ちょっと一言。
* 2008年4月22日 *
今日は、何故、魂(心)の浄化が必要なのかをお話しします。
人間には全て魂(心)があります。
その魂は、この世で生きている時の行いや考え、気持ちや感情など、一人一人の人生の記憶が全て魂に刻印され、
肉体の死後、魂だけが霊界へ還って行きます。 (お金や名誉等、この世的な価値のあるものは持ち帰れません)
霊界に着けば、そこで魂に刻印されている生涯の記憶を、霊界の公の場(生涯記憶の解明場所)で、全てさらけ出して映される
ので、天国へ上がりたいなと思っていても、もし悪い行いや考えばかりが
沢山映し出されれば、それは自分に対してどんなに有利に見たとしても、自分は天国に還る事が相応しいと、胸を張って主張出来なく
なるものです。
そして、全て映し出されると、まあ昔で言う「閻魔様」みたいなお役人に、判決みたいな感じで行き場所を言い渡され、これだけマイ
ナス点が多ければ、自分でも「仕方なし」という気持ちになって判決を承諾し、お役人みたいな人に
連れられて、然るべき場所へ案内されます。 中には、泣き喚いて「許してくれー!」って言いながら連れて行かれる人も
います。 もっと酷い場合は、死んでから直ぐに地獄へ落っこちる方もおられますが、そういう方は自分が
何故こんな辛い場所へ落ちたのか分からない方もいます。 生前、おかしな宗教をやってて、普段から魂(心)の重要さを学ばず、
念力や霊的力にばかり有り難がっていると、そこの地獄霊に深く取り憑かれてしまい、そうした人などが死んだ時に、その地獄霊達が
寄って集って捕まえに来て、そのまま地獄へ無理やり連れて行かれます。 そうなると、普通のご先祖様達の力では、どうする事も
出来ないのです。 厳しいですが、これが霊界の法則なんです。 この様な事にならない様に、自分の魂(心)は、時々は見直し
たりして、点検しておく必要があるのです。
また、そうした見直しや点検による魂(心)の浄化は、反省行から自分の魂(心)の向上に繋げていかねば意味がありません。
そうした事を、死んでから行うのではなく、生きている時に、今まで生きてきた自分の姿を客観的に見て、これは反省しないといけ
ないなと感じた事や、思い浮かんだ事は、素直な気持ちで自分と向き合い、反省心を持って地道に反省を重ねていく事です。
そうすると、今の自分の嫌な部分は、この時期に、こういう理由が発端で癖付いてしまったんだという、今まで気付かなかった
事でも、気が付くようになったりします。
そして、一つの事柄に対して反省したら、次にその反省した事を糧にして、どうやって自身の向上に繋げていくかという考えに
移行していく事です。
それがある程度、自分でも納得いくように思える所まできたら、今後の自分の行動や生き方に反映させていけば良いのです。
そして、過去の過ちは有ったけれども、それを糧にして、より大きな自分(魂でも良い)に成長していけた時、あの過ちがあったか
らこそ、今の自分の成長や発展があったと思える時が来ます。 自分を鍛える為、学びの為に必要であった過ちとして認識出来る
時が来ます。 そうした時に、既に過去の過ちとして、魂に黒くマイナス刻印されていた
ものが、自身を成長させる為の意味ある過ちとなって、魂の黒い刻印から光が出て、光の刻印(勲章みたいな感じですね)へと変化します。
それが、あの世に還った時に、必ずしないといけない反省であっても、この世でしっかりと光の刻印に変えておけば、この世での
成長にも繋がりますし、地獄へ落ちてから必死に反省しなくても済む訳です。 また、これらの事柄は、この世での人間的成長に
も大事な事なので、日頃から魂浄化に気を留めておかれると良いと思います。
2008年4月8日
今日は、霊的能力が高まるにつれて忍び寄ってくる魔のお話しです。
皆さんの中で、日々の暮らしの中に、八正道の中の正定としての瞑想(心を落ち着けて自分を省みたり、神仏を敬い指導を仰ぎ、
守護霊を通して降りてくるインスピレーションを感じ取ったりする)を取り入れている方などは、修行の段階として見た時に、
ある程度進んでいる方のグループに入りますので、どうしてもその最中に隙を見て魔が入り込もうと狙ってきます。
これは、ある程度の霊的能力が付いてきた人に、必ずと言っていいほど起きるもので、ある意味、一つの関門というか通り道でもあり、
試練でもあります。 まあ、魔の者による「試し」という事ですね。 この試しが、ちょくちょく入ってきます。
邪魔をされるという表現をする場合もあります。 邪魔でも、ちょっかいでも、表現は色々ありますが、
その人の心の一部分に澱み(執着)を見つけては、霊的能力が高くなって手出しが出来なくなってしまう前に、自分達(魔)の世界に
引き込もうとしてきます。 魔は、難しい事を考えたり、組織的で統合された働きをしたりする事は苦手なので、気付かれない
内に悪戯したり、仲間を連れて苦しめに来たり、自分達(魔)の都合の良い時に好き勝手に、努力しないで簡単に落とせるやり方を
主とした攻撃をしてきます。 (でも、護ってくれている神仏に気付かれると、我先に逃げたり、仲間を犠牲にしたりしますが、
助ける事はしません) その試しは、この先、霊的能力を身に付けそうな人に狙いを付けて、離れた次元から監視していて、
良い機会(修行者の心が慢心や、名誉心、物欲に偏りだした時など)を見つけると、スウーッと近くに寄って来て、耳元や心に
囁きかけて、修行者の心の欲求(仲間になれば、お金持ちにさせてやるとか、今直ぐ霊能力を付けてやる等)を満たしてやるぞと
いう様な事を言ってきたりします。 修行者は、頑張って霊能力も向上させたいと願っているので、そこの部分を巧みに突いて
くるのです。 これで、修行の道から外れる方が多いのです。 こういう仕掛けをしてくる魔は、知恵を使ってくる方で、生前に
は宗教者であったり、修行していた者であったという事が多いので、上手く真理の話をしたりしますが、全て利己的に偏っているので
、気を付けて聞いて質問を繰り返したりすると、苛立ってきたり、怒ったりしてくるので、直ぐに魔であるという事が、ばれてしまい
ます。 そういう宗教的脱落者の霊が魔界へ落ちてしまい、今この世において、頑張って心清く修行している者達を、自分達と
同じ脱落者の世界へ引き込もうとしてくるのです。
魔は、真理の対決をして自分達(魔の者)が被害を受けるよりも、上手く誘い込んで、何一つ失う事無く魔の世界へ引き込んだ方が
今後の仲間として使え、自分達の世界の総体的力も上がりますので、その方が良いという考えを持ってます。
そして、魔界を支配している者に対しても、良い顔が出来るので、せっせとこの世に出てきて魔界への勧誘をしに来ます。
そういう勧誘行動は、この世の世界とも似ていますね。 善も悪も、この世あの世を通して、同じ様な事が多いです。
また、魔の世界に棲む者は智恵も持ってますが、作戦が単純でもあるので、日々心をしっかり持っていないと、魔の誘いに対して
心はその都度揺れ動き、何とか頑張って否定してきた魔の誘いの言葉を、肯定してしまう事があります。
心を落ち着けていながらでも、気は高めていく。 外の世界(この世の物質界)への執着よりも内的世界を磨き、
そこを光で満たしていく。 そういう内面を高めていく修行を精進させて、光を溜めていく事が、魔から身を護る武器にもなるん
です。 それをしないで、念力や霊的能力だけを求めたりしていると、簡単に魔に入り込まれてしまうので、注意しておくように
してください。 まずは、内面としての人間的器を広げるように志して、人として立派に成長していくつもりで精進しましょう。
日々の瞑想の中で、こうなりたい、こうして行きたいという想いを祈りの中に入れていけば、霊能力は、それに付随して必要な分だ
け付いてきます。 気が付けば、大きな力を宿している事に気付くものですからね。 魔は、それを恐れて、「今の内に」という
思いで、真理の道から落とそうとしてくるので気を付けて下さいね。