神霊による人生相談

ょっ言。

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-2006年4月28日-
今日は、前回の「空」の思想から、「無我」の思想についてお話ししてみます。   「空」の思想は、この世と霊界とを通した、空間的な広がりの場と、その中で流転する時間と法則、そして、 それらを統括する根本神の意識でした。  今回の「無我」の思想のお話しは、そういう場の中で生きている 私達の存在と、その想いを追求していきます。  そして、人が生きる意味と理由。   これらを、真理の面からの理として示していこうと思います。  それでは、まず最初に「無我」という字は、 「我」と「無し」という字を足して「無我」と書きますが、決して「我が無い」という意味ではありません。   人間は、自分の意思で生きていると思っているが、実はそうではなく、根本神の慈悲により生かされている、 そしてまた、空の世界の中に生きる存在であるとも、前回の「空と転生輪廻」の中でお話ししました。   そうした時に、今生きている自分は、確かにここに存在し、これが本当のものであると思っている この世の出来事は、あの世における魂の視点から見ると、一時の夢を見ているような時間であります。   この世に生まれ出ると言う事は、あの世における死であります。  今まであの世(霊界)で一緒にいた人(魂) が、ある日を境に居なくなってしまうのです。  そして、居なくなった魂は、霊界の記憶や前世の記憶を一時的 に封印され、夢を見ているような感覚で、この世の肉体に宿り、そして生まれ出て来るのです。   これを、この世的な言葉で、「生命の誕生」と言っているのです。  そして、この世に生まれ出た魂は、 人間の肉体を被って数十年生きた後、肉体の死を向かえ、この世を去って、あの世(霊界)へ還って行くのです。   これを繰り返しているのです。  こうしてみると、この世において私達が日頃見ているものは、全て仮の姿 であり、自ずからなる性質のものは無いという事であり、それ自体として常なるものや、永遠なる存在は、 この世において無いという事であります。  しかし、全ての物質、生き物等の存在を無我とさせているもの、 それは、根本神の念い(真理)というものが流れているからです。  本来、自分の意思によって存在しない ものが、神の意思により存在しているという事であります。   そして、その必要性として、あなた方の魂修行の場を提供してくれているという事です。   人間は、どうしても自我が強くなりがちです。  我を張って生きている人、物欲に執着している人、 それらの人達は、これこそが自分であり、自分の物であると思っているものは、実は一切が空であり、そのような 心にとらわれてはいけないと悟ることです。  しかし、この世にあるもの、自分を含めて、一切を否定して 良いという事ではないのです。  そうした心境は、何も生み出しません。   神の心はそのようなものではないのです。  空という無我の中に存在する自分、その中に生かされている自分と この世に存在するもの(空、大地、海、動植物など)を見た時、一切は無我であると悟ったが、現に展開されて いるこの世界、地球上に広がる大自然の美しい世界は何なのか。  それこそが、神の慈悲であります。   否定を通して現状を見、その中に素晴らしいものを見出していく。   その素晴らしい世界の中で、魂修行をしながら自己の可能性を引き出し、魂の発展のために努力していく姿を、 神は見ておられるのです。  全ては、神の念いの中にあり、神の光に包まれているのです。   無我は、この世的なる執着を取り除いていく力となります。  無我とは、決して我無しではありません。   自らなる性質は無いが、神から与えられたこの世界で、この世的なるものに執着せず、魂修行に励んでいく事です。   これが、無我の思想と、人間の生きる意味でもあり、理由の一つです。   


-2006年4月22日-
今日は、「空と転生輪廻」について、説明しておこうと思います。   転生輪廻につきましては、2年程前にも書いたと思いますが、もう少し説明を付け足して おこうと思います。  ( 私の所に来られる信者さん達には、これから書く事は、一度は説明していると 思います )  まず「空」とは、何も無いという意味ではありません。  「空」とは、霊的エネルギーが 活動する空間の場(霊界)です。  この霊的空間の場は、地球圏内で例えるなら、地球を取り巻く大気のよう であり、そこに満ちている空気中の原子一つ一つが、霊的エネルギー体(魂)とでも考えて下さい。   転生輪廻とは、その空間から出たり戻ったりを永遠に繰り返す事と思って下さい。  それでは、これらを ふまえて説明していきたと思います。  まず、空気というものは目には見えませんが、空気中の水蒸気を どんどん冷やしていくと、水滴という目に見えるものになり、更に冷やすと氷になります。  物質化現象で すね。  また、氷を長時間放っておくと、やがて蒸発して気体になり、空気中へと還元されていきます。   色即是空・空即是色の思想ですね。  色は肉体を示します(物質ですね) 肉体は、空より出でて空に還る。   つまり、輪廻ですね。  色は空にあって、空は色に異ならずという事です。  雨が降る現象もそうです。   地上の海水等が蒸発して大気中に雲として溜まり、また地上に雨を降らし水を溜め、また蒸発して大気中に還り ます。  これも、水としての輪廻です。  これは、空気中にも地上にも、水を構成する元素が存在している からであり、水になりうる作用がそこに起きているからです。  大気に満ちている空気(酸素等)と同様に、 「空」とは何も無い空間ではないのです。  空は、その空間の中に、様々な可能性のあるエネルギーが満ちて いる場所です。  また、大気中の水蒸気が冷やされて出来た氷と同様、人間の一生(生き死に)も同じです。   肉体という物質は、氷が時間と共に溶けて無くなる様に、時の流れと共に老いていき、やがて寿命が尽きて 消滅してしまいすが、まるで気体の様に目に見えない「魂」という意識エネルギー体だけは、元居た霊界へと還って 行きます。  そして、この世を去ってから、数十年から数百年の間を、それぞれの魂レベルに合った霊界 で修行して過ごし、また生まれ変わりの時期が廻って来ると、またこの世に出てきて肉体に宿ります。   こうして、魂と言うものは、それぞれに 魂修行をするために、この世とあの世を永遠に繰り返し往復していきます。  この永遠の繰り返 しを転生輪廻というものであり、空と転生輪廻の関係です。  空があるから、転生輪廻が出来るのです。   転生輪廻のサイクルがあるからこそ、人間の魂は進化していけるのです。   肉体も魂も、一度きりの人生ならば、そこに個人の魂としての進化は望めないでしょう。   しかし、空という偉大なる空間に、転生輪廻という真理の法則が流れているからこそ、魂の生前の経験を糧に、 来世の魂の発展に繋げる事もできます。   この世の全てのものは、「空」という霊的空間のエネルギー作用から出来ており、その作用を促すものとして 神の意思が働いています。  今回は、空と転生輪廻の説明なので、魂の流転を主に話しましたが、 本来「空」とは、この世あの世を通して共通のものであり、全て根本神の想いの中にあるもので、神の意思に より、人間の肉体も、魂も、地球も、宇宙も存在しているのです。   根本神の意思である、全てのものの創造と進化を止めた時、この空の思想や、転生輪廻の思想も、全て無に 帰してしまうのです。  全ての生き物は、生まれても来ません。  魂の還る場所すらありません。   創造が無いので、魂もありませんし、私達の住む地球も、宇宙すらありません。  この世は、何も無い、 本当の意味での無の空間が、ただ広がっているだけです。   この世、あの世を通して、そうなっていないのは、根本神という神の偉大なる慈悲の心があるからです。   人間は、自分勝手に生きている様に思われるところがありますが、今生きている自分という存在は、本当は 神の意思によって生かされているという事実を知る事です。   そして、大いなる神の慈悲から生まれ出た尊い魂、その神から与えられた尊い命を、大事にしていって欲しいと 思います。  空の思想は、突き詰めていくと、魂の起源、宇宙の起源にまで及んできますが、 今回は、ここまでとしておきます。  その内、いつか書くかもしれません。


-2006年4月12日-
今日は、西岡学校の子供達の新しい学校生活の様子です。   4月に入って、西岡学校の子供達も、私達の世界同様に始業式があり、その後、新しいクラスへ と振り分けられました。  (今年は、新入生は無かったので、入学式は省かれ、始業式のみでした)   まだ小さかった子も、色々と教わっていく内に考え方もしっかりしてくると、それに伴って同等の年齢に 成長するんです。  これは、他の霊界においても一緒です。  ただ、最低限の必要性として、成仏されて いるという事と、勉強できる霊的環境の中にいるという事があげられます。  そうした中で成長した子供達は、 この世の人間同様に、集団生活の中で自分の個性を伸ばしていくことができます。  西岡学校の子供達でも、 入学当初は2〜3歳であったのが、今では高校生や中学生になっていたりします。  そうして大きくなった 子は、これからの子達の面倒を見てくれたり、お勉強を教えてくれたりしながら、同時に自分達も、人を指導 するという事を学んでいきます。  私の所へ来てくれた方や、信者さんの間では知っている方もいると 思いますが、モモちゃんはセーラー服を着た13歳のお姉さんに、ゆうじくんは小学一年生になりましたよ♪ これを読んで、おぉー!! もうそんなになったのかー!なんて驚いている方も居られるでしょうね〜(*^_^*)   ちょっとご報告でした〜(*^。^*)♪  学校の授業では、今までの朝のお勤め(お経を読む)に加えて、 小学一年生から学ぶものが追加されました。  それらの物は、近くの百均ショップで買った算数ドリルに、 国語漢字ドリル、ひらがな読み書きカード等で、子供達にお供えしたものが、そのまま西岡学校の教材に なっています。  この理論は、ちょっと一言を読まれている皆様のご家庭でも十分に通じるんです。   これを読んで下さった皆様の中で、不幸にして我が子を亡くされた方等は、お供え物に食べ物ばかりではなく、 こういった子供の成長に伴って必要としてくる物を、お供えしてあげるという事が、あっても良いと思います。   亡くなった子供にしてみれば、自分がもっと大きくなっていたら、こんな事もしたかったとか、学校へ行きた かった等という想いが残っている場合があると思うので、そういった物をお供えしてあげると、あの世で とても喜んでいたりするものです。  そうしてお供えでもらった道具を、あの世の学校で大事に使っていたり するんですよ。  西岡学校は、あの世では特別な学校ですが、普通の子供の魂でも、あの世で同じ様に学校へ 行って、霊界の事などを学んでいるんです。  ただ、あの世の魂は、この世と違って成長がとても早いので、 数年で大人になってしまいます。  その辺の感覚の違いがあるので、何時までも子供のままだと思っている 内に、そうではなくなるので、何時までも子供のままだと思わない様にね!  あの世の子供の成長が早いのは、 それだけ気持が落ち着き、大人になったという事です。  しっかりした、とても良い魂に成長したという事で 、喜ばしい事と受け止めてくださいね。  西岡学校の子達も、また新しいお勉強の日々が始まります。   それは、また新たなる魂の成長を見る事に繋がります。  人間の魂の成長は、神の喜びでもあるのです。  


-2006年4月5日-
今日は、我が家にお祀りしている神様の近況をお話しします。   いつも「ちょっと一言」を読んで頂いている皆さんは、よくご存知だと思いますが、我が家には 不動明王様、白菊大神様(通称じぃーじ)、白龍大神様、荒神様、観音様、その他様々な神様をお祀りして おります。  その中で、先月28日の不動様のお祭り日に、不動様の霊格が一段と上がりました。   それにつれて霊力も格段の向上を果たされ、それまでのお姿からすると何倍もの大きさになられていました。   そして、背に背負われている火炎の炎も一段と凄くなっていて、下から見上げると、お姿と共に炎も天に 向かって吹き上がっている様です。  お弟子さん達も多く来られましたし、何かにつけて私が受けるお力も 大きくなり、それに伴い「念」を発散するスピードも増しました。  不動様は、これまでの修行の成果もあり、 私を今まで以上に指導していく上でも必要であると判断されましたので、不動明王様達を束ねる役割を持たれて おられる「大日大聖大不動明王様」から、直接お力を授けられたのです。  この大不動明王様は、普段は 絶対人間界へは降りて来られない存在であり、私もそう何回もお目に掛かった事はありません。   以前は、そのお方の存在すら知りませんでしたからね。  大日如来様のお姿の一片を直接変えただけの、 如来格を持つ仏様です。  だから、普段は天上高くそびえる様な存在であり、一般家庭に祀られているような 不動様の中には、未だにお目に掛かった事が無い事もあるでしょうね。  まあ、この様な感じで、不動明王様 と言えども、霊界や神様の世界では、日々精進の姿勢であり、その努力の成果を認められて昇進すると言う事です。   これは、霊界や神様の世界だけではなく、人間界にも同じ様な事が言えますね。  真理の法則は、高次元の 霊界から人間界、果ては地獄界まで脈々と流れています。  ですから、人間達も努力の結果、報われるという ことが起こりますし、地獄界であっても、しっかり自己反省をし、今後の自分の心を良きものにして行こうと いう意志が出た時に、地獄界から抜け出て行く事が出来るのです。  ですから、日々頑張る事は辛い時も あるでしょうが、希望を持ってじみちに進んでいけば必ず光は見えてきます。  他人の援助も受けられます。   その時に、決して自分は一人ではないと気付く人もあります。  いけない事は、あきらめる事、投げやりに なる事、人を恨む事、人のせいにする事等、これらはマイナスの考えであり、後ろ向きに進んでいるという事 です。  それに気付かずに、自分の意志でどんどん後ろへ進んでいる人が多いです。  前向きに、 希望を持ってあきらめず、他人を恨む事無く、心を広く持つように努力し、一人で頑張らず、たまには他人の 助けも借りながら進んでいけば良いと思う位の余裕を持つ事です。  それが、心の余裕として大事な事です。   苦しい時ほど、心に余裕を持てるやり方を考える事です。  今の状態では無理と思われる事は、一旦棚上げ して、まず自分がこれなら出来ると思う事から手がける事です。  そして、困難であると思われるものの 周りから徐々に取り除いていく事です。  そして余裕が出たら、もう一度考え直してみると、案外と解決策が浮か んでくるもんですよ。  同じ様な事を繰り返し、神様も人間も精進して行くんですね。   そして、その先に「光」を見るんですね。