「仕合せ への 価値観」
・・・一如の世界とは ・・・


(平成8年5月1日)


(真宗大谷派 観行寺 住職)
法雲 俊邑
のりくも


I.はじめに
本日は当ホ−ムペ−ジをご覧いただき有難うござ います。このペ−ジを御縁として、皆様から様々なご 意見が頂戴できれば大変光栄に存じます。
 私は日頃、大学で企業や一般社会の組織におけるコ ンピュ−タの利用技術とか、ソフトウェア開発に関す る教育と研究に従事しておりますが、並行して自坊の 法務も行っておりますので、このようなお話もさせて いただきます。
 ところで、現代は「価値の相互感染の時代」である、と 言われております。 たとえば、広い視野に立って見ます と、旧ソ連や東欧諸国の人々は自由を求めて共産主義を捨 て、民主主義を選びました。これで、世界は自由化と民主 主義に一本化されて、平和な安定した楽園になるやに見え ました。
 しかし、今迄表面化しなかった地域紛争や飢餓と難民問 題が、多々発生してきました。これらは、お互いの国や民 族の価値観を主張して、対立したり、孤立したり、融合さ せたりする、価値の相互感染の前期の段階と見ることがで きるでしょう。
 この段階を過ぎると異文化や異質の価値観にカブレル という時代がやってきます。つまり、情報化の進展によつ て多様化、国際化の色彩を濃くし、諸個人のもつ趣味、思 想、生活様式などといった価値観が実に様々になってきま す。
これによって、欧米では、スシバ−が流行ったり、「 きもの」を着たり、「刺身」を好む外人が現われたりジヤ バニ−ズガ−デンがあちこちに造られる状態です。また、 わが国ではジ−パンを履き皮のジヤンパ−を着て道を歩 きながらポプコ−ンやハンパ−ガ−をパクつく人が現わ れます。
 個人のレベルで見てみると、価値の相互感染が極めて進展し ているところでは、見るもの、聞くもの、食べるもの、着るも の、ありとあらゆるものが個性化し、他の人と同じものを求め ないという傾向が出てきます。他人との違いを求めてドンドン と差別化が進むと、ついには価値が喪失してしまいます。
つまり、何が良いのか悪いのか、自分が何を求めようとしてい るのかという、価値判断が段々と分からなくなるような時代に なってくるということです。このような現象は、個人の喪失、 あるいは自己喪失という結果をまねき、個人では何も実現でき ないが、鵜合の集としての集団心理によってのみ事がなされる ような行動が起きるようになってきます。
 つまり、個人は切り捨てられて集団の意見のみが取り上 げられるような傾向が出てきます。しかし、その集団が行 く方向も誰というリ−ダがいる訳ではなく、ただ皆が行く からついて行くという放浪の行動であって、誰にも行先が 分からない変な動きが出て来る訳です。端的な例が「赤信 号、皆で渡れば怖くない」であります。
 そうなってくると、どうなるかと言いえば、悪いことを 「悪い」と正面から言えなくなってくる。悪いことであっ ても「皆がやっていれば」かまわないだろう。皆が認める から「それぐらいは良いんだろう」としか考えなくなる訳 です。
 このような現象が現在の日本の政治にも、経済にも、市 民生活の中にも現われてきています。「数は力、金は力」 がまかり通り、衿を正す道義心や良心はどこかへ行き、怒 るにも怒れない。冗談めいた怒のポ−ズたけで、本気にな れない怒りが鬱積している状態であります。
 このまま放置すれば、自らが満足する幸せが見い出せず 、安心感が得られず、1億総国民がイライラした状態に突 入することになると思います。その状態になるまでに、我 われは自らが「幸せをつかむという価値観」をもつことに よって、自分の人生を歩んでいく必要があろうかと思いま す。
 本日は、二度とない人生を「幸せ」に過ごすためには、 私達がお互いにどのような価値観をもって生きればよい のかを、釈尊の教えに学びながら、日頃、心に思っている 一旦をお話させていただきたいと存じます。

II.心の交流の希薄化
 ところで、鵜合の集という集団行動で、比喩経というお 経の中に「猿智慧のいわれ」という題の話がのこされてい ます。ある海岸の見張らしの良い小高いところに、一本の 大きな老木がありました。そこは実に5百匹におよぶ猿の 住みかになっていました。ある晴た日も猿達はその木に登 って木の実を食べて過ごしていました。すると、はるか遠 くの海から大きな雪山もあるほどの泡沫が、・・・・・キ ラキラと岸へ近づいてきました。
猿達はキット中に何か良い物があるに違いないと思っ て次々と飛び込みました。1匹も生きて上っては来ません でした。
 今日の社会では、「何が正しいのか」「何が必要なのか」を 選択するという思考能力すら働かなくなる。いわゆる個人の意 識の空洞化現象が進んでいるのであります。このような時代に こそ個人の確固たる価値基準が必要なのですが、そこには既に 、絶対的な正しさを主張できる価値基準は存在せず、「数の力 と金の力」によってのみ動くという原理だけが横行していると 言えましょう。
 個人には自信が無くなり、空洞化した個人の意識は、「善・ 悪」の価値基準とは無関係に大衆の動く方向に追随して行くこ とになります。 このような環境におりますと、今、自分が何 をしようとしているのか、何を目標として掲げているのかとい う立場をはっきりしておかないと、自己矛盾を起こすようなこ とが、しばしばあります。
 たとえば、職場のグル−プであるとか、住んでいる地域 のグル−プであるとか、友達のグル−プであるとか、家庭 であるとか、さまざまな立場の人々に接触して生活してい ます。そして、その所属する組織とか場所によって、自己 の立場を「住み分ける」ということが大切なのであります 。
 しかしながら、価値基準が曖昧になり、道義がなくなっ た今日では、その「住み分けをする」ということが出来な くなってきているようです。相手のことを考えず、場当た り的に浅はかな言動をする場面が多くなっている。
 場所が違っても、組織が違っても、テ−マが違って も、その場にいる自分自身は同じであり、自己は自己 であるということに違いはありません。それは取りも 直さず、その人個人の生き方や信念は何処に居ても同 じであろうと思います。つまり、自分は自分として、 私は私としての生き方があるからです。 自からと同 様に他人にも、その人なりの生き方があります。そし て、誰しも「幸せを求めて、幸せでありたい」という 願いをもって生活していることは同じであろうと思 います。
 ところが現実には、その人の所属する組織とか場所とか グル−プが違えば、その人の人格や考えが理解されないま まに、退け者にされたり、無視されたり、抹殺されるとい う現象が発端になって、さまざまな不幸を引き起こすこと が多い世の中になっています。
 私ほど不幸な人はいないと思い、私ほど苦労する人はい ないと思い、悩み多い日々を送っているのが現実ではない かと思います。 このような日々の生活の中で、二度とな い人生を「幸せ」に過ごすためには、私達がお互いにどの ような価値観をもって生きればよいのか、ということを考 えなれればなりません。
私の友人から聞いた話でありますが、友人が東京の親戚 へ出かけて一夜、マンションに泊めてもらった。いろいろ 世間話をしているうちに東京では野菜が大変高いと聞い たので、「ジャア家の畑の野菜を沢山送ってあげよう」と 言ったら、親戚の人は「そんなに沢山送ってもらっても食 べないよ」と応えた。
 「それなら隣の人にあげればいいじゃないか」と言うと 、「そんなことしたら迷惑だと言って、突き返されるよ。 かえって喧嘩の原因を作るようなものです。」と応えられ て大変驚いたと、話していた。同じマンションの壁一つ隔 てた隣の部屋同志でさえこのような有り様である。
 同じ一つの屋根の下に住みながら、隣人は、はるかに遠く離 れた存在の人になっています。昔の諺に「遠くの親戚よりも近 くの隣人」という言葉がありますが、こんなことは全く通用し ない時代になっています。そして、この話の一例は、何も都会 だけではなく、田舎でもそのようになってきた風潮があります 。 つまり、お互いに「干渉しないし、されたくない」という 思いとともに、人間と人間の振れ合、人と人とが話をする機会 がだだんだんと少なくなってきているよう思います。
 そこには、お互いの気持ちや心が通じ合うとか、相手の立場 になって物事を理解するということが無くなってきます。この ような状態が、社会全体がギクシャクして、個人、家庭、地域 、職場などに様々な問題や悩みを起こす要因になっています。
近年の日本人に関する集団への所属意識は、組織内の人 (私たち)と組織外の人(かれら)をはっきり区別して捉 える傾向が強くなってきている。これは、組織内の人同志 は強い連帯意識や責任をもつているが、組織外の人には赤 の他人として、全く気使うことも同情の余地ももたないと いう。
端的な例が、電車の席を確保するのに他人を容赦なく押 しのけて入る。そして、前に赤ん坊を抱いた婦人やお年寄 の人がフラフラしながら立っていても、知らん顔で寝たふ りをしている。しかしながら、顔見知りの人がいると、態 度をガラリと変えて立ち上つて席を譲ろうとする。
 といった具合で、知り合いの人と知り合でない人との区別が 極端に違って、180度どころか360度違った態度を取る、 といった傾向が強くなってきております。この感情は、他人と まで言わなくても、子が親にご恩を感じる、兄弟や夫婦が互い に恩を感じ合う、そして、感謝するという絆までもが崩壊して いるのが現実かも知れません。 人間の本性は、冷静であると 同時に暴挙への衝動も秘めています。信頼と不信、公平さと格 差、相互理解と相対立、協調と競争など、ありとあらゆる面で 両面性の心理状態をもつています。このような心理状態におい ていずれを選択するかは、諸個人のもつ価値観によって決定付 けられるのでありますが、見知らぬ人に初めてお会するときに 、相手から冷静さが出るのか暴挙が出るのか、ハラハラする時 があります。
古来より日本では、親の慈悲、親に忠孝、兄弟愛、隣人 愛などなどは美徳としてきたはずであります。もともと仏 教にあつた慈悲の教えが、広く民衆の間に普及していった のであります。 そして、人と人と、私と他人は目に見え ないところで因縁によって結ばれている、ということは日 本のごく一般の人の間に自覚されていました。たとえば親 鸞は歎異抄の中で「一切の有情は世々生々の父母兄弟なり 」と説いています。また、一般的に「袖振り合うも他生の 縁」という言葉として、残っております。 このようにし て、古来よりの日本人は互いに他をいたわり合う気持ちで 、生活をしてきたのであります。

III. 慈悲の心と和顔愛語
 大無量寿経の五悪段の中に、「いかなる方向に心を馳せ て探し求めても、自分よりもさらに愛しいものを見出しえ なかった。同様に他の人びとにもそれぞれ自分は愛しい。 それゆえに、自己を愛する者は他人を傷つけてはならぬ」 と説いてあります。 人びとが生きていくためには、各自 が自己の存在を自覚し、自愛して自からを保つことを意識 して生きることが第一条件であります。それならば、他人 も同様であると考えて、相手に対しても、他の人に対して も、いたわりの心を持って生きねばならない。
 つまり慈悲の教えでは、まず、自分を省みて、ついで人の身 になって考えるところから出発するのであります。慈悲とは、 仏から衆生に賜わるものであり、「慈」とは、最も深い友情を 意味し、衆生を慈しんで楽を与えることであり、「悲」とは、 呻きを意味し、衆生を憐れみいたんで苦を抜くこと、だと解釈 されています。  慈しんで楽を与えるということは、相手に 対して安心感を与えることであり、暴挙による苦しみや不安を 与えることではありません。どこまでも相手を慈しむ心がなけ れば、できません。人に出会った時、特に見知らぬ人に最初に 出会った時、「和顔愛語」(やわらかな顔とやさしい言葉)で 接することがその始まりであります。
 これを大無量寿経の中に、法蔵菩薩が悟りを開いた時に、「 和顔愛語にして、こころさいだて承問す」(衆生の意を見ぬい て、衆生が求めるにさきだって)と書いてあります。また、聞 法をする立場の人には、観無量寿経の中に頻婆裟羅王が世尊の 法を聞き
「顔色和悦」になったと説いてあります。
 人々に笑顔で接し、愛語で語りかけるところに、心を開き、 お互いに理解しあう姿が生まれて来るのではないでしょうか。 つまり、愛をささげて相手を喜こばせるとともに、苦を除き楽 しみを与える愛が慈悲に結び付くものである。しかもその愛に 見返りを期待してはならない。ごく自然に無意識の内に出て来 る愛が人間愛であろうと思います。ただし、愛にはしばしば溺 愛しすぎたが故に、愛憎や瞋志に転ずるようなこともあるが、 この種の愛は慈悲には結び付かない。このことに我々は気を付 けねばなりません。

IV 一如の世界
 ところで、何の認識も持たずに、他人を理解し、「和顔愛語 」で語りかけることは難しいことであります。他人を理解する とともに、自分も理解していただく世界をつくるには、まず、 他を認めるという自分の姿勢が大切になってきます。 しかし ながら、今日のように、見るもの、聞くもの、食べるもの、着 るもの、ありとあらゆるものが個性化し、他の人と同じものを 求めない時代には、ますます他人を理解するということが困難 な時代になっております。 世の中が物質的に豊かな時代にな ったからでありましょうが、家も車もリッチな感覚も、着飾る 容姿もすべて他の人と格差をつけて、自己満足をしようとする のが今日の、日本人の姿であります。
 阿弥陀経というお経の中に、こんな言葉があります。  「また、舎利仏よ極楽国土には、七寶の池が有る。そして その池の中には八功徳水が充満している。・・・池の中に 蓮華があり、大きさは車輪の如し、青い色には青い光が輝 き、黄色には黄の光が輝き、赤い色には赤い光が輝き、白 い色には白い光が輝き、微妙香潔である。」と書いてあり ます。
 これは、人間には誰しも、その人にしかない才能や感覚 や特性があり、自らはそれに気付いてこれを伸すように勤 めねばならない。そして、私達一人ひとりが個性をもって この世に生まれ、一人ひとりが個性をもって日々の人生を 歩んでいく時、その人は光輝がやいている。
 つまり、青い光だけがすばらしいのではなく、黄色も赤 い色も白い色もすべてが光輝がやいているように、Aさん もBさんもCさんも、素晴しい人であると認め合う一如の 世界を、説いている言葉であります。一如とは「唯一絶対 でありのままな、形相を超えた真理そのもの」を言う。「 実相は即ち是れ法性なり、法性は即ち是れ真如なり、真如 は即ち是れ一如なり」と教行信証の証の巻きに書かれてあ ります。
 一如とは「如来」そのものであり、仏の世界の価値観で あります。このような価値観で私達の日常的生活をとらえ ると、実にさまざまな不思議なことが何気なく行われてお ります。
 たとえば、学校の試験で高い点数をとった成績の良い人だけ が、偏差値の高い人だけが素晴しいと考える人が多い。しかし 、点数の低かった人も、ほかのことでは他に秀でる特性をもっ ているはずである。成績だけで人を評価する価値観はおかしい 。
  また、平等という概念が日常的によく使われている。平等に2 0%ずつ税金を治めて下さいと言われた時に、年間100万円 の収入で暮らす人の20万円と、1億円の収入で暮らす人の2 000万円とでは、まったく状態が異なって来て、80万円で 暮らす人にはとても平等とは思えない。
 平均という概念も日常的によく使われているが、これも人間 の世界で便宜的に作った概念であり、個性や特性などのなにも かも無視した中で一律に平均化することはおかいし。
 このように矛盾した価値観の中で私達の日常的生活をすごし ているのでありますが、人と人とが思いやりをもち、互いに理 解し合う時にこそ本当の幸せを味わうことのできる世界が生ま れてくるのです。
 自らの足ることを知り、慈しんで楽を与え、相手に対して安 心感を与えることによって、自らの幸せが生まれてくるのであ ります。
われ我が人間社会において最も大切にし、重要視しなければ ならない精神的価値観が、抹殺され、軽視される社会になって いったことに注意しなければならない。言い換えれば、個々人 のもつ温情が軽視され、愛情や感情、信頼などまでが貨幣価値 によって代償されるようになった、ということです。
 われ我人間が、おたがいに社会の共同生活を営なむ上におい て、宗教や道徳から生活の指針を見付出して、日常生活の上に それを反映させていかなければならないのであります。 宗教 とは、宗教としての本来の役割を担うものであります。
それは、私たちが生きるうえでの「こころ」の支えになるも のであり、死んでいくときの覚悟ともなる宗教を指します。ま た、それは日常の生活指針でなければならない。 このような 人間の心理行動に対して、指針となるべき重大な影響を与える のが宗教であります。
つまり、超越的な存在としての「聖なる如来」にその「正しさ ・正統性」の根拠を求め、自己のもつ価値観が間違っていない かを確認する拠り所となるものが、教典に書かれた基本理念で あります。
 それは、意志決定の選択についての説明や説得の手掛り を、「聖なる阿弥陀仏」の教えによって裏付けようとする 行為であります。これが日常の生活の方向付けや、人格形 成への原理として働きかけるわけです。
 「利他円満」という言葉は、仏陀の重要な教えでありま すが、利を先に他人へ捧げることにより自からも円満であ りたい、という心がなければ幸せへの価値観は生まれてき ません。他の人々が幸せであるように願ってこそ、自から にも幸せが巡って来るわけです。

 長時間にわたってご拝読いただき、誠に 有り難うございました。