『紅葉月の旅人(ヒッチハイカー)』




 次々に後ろへと流れていく木立を、助手席の岸田十真は飽くことなく眺めて いた。左の山際では夏の間に伸ばした枝葉を、埃や排気ガスでコーティングさ れた名も知らぬ木々が似たような背格好で立ち並び、対向車線とガードレール の向こう側ではそれが面になって、なだらかな山肌に貼り付いている。何の面 白味も無い毎度の秋先の光景だというのに、岸田の目にはそれらがやけに新鮮 に映った。  不思議なもんだ。  声にせず、呟く。道の両側に広がっているのは、別に大した風景ではない。 山々の緑はそこはかとなく生彩を欠き、夏の惰性だけで紅葉の季節を待ってい るかのよう。しかし、全てが黄や赤に燃えるのはまだ少し先のこと。もう衣更 えを済ませた気の早い樹木の姿もちらほらと目にはつくが、それらは作りもの めいていて、辺りから浮き上がっている。  けれどそういった刺激の少ない風景が、今の岸田には無性に感慨深かった。 樹が、下草が、山が、青空が、降り注ぐ陽光からゆったりとうねるアスファル トの道路まで、全てのものがそれ自身としてそこに存在する。そんな当たり前 のことを、心から素晴らしいと感じていた。自分を包み込む世界が持っている 本当の意味や価値が、自然に肌から喜びを伴い染込んでくる。  別に悟りだなんだと特別なことを言わずとも、欲望や知識といった己を縛る 先入観を捨て、あるがまま全てを受け入れたとき、人はそれに気付くものなの だろう。  そう、例えば――  母の乳房に顔を埋める、まだ空腹と泣くことの違いも知らぬ赤子。  己の手足の指だけで、滝横の岩場を登り切った青年が最初に見る光景。  重ねた徹夜に考える力さえなく、ただ朝日を待つ会社員。  生きるだけ生き、のんびりと余生を楽しむお年寄り。  そして残された寿命の短さを知った病人など、こと自らの命について何か思 うところの有る者なら、その時失おうとしている世界の素晴らしさに気が付く のではなかろうか。――今の、自分のように。  岸田は静かに隣へと目をやった。運転席の友は、いつもと同じちょっと困っ たような笑みを口元に浮かべ、穏やかな眼差しを道の先へと向けていて、こち らの視線には気付かない。しばらくの後、岸田は深々と座席に身を任せ、彼と 同じ方を見やった。  殺人許可証を取るつもりだと彼が岸田に打ち明けたのは、ほんの三ヶ月ほど 前のことだ。無論この時代でも人を殺すことは禁忌であり、殺人許可証と俗に 呼ばれているものも、本当の意味の許可証ではない。だが指定された特殊施設 において訓練を受け、殺しの知識と技術を身に付けた者に、警察の公安が能力 証明書を発行するという矛盾が行われていた。  結果として、毎年一万人以上が人生に不本意な幕を引き、火葬場の薪と化し ていたが、社会は許可証持ちの殺人を取り締まろうとする反面、そんな現実に 慣れてしまっていた。 冷静に考えれば異常でしかない状況に、人々の精神は 麻痺し切っていたのだ。  だから彼が殺人許可証を取るつもりだと知ったとき、岸田はあえて止めはし なかった。一瞬、犠牲となる不幸な第三者のことを思いもしたが、すぐにどう でも良いことだと切り捨てた。それどころかいざというときには、彼を利用し ようという、虫の良い考えが有ったことも否定できない。そう、あの時自分は、 彼が殺人許可証を取ることを望んでいたのだろう。  ――まさか、その最初の犠牲者に自分が選ばれるとも知らず。  再び運転席へと目を向けた岸田は、自分が回想に耽っていたわずかな隙に、 友がやろうとしていたことに気付き、愕然として叫んだ。 「止まれっ、赤っ!」  停止線を大きく越して前のめりに止まった車の鼻先を、警笛を鳴らしながら 白い軽トラックが通り過ぎる。冷や汗を拭う岸田の耳に、運転席からいつもと 変わらぬ声が届いた。 「悪いね。ちょっとぼんやりしてたもんで…… 」 縁側で猫を膝に抱き、望洋と茶を啜る年寄りの如く、ほんの数日前に運転 免許証を手に入れたばかりの新居草司が呟いた。  乗車前に見た、ボンネットの何故かべこべこになっていた若葉マークを思い 出し、岸田は残っていた希望を吐息に混ぜ、吐き出した。  「――ってな事が、ついさっきも有りましてね。そもそもこいつが免許を持 っていること自体、犯罪なんですよ」  上体を半ば捻って右肩越しに岸田がそう言うと、スピードメーターが標識通 り五十キロの所をぴったり指しているのを確かめた草司が、隣にではなく後ろ へと弁明を口にした。 「無茶苦茶言ってくれるなあ。僕の運転は安全確実、普段は恐くて制限速度も なかなか出せないぐらいなのに。  先程のあれは、つまり、あんまり天気が良くてのどかだったもので、つい… …」 「つい、で人生終らされてたまるか! その目を開けたまま、どっか別の世界に 行く癖を何とかしろ」 「そんな癖はないよ」 「いーやっ。この前、大学横のコンビニへ歩いていく途中のT字路で、真正面 を向いたまま生垣に突っ込んだのは、どこのどいつだ?」  何も言い返さない草司に代わって、後部座席から小気味の良い女性の笑い声 が弾けた。 「あーあ。ちょっと、とんでもない車に乗っちゃたな。ヒッチハイクさせても らっといて、こんなこと尋ねるのも何なんだけど――本当に、大丈夫?」 「御安心を、松木さん。この車には使えない運転手を補ってなお余りある、優 秀なナビゲーターが乗っています」気取った岸田の言葉尻に、ぽそりと草司が 付け足す。「岸田君も、まだ死にたくはないでしょうからねー」  再び弾ける笑い声。頬に突き刺さる視線を交わすように、草司は後ろへと話 し掛ける。 「それにしても、徒歩とヒッチハイクだけで旅行だなんて、よくやりましたね。 男の僕だって、そんな度胸や体力はありませんよ。笑顔で送り出した旦那さん もすごいと思いますけど、可奈枝さんは不安とか無かったんですか。その、一 人で――」  バックミラーの中で、ショートカットの若い女性が笑みを深めた。色気はな く、腕白坊主が浮かべる笑顔そのままだ。  しばらく前に、草司達二人が道端で拾い上げた彼女の名は松木可奈枝。高校 時代からの付き合いだった旦那と結婚したはいいが、どうにも人との交わりが 恋しくなり、一回目の結婚記念日になる今日を目安に、ぶらぶらと当てのない 旅を続けていたのだという。 「うーん、初めての場所で一人っていう、心の張り詰め方が好きなんだけどね。  そうだなあ、昔、夜に山道で迷って遭難しかけたことがあったっけ。あれは 恐かったな。 人家の明かりなんてどこにも無いのに、月があったせいで不思 議と周囲のものは見えるし、歩き続けているうちに体の中の葡萄糖がなくなっ てさ。ハンガーロックって言って、まあガス欠みたいなものなんだけど、いき なり動けなくなっちゃって。しかもそんなときに限って飴玉の一つも持ってな かったものだから、体温は下がる一方で戻らないし、気温の方もどんどん冷え 込んでいって―― 夏でも凍死することがあるって、本当なんだよねー  まあ、そのときは何とかなったし、今となってはいい思い出かな」 「……いい思い出ですか?」  岸田が呟くと、可奈枝が答える。 「そっ。 ヒッチハイクで旅をしていると、やっぱりよく聞かれるね。見知ら ぬ人間の車に乗って、恐くはないのか。女なら、なおさら危ないだろうって。   でも、私に言わせればヒッチハイカーを乗せる人の方が、よっぽど度胸が あるわよ。小汚い、何考えているんだか判らない奴を、無防備に乗っけちゃう んだから。いきなりナイフを突き付けて『金を出せっ』なんて、脅されたらど うするつもりなんだろう、ねぇ?」 「……いや、ねぇと言われても……」  無防備に乗せてしまった草司が返す。少し俯いて、可奈枝は続ける。 「そりゃ、無責任に人に勧められるような、安全な旅の仕方じゃないけど……  でも、これが一番色んなものを感じれられるから。思い出したり、気付いた り出来るから。 例えばヒッチハイクなんて、人の好意が無ければ出来ないし、 そうして乗せてくれる車が無ければ歩くしかない。普段の生活だって、似たよ うなものでしょう? いつだって私達は誰かの優しさに助けられているし、他 人が当てに出来ないときは自分自身でやるしかない。だからこそ、誰かの親切 っていうのがどれだけ有り難いか――って、ふふっ。なんてことをまあ、歩き で一人旅なんかしてると、時間だけはたっぷりあるから、色々考えたりしちゃ うわけよね。 それにさ、二時間三時間ひたすら重い荷物を背負って歩き続け て、ふと振り返ると、そこに凄い光景が広がっているの。それは自分の足で歩 いてきた、地平線まで続いているような長い道路だったり、眼下に箱庭みたい にこじんまりと整っている、朝に出た街の遠景だったり。ちびちびと一歩ずつ でしかないけど、それでも続けるだけでこんなに前に進める力が自分にはあっ たんだって、気付くの。自分は、自分が考えていたなんかより、もっと凄いん だって。 そんな事があったりするから、やめられないんだよね。旅は――」  うっとりと目を輝かす彼女に、岸田が意地悪く笑う。 「旦那さんが泣いても?」 「『やめて、私を縛らないで、引き止めようとしないで! ちゃんと良い子で お留守番していてくれるなら、お土産ぐらい買ってきてあげるから』」  さらに意地悪く可奈枝が笑い返す。 それから話は彼女の旦那のことに移り、 二人の新婚生活のどたばたを経て、今、車で走っている道沿いに建てたという、 住居の様子へとおよんだ。家の前庭に紅と白の木蓮を並び植えたことを可奈枝 が言うと、しみじみとした口調で草司が庭には各季節に合わせたものを配すべ きだと、渋好みの具体例を出して説き、何故か岸田が理想の家庭像なるものを 熱く語り始めた。白い子犬、青い芝生、休日にはキャッチボール、週末にはバ ーベキュウと続いたところで、ふと気がつくと。  松木可奈枝の姿は跡形も無く、車の中から消え失せていた。  もう何度も繰り返した質問を、再び岸田は口にせずにはいられなかった。 「……どこかで一時停止したときに、こっそり降りたってことは考えられない のか?」 「却下。あんな大きなリュックごと、音も気配も無くどうやって? この車は 自慢じゃないけど、お母さんから姉さん、そして僕と代々受け継がれてきた由 緒正しいぼろ車なんだ。うちの家族でさえ、誰かに気付かれないよう静かにド アを開閉するなんて神技は不可能だよ」 「……」 「ちなみに、走行中は自動的にロックが掛かる安全設計」 「車酔いか貧血かなんかで、気分が悪くなってシートの下に……」 「溶けて消えた?」 「後部座席の!」 「だから、秘密のスペースなんて、無いって。中も、外も、散々二人で捜した じゃないか」  いい加減この問答にも飽きたと言いたげな草司とは対称的に、岸田は張り詰 めた表情で下唇を噛んでいる。ちらちらと運転席の友と、可奈枝の消えた後部 座席を見ていたが、やがて意を決して何かを口にしかけたとき、彼に先じ草司 が尋ねた。 「そうそう、消えちゃった可奈枝さんの自宅って、お隣さんが見えない集落外 れの一軒家で、庭先に紅白の木蓮が並んでいるんだよね」  相変わらずの呑気な口調だが、岸田には何か感じるものがあった。草司を見 て、そのまま彼の視線の先を追う。  進行方向右手。それまでガソリンスタンドの一つも無かった道沿いに、さび れた一軒の家が立っている。周囲を伸び放題の生垣で囲い、少し奥まった所に 建てられているにも関わらず、充分に余裕の取られた庭には、名こそ判らない ものの遠目にも葉の大きな樹が二本、重なり合って背を伸ばしている。  そしてその家の前に一人の男性がいた。彼はこちらと目が合うと、道路に踏 み出し、止まってくれるようにと手を挙げる。 「やっぱり、あれが可奈枝さんの旦那さんってことになるのかなぁ」  蒼白になっている岸田を尻目にウインカー、バックミラー、ブレーキと、草 司は停車の手順を踏んでいった。  庭に通された岸田と草司の目は、自然と連れ添う二本の樹へと向かった。大 木、と呼べるほどではないが、明らかに植えられて一年以上は経っている。 「……なあ、これ木蓮の樹か?」 「花が咲いてないから自信はないけど……多分……」 「木蓮ですよ」  落着き過ぎた声で肯定され、振り返るとそこには松木和也――松木可奈枝の 夫と名乗った、四十代に近い男性が立っていた。髪には白が多く混じり、背は 高く、痩せた体つきは雰囲気とあいまって、若さより老いを感じさせる。可奈 枝とは全く逆に、彼にはどことなく生気のようなものが欠けていた。 「……赤と白の、ですか?」  岸田が聞くと、和也は少し辛そうに微笑んだ。 「彼女がそう言いましたか」  そして立ち話もなんでしょうからと、二人を少し離れたところにある、陶製 の椅子へと誘う。もとは真ん中に小さなテーブルを据えて、友人達と天気のい い日に茶や雑談を楽しんだのだろう。今は雑草の中に、薄汚れた太鼓型の腹の 膨らんだ丸椅子が四つだけ、残っている。  比較的綺麗な椅子を勧め、和也は先に腰を下ろした。 「すいませんね。この庭を見てもらえれば判るように、家の中は妻がいなくな ってから荒れる一方でして。お恥ずかしいことに、ここの方がまだましなんで す。本当は御茶の一杯でもお出しするべきなんですが――さて、御茶葉どころ か、薬缶すらどこにあるのやら」  何でも無いことのように、笑う。妙に気の抜けた二人は、それぞれ適当に手 で払ってから座り、和也と向かい合った。 「さて、色々とおっしゃりたいこと、尋ねたいこともおありでしょうか、まず は何があったか、詳しくお話頂けませんか? その後で、私の知っていること でよければ、全てお答えします。ですから、どうか――」  慣れた口調でそこまで言うと、二人の目を見詰めて、お願いしますと頭を下 げた。岸田と草司は困惑しながらも、仕方なしにどちらからともなくあったこ とを話す。ドライブの帰りに、可奈枝と名乗る若いヒッチハイカーを乗せたこ と、新婚生活や旅について雑談を交わしたこと、そして気がつけば彼女がいな くなっていたこと――  時々、言葉少なに質問を挟んでいた和也は、聞き終えた後、しばらくはじっ と膝の間で組んだ自分の手を見ていた。ただ、本当に何を見ていたのかは、岸 田達には判らない。  風に擦れ合う木蓮の葉音に、顔を上げた彼の目尻には、滲んでいるものがあ った。 「――失礼しました」  深々と、改めて頭を下げる。 「妻を乗せて下さり、本当に有り難うございました。こんな当たり前の言い方 しかできませんが、あなた達の親切に、心から感謝しています」 「え……じゃあ、本当に奥さん?」「はい。妻です」 「あれ、でも可奈枝さんが言ってた話じゃ、旦那さん、つまりあなたとは高校 生の頃からの付き合いだったって……」 「ええ、クラスが一緒でした」 「まさか先生と生徒、ってでも、同級生だったと聞いた気が……」 「その通りですよ」  段々混乱していく岸田達に、よければと、彼は順を追って説明し始めた。  彼等が結婚したのは、もう十数年以上も昔になる。付き合っていた時間が長 かったので、当初は甘く考えていたが、それはそれで色々あったらしい。とも かく、この家で新しく暮らし始めて一年になろうかという時分に、唐突に彼女 が旅に出たいと言い出したのだ。 「もともと、暇さえあればどこかに行っているような奴でしたし、その二三週 間ほど前から、ふさぎ込んでいるようなところがありましたから、気分転換に はいいかと思ったんです。――過ぎたことだから言えるんでしょうが、あのと き、止めておくべきでした」  そして、初めての結婚記念日までには戻る約束で、笑いながら彼女は旅に出た。 たまには旅先からの電話もあったらしい。 「そして約束の日になって。いつまで待っても、彼女は帰ってきませんでした。 最初は間に合わなかっただけだと考えようとしましたが、でもそれなら何の連 絡も無いのはおかしい。それで翌朝すぐに、警察に連絡しました」  だが、無駄だった。警察も、探偵事務所も、友人達の捜索も、そして和也氏 本人の必死の苦労さえ、何一つ得るものはなかった。 「事故か、自分の意志での失踪か、それとも何かに巻き込まれたのか。そんな ことさえ、判りませんでした。  ……変な話ですが、しばらくは誰もいない家に帰るのが、待ち遠しかったも のです。玄関先で彼女が、今旅から帰ったとばかりに、笑っていそうで……」  辛いだけの時間が、丁度一年、続いた。  二度目の結婚記念日。朝からあまりに天気が良く、彼は誘われるように椅子 を道沿いに出して、待ち続けた。何か予感があったわけではない。それでも誰 もいない家の中に戻る気にはなれず、昼食も食べずに道の先をじっと見詰めて いたという。  やがて、いつもと変わることなく陽は暮れてゆき、さすがに家に入ろうとし た彼の前に、一台の車が停まった。 「その運転手が、奇妙なことを尋ねるのです。『若い女性のヒッチハイカーに、 心当たりはないか?』  話を聞くとだいぶん前に乗せたが、気がつくといなくなっていた。それで彼 女との会話の中に出てきたままの家を見かけたので、たまたまいた私に声を掛 けたのだと。  ……可奈枝でした。旅に出たときと同じ服、同じ荷物を背負っていたのです ぐに判りました。それで最初は、何か理由があって帰ってこれなかったのが、 一年振りに戻ってこようとしている。そんな具合に信じようとしました」  だがいくら待っても、彼女は帰ってこなかった。 「そして一年後。また別のドライバーが、同じことを尋ねに来ました。『松木 可奈枝という、ヒッチハイカーを知らないか?』と。あの日のままの姿の彼女 を乗せ、そして消えてしまったのだと言って。  ……毎年です。あれから毎年、結婚記念日になると、何人かのドライバーが やって来ては聞いていくようになりました。」  そこでいったん口を閉じ、彼は岸田と草司に穏やかな眼差しで問うた。 「お二人は、妻が消えてからここまで、一時間ほどしかかかっていない。そう おっしゃいましたね」  頷くのを見て、深く息を吐いた。 「年々、近付いているんです ――もう、すぐです。後少しで帰ってくるんで す。」  幾つか尋ねたいこともあったが、その表情に岸田達は口をつぐむしかなかっ た。  程なく和也氏に見送られながら、二人は木蓮の並ぶ屋敷から去った。   先に沈黙を破ったのは岸田だった。 「なあ、さっきの話、本当だと思うか?」 「さあ。……でも、彼女は実際に消えたわけだし、悪戯にしては意味も無けれ ば、大掛り過ぎるよ」  しばらく間を置いて、岸田が呟く。 「悪戯の方が、俺はいいな」 「……うん」  そうして雰囲気を変えようと、草司が前を向いたまま陽気に続ける。 「まあ、消えるヒッチハイカーなんて都市伝説の元祖だしね」 「都市伝説?」「アーバンフォークロア、現代の民間伝承。友達の友達が体験 した、信じられない本当の話、と信じられている噂話。有名なところではミミ ズバーガー、ブティックの試着室から誘拐された若い旅行中の女性、ピアスの 穴を開けたせいで失明した人や、それに下水道の白ワニなどなど」 「ミミズ……ねずみバーガーや白いワニの話なら、聞いたことはあるが」 「日本になると口裂け女、人面犬、膝の裏のフジツボ、それに最近じゃターボ 婆ちゃんとか……」 「ターボ婆ちゃん?」 「夜中に車で走っていると、奇妙なものがバックミラーに映るんだよ。……走 って追い掛けてくる、お婆さんの姿が。逃げようとアクセルを踏み込んでも、 振り切れるどころかお婆さんはどんどんと近付いてくる」 「……もういい、もういい」 「そして猛スピードで車の横を追い越していく瞬間、背中に貼られた一枚の紙 に気がつく。そこには『ターボ』と……」  しばらくの間、車内を天使の集団が通り過ぎる。笑いが取れなかったことを いぶかしんで草司が左を見ると、何故か片手で顔を覆い、岸田は疲れたように 脱力し切っていた。 「――じゃあ、その紙が二枚貼ってあれば、婆ちゃんはツインターボ婆ちゃん になるのか?」 「……そこまでは知んないよ」  全く、怪談なんだか笑い話なんだか。岸田のそのぼやきを耳にして、草司が 笑う。 「だから、噂話だよ。まあ確かに怪談じみたものは多いけど。消えるヒッチハ イカーも、そう。ヒッチハイカーを乗せたら、何時の間にかいなくなっていた。 それで彼女の言っていた家に行くと、出てきた人間は沈痛な表情で写真を見せ る。『娘は二週間前に亡くなりました』ってね。日本だと墓地や病院から、タ クシーに乗る方が多いか……な……」  再び天使の集団が駆け抜けてゆく。怪訝に思った岸田が顔を向けると、いつ もの癖がでたのか、草司の目が虚ろである。 「こらっ!」 「……思い出した」  何を、と問う前に急ブレーキがかかり、車が停まる。 「っ――危ないだろうが!」 「……ねぇ、岸田君。待っていれば、幸せになれると思う?」 「?」 「今日楽しいことができるのに、明日まで我慢する必要があると思う?」 「何だかよく判らんが、そんな必要はないと、力一杯言ってやろう」  大真面目にそう答えた岸田の目を見て、草司は楽しそうに笑う。 「有り難う」 「うむ」 「戻るよ」 「はい? ――ち、ちょっと待て」  いきなり車の切り返しを始めた草司に、岸田は慌てるが、説明は後と放置さ れてしまう。  そして、かなり陽の傾いた十月の道を、彼等二人は戻り始めた。途中で草司 の説明を裏付けるかのように道端に並ぶ、見覚えのある二本の樹を見て、岸田 が顔を青くする。 「草司。お前を友達と信じて打ち明けるが……じつは俺、怪談、駄目」 「――そんな気はしてたけどね……」   サングラスに大股開き、黒い皮ジャンに兵隊が被っていそうなヘルメット。 景気のいい排気音を響かせ対向車線を走ってくる、アメリカンに乗った強面ラ イダーへ、草司は臆すること無くパッシングを飛ばした。さらに車の窓から顔 を出し、クラクションを鳴らして呼び止める。 「どうかしたかい?」  意外と優しい声で、道の真ん中にバイクを停車させ、エンジンを切ったライ ダーが問う。 「すいません、この先でヒッチハイクしている女の人を見掛けませんでしたか? 」 「ああ……知り合い?」 「ええ。帰りが遅いって、旦那さんの方が心配しているんで、代わりに迎えに 来たんですよ。――あの二人のせっかくの結婚記念日ですし」  草司の言葉に、ライダーは笑う。 「彼女ならすぐそこ、道に大きく枝の張り出した樹の下にいたよ」 「そうですか。どうも有り難うございました」 「いいや」  そうして教えられた樹の下へゆく。だがそこには誰もおらず、ただ色を変え た楓の小さな葉が、疎らに道路へと散らばり、貼り付いているだけだった。  再び切り返して車の向きを変えた草司は、窓から上半身を乗り出して秋の山 の香りを吸い込み、暮れかかっている世界へクラクションを響かせた。 「可奈枝さん、乗っていきませんかー。旦那の和也さん、寂しそうにまだ待っ ていますよ。早く帰ってあげなきゃ、可哀相じゃないですか。可奈枝さん、お ーい松木可奈枝さーん!」  草司の声がゆっくりと山のしじまに飲み込まれ、消えてゆく。早くも暗さを 増してきた山間を渡る風が、開け下げられた車窓の隙間から忍び込み、冷えた 指先で中の空気を軽くかき混ぜる。  しばらく無言で待っていたが、別段何の反応もなく、岸田が胸中そっと安堵 の吐息を漏らしたとき、気配がした。  音が聞こえたわけでも、鳥肌が立つといった物理的な前兆があったわけでも ない。だが二人は視界の外、助手席側の車外に落ち葉を踏みしめ、リュックを 背負い直して立つ彼女の姿を、明確に感じた。 「……あの馬鹿、まだ待ってるの?」  崩れそうな表情を懸命に笑顔でまとめ、松木可奈枝は車中の二人に尋ねた。 少しでも遠ざかろうとして、シートベルトに絡め取られている岸田の背中を軽 く叩きながら、相も変わらぬ呑気な顔を向け「そうですよ」と草司は頷く。 「……そっか……待っていてくれるんだ……へへっ……」 片手で髪をかき混 ぜ、口元に笑みを浮かべたまま自分の爪先を見下ろす彼女の頬を、ぽたぽたと 落ちてゆくものがあった。 「それでですね、よければ乗っていきませんか? 家まで送りますよ」  草司の提案に、一拭いで涙を払った彼女は、顔を上げ、遠慮がちに首を傾げ る。 「……いいの?」  その視線の先で、強張った顔に脂汗を滲ませている岸田がいた。黙っている 友人の背を、それまでとは違って力を込めて、草司が張り飛ばす。やがてのろ のろとシートベルトを外し、地面に降り立つと、岸田はどうにかぎこちない笑 顔をつくり、助手席のドアを大きく手前へと引いた。 「どうぞ」  それから自分のキャラクターを思い出したか、お上品に右手で座席を指し示 す。 「お乗り下さいませ、奥様」 「ありがとう」  可奈枝は満面の笑みで答えた。  助手席の可奈枝にシートベルトを締めるよう指示する草司の耳元に、後部座 席に身を滑り込ませた岸田が、すばやく囁く。 「どうするんだ草司。時間がないぞ」  まさしく彼の言う通りであった。どのような理由によるものかは判らないが、 彼女が車に乗っていられるのはせいぜい数十分、しかしここから和也氏の待つ 家までは、ほぼ一時間近くかかる。 「まあ、多分、大丈夫」  信頼の欠片もできないような口調で、草司は請け負う。エンジンをかけ、ウ インカーを出し、横と後ろを確認。ギアをパーキングからドライブへと移し、 ハンドブレーキを解除して、右足をブレーキからアクセルへ。ゆっくりと車を 発進させながらハンドルを切る。 「すいません可奈枝さん。前のダッシュボードに、赤い字で『使用厳禁』とか 書かれたカセットテープが入っているはずなんで、それをカーステレオに入れ てもらえます?」 「……『使っちゃダメダメ。イヤイヤ、めっ』って書いてあるテープのこと?」 「……姉ーさぁーん……」  泣き出しそうな声で遠い場所の姉に抗議する草司を横目に、彼女はテープを 取り出し、カーステレオにセットした。器用に片手で、草司がボリュームを上 げる。  すぐに大音量で流れ出したのは、川のせせらぎを思わせるピアノの緩やかな 旋律と、それに切なく絡む吹奏楽器の二重奏であった。やがて二つは、もつれ あいながら消えてゆく。  前奏は終った。  続いて、車輪を捨てたエンジン。原始のアニマチズム、アニミズムの太鼓。 大地の底で眠り続ける巨大な獣の心音。先祖から伝わる遺伝記憶を呼び覚ます ような、横隔膜に響く、規則正しい重低音が車内に満ちる。  それに合わせて草司の右人差し指が、握っているハンドルの縁を叩き始める。  アップ・テンポのテクノ・ビートがその上に重なり出し、さらに力強く張ら れた弦の音が、誇り高く鳴り響く。 「ギター?」 「津軽三味線」  短い応答を終えた草司の頭が、左右に振られている。  ぐん、と岸田の体に加速による圧力がかかった。  エンジンの回転音が、騒々しい音楽の中で、はっきりと変わってゆく。  ボンネットからフロントガラスを駆け上がった黒い影が、風圧に耐え切れな くなって剥れ飛んだ若葉マークだと気付くまで、若干の時間差があった。  狂気か、本性か。楽しそうに小声で外人男性歌手に合わせて歌う、草司の前 のスピードメーターは、三桁を越えている。 「おいっ、草……」  続く岸田の声は、強烈な横Gに叩き潰される。充分な減速をしてカーブに入 るのではなく、おざなりなブレーキングの後、更なる加速で車体を立て直した のだ。 「んー、しっかり掴まってないと怪我するよー」 「馬鹿野郎! そんなことよりスピード落とせっ!」  打った側頭部に手を当てて、きたるべき次のカーブに踏ん張って備えながら、 岸田が怒鳴る。後ろから可奈枝の表情は伺えないが、最前から黙っているのは、 どうやら舌を噛まないために、らしい。 「心配しなくても、無茶はやらないって。一度走った道だから、おおよその限 界は分かっているし」  岸田はその言葉を全く信じなかった。 「どうして! それなら! 笑っている!」  それには答えず、草司は上り坂の頂上を見据えたまま、アクセルをしっかり 床まで踏み込んだ。無理な運転手の要求に、エンジンが雄叫びをあげる。 「唸れ、唸れ、うなれええっ!」  草司が哄笑した。  岸田が絶叫した。  可奈枝の悲鳴は声にならなかった。  Fly Me To The Moon.  坂を登り切ったところで、彼等は重力のくびきを引き千切り、一瞬、車は確 かに空を飛んだ。  人の命が金で買えるなら、幾らだろうと安いものではないか。それが自分の 命なら、なおさらだ。五、六十万。その程度ならアルバイトをすればいいし、 親に借りるという手もある。出来ることならやりたくはないが、祖父母に泣き 付くというのも、一つの方法には違いない。  とにかく、一日も早く免許を取り、中古でいいから自分の車を持とう。  後部座席である意味、臨死体験を経た岸田は、ぼんやりとそんなことを考え ていた。  すっかり日の暮れた道を、彼等三人の乗った車は、ゆっくりと速度を落とし て、進んでいく。その右手前方には、山の端に昇りだした巨大な月に照らされ、 夜の中に二本の樹が浮かび上がっている。さらに隣には窓という窓から明かり をこぼした家が立ち、玄関口で待つ、人影があった。  車が停まり切らないうちに、可奈枝はドアを開け、道路に飛び出した。一旦、 そのまま後ろを回って自宅に向かおうとして、慌てて岸田達の方へ戻る。 「あのっ……」 「いいから、いっていって」  笑いながら運転席から草司が、手の甲で払う仕草をする。後部座席に目をや ると、かなり憔悴しているものの、岸田も笑顔で手を振っている。 「……ありがとう。それじゃ、気をつけてねっ」  ひときわ大声でそう言うと、彼女は真っ直ぐ家へと駆け戻った。  それからの光景を、二人は車の窓枠に肘をついて、眺めていた。  おそくなって、ごめんね。ただいまっ。  お帰り。本当に、お帰り。  ――そんな声を、どこか遠くで聞いた。  勢いよく胸に飛び込んできた可奈枝を、しっかりと和也は受け止める。しば らくの間、影は一つとなって離れなかった。  やがて二人は、互いの腰に片手を廻したまま、静かに岸田達に向かい直し、 深々と頭を下げた。  岸田と草司も、黙って手を振る。  そして夫婦は何かしら笑いながら、光の溢れる家の中へと入っていった。  扉が、ゆっくりと閉まる。  岸田達は、それでも眺めていた。  微かな夜風に身を震わせ、月の光に白く濡れそぼつ、並び立った木蓮の樹を。 その奥に寂しく広がる、所々にすすきの伸びた、一面の空き地を。 「……秋になると一日だけ現れる幽霊屋敷、か。そんな怪談も、これで終わり」  いつもより一層穏やかな声で、草司が呟く。岸田は声には出さず、ああ、と 頷いた。  しばらくして、夜気に冷えた体を小さく震わせ、草司が二枚の若葉マークを どこからか取り出した。ちなみに問題のカセットテープは、すでに仕舞われて いる。 「何だ?」 「予備。悪いけど、貼ってきてもらえる?」 「……すまん。腰が、抜けてる」  本当に、怪談が苦手なんだねと、笑って草司は車の外へ貼りに出た。  違う、そうじゃない。腰が抜けたのは違うんだ。  夜空に輝くお星様に、岸田は子犬の瞳で訴えた。だが、一番分って欲しい相 手は、気付いてくれていない。  ただ月と星だけが、全てを見守る、静かな秋の夜であった。

――――了