神霊による人生相談

ょっ言。

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-2007年9月24日-
今日は、久しぶりに「西岡学校」の子供達のお話をしようと思います。   最近の西岡学校の子供達の中では、梨狩りや栗拾い、ブドウ狩りやミカン狩り等、遊びを伴った学校行事が 流行っています。  それは、季節毎に採れる野菜や果物等をお供えする事で実現します。  例えば、お供えする時に、 「はい!栗ですよ〜♪ これで、今日は栗拾いに行けるねー♪」って言いながらお供えすると、それが「西岡学校」の裏山にある 「西岡農園」の中にある果樹園の栗の木に実ります。  そうすると、学校内で栗拾いの計画が上がり、その日の午前中のお祈りが 終わった後に、子供達全員で裏山へ栗拾いに行くという事になります。  そうして、夕方になった位の時間になると、 子供達は一斉に帰って来て、お供えした栗を私の目の前に持って来て、「ちぇんちぇー! 僕達、今日こんなに沢山、栗拾った よー♪」って、ニコニコ(*^。^*)満面の笑みで言いながら、見せてくれます。  多分、霊界では、私が栗をお供えしなくても、 栗拾い位は実現すると思います。  でも、私が現実の栗をお供えしないと、子供達の拾ってくれた栗を、この世で生きてる私に は、実際に食べる事が出来ないんですね。  お供えした栗には、純粋で素直な子供達の気持ちのこもった気が、お供え物である 実際の栗の中に入ります。  まあ、神様で例えるなら、神棚や神殿にお供えした後の「お下がり物」を、ありがたく頂くのと同じ 感覚です。  また、もうそろそろ西岡学校の栗園に栗が沢山生ってるから、栗拾いの季節だな〜って事に、霊界の方でそう考えているので、 私も自然と、スーパーなどで栗を見ると、お供えしたくなるのかも知れませんね。  まあ、どちらが先でも、子供達が楽しく 栗拾いをしている姿を見る事が出来るので、私としても嬉しいですし、今後も季節毎の行事を体験させてあげるつもりです。   西岡学校の子供達は、皆幼くして亡くなった子供ばかりなので、私達が大人になるまでにしてきた、数々の学校行事や、楽しい 体験を経験していません。  だから、いつも子供達は、「僕らは死んでからの方が幸せだよ〜(^−^)」って、言ってくれま す。  子供達には、不幸や辛く苦しかった感覚は残っていません。  生前の事は思い出す事は出来ますが、もう過去を振り返る事は しない様です。  まだ、2〜3歳の子供でさえそうです。  西岡学校に最初に入学してきた子供は、もう高校生位になってます。   その子も、入学時は5〜6歳位でした。  霊界は、心の成長と共に魂の成長もありますから、この世と比べて成長が早いんです。   この世では、心の早熟な子でも、実際に年齢を重ねないと大人になりませんが、あの世では、心の成長が魂の成長となり、それが 大人になっていく(成長していく)という認識に繋がります。  だから、霊的な目で見れば、あの世での姿形も大人になって いくんですね。  霊界での成長は、心の成長です。  立派な考えを持つ子は、皆より早く成長していきます。   こうして、西岡学校の子供達も、段々と大人になっていくんでしょうね。  ちょっと、寂しい感じもしますね。   でも、子供の状態の方が好きな子は、その子自身が大人になる事を避けるので、徐々にしか成長していきません。   何だか、ちょっと嬉しい気持ちもありますね。   私には、子供は居ませんが、西岡学校の子供達が自分の子供のようです。  あっ! 今日はミカンをお供え しましたから、ミカン狩りに行ってきたようですよ♪  それと、クッキーを頂いたのでお供えしたら、年頃の女の子達で、 楽しくお茶をしたそうです。  ホント、生きてる子と同じですよね(^−^)  


-2007年9月15日-
今日は、「真・善・美」の三位一体についてのお話しをします。   「真・善・美」という言葉は、普段の生活の中でも、あまり聞いた事も無いかも知れませんが、これも真理の言葉です。   「真」とは、私達人間は、神仏の下に、真理の法則の下に生きているという事です。   人間は皆、魂の本質として「真」の中に生き、「善」なる心を持って、「美」という様々な意味においての美しさを求め、 魂の輝きのある人生を送ろうとするところに、喜びは生まれ、神仏の応援があり、人としての向上があると思います。     善なる想いを持って、善なる道を進んで行くという事は、人としての真なる道を歩んでいく事と同じですから、「真」という 真理に適った想いというものを持って生きるという事にも結びつきますね。  「美」として、美しく可憐な人生を送るという事 、ただそれだけを実行している人は多くあります。  しかし、その中に善としての美しい心、真として真理に見合った美しい心 というものを、持ち合わせている事が必要であると思います。  人生にはいろんな事がありますが、多少の横道には反れても、 何かのきっかけから真理に出会う事もあります。  善なる気持ちに気付く事もあります。  美しいものを見て、魂の共感を 呼ぶ事もあるでしょう。  そういった事から正しい道に戻る、正しい心に戻れるという事もあるのです。   それらのきっかけ等は、決して偶然な出来事ではなく、必然的に出会い、必然的に真理の道へと誘われるという事です。   神仏は、必ずあなた方の事を見守っていて、何かのきっかけから真の道へ戻ってもらえる為に、力を貸して下さっているのです。   「真・善・美」全て実行出来ないと思わなくとも、真の中に善あり、真の中に美ありなんです。   自分は、「真・善・美」の中のどれを一番のメインにして進んだ方が生き易いのか。  そういう考えも、私は良しと考えます。   「真・善・美」全て揃った人生が、人間として完成された人生だとは思いますが、それは理想として、一生の目標として 掲げて進んで行けば、その中に努力があり、しんどい事もあり、でもその中に正しい事(善なる事)を信じて頑張るその中に、 魂の輝きは放たれて、喜びが生まれ、自分自身が「美」の中に包まれます。  心の綺麗な人は、魂も身体も美を纏っているのと 同じです。  そういう人が「美」そのものなんです。    辛い事に負けずに頑張った人ほど、愛に溢れる人でありましょう。  他人の辛さを、心で判ってあげられる人で在り続けま しょう。  一時期には悪の心に染まるかも知れませんが、そういう時は、心の点検の為に、これまでの考え方、 これまでの自分を振り返り見た時、真理から外れた自分の存在を感じとるはずです。  それが感じられるというのは、良き方向 と、そうでない方向が判るという事であり、心の反省が出来てきているという事です。  そこから、少しずつでも自分を良くし て行こうと努力していく姿を、神仏は「良し」としておられますし、応援もして下さいます。  神仏の援助は、自分の努力の 延長線上に呼び込むものです。  その気持ちが、真理に則った生き方であり、「真」を体現している人であると思います。   また、そういう生き方を良しと思える人は、それは既に「真」なる真理の光の下に生きているのと同じです。   「真・善・美」という言葉は、難しく感じる事もありますが、決して出来ない事ではありません。   普段の生活の中において「真・善・美」の心は、何処かで出ているんです。  宇宙を貫く神理があり、それを心の教えとして 善なるものを選び取っていく中に、真の美意識も生まれてくるんですよ。  真理は、全ての人の心にある善心であり、 調和のとれた美意識であり、全てを温かく包み込む神仏の普遍の愛であります。  全ての基は、真理の光の下に流れています。   その光の中に、私達も生かされているのですよ。  まずは、感謝の気持ちを持つ事から始めてみるのも良いですね。   今日は、「真・善・美」についてのお話しをさせて頂きました。     


-2007年9月5日-
今日は、先祖が喜ぶ先祖供養の仕方のお話しをします。  お盆が過ぎてしまうと、それまであんなに気に掛けていた 先祖供養の事も忘れかけてきたりします。  先祖供養は、お盆やお彼岸の時だけ、熱心にするものではありません。   一斉に先祖を供養する時期が過ぎても、先祖は今まで同様に霊界で暮らしています。   一時だけの供養は、その時は先祖の方も感謝していると思いますが、後に続かなければ手厚い供養とは言えません。   供養というものは、そうした時期を過ぎても、変わらずに先祖を想う心を持ち続け、淡々と日々の供養を続けていく事が大切です。   先祖を想う気持ちがあれば、お仏壇が有っても無くても供養は出来ます。   お仏壇が家に有る場合は、お仏壇の前で言葉を掛けてあげる。  例えば、お茶を供える時に、「はい! お茶ですよ〜♪  皆様でお飲み下さいね〜♪」っていう感じで明るく供える様に心掛けます。  これは、お仏壇を通して先祖に向かって掛けて あげた声は、あの世の先祖達にまで聞こえるんです。  (そういう霊界の法則を利用します)   すると先祖達は、「お茶を供えてくれたらしいぞ」と言って、あの世で仲良くお茶を飲んでたりします。   そして、子孫の事を、あの世で褒めていたりするんですね。   先祖は、黙ってお茶を供えられるよりも、先祖も自分達の事を大事にされているんだなと嬉しく感じます。   こういった嬉しい気持ち、感謝の気持ちを、先祖に持たせてあげるという事が大事なんですね。   たったこれだけの事でも、先祖も子孫も、お互いに感謝し合える関係を築いていく事が出来るようになるんです。   立派な供養の一つですね。   しかし、良い話も悪い話も、全て先祖に聞こえてしまうので、滅多な事(先祖の悪口や、家族・親類の悪口等)は、 お仏壇の前で言うものではありません。  先祖は、黙って仏壇の奥で聞いてますよ。   あと、先祖の月命日の日に、何か一つでも良いので、お供え物をしてあげましょう。  月命日は、毎月回ってくる命日の日の 事です。  これは、過去帳を見ると、誰の命日が何日であるか判ります。  例えば、3月1日に亡くなられた人がいれば、 毎月の1日の日が月命日に当たり、年に一度、3月1日という日が回ってきますので、その日が本命日となります。   本命日には、月命日よりも少し立派にしてあげましょう。  と言っても、お供え物の数が少し増える程度で十分です。   それと、出来れば「般若心経」のお経を、本を見ながらでも唱えてあげると、尚良いです。  般若心経は、全部で276文字 なので、メールで276文字の文章を考えながら打つより早いかも知れませんね。  お経は、上手に唱える事が大事ではありま せん。  唱える人の気持ちが大事なんです。  先祖に、このお経の意味を伝えてあげる気持ちで唱えます。   それには、唱える人が、お経の内容や意味を大筋で理解する事が望ましいですね。  般若心経の解説本は、書店で沢山売ってま す。  自分が理解してくると、その心が般若心経を唱える経文に乗って、先祖まで届きます。  その意識を、先祖達は 汲み取って理解していってくれます。  まあ、お経と同時に、その解説も流れてくると考えてくれれば良いかなと思います。    霊界は、「意識の世界」ですから、そうした霊界の法則も上手に使う事で、先祖により判りやすいお経を届ける事も可能に なってきます。  これは、普通にお経を唱え続けるよりも、数十倍以上の理解の早さが見込まれます。  その分、成仏の 早さにも繋がるので、先祖は大変喜んでくれるのです。