まだまだ劇場まではあるな、と思われる距離から、ダフ屋がうろうろ。
あんな数のダフ屋はめずらしい。
なんでも、千秋楽にいたっては、倍で買い取り、20万円で売られているとの話。
千秋楽当日は、もっと値段が上がっているだろう。
日生劇場はかなりコンパクトな劇場。
観客席は、ガウディの建築を思われるモザイク模様の壁と、貝を張り付けたような天井が印象的。
音響効果のためか微妙に波打つ壁の凹凸。壁からつきだした空調の口は、岩と一体化した壺のようで、海の中の空間にも見える。
広さといい、観客との距離といい、芝居にぴったりの空間だった。
【ストーリー】
<一幕>
人は皆、仮面の下に真実を隠して生きている。人の一生など、一つの芝居に他ならない。
巽優貴(堂本光一)率いるロックバンド「BLAST」は絶大な人気を得ていた。ステージでは、人が宙を舞い、火を放ち、ダンスパフォーマンスを見せるなど、派手な舞台演出が繰り広げられ、観客を魅了していた。
舞台終了後、ドラマーである勝哉(秋山純)は、音楽性の追求をほったらかしにして、ビジュアルに走りすぎるあまり見せ物になっていると、バンドをやめたいと言い出す。
優貴は音楽のベースがあるからこそ、より楽しくおもしろくできるのであって、決してそれをないがしろにしているわけでもなく、むしろ自分たちの芸術性を強く押しつける方が傲慢だと真っ向から反論。
「まるでピエロだ」とののしる勝哉に、「ピエロで結構。客に夢を与えるピエロで結構」と優貴。
ケン(町田慎吾)は必死になって話し合いをしようと説得するが、バンドは空中分解となってしまう。
幼なじみでもあった勝哉を失い、勇気は悲しみにくれる。
そして優貴は、ブロードウェイで挫折した父親、穣司(堂本光一)の姿を求めるようになる。
一人、ミュージカルの稽古に励む優貴を見て、母、愛子(中尾ミエ)は息子の心と体を心配していた。
そんな母に、いつか自分もニューヨークに行くかもしれないと告げる優貴。母にとって、そこは苦痛な思い出だけの町だった。
昔、優貴の父である穣司は、ブロードウェイでの初主演ミュージカル初日にして、悪評に叩きのめされてCLOSEとなり、不治の病にも追われ自殺をしたのだった。
優貴のミュージカルが幕を開けた(ここで、七変化ものがくりひろげられる)。
その奇抜な演出で観客達は驚いている。しかし、熱狂する観客を見て彼は、本当に楽しんでくれているのだろうかと悩み始める。
悩める心に、ある男の声がささやく。「心を広く、目を見開いて今こそ旅立つ時だ」と。
優貴は声に導かれるようにブロードウェイに旅立っていった。
<二幕>
ニューヨークの公園で、優貴は、劇場の楽屋番をしているジャック(尾藤イサオ)という男と出会う。
彼の言葉は、悲しい顔をしがちだった優貴の心に、ブロードウェイで生きて行く励みを与える。以降、なにかとジャックは優貴を影で支えるようになった。
ブロードウェイミュージカルの主演の座を得た優貴は、父親が受けた悪評ではなく、大スターのリリー・ガーランドからも絶賛を受ける。
一方日本からは、優貴を連れ帰る為に勝哉と愛子がやってきた。バンドを解散に追い込んだ理由は、優貴を休ませたかったからだと勝哉はうち明ける。そして優貴が病におかされていることも知っていると。日本に戻って療養して欲しい、少しでも長く生きていて欲しいと勝哉は懇願するが、戻って黙って死を待つことの方が残酷だと言う優貴。言い争いが起こるが、彼の気持ちを勝哉も理解し、二人は一度は壊れた友情を取り戻す。
一方、愛子も、優貴と久しぶりに再会。ジャックを含めた3人で話をしているうちに、穣司の棺桶に入れたはずのロケットをジャックが持っていることを知る。ジャックは、穣司の霊が戻ってきた姿だったのだ。
舞台で成功をおさめた優貴だったが、とうとう病に倒れ、死をおびえ、病室から出られなくなってしまう。ジャックは「命のねじを自分の力で回し続けろ」と強い説得をする。
優貴は、父の声にこたえ、日本に本物のミュージカルを持って帰るという大きな夢を抱き、舞台に戻った。
ジャックは、穣司の生まれ変わりであることを告げてしまったので現世にはいられなくなり、天国へ戻って行った。
愛子は夫の墓を守るためにニューヨークに残るのだった。
そして優貴は、リリー・ガーランドと共に帰国、上演された舞台は大成功をおさめるのだった。
【感想】(舞台直後のメモより)
まず、席は、斜め上からのぞき込む位置。でも、なかなか近くもあって、この距離感と高さは、コンサートでも体験したことのない場所で、光一くんがよぉく見えた。
舞台が幕を開けたときに目に付いたことは、踊っているダンサー達が「大人」であること。ジャニーズジュニアの面々が顔をのぞかせると思っていたので、年齢の高さに、また大阪で見たMASKとの違いを感じた。
数秒後、大階段の頂点に光一君が姿を現す。
「うわ、光一や〜」ともっと興奮すると思っていたのに、あんがい冷静だった私。姿を現したときに拍手が起こったのも、また新鮮だった。滝沢MASKでは「きゃぁ!」だったからなぁ〜。
で、彼が舞台に降りてきて踊り、歌い始めても(ここは生歌さっ!)、全くもって冷静。
「光一? これが光一か?」と思うほど、「普通の人」なのだ。
そこに現れたのは、KinKi Kidsの光一の存在感や印象が全く感じられない一人の人。衣装が一人だけ違うので、ああ、この人が主役なのね、とわかる、という感じ。
KinKi Kidsの堂本光一というアイドルの実物がいるとは思えないのだった。そこにいるのは、一人の「舞台を演じる人」だった。
台詞になると、声は想像以上に太い。そしてわりとしっかりと話をする。聞きやすい。発声訓練はしたな、と印象を受ける。「舞台向けの声といわれたことがある」というインタビューも理解できた。記事を読んだだけでは「そうかなぁ」っておもっていたけれど。
台詞の無いところ、表情や、2,3歩動いて相手を見つめるなどの仕草には、はじめのうちは違和感があって、どうも受け付けなかったが、だんだん気にならなくなってきた。
テレビでしか彼の演技を見たことがないので、彼の全身を使った演技に、私が慣れていなかったのかもしれない。
とにかく普段の(というか、テレビの、コンサートの)堂本光一のにおいがまったくないのである。が、台詞で、コミカルなもの、あるいはアドリブになると、いつもの彼らしいニュアンスが出てきて、そこではじめて同一人物であることを思う。
やはり、動くシーンはうまい。舞台での存在感もある。背も低いし、小柄な彼だが、見栄えが悪くないのには驚いた。
死神に囲まれて苦しみ、彼らを散らかそうとするあたりの動きはダンスチックでさすが。
彼の「できる動き」の中の良いところの発揮だ。
優貴のミュージカルシーン(劇中劇)で、話題になっている七変化がある。
「どうなってもいい」は、コンサートでみた時よりも柔らかい動きに感じられて、ドキドキさせられるような危うい印象が無かった。
七変化のシーンはなかなかおもしろい。劇中劇として見ればおもしろ演出だと思う。
が、同時に驚くことと楽しいことは同じかという台詞がこちらに跳ね返ってくる。
ピエロに踊らされている私たちをみすかされているかのような台詞。印象に残る。
日本的演出の数々。KYO TO KYOに思えてならないんだ、これが。またココで言う「日本」も東寺の弘法さんで、外国の人が喜んで派手派手な着物を選んでいるいった感じ。
とにかくいろいろなものが「ごちゃまぜ」だ。
ただし豪華に、にぎやかに見える。それは上手だと思う。華やかで豪華。
しかしその豪華さは、生まれながらの血筋の良い人物とは違って、一般人が突然すごいパーティにお招きを受けて、間に合わせでよい服をそろえて、髪をセットして、メイクをしたという感じの豪華さだ。見栄えがどうにかなってもパーティ会場での振る舞いは、突然、上手にできるものではない。
しかし、美しくなった自分を見たときに、心までがなりきって演じることはできる。
にしても、一幕と二幕からうける違いは何だろうか。
二幕のダンスシーンに疲れが見える部分が2,3カ所あったが(光一君がそういうのはホント、珍しいな)、二幕目は内容も引き締まっており、見ていて飽きさせない。
友情をテーマにしたMASK原本に、親子関係とを取り込んだわけだが、そのバランスはうまくできているのではないだろうか。
光一、中尾ミエ、尾藤イサオのやりとりは、二人のベテラン俳優・女優の余裕のある「受け」がすばらしい。
動きももちろん堂に入ったもので、約一ケ月共に仕事をして、光一はかなり多くを学べただろう。
私が昨年見た滝沢MASK(原本)は、若さと初々しさで舞台をもりあげたと思っている。それがすばらしく「魅力的」だったのだ。
としたならば、光一はそれとは違う。
若さが持つ力ではなく、勢いだけでもない実力で演じているのがわかる。リアルに「今の彼が持っている力」を出して演じていたということだ。
その実力は、舞台演劇という環境では力不足なところもある。そしてそれを評価するに当たって、「若さ」「初々しさ」というという理由では埋められないのが二十歳の光一なのだ。だめなものはだめと受け止められる、とそんなことをふっと思った。
KinKi Kidsは二人だけだ。
今までもドラマを別々に収録するなど、個別に仕事をしていたことはよくあることであるし、剛も過去に、一人で舞台を踏んでいる。
今回の舞台を見て、二人は「ばら売り可」だと強く感じた。
光一が一人でCMに出ているのを見たときに、私はとても違和感があったし、複数人数のいるグループと異なり、二人というのはバラで出したときに、もう一人は?と、常に言われることがついてまわる。
しかし、舞台には、KinKi Kidsではない「堂本光一」個人がそこにいたのだ。
あれやこれやと思う部分が多々あるものの、彼もやはり「華」をもっている。
幼い男の子の将来性を見極めて事務所に入れる社長の眼力に常々驚かされているが、それは顔が良くなることを判断できる先見の目ではなくて、その人が「華」をもっているかどうかを見極める力なのだろう。
その「華」を開かせる為に、チャンスを多くあたえるのが事務所の仕事。たとえば花に水をやるのは事務所。しかし、根をはってゆくのはその花の仕事なのだ。与えられた養分をいかに吸い上げ、自らが生きて行く肥やしにして行くかは本人の努力が必須だ。
光一君の場合、もともと持っていた「華」よりも、さらに大きなものを咲かせたのかもしれない。
歌もうまくなったなぁと関心。いや、こういう話題が出ること自体失礼なのかもしれないけれど・・。
生歌3割、テープ7割と私は判断しましたが、にしてもちゃんと歌えるじゃない、と感心したのでありました。
町田君、がんばっていました。彼、見れば見るほど「危うい」・・・・・・。
ロビーでも彼のファンらしき人の会話を多く耳にした。確実にファンをつかんでいっている様子です。
まるでバレーダンサーのような身のこなしと身体をしていて、光一君も足の先から頭の先まで神経が届いているダンスを見せる方と思いますが、彼に負けず劣らす、指先までが「う、美しい!」としみじみ感じました。
<その他いろいろ>
とにかく、踊るシーンでの、思いっきり歯を見せて笑顔で踊る光一君が、はっきり言って「きもちわるい」のである(笑)。
なんか、とにかく・・・・・・きもちわるくって(笑)。
普通な笑顔をしてくれ〜。いや、きっと、彼は踊っているときに笑顔をすることができないのかも。
で、笑顔をつくると、ああなるのかしら??。
とにかく、気持ち悪い(笑)。
でもって、バックのダンサーの中に、なんだか「顔」が印象に残る男の人が居て、妙に彼に視線をとられてしまったのだった。
バンド時代の優貴は、その昔、「BLACK」というハードロッカー&ヘビメタ野郎には御用達のお洋服がありましたが(今でもあるんだろうなぁ)、そこで売っていそうなセンスの衣装。
私が一番そういう物にはまっていたのが高校生の頃だったので、一昔前の派手派手バンド系のコスチュームなのです。今のビジュアル系ではないですね。私はとってもそれらが懐かしくて、ちょっと嬉しくなりましたです。
それに関係する台詞で、秋山君がピンクのカツラをかぶっているのをうけて、光一曰く「そのカツラ、似合ってるよ。そう、そういえば、社長のジャニー喜多山さんに『君は将来はげるよ』っていわれたよぉ」と、はえぎわを触って語っておりました。
着物姿への変身の時には、衣装の着付けに時間がかかるので、舞台裏で行われているメイクの様子がスクリーンで投影、長襦袢状態まで奥で着付けが行われて、カツラや着物の着付けは舞台の上で台詞を交えて行われる。
で、私の席からは、舞台向かって右手、奥の方まで結構見えたんです。
奥で長襦袢状態まで着付けが終了した光一君が、7〜8人が待ちかまえている舞台へやってくるんですが、そのときのですね、舞台にでてくるときの姿が、もぉ、むちゃくちゃツボにはまったんですよぉ。
まだ舞台には姿をあらわしていないところまで見えるわけで、そのときの走ってくる光一君がですね、顔は「素」で(笑)、格好は真っ赤な長襦袢、頭はカツラがすぐに乗っけられるようになっていて、表情がすごくよくわかるのね。
とにかく「素」(笑)。しかも「焦り焦り」っていう感じで。
また走って出てきたのね。その走り方が「ばたばたばたばた・・・・・・」って、色気もなにもあったもんじゃなくって(笑)。両手を肩から垂直に上げて、袖を振り振り、もちろん足下も「ばたばたばた・・・・・」。
それを見たとき、毎日、これをやってるんだなぁ、大変なんだ。そう、大変なのよ!って思いました。もちろん、出演者だけでなく、スタッフ達もね。
そして「なんでこんな、女形をさせようなんて案がでてきたんだろう」とふと、よぎったりも。
舞台の上に出てきた光一君、真っ白な着物を着て、カツラをかぶり、帯を締められて、だんだんと整ってくるわけですが、その間の台詞は、鏡を見ての第一声。「やっぱ、かわいいなぁ!!!!」>しかも絶叫!。
はい、かわいい、かわいい(笑)。
他、「鈴木その子よりも白い?」。
「あ、やべぇ、すね毛剃ってくんのわすれた、ガムテープ!」というと、すぐに出てくるガムテープ。「なんですぐあるんだよ!」。
他、なんだかんだ言っておりましたが、忘れた。
で、できあがった訳ですが、そこからの踊りがまた、なかなかがんばっておりました。
「雪の夜」。踊っているときに、もう少ししなやかなものが欲しいとは思いますが、やはり彼は「なりきる」力があるのでしょう、慣れない日本舞踊であるというのに、きれいに見せていました。
ただですね、はけるときに、急いで去らなくてはならないのはわかるのですが、もっと踊り風に「しなしなしな・・・」と行って欲しかったのに、着物の中で足が「どどどど・・」って走っているのがわかるのよ(笑)。
「もぉ、光一君!」って、ほほえましい笑いがもれてしまいました(笑)。
また、角隠しをかぶっているその姿をみて、そう、カツラって、重いのよね、と自分の結婚式の時を妙に思い出した私(笑)。
「八百屋お七」。鐘を鳴らすシーンは追っ手とのやり取りがなかなか!。「芝居らしい〜」演出でした。
鐘を鳴らす後ろ姿も色っぽく、ほ〜と関心。で、そこに鐘が落ちてきてお七がそれに隠れるのですが、私の席からは、また裏の様子が見えるわけで(笑)、その鐘の裏の出入り口が見えたわけです。
やっぱり、光一君、着物の裾を持ち上げて走っておりました(笑)。走れ、走れ!!(笑)。
「天守物語」の剣士姿は、自毛を結んでの登場で、これがまたかわいらしいのであります。
たまにテレビでの髪の毛結んでみたらどうかしら?。一度だけパナソニックのCMで結んでいたけどさぁ〜。
このあたりの「七変化」も、劇中劇としての位置づけを考えたら、おもしろいと思いました。
二幕が開いたときから、中尾ミエ、尾藤イサオとのやりとりが多く繰り広げられるのですが、3人の雰囲気がすごく良い。なんて自然に見られるのだろう。
またこの二人が歌うときに感じた「力」。さすが、としか言えません。
特に私は、中尾ミエ演じる愛子の気持ちになって見ていたので、昔、夫が果たせなかった夢と同じものを求めて旅立つ息子、愛する夫が眠る町へ再び足を踏み入れたときの心境、そして死を目の前にしている息子を見つめるしかできない立場。
母として、女として、そして大きな夢は果たせなかったものの、自らも舞台人であった女優として。
最後、夫の墓の元へ残ると言った愛子。そこには、もう息子に自分は必要ないという優貴への思いも深くて、愛子は舞台の中で、私にとっては印象に残る人物像でした。
舞台の最後、中尾ミエさんは身体にぴったりと沿った白いドレスを着て出てくるのですが、また細いのよ、すごく!。その腰に、光一君が腕をまわして、まさに親子3人で歌うのですが(ちょっと感動的ね、ここ!)、細い、細いよ〜ウエスト!!、と私はそこばっかり見ていた(笑)。
ちなみに光一君は、98年〜99年冬コンの赤&ピンクのブラウスに白のスーツでございます。これを見たときに、「ああ、KinKi Kidsやぁ」と思ったと同時に、「KinKi Kidsである現実」に違和感を感じました。
細いと言えば光一君の体型、わりとたくましいのはしっていたけれど、ノースリーブをきたときの「腕」にはびっくり。肘から上、そして肩までのラインがたくましい!。お洋服の下にそんなにたくましい腕が隠れていたのかぁと驚きでございます。でもって、あのウエストの細さ。ほんに君は、どういう体型しとんねん!とつっこまずにはいられなかったのでありました。
でもってまた、足がちいさいねん(笑)。私の席から、白いダンスシューズがよく見えたのですが、足のサイズ、ちっちゃい〜。そして一生懸命踊っているからね、ダンスシューズの外にまで、彼の足の指の形がしっかりと現れておりました(笑)。
なんだか、得した気分でした>なにが得したんだ〜!。
ちらほらと笑いがこぼれる台詞たち。
どこまでがアドリブでどこまでが台詞なのかわかりませんが・・・。
勝哉と優貴が喧嘩をし、最後には理解しあい、勝哉だけが帰国するとき。
毎回あるネタが、勝哉の「お前の帰りの航空券まで買ったのに、いらなくなったな」に対して、優貴が「・・・・・・全日空か?」。
「そうだ」との返事に「安心したよぉ。でもなんで全日空だったら安心しなきゃならないんだ」とぽつり。
あと、二人が頭の上で、手の平同士をバチッとあわせるシーンでは、なぜか手のひらが空振り。光一君、すかさず「もう一回」と指を一本立て、再度挑戦すると見事に二人の手のひらがあいました。
「なんで、あわねぇんだろうな〜」と光一。私も不思議だ・・・・・・・。
勝哉が帰る直前、着ていたシャツの裾を見て「やぶれちゃった」と優貴。
勝哉「衣装は大切にな!」
優貴「ああ」
勝哉「おれなんか、ここ、破ったことあるぜ」と内股の高いところを指さす。
優貴「さすが太っていただけあるな。そういえば、おまえレッスン中にこういう(ゼスチャー付き)、パンタロン、はいてたろ?」
勝哉「はいてた。みんなに笑われて、やぶかれて、よけいパンタロンになっちゃって」
そして最後は・・・・・・
優貴「あ、日本に帰ったら、バーモントカレー送ってくれよ」
中尾さんも言ってます。全日空に対して、「日航できたけどね。サービスよかったわよ」。
他には、天国にかえった穣司への言葉。死が自殺であったので天国の一番下層にいたが、今回の息子にした行動が認められて天国の上層へのご帰還となり、若いお姉さん達に囲まれて、ハーレム状態です。
それを地上から見上げる優貴、「た〜まらんな〜」と、どうやったらそんなにオヤジな声になるのだ、というくらいオヤジ丸出しの声で叫びます。
ううん、とってもそういう姿がにあう光一君なのだ。
<KinKi Kidsメドレー>
現れた光一君が〜、あの、私がはじめて言ったコンサートできていた、あの水色の衣装です〜。あれです、あれ!!!。いやぁ、やっぱりあれよ、あれ>興奮している。
でもね、初めてみた時と違って、ちょっと「コスプレ」っぽく見えてしまったのは私だけでしょうか(笑)。
やはり光一君も大人になっているのね〜>しみじみ・・。
この衣装で姿をあらわしたときには、観客からも「きゃぁ」の吐息が。やっぱりみんな、好きなのよ、あれ。わかるもの、空気で・・・・・・。
そしてそれを脱いだなら、待っていましたの「アンダルシアに憧れて」、赤のスーツだ〜!!!。
くわえて、くわえて、早くそのジャケットをくわえてくれぇと思いながら(そんなことを思いながら見るなっていう声もあるか?)、初めてアンダルシアを見たときの、呼吸が止まった感動を期待しました。
が、これもまた、結構冷静な私でした。
なんていうか、あのときの荒々しさが抜けて、すっかり洗練されていました。
ヒガシコピーのアンダルシアではなくて、これが光一アンダルシアなんだ。
コンサートで見たアンダルシアは、彼の若さが「フェロモン」のごとく、これでもか、と見るものに衝撃をあたえたといえる。今の彼は、彼の中から自然と生まれてくるダンス、生まれてくるアンダルシアの表現だ。でも、もちろん、素敵ですよ。
しかしアンダルシアという楽曲が彼をもっとも魅力的に見せてくれた時期は終わったのかもしれません。今の彼をより魅力的に見せてくれるダンス、そして音楽が、またあらわれるでしょう。
最後は、あの、高いところからのバック転です。ほんとにもう、この子ったら、と思う私でした。
「全部だきしめて」では剛君のパートを歌う光一君が新鮮。ちゃんと歌えていました。よかった、よかった。
20日に剛君がきたときには、剛君が歌ったのねぇ〜・・・。
20日を見た人は、最高の思い出になりましたよね、きっと。
剛君が来た20日、KinKi Kidsメドレーの前に二人で舞台に立ったときの光一君は、完全にKinKi Kidsの光一になっていたようです。いつもの破顔一笑、想像できますね(笑)。「おいで〜」と剛を呼んだというその声までも、想像できますね(笑)。
この舞台を見に行く前、剛ファンの私としては、剛君がいない寂しさを覚えるかもしれないと考えていました。が、それは全くありませんでした。
前述の通り、舞台に現れた光一君は、一つの個体「堂本光一」にしか見えなかったので、「KinKi Kids堂本光一」でない限り、そこに剛君が居ない不自然や寂しさを感じることは全くなかったわけです。
では、どうしてKinKi Kidsの堂本光一に見えなかったのだろうと一考察を試みました。
二人の対話が魅力なKinKi Kids。光一と剛のやり取りや、二人の空気を見て観客が楽しみ、喜んでいる。もちろん、楽曲でも楽しませてくれているけれどね。
で、光一がギャグ一つ言うにも、たとえば「将来、はげるっていわれたよ」の言葉が、直接、舞台では客に向けられるわけです。
が、テレビやコンサートでは、剛がフィルターになる部分があるのです。光一が言った言葉の前提は、剛という相棒の、受け答えが否定にしろ、肯定にしろ、反応してくれる彼がそこに存在しているのです。なんだかの反応があってしかるべきな視線や空気が光一からでているのです。これは剛から光一、という方向もあって、お互い様でしょう。そしてそれがKinKi Kidsの、あるいはグループというものなのだと思います。
直接観客に言葉が向かっている舞台で、剛の存在を感じることなど、思い出すことなど、一切無かったのはこういうことがあるのではないでしょうか・・・・・・。
舞台の総評としては「がんばっていた、すごくよかった」と言えます。
が、「がんばっていた」というのが、好評の意味かというとそうではない気がします。
光一君の歌に対して「ちゃんと歌えていた」という話題がでてくることが失礼なように、「がんばっていた」という評価は失礼な部類にはいるのではないでしょうか。
でも、あの短期間で、初めての主演で、ほんとうにがんばっていた、と、言えるのはこうなのです。
「人ありき」の舞台であるとしみじみと感じました。
でも、本来の舞台、あるいはドラマ等は、言いたい内容がメインであって、それを的確に伝えることが役者の勤めだと思うのです。ですから、実力のある役者が、自分たちの個性の元に、言葉達に生き生きと息吹をあたえて、人に伝えるのです。
役者が「できる」のは当たり前で、言いたい何かを観客は洞察して受け止めるのが芝居なような気がします。
しかし、私はどうしても、「光一君が」どんな風なことをしてくれるのか、どんな風に楽しませてくれるのかを見てしまいます。
このMASKは、普通の舞台とは違う台本かもしれません。MASKはそうやって楽しむものなのでしょうか?。それでいいのかな?。いいのか、いいとしよう(笑)。
MASKが「ジャニーズの世界のミュージカル」だとすると、どうしても吾郎君が演じたような舞台とは別物なんです。
だから楽しみ方も全く別。だから、その人がどれだけ力を発揮して、見るものを楽しませてくれたかに重点を置いて見てしまう。
でも、なんだか、「がんばっていた」という感想って、どうなんだろうとやっぱり考えてしまうなぁ。
「すごい」とも「すばらしい」ともすこし違う、でも光一君「よくやっていた、よかった」と思う。
これもあんまり、良いほめ言葉ではないのかなぁ〜・・・・・・・。
また「人ありき」と強く感じたのはパンフレットの社長のコメントでした。
作、演出が自分であるので、如何様にも料理でき、出演アーチストの持ち味、イメージに合わせたストーリーも作れるし、出演者本人の意見も取り入れられ、またある部分はゆだねることもできる。常に、アーティストの本来の最大限の魅力を新鮮に打ち出したオリジナル・キャスト作品にすることができる・・・。
この言葉を読んだときに感じたのは、今回の演出と台本で、光一君の魅力が最大限に引き出されたのだろうか、ということだった。
印象としては、「驚き」もあったし、楽しい気持ち、幸せな気持ちにさせてもらいました。。舞台主演初挑戦の光一君の姿も見ることができ、彼もがんばっていた。が、彼の魅力を引き出していたとはまた別のような気がしてならない。
ただ、新鮮ではあった。
「最大限の魅力」まではまだまだ見えないけれど、「新鮮な魅力」は、でていたといえる。
【総評】
「華を持つ人」だと、コンサートよりも強く感じられた。
同じ「華」でも、TOPがふさわしい「華」と、セカンドでいることで「華」ひらく人もいる。
彼は、TOPをとれて、それに責任を持てるタイプだ。ただし、「できる」ことと「本人の希望」とが異なる場合が多くあるけれどもね。
そしてその持っている性格からしても、今後も恐ろしいほど、進歩して行くだろう。
年を経ても、活躍できる人材かもしれない。
そしてもう一面で、ニューヨークで優貴がリリーに言われたように、舞台以外では「寂しい顔」をしているのか、とも思わせるほど、奥行きを感じさせてくれる人になってきたな、と。
しいていえば、大人になったのかなと思ったりもするわけですね、はい。
以上、MASK’99の感想でした。