續天台宗全書(第U期第一回配本)論草4・5 宗要光聚坊 上下 解題
宗要光聚坊 十七巻 (『續天台宗全書』論草4・5)
Shu-yoo-koo-ju-boo.
<選 者> 舜増(〜一三三一〜一三四〇〜)談
<異 名> 光聚房。光聚坊。宗光聚。宗要光聚坊。宗要聞書集。
宗要私聞書鈔。宗要私聞書集。宗要集私聞書。宗要集光聚坊。
宗要集私聞書光聚坊。
<成 立> 暦応三年(一三四〇)七月十六日(巻十三西教寺本奧書)。
<底 本> 日光天海蔵、天正三年(一五七五)書写奥書十四冊写本。
<対校本> 比叡山南渓蔵、承応二年(一六五三)中野刊十七冊木版本。
(参考類本) 叡山文庫真如蔵、書写年不明十七冊写本
叡山文庫別当代蔵、正保三年(一六四六)書写奥書
十七冊写本
西教寺正教蔵、慶安三年(一六五〇)舜興奥書十七
冊写本
(校訂者 大久保良順・清原惠光)
本書は、天台論義(義科・宗要・問要)の宗要の書である。南北朝時代、比叡山東塔東谷に栄えた檀那流恵光坊流(恵光院流ともいう)の秘書とされ、光聚坊舜増が論義内容を編集私記したものである。檀那流の重要書であることからここに刊行した。本書は、実際の論義に用いた論草を基本とし、論義の参考となる諸説を追加列記したものである。本書は宗要書の中でも、比較的大部に属する書になる。
編者に相当する舜増(〜一三三一〜一三四〇〜)は、本書の奧書により、鎌倉末〜南北朝初期に活躍した比叡山の学僧であることを知りうる。けれども舜増自身の奧書は十九箇所あるが(舜増在判は九箇所、巻尾の「巻号奧書集」を参照)、他書に行跡などが見えず、経歴は不明瞭である。舜増が綴った本書を読み聞かせながら、弟子に書写させたことが「談之」であろう。その書写本に舜増が奧記したものと思われる。その舜増の生存年代は、
○元徳三年(一三三一)正月四日 於光聚坊談之。
(巻五 参考三本奧書)
がもっとも古く、
○暦応三年(一三四〇)七月十六日 於東谷光聚坊談之。
蓋是檀那嫡嫡恵光坊流深奥。更更不可處聊爾。
(巻十三 西教寺本奧書)
が最新で、この十年間以外の記述はない。舜増は、本書の内容から推測すれば、他にも多くの論義書も記したに違いないが、現在は本書のみが知られている。伝存の各種「天台宗血脈譜」にも舜増の名は見あたらない。[光聚坊法印]探題実源の名は見えるが、光聚坊舜増は血脈譜にも隠れた学僧となる。
光聚坊は、「東塔東谷佛頂尾光聚坊」と奥記されるように、所在場所は明瞭である。江戸時代の『東塔五谷堂舎各坊世譜』(『天台宗全書』第23)にも、元亀法難復興後の比叡山の院名が見えて歴代住職がわかり、叡山文庫保存文書で幕末までは光聚坊が存在している事を知りうるが、この光聚坊の古い歴史も不明瞭である。
舜増の学系 本書には、「師云」が頻繁に見られ論義内容の解説をしていることから、この師説に従って舜増が編纂したのが本書である。まれに「師」に《実潅》と傍注がある(五時部61論目)から、舜増は実潅の弟子になる。こうして見ると実潅の名が各所に見える事(実潅沙汰趣など)が理解できる。しかしこの実潅も経歴不明の人師であり、[光聚坊法印]探題実源と親しい位置にある人師かと思える。あるいは、「師」は[光聚坊法印]探題実源であって、実潅にも学習した部分のみに傍注した可能性もある。主要の師が不確定だが、恵光房律師澄豪の弟子系統が多く引用参照されており、舜増自ら記す奧書の、「檀那嫡嫡恵光坊流(または惠光院流)」と矛盾がない(「巻号奧書集」参照)。
┌弁長─禅雲─定仙─経祐─
澄豪┬永弁┬円輔┼祐円┬尊恵─恵尋……恵鎮─光宗─
│ └証真└公性┴光性─ ……………… ┐
├長耀─顕真・静厳─ ├?舜増
└智海─明禅─顕輸─経海─公海─義憲─実源┘
澄豪より尊恵までは惠光院または恵光房と呼ばれ、明禅は毘沙門堂
流の祖とされる。公性以下を門跡方相承ともいう。弁長以下を山方
相承ともいう。引用人師一覧は後出。
また引用諸師名に、尊恵(恵光院僧正)・公性(恵光房僧正)・光性(中納言已講)が頻繁に出る様子にも矛盾はしないが、同時代檀那流西谷頼増(〜一三〇九〜一三二〇〜)編『宗要宝樹坊』に全く触れず、舜増の僧名と似ていることが気になる。
また多くの人師の最下限を探すと、「私云。道光聖人。当流戒家ヨリ外ハ此文ヲ存知セズ」(上巻92頁下)が、『渓嵐拾葉集』編者で戒潅頂流の道光上人光宗(一二七六〜一三五〇)であれば、光宗と面談した内容であり、これにも矛盾はない。
本書の構成 本書には宗要六部九十三算題(付題を加えて九十五)が記されている(目次参照)。これについて、慈恵大師良源(九一二〜九八五)が最初二百余の算題を下されたものを詮略して、恵心流では八十四算題、檀那流では九十五算題を立てると云い、当初に宗要六部はなく、東陽(忠尋(一〇六五〜一一三八)か)・蓮実坊(勝範(九九六〜一〇七七)か)の時代にできたと伝承される(『宗要上三川』冒頭、『天台宗全書』第6)。その宗要の論目配列については、諸流派・人師によって三種あるといわれ、同時に宗要六部の配列も行われ、その六部の順序にさらに四〜五種の違いが見られて、宗要の論目順序は一準ではない。
今回の翻刻に際して、宗要六部(檀那流順)を採用して日光天海蔵本を底本とし、対校本は木版本一本のみとした。対校本との極めて煩雑な論目対照表を作成して本文を対校した。全体は全書2冊(上下)に印刷する。対校注記しなかったが、諸写本はすべて入手して参考している。底本と対校本の論目順違いが一目で判別できるように、巻尾の「巻号奧書集」には、異書名と記述位置・論目順次の違い・諸本の全奥書位置と内容などを一括して印刷した。底本には宗要六部はあるが六部順は明示されていないので、翻刻に際して、檀那流の順(『宗要上三川』の説)に従い、すなわち「人法の次第」に配列した。
仏部・菩薩部・二乗部・教相部・五時部・雑部(光聚坊)
六部内の論目順序は、底本そのままの順序である。
本書の論目順は、底本日光天海蔵写本(天正三年(一五七五)書写奧書)では、宗要六部(六帖宗要)に分類整理されており、仏部最初は「二佛並出」である。しかし、対校本の木版本および参考諸写本は、宗要六部がなく、論目順序が底本と全く異なる。つまり論目順序に違いがある2系統の書が現存している(算題内容は全同)。対校本系の論目順序(「三惑同時断」を冒頭に置く。「巻号奧書集」参照)は、『宗要智晃鈔』(永和元年(一三七五)成立)が、「北谷の次第であり恵光院流・竹林坊流も用う」とする順である(東塔北谷『宗要智晃鈔』の版本もこの順)。対校本系写本の形態が檀那流の元の伝承形態らしく、宗要六部分けはなかったように見える。檀那流の『宗要白光』(九十六算題、『天台宗全書』第18)は、舜増と同時代の、檀那恵光坊流の大家である五代国師恵鎮(一二八一〜一三五六)の撰であるが、本書同様2系統あり、後世に論目順序が宗要六部に配列替えされた写本が現存しており。『天台宗全書』はそれを底本として印刷している。原本の型は、宗要六部のない金沢文庫蔵『宗要口筆抄』残三巻(冒頭は「三惑同断」)のようである。
ところが、本書に宗要六部分けがないにも関わらず、最初「二仏並出」の終わりに、「答。此の算は、六帖の宗要の中に仏の帖の第一なり」とあるのは、宗要六部も同時に存在したことを示している(『宗要智晃鈔』も同様記述)。貞舜(一三四九〜一四二二)撰『宗要柏原』の宗要六部は恵心流の順(仏法僧「三宝ノ次第」)なのだが、六部内の論目順は本書とほぼ同じことから、このころ以降に、『宗要光聚坊』も『宗要白光』も、檀那恵光坊流を強く意識して宗要六部に配列替えが行われたに違いない。
また、本書『光聚坊』の承応二年(一六五三)木版本および『宗要智晃鈔』の承応二年(一六五三)木版本は、整理される以前の順で刊行されている。一方、同時代同檀那流の東塔西谷頼増『宗要宝樹坊』十八巻(寛文五年(一六六五)木版本のみ現存)の論目順序は、宗要六部であり、すでに整理が行われていることから見れば、これらは徹底していない。この『宗要宝樹坊』も、原型は「三惑同時断」を冒頭に置く順序であったように思える。上三川普門寺信俊(一四三三〜一四八八〜)の『宗要上三川』冒頭にある宗要六部の解説から見ると、信俊ころには宗要六部の論目配列が広く認識されたのであろうか。
江戸初期の『台宗二百題』(智周編、享保二年(一七一七)初刊)になると、宗要の部の論目順序は、宗要六部の明記はないが、恵心流の「三宝ノ次第」順である(左の《》は該当する順を示した)。義科・問要の論目に及んでは、順序のみならず論目名や内容も相当に整理されている。
仏部・五時部・教相部・菩薩部・二乗部・雑部(宗要柏原)
仏部・五時部・教相部・菩薩部・二乗部・雑部(宗要上三川)
《仏部・五時部・教相部・二乗部・菩薩部・雑部》(二百題)
本書の内容 本書の内容は、同流の同時代『宗要白光』『宗要宝樹坊』『宗要智晃鈔』と比較して明らかなように、同じ檀那流の論義書として結論となる立宗はほぼ同じである。しかし同流派でも、結論に至るまでの論旨展開が各書で異なるのである。異流派の書では結論が異なる事も少なくない。
問答形式は、算題ごとに三重問答を基本とし、さらに問答を重ねている場合もあり、一定していない。「難云」「答」が継続する間に、「尋云」「答」「一義云」が入り交じるのは、あるいは舜増自身の私問答や師との私問答の部分かも知れないし、他書からの挿入かも知れない。今回の翻刻では、「私云」「師云」は、挿入注記と見なして全て一字下げに印刷したが、この「尋云」「答」もあるいは一字下げにすべき箇所があるかも知れないが、本文として印刷した。底本・対校本では、問答のほとんどが空白を空けるのみで連続しており、非常に判別しにくい。「抑モ」「仰云」「示云」は、本書ではごく少数である。
論義内容だが、例えば最初の「仏部1二仏並出」は、「この一世界に二仏が出世する道理を許すのか」、を論じる有名な算題である。この答を、最初に「これを許すべからず」と断じている。立宗を最初に端的に明示するのは、論義の約束事で通常の型である。続いて「付之」と論難(難勢)が始まり、難問証拠の経論文章を出して答えを要求し、問難を解決してゆく(会通)という順序となる。この算題は、「この三千大世界には、教主として同時出世の仏は、ただ一仏のみであって、二仏の出世は無い」との理念を確認するために立てられたものである。しかし、経論に二仏並出らしき記述が見えるのであり、その一つ一つの解釈を論義問答の中で一仏のみと確認する。『大智度論』の「三千大千世界中、無一時二仏出」、『摂大乗論』の「一世界中無二仏出」、また『法華文句』の「世無二仏国無二主(『増一阿含経』の引用)」などが根拠とされる。仏部最初にこの算題を置くのは、諸流においても異義異論がないためと『宗要白光』が簡明に述べている。
本書の特徴 各算題はほぼ、通常論義の三重(題目・立宗、難勢・会通、重難・重答)の問答を基本としている。文中に「師云」や舜増の「私云」などの記入があり、評価や注記がたびたび挟入されている。この「師云」「私云」挟入が本書の特徴である。さらに、
「以上本抄畢」 「以上本抄沙汰畢」 「已上光性問答畢」
「以上光性御抄談分」 「以上本抄問答畢光性」
「以上証拠畢」 「以上違文畢」 「以上義筋畢」
「以上証拠大概畢」 「経祐談趣」 「以上要文舜増私記入」
「以上門跡一義筋也」 「以上実潅沙汰趣也」
などがあって、区切りがあり、何らかの論草(複数)からの部分取捨引用が記入されている(「本抄」などの書名は不明)。算題により数箇所これがある場合と、一つも無い算題とがある。この部分は、比較的論義形態が整っているが、これに後続する部分にも「尋云」「答」「一義云」「難云」があり、また、「答」なくして問難羅列などがあり、ここにも「師云」「私云」が記入されていることがある。全体的に見れば、やや未整理の感があるものの、これらは、論義研鑚の過程を知ることができる手がかりであり、本書の特徴といえる。しかしながら、この形態は実は『宗要宝樹坊』もよく似ている。
算題によって、本書では二頁のものがあり、また二十四頁に及ぶ長短があるのは、算題の性格内容によるものであろう。
引用の人師 引用は、ほとんどが論草記録からであろうが、孫引きもあり、およそ羅列すると、
宝地房(証真)、安居院聖覚法印、天王寺聖(頻出)、恵光房大僧都円輔、円輔僧都御義、弁長御義、毘沙門堂義、毘沙門堂秘事、観師仰云、浄意上人御義、寛印供奉、伊豆抄、伊豆玄然、良暹、月蔵房僧都(実陽?)、具房僧都、実印、寂場房(公円?)、[恵光院]尊恵僧正御抄、尊恵僧正御房仰云、尊恵僧正御房性一和尚相論、実円僧都、永弁義、実潅秘蔵御義、門跡秘蔵義、大法房、竹林房定仙云、定仙義、竹林房静厳、普通房勝円、学尊神蔵寺聖人物語、三井慶祚阿闍梨、宗春注記、林泉房(毘沙門堂明禅?)云、覚恩房祐円云、覚音坊御義、恵心流、檀那流、大和庄義云、光性深義也公性僧正被相伝、光性已講、紅葉・枕双紙、忠豪比丘、恵光房大律師(澄豪)、昔澄豪律師御弟子永弁智海弁覚長耀等、松井法橋長耀、長耀珍海論義、恵心・檀那・千観御義、地蔵房(信覚)云、北谷顕覚(信覚ノ弟子)、西谷智遍、康慶先徳、尚成私云、伯法印自筆抄云、豪性云、如三重抄、了因抄(聖覚)、宗舜法印、備富門院大補絵ノ貌、多武峯先徳御意、三条大僧正御房、維縁僧正云人義、天抄、求道聖人(恵尋)言也、円観上人(恵鎮)御談趣、道光聖人(光宗)当流戒家外不存知也、有性方義・経祐方義、尚厳私云、天喜四年(一〇五六)蓮実房和尚念蔵阿闍梨被授三井元範闍梨云、仁平元年(一一五一)霜月会…慈雲坊弁覚精云、永暦二年(一一六一)賢豪問。
以上のように多数に上る。この多くの人師の年代や経歴は不明なものが多い。当然ながら、天台三大部・経論疏・山家大師・慈覚・智証・五大院・恵心僧都などの著作も多く引用されているが、ここでは省略した。(野本覚成)