![]() 揮毫は武者小路実篤 |
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伊吹山の麓で鬼と佛が茶を所望 | ||
20年前、伊吹山に「心の道場」をと思い立ち、山頂に多くの皆様のお力添えで『覚心堂』を建立して早くも10年の歳月を重ねました。 ちようどその頃、姉川上流、丹生ダム建設に伴って水没することになっていた尾羽梨の長福寺、鷲見の西念寺と出会いました。この山間の地で今から200年も昔、本堂建立を願い、建設に命を懸けた人々……。電気も、機械もない当時、いかに大事業であったことか。訪れたお寺の一本一本の用材から、『生きているよ、生きてい納よ』と呼びかけられたように感じ、建設にかかわった、何百人何千の人々の叫びが聞こえたような気がしたのです。 このお寺にしみ込む生命を生かす手だてはと考え、伊吹町上野字地蔵の地とし、区長様をはじめ、諸縁の人々の理解、協力をいただき、再建できました。お寺の再生(リサイクル)でしょうか。一度は死に瀕した長福寺・西念寺、そしてかかわった多くの人々の御魂が、生命がともに伊吹の山麓に蘇ったのです。 参拝の方、登山される方、そして地域の方に、この再生した寺の意味するものを知っていただきたく思います。 私の仏教への入信の動機は人間の死、無常観でした。限りある生命をどう生きるか、どう生かさせていただくかが、その原点でした。伊吹の自然とふれ合うとき「真の生命」のありよう、人間の持つ慈愛にふれ、生きる実感を味わっていただけるものと確信します。 山頂『覚心堂』には多くの方が参拝されます。人生の悩み、生きざまなど、種々の相談をお受けします。この相談に私は、「伊吹の山に登るのと同じく一歩一歩ゆっくり、そしてしっかりと人生を生きましょう」と。種々の煩いには山頂から見える琵琶湖と個々の生命の存在について、伊吹の自然を通して話させてもらいます。みなさん納得され、『真心』に覚心されます。 そして来訪者との面識もできるにつれ、山麓に再建の本堂には多くの人々の集う“心の拠所”として茶処を設けようと考えました。この寺の意味する、「生命」「慈愛」、そして、非日常の空間での「覚心」に気づいてもらうことです。 そんななか、“新しき村”の建設を願った武者小路実篤氏の揮毫「鬼佛庵」に出会い、茶処の名前とさせていただきました。「人の心を庵に譬えると、その中には鬼も佛も住んでいる、鬼にするのも佛にするのも、それは人の心がけである」という意味です。仏教でいう『十界互具』『一念三千』の思想です。 昨今は選別思考 “プラマイ思考”“優劣思考”ですべてを判断します。これはいいけれどあれは駄目、あれは役立つけれどこれは不用。美しい、醜い、賢い、狡い、有用、無用……本当でしょうか、これでは寂しすぎる気がします。しかし、それでも現在の社会は加速度的にその方向に進んでいるようです。 お釈迦言葉に「すべての生きとし、生けるものはすべて仏である〜一切衆生悉有佛仏生」との言葉があります。有用・無用、良い子・悪い子、できる子・できない子といった排除的思考ではなく、まるごと肯定できる、お互いに認めあえる、そんな場はどんなに楽しくウキウキとしたところでしょうか。 まったくの偶然か不思議なご縁で、企画編集室「ゆじょんと」を主宰するたけだまるみさんと知り合いました。彼女の編集/出版などのテーマの一つに「サービスされる側にいた障害者がサービスする側に立つ=喫茶コーナー」があり、全国の「喫茶」の情報を収集していることも知りました。2001年8月、長野県松本市での葬送関連の集まりに参加したたけださんと出会い、彼女が障害者の喫茶の取材をされると聞き、同行させていただきました。そこで「これこそが“茶処”だ、“鬼佛庵”だ!!」と心打たれました。 我々にあるのは伊吹の自然と情熱だけです。無謀と囁かれるかもしれませんが、障害を障害のまま、人を人として、認めあえる。『すべてがすべてを認めあい、互いに助けあえる』真の心の発進の場としたいと思うのです。すべてが佛の子、すべてが鬼の子、兄弟、姉妹、佛(真如来使)なのですから。 これから多くの困難があろうと思います。多くの方々のご理解、ご協力、ご指導が不可欠です。たとえ苦言でも。どうかよろしく応援お願いします。 |
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