ちょっと一言。
-2006年10月20日-
今日は、「真理を活かした生活とは、一体どういったものか?」という質問についてお話しします。
私は、相談者の皆さんに対して、「真理に照らし合わせた生活を目指していくといいですよ」という事を
よく言います。 その真理とは、普段の生活の中において当てはめやすい真理という事で、「八正道」の
実践を勧めています。 この八正道は、私の本にも書いてありますが、この教えが普段の生活の中で
一番当てはめやすいのです。 八正道は、八つの真理であり、八つの正しい教えですが、
その中で、見る、話す、思う、行う、この四つは、自己の善なる心に照らし合わせてみると、誰にでも
行えるものです。 人間の目は、世の中の情報を一番多く取り入れる事の出来る器官であり、その肝心な
部分から入ってくる情報を正しく認識する事は、善なる心、素直な心で見るという事が必要になってくるのです。
そうした情報を基に、その時々の状況にあった言葉を選んで他人と話せるように努力していく事です。
そして、正しく見たものを、他人にも正しく話せるようにするには、それを認識判断する心も、偏りの無い心に
近づけていく必要があります。 こうして、目から入って来る様々な情報を、自分本位の損得勘定を省いた
判断に近づける様に努力し、自分の口から出る言葉は、心の状態を表すので、言葉使いに気をつけるようにします。
次に来る自分の行動は、人として社会人として、正しい行動であるのかを判断しながら、日々の生活を送れる様に
努力していく事が、真理を取り入れた行い(行動)であると思います。 真理を活かした生活とは、何も宗教的な事柄や
作法等を重視して暮らす事でもなく、人として正しい考えに基づいた生活、そして幸せな生活を送れる様にする為に、
真理(正しい教え)というものを、暮らしの中に取り入れていく事です。 残りの4つの真理(教え)は、
精進、時間の使い方、念いの調整、精神統一、これらは、日々の真理(教え)を続けていく中で、自分の心の状態、
方向性を正していく事がポイントになってきます。 その為に、日々の暮らしの中で、少しの時間を精神統一の
時間に充てる事で、日々の雑多な精神状態から、落ち着いた平常心の世界に導く事で、素直な気持ち、綺麗な気持ちで
物事を考えられる様になります。 また日々の反省等も、この精神統一の時間にすると良いですね。
神社仏閣でのお参りも、神仏に手を合わせて拝む神聖な時間は、精神統一の時間でもあります。
家にも、神棚やお仏壇があれば、そこで両手を合わせて拝む時間、その後、心の中で行う反省と感謝の念を
持つ事も、大事な事であり、重要な時間の使い方です。 それらは、しっかり心の浄化と改善と、今後の発展を
促すものです。 また、自分の将来的な目標や、そうなる為にどの様に努力して行けば良いか、途中で挫ける事無
く努力を続けて行ける様に、自分なりのペースで進めて行く事です。 八正道は、二つのグループに分けて、
自分の出来る範囲で真理の教えを、自分の生活の中に取り入れて行けば良いです。 こうした生活が、真理を
活かした生活であると言えると思います。
-2006年10月10日-
今月は、早くも今日で10日が過ぎてしまいました。 今月は、出張や何かで忙しくしていたので、
このコーナーの記事もなかなか書けずに過ごしてしまいました。 また最近は、直接お会いしての相談事の他にも、
メールや電話による相談事が増えてきましたので、殆ど毎日の様に依頼者さんと対応しています。
また、講演会を少々の人数からでもして欲しいとのご要望もかなりあります。
今まで、そういった講演会等はしておりませんでしたが、そういったお声が多く上がっている以上、
私としても、今後はその辺も視野に入れて、皆様のご要望にお応え出来るようにしていくつもりです。
少人数でしたら、来て頂いた人にも御祈祷などがしてあげられますしね。 真理のお話を聞いて、御祈祷で
身体もスッキリされるようなら、なお良いですからね。 と言う事で、最近の様子と今後の見通しを一部書いて
みましたよ。 さて、それでは今月のお話しに入らせて頂きますね。
今回は、悟りと修行論という事について、お話ししていきたいと思います。
悟りを開く方法には大雑把に言うと二つあって、まず第一は、プロの修行者や宗教者の様に、真理の学習に励み、
その実践を通して心の窓を開き、いろんな霊的現象を経験しながら心の器を広げつつ、認識力の増大を図る事です。
また、そういった世界で自分を成長させながら利他行に励み、生きていく事です。 本物を目指して日々精進しな
がら進んでいく事は、悟りと修行の道として本道に当たります。 次は、そういった事は難しくて出来ないが、
在家の信者として、この世的な職業にも就き、一般的な生活を送りながらでも、真理を学習する心を持ち、
その心は、真理の世界を探求する事に励んでいく、そういった考え方を実践していく事です。
この在家の修行は、誰にでも出来ますが、逆に難しい面もあります。
出家の修行の場合は、そういった志の人達が、お寺や道場等に集まって、修行に専念できる環境の下に真理修行を
行う訳ですから、心無い人に邪魔される心配も無く修行に専念出来るのです。 しかし、在家の修行の場合には、
真理とはかけ離れた日常生活の中で、様々な誘惑や葛藤や邪魔が入ってくるので、難しい面が出て来るのです。
そういった、ある意味甘い世界での修行は、心の重要さが必要とされます。 でも、出家修行では到底出来ない
、一般社会の中にでも、心を常に真理の修行として生きていくという修行が出来るので、ある意味においては、
魂磨きの修行にとって有利ではあると思います。 そうした、二つの修行によって得た悟りを、今の時代には、
一般社会に通用するようなものに変化させていく事が望まれると思います。 修行で得た悟り(気付き)を、
文化や芸術、現代のビジネスに応用したり、社会の発展や、家庭問題の解消等に、積極的に還元していく事で、
皆の幸福に繋がるものであれば、それは神仏が望まれるものであると思います。 私の考える宗教は、宗派や
神社仏閣の繁栄も大事ですが、社会に貢献できる思想で無ければ、それは活用出来ない思想であり、神仏の光が
詰まった思想であっても、本来の光を放っていなく、宝の持ち腐れという勿体無い話となります。
これまでの、偉大な宗教家や、様々な宗派の開祖様達の、ありがたい教えの目的は、その時代々の悩める民を救い、
社会の発展を推し進めるものでした。 それなら、今の時代の人達を救い、社会の貢献に役立つ教えというもの
にして行かなければ、本来の教えの意味では無いと思います。
私の教えは、皆の生活の中に、真理を通して改善して行って欲しい願いが詰まっています。
他人の為になるには、まず自分を救える人になりましょう。 それが第一の修行でもあります。
その為に真理があり、学習があり、認識力の向上があり、悩みの解消があり、自他の幸福があるんです。
それを大きく発展させていくのが、私の修行でもあります。
今回は、修行と悟りの関係と方法論についてお話ししました。