薄暗い中へと差し込む光は白。レースの窓帷に漉され、どこか掠れた色合いに室内を刷く。鈍く照り返しを滲ませるフローリングの床、座卓として夏越え冬待つ炬燵、色褪せた表を重ねる雑誌やCD。そのどれもが人の手に馴染んだ跡を残し。食器は仕舞われ水切られた流し台、丁寧に部屋の片隅に折り重ねられた新聞。浮かぶ埃も無く拭き清められた窓枠、棚上、机が天板に至るまで。いずれもが細目に手を働かせる家人の姿を偲ばせる。
 静かに主人の帰りを待つ留守宅が光景――そのはずなのに。どこかこの部屋の、皆、済んでしまった整い様は、何年も鍵を掛け、仕舞い込まれたままの蔵中を思わせた。
 それは、有体に言って狭い部屋の、壁一面を不釣合いに占める年季の入った襖の連なりのせいかもしれない。窓際を飾る小さな生け花、その古びた器より零れ漏る、経てきた年月の薄香が空気中に揺れているのかもしれない。だが、其れより何より。無い筈の埃を見、漂わぬ筈の黴臭を感じるは、綺麗に広げられた寝台敷布の端に腰掛ける、一人の和装少女の態をした人形の佇まいにあった。
 この部屋には不釣合いな等身大の人形。その伸ばした背肩を左右よりの和服に仕舞い、俯く視線は膝の上、そっと重ねられた白雪の指に、天の黒絹が如き髪が流れ落ちている。生き人形、それも名人の手による。そんな言葉を証すかのように、伏せられた目は瞬かず、端正な顔より零れる呼気が一筋の髪を揺らすことも無い。
 何よりも入念に誂えられ、しかし忘れ去られた日本人形。ならばその姫が眠るのは、人の気配するアパートの一室などではなく、空気すらも朽ちゆく時の香を宿す冥き蔵の奥闇こそが道理。
 闇へと半ば沈む世界そのものが拒むか、窓外より届くべき昼街の喧騒は微塵も漏れ聞こえては来ない。その中で人形は、ただただ己が袖口より伸びる白い繊手と、その手首の括れに斜めに掛かる銀の腕輪を見詰めるのみ。

 ――人形ならば。そう、せめて人形であったならば。

 ふと、音も立てずに持ち上がった小さな指先が、銀輪に埋め込まれた翠色の石をそっとなぞった。そうして指先を絡めたまま、今度は腕輪の方の繊手が自らの耳元を探る。黒絹の奥、白い耳下に揺れる揃い色の貴石。

 このような面ですら、ただ出来の良さの証であったろうに――



 嗚呼、蔵闇の如き中に、少女はひたすら、只独り。






『迷ひ家 補追』






 チャイムの音より暫し。やがて部屋を出てきた若い学生達の訝しげな視線を浴びながら、川上和樹は彼らとは逆にドアをくぐった。
 おかしい。ついてる。
 それが、室内を目にしての、和樹の最初の感想だった。
 友人に会いに来たのだが、ああ、何ということだ。ちゃんとそこに彼が居る。
 記憶通りに足を運んだゼミ室には正しく人の気配が在り。廊下で講義の終了を待つ間に、何時ぞやのように不審者として事務課に通報されることも無く。更には定刻に講義が締め括られるに及んで、和樹は穏やかに軽く笑み、腹を括った。――ここまで順調に物事が運んだからには、欠席やサボりなんて良くあること。実は部屋や曜日、時間の間違いなんてオチは、当然の基本としてわきまえておくべきだ、と。
 根拠の無い期待なんかを抱くから、後で当り前の現実に身を捩り無駄に苦しむことになる。希望なんてものは、絶望への飛び込み台に過ぎない。
 そんな常識が身に染み込むほど、己の貧乏籤体質に慣れ切っていた和樹は、これが一般には普通なのだということにすら、思い至らない。それが不幸か幸福かはさておき。現実への柔軟な適応は彼の得意とするところだ。
 不吉な予感まで感じ始めていた今までの順調な流れを、単なる機嫌の良さへと変え、和樹は弾んだ声をあげた。
「梧桐!」
「お、川上か。珍しいな」
 部屋奥で談笑していた青年が振り返る。今時、髭の青い剃り跡が爽やかに男らしい彼の名は梧桐雄一郎。和樹とは学部もサークルも異なるが、入学当初の基礎科目で知り合ったのが縁となり、物理的な接点が無くなった今でも、友人として付き合いは親しい。
「いや、ちょっと。――この後、暇かなと思って」
 暇なら久し振りに飲まないかと、心無し細くなった顔に笑みを浮かべ誘う和樹。そんな彼を見て、何故かしら梧桐は「あ」と口を空けた。
 音無き呟きは一瞬、転じて直ぐ、重い表情に沈痛な声。
「折角誘ってくれたってのに悪いんだが、いつも、このままここでゼミでな」
「……ああ、ならしょうがない」失笑するかのように、吐息。予想していなかったタイミングでだが、この程度なら、まぁ、何時ものこと。そう気楽に流せる程度には不幸慣れしている。「じゃ、何時ぐらいにわる? それとも今日じゃ都合が悪いか?」
「――いや、それが残念なことになぁ」一方、こちらは溜息を吐き、大仰な仕草で首を横に振る梧桐。「ホントのホントに、これは辛く悲しい物語なんだが――」
「……先輩、その辺で勘弁して下さい。心の底辺から反省してますんでお願いします」
 見れば人の輪の中心、囲まれるようにして一人の女子学生が身を縮めている。
「……イジメか?」
「いや、ちょっと後輩を集団で囲み、世間というものを教育してるだけだ」
「それ、事実ですけど洒落になってません」
 と、当の女子学生。見れば、部屋に残っていた人間の大半が梧桐をはじめ、苦笑いを浮かべている。
「今日の発表担当が、資料もレジュメも何一つ用意出来てないって言うんでな。だから、ま、ゼミは明日に延期ってことに決まったところだ」
「……済みませんです」 
「明日までには頼むぞ」
 そう気軽に言って梧桐はベルトで束ねた教科書類を肩に跳ね掛ける。
「じゃ、行くか。この時間ならどこだって空いてるだろう」
 まだ陽光赤い窓を背に、梧桐はそう言って顎を撫でた。






 暗く抑えられた照明が、民家風の黒く太い梁といった内装に影を重ねている。日の残る外から入ったそこは、何時もと違い洞窟や隠れ家を思わせたが、これから腰を据えすることを思えば、一足先に夜へと移っている方が正しいのかもしれない。
「地酒冷やをお銚子で。もろキュウ、焼きお握りに季節の酢味噌。――川上は?」
「麦酒にピザを」
「……風情って言葉を知ってるか? 文化の冒涜は軽い気持ちでも時に犯罪と知れ」
「和風以外、って気分なんだ、このところ。大体メニューに載っているもの頼んで、何が悪いんだよ」
「――秋の夕、久々に訪ね来た友と呑み屋の暖簾をくぐる。座敷へと上がり屏風を背に、前には木目踊る座卓。突き出しの茗荷を口に、箸先で握り飯を崩し、時にはノビルへ酢味噌を付け一齧り。白く澄んだ日本酒を縁ぎりぎりまで盃に注ぎ、肺腑へと流し込んでは仕舞い忘れられた風鈴の音に耳を澄ます。四季巡る瑞穂の国の秋の宵。感謝とはただ有りのままに満足することだと覚え、ふと眼前の友へと目を移せば――右手にピザ、左手に麦酒だと?
 嗚呼、ヤンキーゴーホーム! 紅毛夷狄は祖国へと去れ!!」
「何かあった?」
「三コマに日本漢詩の授業が」
 脱力して吐息、一つ。
「じゃ、違うものを頼む。それで良いんだろ?」
「もう遅い。注文は通した」
 え、と見れば、向こうより盆を掲げた和服姿の店員が、早くも酒器と二三の皿を運んで近付いて来ている。梧桐がカウンター向こうの板前に笑顔で会釈を返す。
「ま、それなりに来て顔を覚えられてるしな。こんな風にまだ客の少ない時間だと、かなり細かに心配りをしてくれる」
「――いい店だな」
 何気なく、和樹は思ったことを口にする。梧桐は満足げな笑みを深く浮かべた。
 軽く礼を言って店員より銚子と盃二つを受け取ると、一つを和樹に。そして銚子を突き出す。
「ま、最初ぐらいは付き合うよな?」
 そして自分は手酌で。
「何に乾杯する?」
「何に乾杯したい?」
 共に苦笑。そのまま無言で差し出しあった盃の縁を合わせた。






 暮れたにも関わらず、その部屋に灯る明かりは無い。隣室の住人は若い男性だが、今日は女友達が食材片手に訪れているらしく、楽しげな喧騒が大分前から壁越しに伝わり響いている。
 闇の中、少女は座り続けていた。重さ持つ夜の黒が、その細い指を、小さな肩を、白い項を儚い頭を。押さえ付け、内へ底へと塗り込める。
 誰も居ない。経つ時間さえ無意味。ならば真に残酷なのは、この部屋に満ちた静寂か、それとも隣室より稀に聞こえる小さな笑い声か。
 ふと、電話機が軽やかな呼び出し音を奏でた。一度、二度、少女は驚く素振りも見せず顔を上げると、音も無く暗闇の中を歩み、黙ってその前へと立った。そしてそのまま静かに、待つ。
 三度。四度。この道具の使い方については、部屋の主より一通り説明を受けてはいるが、同時に掛かってきた電話には出ないよう、言い含められている。少女が気を害せぬようにと、色々遠回しに噛んで含んだ物言いをされたが、要は世間体の問題かと、彼女は理解している。
 五、六、そして七。自動的に留守番電話へと切り替わり、合成音が主の不在を告げる。それに被さるようにして、当の主の声が響いた。
『あ、えーと俺。和樹です。いる……かな? 居るよね? 聞こえていると良いんだけど』
 無言。ただじっと少女は電話機の明かりへと目を落とす。
『今日も友人と外で飲むことになったんで、帰りはどうなるか解りません。だから食事は用意してくれなくていいし、待ったりなんかせずに、遅くなるようなら先に寝て下さい。
 ――えーと、後、御土産に何か買って帰るから。テレビでも見て』
 そこで甲高い音が響き、録音時間の終了を告げる。
 やがて電話機の光が常のものへと戻り、残響が静寂へと完全に飲み込まれ、再び、隣室の笑い声が聞こえ来るようになっても、少女は動かず其処に居た。
 つまり、何時もと同じということだ。学び舎の師と飲み歩き、あるいは朋輩の家にて酒肴を馳走になる。二日続けて戻らぬことこそまだ無いものの、帰宅が夜半過ぎどころか翌日の昼になることも幾度かあった。
 闇の中においてますます白い少女の指が、ふいと受話器の上に添えられる。その曲線の上をなぞり、滑る指先。それに合わせて手首の銀輪が光を映し、歪んで揺れる。
 土産とは、おそらく西洋冷菓子の類のことだろう。早く帰れぬ時には何故か大概買ってくる。部屋の小さな氷室は上も下も、もう既に一杯だ。
「――そのようなもの、要らぬというに」
 ――自分はここに居るだけだ。詫びるようにものを買い帰る必要は無い。
 ――この家の主は彼なのだ。そのような表情で機嫌を伺う必要など無い。
 何より。自分が彼から貰いたいものはそのような物では無い。
 それに。
 深く俯く少女の目元を、黒く長い髪が隠す。
 ――悪いのは。貴様では、無い。






 手洗いの鏡前で切れた携帯のモニターを見詰め、些か酒臭い溜息を和樹は吐いた。どこか浮かぬ面持ちのまま、人の溢れてきた店内を梧桐の待つ座敷へと戻る。
「遅かったな。――どうした、気分でも悪くなったのか?」
「ああ、いや。ちょっと電話してただけ」
 見れば、お銚子の柄が変わっている。梧桐は酒が強い。飲める量そのものは和樹と大差無いが、酔って乱れることが無い。己を弁え、度を越さず、それでいて十二分に楽しむその綺麗な呑み方は、まるで彼の人柄そのものだと和樹は思う。対面に座ってすぐ、自然に銚子が向けられた。当り前のように盃に受けるが、口は付けず、代わりに席を立っていた間に運ばれていた、新しい麦酒の杯を手に呷る。慣れたグラスやジョッキに比べると、やけに厚ぼったく感じる陶器の杯は、しかし思いの外に軽く、冷えた麦芽の香りは銘柄さえ見知らぬもののように新鮮だ。
 揚げたてのポテトを一齧り。もう一度、酒杯を傾けると、思わず満足げな深い息が零れ出た。
「何だ? ――最近、ちゃんと喰ってなかったのか?」
「いや、このところ和食ばっかりだったんで……」
 正直、気分的にはもっとこってりとして安っぽいものが欲しかったのだが、この店の料理に不満は無い。おいしいということは、何を置いても優先して評価されるべきことなのだ。河岸を変えるか、との形式的な問いに、その必要は無いと笑って流す。
 店主の拘りが窺える小皿から塩を取り、フライドポテトへ一足し。見れば梧桐は同じような小皿からとった塩を舐め、それを肴に日本酒を干す。まるで和樹の洋風趣味な選択に対抗しているようだが、実際、二人の目の前に並べられたそれぞれの料理と酒は、違和感無く一つのものとして纏まっている。
 この調和こそが、店主の真の拘りで腕の見せ所なのかも知れない。と酔いに軽く揺れてきた頭で、和樹はぼんやり卓上を眺めていた。
「――で、今日はどうした?」
「……なんて訊かれるところをみると、何か耳に入ってたりする?」
「二三な。――真偽の程は知らんが」
 その言葉に和樹が浮かべた苦笑は、むしろ安堵の色を帯びていた。
「その、まあ色々とあってね。それで多分、少し参って――参りかけているのかな?」
 自分でも良く解らないんだけど、と情けなさそうに。
「だからその辺りの聞いて欲しかったわけなんだけど……いいか?」
 ん、と無言のまま梧桐は促す。
 だがいざ話そうとすると、何から始めるべきなのか、どこまで語っていいものか、今一つ決めかね、仕方無しに和樹は友に振る。
「ちなみにさ、どんな話聞いてる?」
「良いのか?」
「勿論」
 梧桐は考えるかのように、しばし視線を中空へ。やがて一気に盃を干すと、
「――和澤と別れた。原因はお前が彼女の誕生日プレゼントを買う為に、内緒でバイトに励んだ結果、『最近、冷た過ぎる。もう私に興味が無くなったんでしょう』と、ものの見事に勘違いで決め付けられた。誤解を解こうにも、優しくってまめで気遣いの出来る新しい男性が彼女にはもう居るそうで、人の良いお前さんは今更言うに言い出せない。その上、プレゼント自体は既に購入済み。しかもそれは気を引きたいだけの女性に気軽に贈るには、物が良すぎて使えない代物だったりする。
 そこへきて、追い討ちをかけるようにアパートが工事中で、騒音に耐えかねたお前は当ての無い傷心旅行に――どうした?」
「……何でそこまで事細かに知っている」
 幾らなんでも詳し過ぎだ。卓に身を伏せ、肩震わせる和樹。梧桐が言う。
「お前さ、その傷心旅行の直前に塚打の所に行ったろ」
「あ、い、つ、かあァッ」
「少なくとも」と、斜め方向へ視線を逃がして。「情報の正確さという点で、奴は評価に値すると思うぞ。脚色どころか推測も補足もほとんどしない。あの不必要なまでの厳密さは、学問を志す学生として是非見習うべきだ。そうは思わないか?」
「思うよ、全く別のことを」
 脱力しきった表情で、首を振る和樹。しかし気の抜け切ったその顔は、早くも立ち直りつつある者の顔だ。別に口止めした訳でもなかったしな、と吐息。歩く貧乏籤の二つ名は伊達では無い。不幸は人を成長させる。時として、ある意味、無駄に。
「ま、そういったことが半分」
「半分?」
 まだあるのか? と訝しむ和樹へ、梧桐は視線を戻す。
「残りはそれこそ噂だ。塚打以外の複数の筋から聞いてたんだが――」
 曰く、昨日久し振りに川上と飲みに行った。曰く、ゼミの飲み会で、珍しく川上先輩が最後まで残っていた。そう言えば誰々の下宿に泊まったらしい、その前は彼其れの処で夜を明かしたそうだ、一コマ目の授業に前日と同じ服装で出ていた、最近頬がこけてきたように見える――
 或いは、謂う。まさかと思うが、家賃を滞納して下宿を追い出されでもしたのか、奴ぁ?
「と、言う訳なんだがどうよ? 今、話題の帰宅拒否症プレ・サラリーマン君?」
「そこまで本当に噂になっているのか?」
「ふむ、ブレイクするには今一つ足りないが、このまま続けば良いところまでは行くんじゃないか? 付き合いのある奴は、それなりに気付いていると思うが」
「そんな、また、大袈裟な」
「お前さ、ひょっとせんでも自分が結構やつれてるって、自覚しとらんだろ」
「……夏痩せ、のつもりだったんだよ。何時もの」
 例年よりベルトの穴が大きく移動しているけど、と呟く和樹の前に、「喰え」と皿が突き出された。
「顔がな、酷いぞ」
「おい」
「普通、この歳の男で頬がこければ、迫力が出た、引き締まった、鬼気迫る、ぐらいは言われてもいいものを、儚く貧相になってどうする」
「うるさいと言う」
 口を尖らせつつも、少しは気にしていたのか、和樹は皿を受け取り箸を伸ばす。
 その姿を見ながら、独り言のように梧桐が呟く。
「こう言っちゃ何だが、お前の不幸は何時ものことだ。体質だからな」
 聞きたくない、とばかりに和樹は食事に専念。
「けど、だからこそ打たれ強い。切り替えが早い。嗚呼、御愁傷様、とこちらが手を合わせている間に、そんなこと、忘れたかのように復活している」
「……悲しい」
「何がだ?」
「否定できない辛い事実を突き付けられて、それでも御飯を美味しいと感じる自分自身が」
 ああそうかい、と梧桐。伸ばされた手に醤油を渡してやると、何事も無かったかの如く話を戻す。
「それが今度ばかりはやけに尾を引いてるじゃないか。――下宿の工事が長引きでもしてるのか?」
「いや、それはとっくに終わってる」
 御馳走様、と空になった皿へ手を合わせ、和樹は何時の間にやら置かれていた湯飲みから温い茶を啜った。ふと、苦い笑いが零れる。
「どうした?」
「……いや、家のことを思い出しちゃって」
 首を傾げる梧桐に微笑む。今度こそ、自分の番だ。
「その旅での話なんだけどさ……」






 何十年、何百年経とうと、人の暮らしの大本はそう変わらぬものだ。反面、端々はほんの数年で断絶した様相を呈する。
 これはミニコンポなる音箱。薄い円盤を入れて操作すれば、たちまちに音曲を奏で、別所を押せばたちまちラジオが講談楽曲朗じ出す。
 それはテレビ。祭りの如き催しを絶ゆることなく伝え続け、四角く黒い箱を入れれば全く別の芝居を始める。また繋いであるゲーム機とやらに至っては、せわしきこと範疇の外。彼女にしてみれば、己が遊ぶより、むしろ主の為すを見ている辺りが丁度良い。
 他、棚に並ぶ沢山の絵草紙といい、どれもがあらゆる時代を通じ娯楽を求める人の現在が粋。電気にすら縁無き生活を送ってきた少女には見るも珍しい品々。
 ではあったが、今、この時。彼女の無聊を慰め、食指を動かす物は一つたりとてここには無かった。
 ――確かに、面白かった。良く解らぬまま、只、眺めているだけで。知らぬことを一つ一つ、主に問うているだけで。しかし今、己以外誰も居らぬこの部屋でそのようなもの、どれほど弄ろうとて、一体何が面白いものか。
 幾年も、独りだった。稀に訪なう者もいたが、訪れる者はやがて去る者に過ぎず、住み過ごす者でも帰り来る者でも無かった。辛くなどは当然無い。少女は生まれた最初からそういうモノなのだから。
 暗闇の中で無為に時過ごすのも、来るかどうか解らぬ者を待ち続けることも、当り前と慣れていた。
 だというに。何時からだろう。静かな部屋を寂しい部屋と思うようになったのは。独りでいると、胸が苦しく淀むのは。
 ――吾が間違うたからか。
 明かりもつけず座卓を前に、姿勢良く正座していた少女は、陶皿の上のゼリーへと差していた匙を止めた。ゼリー、プリン、ヨーグルト。氷菓子に至るまで、おいしいとは思うが然程好きなものではない。だが、全く手が付けられていないと、主が無駄に気を使う。そうさせまいと数を減らせば、減った分だけ主が買い足す。
 全く、無様なことこの上ない。主も、自分も、見苦しい気の使い様だ。
 それ以上、口に運ぶ気にもなれず匙を置く。暗い部屋の中、見る者も無く少女の姿だけが滲むように浮かぶ。
 本当に欲しいのは、こんなものではない。だが、それこそを、彼女はまだ一度たりとも貰っていない。言葉だけなら挨拶として幾度も受けた。しかし、心籠もらぬ言葉など、葉音と同じ。幾十幾百繰り返されようと、山の葉擦れに重なり意味が無い。
 いや。だけれどもそれは期待する方がおかしいのだ。
 主は帰ってくるとまず、自分の姿を探す。決して求めているわけではない。むしろ、逆。出迎えた己を見る目は、笑っているものの、その奥が揺れている。退いている。
 自分が、愚かだったのだ。常通り、客人を迎え入れ、土産を持たせ送り出し――それで満足していれば良かったのだ。なのに、初めてのことに舞い上がり、不相応な想いを抱き、欲するものさえ不確かなまま、彼の元へと押し掛けた。彼の都合など、目を逸らしたまま。
 この苦しみは、当然の帰結。彼の苦しみは、巻き込まれた理不尽。良きことは良き想い出として、そのまま触れず留めおくべきだったものを。
 ――疾く、去るべきなのだろうな。
 それだけは間違いない。これ以上は何をどう続けても、残るは悪化への一本道。それは解っている、少女にも良く解っているのだが――
 ぐい、と着物の膝上に揃えられた二つの小さな拳に、力が籠もる。
 解っている。解っている。それは本当に解っているのだ。
 されど言葉は紡げず。そして泣くことを知らぬ少女は、暗い部屋の闇中で深く俯く。
 止める者は居ない、罵る者は居ない、だから少女は只独り。ひたすらひたすら、己を責める――






「それはストーカーだ。追い出せ」
 話を聞き終えた梧桐の答えは、明快簡潔極まりなかった。
 既に周囲は人で満ち、その喧騒の中、不思議と梧桐の声は良く通った。
「いや、それはちょっと違うんじゃ――」
「自覚していない被害者は皆そう言うんだよ」
 その言葉に和樹は頭を抱えたくなった。話を聞いてもらったはいいが、『迷ひ家』や『人ならざる少女』といった部分を適当に誤魔化した結果、どうにも事情が上手く伝わらなかった気がする。
 端的な部分を拾い上げればそう言えなくも無いのかもしれないが、問題はもうちょっと別の部分に大きく重心を置いていて、しかしそれをどう説明すればいいのやら……
 『増築した建物とアパートの部屋を、彼女が勝手に繋げちゃって』と言えば、何割ぐらい状況が正確に伝わって、何倍ほど認識の捩れが深まるか、言うべきか言わざるべきかと悩む和樹に、梧桐は説く。
「そもそも一晩泊めてもらっただけだろう? 感謝すべきことではあるが、それ以上でも以下でもない。後日、そのことを盾に何か請求したり、それに応えたりするのは間違っていると思うぞ。違うか?」
「いや、別に請求されたりしたわけじゃ……」
「相手の人の良さに付け込み、何日も居座るという行動自体が強要だ」
 他人事というのも手伝ってか、梧桐の言葉には容赦が無い。
「大体、教えてもいない住所に押し掛けてこられた時点で、恐いとか不気味だとは思わなかったのか、お前は?」
「いや、確かに驚きはしたんだけど――」
「けど、何だ?」
「びっくりして、それで手一杯だったんだ」
 軽い声をあげて笑う和樹に、梧桐は自分が相談者の如き面持ちで呻く。
「お前、不幸慣れし過ぎて、最近大切な何かを無くしてないか?」
「本日、一二を争う暴言だな、それ」
 ともかく、と梧桐。
「自分の状況、それ以上に相手の行動が普通じゃないってのは解ってるよな?」
「――まあ、梧桐の言いたいこととは、ちょっと違うと思うけど、それぐらいは」
「お前はそう大したことじゃないと考えているのかもしれない。けどな、冷静にここ最近の自分を思い返してみろ。真っ直ぐアパートに帰り難くて連日連夜、友人を飲みに誘い、泊まり歩く。挙句、傍目に解るほど痩せ細る」
「いや、それは彼女が悪いんじゃなくて、むしろ俺が――」
「面倒だから極論してやる。どっちが悪いなんて関係ない。現実に問題が起こっているのは、日常生活に支障をきたしているのは、体調を崩しかけていて、故に優先して対処されるべきなのは、お前の方なんだ。
 理由はあるんだ。彼女に話して、事態の改善に協力して貰え。言い辛いなら、俺が間に入ってやる。――何も、悪意をもって力尽くで厄介払いしろと言ってる訳じゃない。真っ当じゃない状況を押し進めた結果、問題が出てきたから、元の日常に戻そうというだけだ。ちゃんと説明すれば解って貰えるはずだろうさ。
 もし、それでも嫌だとごねるようなら、それこそお前の処に居る女というのは――只の害悪に過ぎん」
 酒が入っているせいか、梧桐は普段なら滅多に口にしないような物言いで、説く。自分のことを思ってくれてのことだろうが、しかし彼がきつく言い立てれば言い立てるほど、自分と『彼女』の現実的な問題から、そして実際、こうして気を病ませている上手く形に出来ない何かから論点がずれていく感じがし、和樹は困ったように残り少ない料理を口へと運んだ。
 余り自分の発言に乗り気でない和樹の様子に気付き、梧桐は暫し考え込むと、やがて脈絡無く言葉を放り投げた。
「体の問題か?」
「……ハぃ?」
「だから肉欲の問題かと聞いてるんだ」
 むせた。構わず、梧桐は淡々と呟く。
「それ自体は当り前だ。男として、健全な衝動だしな。
 下世話に聞こえるかもしれんが、和澤と別れて心身共に温もりを求めるお前が、知り合ったばかりの別の女性に手を出したって、短慮とは言い切れんと思う。まさしく人肌が恋しかろうからな」
 勘違いを止める。そのためには、まず自分が落ち着かないと。
 和樹は慌てて卓上の湯飲みに手を伸ばす。一息に干したそれは、梧桐が注文していた焼酎だった。
 のた打ち回る友を僅かにも顧みようとせず、梧桐は続ける。
「だが、それによって得られる安らぎも、充実感も、快感も。その瞬間には本物だろうが、果たして日常他の全ての基準にも置き換える程のものと、本当に言い切れるか?
 愛情や愛着が生まれつつあるのかもしれん。体の相性や、話を聞いただけの俺には良く解らないが、実際にはお前が夢中になるだけの、素晴らしい女性なのかもしれん。だがな。その判断は一旦身を離し、諸々が落ち着いてから、もう一度下すべきじゃあないか?
 なに、心配するな。関わって提案した以上、俺は協力を微塵たりとも惜しむつもりは無い
 ――俺から具体的には、そうだな。ヤれるだけの女、というのは正直難しいが、付き合えるかもしれない女性なら、何人か紹介してやれないこともない。だから、まずは独りに戻れ。冷静に色々なことを見直すために。」
「……ひ、人が喋れないのを良いことに、好き勝手を……」
 目の端に浮かんだ水滴が、どんな理由によるものか、和樹は考えたくもなかった。
「ふむ――そのな、別に責めている訳じゃないんだぞ?」
「身に覚えの無いことで性犯罪者に仕立て上げられてたまるかっ」
「同意の上なら犯罪じゃなかろう。要は雰囲気とタイミングだ」
「違う! ――そもそもそういう関係じゃない」
「成る程。プラトニック、という訳か」
 いい加減、珍しくも酔っているんだろうな、こいつは、と和樹は思う。そうでなければ、本気で悲し過ぎる。
「……念を押しておくが、全然そっちは関係ない。手を出すどころか、寝る部屋だって別だ」
「そうか、それは悪かった。けど、お前さんのアパート、そんなに広かったか?」
「ん、まあ、それぐらいならね」
 言葉を濁す和樹。追及されればややこしくなるな、と思ったが、幸か不幸か梧桐からそれ以上の言葉は無かった。
 そう。幸か不幸か。
 梧桐の顔がこちらではなく横を向いているのに気付き、追うように視線を動かす。
「――御免。ちょっと時間を貰えるかな」
 座敷の上がり口に、見慣れた女性が立っていた。険しいほど思い詰めた顔をしている彼女の名は、和澤広枝。ほんの半月ほど前まで、川上和樹と付き合っていた間柄だ。
「あー……久し振り」
 引き攣った笑顔で手を上げる。今さっきまでの、どこをどうとっても碌でもない誤解しか招きそうにない会話を、一体どの辺りから聞かれていたことか。間が悪いのは何時ものことだが、正直今回のはきつい。。
 だが、彼女はその表情を別の意味にとったらしい。「……すぐに済むから」と、更に声を重くする。
 この様子では、例え来たばかりでなくても、二人の会話は耳に入っていないことだろう。
「上がるか?」
 中々言葉を発しようとしない彼女を見かね、梧桐が場所を譲ろうとする。
「ううん。ありがと。けど、人と来ているから」
 振り返りもしない彼女の背後を見れば、離れたカウンター席から心配そうにこちらを窺っている青年の姿があった。歳は、和樹や梧桐と同じほど。見覚えはないが、多分、そういうことなのだろう。
「聞いた話なんだけど――」そう始めた彼女の瞳は、真っ直ぐ和樹を覗き込んでいる。「別れる前、避けるように付き合いが悪かったのは、私の誕生日プレゼントを買うためにバイトをしてたからって、本当?」
「――ああ、そういえば先週だっけ、誕生日。遅くなったけど、おめでとう」
「ありがと。――誤魔化すってことは本当なんだ」
「……なまじ付き合いが長いってのも何だか」
 ねぇ、と苦笑。和澤も同じように、微妙に歪んだ笑みを浮かべる。
「御免。結局、信じてなかったのも、人の心が解ってなかったのも、優しくなかったのも、裏切ったのも、全部私の方だったんだ。本当に――御免なさい」
「……いいって。もう、済んだことなんだからさ。綺麗に終わったってことにしとこうよ」
 憎しみ合うほど嫌いになって、別れたわけではない。相手がどんな性格で、どんな反応をするか予想できるぐらいには、互いに深く付き合ってきた。
 うん、と和澤は頭を一度だけ下げると、切り替えるように深呼吸。
「で、もう一つだけ聞きたいんだけど。そのプレゼント、買っちゃったんだってね」
「どこからそんな詳しい話を――塚打か」
「塚打君? ううん、違うけど」
 しかし感染源は――発生源は自分だということに、都合良く目を瞑れば――塚打以外の何者でもない。そんな和樹に彼女は言う。
「それ、買い取る」
「――おい」
 それまで座敷の奥で置物よろしく息を潜めていた梧桐が、たまらず口を挟む。
「……ちょっと待て、そういう問題か?」
「そういう問題よ。――うん、お金の問題」
 当事者の和樹を脇に、そこで険悪な視線を交し合う二人。
 一方の和樹は、こそばゆそうに苦笑していた。二人が、どういう思いをその言動の内に籠めているのかが、何となくだが解るから。
 梧桐は、和澤が和樹の苦労も想いも時間も、全て解り易い目に見える金額で片を付けようとしているようで、気に入らないのだろう。和澤自身にしてみれば、そこは最低限筋を通しておくべき部分なのだ。
 言葉に出せば、違うと言われるかもしれない。けど、根本的な間違いはないはずだ。梧桐雄一郎という友人、彼が思うこと。和澤広枝という昔の恋人、彼女が考えること。そして、川上和樹という自分。自分が言葉や形にせず、彼や彼女を想うこと――
 ああ、そういうことかな。
 ふと、腑に落ちた。答えには、結果としてだけじゃなく。踏ん切りをつけるために先に出すものや、形にする前に既に決まっているもの、そういったのもあるのだろう。
「あのさ」
 その声に、二人が振り返る。
「昔から思うんだけどさ、安っぽい映画とかで良くあるだろう? 反目しあっていた親子が絶体絶命の危機に命懸けで助けられ、絆を取り戻すってやつ」
「……確かに良くあるし安っぽいが、だから何だ?」
「でも、そうやって特殊な状況下に命懸けでしか確認できないような絆というのは、既に破綻しているんじゃないかなって……違う、それじゃ話が続かない。そうじゃなくって、そういうドラマチックな出来事は、ただのきっかけじゃないかなってこと。
 判り易い出来事が踏ん切りになっただけで、それに足るだけのものはそれ以前に彼等の中にあったんだと思う。だから例えその事件がなくても、別のきっかけや時間、偶然によって、彼等は同じような結末を手に入れることが出来るんじゃないかなって。見えるもの、目立つものの下には、隠れているだけでちゃんとその土台になるものがあるんだと、そう俺は思うんだ」
「……そーゆー考え方もあるだろうし、とっても川上君らしいとは思うけど、御免。何が言いたいのか、全然解らない」
「つまり」どこか満足げな笑顔で。「そういうことなんだよ、きっと」
 胡乱な視線に乗せ、『酔っ払いが……』という二重唱が届く前に言葉を足していく。
「誤解がさ、全てじゃなかったってこと。あれが理由やきっかけにはなったんだろうけど、原因自体はもっと前から、気付かないうちに積み重なっていたんだろうなって。
 ……気付くべきだったんだろうけどね」
 それは、これからの自分への課題、と自分にだけ聞こえるよう、口の中で小さく舌を動かす。
 ふと、見れば和澤は複雑な顔をしていた。
「和澤さんさ」とカウンター席の男性を視線で示す。「結局、今一番大切なのはあの人でしょう?」
 彼女は一瞬面食らったような顔をし、それから真正面から頷き返した。和樹が笑う。
「なら、つまりはそういうことなんだ」
「――解んないわよ、酔っ払い」
 そう、屈託なく笑った彼女の顔に、懐かしさと一抹の痛みを和樹は覚えた。次いで、梧桐へと向く。
「相談を持ち掛けておいて悪いけど、今日の話も、同じようなものだって、今さっき気付いた。きっかけや、目に見える形が無いだけで、答え自体はもう粗方俺の中で纏まっているんだって。多分、そのことを自覚していなかったから、人に話を聞いて貰いたがったり、悩んだり、迷いが行動の端々にあんな風に表れたんだと思う」
「つまり――帰りたくないってのが、拒絶の無自覚な表れだと?」」
 和澤を思って解り辛い言葉を選ぶ梧桐。しかし、「逆さ」と和樹は自然に笑んだ。
「逆。追い出さないのが、既に出ている答えだったんだ。――帰宅拒否症は、その答えを認められるだけの明確な理由が見付けられなかったから、決めかねて、無様に迷っていたんだと思う」
「――何でお前はそっちに行く!?」
「多分、俺が俺だからじゃないか」
 頭抱える梧桐に、すっきりしたと言わんばかりの和樹。何が何だか解らないと首を傾げる和澤に、何でもないよと手を振って、和樹は席を立つ。卓に札を数枚、置く。
「御免、早く帰りたいから支払いの方、お願い」
「あ、おい」
「足りなかったら、また言って」
 足りていたら釣りの方よろしく、と去りかけた和樹の服裾を和澤が掴む。
「ちょっと川上君、その、お金のことなんだけど」
「あ、それならさ――あげちゃった」
「はい?」
「女の人にあげちゃった」
 和澤が固まる。ほんの半月前までの彼女が知っている川上は、こういう場を軽口や冗談で流せる男ではなかったし、それ以上に洒落た振る舞いや軽薄な行いを、ほいほいと知り合ったばかりの女性に出来る男でもなかった。
「だから気を使ってもらったってのに、御免ね」
「……えっと、その、本当なの?」
「うん。たまたま御世話になった人がいて、丁度手元にあったからあげちゃった」
「――このっ、馬鹿!!」
 和澤の怒声が店内に響く。一瞬の注目を浴びる中、梧桐が、俺だって怒鳴りつけたいのにという表情で抑えに入る。
「あれ、結構な値段がしたって話じゃない! そんなものを御礼代わりとは言え、そうそう簡単に人にあげてんじゃないわよ!」
「いや、そんな大したものじゃないし」
「あのねっ!」
「良いんだよ、気にしなくたって。――自棄になってた訳じゃないから」
 笑顔で言われ、和澤が黙る。
「一応、大袈裟な言い方をすれば命の恩人と言えなくもない人だったし、それに思いもよらず――彼女には良く似合ったから」
 山の暗さを凝らせたかのような濃紺の着物。流れる黒髪、裾に散る秋草、水面を思わせる眼は何処までも深く、澄んだ強さを漂わせ。手首に絡む銀輪、耳元に小さく揺れる若竹の翠。どちらも彼女の色を乱すことなく、そこに己を添え飾っていた。
「満足してるんだ。自分でも意外なくらい」
 最も、少女が最近纏う白や緑、水色、赤系統といった明るい和服にも、あれはあれで良く似合う。ブレスレットやイヤリングに合うよう、気遣ってくれているようだが、その辺は正直余り良く解らない。稀に彼女が口にする、着物と装飾具に込められた、昔の色目にちなむ風流な洒落とやらに至っては、とんとだ
 ――和樹が和澤の踏み付けを躱せたのは、長い付き合いによる賜物以外の何ものでもない。一瞬前まで彼の靴があった場所に、体重を籠めた足が落ちている。
「……どうして避けるのよ」
「……どうして踏むんだよ」
 上目遣いに睨め付けながら、「何となく」と実に解りやすい答えを和澤は返す。
「嫌な女になってもいいから、人の足を踏み躙りたくなることってない?」
「俺は男だって」
「そう。なら男らしく――黙って踏み付けられてなさい!」
「だから何で!」
 ダンスを始めた二人を尻目に、梧桐は財布を出した。さあ、素早く動こう。会計を済ませ、釣りをポケットに捻じ込んだら、次は襟首掴んで店外だ――






 何の前触れも無く少女は立ち上がった。部屋の明かりが次々灯る。
 時計の数字を見て、少しだけ意外そうに眉を動かす。次いで視線は卓上に置かれたままの、食べかけのゼリーが乗った器へと移る。だが、触れたくもないのか、彼女はそのまま玄関へと向かった。
 浮かぬ面持ちなど端から無かったかのように消し、無表情に待ち続ける。やがて、微かに近付いてくる足音がその耳に届く。
 差し込まれ、無駄に廻される鍵。主が帰ってくる前には開けてあるというのに、長い習慣だとかで、彼が鍵を使わぬことは未だに無い。
 やがて開いた扉から覗いた顔に、彼女は淡々と言を発した。
「お帰り。――早かったのだな」
 その言葉に振り向いた彼は、何か良いことでもあったのか目元を緩め、そして――
「あ、うん。ただいま」
 穏やかに微笑んで帰宅の言を告げた。

 帰って来たよと、ここに戻ったんだよと、少女に伝えた。






 しなくてもいいと言っているのだが、案の定、何時も通り玄関先で出迎えた彼女が、目の前で口を小さく開けて放心している。何か変なことでも言っただろうかと和樹が思う間も無く、見開かれた少女の目元が涙を浮かべた。
「え、どうし――」
 小さな手が和樹の胸元を捕まえ、ぐいと引き寄せる。体重差でむしろその胸に飛び込む形になった少女は、顔を埋め、爪先立って――
「上を向いておれ!」
 掌底で顎をかち上げた。
 舌を噛まなくってよかったなぁ、と思う和樹の顎を、小さな手でなおもぐいぐい上へと押し上げる。普段見ない廊下の天井を堪能しつつ「どうかしたの?」と問う声に、「どうもせん。黙って胸を貸しておればよい」と、少女の涙声が重なる。
 しゃくりあげもせず、声も立てず、僅かに震えることも無く、少女はただ和樹の胸元へ顔を押し付けている。少し考えた後、大したことはなさそうだと判断した和樹は、上を見上げたまま、そっと少女の両肩に手を添えた。受け止めるように肩を抱く。
 ――希望なんて、絶望の飛び込み台に過ぎない。幸せは、不幸のための隠し味。現実なんてそんなもの。でも、それは逆についても同じこと。絶望なんて、希望への踏み切り板に過ぎない。不幸は、幸せを楽しむための演出。所詮、現実なんてそんなもの。
 ああそうか、こうしていれば酒臭い息を吹き掛けなくて済むなと思い、和樹は笑う。指先でとんとん、とあやすように彼女の両肩を叩けば、無言で彼女が更に体を押し付ける。
 自分が山で迷って彼女に出会ったように。悩み、苦しんで、挙句、こうして彼女を受け入れることが出来るようになったのと同じで。彼女のこの涙もまた、次へと変わるものであればいいなと和樹は思った。
 そう、不幸があれば幸福があるように。
 ――幸福なんて不幸の前振りに過ぎないのだから。
 どさり、と重い音がした。聞き慣れない音だが、和樹には何故か、それが複数の人間の倒れる音だという確信があった。
 冷や汗を潤滑油に、首を上から横へと不器用に動かす。少し離れたアパート廊下の角。まるでこっそりと覗いていた人間がバランスを崩したような格好で、梧桐、和澤、そして先程、店のカウンターに座っていた青年が折り重なっていた。
「あ……そのね、合鍵を返そうと思って……」呆然と、和澤が言う。それ以上は言葉にならず、代わりに表情が雄弁に物語る。
「お前……そういうことだったのか、川上、お前――」梧桐の辛そうな顔は、道を踏み外していない友人に向けるには、余り適切とは言い難いものだった。
「あ、その、今晩は。どうもお邪魔してます」和澤の新しい彼氏は、なかなかに人間が出来ている御仁のようだった。
 つられて会釈を返した和樹は、我に返って大きく叫んだ。
「違う!」
 確かに今の自分は、傍目に見れば凄く問題があるかも知れないが、天地神明に誓ってやましい所は無い。慌てふためく和樹の前で、隣部屋の玄関扉が小さく開いた。住人ではない女性と目が合ったと思う間も無く、閉まる。鉄扉の向こう、開いた小さな換気窓から『抵抗する女の子を男が襲って』『警察に』と、不穏な言葉が聞こえてくる。
 ――冷静に己を顧みよう。爪先立って手を伸ばし、必死に男の顔を押し退けようとしている少女。その両肩を掴んで離さない成人男性。
 対処を何か和樹が思いつく前に、今度は遠慮なく隣室の扉が開かれた。見覚えのある男性が、和樹を見、泣き止んで無表情に小首を傾げている少女を見、喧嘩とかじゃ無いですよね、と二人に確認して後、「失礼しました」とドアを閉めた。
 ――ちょっと、警察!
 ――ああ、いいんだ。もう通報はした。
 窓向こうの声が、不思議と届く。
 ――二三日前に、警官や児童福祉相談所の職員や、市の担当者が来たんだが、何でも事情があって一緒に暮らしているだけで、問題は無いんだとさ。文字通り公認ってやつだ。
「……警察、来たの?」
「来たのう、そう言えば」
 済まぬ、忘れておったと含むもの無く少女は言うと、和樹の腕の中でうん、しかしと頷いた。
「道理をもって論じ、情をもって訴え、ついでに少し幻術をもって頼んだところ、思いの外、すんなりと認めてもろうことが出来たぞ」
 物分りがようて、良かった良かったと呟く少女とは別に、和樹の顔色がどんどん悪くなる。
 今日はついてると思ったのに。色々、上手くいって気持ちよく帰ってきたのに。
 ――畜生、全部ここへの伏線かッ!
 ふらつく和樹から身を離し、少女は梧桐達三人を見遣ると、確かめるように問う。
「主よ、あちらは貴様の知り合いか?」
「……友人」
「ふむ。そうか」
 少し考えると、その満面に見惚れるような笑みを浮かべ、少女は朗じた。
「では、上がっていかれると良い。吾が身は既に『迷ひ家』ならず、故に土産を差し上げるという訳にはいかぬが、主の御友人というのならば、拙いながら精一杯の御持て成しをさせて頂こう。
 さあ、遠慮などなさらずに――どうした。主よ、貴様もお誘いせぬか」
 嬉しげに笑う彼女の手が和樹の服を掴み。二人の間でしっかりと絡まり合う銀色の双輪が揺れ光った。






                 

――――了