伊吹山について 
滋賀県立虎姫高等学校長  中沢 成晃

山東町三島池からの伊吹山                           びわ町川道からの伊吹山
 伊服岐能山(『古事記』)・胆吹山(『日本書紀』・夷服岳(『風土記逸文』)・伊富貴山(『近江輿地志略』)などとも書く。坂田郡伊吹町と岐阜県揖斐郡春日村の境に位置、標高1,377メートルやまとたけるのみこと滋賀県の最高峰。記紀に、倭建命(日本武尊)が当山の山神を鎮定しようとしたところその正身(化身)である白猪(大蛇)・が現われ、大氷雨を降らせて命を打ち惑わせ、のちこれがもとで命が崩ぜられたという伝説を記している。 当時この山は山神の支配するところであり、それは荒神(紀)であった。『延喜式』「神名帳」には、坂田郡に伊夫伎神社、美濃国不破郡に伊富岐神社があり、平安初期には伊吹山神が近江美濃両国に祀られていたことが知られる。
 『近江輿地志略』に「〔寺ケ岳〕伊吹山南に登る事二十町余にあり、相伝役小角入峯して咒願し、行基菩薩登山して行座す」とのべており、真偽はわからないが奈良時代すでに修験の霊場として知られていたものと思われる。
 『三代実録』元慶2年(878)2月13日の条に、伊吹山護国寺が定額寺に列するとあり、同寺は仁寿年中(851〜54)沙門三修が来山、数ある堂舎を建立したとしている。また平安時代伊吹山が日本七高山の一であったことも記している。同寺は鎌倉時代観音・弥高・太平・長尾の四カ寺として分立発展する。

 鎌倉時代以降、近江守護佐々木一族の京極氏が当地一帯に勢力を拡張し、伊吹山の太平寺村に根拠地をおき、太平屋形・江北屋形と呼ばれた。とくに道誉は、元弘3年(1333)太平寺の衆徒とともに、同寺に幽棲していた亀山天皇の皇子、五辻宮(守良親王)を奉じ、足利尊氏に敗れて東下する六波羅探題北条仲時らを番場(米原町)で討ち自尽させた。仲時に同行していた光厳天皇・後伏見上皇らは太平寺にしばらく滞在して帰京した(『坂田郡志』)。

 伊吹山の薬草は早くから知られ、『後拾遺集』の藤原実方「かくとだにえやはいぷきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思いを」、『新古今集』の和泉式部「けふも又かくや伊吹のさしも草されば我がみもえや渡ちむ」などと詠まれるさしも草は伊吹山の良質のヨモギを材料とする伊吹艾で、織田信長がポルトガル人宣教師を招いて薬草園を開き外国産薬草も栽培させたと伝える。江戸時代中山道柏原宿(山東町)で伊吹艾が売られ全国的に有名になった。元禄2年(1689)諸国遍歴中の円空が太平寺に来り、十一面観音立像を刻んでおり、近くでは山東町志賀谷の光明院にも円空仏の不動明王立像がある。北海道虻田郡洞爺湖の観音島の有名な円空仏聖観音像背銘に寛文6年(1666)、江州伊吹山平等岩僧内とみえ、円空は伊吹修験道の徒であったと考えられている。大正7年(1918)山頂に彦根地方気象台伊吹山測候所が設置され、昭和2年(1927)山頂で測定された1183センチメートルの積雪は日本記録である。同27年(1952)南西麓の上野・春照(伊吹町)に伊吹山の石灰石を原料とするセメント製造の大阪セメント伊吹工場が進出、同40年(1965)岐阜県関ケ原町から山頂へ通じるドライブウエイが開通。三合目と奥伊吹にスキー場が開設され、奥伊吹(甲津原)には青少年旅行村もでき、観光開発が進んでいる。

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