『湯の花 雪の頃』


 
 何処か遠くで小さな音が鳴り響いた。
 だが、少年は動けない。少女も余りに偶然な出会いに、普段は万華鏡の如く変わり続ける豊かな表情が一切抜け落ちた、素の顔を晒している。ハンサムで男前と好意的に揶揄される彼女だが、こうして間近で眺めてみると、良く解る。中性的というのは男じみた女でも、女めいた男でもない、第三の端正な存在のことを言うのだ。
 また、小さく高い音が鳴る。遥か天井から離れ落ちた水滴が、長い一瞬の旅の果てに床へと辿り着き、弾ける音。
 見詰め合う二人、その彼女の方は実に軽快な服装をしていた。Tシャツに短パン。他には何も無い。成程、冬とはいえ屋内、しかも湿度も温度も十二分に高いこの場所では、一見薄着に過ぎる彼女の選択こそ、最も適したものであろう。足も、濡れても構わないように素足だ。小さな爪の貼り付く指が、作り物めいていて可愛らしい。
 同じ構造で同じ数。なのに自分の足とは雲泥の差――
 そのまま彼女の脚線を鑑賞せんと、視線が足指の先から滑らかに甲、脛、膝頭を辿って太腿を伝い、股の付け根へと向かい掛け、少年は慌てて目を逸らす。袖裾から伸びる白く細い手足は、どちらかと言えば無駄な肉置どころか女性の色香も無く、平坦な胸と相俟って、見ず知らずの人間が見れば、可愛らしい顔立ちの男の子でも十分に通用する。
 だが、彼は知っている。この向かい合う相手が、自分と同年代の、れっきとした女の子であることを。本来、このような場所には絶対居るはずの無い人間だと。
 と、そこで。今更ながら、まるで人事のように少年は己が姿を思い出した。
 彼女とは違って太い両腕。腹筋は運動部ほどでないが引き締まっており、その逞しい上半身を支えるため力強く張っている太腿、骨と筋肉だけで彫刻したような毛も濃くなりつつある脛。キワモノめいてもりもりした肉体など欲しくもないが、男らしさというものに古風で素朴な憧れはある。だから今時の若者らしくないがっしりした自分の体格は、少々いかつ過ぎるという些細な不満はあるものの、概ね満足していた。このような慣れない場所でも、下手に自分を隠しなどせず、胸を張って堂々と歩くことが出来る程度には。
 ――例えそれが右手に薄い白タオル一枚、素っ裸という格好であろうとも。
「……碓井、さん?」
「……寺屋、くん?」
 カポーン、と桶の音が何処からともなく響き渡った。



 宿谷高志は実に若者らしい、熟慮を要するが世間一般に見てさほど珍しくはない問題について苦悩していた。つまり――隣にいる友人の様子がおかしいが、声を掛けるべきか、はたまたそっとしておくべきか。
「なあ、錬児ー」
「……んあ?」
「碓井さんと何かあった?」
 ま、どうせ人事だしと、ど真ん中直球。飲んでいたパックの烏龍茶に噎せて咳き込む錬児の姿を見て、こういう素直な奴は貴重だから大切にしようと、友情の在処を再確認する。
「どっ、どっ、どっ」
「まあ落ち着け。とりあえず握るのは拳だけにして烏龍茶は横へ」
「お、おお」
 そんな彼とは対照的に、高志はゆったりとクラス内を見回す。大概はストーブ付近に群がっており、差し当たって自分達の周囲に人影はない。数人、何事かとこちらへ視線を向けていた連中も、高志と目が合うと、ふいとばかりに元の自分達の世界へ戻った。最低限の無関心不干渉は、御節介と共に社会を円滑に動かすための潤滑油だ。が、今回はそれだけはでないだろう。
 皆、彼の隣の級友が、ちょっとばかり恐いのだ。
 身長は百八十センチオーバー、周囲から頭一つ抜けている。では痩せ型かといえば、とんでもない。分厚い胸板、殴り付けた木刀の方が折れそうながっしりとした肩、制服の上からでもその体格の良さが十二分に伺える。
 そこに生来の険しい顔立ちが乗ると、滲む威圧感は並みではない。無口さはいつ暴発するか判らない凄みに、引込み思案な行動は貫禄に、そのまま誤解され受け止められる。
 同じクラスになって年の大半もとうに過ぎ、ようやく彼の内面が自分達と大差ない普通の高校一年生であることに皆も気付きつつあるが、やはりそれでも外見から受ける印象は容易には拭いにくい。
 高志にしても映画という共通の趣味がなければ、今、果たしてここまで普通の付き合いができたかどうか。
「――で、落ち着いたか?」
 高志の問い掛けに、寺屋錬児は小さく頷いた。そして射るが如き視線で、高志の目を真っ直ぐ睨み付ける。本人は全く自覚していまい。ただ顔を見て話すというだけでここまで誤解を招きかねない錬児も錬児だが、それを平然と受けられるようになった自分の適応能力の高さに、高志はそこはかとなくまったりした満足感を覚えた。
「……俺と碓井さんがどうかしたっていうのか?」
「本気で言っているにしても、誤魔化そうと呆けているにしても、頭悪過ぎ」
 む、と錬児の眉根が今度は明らかに寄る。
「ここんとこ、君の碓井さんに対する態度はあからさまに変でしょうが。それ以外にも、考え込んでいるのか落ち込んでいるのか、妙なプレッシャーを周囲にかけまくっているし」
「そんなことはない」
「自覚と演技力、自分に足りないのはどっちだと思う?」
「……そんなに酷いか?」
「酷いも何も、誰も何も聞いてこないのは、何時にも増して君が恐いからだよ」
 無茶苦茶言ってくれるな、と傷付いた風の錬児に、大体当社比七割り増しとその深刻さを告げる。錬児にしても、普段から言葉を交わす程度の級友は当然いるのだが、普段より凄みが増しているとなれば、自然と皆はそこに触れることを避ける。すると錬児は一人で悩みを抱え込むしかなくなり、煮詰まった挙句、更に近付きがたい雰囲気を醸し出すこととなり、かくして、簡略にして単純な悪循環が出来上がるという訳である。
「で?」
「で、とは?」
「だから、どうしたんだって」
「――どうもしない」
 横を向く錬児に、高志はふーんと相槌一つ。
「とうとう告白でもした?」
 机の表が激しく叩き鳴らされた。クラスの何処かで女子の小さな悲鳴が上がる。だが、頭に血が上った錬児はそれに気付きもしない。顔色を変え、立ち上がる。
「高志ィッ!!」
 竹を割ったような性格で男女共に人気のある級友、碓井白(アキラ)。そんな彼女へ錬児が抱いている想いのことを、高志はとうに知っている。無論、そのことを錬児自身も知っている。
 だが、急にそんな話題を振らなくてもいいではないか。教室なんて場所で突然、口にするようなことではない。
 その外見に似合わずうぶで繊細な錬児は、瞬間的に脊髄反射で狼狽した。しかも、あんなことがあって尾を引いていたため、自然、反応も激しくなる。口はわななくも言葉を紡がず、意味を持たない切羽詰まった衝動が、血となって頭に上り続ける。
 高志にすれば、それは一目で丸解り。真っ赤っ赤で狼狽、という素直すぎる友人の反応は、察するなどという控えめな言い方をする必要も無い。
 しかし残念ながら――級友達は解ってはくれなかった。
「やべーよ。寺屋の奴、本気だぞあれは」
「ちょっと男子、止めてきなさいよ。このままだと宿谷君、死んじゃうかも知れないじゃない!」
「そんなことより誰か。先生呼んでこいっ」
 小声で切実なやりとりが交わされる。この分では、錬児の赤になった顔も、怒りに染まっているようにしか見えていないかもしれない。
「ほれまあ、座れ。――クラス中の注目の的だぞ」
 制服の裾を引っ張られ、幾らか我に返った錬児は音を立てて椅子に腰を降ろす。誤魔化すように口にした烏龍茶は、一口で空になった。
「今更、騒ぐようなことでもないでしょうに」
「うるさい」
「まあまあ。――で?」
「……違う。そういうんじゃない」
「じゃあ、何? 何があったっていうのさ」
 自分達を心配そうにうかがう級友達へ、ひらひらと手を振って平和と友好、無事をアピール。一方の錬児は、そっぽを向いて空になった烏龍茶のストローを噛り続ける。
「……あのな、高志は碓井さんの家が、その――銭湯だって……知ってたか?」
「ああ。まあ、そりゃね。小中一緒だし。
 それがどうかした?」
「……いや、何でもない」
 黙って高志はその続きを待つが、それでその話題は終わりとばかりに、重い沈黙だけが応える。
 それから更に固まっている錬児を前に待ち――どうやら反応が返ってこないと悟って、仕方なく話題を変えた。
「そういえば例の映画だけどもう観た?」
「『竹林之翠夢』のことか?」
「……相変わらず渋い趣味してますね、錬児センセ。
 そっちじゃなくて、『ピルグリム・イェガー』の方」
「ああ、あれならまだ大丈夫だろ。来月中旬までやってるはずだぞ」
 それがね、と高志が重々しく首を振る。
「今月一杯で二番館に落としちゃうらしいんだ。どうせ観るなら、やっぱり大きなスクリーンの方が良いっしょ」
 だな、と盤石の重みで錬児が頷く。
 ちなみに『竹林之翠夢』はその二番館より更に小さなスクリーンで短期間上映されているのだが、まあどうでもいい話だ。
「でさ、また週末か冬休みにでも一緒に――」
 ああ、そうだな、という錬児の相槌に、「あ、でも駄目だっけ」という呟きが重なる。
「うん?」
「ほら、言ってたじゃないか」
「だから何を」
「僕とは遊びに行けないって」
「……何のことだ、覚えが無いぞ」
「いや、言ったって。――一週間ほど前に」
 記憶の棚を総ざらいするが、覚えが無い。思い当たるようなことが、一つも無い。
「今の俺はあれだからって」
「あれって……どれだ?」
 首を傾げる錬児に、高志はしょうがねぇ奴といった笑みを浮かべる。
「だからさ」
「おお」
「家の風呂が壊れたんで、しばらく銭湯に通わなくちゃいけないから、帰りは別になるぞって言ってたやつ。もう直った?」
 逞しい上半身が机に突っ伏す。そのまま男泣きでも始めそうな友人の後頭部へ、人畜無害そうな顔で高志は呟く。
「僕は時々、君がこの先、社会という残酷な狩猟世界で無慈悲な連中に傷付けられはしないか、とてもとても心配でたまらなくなるよ」
「……頼むから黙ってくれ。ほんと、御願いだから……」



 別に改めてみれば何かがあったというほどのことでもない。銭湯の男湯で、家の手伝いをしていた白とたまたま出くわしたというだけだ。互いにびっくりはしたが、それだけ。白は「いらっしゃい。ゆっくりしていって」と直ぐに洗い場を出て行き、錬児は言われた通り存分に長湯をし、少々のぼせたまま冬の夜気の中を帰っていった。それだけの話だ。
 それだけの話なのだが――
「見事にどつぼにはまっているね」
「……」
「いい加減、普通に接することぐらい、出来ても良さそうなのに」
「……」
「そう、気にするなって。――と、君には言うだけ無駄か」
「……ううう」
 野獣の唸り声にも似た呻きが、錬児の口から漏れた。
 あれから更に数日。錬児の白に対する振る舞いは、いっこうに元に戻っていなかった。
 高志の言う通り級友達も察しているというのなら、不自然な行動は即刻止めるべきだ。錬児はなるべく視界に収めないようにしてきた彼女の姿を目にしても気に掛けぬよう努め、避けるような行動もその一切を取り止めた。
 結果――
 たまたま目が合った途端、表情を殺し歯軋りが聞こえそうなほど奥歯を噛み締め、ゆっくりと顔を反らす男の姿や――
 あるいは教室の出入り口で擦れ違う際、一瞬の静止のうちにその身に纏う雰囲気を拒絶へと変え、隙を見せずに立ち去る姿が見られるようになった。
 あからさまに悪化したのである。
「うをおおおっ……」
「止めれ。窓枠が痛む」
 廊下から窓外へと今にも吠え出しそうな友人を、反対側を向いたまま軽くいなす。手の中で微かな悲鳴を上げていた桟を解放すると、錬児はがっくり頭を落とした。
 窓から望める空は乾かし過ぎてかすれたような青。天気は良いが、やはり冬の風は肌に染みる。時折、通り過ぎる生徒が過剰な換気に、非難がましい一瞥をくれてゆく。『そろそろ頭も冷えただろうから、窓は閉めたら?』。錬児に次いで風通しの良い場所に立っていながら、その一言を飲み込み黙したまま、高志は隣の男を思いやる。
 初めて寺屋錬児を見掛けたのは、確か入学式直後のホームルーム。そのガタイもさる事ながら、明らかに普通とは違う凄みを感じたことを、何となく覚えている。それからはクラスメイトとして、用が無ければ別段言葉を交わすようなことも無く、六月頃までを過した。
 初めて錬児と言う一人の人間に出会ったのは、六月一日。毎月映画の日ということで市内全映画館が一律千円になるこの日、某館の暗がりの中で高志は久々の大当たりに陶然と酔っていた。
 自然の多い片田舎で、ごく普通の男女がありきたりな恋をする。そんなありふれた恋愛映画。
 爆発も銃撃戦も無く、俳優や監督も余り聞かない名前ばかり。予告編からポスター、売り文句に至るまでぱっとしないものだったが、だからこそ作品そのものの良さが、はっきりしていた。
 落葉を踏みしめる爪先の動き。猥雑な部屋に差し込む朝日の静かさ。ティーカップから立ち昇る湯気を見詰める男優の横顔。そういった何気ない一つ一つに、言葉では尽くせない意味が籠められ、アングル、音楽、場面の繋ぎ方。それらがDVDやビデオ落ちを意識したものではなく、横長の大画面、全方位からの音響効果、邪魔の入らない百数十分といった映画独自の特性を目一杯に活かし、追求した作りとなっていた。
 スタッフロールが全て流れ終わるまで席は立たない主義の高志だが、その日は純粋に一分一秒でも長く余韻に身を任すことを望み、場内が明るくなり切るまでシートに背を預け続けた。
 前の方に座っていたカップルの片割れが、ハンカチを顔に当て、しゃくりあげている。そんなでき過ぎた光景に苦笑を浮かべながら、自分も瞼の上から目を揉む振りをして、鼻の付け根に滲み掛けていたものを拭い去った。
 悲しいとか嬉しいとか、そんな風にはっきり表現できない何かでも人は泣くことがある。
 普段よりもやや穏やかな面持ちで立ち上がった高志は、出口へ向かおうと振り返り、そしてそこに何を目にしたのか、理解に数瞬を要した。
 彼が座っていた席より数列後方、後部扉に近い通路寄りの座席に、大柄な少年の姿があった。見覚えのある顔だ。背を真っ直ぐに伸ばし、口をきつく結んで、睨み付けるかのように真っ直ぐ正面を向いている。
 印象としては、映画館に突如出現した古刹の仏像か。内に籠もる静かなものを漂わせつつも、それが人気の失せた薄暗がりに不思議と馴染んでいる。
 その見開かれた両目から顎筋まで、拭われもせず落ち続けている似合わぬものを見ても、高志の表情はあまり変わらなかった。喧嘩で血塗れになっても唇の端を吊り上げるだけで済ませそうな同級生の男が、恋愛映画で声も漏らさず滂沱しているという事態に、内心では結構、驚いていたはずなのだが。
 多分、後付けの理由だろうが、からかいめいた想いが浮かばなかったのは、そんな彼の気持ちが解るような気がしたからだ。見た目がどうであれ、その真摯さは本物で、決して笑っていいようなものではないと素直に判じた。
 その後、どちらが声を掛けたのかは忘れた。古い映画館の廊下で、不味い紙コップのジュース片手に、たった今、得たばかりの感想を世間話程度に交わしていた。そのうちすぐに理解者の少ない趣味人が同好の士に巡り合った時の常で、時間を忘れ遠慮を無くし、気が付けば喋り足りない続きを、翌朝の学校へと持ち込むことになっていた。。
 あれから結構な数の映画を二人で観たが、錬児は高志が一緒でも泣く時はぼろぼろと泣きくれる。特に涙もろいという云うわけではないらしい。本人も恥ずかしいとは思っているようだ。けど、
「――しょうがない。そんな風に感じたんだからな。……自分の素直な感情を否定しても始まらん」
 と顔を赤く顰め、無理に堪えるつもりもないのだと言い切った。
 結局、寺屋錬児という男は、そういう奴なのだ。真っ直ぐで、純粋で、繊細で、とてもうぶな可愛い子供のような男。だからこそ、何処の誰かは知らないが、この完全に間違った外見設定は流石に酷いんじゃないかと思うことが多々ある。
「……あの……」
 思い詰めたような呟きに回想から戻ると、三人の少女が目の前に立っていた。赤城京子、玉井忍、笹木春見。クラスメイトなので名前ぐらいは覚えている。確か、碓井白と比較的仲の良かった連中だ。
 意を決し勇を鼓したその表情に何となく察するものがあり、高志は未だ背を向けている錬児の制服を引っ張った。
「……ああん、何だ?」
 暗い表情のまま振り返り、そこで初めて自分に用のあるらしい三人に気が付いた。首を傾げ、言葉を待つ。
「……あ、その……寺屋君」
 不機嫌な顔で高みから自分達を睨めつける錬児に、勇気を振り絞って叫ぶ。
「お願い! 何があったかは知らないけど、白と仲直りしてあげてっ」
 一瞬で硬直した友人を眺めやりながら、あーやっぱりそういう用件ね、と高志が声に出さず独りごちる。
 反面、一同を代表する形で言った赤城は、自分が猛獣の尻尾を踏み潰したことに気付き、ヒッと喉奥で小さな悲鳴をあげた。――関係ない奴が、余計な口出しするんじゃねえよ。寺屋錬児の視線が、明確にそう凄んでいる。
 自分の背に隠れようとする二人の友人を赤城は責める気にならなかった。それが当り前の反応だ。自分にしても、向かい合っているだけなのに胸座を捻じり上げられているような息苦しさを覚えている。
 それでも、自分の大切な友人のため、彼女は逃げ出さずあえて踏み込んだ。
「あの子、はっきりした物言いするから、生意気だとか誤解されることもあるけど、でも、でも本当にさっぱりした凄くいい子なんだよ。ちゃんと話してみれば絶対に解るって」
 ――それは知ってる。固まったまま、声も出せず、錬児は小さく頷いた。
 ――だからどうした。無言で更に睨み付けられた三人は固く身を寄せ合う。
「だから……あの……きっと誤解だよ。白は自分が悪いんだって言ってたけど、絶対わざとなんかじゃないよ」
「……彼女が、喋ったのか?」
 自分がフルチン姿を披露したという恥ずかしい秘密は、既に皆さんの知るところなのでしょうか、と絶望的な思いで尋ねる。その低く重い声に何を感じたのか、三人は一歩、後ずさった。
「う……ううん。白は大したことじゃない。ただ、自分が悪いんだって言ってた、その他には何も――幾ら聞いても教えてくれなかったけど……」
 安堵のため、硬直した錬児の体から若干、力が抜ける。その雰囲気の変化に、彼女達はカチリ、と時限爆弾の分針が動く音を聞いた。
 ――本当に恐いのは興奮のままに怒鳴り散らす人間ではない。怒り狂って然るべき状況で、柔らかに微笑んでみせる人間だ。彼等は何をするか解らない。何をしてもおかしくない。
 死刑執行まで、最早一刻の猶予も無し。だから、せめて伝えることを伝えておこうと、三人は捨て身の嘆願に出る。
「でも……でも白、優しいから!」
「あの子、きっと自分で抱え込んじゃってる。私達を心配させないために、強がって、平気な振りして笑ってるんだよ!」
「寺屋君だって言いたいことはあるかも知れないけど、もういいでしょ。白を許してあげてよぉ」
 涙目の直訴に、寺屋は気が遠くなるような思いを感じた。
 ――嗚呼、自分は彼女に、いや彼女達にこれ程までに心配と迷惑を掛けていたのか。……いや、ごめん。本当に申し訳ない……
 歯軋りと共に拳を握り締め、自己嫌悪で憤怒の表情を浮かべる錬児。既に逃げ出す気力も無く、半泣きで身を震わせる少女達。
 ここまでか、と高志が溜息を吐く。最初は見守るつもりだったが、一人と三人は話を掛け違ったまま、あっという間に行き着くところまで行き着いてしまった。
 が、彼が割り込む前に錬児がゆらりと身を動かした。
「きゃっ!」
「イヤッ」
 聞きようによってはかなり失礼な悲鳴と共に、三人は首を竦める。だが、気にした様子も無く錬児は背中を見せる。
「錬児?」
「寺屋……くん?」
「――話は確かに聞いた」
 廊下を去って行くその姿が完全に視界から消えて、ようやく赤城は口を開く。
「……大丈夫かな」
 縋るような目線で問い掛けられた高志は、『何が?』『誰が?』『どっちが?』という問い返しをあえてせず、それら微妙な問題を一括で処理できる、汎用性に優れた答えを口にした。満面の微笑みに根拠の無い自信をまぶして、無責任にはっきり一言。
「ああ、大丈夫だって」
 その言葉に、ようやく笑みを取り戻す三人。ついでに『後で僕からも言っておくからさ』と、満更嘘でもないフォローを入れようとした高志達の耳に、先に届いた声があった。
 まるで屋上辺りに立った少年が青春の苦悩をたぎるがまま絶叫へと変えたような、そんな雄叫びが開いたままの窓、その彼方、上の方から。
「――うん。大丈夫」
 何も聞いてませんといった風情で窓を閉め、胸を張って高志が言い切る。再び不安に囚われた彼女達に、笑顔を取り戻すこと。そんな困難な試練へ挑みながら、高志はさぞ苦悩しているであろう純粋で繊細でうぶな友人を、あっさり後回しと決めた。
 ――頑張れ男の子。
 見守って見守って、最後に骨ぐらいは拾ってやろうと、そう篤い友情で考えながら。



 風呂上がりの身に風が染みる。心にも、体にも、それは容赦なく冷たかった。
 家の風呂釜はまだ直らない。これを機に、少々がたの来ていた水廻を改築することになったため、時間がかかっているのだ。あるいは風呂好きの両親が、あえてこの状況を楽しもうと手配を遅らせているのかも知れない。
 ありえない、と言い切れないところがちと悲しい。暇さえあれば温泉を巡り、普段も長風呂、二度風呂を当り前とする二人の顔を思い出し、憂鬱に長く息を吐く。彼等は仕事帰りに車で色々と銭湯を廻っているらしいが、電車通学の錬児はそうもいかない。家の近所に風呂屋はなく、従って学校帰りに付近の銭湯で汗を流してから駅に向かうことにしているのだが、一番近かった所が白の実家だと知ってからは、わざわざ離れたこんな遠くまで足を運ぶことが続いている。
 久々に高志と放課後も喋り込んでいたため、既に空は墨一色。湯冷めどころか風邪すら引きかねない帰り道を思い、銭湯の玄関先で身を一震わせした錬児の耳に、自転車の急制動がかけられる鋭い音がした。
「――あれ、寺屋くん?」
 誰だ、と顔を上げ、目が合ったところで上げたことを後悔した。錬児と違い学校帰りというわけではないのだろう。暖かそうな私服に身を包み、自転車に跨った碓井白がそこにいた。
 言葉に詰まり顔を強張らせていると、白の視線が錬児と背後の風呂屋を二三度往復した。別にどこの銭湯に入ろうと自分の勝手なのだが、何やらばつの悪いものを感じ、誤魔化すように殊更何でもない風を装う。
 威嚇めいて迫力が増した、としか取れない錬児の変化に、だが微塵も臆すこと無く、白は笑った。買い物先で丁度探していたものを見付けた、といった感じで声を掛ける。
「珍しいところで会うよね。この前は家に来てくれてたし、錬児くんのところは銭湯派?」
「……いや。別にそういう訳じゃない」
「ふーん。じゃあ、銭湯巡りが趣味とか」
「それはどちらかと言えば親爺と御袋だ。俺は違う」
 会話のキャッチボールというよりも、投球練習かバッティング訓練にも似た遣り取りがなされる。
「部活帰り――でも、寺屋くんがそういうことしているって話は聞いたことがないし……あ」
 解ったぞ、と屈託の無い笑みを浮かべる。
「ひょっとして、家の御風呂が壊れた」
「うん、まあ」
「よっし」
 当たりぃと白が両拳を握る。つられて笑い顔となった錬児を振り返り、その瞳で覗き込むように言う。
「じゃ、そういうことで」
「ああ」
 このまま別れるのは勿体無い気もするが、さりとて話を繋ぎ何処かへ誘うだけの器量も度胸も自分には無い。ここしばらくのぎぐしゃくした関係が、和らいだだけでも良かったと、錬児は満足する。
「正解者に豪華賞品をぷりーず」
「……はい?」
 満足したのは錬児だけだったようだ。どう返していいか解らず、結果、錬児はかなり愚かな選択に出た。鞄の中身、風呂道具、着替え、そして制服のポケットにあるものの中で、一番ましなものは何かを考える。
 顰めっ面で唸り出した錬児の前で、白が自転車から降りる。
「寺屋くん、今時間あるんでしょう?」
「……ん? ああ、別に用事はない」
「だったらさ、賞品代わりにちょっと話に付き合ってくれないかな。飲み物ぐらい奢るからさ」
 返事も聞かず、錬児の荷物を取り上げ自転車の前籠に放り込む。
 彼女が誘ったのは、街の隙間を埋めるように作られた、小さな近くの公園であった。周囲の建物が壁となって風を防ぎ、なおかつその窓々や店の軒先から漏れる柔らかな光が、不穏な暗がりを消し潰している。そう雰囲気は悪くない。地元民が知る、穴場といったところか。
「ジュースは何が良い? 風呂上がりだから牛乳にでもする? 麦酒や燗酒でも良いよ。自販機、そこにあるから」
 無難なところで御茶を頼むと、遠慮しなくてもいいのにと言われた。落下音を二度、響かせ、戻ってきた彼女の手には、左に中国茶、右に見慣れぬ小缶が握られていた。
「本当に御茶で良いの?」
「――それ」
「日本酒。冷やだけどね」
「……酒はやらない」
 御茶の分の小銭を差し出すと、それに白は眉を顰めた。錬児の手の甲に黙って熱い缶底を押し付ける。
「熱ッ!」
「御免ねー。でも悪いのは寺屋くんだから
 ……奢るって言ったでしょ」
 放られた缶を腕で受け止め、見ると拗ねたように日本酒を呷る白の姿があった。不機嫌な顔の、目だけが笑っている。
 錬児も出来るだけ気分を害した顔を作り、黙って暖かい缶を口元で傾けた。穏やかな沈黙が、しばし続く。
「――冬は熱燗っていうけど、私は冷やも好きだな」
「碓井さんは、けっこういける口なのか?」
「へへっ、まーね。たまに、やる程度だけど。
 まあ、世間様には秘密ってことで一つ――」
 そこで、首を横に倒す。
「こういうのは眉をひそめる方?」
 だったら御免ね、と白は言う。
「いや、別に」
 自分はやらないが、他人が迷惑を掛けない程度に楽しむなら、どうのこうのと言う気はない。友人の宿谷高志などは、たまに父親の晩酌に付き合い過ぎたとかで、二日酔いのまま学校へ来ている。
 それに。片思いの色眼鏡かもしれないが、白が日本酒を口にする姿は随分さっぱりとしており、やけに小粋に映って見えた。
「――でね」
 見とれていたことを気取られぬよう、缶茶を呷りながら視線で促す。
「今日は、まあこの前のことを謝ろうかと思って」
 察しはついてないわけでもなかったが、吹き出すことも咳き込むこともなかった自分を、錬児は偉いと誉めた。
「――別に謝ってもらうような覚えはない」
 そんな物言いにも関わらず、白は錬児の意を察した。薄く微笑んで、独り言のように、語り出す。
「物心つく前から銭湯に浸かっていたせいかな。人の裸を見ても、あまり何とも思わないんだ。痩せている人、太っている人、小さな子から、皺くちゃのお婆さん。一人一人色々と違うけど、でもそれは人の顔付きや髪型、服装なんかと一緒で、ただ、それだけのこと。
 そんなだから、スタイルがどうの、胸のサイズがどうの、太った痩せたっていう皆の話題に、今一つ付いていけなくってねー」
 笑いながら、日本酒を一口。離れた唇の間から、白い息が立ち昇る。
「子供の頃はお父さんやお爺ちゃん、あと兄貴なんかと男湯に入ることも良くあったし、家の手伝いとかで脱衣所に出入することも多いから、男の人の裸ってのも、実は結構見慣れてるんだよね」
 そこで、横目で困ったようにうかがう。
「でも、裸を見たとか見られたとか、私達ぐらいの年齢だと、同性相手でも気にする人が多いじゃない。だから――」
 御免、と頭を深々下げる。
 やけに小さな頭だと思った。防寒具をきっちり着込んでいるのに、それでも冗談のように小柄な体付きをしていた。普段、そんなことを考えないのは、彼女が顔を上げ、真っ直ぐに笑い、驚き、喋り、動き回っているからだ。
「謝ってもらうようなことなんかない」
 物凄く不快だった。こんな風に頭を下げる彼女がではない。こんな風に頭を彼女に下げさせた、無駄にでかいだけの中身の足りない大馬鹿野郎が。
「俺は何も気にしてなんか、ない。だから碓井さんが頭を下げるような必要はない」
 音を立てて奥歯を噛み、手中の缶を睨み付ける。
「……不愉快だ」
 誤解を招きかねない小さな呟きは冬の寒さに紛れた。
 沈黙は、多分、偶然の結果だ。
 夜風のたてる音が耳に付く。
「――うん。有り難う」
 静寂と呼べる程の間など、実際にはなかったのだろう。白が美味しそうに日本酒を口にし、錬児は何気なく頭上を仰いだ。
 夜空の星は街の明かりに紛れて見えず、ただ自分の口から漏れる吐息が白く立ち昇る。全く、何をあれほど気負っていたのか。喉奥で確かめる茶の熱さが、馬鹿らしいほど心地良かった。
「でも――」
 その言葉に顔を上げると、白が笑みを浮かべていた。どことなく高志を思わせる不吉な笑顔。
「気にしてない、ねぇ」
「……悪かった」
 ここしばらくの自分の評判を思い出し、憮然とする錬児の肩を白が叩く。
「まあ、おあいこってことにしとこうよ」
 その接触に些か身を強張らせながら、錬児は言っておくべきことを口にする。
「そう言えば赤城さん達と仲が良いんだよな」
「京子ちゃん? うん、そうかな」
「――謝っておいてもらえないか? 迷惑を掛けて俺が済まなかった、と」
「良いけど……何かあったの? それにそういうのは自分で――」
 そこで、あ、と気付いた顔になる。
「今日の休み時間の?」
「知っているなら、丁度良い。
 ……俺が直に謝ると、どうにもまた怯えられそうだからな」
 あの後、高志に注意とも忠告とも慰めともつかぬ、女扱いのレクチャーを受けたが、結果は徹底的に自分は向いていないという、諦めめいたものだった。
「……寺屋くん、誤解されてるみたいだからねぇ」
 大変だよね、とうんうん頷かれる。全くだ、とそこで深く溜息を吐いて、錬児はふと眉根を寄せる。
「碓井さんは、その――」適切な言葉が見付からず、とりあえず有り合わせのもので間に合わす。「――俺が、恐くはないのか?」
「恐い?」
 何で、という表情を浮かべた後、ああ、それはね、と苦笑。
「兄貴が――と言っても、あっちは四月生まれ、私が三月だから、学年的には一緒なんだけど、そいつが乱暴者で」
 困った奴でねー、と一息。
「別に悪さはしないんだけど、喧嘩っぱやくてね。今でも良くやってる。
 あいつの友人にもそういう連中が多いし、だからかな。慣れもあるんだろうけど、何となくそういう人かどうかってのが判るんだ」
 白は、すっと錬児の大きな手を取った。
「ほら、拳胼胝もない綺麗な手。表情とか身長とかで皆ちょっと引いているみたいだけど、寺屋くんってむしろ逆なんじゃないかな。喧嘩とかは苦手な人でしょ?」
 酒のせいか、何時もより少し潤んだような白の顔が、間近にある。彼女の手袋をした小さい指は、まだ錬児の手を掴んだままだ。
 色々なものの限界が、錬児の中で振り切れた。
「――あ」
 形に纏まらないものが溢れ出し、
「クシュン!」
 一気に飛び散った。
 咄嗟に顔を背けた錬児の前で、きょとんとした白が、やがて声立てて笑う。「あはは、御免、すっかり湯冷めしちゃったみたいだねー」
「……だな」
 乾き切っていなかった髪の冷たさを自覚し一震えするする錬児に、ちょっとだけ考えるような仕草をして、胸の前で両手を叩き合わせる。
「うん、良し。――それじゃ私が一風呂、奢ろう」
「え?」
「このままじゃ風邪をひくからさ。私の家でもう一度、暖まっていきなよ」
 返事も待たず、錬児の鞄を再び自転車の前籠に押し込む。
「いや――でも」
「都合が悪いなら無理強いはしないけど、また遠慮なんてしてるんなら、今度は熱湯ぶっ掛けるからね」
 それでもやるか、と歯を見せ笑う白に逆らう理由も無く。どことなく照れくさそうに錬児は歩を並べた。



 顎先までを湯に沈め、その大きな体を思い切り伸ばす。家の狭い浴槽では得られない解放感に、錬児は若者らしからぬ声を上げる。
「ふぃー」
 冷え切った体には熱いぐらいだったが、すぐにじんわり湯に馴染む。頭頂に折った白タオルを乗せ、半口を開けた間抜けな顔で、このところ溜まっていた精神的な疲れを落とす。やがて新しく湯船に入ってくる人のため足を寄せ、薄く瞼を閉じた。
 あれからこの『藤の湯』まで、白と取り留めのない話を続けた。クラブ活動の話、高志や白の小中学校時代、クラスで囁かれている錬児の噂、最近流行の映画について。高志と違って口に自信はなかったが、白の快活さに大分助けられた形となった。話せば話すほど、好きな女の子だということを忘れ、気の合う男友達といるように錯覚する。
 ――歳の近い喧嘩好きな兄というのが、彼女の人格形成に大きな影響を与えているのだろう。近くの男子高で空手をやっているという話だから、それ相応に漢濃度も高いに違いない。
 ぼんやりと、そんなことを考える。
 白とは結局、番台で別れた。営業中に家族が湯に入るのは控えているとかで、そのまま母屋へと去っていった。確かに普段、すぐさま学校から来た時には閑散としていた湯屋は、待ち合いにしろ脱衣所にしろ洗い場にしろ、今は家族連れで結構な混み具合となっている。
 そう言えば。彼女曰く、家の手伝いはするものの、男湯への出入は大分前から禁じられていたらしい。気にするお客さんもいるんだから、と言われてはいたが、子供の頃からの慣れであまり気にはしていなかったのだとか。
『でも、もうきっちり止めることにするね』
 それが自分のせいだと解っている錬児は、どう答えるべきかと微妙な表情を形作った。
『だからさ。気兼ねなく、これからも「藤の湯」をどうぞよろしく』
 おどけた白の宣伝に、解ったとただ黙って頷いた。
 そんなやりとりはあったが、今にもまた彼女がTシャツ短パンという格好で入ってきそうで、何となく錬児は湯を出る機会を逸し続けた。
 少々、うつらうつらとしていたのか、目の前に揺らぐ靄の向こう側に、六割ほどが埋まった洗い場と、そこで体を流し、髭を剃る幾人もの姿が滲んで見える。ふと横を向けば、男湯と女湯を仕切る大きなタイル絵の壁。
 営業時間が終われば、彼女は毎日この向こうで、体を隅々まで洗っているのだ。
 そんなことをぼんやりと思う。自分が如何にのぼせているのか良く解った。
 ――もう、出よう。
 両手で掬い上げた湯を汗の浮いている顔に、軽く浴びせる。そうして勢い良く立ち上がった途端、くらりと平行感覚が揺れた。
 思っていた以上に長湯をし過ぎたようだ。倒れかけた錬児の体を、咄嗟に横から伸びた細い手が支える。
「あ……」
 長いようでいて、実際には一秒とかからない朦朧とした時間が過ぎた。
「すいません……ありがと――」
 礼を述べつつ手の主に振り返った錬児は、そこで再び血の気が引くのを感じた。話していた先程までとは違い、笑うことなく真剣に覗き込む、中性的な顔立ち。その細い腕、薄い胸、肌の白さはこの前と同じだが、今はその服装がまるで違う。――何もその身に付けていないのだ。
 視線が、碓井白の黒々とした股間と、そこから零れる不釣り合いなまでに見事な一物を捕らえた時。錬児の視界は今度こそ暗く落ちた。



 どこかで怒鳴り合う声が聞こえる。
「だから俺は何もしてねぇって! こいつが勝手に立ち眩み起こしただけだろ」
「嘘、どうせまた体格が良いとか何とか、寺屋くんに変な因縁つけたんでしょ。この低身長女顔コンプレックスの前科者!」
 夢のようだが、それにしてはやけに騒々しい。
「誰が前科者だ、コラ」
「紅一」
「俺が、何時、何をした」
「この前も、この前の前も、喧嘩した。それに人の服、また勝手に持ち出してるし」
 片方の声には聞き覚えがある。だが、錬児は再びそのまま眠りの中に沈む。
「しょうがねえだろ。俺のはまだ乾いてなかったんだ。減るもんじゃなし、けち臭いこと言うな」
「減る。ってーか、伸びるから嫌なの。
 大体、何で今頃、紅一が入ってるのよ」
「寒い中を自転車で帰ってきたんだ。部活の汗も流したいし、まずは熱い湯を一浴びってのが、当然だろうが。俺はお前と違って綺麗好きなんだよ」
 ――止めなくてもいいんでしょうか。
 ――なあに、良くある兄妹喧嘩じゃ。あんた、見るのは初めてか。
 若者と爺の声は、最早錬児には届いていない。
「――お前と違ってって、どういうこと」
「そのまんまだ、この男女。こいつも可哀相に、お前なんかと同じクラスにいるから、気苦労がたたって風呂で倒れるようなことになるんだ」
「なんだってぇー」
 暖房は良く効いており、風邪を引くということはあるまい。バスタオルを巻き付けただけの格好で寝かされている錬児が、サラウンドの罵詈雑言に気付き、脱衣所の隅で睨み合う双子にしか見えない兄妹と対面するまで、まだ暫し。
 それまでの、ほんの束の間の今は安らぎであった。




                          

――――了