を置いていけば良いが、この場合それはかえって失礼にあたる気がする。日本古来の伝統に則るなら、世話になった旅人は薪の一つでも割っていくものだが、そもそも自分にはそんな経験も技術もない。
「――というか、鉈を持ち出した男が、勝手に自分の家の木材を叩き割り始めたら、結構不気味だろうな。猟銃で撃っても正当防衛が成り立つ気がする」  部屋に戻されていた自分の服――昨夜、浴場から消えていたそれは、乾きやすい肌着類だけ洗い干されたらしく、少し湿ってはいるものの、汗の不快な臭いは消えていた――を身に纏いながら、大分横道にそれてきた考えを飽きず続ける。
 夜に羽織っていた長袖の上着を畳み、筒状に巻いてからリュックへと仕舞う。邪魔になるものを押し退け、服が入るだけの空間を作ろうと四苦八苦していた和樹のしかめっ面が、ふと緩んだ。
「……あ。丁度いいか」
 そして――数分後。
 朝支度の熱気と瑞々しさが残る勝手口で、頭を深く下げ、踵を返す和樹の姿があった。



 まず最初は杖だった。
 荒々しい木肌も見事な一本の杖が、和樹の行く手を遮るようにのように山道に落ちていた。自然に折れ落ちた木枝でない証拠に、持ち手に当る部分の樹皮が剥がされ、艶やかに磨き上げられている。
「立派なもんだなぁ」
 如何にも山歩きの役に立ちそうだ。和樹は感嘆したまま、その脇を通り過ぎた。
 次に落ちていたのは漆黒の文箱。幾重にも重ねられた濃い漆闇の上を、風に散らされた蒔絵の紅葉が流れている。思わず足を止め、その見事な細工に見とれた。
「――誰かの落とし物かな?」
 このような所で土に返すには、余りに惜しい品だ。和樹は文箱を拾い上げると、探しに来た落し主の目に付くよう、道端の草の上へそっと移した。
 またしばらく行く。今度は頭上の枝からぶら下げられた、何やら中身の入っているらしい徳利。
「おっと」
 頭をぶつけないように、回り込んで避けた。
 さらに進むと、今度は岩の上に丁寧に畳み置かれた浴衣。見覚えがあるところからして、どうやら自分が今朝まで使っていたもののようだ。
「……温泉にでも入れってことか?」
 立ち止まって周囲を見回すが、そのような気配はない。「洗って返せ、ってわけでもないよな……」首を捻りつつ、先へ。
 周囲は相変わらず深い霧に覆われている。幸い、屋敷から歩き続けている細い道は、途中で切れることも分かたれることもなかったため、安心して和樹は進んでいった。
 数歩行く毎に、周囲の景色が移る。靄の中より新たな樹影が滲み現れ、役目を終えた樹々が、再び乳白色の幕の奥へと帰っていく。そして十数歩も進むと、またぽつんと姿を現わす場違いな品々。
 傘。扇子。招き猫。皿。しゃもじ。簪。飯櫃。湯呑み茶碗。碁石。小刀。雛人形。笊。硯。女帯。木桶。火鉢。掛け軸。羽織。煙管。提灯……
「これは……」
 もう驚くを通り越して呆れの境地に達していた和樹であったが、流石に釜や鏡台、箪笥、といった大物も出てくるようになって、そこに隠された意図が気になってきた。
 何時の間にか歩くことも忘れ、じっと足元に視線を落とし、考え込む。
 やがて、不意に合点がいったとばかりに手を叩いた。
「そうか。これは道に迷わないよう、目印に現れていてくれる――」
「そんな訳があるか。このたわけ」
 冷たい声が、和樹に浴びせ掛けられた。驚いて見ると、先程までは何の気配もなかった道の先に、一人の少女が立っている。
 萩や龍胆。紫苑に撫子。桔梗、菊に女郎花といった秋の草花が、そのまま野から刈り取られてきたように、濃紺の着物に散らされている。草の露一つついていない純白の足袋に、朱い鼻緒の草履といい、おおよそ山歩きには適していない格好であるが、不思議と今この場に立つ少女に、そういった違和感はなかった。
 長い髪に子供らしいふっくらした丸い顔。例え口を尖らし拗ねていても、可愛らしいと誰もが誉めたてよう顔形。。
 しかし一点。その大きく見開かれた瞳から、逸らすことなく相手にえぐり込む容赦のない眼差しが、少女の顔を大人の――もしくは少女以外の何ものかの顔にと変えていた。
「……君は――」
 和樹が問い終わるより早く、不快そうに彼女は口を開いた。
「何なのだ貴様は」
 子供らしくない物言いに、和樹が呆気に取られて彼女を見詰め返す。構うことなく、少女は苛立った口調で続けた。
「全く、何なのだ貴様は! 一体、何を考えておる!?
 気紛れに招き泊めてやれば、警戒することもなく風呂に入る。出された食事は食事で、疑うこともなく旨そうに平らげる。挙句、酒を干して熟睡した時には、これはまた珍しく胆の太い人間よと感心したものだが――」
 そこで更にきつく少女は和樹を睨み付ける。
「え? えーと……君はあのお屋敷の子なの?」
「子ではない。吾は、屋敷だ」
 ……良く解らない。
 そんな和樹に、険しい顔を崩すことなく少女は歩を踏み出す。
「が、あれは何の真似だ?
 吾が元へと迷い込んだ者には、何か一つ好きな物を持ち帰ることを許しておる。だからこうして色々と御膳立てまでしてやったというのに、何故、一つたりとも受け取らぬ。いらぬのか? それとも、あのようなものでは不満だとでもいうのか?」
 詰め寄られた和樹は『美人が怒ると恐いって、本当なんだなぁ』等と、しみじみ思っていた。人はそれを、現実逃避という。
「あの……良く解らないんだけど、つまり君は僕が何もあの御屋敷の物を持っていかなかったから、怒っているのかな?」
 返って来たのは冷たい視線だけ。
「ああと、その……図々しく一晩御世話になった僕が言っても説得力はないかもしれないけど、でも、そういう訳にはいかないよ。勝手に人の家の物を持っていったら――泥棒だろ?」
「……」
「うん。君には君の考えや都合が色々あるのかもしれないけど――いいんだよ、これ以上何かをしてくれなくても」
 少女は答えない。ただ、微妙に眉が上がっていくのみ。
「道に迷って困っていたところを、一晩助けてもらったんだから、それで十二分。御土産なんか貰うと、かえって心苦しくなるよ。
 ……えーっと。そういうことじゃ駄目かな?」
 少女の口元は、一文字に結ばれたままだ。
 和樹は更に説得が必要かと続ける。
「ほら、それにさ。見ての通り僕は旅の途中だから、何かを貰っても、残念ながら邪魔になるんだ。だから、気持ちだけで――」
「……そのようなことを……
「ん? 何、どうしたの?」
 腰を少し折り、少女へ耳を寄せる和樹。
「そのようなことを言うておるのではないっ!」
 少女の剣幕に身を引こうとした和樹だったが、そのまま彼女の眼差しに射竦められる。
「今までにも幾人かの者が吾が元を訪のうた。何も気付かず去っていった者、古老の言より吾が存在を思い出した者、怯え慄き、取る物もなく逃げ去った者、荒らすだけ荒らし、持てるだけ持ち去ろうとした欲深き者――
 しかしっ! このようなことをした愚か者は貴様が始めてじゃっ!」
 そう言って左手を突き出す。涼しいほどに白い手の上には、きちんと包装された小箱が乗せられている。
「あ、それ……」
「『迷ひ家』に行き合うて、何も持ち帰らぬばかりか、逆に物を置いてくる馬鹿が何処におるっ!」
 ここに居た。
「何じゃ、これは! 一体、何のつもりじゃ!」
「あ……ああ、それね。一緒に置いてあった手紙に書いてあったと思うけど、一晩泊めてもらったお礼だよ」
 破いた手帳に走りがきしたものを手紙と呼ぶのが妥当か否かはさておき、かなりの剣幕で小箱を突き出す少女に、和樹はそう言った。
「別に怪しいものじゃないから、大丈夫。色々あってね……用意したのに、使い道がなくなって、どうしようか困っていたものなんだ。良かったら受け取ってくれるかな?」
「そういうことを言うておるのではないと……」
「ああ、そうだ」
 不意に小箱を手に取ると、和樹は不機嫌な顔の彼女の前で、その包装を破りさった。
「ちょっと御免ね――」
 少女の手を取り、頬に顔を寄せる。それでも和樹が張り飛ばされなかったのは――
「――はい、できた」
 予想以上の結果に、御世辞ではなく笑みを浮かべる。
 おずおずと戸惑った風に耳元へと伸ばされる少女の指先。そこに、小さく揺れる若竹色の欠片。
「良く似合ってるよ」
 その言葉に和樹へと向けられた少女の顔は、意外なことに初めて見せる子供らしい――どうしていいか解らず、困り果てたものだった。
 胸元へと寄せられた両手。袂から覗くその左手首には、シンプルに装飾を施された銀色の輪が二本、絡み合っている。
元は腕輪と同じく二つの輪に分解される、双子指輪(ギメルリング)との三点セットだったが、流石に指輪を贈るのは気恥ずかしく、財布の事情というあながち嘘でもない理由を付けて買い揃えたものだ。今となっては、指輪を買わなかったのは別の意味で正解だったなと和樹は思い浮かべた。
 地味でも趣味の良いものを選んだかいもあって、イヤリングと腕輪は和装の少女にも良く合った。さすがは一ヶ月分だけのことはある。
 途方に暮れたように、おずおずと少女が呟く。
「これは……吾がもろうても……良いのか?」
「貰って欲しいんだよ。――じゃないと、後は僕が自分でつけるしかなくなる」
 そんな趣味はないんだ、と下手におどけてみせる和樹の言葉に、少女は初めはおずおずと、そして大輪の花の蕾が綻ぶかのように、笑った。
 嬉し気に手首を返し、腕輪と着物の合わせを楽しむ。が、和樹が目を細め自分を見ているのに気付くと、途端に元の無表情に戻った。
「それじゃ、僕はもう行くけど――最後に一つだけ教えて貰えるかな?」
「――何だ? 吾のことか?」
 違う違う、と和樹は首を横に振る。「そうじゃなくって――街に出たいんだけど、道はこのままで良いのかな?」
 しばらく無言で和樹を見詰めた後、少女は老熟した微笑を浮かべた。
「ほんに変わった奴じゃな」
 そうして、山道の先をついと指で指し示す。
「このまま行けば、里へと続く大道へと出よう。心配するな。分かれ道は無い。そのようにしておいてやる」
「……うん、それじゃ」
 そうして別れの言葉を述べ、擦れ違って数歩進んだところで、和樹は振り返った。
「そうだ」
 無言で立つ少女に告げる。
「大切なことを、忘れてた。――色々と、本当にどうも有り難う。
それから、そのイヤリングとブレスレット。とても良く似合っているよ。
じゃあね!」
 笑顔で手を振って、和樹は再び歩き始めた。辺りの霧は幾分晴れたのか、先程までより軽みを帯びたものになっていた。



 市内バスも役目を終えた夜の街を、和樹は一人歩いてた。どの路地にも街灯が佇み、明かり一つ持たずとも何の不安も無い。数日前の山中を思い出し、こことあそこでは夜も闇も全くの別物だったのだと、深く納得する。
 あれから――少女と別れ、山道を降り続けた和樹は、意外なほどあっさり街へと続く道に出た。アスファルトの道路という文明の産物を目にした時、胸中に湧き上がった感慨は、まるで何かを一つ成し遂げたかのようであった。
 そのまま通る車を待ち、街まで運んでいってもらった。後は電車で海を目指し、露天風呂を巡り、筋肉痛になりかけていた体をすっかりほぐして旅行を楽しんだ。
 結局、あの屋敷が何だったのか。少女が何を言っていたのかは、良く解らないままだ。だが、あえてそれを調べようという気は起こらなかった。
 本当なんてどうでもいい。不可思議だが、自分は良い体験をしたのだと思う。なら、それで十分だろう。
 のんびりと早い秋夜を楽しみながら、アパートの自室を目指す。あれだけうるさかった工事も既に終わっているらしく、建物の周囲には、いつも通りの街の静寂が広がっていた。
 郵便受けから数枚の封筒を抜き取ると、そのまま一階突き当たりにある自分の部屋へと向かう。
「……あれ?」
 旅に出る前、正確には友人宅へ行く前に消しておいた室外灯が点いている。「消し忘れた、かな?」
 もしくは――誰かが点けたか。
 部屋の鍵は、自分の他に別れた彼女も持っている。彼女は、何かあったからといって、留守の自分の部屋に勝手に上がり込むような真似はしないだろうが、世の中、思いもかけないことは良く起こるものだ。自分は、それを身を持って知っている。
 気負わず、部屋の鍵を差し込み廻す。
「遅かったな」
 ……別れた彼女より意外な人物がそこに居た。
「……はい?」
 呆然と間抜け顔を晒す和樹に向かって、山中で別れたはずの少女は、左手を突き出した。そこに輝く銀の腕輪。
「貴様のせいだ」
「へっ? その何が一体……」
 少女は、怒ったように仏頂面で続ける。
「貴様がこのようなものをくれるから、『迷ひ』家でなくなってしもうたではないか!」
 何のことだか一向に解らない。
 しばらく少女を見詰める。着物の柄が先日とはまた違うが、どうやらそれは和樹のあげた腕輪に合うものを選んでくれているようだ。耳元のイヤリングといい、良く映えている。
 返事を返さない和樹に業を煮やしたか、少女は彼を睨み付けるように言い放った。
「ともかく。これからは吾もここで過ごすことになる。よろしくな」
「……」
 言葉を反芻し、飲み込む。それが消化され、脳に届くまで、永遠に近い一瞬があった。
「過ごすって、あの、それは……」
「大丈夫じゃ」少女は片手を振る。それに合わせ、玄関から奥の部屋まで続く廊下の左側の襖が、独りでに音を立てて開いた。――そこは元々、ユニットバスだったはず。
 襖の向こうは、十畳はある和室。そこにも閉じた襖があるところを見ると、更に奥にもまだ部屋があるのかもしれない。
「この建物に頼んで、幾らか場所を空けてもろうた。貴様が気に悩むようなことは何もない」
 ……ここは壁際の部屋だったはずなんだが……
 相変わらず呆けている和樹に、少女が迫る。
「いつまでそうしておるつもりじゃ。しゃんとせんか」
 そう叱り付けられ、ようやく物事が考えられるようになった。
  事態は相も変わらず良く理解できないが、解っていることも幾つかはある。 少女とこの状況が、かなり非常識で普通ではないこと、彼女が部屋をどうやったかは知らないが広げ、一緒に住むと言っていること、そして――少女が不機嫌そうに見えるのは、決して怒っているためではないということ。
 少女はじっと和樹を睨み付けている。その瞳の奥で、繊細に彼の反応を伺っていることに気付き、和樹はようやく顔に疲れたものながら笑みを浮かべた。 ――言葉が通じ、相手の意思を気にするところがあるのなら、何とかなるさ。
 彼女が何であれ、話し合うことも、説得することも、決して不可能なわけではない。
 そう、自分に言い聞かせ、口を開こうとした和樹に、少女が言った。
「貴様も男なら、責任は取ってもらうぞ」
 素で言われたのが効いたのか、腰の砕けた和樹はそのまま地面に崩れ落ちる。
「……僕が一体、何をした……」
 そう呻く和樹に答えるように、覗き込む少女の耳元で、翠い貴石が小さく揺れた。


――――了