織田信長判物 一幅
六月日
竪紙 二五・〇×五二・〇
あしき三郷の欠所と給人の居ない土地を調べた上で支配するよう命じた判物である。「あしき」 に該当する地名は近江国内には存在しない。奥野高広氏はこれを「あしうら」の間違いと解釈されている。少々無理はあるが、本書では伝来も考慮してこの説に従って解釈しておく。奥野氏はこの花押を永禄九年から一一年のものと規定した上で、永禄一一年六月の信長上洛前の芦浦観音寺との接触に言及している。一一年は明言できないが、近江進攻の比較的早い時期より信長が観音寺と関係を持とうとしていたことは確かである。芦浦観音寺は、早く享徳二年(一四五三) には幕府より寺領安堵を受けており、また明応七年 (一四九八) には六角氏の坂本日吉神社への奉幣使代官を務め、その他にも度々坂本への用を果たしているようで、独自の水運力を持っていたのであろう。一五世紀以降も、六角氏の依頼でその水運力を提供することもあったようである。(滋賀県立安土城考古博物館資料集より)